2014年7月の日記

■…2014年 7月 2日 (Thu)…….三分の一
僕は、少年時代に自由とロックンロールについて学び、
人生の最初の三分の一を
愛のために生きてきた。
そして、その愛を今でも貫いている。
僕は人生の次の三分の一を
神への信仰のために生きてきた。
そして、もちろんその信仰を今でも持っている。
そして今、
僕は人生の最後の三分の一を
革命のために生きようと思う。
それがどんな革命なのか
とても言い表すことができない

ああ、そうか
僕らは皆、
ひとりひとり
このために
この時代に
生まれてきたのだな。

僕はまだ人類の未来を信じている。

No(4079)

■…2014年 7月 2日 (Thu)…….万事うまくいく
人を殺すくらいだったら
俺は自分が死ぬ方がましだぜ。
そして、そういう人間が、たくさんいたら。
そして、そういう人間が、無抵抗をつらぬき、みんな死んでしまったら。
あとに残るのは、人を信じることのできない、臆病な人間だけ。
その残った連中で、好きなように戦争でもなんでもしてくれよ。
それで万事、うまくいくじゃないか。

No(4080)

■…2014年 7月 2日 (Thu)…….[long version]
[long ver.]

気が付けば、もう戦争は始まっていた。
気が付けば、革命はもう始まっていた。
僕らは革命のまっただなかにいる。

内閣の閣議決定による憲法解釈の変更による集団自衛権のなんちゃらの
話題で喧しい、この話題で持ち切りですが、

誤解しないで欲しいんですが
僕はこの今回の集団自衛権に関する決定が
正しいか間違っているかはわからないです。
だって俺は国際政治アナリストじゃないからね。

でも大事なのはそこじゃないんですね。
これが正しいのか、間違ってるのか。
このことが、ただちに戦争につながるのか、
それとも平和につながるのか。
そこじゃないんです。
そこのところはよくわかってるつもりなんです。

本当に大事なのは、
この問題、このイシューだけのことじゃないんです。

そもそも閣議決定で憲法の解釈と運用を変えてしまうってことは
相当に問題のあることではあります。
それは、多くの法学者も批判している通りでしょう。

けれども、それが適正な法的手続きを踏まない
強引に政治的な決定であっても、
複雑で、逼迫した国際情勢の中で、
この決定により、
現実に国際的な平和が保たれ、
より日本と世界各国との連携が関係が
スムーズになるのであれば、
それに越したことはないでしょう。
そう願いたいものです。

また、非常に難しい立場で、
非常に難しい状況に立たされる
自衛隊の人たちの、
現場というか、その前線においては、
どんな問題があるのか、
どんな現実があるのか、
それは想像するしかありません。

そういった最前線においての
矛盾が、あるいは改善されるのなら

そう願いたいものだけれど、
けれども、おそらく現実は
そんなに甘くない。

理論でも理屈でもないんです。
こうした高度に政治的な決定について
大事なのは、
それが個別に理論的に正しいかどうかではなく、
その後ろにある本当の理由でしょう。
この事の背景、背後にあるものは、
おそらく、
口にすることもはばかられるくらいに、
「甘くない」ものでしょう。

そして、僕らは、
既に政府や、国や、
組織といったものが
どれだけ信頼のおけないものか
この数年の間に
十分すぎるほど思い知らされています。

だまされている可能性が
大いにある、ということです。

僕が、音楽をやる人間として、
芸術をやる人間として、
また、信仰を持つ人間として、
もっとも大事にしているのは、
霊的(スピリチュアル)なことです。
そして、霊的により学び、成長し、
人間と人類の可能性をひらくこと。

そして、時、ということがあります。

君は、あと何回、戦争をしたい?

あと1回くらい、やってもかまわないさ。

いや、あと3回くらい、やっても大丈夫だろう。

それまで待ってくれるでしょうか。
この地球に、積もり積もった、
人の、人類の、罪(Sin)というものは、
人類の身勝手を、これ以上少しでも許してくれるでしょうか。

いくら世の中が、世界情勢が複雑に見えても、
本当に大事なことは、ひとつだけです。

戦争とは、国家権力の命令で、人が人を殺すこと。

戦争とは、国家、組織、政府、宗教、
それらの命令で、人が人に危害を加えること。

では、国家権力が、君に、人を殺せと命令するとき、
君はそれにYesというか、Noというか。

国家が、国家の名で人を殺すことに対して、
君は、Yesというのか、Noというのか。

それだけです。

そして、僕が思い描く革命というのも、
そういうものなのです。

これは、新しいことでも
画期的なことでもなく、
たぶん、みんな同じことを
考えているはず。

国家権力が、人を殺せと命令するとき、
それに誰も従わないのであれば、
戦争は起きない。

そして、それは、信じるということです。

そして、それは、覚悟を選び取ること。

相手を殺すくらいだったら、
抵抗せずに自分が死ぬことを選ぶ。

もし、戦場で、ふたつの軍の、兵士が、戦車が、戦闘機が、
対峙したとき。
どちらの軍の兵士も、引き金を引かなかったとしたら。
どちらの軍の兵士も、引き金を引くことを拒否したとしたら。

そこに戦争は起きない。
これこそが本当の勝利です。

国家や、権力や、不完全なシステムに対する、
個人と、人間性の勝利です。

信じることの反対は、
疑うこと。
そして、疑うことは、
怯えること。

人を見たら泥棒と思えという世界。

そうした世界に生きる人は臆病です。

人の歴史は、血で血を洗う、
争いと、裏切りと、殺し合いの歴史。
弱肉強食の世界。

でも、俺は、
そんな世界には生きていたくない。
そして、
人類は、もうそんな幼稚な段階を
卒業しなければいけない段階にある。

もし、あなたが、
人類は、原始時代や、戦国時代と同様に、
今でも、弱肉強食の世界に生きている、
そして、これからもそうだ、
そう思うのであれば、
それは自由です。
戦国時代と同じように
武装して暮らしてください。

でも、おれはごめんです。
もう、そんな時代はおわりにしたい

戦国時代ではない
21世紀の、本当のたたかい。

たたかいは、はじまったんです。

戦争に反対するまでもない。
平和を求めるまでもない。
ミサイルが飛んでくるのを待つまでもない。

もう戦争は始まっているんです。

これは、やつらの宣戦布告なんです。

今、人類がたたかうべきは、
国対国の戦争ではない。

俺たちがたたかうべきは、
暴走した権力
機能しないシステム
不完全なすべての政府

まもるべきは
愛、人間性、
人類の可能性
そして未来

たたかうのは
おれ、きみ、
ひとりひとり
そして、みんな

これは、昔の市民革命とは違う。
政府を倒したところで、
何も変えられない。
既に僕らは民主主義の国に生きているのだから。

議会制民主主義にかわる
次のより高度な人類の政治のかたち

人々の集合意識をより反映し
1%ではなく99%の普通の市民の意思をくみとれる
民主主義の次の形

それは、たぶん、制度ですらない
システムですらない
ルールや法律でもないでしょう

この革命は、
一人一人が、その内心において
行うべきものなのです。

人を疑うよりも
信じる方がいい
皆が、そう思うことがあたりまえに
なれば

世界は変わる

だから、これは霊的なものであると
僕は言うのです。

でも、その先にこそ、
人類の未来の可能性はあります

さもなくば
ここまででしょう
人類も、なにもかもすべて

難しいタスクであることはわかってる
けれども
俺はこの精神の、スピリットの革命に
残りの人生を捧げたい

きわどい戦いです
手遅れかもしれない
やはり届かないかもしれない
現実は残酷かもしれない
でも、だめならだめでいい
やるだけやって死にたい

いのちがけですよ
人生すべてかけないといけない
無抵抗で死を選ぶっていうんだから
シロウトにはおすすめしません
また、人をまきぞえにするのもつらい

だから臆病なやつは
どうぞ遠慮なく
人類の未来を疑って武装してくれ

でも、おれは、
21世紀の人類だったら
そして、なにより、日本人であれば
できると思うんだ

平和を愛し、高い知性を持ち、
高潔な精神を持つ、日本人であれば
良心に反するよりは、死を選ぶというような
すさまじいまでの生き方が
まさにサムライと神風の子孫たる覚悟が

アメリカさんは世界の警察をずっとやってきた
だから彼らはマッチョで好戦的だ
それはいい
それが彼らの役割なのだから
でも日本には日本で別の役割があるんだよ

人類の未来のため
この霊的な戦いの
先頭を切るという役割が。

それにね、
おれは、
自ら人類のために
十字架を背負って死を選んだ
イエス・キリストって人を
尊敬してるんだよ。

そして、
信じてるんだ。

イエス・キリストは、
死さえも克服した。

だからさ。
怖くないんだ。

死ぬことすらね。
恐れないんだ。

最後に一句。

人を殺すくらいだったら
俺は自分が死ぬ方がましだぜ。
そして、そういう人間が、たくさんいたら。
そして、そういう人間が、無抵抗をつらぬき、みんな死んでしまったら。
あとに残るのは、人を信じることのできない、臆病な人間だけ。
その残った連中で、好きなように戦争でもなんでもしてくれよ。
それで万事、うまくいくじゃないか。

No(4081)

■…2014年 7月 2日 (Thu)…….[short version]
[short ver.]

気が付けば、もう戦争は始まっていた。
気が付けば、革命はもう始まっていた。
僕らは革命のまっただなかにいる。

いくら世の中が、世界情勢が複雑に見えても、
本当に大事なことは、ひとつだけです。

戦争とは、国家権力の命令で、人が人を殺すこと。

戦争とは、国家、組織、政府、宗教、
それらの命令で、人が人に危害を加えること。

国家権力が、君に、人を殺せと命令するとき、
君はそれにYesというか、Noというか。

国家が、国家の名で人を殺すことに対して、
君は、Yesというのか、Noというのか。

それだけです。

そして、僕が思い描く革命というのも、
そういうものなのです。

これは、新しいことでも
画期的なことでもなく、
たぶん、みんな同じことを
考えているはず。

国家権力が、人を殺せと命令するとき、
それに誰も従わないのであれば、
戦争は起きない。

そして、それは、信じるということです。

そして、それは、覚悟を選び取ること。

相手を殺すくらいだったら、
抵抗せずに自分が死ぬことを選ぶ。

もし、戦場で、ふたつの軍の、兵士が、戦車が、戦闘機が、
対峙したとき。
どちらの軍の兵士も、引き金を引かなかったとしたら。
どちらの軍の兵士も、引き金を引くことを拒否したとしたら。

そこに戦争は起きない。
これこそが本当の勝利です。

国家や、権力や、不完全なシステムに対する、
個人と、人間性の勝利です。

信じることの反対は、
疑うこと。
そして、疑うことは、
怯えること。

人を見たら泥棒と思えという世界。

そうした世界に生きる人は臆病です。

人の歴史は、血で血を洗う、
争いと、裏切りと、殺し合いの歴史。
弱肉強食の世界。

でも、俺は、
そんな世界には生きていたくない。
そして、
人類は、もうそんな幼稚な段階を
卒業しなければいけない段階にある。

もし、あなたが、
人類は、原始時代や、戦国時代と同様に、
今でも、弱肉強食の世界に生きている、
そして、これからもそうだ、
そう思うのであれば、
それは自由です。
戦国時代と同じように
武装して暮らしてください。

でも、おれはごめんです。
もう、そんな時代はおわりにしたい

戦国時代ではない
21世紀の、本当のたたかい。

たたかいは、はじまったんです。

戦争に反対するまでもない。
平和を求めるまでもない。
ミサイルが飛んでくるのを待つまでもない。

もう戦争は始まっているんです。

今、人類がたたかうべきは、
国対国の戦争ではない。

俺たちがたたかうべきは、
暴走した権力
機能しないシステム
不完全なすべての政府

まもるべきは
愛、人間性、
人類の可能性
そして未来

たたかうのは
おれ、きみ、
ひとりひとり
そして、みんな

これは、昔の市民革命とは違う。
政府を倒したところで、
何も変えられない。
僕らは既に民主主義の国に生きているのだから。

議会制民主主義にかわる
次のより高度な人類の政治のかたち

人々の集合意識をより反映し
1%ではなく99%の普通の市民の意思をくみとれる
民主主義の次の形

それは、たぶん、制度ですらない
システムですらない
ルールや法律でもないでしょう

この革命は、
一人一人が、その内心において
行うべきものなのです。

人を疑うよりも
信じる方がいい
皆が、そう思うことがあたりまえに
なれば

世界は変わる

その先にこそ、
人類の未来の可能性はあります

さもなくば
ここまででしょう
人類も、なにもかもすべて

きわどい戦いです
手遅れかもしれない
やはり届かないかもしれない
現実は残酷かもしれない
でも、だめならだめでいい
やるだけやって死にたい

いのちがけですよ
人生すべてかけないといけない
無抵抗で死を選ぶっていうんだから
シロウトにはおすすめしません
また、人をまきぞえにするのもつらい

だから臆病なやつは
どうぞ遠慮なく
人類の未来を疑って武装してくれ

でも、おれは、
21世紀の人類だったら
そして、なにより、日本人であれば
できると思うんだ

平和を愛し、高い知性を持ち、
高潔な精神を持つ、日本人であれば
良心に反するよりは、死を選ぶというような
すさまじいまでの生き方が
まさにサムライと神風の子孫たる覚悟が

