感覚の向こう側、時を越える意識(前編)

さて新型コロナウイルスの影響による「自粛生活」も一ヶ月半となる。
いくつかの県では解除されたと聞いているが、僕らの住む神奈川県では現在のところそれはまだ継続している。

24時間、自宅で嫁さんと一緒に過ごし、それがなんというか24/7で続くというのは確かに振り返ってみても、わりかし仲の良い僕たち夫婦にしてみても、珍しい経験だったかもしれない。

 

今のところ、たぶんかなり順調に、うまいこと仲良く生活していると思う。

他人から見てどうかは知らないし、また僕はソーシャルメディアに記念日のたびに「Best wife ever」(そんな英語ないか、汗)とか書いて幸せをPRする方でもないが、
僕は間違いなくこの嫁さんに惚れており、付き合い出した10代の頃こそ「なんだこの女」と思っていたものの、年月を経るごとに素晴らしい女性であることが判明していき、今では本当に女神か天使なのではないかと思っているくらいである。

なので僕自身は完璧ではないにせよ、こんな人生、こんな境遇、こんな生活ではあっても、かなり幸せに暮らしているのであった。
そのへんについては、そのへんもこのへんもないのだが、感謝するしかない。
神さんとカミさんに感謝、というわけだ。

 

そんな嫁さんであるが、
この自粛期間を過ごすうちに、なぜだか突然「アニメが見たい」とか言い出した。

なんでもどこかで「聖闘士星矢」がYouTubeで配信しているという情報を見つけてきて、「見たい」とか言い出したのだ。

聖闘士星矢。懐かしい話である。

 

うちの嫁さんは某相模猫にハマっている「痛い女」であるが、いわゆる一般的な「オタク」や「アニメファン」のカテゴリに当てはまったことはない。

ただ、稀に、数年に一度くらい、こんな感じで何かのアニメなりドラマを視聴することがある。

もっとも最近の例では「シンカリオン」だろうか。
なぜかというと、うちの嫁さんは「鉄道ファン」なので、鉄道をテーマにしたアニメは見ないわけにはいかなかったらしい。

そんな嫁さんの隣で、結局僕も見てしまうので、「ああ、つまらないな、日本のアニメもすっかり駄目になったのだな」と思いながら、なんだかんだ視聴し、挙げ句には映画館にまで連れていかれることとなる。

 

そんな嫁さんが突如として、この在宅勤務の自粛期間でよほどストレスがあったのだろうか、「聖闘士星矢が見たい」と言い出したのである。

僕らの世代にとっては子供時代の懐かしい記憶のはるか彼方にある、この名作ヒットアニメであるが、

どうやら嫁さんは、子供時代に、ちょっと興味があったのだが、家庭環境のチャンネル権とか、習い事の時間帯等の理由で、あまり見れなかったものらしい。

 

ちょっと、ぎょっとしないこともなかった。
80年代のアニメにはnotoriousというか悪名高い、いわゆる「オタク文化」の先駆けとなるものがいくつかあるが、
聖闘士星矢と言えば、少年たちのみならず、女性ファンの心もがっちりと掴み、「痛い女性ファン」を多々生み出した、そういう代表的な作品のひとつである。

無料配信されていたのは、物語のクライマックスである「十二宮、ゴールドセイント編」であったが、
仮死状態で凍り付いた氷河を、瞬が抱き付いて温めるシーンなど、腐女子というのか、そういった女性ファンの皆さんに対するサービス以外のなにものでもない。
そういったシーンを見て、「なんてすげえサービスだ」と、80年代やべえ、と、当時の時代状況を鑑みつつも戦慄を覚えたのだった。

 

僕は子供時代、特に熱心なファンというわけではなかったが、人並みに見てはいたし、また、そういった子供時代を振り返れば、輝かしい「少年ジャンプ」の黄金時代に間に合った世代でもある。

だから子供時代は、「ドラゴン紫龍かっこいい」と思っていたのであるが、
こうして今、あらためて見てみると、当時のアニメのアナログな絵や音の質感に驚きつつも、感銘を受けたのはアンドロメダ瞬のデザイン性(ビジュアル、キャラクター共に)の秀逸さであった。

