たまに、こういうことを書くことがある。
この前も友人のパンクバンドの彼が、政治についてソーシャルメディアでちゃんと発言していて、偉いなあ、と思ったので。
僕らはクリスチャンのバンドで、「政治や宗教について話しちゃいけない」っていうタブーを、最初から破ってしまっている。
だから、信仰についてもそうであるように、たまには政治について発言することを、ためらっちゃいけないと思っている。
ただ、僕はもうあまり政治について関心が無いので、また立場を押し付けたくもないので、下記のように遠慮がちな書き方になってしまうのだけど。
これはソーシャルメディアの個人ウォールに書いたものですね。
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この文章は日本語で書いています。
日本語はとても複雑な言語で、その趣旨やニュアンスを翻訳することは難しい。これを自動翻訳で他の言語で読む際には最大限の注意を持ってください。どうか自動翻訳を信頼しないで下さい。
(いちいち書くの面倒なんだけど、黙ってるのもやっぱり気持ち悪いので、どう思われるか気にせずにやっぱりポストしておく〜😅)
僕は現状もうあまり政治というものには興味はない。
政治の陳腐化という事を結構前から言っている。
民主主義がちゃんと機能しているとも思っていない。
権力というものそのものにもう興味がない。
支配というものにもあまり興味がない。
神の支配、法の支配、摂理による支配、道による支配、そういったものは考える。
けれども誰が支配するかという点についてはあまり興味がない。
自分は最近では過去3年の間にバンドの用事で二度ほどアメリカに行っただけだ。
けれどそこで少しばかりかの国の現状を見ただけであっても、今回の選挙の結果については、まあ、そりゃそうなるよね、立場がどうであれ、こうなることは必然だよね、と感じる。(注: トランプさんが圧勝するのも無理はないよね、という意味)
政治そのものが陳腐化していると感じるけれど、
こういった民主主義の下での選挙といったものは、世の中の動向であるとか、人々の考えを知るには良い機会だ。
人間は一人で生きることは出来ず、他者と関わりながら、社会集団の中で生きている。
だがソーシャルメディアの時代になり、世界は小さなひとつの村となったように思う。
ひとつではなく、いくつもの「バブル」(泡)に分断されているかもしれないが、究極的にはやっぱりひとつの村だ。
日本語と英語でどうしても考え方が違うように、アイディアというものは言葉によって規定され、言葉を媒介として運ばれる。インターネットとソーシャルメディアはその言葉の伝達とコミュニケーションを加速させたため、言葉ひとつで世界を動かせるその可能性は飛躍的に高まった。日本語には言霊という言葉があるが、現代の世界ではインターネット上のプラットフォームを中心に、無数の言霊の弾丸が飛び交っているのかもしれない。
人間というものは集団となった時に、不思議な行動を取る。
日本人は昔から村社会で生きてきたため、その感覚をよく知っている。
それは集団の中で生きていくために、生存本能で行っているものかもしれない。
多くの人間にとってはそれは「前提」となっているので、考えることすらもないかもしれない。
だからいじめも起きる。差別も起きる。不公平も出てくる。迫害も起きる。
自らの生存のための利己的行動の前提となっているものであるから、多くの場合、人間はその部分に触れようとすると、激しい拒否反応を示す。
僕はキリスト教徒のはしくれであって、かの国のクリスチャンに友人や知り合いはそこそこいる。彼らの多くは保守的な政治的立場を取っている人たちだ。僕も今では少なからず、彼らの影響を受けている。
だが僕は自分の信仰者という立場からすれば、今回の選挙の結果にあまり興味はない。
キリスト教的価値観、伝統的な価値観、とは言っても、そのような価値観は時代によって変わる。また場所によっても変わる。結局のところ、人類はまだ聖書をきちんと読み解いてはいない。
だから結局は人間の集団の行動という点に帰結する。それ以上でもそれ以下でもないように思う。
ただ聖書が言っている事で確かと思える事がある。
キリスト教の基本的な教義、それは人というものは罪を持った存在だということだ。「的外れ」な生き物であるということだ。
罪を持った存在である人間が、その罪によって、多くの悲劇を招いてきた。人類の歴史はその繰り返しだ。
だから、やっぱり基本的には何も変わっていないように思う。
God have mercy on this world.