アメリカさんは世界の警察をずっとやってきた
だから彼らはマッチョで好戦的だ
それはいい
それが彼らの役割なのだから
でも日本には日本で別の役割があるんだよ

人類の未来のため
この困難な平和の戦いの
先頭を切るという役割が。

それにね、
おれは、
自ら人類のために
十字架を背負って死を選んだ
イエス・キリストって人を
尊敬してるんだよ。

そして、
信じてるんだ。

イエス・キリストは、
死さえも克服した。

だからさ。
怖くないんだ。

死ぬことすらね。
恐れないんだ。

最後に一句。

人を殺すくらいだったら
俺は自分が死ぬ方がましだぜ。
そして、そういう人間が、たくさんいたら。
そして、そういう人間が、無抵抗をつらぬき、みんな死んでしまったら。
あとに残るのは、人を信じることのできない、臆病な人間だけ。
その残った連中で、好きなように戦争でもなんでもしてくれよ。
それで万事、うまくいくじゃないか。

No(4082)

■…2014年 7月 3日 (Fri)…….名物教授
僕がその昔、
一瞬だけ、大学生というものをやっていたころ
「コバセツ」は既に名物教授だった。
僕の印象と、記憶の限りでは、
「コバセツ」は、改憲論者であり、
そしてまた、どちらかといえば
右寄りタカ派な印象だった。
だけれども、その語る理論は、
案外と納得できるもので、
また、言葉の端々から、
感じられる、人柄や、愛国心みたいなものは、
案外と純粋な人なのだろうという
印象を受けた。
だから僕も、案外と、憲法に関しては、
もっと実際に合った形に、
改正することも必要なのだろうと
そう思っていた。
その「コバセツ」、
今、昔より、有名なのかは知らないが、
怒っているようだ。
法治主義国家にもかかわらず、
適正な法の手続きを無視した政治の動きに、
法学者としては納得がいかないのだろう。
納得がいくわけがない。
それくらい、でたらめなことが行われているのだから。
たぶんこれは冗談ではすまされない。
こちら

No(4088)

■…2014年 7月 3日 (Fri)…….占領国
たぶん、いちばん率直にわかりやすく、
そういうことなのだろう。
日本は敗戦国なのだ。
そして、敗戦国として生きることが、
もう何十年もの間、あたりまえになってしまっているのだ。
あたりまえすぎて、誰もそれを疑えなくなってしまうくらいに。

歌手UAさん「ずっとアメリカに支配されてて集団的自衛権も認めなきゃ仕方ない」とハッキリ言えばいい
こちら

No(4089)

■…2014年 7月 4日 (Sat)…….お金vs人
経済戦争、経済徴兵制ねえ。
こちら

戦争に怯えるよりも
経済による支配に怯えるべきか

経済を失っても
命を失ってはいけない

今更ながら、あらためて、
officially
アメリカの正義ってものが信じられなくなってきたなあ
まあ、前からあまり信じてはいないけれども

No(4098)

■…2014年 7月 4日 (Sat)…….戦争とSex
なんかもう、フェイスブックとか、twitterとか、
ソーシャルメディアに書くと
いろいろ面倒だし、人も傷つけるので
自分の思考の整理と記録はこのCGIウェブ日記に
記録してとどめておこうか
怖いしね、ソーシャルメディア。

戦争とお金が切り離せないように
戦争とセックスも切り離して考えることはできないものみたいだ

でもそれについて書くと
男性からも女性からもひんしゅくを買うので
あまりソーシャルメディアにざっくり書きたくない
人はコミュニケーション不足により誤解する生き物だし
そもそもコミュニケーションとは誤解のことだし

ここでいうセックスは、
文字通りの性行為の意味だけではなく
なんかもっと”性”って意味のセックスのことかな

よく「男が女を守ってやる」という表現がある
そういう概念が、あるよね。

で、これは、ここ数年、ほとんど嫁さんに世話になって
生きている自分が言うと、説得力がいっそうないけれども(汗)

「おまえがいなかったら、誰が彼女を守るんだ」
みたいな。
かよわい女を、男が守る、みたいな。

それは、自分の実感だと、
かなりの部分、誤解だと思う。
思い込みだと思う。
間違いだと思う。

もちろん、いろいろな意味で、
男女は支え合うし、
精神的な意味で、男性が女性を守り、リードしていくことは
あると思う。

けれども、生物として見た場合、
生き物として見た場合、
存在として見た場合、

生命力、
適応力、
存在そのもの、
そしてたぶん精神的、現実的にも、
女性は男性よりもはるかに強い。

腕っぷし、とか
根性、とか、そういうんじゃなくて、
もうはなっから、生物として、男よりも、女ははるかに強い生き物として出来ている。
それは、そういうものだから。

俺も、はっきりいって
嫁さんにはずいぶん「守ってもらっている」と思うが、

そんな女性に対して、
「守る」とか「守ってやる」というのは、
勘違いも甚だしく、
そしてそれは、弱い男性のための、小さなプライドのための、
レトリックなのだと思う。
(それも含めて女性の強さ、したたかさの証明だ)

こういうことは、
うちの嫁さんのような素晴らしい女性と出会って、
愛というものについて、身を以て体験し、知らなければ、
理解することのできなかったものだ。

だから、
お前がいなかったら誰が彼女を守るんだ、
という問いかけは、たぶん、わりと、真実からはかけ離れていて、

現実には、男性がいなくなったとしても、
女性は、きちんと生きていき、
そして、他の誰かとちゃんと幸せになる。
女性は、それくらい強い存在なのだと思う。
(もちろん、全員がそうだ、というわけではない。)

たとえば、うちの嫁さんにしたって、
たとえば、僕が、事故で死ぬなり、自殺するなり、戦争で死ぬなりして、
いなくなってしまっても、
もちろん、それは相当に悲しいことだし、
傷は癒えないだろうし、
後を追って死んでくれたりしたらそれはそれで嬉しくはあるけれど、

それでも、たぶんちゃんと生き延びていくだろう。
うちの嫁さんは、こう見えても、それなりに美人なのだ。
俺が心配しなくても、
どっかの男が、勝手に幸せにしてくれるだろう。

つまり、
俺がいなくなったら、彼女はどうするんだ、
なんていうのは、
弱い存在である、男の悲しくも幸せな勘違いなのだと思う。

さて、戦争とセックス(性)は、本質的に、切り離すことができない。
それは、戦争もセックスも、人間の本能に根ざしたものだからだろう。

だから、愛国心をPRした、愛国と戦争のプロパガンダは、
愛とか、家族とか、そういう物語を提示する。

「お前が戦わなければ、誰が彼女を守るんだ」
「お前が戦わなければ、かわいい妻と子供が、敵に殺されてしまう」

明に、あるいは暗に、そういう問いかけを発する。

それは、男という存在の弱さにつけこんで、
嘘を吹き込んでいるに過ぎない。
そして、戦場に行って、他の国の兵士を殺すことは、
残念ながら、
妻や子供、家族を守ることにはならない。

それは、
男という弱い存在の、
怯えや恐怖心、不安定さにつけ込んで
脅して戦場にかり出すための方便なのだ。

戦争とセックスの、
抜き差しならない、恐怖と嘘の話は、
これ以上、もちろん突っ込んで書けないから、
だってそれは、相当にえげつない話になるから、
後は自分で考えて。

こういうことは
本当に、一人の女性と、
愛し合い、
わがままをぶつけ合い、
共に時を過ごさなければ、
わからなかった。

とにかくも、
だからこそ、
戦場に赴く兵士にかける言葉は、

「生きて帰って来い。お前がいなかったら、誰が彼女を守るんだ」

ではなく、

「心置きなく死んで来い。お前が死んでも、彼女はほかの男とちゃんと幸せになるから心配すんな。」

であろうと思う。

そちらの方が、たぶん真実に近い。

もし、
本当に家族を守りたいのであれば、
家族のそばを離れるんじゃない。
敵は、思わぬところに潜んでいるものなのだから。

人間がこだわっている、ほとんどのものは、
思い込み、
勘違い

そして、どこの国の人間であれ、どんな人種であれ
人間に大した違いなんてない

そんな小さな思い込みのために
殺し合うのだということがわかれば

すべての戦争が馬鹿らしくなってくる

No(4099)

■…2014年 7月 4日 (Sat)…….霊と肉
もうひとつね
時間差を置いてさ
これも記録しておきたいんだけれど

よく聖書には
霊、と、肉、
っていう対比が出てくる。

霊は、聖なる、神に属するもので、
肉、は、悪魔に属するものだ、
みたいな感じの世界観だ。

だからって
偉そうに言うわけじゃないんだけれど

僕には(僕らには)子供がいない
今のところいない

そして、このままいくと
たぶん生涯、子供を持たない可能性が高い

で、思うんだけれど、
僕は、この世界において
この生涯において

肉の意味で、なにかを残したいわけではないんじゃないかと
思うのだ。

僕は、霊の意味で、なにかを残したいのではないかと。

もちろん、子供を持つことが、悪いことであるはずはないし、
僕だって、子供を持ちたいという気持ちは、かなり、ある。
どちらかというと嫁さんの方が、ない、うちの場合は。
(そして、いつも言っているように、僕は、昔からいつでも、出来るものなら音楽をやめたい)

でも、僕は、霊の意味で、なにかを残すことの方に、
この人生において、
より情熱を持っているのではないかと
思うのだ。

セックスというのは不思議なもので
霊の部分もあれば、肉の部分にもなる。
人を癒すことも、傷つけることもできる。
天使のセックスもあれば、悪魔のセックスもある。
まちがいなく、その中には、
聖なる天使の部分と、悪魔の欲望の部分がある。

愛というか神に属するセックスは、
癒しと充足をもたらすし、
悪魔とか欲望に属するセックスは、
虚無感とみじめさをもたらす。

肉体的には、どちらも同じ行為だし、
セックスによって子供を妊娠するという結果には、
たぶん変わりがない。

だから不思議なのだし、
それこそが、いわゆる仏教用語で「娑婆(しゃば)」という
この世界の本質なのだと、きっと思う。

世界が、肉と霊から成り立っているとしたら。
肉の部分では同じ行為のはずのセックスが、
霊の部分の違いによって、
まったく違った意味になる。
それは、というか、
それこそが、人の生きる意味なのだろうけど。

生命の根源であるセックスがそうであるように、
この世界は、霊と肉から成っている。

けれども、

その肉の部分については
自分は執着できない運命ではないか、
ということを、
最近、なんとなく自分で悟ってきたのだ。
この歳になって。

肉の意味で、何かを残すことを、
この世界において、僕は望んでいないのではないかと
それは、自分にははじめから、望むべくもない、手に入らないたぐいのものではないのかと。

そして、だからこそできることがある。

だからこそ、後悔もしないし、恐れもしない、
そういうことがある。

これ以上は書かない。
やっぱり、話題がえげつなくなるから。

でも、生きていくためには
大事なことだった。
自分の運命を知ること。

No(4100)

■…2014年 7月 4日 (Sat)…….召集令状
これって最初に見たとき気付かなかったけど、
どちらかというと逆だよね、きっと。
世の中逆説で考えた方がわかりやすいことがしばしばあるわけで。

考えてもみなよ、戦場に行かなければいけないのは。

「高3生に自衛隊の募集案内が、個人宛に続々と届く」
こちら

No(4101)