あとは、「小宇宙(コスモ)」ってやつが、作中ではだいたい「根性」と同じ扱いだったので、ああこれはやはり60年代とか70年代から続く日本の根性とかスポ根アニメの延長だったんだな、みたいな感慨を持った。
だいたい、そういう根性に基づく精神論とか雰囲気とかメロドラマとかご都合で乗り越えていく展開なので、今の時代の人が見ればやはり突っ込みどころは満載に違いない。

 

そして、いい時代だったのだな、と、80年代の豊かだった時代の日本のアニメのクオリティを感じて複雑な気持ちになると共に、
とはいえ、この機会に興味を持って70年代の名作と言われるものを「チラ見」してみると、さらにそれ以上に気合いの入った本気のクオリティに愕然とし、「ああ、昔の人は本気で生きていたのだ」と、それ以降、平成以降の日本人がちっとも本気で生きていない、本気で物事をやっていないのだ、ということを思い知らされるのであった。

(もちろん、良い面も悪い面も両方あるのだけれども)

 

 

で、それはそうとして、聖闘士星矢といえば、その物語の中で「セブンセンシズ」なるものが出て来る。

もちろん子供の頃には「セブンセンシズ、なんかわからんけどかっこいい〜!」と思っていたのであるが、

とりあえず普通に大人になってこの言葉を聞いてわかることは、これは英語でいうところのsenseの複数形である、ということだ、笑。だからなんだ、という感じだが。

つまりSeventh Sense (7番目の感覚)ではなくて、Seven Senses (7つの感覚)ということになる。

ただ英語で言っただけじゃん、というか、昔のアニメというか、今でもそうかもしれないが、どんな技であれ名称であれ、適当に英語で言っただけで必殺技の名前になる、ということはある。笑。

だが日本のポップカルチャーが世界に浸透した今となってはその逆に、海外の漫画等で、キャラクター等がかっこつけて日本語の名称になっていたり、おかしな日本語で必殺技の名前を付けていることも多々あるから、お互い様というかこれはしょうがないだろう。

 

で、たかだかアニメではあるのだが、日本の漫画とかアニメは世界観のふろしきをやたら広げるものであるから、だいたいどっかの神話や宗教の要素は入ってくる。聖闘士星矢なんかもその代表格のひとつであり、ギリシャ神話からキリスト教から北欧神話から仏教から、いろんなものがごちゃまぜになっているように思われる。

たかだか娯楽作品といってもそういったものは、馬鹿にできるようで馬鹿にできない部分もある。
物語、創作というのは、本気になればなるほど、やはりリアリティを含んでくるからだ。そこが作品のクオリティに直結する部分でもあるだろう。

たとえば海外のキリスト教徒の中にはジブリアニメの日本の神道のバックグラウンドに基づいた多神教、汎神論的なテーマに拒否反応を示す人も少なくないが、やはりその創作のクオリティは非常に高いのであって、要はその中に何を見出すかであろう。

 

 

で、このセブンセンシズという言葉を聞いた時に、僕はひとつ思い出すことがあった。
思い出す、というか、思い当たる、というか、知っていること、というべきか。

それは僕が自分の「スタンド能力」を自覚するようになった後のことだ。

過去の日記にも何度か書いていると思うが、僕がこれを「スタンド能力」と呼ぶのは、この人間の無意識の力、霊の領域の持つ力、などについて、「ジョジョ」における「スタンド」の概念を使って表現することが、便利であり、適切であり、またそれを自ら認識し管理運用する上でも都合がいいからだ。

これは漫画の偉大なところというか、ジョジョの作者さん荒木先生の才能というか恐るべき認識および表現の能力であると言える。(人間じゃないだろ、笑)

 

僕はあれ以来、自分の「スタンド能力」を認識するようになってから、それを積極的に使うこともないし、また意識して「練習」や「訓練」をすることもない。

理由はもちろん、人間として生活する中で、そんなもんいちいち使ったり練習してるのは現実的ではない、人間は普通はもっと現実的なことで手一杯だから、ということが大きな理由としてあるし、もっと普通に現実に取り組むべき仕事があるからであるが。

