賞味期限と優先順序

うちのバンド、Imari Tones (伊万里音色)は、2021年にShinryu師範が加入して、二枚組アルバム”Nabeshima”をリリースして以来、そこから3年あまりの間、ライブバンドとして結構精力的に演奏活動をしてきました。
してきました、という言い方ではなんかしっくり来ないので、やはり日本人としては「皆様のお陰で、精力的に演奏活動をしてくることが出来ました」と言う方が、やっぱりしっくりきます。

もちろん、しがないインディバンドではありますが、しがないインディバンドにしては、マイペースながらも結構いいペースで演奏活動をやらせてもらった、と言えるでしょう。
その中には、2度のアメリカ遠征が含まれていたり、愛知、静岡、京都、大阪といった国内での遠征もありました。

 

うちのバンド関連のソーシャルメディアをチェックしていただいている方なら、ある程度気付いていらっしゃる方もいるかもしれませんが、今、この[Tone, Marie, Shinryu]体制での演奏活動、ライブ活動に、ここらで一区切り付けようか、という話が為されています。

これについては、日本語でのソーシャルメディア上での発信はそれとなくしていますが、英語での発信は、色々の事が片付くまで、時期を待ってしようと思っている次第です。(アルバムの発表までは待ちたいかな)

 

かねがね、考えていたのは、活動の終わらせ方です。
こういう言い方をすると、誤解を招くかもしれません。
けれど僕は、いつでもバンドをやめたい、音楽をやめたい、という事を公言し、これまでの音楽人生の中で、常に「どうやったら音楽をやめる事が出来るか」という、その最短距離を目指して活動してきました。そう公言し、口癖のように常に言っていました。(もっとも、プライベートな会話や、昔の日記の記録まで見て知っている人は、そんなに居ないだろうけど。)

ですので僕は常に、どうやって自分の音楽人生を終わらせるか、また、このImari Tones (伊万里音色)というバンドの物語を、どうやって終わらせるか、そこについては常に考えてきました。

そして、もう自分も若くはないですが、ある程度の年齢になってからは、少なくとも”Nabeshima”の楽曲を書いて”Jesus Wind”の録音を行った2016年頃には、歳を取ってからの身の処し方、もっと率直に言えば「どうやって死ぬか」というテーマに関して、ひとりのインディ音楽家として考えてきました。

歳を取っていった時、そこでどのような音を鳴らすべきなのか。そして、人生の最後にどのような音を鳴らし、どのようにしてこの世を去るべきなのか。そこについては、結構前からずっと考えていたように思います。

 

幸いにして、というべきか、僕らの世代は、(そして僕ら以降の世代は、またもっと違った意味で)、ロックが若い時代ではなく、ロックが円熟し、歳を取り、ロック黄金時代の大御所たちが「おやじ」や「じじい」になって音を鳴らす姿を見てきています。その意味では、お手本も参考も示唆も、十分にあったと言えます。

伝統芸能となりつつあるロックの世界において、ミュージシャンはどのように歳を取るべきなのか。皆さんそれぞれの場所や立場で、人によって違う形で答を出し、それぞれにその答えを鳴らしているかと思いますが、僕はそのテーマに、一介のインディ音楽家として、またクリスチャンミュージシャンとして、自分なりに向き合おうとしてきたわけです。

 

話を戻して、当面の活動についてですが、「ライブバンド」としての活動がしばらくの間止まったとしても、僕としてはあまり困りません。

それは、インディの音楽家として、ライブ活動、バンドでの演奏活動の他にも、やらなくてはいけない事はいっぱいあるからです。

 

バンドを維持する、というのはとても大変な事です。そのために費やす労力、コスト、時間、精神的なリソースはかなりのもので、そのためには人生の様々なものを犠牲にする事になります。その上で一緒に音を鳴らすバンドメンバー、仲間には常に感謝しなければなりません。

けれどもバンドでの生演奏というものには、それだけの価値があるのも事実です。事実というか、真実です。何人かの人間が集まり、バンドとして一緒に演奏するというのは、奇跡です。それぞれが自由な意志にもとづいて、個人個人の音を鳴らすという意味でも、ロックバンドは奇跡のようなものだと思います。(過去に「ロックバンドは巨大ロボットのようなものだ」という話を、僕はブログに書いているでしょうか?) >(さっくりと触れた事はあったみたいだけど、ちゃんと持論を書いた事は無かったみたい)

そして、ライブというものは一期一会。その瞬間、バンドメンバーだけでなく、その場に立ち会っていただくお客様も含めて体験する、一瞬の輝きのような、特別な何かです。なんというかそれは、人が命を燃やす、その輝きそのものだと言っていい。

だからこそ、僕たちはライブバンドとしての活動、ライブバンドとしてここに存在する事を、大切にしてきました。

 