■…2014年 7月 5日 (Sun)…….Independence Day
July 4th、7月4日ってことでアメリカの独立記念日だ。
フェイスブックのタイムラインには、アメリカの国旗や、花火(fireworks)が並んでる。
いつも、僕はこのIndependence Dayを祝うアメリカの人たちの様子に、
なんとはなしに、うらやましいな、という気持ちを持っていたものだった。
もちろん僕は、日本人であることに誇りと、アイデンティティを持っているけれど、
複雑な近代史をたどってきた日本に比べて、
明確に自由(そして信仰)という国是を持った彼らに対して、素直にうらやましいなあという気持ちはいつでもあった。

けれども、今年は、なんだかもう少し、複雑な気持ちで、この日を迎えている。

彼らが、みんなが、祝っている、celebrateしている「自由」とは、果たして本当に自由だろうか、と。

ここのところ、日本の政治状況や、世論の高まりのせいで、
戦争、自由、戦うということ、生きること、
いろんなことについて、思わず突き詰めて考えてしまったことで、
自分が果たして本当に何を欲しているのか、
なんとなくわかってきてしまった。
やっと、この歳にしてというべきか。

たとえば、ガン、Gun、銃についての話がある。
多くのアメリカ人は、自分たちには銃を持つ権利があると主張する。
それについて、非難するつもりはない。
かの国に住むということは、そういうことなのだ。
アメリカという場所では、銃を持つことは、当然のことだから。

そして、僕は、アメリカに何度か演奏しに行った中で、
銃の話を誰かとして、
アメリカの自由ということについて話し、
アメリカ人は、政府に反抗する自由があり、
政府が抑圧的になり、民衆を押さえつけるようになった時、
政府に抵抗するために、銃器(firearm)を持つ権利があるのだ、
と教えてくれた。

僕は、その人の話に、なるほど、そういうことか、
と、納得したものだった。
そしてそれは、その話してくれた人だけでなく、
多くの一般的なアメリカ人に共有された認識であろうと思う。

けれども、僕は今、はっきりと、
それはたぶん、間違っているのではないか、
と、そう考えることができる。

政府にとって、
少なくとも、今、人々を支配しようとする政府があったとしたら、
民衆を支配しようとする人たちにとって、
銃を持つ人々と、
銃を持たない人々と、
どちらが脅威かということを考えると、

僕は、彼らにとって脅威なのは
銃を持たない人々であろうと思う。

その理由は面倒だからいちいち述べないが、

ひとつだけ述べるのであれば、

民衆を支配しようとする人たちにとって、
コントロールし、支配しやすいのは、
むしろ銃を持っている、銃を持ちたがる人間の方だろう。

彼らの言う「自由」は、
人を信じ、前に進もうとする自由ではなく、
人を疑い、現状を維持する自由のように
思えるからだ。

支配層はむしろ、
人々から潜在的な
抵抗する力を奪うために、
民衆を無力化するために
(民衆の霊的な発展を妨げるために)
銃を普及させているのではないかと
思うくらいだ。

アメリカとは直接関係がないが、
僕はずっと、
死刑については、
どちらかといえば必要なのではないかと
考えていた方だった。
なぜなら世の中には、非常に凶悪な犯罪者というものがいる。

しかし、はっきりと結論を持っていたわけではないので、
どちらかというと態度と結論を保留していた。
これも非常に難しいイシューだからだ。

けれども、今回のことで、
僕は、はっきりと死刑廃止論者になってしまったようだ。

理由は面倒だからここでは述べないし、
本当に理由を書こうとすると
また無駄に長くなってしまうからよしておく。

死刑廃止論者。
なんだかかっこわるい。
少しばかり悔しい。

でも仕方が無い。

自分はどうやら平和主義者らしい。
でも、それが、
一朝一夕で結論に飛びついたのではなく、
自分のバックグラウンドや、これまでの人生の経緯の後にたどりついた、
自分なりの、ロックンロールと、信仰に根ざしているものだという
ことは、書いておきたい。

そして、俺だって怖いし、出来るかわからないが、
トライしている、努力している、ということは
言っておきたい。
誰だって完全じゃない。
俺だって完全じゃない。

自分の生きる立場、
自分の政治的スタンス、
みたいのが、なんだかはっきりしてきてしまった。
この歳にして。

クレイジーとか、
変人、狂人呼ばわりされるかもしれないが、

この歳まで、骨の髄まで、
意地を張ったインディーズミュージシャン(だめ人間)を
続けてきた身にとっては

それは、正直、最高の褒め言葉であり、
名誉の勲章のように思える。

そもそもが、
チェスタトン的な逆説で言うのであれば、

狂人とは、
現実が見えなくなった人のことを言うのではない。
現実しか見えなくなった人のことを、狂人というのだ。

その意味で、
僕はかの夢想家(Dreamer)たちの列に加わり、
この危ない夢に賭けてみたい。

人にはそれぞれ、立場があり、役割があり、仕事がある。
国も違えば、文化も違う。

たとえば目の前の現実に対処するのが、
政治家であったり、実業家、経営者の仕事であろう。

けれども俺は自称、芸術家のはしくれだ。

今はまだここにない未来を作るのが、
芸術家の仕事だからだ。

No(4102)

■…2014年 7月 6日 (Mon)…….理想の政治家
自分はかなり大人になって、結婚してからクリスチャンになったので、
聖書をどれだけ読めているかはわからないが、
昔からたまーに中国の古典なんかを気分で読むことがあった。
神様目線で書かれていて、
ホーリースピリットの助けなしにはとてもじゃないが理解できない聖書にくらべれば、
中国の古典は、まだ人間目線で、現世的なので、まだわかりやすい。
老子なんかはわりとお気に入りなのだが、
そういう、中国の古典、老子もそうだし、論語とか、
理想の政治というものについて、たくさん書かれている。
徳をもって、仁とか、人格を持って治める、みたいなのが多いけれど、
老子はもうちょっと独特で、
「なんにもしないで国が治まるのが一番いい」
みたいなことが書かれていたような気がする。
要するに、具体的にあれこれやって、手腕を発揮して有能っぷりを発揮して功績を挙げるような政治、
これは、まだまだ最善のものではない、という感じ。
一見、なにもしない、無能な君主のように見えても、
それによって、自然と国が治まるのが、
最上だということ。
昔、これを読んだときに、いったい何のことを言っているのか、
どういうことなのか、あまりわからなかった。
でも、今、21世紀の政治状況を目の当たりにして、
そして、民主主義の、民主政治の、次の形、ということを考えるとき、
なんとなく、老子が言っていることが、わかるような気がしている。
有能な政治家というものは、怖い。
有能な政治家、すごい手腕を持った政治家。
俺は、そんな政治家は、必要ない。
目に見えるわかりやすい成果とかいらない。
もっと、さらに上のレベルの、「そこにいるだけで国が治まる」
そういう政治家が、俺は欲しい。
そして、現代社会のシステムの中では、
それは、政治家ですらないかもしれない。
テレビで言えば(もう長年、テレビちゃんと見てないけど)
タモリさん的な存在感?
それは、気付かなかった(笑)
「有能」な政治家なんてのは、
民衆にとっては脅威でしかないよ。
歴史上、独裁者っていうのは、
みんな、有能な政治家だったわけだから。

No(4113)

■…2014年 7月10日 (Fri)…….ここはプリズン
ポエム(笑)
ふと書いてみた。
一見、暗く、批判的な世界観に見えるかもしれないが
もともとは前向きな思考で書いたものだ。
けれども、
自分の現実というのか、
自分のリアリティにこれがいちばん近いように感じる。

気が付けば、
僕らはプリズンに住んでいた。

プリズン、
監獄。
そこは牢獄。

この場所は、
広いように見えても
囚われの牢獄。

そこに住む人々は、
囚われた囚人として
統一されたルールのもとに生きている。

いつからこうだったのかはわからない。
老人たちから聞いたには
なんでもこの「国」は
その昔、大きな戦争に敗れ
それ以来、
この場所は「牢獄」になったということだ。
それが本当かどうかは知らない。

けれども
この場所に生きる人々は
知ってと知らずと
無意識のうちに

牢獄の中に生きる人間として
牢獄の中の世界だけを見て
牢獄の中の価値観で生きるようになる

この牢獄から出ようとする者は少ない
そもそも皆、牢獄の外の世界を知らないのだから
多くはこの牢獄から外に出ることすら考えもつかない

人々の考えるのは
せいぜいこの牢獄の中で
ましな暮らしを手に入れることだけだ
多くは誰かを犠牲にした
その代償に

この牢獄に生まれた僕に
本当の意味での自由はない

牢獄の外には
「勝利した人々」の側の
国があるという。

そこでは
何かを得ること
何かを知ること
楽しむこと
学ぶこと
生きること
死ぬこと
それらすべての
本当のものが手に入る

けれども
それは
「敗者の国」の住人である
僕らには手に入らないものだ

僕らはこの広い牢獄に住む
そして
所詮は僕らはこの牢獄の住人だ

けれども
もし自分が
狭い独房に収監され
囚われの囚人となったらどうするか

僕はそこで詩を書き
芸術を作り上げるだろう
たった一本の木からでも構わない
たった一枚の紙からでも
たった一本のペンからでも構わない

たとえ囚われの身であったとしても
僕は芸術を作り
自分の生きたしるしと
メッセージを誰かに伝え
残そうとするだろう

そしてなによりも
自分の魂の高みを目指すために
その魂が
この牢獄の壁を越えることが
できるように

この牢獄の国は広く
その中だけでひとつの世界が成り立っている

ひとつの共同体国家となっているこの牢獄世界の中では
僕らは囚われの身とはいえ
ある程度の自由が確保されている

楽器を手に入れ、演奏することも許されている
独自の獄内文化を形成しているこの牢獄世界の中には
そのための設備はひととおり整っているし
牢獄の外で手に入る最上の楽器に勝るとも劣らないものを
つくる職人たちもいる

僕らには芸術を作ることも許されている
音楽を演奏することも

牢獄世界の住人たちは
多くは牢獄の中の限られた世界だけを見て
既に希望という感情を捨て去っているため

音楽に対して
あるいは
牢獄の壁を乗り越えよう
自由な広い世界を目指そう
というメッセージに対して
あまり喜ばしい反応を示すものはいない

けれども
今では獄中世界においても
インターネットを使うことが許されているので
僕らはそのメッセージを
牢獄の外へ向けて発信することもできる

そして時折は
短い期間ではあるが
牢獄の外へ
自分たちの音楽表現を伝えに
演奏しに行くことも許されている

牢獄の中と外には
一定の行き来と交流があるからだ

もちろんスケートボードをすることも
許されている
牢獄の外の世界にくらべれば
スケートボードをする環境はあまりないが
それでも一部の場所には
ひととおりの施設や設備が置かれている。

牢獄世界の中の囚人のスケーティングに
外の世界の自由なスケーターたちが
どれほど関心を示すかはともかくとして
それはほとんど「敗者の国」の宿命として
けれどもスケートボードをすることは
ともかくも許されている

この世界には経済もある
ただ多くのものは
牢獄の外の「勝者の国」の人々のために
利用され働かされている
彼らは決して勝つことの許されない戦いを
そのために命を削って
行っているのだ

牢獄の中では
居住の自由もあり
僕は現在
ヨコハマプリズンに居住している

けれどもそれは
ニシトウキョウプリズン、
シキニイザプリズン、
ヨコハマプリズンの3カ所の中から
選ぶことを許されたものだ

牢獄の中では
結婚も許されている

ただ多くの者は
若い世代になるほど
この牢獄世界の環境の悪化を心配してか
あるいはこの牢獄世界の未来を悲観してか
子供を持とうとする者は決して多くはない

この牢獄の中における
結婚というもの自体
信じないものが増えているのも事実だ

そしてこの牢獄の中における
人生というもの自体
信じることができない者も多い

ここは巨大な牢獄
僕らは囚われの身
勝者に支配され占領された
ゆるやかにしかし
確実に自由を奪われた
敗者の国

けれどもREBELは起こる
今にすべてが変わる
この牢獄の外、
あると言われる
「勝者の国」の住人たち

彼らもいつしか
自らが抱えた矛盾と
慢心と盲目に捕われた
囚人になっていることに
気付いていない

「勝者の国」の住人たちには
及びもつかない
真実を
僕らはこの目で、この耳で、
この手でつかめるかもしれない

賽は投げられ
バトンは手渡された
ブルーズのリレーは
密かに僕らに手渡され
そして鍵は与えられた

次の世界の扉をひらくのは
囚われの世界から
新しい世界を作り出すのは
僕たちだ

脱獄
ジェイルブレイク
それは
牢獄を破壊し、
そこから逃げ出すことではなく

牢獄の中に
新しい世界が生まれ
そこが天国となり
世界に広がっていくことを指す

そのとき牢獄の外と内は入れ替わり
この世界こそが自由な世界となり
この街は新しい世界の都になるだろう

僕はその日を
この目で見てみたい

たとえ見ることができなくても
僕はその日が来ることを
はっきりとこの心の中に見、
信じることができる

No(4119)

■…2014年 7月11日 (Sat)…….今月のコクチ
さて今月はなんだかんだライヴやります。

来週、7月19日(土)町田Nutty’s
「熱きリョウとジーザスモード」にて出演。
ギター弾きます。
ジーザスモードは、今僕がやってるバンドの中で、いちばんエンターテイメント性が強い。
楽しいライヴになると思います。
19:50くらい出番らしいです!