けれども本当のもっと大きな理由は、何かしらの理由でその能力を使う時、その規模の大小にもよるだろうけれども、大抵、ほとんど必ず、それを使った後には、かなりきつい「揺り戻し」というのか、「反作用」というのか、精神的なしっぺ返しがきて、とにかく、かなりつらくなってしまうからであった。

なんかしらんが、とんでもない自己否定やら、よくわからんものに苛まれるのである。
これは説明したくない。
でも、僕はこれを知ってから、カート・コバーンが自ら命を絶った理由がちょっとわかった気がしたものだ。

だから、なるべく極力、使いたくないのである。

なんにせよ、こういうのも、もっと高いレベルで運用している専門家が世の中にはいるはずなので、単なる無名の音楽家に過ぎない自分は、あまり深入りしない方がいいと思っている。

 

で、僕はその「スタンド能力」に自覚的になった後、この「セブンセンシズ」というものが、ちょっとわかるようになった。
わかるってわけじゃないが、ああ、こういうことかな、と想像は出来るのである。
手にとって感じられる、とは言うまい。それを言ってしまうと、たぶん危ない。

 

 

共感覚、というものがある。
あると思う。あるらしい。そういう言葉がある。

知っている人も多いと思うが、それはどういうものかというと、
音が色に見えたり、色が音に見えたり、匂いに色があったり、味に色があったり、そんなふうに、五感がつながっていたり、境目がなかったりすることを言うらしい。

世の中にはそういう人が、少なからずいるらしい。

で、僕自身にはそういった共感覚があるかと言われれば、それは知らん。
わからんので、たぶん無いと言っておこう。

けれども、たとえ無い、と言い切ったとしても、
やっぱり大なり小なり、みんなそれはあるのではないだろうか。

 

たとえば音楽の世界では、音を「色」を使って表現することはすごく一般的だ。

僕はEddie Van Halenの大ファンだが、彼は理想のギターサウンドのことを「ブラウンサウンド」と呼んでおり、その言葉は、今では一般的な用語となって、直接にVan Halenのファンでは無いギタリストたちの間でも、普通に使われる用語となっている。

音(聴覚)と視覚(ヴィジュアル)は、言うまでもなく密接につながっており、だからこそミュージシャンは衣装やビジュアルも大事になるし、たとえば映画館で映像とともに聞いた音楽が非常に心地よく聴こえるのは、それは視覚と聴覚がつながっていて補完し合っているからだ。ミュージックビデオというのもそれと同じことである。

サウンドを触覚として感じることもすごく一般的だと思う。
ざらざらした音、金属的な音、ハリのある音、つるつるした音、とか、そういう言い方はみんなするのではないだろうか。

 

だから、ちょっとでも真面目に音楽をやっている人であれば、共感覚とは言わないまでも、それに似た感覚は、大なり小なりみんな持っているはずである。

 

味覚で考えてみてもわかりやすい。
コーヒーはどうだろう。
ワインはどうだろう。
ウイスキーはどうだろう。
その味に、色を感じたことはないか。
あるいは音を感じたことはないか。

美味しい日本酒を飲むと、僕は風景が浮かぶことがあるが、そういうことってみんなあるんじゃないだろうか。
そして美味しい日本酒は透明な光の中に大抵いくつもの色を持っていて、まさに虹のようだ。

料理人が盛りつけや見た目にこだわるのもたぶんそのへんだ。

ラーメンのスープなんて良い例じゃないかと思う。
スープの色は味と密接に関連していると思うが、それを差し置いても、赤い味、白い味、黒い味、そんな感覚は、好きな人であれば皆持っているのではないだろうか。(もっともこれらの動物性のスープはかなり黒い色が濃いような気がしているが)

これは後天的な条件反射にも関連しているけれども、ブリティッシュ・ロックを聴くとスコッチが飲みたくなり、アメリカン・ロックを聴くとバーボンやジャック・ダニエルズが飲みたくなったりしないだろうか。笑。

音楽を聴くとそれを作った人の心や背景がわかる、という人がいて、とあるメジャーのヒット曲を聞かせたらレコード会社の会議室の風景が浮かんだ、というジョークがあるが、それはまた別の話か。笑。

 

 