言ってしまえば、僕は一人でも音楽活動が出来るタイプの人間です。
また、音楽的、芸術的な面に関しては、僕はかなり独裁的というか、ワンマンなタイプのリーダーであるとも言えます。

それでも、音楽人生を振り返ると、僕は常にバンドで演奏する事が出来た。このImari Tonesというバンドが、実際のバンドとして成立したのは2004年の事だと言っていますが、それ以来、メンバーの変遷は何度かあっても、バンドとしてほとんど空白期間を於かずに、演奏活動を続けて来る事が出来た。
それがどれほど幸運な事なのか、僕は自分の言葉では言い表せません。

 

けれども、そのライブバンドという形を維持するために、たくさんの物事を後回しにしてきたのも事実なのです。

ですから、僕は今起きている事は、それらの後回しにしてきた事をやりなさいよ、という神様のメッセージではないかと解釈しています。

そしてまた、自分の音楽人生をきちんと終わらせるために、創作に向き合わなければならないとすれば、それを5年後、10年後に行うのではなく、今すぐただちに取りかかりなさい、という事なのではないか、と推測しています。

死ぬ準備みたいなものがあるとすれば、それをやるのに60歳になるまで待つのではなく、今すぐ、なるやはで、ASAPでやれ、という事なのかもしれません。なぜなら人に時間がどれだけ残されているのか、それは神様にしかわからないからです。

 

自分はミュージシャンとして、人前でライブで演奏し、自分の演奏を、音を、サウンドを、メッセージを、人々に伝えたいという気持ちは大いにあります。

しかしその反面、寡黙な職人タイプ、芸術家タイプにありがちな事として、本当は引きこもり、人里離れた場所で、誰にも会わずに、世間から遠ざかって創作に没頭したい、という気持ちもあります。

外に向けて行うライブでの演奏活動。
自らの内面に向き合う創作活動。

どちらをより、やりたいか、その気持ちを数字にして比較すれば、僕はいつも、
それは50対51だと言うようにしています。

いや、Van Halen的に言えば、「51:50」という順番かな。
フィフティフィフティ、50パーセント対50パーセントではなく、ひとつ余計に余るのです。

どちらの欲求も比較出来ないくらいに強い。

けれども、僕の中では、ほんの少しだけ、「余りの1」のぶんだけ、「創作」に向き合う気持ちの方が強い。

創作とライブ演奏というふたつの軸があるとすれば、僕にとって本質というか、その中心になるのは「創作」の方なのです。

 

けれども内面に向き合う創作活動と、人々とこの世界そのものに向き合うライブ演奏活動は、車の両輪のようなものです。
ライブバンドとしての演奏活動があるからこそ、僕はそこで得た手応え、経験、体験、感覚、その他のあらゆる情報を、「創作」に持ち込み、反映させる事が出来た。それは、本来であれば世間から距離を置いて引きこもっても不思議ではなかった僕にとっては、自分の音楽を出来る限りリアルなものとするための、大いなる手助けとなってくれました。

日本のバンドとして、環境的な制約はありましたが、その「内面に向き合う制作」と「世界に向き合う演奏」を、程よいバランスで行う事が出来たのは、自分の音楽人生の中でも幸運であり、幸せであった事柄のひとつです。

 

さて、では、自分が死ぬための準備として、あと何年生きる時間が与えられているかはわからないにせよ、インディ音楽家として「活動を終わらせる」ために、どのような優先順序で物事を行っていけばいいのか。

 

「創作活動」と「演奏活動」のうち、歳を取ったら出来ないもの、若いうちにしか出来ないものはどちらか、という問いかけをしてみるとします。

すぐに答えを言ってしまいますが、僕の個人的な意見では、それは「創作」の方であると思います。

演奏の技術というものは、節制とか、精進とか、努力みたいなものを怠らなければ、歳を取っても向上していくように思います。どのあたりにピークがあるのかは人それぞれだと思いますが、健康状態さえ良好であれば、経験という事も味方して、ミュージシャンはかなり歳を取っても、演奏する能力を維持できるような気がしています。

しかし、創作という面では、そうはいかないように感じています。
最も重要なことに、インスピレーションという事があります。
自らのオリジナルな何かを作り出すのであれば。つまりは作曲ということですが、作曲という範囲にとどまらず、新たな地平を切り開くための演奏やサウンドという意味においても、です。

こういったインスピレーションは、一般的に考えて、若い頃の方が豊富で、旺盛であり、歳を取るごとに枯れていくように思います。もちろん、枯れた後には経験という宝、スキルの積み重ねという財産が残りますので、違った意味で素晴らしい演奏になりますが、新しいものを作り出すインスピレーションという意味では、若い頃には叶わないような気がしています。

 

録音、レコーディングという面で考えると、そこには「サウンド」という事があります。

単純に曲を書き、譜面に書き記すだけであれば、あまり関係の無いことかもしれませんが、現代のミュージシャンはレコーディング、演奏を録音して作品を作ります。
そしてその録音されたサウンドの中には、たくさんの情報が入っています。そのサウンドの情報の中に、表現上の大切な事柄がたくさん含まれています。