7月21日(月祝)大久保水族館
Imari Tonesにて演奏します。
アットホームで距離の近いバーライヴは、Imari Tonesの本領でもあります。
妥協も力みもなく、遠慮せずにやりますので、
かなり濃ゆい内容になっちゃうと思います。
Open 19:00 Start 19:30 (のはず)

7月24日(木)町田Nutty’s
ソルフェイにて出演。今回、代役でドラム叩きます!
ソルフェイは現在絶好調。
わたしのドラムと、バンドのチームワーク、
どちらもなめたらあかんぜよ。
出番はぁ、最後なんじゃないかな。

そんな感じです!!!

No(4125)

■…2014年 7月11日 (Sat)…….理想のベース
さて自分は、今年なぜか、急にベースをもうちょっと本格的に弾いてみたいと思い立ち、現在、「ソルフェイ」にてベースを弾かせてもらっているわけですが(次回ライヴはなぜかドラムですが笑)、
ここで自分の思うベースとか、好きなベーシストについて書いてみようかと思います。

ベースというのは難しいパートで、
特に「好きなベーシスト」「憧れのベーシスト」なんていう話題というか議論をするのが難しいところです。

なぜなら、ベースは本来、目立たないパート、というか、ベースの本来の役割を考えるのであれば、優秀なベーシストは本来目立たないものであるからです。ベースは、目立たないのであれば、その演奏は成功です。つまり、ベースが目立つのは、アンサンブルの中で、ミスをしたときだからです。

だからどうしても、人々の目に触れ、話題になるベーシストというのは、ちょっと特殊なスタイル、特殊な演奏形態をしている人になってしまう傾向があると思います。
たとえば、なんだろ、僕もあまり詳しくないけれど、ヘヴィメタル界ではビリー・シーンのような速弾きの特殊スタイルを筆頭に、
あとはジャコパスとか、レス・クレイプールとか、マーカス・ミラーとか、よくわかりませんが。

演奏の実力というのか、仕事っぷりと、一般の評価が他のパートにくらべて比例しない場合が多いパートがベースかもしれません。

僕も好きなベーシスト、と言われると、難しいところです。
ファッションとか、見た目、スタイル、ステージパフォーマンス、存在感、そういうところが結構大きなアピールポイントになってしまうことも大きいです。

あとは、まあどのパートでもそうですが、バンドのカラーというのか、そのバンドのスタイルや音楽性によって、ベースの演奏スタイルも大きく左右されるので、好きなバンド、イコール好きなベーシスト、みたいになってしまうところもあります。

実際に、僕も、自分が好きなお気に入りのバンドのベーシストたちは、だいたいみんな大好きです。
Van Halenのマイケル・アンソニー/ウォルフガング・ヴァン・ヘイレン、
Suedeのマット・オズマン、
bloodthirsty butchersの射守矢さん、
あたりは自分でもなんだか好きなところです。

ああでも、好きなバンドでも、ベースはそれほど、印象に残らない、場合もあるかな、やっぱり。

バンドのカラーや、バンドサウンドそのものとあいまって、
サウンドが良いとか、サウンドが特徴的、というベーシストは好きですね。

で、自分の思う「理想のベーシスト」像なんですが、
必ずしも超絶テクニックとか、スーパーベーシストでなくてもいいんですが、
楽曲の中で、楽曲を生かすための高度な演奏を聴かせてほしいという欲求はあります。

そして、自分がいちばん理想と思うのは、
「バンドに活力を与えるベーシスト」
つまり、ベースというのは、バンドのグルーヴをつかさどり、
なおかつバンドサウンドのいちばんの基盤を担うところなので、
バンドのグルーヴの、推進力、というのか、エンジン、みたいなパワーを
いちばん生み出せるパートだと思うんですね。
そこに、僕は、活力というのか、元気、というのか、ポジティヴなエナジーというのか、
バンド全体にとって、前に進む力を、生み出せるベーシストが、
理想だと思っています。

それは、技術だけでなく、サウンド、グルーヴ、パーソナリティ、ステージング、すべてにおいての意味です。

バンドのアンサンブルにとって、
プラスαのエナジーを、いちばん生み出せるのが、ベースだと思うんですね。
だから僕も、ヤオさんのバンドとかで、何度かベースをライヴで弾いているうちに、なんかこれは、おもしろいぞ、と思ったわけなんですが。

で、ヘヴィメタルの世界でいうと、
有名なベーシスト、たくさんいますが、
たとえばRUSHのゲディ・リーが好きかと言われると、
それほど、そうでもない。
サウンドかな。
なんか近年、自分はどんどんRUSHが嫌いになっていってるし。

あるいはIron Maidenのスティーヴ・ハリスもカリスマですが、
それも、それほど。

カリスマといえば、Motley Crueのニッキー・シックスなんかは永遠のカリスマの一人だと思われますが、

実は、80年代メタルでいうのならば、
僕がいいなと思うベーシストは、実はRATTのフォアン・クルーシェなんですね。

それは、RATTの、軽快でダンサブルなサウンド、80年代メタルの中でも、
なんだかちょっとおしゃれな、踊れるメタルを体現したのは、
フォアンのベースの功績が大きいと思うからです。

そして、フォアンの陽気なラテン系のグルーヴは、
LAメタル、ロサンゼルスという土地柄もあり、
RATTというバンドのカラーの構築に、かなり貢献していたと思うんですね。

あと、僕が、聴いてきたバンドの中で、
ちょっといいな、と思ったベーシストは、
実はThe Stone Rosesのマニなんですね。
まあバンドのスタイル、カラーということも大きいんですが、
これまた、バンドの推進力としての、バンドに活力を生み出すグルーヴ、
そして、踊れるグルーヴ、
といったところでしょうか。

あとは、また地味なところかもしれませんが、
R.E.M.なんか聴いてても、ベースがいい感じだな、と
思ったりします。
特段、特筆するところもない、普通のベースだと思いますが、
バンドの音楽性もあいまって、
その普通なところが、非常に良いというか。
マイク・ミルズですね。
今、ウィキペディア見て初めて名前知ったくらいの(笑)
ベーシストって、そういうものかな、みたいな。
普通に地味に仕事をしてる人が、いちばん良いのかもしれません。

そして、最近思うのは、
XTCですね。
僕はXTCは、ここ数年、後期のものを少しずつさかのぼって聴いているだけなのですが、
なにげに、ベースが、非常に、かなり、とても、良いように思います。
そもそもXTCは、バンドというか、楽曲も、アンサンブルも、すべてにおいて非常にレベルが高いので、
やはりバンド全体というかグループ全体、楽曲全体としての評価になってしまうんですが、
その、完成度の高い、高度な楽曲、高度なソングライティングの中で、
その高度な楽曲を生かすべく、これしかない、っていう高度なベースラインを弾いている。
これは、特段にすごいテクニックとかじゃなく、「普通に高度な演奏」という意味ですが。
実はこれ、結構、自分の理想のベースかもしれません。
XTCのベース、っていうことは、
コリン・モールディング、ってことですよね。
この人、数は少なくとも、XTCの名曲もいくつか書いてるし、
おそるべし、って思います。
ベースプレイヤーとしては、
あるいはちょっと細野晴臣さん的な立ち位置の人なのかもしれませんね。

もちろん、日本人ベーシストにも
素晴らしい、すごい人たち、いっぱいいますし、

欧米のバンドでも、もっといろいろ、きりがないですが、

自分の好みでぱっと書くとこんな感じでしょうか。

そして、案外と、いちばん近くにいるということもあり、
うちのバンド、Imari Tonesのはっしーを忘れてはいけません。

はっしー先生は、技術的に天才というわけではないし、
リズムも世界一良いというわけではないですが、
ひとつ、特にサウンドについては、
非常に強いこだわりを持っています。
この「こだわり」というのが、ベーシストという人種にとっては
非常に重要なもののように思います。

うちのはっしー先生は、
音楽も、酒も、コーヒーも、すべてにおいて、
違いのわかる男として有名ですが、
そんな彼の、「俺はこれでいく」というこだわりが、
彼のサウンドから、スタイルから、にじみ出ていると思います。
そういうのが、案外大事なのではないかと、
ベーシストにとっては。

あとは、本能みたいなもの?
グルーヴについても、それが言えますね。
得手不得手はあっても、
その人の持っているグルーヴというもの。
それこそが、さっき書いた、
バンドにとっての「エンジン」「推進力」になるんじゃないかと
思います。

No(4126)

■…2014年 7月14日 (Tue)…….Summer skate blues
夏が来た。暑い。
でも昨年もっと暑い日をたくさん経験している。
スケートボード始めて2回目の夏。
今年最初の蝉の声を聴き、
携帯からは「熱中症注意、運動禁止」の警報がプッシュ通知される。
けれどもそんな事を気にしてスケートが出来るわけが無い。
年齢を考えると無理は出来ないが10代20代はおろか子供の頃でさえ体を動かす事にこれほど楽しいと思うことはなかったのだから今この機会を逃す手はない。そこに医者のアドバイスなど必要無い。
ダメ人間フリーター主夫の私はいつもスケートの練習をしてからバイトに行くのだ。
昨年はスケート始めて初めての夏で、ちょうどキックフリップが出来るようになったとこで、best summer ever! とか思っていたが今年はもうちょっと上手くなっている。
ただ昨年もそうだったがこの季節は暑いので、効率的な練習は出来ない。
新しい技の習得とかほぼ無理だ。
ただこれまでの練習の続きを、暑さの中、惰性でだらだらと休み休みやるしかない。
今、手が届きそうになっているのは、フロントフリップとベリアル(バリアル)ヒール。
この夏の間にこのふたつの技を成功させるのがこの夏の目標だ。
ただどちらも4月くらいの時点で「もうちょいで出来るかな」とか言っていたので、まだ出来てないって事はやはり難しい技である事に変わりない。やはりレコーディングつうのか録音制作で5月から6月にかけてほとんどスケート出来なかったのが痛かった。
しかしこれからバイトも増やしスケートも増やしこれからだ。
暑くて効率の悪い夏をいかに乗り切るか。今年度のスケートの成否がかかってくる。
軽く、勝負の夏がやってくる(笑)

No(4135)

■…2014年 7月17日 (Fri)…….宇宙規模希望
目の前の問題について考えるとき
日本だけのことを考えているのでは真実が見えない。
一国の都合だけでなく
人類全体の未来を代弁できる人が欲しい。

世界の問題について考えるとき、
人類だけのことを考えているのでは真実が見えない。
人間世界の都合なんて越えて、
自然や正義やスピリット(命)まで代弁できる人が欲しい。

未来について考えるとき
地球のことだけを考えているのでは真実が見えない。
時間も空間も越えて
宇宙規模で物事を考えられる人が欲しい。

No(4140)

■…2014年 7月21日 (Tue)…….敗戦の弁(1)
気が付けば、世界は既に滅亡していた。
やっとこのことに気が付いた
やはり、様々の予言は正しかったのかもしれない。

戦争はもう始まっているし
これからもっと始まるだろう
なにより人々の心はすでに戦争をしている
僕らは放射能と災害の中に生きていて
たぶんもっと大変なことが
これから起きるだろう

けれども冷静になって考えてみれば
これは今までの僕らの世界のしてきたことに対する
順当な結果ではなかったか
これらのことが予測できないほど
僕らの世界はきれいではなかったはずだ