五感というのはつながっている。
それらの刺激の形は、それぞれ別のものだけれど、そこから得る印象というものは、たぶん同じものに起因している。

5つの感覚があるとして、人間はそれを光の波長なり、空気の振動の波なり、アミノ酸なりナトリウムイオンなり、そういった物理現象を刺激として感じ取っているわけだけれども、
そこから生じる感覚というものの向こう側には、ある共通した「フィーリング」があるように思われる。

人間の感覚というものは、その「フィーリング」を、5つ(または6つ?7つ?)の方向から見ているに過ぎない。

 

人間の五感の向こう側、色、音、匂い、手触り、味、など、感じ取る刺激の形は違うけれども、その根本はどうやら同じものらしい。

その根っこにある何かを感じ取り、それを逆にそれぞれの五感にフィードバックする能力。
大雑把に言えばそれが共感覚ということではないかと思う。
おおもとの「フィーリング」を感じる能力に長けているため、5つの感覚の分類が曖昧であったり、その境目を越えることが出来たり、またはそれらを関連付けて分類することが出来るというわけだ。

 

では、それら人間の五感の向こう側にある「フィーリング」とはいったい何なのか。

 

 

月並みなようだが、僕は聖書の中で、ヨハネの福音書の冒頭にある、例の有名な「はじめに言葉があった」という一節がとても好きだ。

聖書のどの箇所が一番好き? みたいなことは、クリスチャンやってるとたまに聞かれることがあって、いつも答えに困るのだけど(言うほど読んでないし、汗)、
今後は面倒だからこの箇所を挙げることにしよう。笑。

 

これは僕が昔から持ちネタにしている個人的なジョークだけれども、
「神なんていない」と声に出して言った時点で、それは神の存在を証明してしまうことになると思っている。

何がジョークかといえばそれは、Twitter上で「僕はコンピューターなんてものの存在は信じない」と言っているのと同じだからだ。

もっともたとえコンピューターの存在を信じていなかったとしても、スマホを指で操作すればTwitterは使えるし、生活上さして問題はない。(ITエンジニアとかやるなら別だろうが)
神もだいたい同じようなものだ。

 

言葉とは音声、ないしは文字による記号に過ぎない。
けれども人間はそれによってイメージ、感覚、概念、そういったものを想起する。
それは人間の持つ「想像力」によるものだ。
そんでもって、日本語ってものはよく出来ていて、その想像力ってやつはまさに神が与えた「創造力」に他ならない。

人は何かものを作るとき、手を動かしてノミをふるうかもしれないが、神にとって創造するということはすなわち想像することだ。神さんが「光あれ」と言ったらそこに光があったわけだ。当たり前すぎることだが、本来「想像」こそが「創造」だ。これは芸術家であれば誰でも身に染みてわかっていることだと思う。

 

そしてその「想像」の根本は、五感を越えたところにある。
たとえば「何か恐ろしいもの」「何か気持ちいいもの」「とても幸せなもの」「何かかわいいもの」などを想像してみよう。
それは五感のどの領域にあるものだろうか。
五感に当てはめたとして、その五感はどちらを指しているか。
それらが指している方向の、さらに向こう側に、たぶん神ってやつは居る。

そこまで、歩けるやつは歩いて行ってみたらいい、
って、危ないな。笑。

いつかやれると思ったらやってみるよ。
今はまだやめておく。笑。

 

 

というわけで、そう考えていくと、本来、神というものは人間の五感では認識ができない、全体をとらえることが出来ないものであるのも当然のことだ。

けれども、人によっては、その「フィーリング」の根本、その向こう側を認識する能力が高い人がいる。

だから僕はこの聖闘士星矢で言っていた「究極のコスモ」とか言ってるセブンセンシズとかいうやつを、
この五感の根本にあるフィーリングを見定める能力、またそのさらに向こう側を感じ取る能力であると解釈した。

つまりそれは神を感じ取る能力であると言っていい。
この場合、人からすれば、神を見定める能力、と言うべきか。

 

 