 

歌唱、ヴォーカルの技術について考えてみます。
僕は、自分のバンド人生においては、もし出来るのであれば、パートナーとなるヴォーカリストを見つけて、その人に歌ってほしかった、つまり、自分では歌いたくなかった人間です。しかし色々な理由でそれが難しかったので、自分で歌うという選択をした。それしか選択肢がなかったからです。

ですので、もともとシンガーではない僕は、歌い始めた当初、歌唱の技術は未熟でした。

伝統的なハードロック、ヘヴィメタルのスタイルの音楽をやっている関係上、どうしても曲のキーが高くなってしまうので、高い音を出すのは大変で、常に苦労していました。

けれど、何年も歌い続けているうちに、いろんな事がわかってきて、少しずつ、本当に少しずつ、歌唱の技術が向上し、また年々少しずつ、歌唱のスタイルが変わってきました。

わかりやすい例を挙げると、20代の頃の僕は、今よりもずっと力んで発声をしています。
けれども今では、年月を経て訓練した結果、力を抜いて、あまり力む事なく、楽に声を出す事が出来ます。

歌唱の技術としては、今の方が格段に向上しています。(あ、すみません40代です)

声のコントロールは今の方がはるかに出来るし、高い音程もずっと自然に歌えるし、またライブにおいても、昔より安定した発声で、長時間歌い続ける事が出来ます。(それでも、まだ下手くそと言われるかもしれませんが)

 

だからといって、では20代の頃にレコーディングした自分の歌唱が、ダメかと言うと、そんな事はない。

確かに歌唱の技術や発声方法は未熟かもしれない。今よりもよほど力んで歌っているかもしれない。
だけれど、そこには当時の技術、当時の発声、当時の歌唱法ならではの魅力があるのです。

こんな歌唱、こんな表現を、今、もう一度やれと言われても、僕は無理だ、と答えます。
今の僕にはもう、こんなひたむきな歌は歌えないからです。

そして、なによりも、そこには若さがある。
声、ヴォーカル、肉声の中に込められた、若さの輝きだけは、どうしても真似が出来ないのです。

ことレコーディングということについて言えば、その時、その年、人生のその時点でしか出せないサウンドが、確実にあるのです。

 

もちろん、厳密な意味で、年齢を経た後に若々しい歌が歌えないというわけではない。50代、60代になっても若々しい声で歌うシンガーはたくさん居ますし、僕自身も、これからもうすぐリリースするアルバム”Coming Back Alive”において、10代、20代に負けないくらいの「青く、若々しい」歌唱をお聞かせできると思っています。

けれど、やっぱりそれは本当に若い頃の声とは、違うものなのです。

 

そしてギタープレイ、ギターサウンドについても、やはり同じ事が言えると思っています。

楽器。機材。テクニック。

若い頃は、多くの人は、安物の楽器で演奏します。
機材も、必ずしも高価なものではない。
では、その安価な楽器や機材で出した音がダメかというと、全然そんな事はない。
むしろそれらのサウンドは、歳を取って、良い楽器を手に入れてしまった後では、もう出せないサウンドなのです。

テクニック、演奏技術についても同じ事が言えます。
若い頃は、テクニック的に限られていても、その中で一生懸命鳴らしたサウンド。
それは、一度上手くなってしまったり、音楽理論を勉強して賢くなってしまった後では、もう鳴らせない。
未熟なテクニックで、ぎりぎりのところで必死に鳴らしたサウンドは、テクニックを身につけてから、余裕を持って鳴らした音とは、やっぱり違う。どちらがいいとは一概には言えないけれど、ことロックという音楽の中では、たとえ未熟であっても情熱を持ってひたむきに鳴らした音の方が、心に響く事があるわけです。

 

楽器の演奏においても、肉体性というのは大きい。
ロックではエレクトリックギターが使われますが、微小な振動、演奏の微小なニュアンスを電気的に拡大してサウンドを作るエレクトリックの楽器においては、個人個人の肉体性はより演奏内容に反映されます。ドラムについては説明不要なほどに肉体的な要素が大きいかと思います。
その肉体性の要素は、人が歳を経るに連れて、年々少しずつ変化していきます。

 

そのように、レコーディング、録音制作という事においては、ある意味ではライブ演奏について考える時以上に、「その時だけにしか作れない音」そして「賞味期限」といったものがあるように思います。
これはあくまで僕の意見です。物事の一面に過ぎないし、その逆の事もあるだろうと思います。

でも、僕個人の音楽人生を振り返ってみると、それが僕の持つ実感なのです。

だから、創作の上での「終活」を、僕は早いうちにやっておいた方がいいのかもしれない。
そのように神様に言われているのではないか。
やれ、という事なのではないかと、なんとなく感じている。

 

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