そして振り返れば、
もっとずっと前の時点で、
世界はすでに滅んではいなかったか。

ターニングポイントはいつだったか。
自分の音楽家目線からいえば、
やはりそれは、1990年代の、あの時点で、
すでに引き返せないほどに
物事は手遅れになってしまっていたのではないかと思う。
そして、もっというなれば、それらの種は
たぶんもっとずっと前の時点で蒔かれていたはずだ

それは厳密に言って自分の責任ではない。
僕らはそれら世界に責めを負うほど
それらの時点では歳をとっておらず
まだ生まれてもいなかったか
あるいは年端もいかない子供にすぎなかったのだから。

でも人類とか人間の
罪ってことについてなら別だ
キリスト教的に
人間は罪を持ち
生まれながらにして持っている
この罪ってやつが
僕らをどうしようもなく滅びにいざなう

では僕らはただ
敗北を喫するためにだけ
ここに生まれてきたのか

巨大な不可能を目の前に
濁流に流され
力なく滅びていくために
ここへ来たのか

いや自分はそんなことは百も承知で
このことをいちばん最初から承知で
それでも世界を美しくするために
人生を始めたはずだ

瓦礫の中に
花を咲かせる
ためだろう

「おまえはもう死んでいる」
と最強の拳法家に宣告されたような
この世界の現実を前にして
ばかみたいな話に聞こえるかもしれないが
僕は今、たぶんある意味
人生で最大、というよりは
人生でやっと最初の
挫折感みたいなものを味わっている

それは神様から託された宿題を
まったくもってやりとおすことのできない
自分の無力さとふがいなさに対して
人生で初めて
挫折、そして絶望というような感情を
味わっているのだ

「世界が滅びようが
それは俺のせいじゃない」

知ってるよ。
知ってるけど、
ひとりひとりが
そのために背負って生きなくては
いけない時代を
僕たちは生きている

少なくとも俺は
見習い救世主とつっぱって
ジーザスクライストとロックンロールを追いかけ
そのつもりでここまで生きてきたんだ

それが
このざま
こんなふうになっちゃ
もう
どうしようも
ねえなあ

けれどもそんなとき
僕は記憶の中に、ふたつ、みっつの、光景を思い起こした

ひとつは
まだ義務教育を受けていた頃
つまり中学生の頃、
偏差値なんてものによって
おりこうさん学校に振り分けられる前の
みんな一緒だった頃の友人たちの姿

当時はまだ比較的珍しかった
髪を茶色に染め
煙草を吸い
授業も学校も投げ出して
問題児扱いされている
彼らの姿

きっと彼らは
こんな気持ちではなかったか
投げやりになって
途方にくれている
なにをどうがんばっても
あまりにも物事が遠すぎて

そして今、僕だったら
彼らにどんな言葉をかけるだろう
神様は、彼らのことを見ていてくれただろうか

ふたつは
人生の中で、僕も何度か、
塾の講師であるとか、家庭教師であるとか
教える立場に立ったことがある
どちらもほんの少しの間だけのことだけれど

解法を教え、順を追って指導するのだけれど
生徒たちはなかなか、それができない
そして、あるいは勉強や問題に取り組むことすら難しい

何度教えても、間違え、
それでも、何度でも、教え、挑戦し、取り組む。
そんな子供たちに、
今、僕だったらどんな言葉をかけるだろう
神様は、あの子たちのことを見ていてくれただろうか

みっつは
ここ数年のこと
自分が、スケートボードのトリックに取り組んでいる姿
初めてのオーリーを
ショービットを
キックフリップを
そういったひとつひとつの技に
繰り返し、繰り返し、挑戦し、練習していく。
傍目には、とても成功しているようには見えない。
失敗を、何十回、何百回と、毎日のように繰り返し、
少しずつ、ほんの少しずつ、成功に近付けていく。

そんな自分の姿を
神様が見ているとしたら
同じように僕ら人間のことを
はたして神様は見ていてくれるだろうか

そしてたぶん
これはどんなスケートボードのトリックよりも
難しいことなのだから

神は。

そして許しとは。

愛されているとは
どういうことなのか。

神の課したテストに
パスしたとしても
落第したとしても
それでもひとしく神は愛してくれる
それはどういうことなのか

このことは大切なことだった
すでに滅んでしまった世界の中で
どう生きるかということ

あらためて
ブッチャーズの最終作品”YOUTH”から
「レクイエム」を聴いてみる

吉村氏は、なにもかも
きっとわかっていたにちがいない

この曲は、
この世界そのものに対するレクイエムだったのだ

「泣きたければ泣けばいいさ
笑いたければ恐れずに」

最後まで
生きる勇気を

許されても
許されなくても。

No(4157)

■…2014年 7月21日 (Tue)…….EVH Wolfgang USA Custom
ふと、のぞいてみたEddie Van Halenモデル。
たしか、Van Halenの復活作が出た、すぐ後くらいか、
あるいは翌年くらいの、NAMMショウとかで
発表になっていたモデルだったか。

ハードテイルっていうのか、
フロイドローズではないタイプ、
そして、マホガニーバックのフレイムメイプルトップ。
アーチトトップの、
それ、まるでレスポールじゃん、
ていうモデル。

けれども、なぜかファインチューナーがついていたり
形状とか、やっぱりどこか、新しい。

前にも書いたことがあるけれど、
Eddie Van Halenモデルのギターが、
アーチトトップになったのは
90年代後半のPEAVEY Wolfgangになってからだったと記憶している。
そして、そのギターは、ゲイリー・シェローンをヴォーカルに迎えた問題作
“Van Halen 3″で使用された。

ボディ材は基本的にバスウッドではあるものの、
アーチトトップになったEddie Van Halenモデルは、
それまでのエディモデルが、基本Fender寄りのギターだったとすれば、
それが大きくGIbson寄りに舵を切ったモデルであり(たぶん)

Van Halen 3のアルバムと、そのツアーで聴けるエディの音も、
それまでのものよりも、太く、かつ立体的になった音だった。

ただ、このサウンドは、扱うのが、とても難しい、と思うのだけれども。
たとえそれが世界一のロックギタリスト、エディ・ヴァン・ヘイレンであったとしても。
「鳴らしてなんぼ」であったそれまでのエディのギターと違って、
「鳴ってしまう」
その立体的なサウンドを、アンサンブルの中で、制御するのは。

とにもかくにも
以前にも書いたように
自分にとってのある種の理想というか、基準として
このときのエディの音は、自分の脳裡に刻まれている。

その後もエディはTone Chasingを続け、
サミーとの復活ツアーを経て、
デイヴとウルフとの復活ツアー、
そして復活アルバムと、
現在のエディは、90年代に鳴らしていた音を
より分厚くして、
70年代の荒々しさも備えたような
そんなサウンドを鳴らしていると思いますが

そのEVHブランドの
最新、目玉商品としてのギターが
「まるでレスポール」な
EVH Wolfgang USA Custom

もちろん、それはエディ本人が
どれだけ使用しているかわからないが
どちらかというと
市場の中で高級ギターとしての商品価値を
狙った楽器である可能性も高いけれど

でも、
これを、さっき、あらためて見たら
はっとして、気付いた

ヴィンテージを下敷きにした
進化形レスポール。

そして、21世紀の、さらに未来を鳴らすための
立体的でトランスペアレントな
流線型のアーチトトップ構造。

EVHならではの未来の進化形レスポールって
いうことかこれは。

ていうか、でもそれって
今、俺の手元にある
自分のギタリスト人生の最終回答である
Bacchus “猫ポール”と
同じことじゃないか。

結局これも、EVHだったんじゃないか、と。

進化形レスポールってことでいえば
Hamerの、後期というか90年代後半以降
定番モデルSunburstが、アーチトトップになり
Studioという名称になったもの
これは後期Hamerの主力モデルであったし
たしかアースシェイカーのシャラさんも
Fujigenに替えるまでしばらくこれを使っていた
ていうか今シャラさんが使っている
フジゲンのモデルもレスポール進化形以外のなにものでもない。

またHamerの最後のオリジナルモデルともいえる
Jol Dantzig氏も自画自賛している
Talladegaというモデル。
これも、テレキャスターとレスポールのいいとこどりであるが
Hamerのギターの進化の最終回答としての
未来のレスポール、レスポール進化形の姿ではないか。

結局、みな、そこへ行き着くのかもしれないと。

こうして文章にして書いても
ぜんぜんわからないし伝わらないだろうけどもさ(笑)

以下、参考。

EVH Wolfgang USA Custom
こちら

Bacchus BLP-STD FM
こちら
生産完了品だけど、探せば市場にまだ何本かあるかもよ。
国産で定価16万、ってことは、売値は10万を下回る可能性かなりあり。

シャラさんのFujigen
こちら

Hamer Studio Custom
こちら

Hamer Talladega
こちら

No(4158)

■…2014年 7月21日 (Tue)…….復興やけのはら
先日のイベントもすばらしかった。
たとえば10年くらい前にバンドをやっているとき。
5年くらい前でもそうだったけれど、
日本のシーンは面白くないな、だめだなあと感じることが多かった。
けれどもここ1、2年くらいだろうか。
なんだかおもしろいことが、そこかしこで起きていると、そう感じることがたびたびある。
単純に身の回りで関わる人たち、自分の周辺の環境の変化というだけかもしれないが。

そして、これは、ネガティヴな言葉ではあるが、
先日自分が感じた、
「すでにこの世界は滅亡しているのだ」
という言葉の裏付けというのか裏返しでもある。

すでに世界が滅んだのでなければ
こんなふうにこんなところで
ぼくらみんなあつまり
すばらしい音楽を
ならせるはずがない

未来はどこから生まれるのだろうか。

たとえば1950年代、1960年代、
アメリカや、イギリスで、ロックンロールという音楽が
生まれるとき、
そこにはFenderがあり、Gibsonがあった。
伝説のレスポール、伝説のテレキャスターは、
その1950年代に、カラマズーだか、アメリカのどっか、その場所で作られた。
伝説のマーシャルは、1960年代、
イングランドだかロンドンだかよくわからんがそのへんで作られた。

僕は、これを弾いてみたいな、という楽器を、
この場所で見つけてしまった。
それらのものが僕をひきとめ、ひきつける。
それはたぶん決して、偶然ではきっとない。

ぼくの夢というかプランは、とある年齢くらいで
音楽活動とか区切りをつけて、
ちょうど居心地のよい場所で、
残りの余生を、日本食の仕事でもしながら。
子育てをするにせよしないにせよ。

しかしどうしたものか
こうして世界は滅んでしまった。
滅んでしまったら、もうしかたがない。

I don’t know. Probably I’m needed more here.