そう思って、嫁さんにもちらっと伝えたんだけど、
さっきちょっとぐぐってWikipediaを見たら、ばっちり仏教の項目にこういうことも書いてあった。
すごいなインターネット時代。
もっともウィキペディアに書いてあることなんていい加減かもしれないし、少なくとも表面的であることは間違いないだろう。だからテキトーであり、あまり真に受けない方がいい。

どこに書いてあったかというと、それはつまり、ちょっと物語の設定を確認しようとして聖闘士星矢の項目を見てみたら、「乙女座のゴールドセイント、シャカ」の項目に、仏教の項目が書いてあったのだ、笑。

それをちら見した範囲では、
どうやら仏教だかなんだかしらないが、そこでは、
6番目の感覚は「意識」であり、7番目の感覚は「無意識」であり、8番目の感覚は「創造」であるらしい。(ぱっと見ただけの解釈)

わりと僕の想像もいい線行ってたんじゃないか。笑。

うむ。さすが宇宙科学と言われるところの仏教じゃな。
霊と精神における宇宙の成り立ちを自覚する科学。
そんなこと何千年も考えてるんだから大したもんだよ。

 

 

そういえば乙女座のシャカのキャッチフレーズがなんかウケたんだけど、
日本語ってすごく性能がいい言語で、
「もっとも神に近いと言われている男」
と書くと、ゴゴゴゴ、ってなって、うわあ、すげえ、ってなるんだけど、
「もっとも神に近いとか言われている男」(笑)
と書くとプププ、となっていきなり信憑性がなくなったり、
「もっとも神に近いwと言われている男」
とか一文字で全然印象が変わるからすごいよね。

 

 

僕は、なんだかんだいっても、いろいろあったとしても、
やっぱり聖書は完璧な書物であると思っている。

ただ、あれは四次元的に読まなきゃいけないし、また霊を以て読まなきゃいけない。
そうでないとわかんない。

霊を以て読まないと、何年かけて何回読んでもわからないし、
また霊を以て読めば、一遍、一章、ていうか一節、一行だけでも、全部わかっちゃうくらいのものだと思う。

もちろん、富士山を遠くから眺めて一目でその美しさを理解するもよし、
近くに行って実際に登ったり、地質とかの調査をするもよし、どっちも必要だけれども。

 

ヨハネの福音書の冒頭。
初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。
とある。

そこから、いろいろ続いていく。
でも、この最初の一節だけでも、全部と同じだけの価値がある。

もし聖書を、一行だけにまとめるんなら、もうこれだけでいいんじゃないか、って思うくらいだ。
この中に「創造」ってことが全部入っているのだから、それだけでもう、後に続くことは、全部わかる。
わかんなきゃいけない。
そういうものだと思うんだけど(汗)

 

説明はしないですよ。
説明しても同じだから。

 

でもね、この有名な冒頭の一節が、なんで完璧か。
なんでこれが好きかっていうとさ、

結構、いると思うんだよね。
このヨハネの福音書の冒頭の一節をもって、「なんだ、神なんていないじゃないか、聖書なんて嘘じゃないか」って結論にたどり着いちゃう人が。

だって、言葉って人間が作ったものじゃないか。
最初に言葉があることが前提なのなら、神だって人間が作り出したものじゃないか。
おかしいじゃないか。
こんなの嘘っぱちだ。
って。

そうなってもおかしくない。

ていうか、そもそもわかんない人は、そうやって「選り分けられる」「はねられる」ようになっている。

これ、個人的にはひどいと思う。笑。
厳し過ぎる。
厳しいよ神。
もうちょっと、やさしく門戸を開いてくれていてもいいのに。

 

 

でも、ちげえんだよ。
言葉は人間が作ったんじゃないんだよ。
記号は作れるかもしれないが、本体は作れないんだよ。

それを作れるのは神だけなんだ。
創造ってことなんだよ。

 

この神の本体たる、創造ってことを、言葉で説明しようとすれば、
それこそ福音書にあるように
「世界もその書物を収め切れない」みたいになるから、やめておきましょうね、笑。

実際に世界をもういっこ作る方がまだ早えよ。

音楽家の立場から言うと、そんなふうに感じる。

 

で、アニメの話題で、もいっこ書きたいことがあったんだけど、長いからまた今度。
前後編にしちゃうぞ。

 

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