今、思うのは、
たとえば、第二次世界大戦の後、
この国は、見事に復興したわけだ。
もし異国との戦争に敗れ、
異国に占領され、蹂躙されたら、
どうなるのか
そう恐怖する気持ちもわからないではないが、
それは、もうすでに起こったことなのだ。

そしてこの国は復興した。
いったいぜんたい、どうやってそんなことをしたのか。
How did they do that?
悲劇的に最大限に滅び破れたところから
どうやって、そんなことが可能だったのか。
それは、まさにこの国に生きた先人たちに対し、
驚嘆し、尊敬し、学ぶべきことに違いない。

でも今
同じようにやけのはらに立たされ
なんとなく思うのだけれど
それは決して
根性や忠誠や規律や統制によって
なされたものではないのではないか
むしろその逆
そこからの解放ではなかったか

この度「世界が滅び」
いろんなものが滅亡してしまった今この時。

僕らは
霊的にこの国を建て直さなければいけない。

霊的に、っていうのは、
毎度おなじみクリスチャン的言葉の言い回しだけれど、
精神的、タマシイ的、スピリット的、精神基盤的、ってことよ。
根本のところで、ってことだけど。

嘘の上になりたっていた
真実でないものの上になりたっていた
ここまでの国と社会のがれきの下で
本当のものを築いていかなくてはならない

立て直したところで、
現実に未来があるかどうかは怪しいところだが、
少なくとも、「霊的」にはなんかあるはずだ。

ぼくらは、
彼らは、
彼女らは、
このTokyo Cityの底辺で、
それをやっている。

日本のシーンは
これから面白いことになるかもしれない。
それはきっと「システム」や「カタチ」には
決してあらわれない、のらない、
ものかもしれない。

けれど、
そのほうがいい。

それらは
もうみんな
滅亡してしまったのだ

すべてのものは滅び
あらゆるものは去り
そして残るのは

愛だけ

だと、そう聖書には書いてある

愛と
希望と
信仰だっけ

それだけ残れば十分じゃないか

No(4159)

■…2014年 7月21日 (Tue)…….隣人 back in Roppongi
土曜日のイベントで
「熱きリョウとジーザスモード」として
僕らは演奏したが、
うちの嫁さんにとって面白い再会があったらしい
それは、出ていたバンドさん、みんな素晴らしく凄いバンドばかりだったけれど
その中の一人、女性の方だったが、が、
うちの嫁さんの、前の職場で、同僚であったらしい。
というよりも、その方が入社した際に、うちの嫁さんが研修を担当したとか、そういう話らしい。
その二人が、こうして偶然にも対バン。
相手の方が、そのことに気付き、
うちの嫁さんはびっくりして、
その節はお世話になりました、的なあいさつを、互いに、していたと思うが、
これは、とても素敵な話だ。
このTokyo Cityで。
バンドマンが、生きていくのは、経済的にやっていくのは、
大変なことだ。
うちの嫁さんは、僕のやっていることに少しずつ首をつっこんだ結果、
いまでは僕以上のヘヴィメタル愛好家となり、
こうしてときどき、バンドで演奏したりもしているが、決してバンドマンというような人ではないけれど。
けれども、
こうして、ヘヴィメタルを愛するもの同士、
昼間、Roppongi OLとして生き延びていくために、
しらない間に
助け合っていたとすれば、
こんなにすばらしいことはない。
これが、僕らの目指す、なんか、”Revolutionみたいなもの”、なのだろうと、
きっと思う。

No(4160)

■…2014年 7月23日 (Thu)…….明日はドラム
さて、自分もちょっとライヴが続いてますが、明日、木曜日は町田Nutty’sにて、「ソルフェイ」でドラムを叩きます! 僕はソルフェイでは分業ベーシストですが、今回は急遽ドラム! レギュラーグリップに持ち替えた僕のドラミングが炸裂(笑)!! ちなみに僕のドラム歴はといえば、高校の頃にオープンハンドで遊び程度で叩いてみたところからはじまり、今から10年くらい前に、当時のバンドメンバー所有のエレドラで練習し、そうね今から9年前、友人のバンドのサポートドラマーを数ヶ月にわたって務めたことがあった。それから、メンバー不在時の一人レコーディングでドラムを叩いた。それ以降は、セッションや、ワーシップでときどき叩き、またヤオ牧師のレゲエバンドでも何度か叩き、今月!またひさしぶりに!そしたら突然なぜだかレギュラーグリップで持ちたい気分になった! これからもっとドラムも叩きたいな! そんな自分の、9年前の、ドラム叩いたトラックのひとつが、これさ! とにもかくにも明日木曜は町田Nutty’sでソルフェイ!
こちら

No(4171)

■…2014年 7月24日 (Fri)…….ジーザスモード御礼
さて、ぼちぼちマイペースでしか演奏活動とかライヴ活動していない自分、自分らとしては、珍しく、いくつか重なりまして、というか、
まあ19日に”Atsuki Ryo with Jesus Mode”のライヴを町田Nutty’sでやりまして、
21日にImari Tonesのライヴを大久保水族館でやったわけなんですが、
で、24日にはソルフェイでドラムなんですが。

まずは19日のジーザスモードですね。
ジーザスモードとしては、今年2014年のライヴとしては、実に1月に福生でやって以来だったんですが、
だいたいジーザスモードは、休憩の時期とエンジンかかる時期とあるので、毎年こんなものといえばこんなものです。
バンドの自分たちの中ではそんなにブランク感はないんですが、
今回はドラマーのYan氏が都合つかなかったため、
昨年秋の秋葉原のライヴに続き、Imari Tonesのジェイクが代役ドラムを務めるという形でライヴを行いました。

ジェイクは、Yanくんにくらべると、やはり技術は上だし、リズムも安定するので、Yanくんバージョンにくらべると、かちっとしたジーザスモードになります。
反面、Yanくんのときの、パワー感であるとか、なんかプロレスっぽいどたばたしたヘヴィメタル感というのは半減します。なんだかんだでやはりメンバーの化学反応とかオリジナルメンバーということもあり、ジーザスモードはYanくんだよねとは思いますが、それでもジェイクバージョンのかっちりした演奏も、またこれはこれで魅力かなと思います。

ジーザスモードは、今年は、ようやく、というか、
2枚目のEPの、レコーディングをしなきゃいけなくて、
それに、取り掛かってはいるんですが、
まだなかなか進んでいない状況。
そのEPが完成したら、次に進んで、新しい曲をどんどんやりたいんですが、
レコーディングをまず完成させないことには、次に進めない。
ということで、新曲の代わりってわけじゃないですが、
今回、なんだか思い立ち、またもSTRYPERのカバー。
それも、おなじみのクラシックではなく、
最新アルバム”No More Hell To Pay”から、意外な選曲の”Renewed”。
これ、僕は個人的にはStryperの新作、辛口の評価をしてるんですが、
その中でも、かなり気に入ったうちの曲のひとつ。
リフや構成が、わりと僕の好みに合うので、結果的に、ジーザスモードのサウンドにも、ぴたりと合ったようで、とても自然に自分たちのものにできた気がします。
ということで、速攻でYouTubeにアップ。カバー曲の方が、YouTubeでもアクセス集まるもんねー。

今回は僕はJackson Randy Rhoads、いわゆるランディVを使いまして。
これは、対バンにメタル系のバンドが多いということで、みんな尖ったギターを持ってそうだったので、そこに負けないように、ということで。
まあ実際に、どのバンドも最低一人はJackson持ってるくらいの感じでしたが。
なにがっていうと、Jacksonのギターや、ランディVは、使ってる人たくさんいますが、案外、白いのを使ってる人はあまりいないので、そこで差をつけて目立とうという魂胆でありました。

僕は今までジーザスモードでは、イエロークラックルの昔の日本製シャーベルDinkyか、手軽で愛用していたEpiphoneのレスポールスタジオのどちらかをライヴでは使用していたんですが、昨年、どちらも手放してしまったので(汗)
なので、ランディVも、ジーザスモードでは初使用となりました。

ランディV、今年に入ってから、Imari Tonesのライヴでも、けっこうたくさん使ってます。今年は出番が多いですね。
これは、なぜかっていうと、5、6年くらい前に入手してから、時折使ってはいたんですが、昨年、EVH D-Tunaをつけたんですね。ここ最近、Imari TonesでドロップDの曲をけっこうやるので。で、それとセットで、アーミングアジャスターをつけて、フロイドローズを固定したんですが、そうしたら、すごく使いやすいギターになったんですね。音もなんだか、よりかちっとまとまって。
スルーネックっていうこともあり、特にライヴでは威力を発揮。使いやすいんですよね、アンサンブルの中で抜けてくれるし。
というわけで、そんないよいよ手になじんできた1990年製ランディVで挑みましたジーザスモードat町田Nutty’s。

で、そしたら、なぜだか本番はギターの調子がすこぶる悪かったんですね。
演奏の方がね。手がすべるは、指は思い通りに動かないわ、うわー、これは最低だー、って思いながら演奏してた。
またジェイクが、テンポ速めでさくさくいっちゃうもんだから、気が付いたらもう3曲終わってて。
で、後半なんとかギタープレイも持ち直して冷静になってきたので、なんとか取り返して。

そんな感じで、ギタープレイに関しては、ここ最近というか近年のライヴの中でも最低だったなーと思っていたんですが、それでも後からビデオを見てみると、そんなに悪くないですね。
間違えた、と思ったところも、ビデオ見ると、傍目には間違いとわからないくらいの程度だし、ライヴ終わった後も、皆さんにギター良いねとほめていただきましたので(笑)、
まあ、「最低だ」と自分で思っていて、それでも結果的に後から振り返るとわりと良いライヴができているというのは、ちょっと辛いけど、良い傾向ではないかと思います。自分との向き合い方として。

演奏やハード面のトピックとしては、今回、ベースを担当するうちの嫁さんが、Bacchusのベースを導入したということがありました。
昨年以来、僕はBacchus (Deviser)さんのファンなので、結果的に嫁さんもBacchusのベースを使い始めました。フィリピン製の安いベースですが。
今まで使っていたIbanezのとっても安いベース、これは初心者用のものでしたが、3万円しないのに、かなり使える音がして、恐るべしIbanezというか、最近の廉価版の楽器のクオリティの高さは恐るべきものです。で、嫁さんが今年導入したBacchusのベース、これも実際、値段的にはそれほど変わらない、価格帯でいえば明らかに初心者用の域を出ないものです。けれどもBacchusは国産のみならずフィリピン製のものもクオリティがすこぶる良いのは試したことのある人ならご存知のことで、これも初心者用を装いながら、かなりポテンシャルの高い楽器です。音作りの幅も広いですが、なによりうちの嫁さんと相性がいい。うちの嫁さんの、あまりしっかりしていないピッキングでも、ばっちり拾って使える音を出してくれる。そして、タイトな低域のみならず、ミッドレンジまできれいな音で鳴ってくれるため、バンドサウンド全体として、よりかっちりと、隙のないまとまりのある音になりました。今回、ドラムはジェイク、ギターは僕なので、楽器陣の2/3はイマリトーンズなわけですが、それでもちゃんとジーザスモードの音になるのは、サウンドの周波数帯域の中における、うちの嫁さんの守備範囲が広まったことが大きいように思います。

ジーザスモードも3年近くやってきたと思うんですが、なんだかんだ、いろんな意味で、これは誰のバンドなのかと考えると、ジーザスモードは、うちの嫁さんのバンドなのかな、と思うことが多いです。で、今回、サウンドの主導権もなにげに嫁さんが取るようになってきた、という感じですね。まだまだ初心者ベーシストですが、バンドマンとしての成長がたのもしい限りですね。

そしてイベント全体としては、
やはりJUNK GRB氏のイベントということで、
彼とはロックショップGamma Ray Burstを通じ、もう数年前からお世話になっていますが、
素晴らしいバンドを集めるその眼力というか、人脈というか、
本当にすごいなあと思います。

最近、日本のライヴハウスというのか、ライヴハウスシーン、インディーズシーンも、コアでロックソリッドな、良いイベント、良い動きが多いなあと思わされます。
そんな中で、僕はメインでやっているImari Tonesはなかなかとっつきにくい、からみづらいバンドではありますが、そのぶん「ジーザスモード」で、こうしてメタルシーンの人たちと絡むことができるのは、とても嬉しい機会として感謝しています!

ぜひまた。

No(4177)

■…2014年 7月24日 (Fri)…….イマリトーンズ、世界滅亡モード発動
そして21日はイマリトーンズで大久保水族館だったわけです。
Imari Tones、今年はわりとライヴ少なめですが、
今年前半は2月からちょっとずつ、レコーディング、録音制作にちまちまと取り組んでいたこともあり。
で、その録音制作も、6月でひとまず!完了。
まだミックスにちょちょいと手直しは、これからするとは思いますが、ひとまず、完成しましたので!

そして今年やったライヴも、ハードロックカフェのコンテストとか、ソルフェイさん企画のときも、わりと「よそ行き」のライヴをやってしまったこともあり。

リラックスして演奏できるライヴバー。
そして、共演も、いつもお世話になっているB.D.Badge寿朗閣下、そして儀太郎さんということで。

レコーディングも完了した新作(とはいっても発表は平気で1年後とか、2年後になる可能性大)から、遠慮なく、好き放題とばしまくりの演奏を。
してきました。

Imari Tonesも昨年日本で行ったThe Extreme Tourとか、
地味に広げているインターネット戦略とか、
Imari Tonesをめぐる状況も少しずつ良くなってはいますが、
「ジーザスモード」や、「ソルフェイ」、さらには「一人アコースティック」、水面下で絶賛進行中の「おしゃれ系アコースティックユニット」など、
いろいろやって、そっちのほうがうけちゃうことも多々。

しょせん、イマリトーンズは海外向けの内容というかパフォーマンスをするバンド、であり、とっつきにくい、「クリスチャン」の、ちょっと音楽性もわかりにくいバンド。

ではありますが、こういう狭いライヴバーみたいな場所で、あんがいいちばんしっくりくるバンドでもあります(笑)

で、二日前におこなったジーザスモードのライヴよりも、良い演奏をしないとね、とは思ってはいたんですが。
持っていったギターは、Bacchus「猫ポール」。
最近のイマリトーンズのリハで、ずっと使っていたんで、持ち替えるのも面倒と思い、なんとなく。

昨年のツアー直後に入手して以来、もったいぶってずっと使わず、ジーザスモードのライヴで2度ほど使用したものの、秘密兵器状態で隠匿し(笑)、けれども曲作りやデモ制作などではばっちり活躍してもらっておりました。
で、Imari Tonesの新作のレコーディングで満を持して使用、期待以上の実力と結果をばりばりと発揮してもらったところで、ようやくこの小さなバーライヴにて、Imari Tonesのライヴ初使用、初披露となりました。

そして大久保水族館はひさしぶりでした。
いつ以来だったのかな。
2年くらいだったのか。
でも、そんなにひさしぶりという感じはしませんでしたね。
寿朗閣下いわく、最初にこの大久保水族館を紹介してくれたのは僕だった、とのことなんですが、すでに覚えておらず(笑)
そうでしたっけ、って(笑)

で、演奏ですね。
勢い良く最初の何曲かを演奏したところまではよかったんですが。
次第にいろんなところが気になり始め、
自分のテンションはがたおち、「ああ、自分は最低だな」と思いながら演奏しておりました。

ひとつ学んだのは、良い楽器を使う意味というのは、お客さんのためでもありますが、ひとつには、自分の、演奏者のテンションを維持するため、つまり、気持ちいい最高の音で鳴っていれば、たとえいろいろミスや逆境があったとしても、演奏者の気持ちを維持出来ますから。。。

この日も、自分の演奏のだめさ具合に、心が折れそうになりながらも、愛器「猫ポール」のサウンドに助けられ、なんとか最後まであきらめずに最低限のテンションを維持して演奏をやりとげることができました。

で、ぼろぼろになってステージ終えてみると、
なんだか、とても気持ちのよい声援と拍手。
あれ、と、思い。

で、偉大な先輩方である、儀太郎さん、B.D.Badgeさん(寿朗閣下)の演奏を聴きながら、本当に学ぶべきところがとても多いんですが、
とても価値ある夜となり、

帰ってビデオと録音をチェックしてみると。

思いのほか良い演奏をしておりました。

まずはやはり「猫ポール」が炸裂しておりました。
まず「良い音響」なんてものは望むべくもない大久保水族館という環境において、レコーダーに残ったのは、「ぜんぜん使える良い音」。
これは今までの経験からして、ちょっとありえない。

Blackstarのペダルを通してジャズコで鳴らしただけなんですが。。。
最近、いつもライヴでBlackstarのペダルを使ってしまうのは、アンプを選ばない、会場にどんなアンプがあっても大丈夫だから、というのと、100点の音は決して出ないけど、90点の音は確実に出てくれるから、という理由。
二日前のジーザスモードのライヴでもBlackstarを使用し、これは、町田Nutty’sのアンプはJCM900ですが、900ってけっこう気難しいので、ブースターでぶちこんでアンプで歪ませても、いいんですが、結局Blackstarを使う方が、聴きやすい音になる、なので、ついついBlackstarでいいや、となってしまう。
これは、便利な反面、よくないといえば、よくないですが、

でも、このBlackstarに、「猫ポール」を突っ込むと、本来90点の音しか出ないはずのところ、110点くらいの音が出てしまう。
由々しき事態です(笑)
けれども、こういうバーライヴでも、その110点の音が鳴らせるとしたら、それはかなり良いことだということです。

そして、リラックスしてウォームアップしっかりできたせいか、ヴォーカルも悪くない。
いや、もちろん下手なのは変わらないんですが(汗)、
ましなほうだったということで。
Imari Tonesとして前回のライヴだった4月の町田では、精神的なこともあり、ヴォーカルはかなり不本意だったので、そのリベンジができたということで。
もとより大久保水族館の、あまり整っているとは言い難いモニター環境で、これだけ歌えれば、上出来です。
とはいえ、アメリカ遠征なども含め、僕らも、モニターの無い環境での演奏は何度も経験しているので、それは、今更とっくに大丈夫ではあるのですが。

そして、ビデオを確認して、ひとつ驚いたのが、
猫ポール、つまり、まあレスポールなんですが、見た目ですか、
僕は、ずっとレスポールは自分には似合わないと思っていたんですが、
それでもまあ、ジーザスモードで、ギター専任のときは、まだハードロック的な構え方が出来ますが、Imari Tonesでヴォーカルも担当するとなると、ルックス的にレスポールは似合わない・・・そう思っていたんですが。
ビデオの映像を見て、その考えを改めました。

「ロックのスタンダード」だからなのか
あるいは「これしかない」という運命の楽器だからなのか
理由はよくわかんないんですが、
妙にセクシーな感じなんですね。

セクシーというのか、
なんというか、
ダメ人間ぷりが、よく出ている(笑)

で、考えてみるに、これ、僕、
やりながら
「うわ、自分は最低だなあ」
と思いながら演奏してるわけですね。

なんか、それがわりと、良い状態なのかなと。
最低と思いつつも、妙に覚めた状態で、
あきらめきって演奏することで、
ちょっと独特のゾーンにたどり着くことができるようで。

あのですね、これは
最近、自分が、「世界はすでに滅亡しました宣言」
をしたのがたぶん影響してるんですね。
それ以来、自分のテンションが、ちょっとおかしなことに
なっているので。

「世界すでに滅亡しました宣言」
をしたということは、
ひとつには、自分は、人生の目的に挫折し、
神さんに与えられた課題に失敗し、
すべてを投げ出してるってことでもあるんですが、
そうやって、やっと、ナチュラルな状態で
演奏できる状態になってるのかもしれません。
つらいですが(笑)

思うに、僕はずっとパンクは好きでした。
ジャンルとしてのパンクじゃなくて、
存在としてのパンクが。

でも、パンクは「弱き者」にしか鳴らすことができないもの。
僕は不幸にしてパンクを鳴らすには「強すぎた」。
いつでもそうでした。
ポジティヴすぎるっていうのかな。
でも、今ようやく、ここまでやってきて
自分の身の丈に、「もう無理」
というくらいの現実に直面し。

「希望にあふれた状態」
というよりは
「絶望にうちひしがれた状態」
になり。

やっとこれから自分は、「弱き者」になることが
できるのかもしれない。

良いんだか悪いんだか
わかりませんが、
自分の中で、新しい発見が、
これは案外、重要なことかもしれない。

案外と、
自分の中で転機となる
重要なライヴだったかもしれません。

映像はそのうちちょっとずつアップします。
「新作」の曲をいっぱいやったから、
このライヴ映像のクリップだけで、
「新作」のプリビュー映像として使えてしまうくらいの感じ。

さて、おそらく「猫ポール」でイマリトーンズ、であれば、
この「世界滅亡モード」になれると思うんですが、
他のギターでは、どうだろう。
Hamer Korinaなら、いけるかな。
他のギターでは、たぶん、自分ががんばらなくてはいけない。
それでは、ダメ人間ぷりは発揮できない。
でも、「猫ポール」や「Hamer Korina」であれば、
自分ががんばらなくても、楽器の方でがんばってくれるだろうから。
そしたら、ダメ人間ぶりを、存分に発揮できる。

No(4178)

■…2014年 7月25日 (Sat)…….こわれた世界と若いバンド
そして24日にはソルフェイでドラムを叩いてきました。
これは、ソルフェイのドラマーのHill-Oak氏が都合がつかなくなったため、
急遽、僕がドラマーとしてステージに上がることになったという経緯です。
僕はソルフェイでは分業ベーシストのため、ベースはYuta氏が弾き、僕はドラムに回ったという、野球チームのような選手起用法ですね。

ドラムを叩くこと自体、わりと久しぶりだったんですが、しかも遊びでちょこっと、というのでなく、バンドでロックを叩くとか、非常にひさしぶりだったので、しかも初回の練習時に、練習場所(町田の某教会)にあるのがエレドラだったため、叩く加減がわからずついつい力んでしまい、足も動かず、まあいろいろとなまっておりました。
で、こりゃ力み過ぎだなあと思ったところ、ふと、なんとなく左手を「レギュラーグリップ」で持つイメージがうかび、やってみたところ、なぜだかしっくりきて、この歳にしていきなり「レギュラーグリップで叩く気取ったドラマー」に転向しました(笑)
今までドラムは遊び程度で、まあこれからも遊び程度には違いないんですが、練習しようとか技術を身につけようという気はさらさらありませんでしたが、レギュラーグリップに変えたとたん、なんか伸びしろがあるような気がしてきて、いっちょまえのドラマーみたいに自分のひざでパラディドルやってみたり、まあなんでも形から入るというのか、こういう気分が大事だと思う次第であります。

で、本番は、まあにわかドラマーですし、ミスや怪しいところも多々あったわけですが、ノリ重視、勢い重視で、セオリー無視のドラミングではあったかもしれませんが、ロックバンドのパフォーマンスとしては正しい方向のドラミングができたのではないかと思います。
バスドラをテクノとかハウスみたいに4つ打ちで踏むのが大好きなので、後半、気を抜くとついつい全部4つ打ちで踏んでいたり、まあ踊れるリズムといえば聞こえはいいですが、きっと普通のドラマーから見たらセオリーがん無視ですね。

そしてこれは馬鹿なことですが、
また似合いもしない「エイヴィエイター」タイプのサングラスをかぶり、また帽子を目深にかぶり、そして葉巻をくわえて登場しました。これは、なんというか、ソルフェイでステージに上がるときにはキャラを変えたいという意図なんですが、見た目というかキャラの方向性が定まっていないのは否めないところです(汗)

そしてこれは、いっぺん、葉巻をくわえたままでドラム叩いてみたかったんですね。で、貴重な機会なので、せっかくなのでやってみました。男のくだらない夢がひとつかなったということで(汗)
で、葉巻をくわえて、しれっと叩きつつも、曲のサビになってコーラスを歌う段になったら、葉巻をぺっと吐き捨てて、歌い出すという、これもやりたかったんですね。吐き捨てた葉巻は、次の曲でまた拾ってくわえるんで、ちょっと衛生的に問題がありましたが(笑)

ちなみに曲のサビっていうのは、英語でいうと「コーラス」で、日本語でいうところの「コーラス」はたぶん「バックグラウンドヴォーカル」なので、サビのコーラスっていうと、腹痛が痛い状態になりますね。

先週末からのライヴ3連戦で、
リードギター、ギター&リードヴォーカル、そしてドラマーと、3種類のステージをやったわけですが、

最近自分がやっと気付いたところの「世界すでに滅亡しました宣言」、
そして月曜の新大久保でのImari Tonesのライヴでの脱力具合による新境地の発見というのかなんだか開眼してしまったこと。
それによって、この日のステージも、よい具合に脱力してのぞむことができたと思っています。

もういい歳ですし、それもあるんですが、無理せずに、というか、ダメ人間っぷりを全面に出すステージングをこころがけました。まあそんなもの、こころがけるものでは、はなから、ありませんが。

葉巻くわえたスタイルや、やりたい放題のたたきっぷりも、そんな感じのところですね。

この日は、ソルフェイ主催「Song of Rocks」というイベントだったわけですが、主催のソルフェイ、オオハラ氏の眼力と人脈により、いきのいい若いバンドが集まっていました。

僕は、体調もあまりよくなかったので(最近、ソルフェイの皆さんはみんな夏風邪にやられています。順番からいうと次は僕です。)、無理せずにリハーサルだけ見て、本番はソルフェイの前サポートベーシスとであるKato氏の「教育番組」だけ見たのですが、
皆さんレベルの高い良いバンドばかりでした。

ここ1、2年、いまさらいい歳してフリーターやって、バイトなどで若い人たちに混じって働くこともそうなんですが、
まあ、バンドでは、今ではバンドも年齢の高い人たちいっぱいいますし、ライヴハウスでもそうだし、ライヴバーみたいな場所でやる親父バンドはもっとそうですが、
それでもこういう若いバンドが出るイベントで、自分よりも若い人たちに混じって演奏できるというのは、とても良い機会というのか、正直光栄です。

もうここ10年くらいは、日本のバンドシーンというのか、オルタナティヴシーンというのか、インディーズシーンというのか、構造的に世界に置いていかれている面が多いので、あまり期待はしていないのですが、
それでも、そろそろ、未来に向けて、新しい流れが少しずつ生まれてきている頃かもしれないと感じます。

正直、若い世代の人たちと接しても、新しい音楽というのか、むしろ、内外の新しいバンドとか、彼らよりも自分の方がチェックしていたりしますし、古いクラシックロックは、何年たってもいまだに定番のクラシックなわけです。
そう思うと、いまさらこの「すべて終了済み」の時代に、世代とかあまり関係ないというか、先端の音を鳴らそうと思うときに、若い感性や時代の共感ということはあるにせよ、タイムレスにいちばん遠くへ行ける音を鳴らしたいときには、むしろ僕らの世代であるとか、もうひとまわりふたまわり上の世代の方が、有利なことも多々あると思わされます。
しかしそのあたりは、それぞれがなにをどう吸収し理解するかというだけなので、最終的には関係がないでしょうね。

正直、今の若い人たちのバンドにしても、2000年代の流れの中から説明できることがほとんどですし、というよりも実際はそこにすら至ってない場合が多いですし、時代のリサイクルや、世代や立場の共感ということ以外では、果たしてこれからどれくらい本当に新しいものが生まれてくるか。

自分も今年あたりから、そろそろ新しい音楽をチェックするとかもうやめにして、残された時間は、自分のアーカイヴの中で本当に好きなものや、古典を聴くことを中心にしていこうと思いますが、

もし若いソングライターに言えることがあるとすれば、
それは自分の人生を愛し、良い恋愛をして、自分の人生のストーリーをきちんと作り上げなさいということでしょう。
それはどんなアーティストであれ自分の本当の作品は自分自身の人生だし、音楽であれ芸術であれその中心にいるのは人間だからだよね。いちばん大事なのは人間と、生きているということなのだから。

しかしソルフェイの前サポートベーシストであるKato氏の「教育番組」は良かったですね。
ここ最近で見た若いバンドの中ではだんとつだったと思います。
僕はソルフェイでベースを弾くときに、彼がライヴで弾いたベースを聴いてコピーしたんですが、それを聴いただけで、この子は才能あるなあとわかるくらいの能力の持ちでした。
彼の音楽活動の今後というか、先が楽しみというか、楽しみに拝見させていただきたいと思います。

さてここ最近、僕はいろいろバンドやサイドプロジェクトやる中で、「ソルフェイ」のメンバーとしても活動しているわけですが、
僕は「ソルフェイ」が、「ちょっといいな」とか、「ちょっと楽しそう」と思ったから参加しているわけではありません。
僕は、ソルフェイに関しては「かなり良い」「相当良い」と思い、オオハラ氏の活動に対して、かなりすごいなと思っているから参加しているわけです。

今、この日本の地、東京の地において(みんな忘れがちですが町田は東京です)、
「ゴスペルロック」「クリスチャンロック」であるソルフェイが、
これだけの熱い活動をしているということ、
そしてクリスチャンロックうんぬん抜きにしても、
けっこう熱い、このオオハラ氏の活動というか、彼の戦いに、
そしてまたいろんなバンドたち皆で作り出す、日本のバンドシーンのムーヴメントに、
自分もその中に少しでも加わり、力を貸したい、
まあようするに面白そうな音が鳴っているところに自分も居たいということですね。

世界の状況も大変ですが、
日本の状況もいろいろ大変です。
なにしろ僕たちが生きているのは既に「滅亡済み」のこわれた世界です。

そんな中で、少しでも希望を作り出す手伝いがしたい。
ひとつひとつの演奏、ひとつひとつの出会いとふれあい、
鳴らすいっこいっこの音、音符、
を、大事にしつつ、

その中に生きていられることを、
本当にかけがえのないことと思います。

No(4184)

■…2014年 7月30日 (Thu)…….阿漕の勝ち
ここのところ前よりも弾いているアコースティックギターだが、
フィンガーピッキングのフォームが少しずつ矯正され、
しっかりしたピッキングというのか、少しは大きな音が出せるようになって、
それにともない、少しはアコギの良さというものがわかってきた。

自分は昨年以来、Deviser社(Bacchus、Momose、Headway)の大ファンであるので、
アコギもHeadwayだよねという感じになりつつある。

手持ちの12年使っているカナダSeagull(4万円)のすごさもあらためて実感しているが、何度か試してみるうちに、Headwayの良さも少しずつわかってきた。

比較対象として店頭で試してみるのがいつもMartinになってしまうので、しかも大抵、「比較できる定番を」と店員さんに言うと、ほぼ間違いなくMartinのD-28っていうのが出てくる。けれど、いくつかのお店で試したところ、状態が違うのか、同じD-28でも結構感覚が違ったりする。ネックなのか何なのか。

Headwayの良さは間違いなく日本人らしい繊細さときれいさだと思うけれど、
これはBacchusの楽器にも言える、なんかよくわからんが共通した清潔感というのか、スピリット的な意味のきれいさ。

こうやってWEB上に文章を書いていると、Deviser社の人や関係者の目にも触れないとも限らないから書いておくけれど、
以前書いたときに、百瀬さん本人モデルとお弟子さんのATBモデルの間に確かに明確な差があったと書いたけれど、
試してみたATBモデルの中に、百瀬さん本人モデルに劣らないというのか、同じ感動を覚えたモデルがあった。それはなんかドラゴンの紋様の入った35周年モデルであった。
しかもこのモデルがまた、2012年に製作されて、店頭に売れ残っているぶんが、例のごとくバーゲン価格で投げ売りされている。(2014年7月現在)
Deviserさんの楽器にはよく見かけることで、素晴らしい楽器なのに世の中の都合や事情でやたらと安くバーゲンされているのだ。
ギャグというかとてもシュールだが、買い手、使い手である貧乏ミュージシャンにとってはものすごくありがたいことでもある。

手の届く環境にいる人は、たぶん市場に残っているうちに入手した方がいい。
ただ、「猫ポール」のときもそうだったけれど、MartinやGibsonのようにブランド力があるわけではないこれらの楽器の、良さがわかるプレイヤーも限られているのだろうから。

百瀬さん本人モデルに劣らない感動を覚えたお弟子さんATBモデルに出会ったことは、とても良いことで、なぜなら、すでに伝説の職人として評価の高い百瀬さんだけではなく、その技術を引き継いで、そして越えていく若い世代の人たちが居るべきだと思うし、また居てほしいと思うからだ。だから僕はどちらかというと百瀬さん本人の究極のモデルよりは、お弟子さんが作ったそれに匹敵する究極のモデルを見てみたいと思う。

百瀬さん本人モデルも、僕も店頭で一本だけ(D-28タイプって言われた)試しただけだから、なんとも言えないが、僕が、百瀬さん本人モデルよりも良くないと思ったお弟子さんATBモデルは、「アディロンダックスプルース」のモデルであった。

アディロンダックスプルース、というのは、なんだか貴重な木材らしく、アコースティックギターの世界では珍重されているようだ。
ウェブサイトの説明にも書いてあったが、店員さんが「このギターはアディロンダックスプルースを使っていて、トルクフルな音がするんですよ」と言っていて、トルクフルってなんやねん、と思った記憶がある。その場では華麗にスルーしたけれど。英単語調べても出てこない。検索するとどちらかというと「釣り」の道具のページがひっかかるような。

そんな貴重とされ、良いものとされているらしいアディロンダックスプルースであるが、まあこれは、どんな音が欲しいのか、というその一点に尽きるけれども、
インターネットやYouTubeで聴けるアディロンダックスプルースの貴重なヴィンテージギターなどを見てみると、どうやら、アメリカンなからっとした音なのではないだろうか。
「アパラチア山脈ロッキー山脈カウボーイネイティヴアメリカンカントリーひゃっほー」なサウンドが出したいのであれば、それしかないのかもしれないが、

信州とか長野安曇野松本(よくしらん)な感じの、
日本的な軽井沢の山小屋な繊細な音には、ひょっとして「シトカスプルース」の方が適しているのではないか。
現に僕が、百瀬さん本人モデルと同じくらい良い、と思った35周年モデルは「シトカスプルース」であった。

レスポールでもそうだけれど、「ホンジュラスマホガニー」略して「ホンマホ」(本マグロみたい)が良いとか、ホンマホでなければだめだ、みたいのは、あまり信用できないのではないか。
もちろん出したい音の方向性によるのだろうけれど、現に僕の「猫ポール」(Bacchus BLP-STD-FM)もホンマホではない。アフリカンマホガニーだ。だが、僕にはどう考えても最高の楽器としか言いようがない。

しかし以前にも書いたとおり僕はアコースティックギターという楽器そのものをあまり信用していない。
エレクトリックのようなダイレクトで繊細な表現ができないぶん、特定の用途のために作られた「ポータブルサウンドシステム」のような捉え方をしている。
そしてその価値、価格の中に、「楽器としての本質」の部分を見るかあるいは「サウンドシステムとしての機能」の部分を見るか。これは、個々のプレイヤーが感じ取り、判断するしかないだろう。

だからとても価格の高い高級なアコースティックギターであっても、「それ楽器の本質としての値段じゃないよね」と思ったりしてしまい、じゃあ単なるポータブルサウンドシステムに何百万も払うかと言われたら、うーん、となってしまう。僕の場合。

だから僕はアコースティックギターというもの自体、あまり信用していないが、でもよく考えると、エレクトリックギターだって僕はあんまり信用していない。
エレクトリックギターだって、「うーん」というもの、「うーん」という部分がたくさんあるからだ。そしてどちらかというと、「うーん」というものの方が多い。というか、大多数はそうだ。

そう思うと、やはり自分に合ったものをどう探すかというその一点に尽きる。

アコースティックギターというものをめぐる、矛盾と嘘(とあえて言ってみる)に満ちた状況についてこうして考えてみるが、

それでもやはりHeadwayさんの作るアコギは「楽器」の部分が多い気がする。
楽器なのか、単なるポータブルサウンドシステムなのか、その違いは、なんだろうね、ディテールか、技術か、心か、気のせいか、その答えは、それぞれに。

でもとにかくも僕にとってアコースティックギターはそういうものだったし、
現実には世の中の多くのプレイヤーにとってもそういうものだろう。
使われ方、使い方として、しょせんアコースティックギターなんてものは、
特定の用途の中で特定の使い方をするために必要なだけ、の「デバイス」かもしれない。
現代のミュージックシーンにおいては。
多くの場合は。

だから、ほとんどのバンドマンにとって、アコギなんて「5万円のエレアコ」で十分だったりもする。

そんな状況を、ディバイザー/ヘッドウェイさんの方でもわかっているのか、
今度、Headwayでスタンダードシリーズというのを出すらしい。
(正確には、復活? 前もあったのかな。)

これね。
こちら

クオリティを維持しつつもコストパフォーマンス重視のライン、ということらしいけれど、
なかなかいさぎよい。

デザインはもろにギブソン。
別にアコースティックギターなんてそんなにばりばり使わないぜ、という一般のバンドマンにも敷居が低そうな感じで。

いかにも、ピックでがんがん弾いて歌ってくれよ、と言わんばかりの。

しかもピエゾ&プリアンプ搭載。
すぐにステージで使える即戦力。
すばらしく実用的というか、現実的なアコギの使われ方を考えて、そこに向けて作っている感じですね。

値段的には、定価を見る限り、コストパフォーマンス重視といっても、「5万円のエレアコ」で十分なバンドマンたちには、まだまだ高い気がするが、そうはいっても、きっと店頭で投げ売りされた日には、実際もっと安くなってしまうだろうから、やはりかなり「市場で競争できる」モデルになるのかもしれない。

ちなみにHeadwayには、中国製の入門用も出るもあるらしく、ネットで見るとそちらも評判は良い。試したことはないですが。
Bacchusにはフィリピン製のシリーズがあって、国産のものとくらべ、安いモデルを作りつつも、クオリティはすばらしく高いことを僕も知ってるんですが、
Headwayのアコギには今のところこのフィリピン製モデルってないんですね。

理由は知らない。

でも、難しいんだろうね、アコースティックギターって。
製作もだけれど、商売の仕方が。
宝石とか美術品に近い部分あるよね。

さて、どこに価値を見出しましょうか。

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