言論の自由2021

こういうことを書いてしまうのは心が弱いからだろう。
自分は無学な人間であることを最初にことわっておく。
また、とっちらかった文章の書きなぐりであることをことわっておく。

 

自由って難しいもので。

言論の自由というものはとても大切なものだ。
思想の自由というものもとても大切なものだ。

たとえば「悪魔崇拝」の人がいるとして、それを理由に人を処罰したり、その人の持つ権利を制限するわけにはいかない。
それをすれば魔女狩りになってしまうし、悪魔崇拝の思想を持つことは、個人の思想の自由であるからだ。

 

けれども、現実の世の中においては、「自由」という概念は、その言葉のそのままの意味で解釈するならば、当然に制限はかかる。

つまり、町の中で銃を乱射する自由は、たぶんあまり認められない。
そのような行為に対しては相応の処罰が課されることになる。

 

言論の自由というものは、人間にとってとても大切なものだ。
では、嘘を付く権利というのは、守られるべきだろうか。

(これはたぶん、とても基本的な問いかけだろう。僕はただの無学な男であることをご承知いただきたい。)

 

インターネット時代、ソーシャルメディア社会になって、世界は変わった。
ソーシャルメディア社会というのは、とても厄介なものだ。
人間の生活がコンピューターデバイス、ネットワーク上の数値や情報に隷属するようになり、それが現実の世界を左右するようになった。
そして人間の中身、思考や行動さえも、それらのものに支配されるようになった。

その結果、インターネット上の「言論」は、現実に「弾丸」に劣らない力を持つようになった。

 

そして、これは誰のせいでもなく、人間というものがその中に持っている「悪」とも呼べる性質のせいでもある。キリスト教で言うところの「罪」のせいでもある。
つまり、インターネット上、ソーシャルメディアを介して広がる情報は、善意を持った正直なものよりも、内容の乏しい虚偽の方が、はるかに高い効率で広まるのだ。

つまりインターネット、ソーシャルメディアは、人間にとって、悪意の増幅装置、虚偽の増幅装置、そして「罪」の増幅装置となった。

 

このような社会状況は、人類にとっては歴史の中で、あまり経験したことのないものだ。
だから、誰もこの目の前の状況に対して、良い対応策を持っていない。
正しい対処法というものは、まだ社会的に確立されていない。

なので、今この瞬間としては、
「非常に難しいところだ」
と言うしか無いように思う。

 

(しかし、インターネットやソーシャルメディアを支配している企業や組織が、現実の世の中を支配してしまっていることは大いに気に食わない。)

(だが、世の中のすべてがインターネットの中にあるわけではない。これはまた、すべての音楽がインターネット上にあるわけではないのと同じだ。それはたとえば、もし世の中にインターネットが無かったとすれば、果たして自分はどのように音楽を作り鳴らしただろうか、そもそも音楽をやっていただろうか、という問いかけにつながる。それはもちろん興味深く必要な問いかけであるが、今日のところは置いておく。)

 

けれども、やっぱり。
言うまでもなく、言論の自由というものは最大限尊重されなければならない。

現実には、そしてやはり、本来あるべき理想に照らしてみても、
たとえば、人が発信するその内容が、「嘘」「虚偽のもの」であったとしても、
その人の持つ思想が、「悪魔崇拝」的なものであったとしても、
そのこと自体を規制したり、それによって処罰すべきではない。

しようとしても、そこには限界がある。
限界があってしかるべきだ。

 

また、民主主義というものに照らしてみれば、
何が正しいか、何が間違っているのか、すなわち、「民衆」がどのような選択をするのか、
それは、「民衆」自身の判断に任せるしかない。
それを信頼するのが民主主義の本来の精神だと思う。

だから、「人々」が「嘘」を信じ、「悪魔崇拝」を選ぶ、というのであれば、それはそれで、認められなければならない。
つまり、それが「民衆」の選択であれば、「しょうがない」となる。

「民衆」が、多数で一致して、「民主主義を捨てて、独裁にします」と言うんなら、それはそうなってしまう。
そういう前例は、歴史の中にもあったんじゃないかと思う。

 

それはとても危険なことだ。
民主主義においては、「民衆」が自分の首を縄で縛り、自分の心臓にナイフを突き刺す自由も認められている、かもしれない。
けれども政治というのは、支配というのは、本来それほどに危険なものなのだろう。

これは民主主義というよりは、「統治」とか「まつりごと」の本質であろうと思う。

 

それがそのような形式の統治であれ、権力、支配、政治、そういったものは腐敗するものだ。
であれば、民主主義だって当然に腐敗し得る。

民主主義は、そういった支配や統治の「危険」を、なるべく回避するために、人類が選び取った統治の形式であるはずだ。

でも、その民主主義の統治だって、これほどまでに簡単に腐敗し、崩れ落ちる危険があるということを、たぶん僕たちは目の当たりにしている。

 

これくらいは僕にだって断言できるが、今、世界の民主主義を揺るがそうとしているものは、「それ」は、間違いなく、「民主主義ではないもの」だ。民主主義を覆そうとする何かだ。

けれども、それに対抗するためには、暴力や強制ではなくて、「民主主義」本来の概念をもって戦うしかない。

 

たとえば「癌」という病気がある。
現代の人間にとっては宿命的に、たくさんの人が戦い、たくさんの人が亡くなる病気だ。
日本人の半分はこの病気によって亡くなるとされている。
かくいう僕もたぶんそのうちこの病気で死ぬんだろうなと予想している。

 

ここに「癌」という言葉を使ってしまうのは、それこそ差別的であるので、何を持って善と呼び、何を持って悪と呼ぶのかは、人それぞれの判断に任せたい。しかも出来れば、「誰が」ではなくて、「何が」でありたい。つまり、悪というのは人ではなくて概念のことだと考えたいからだ。(もっと言っちゃうと、日本人としては、善と悪という言い方すらしたくないくらいだ。現実っていうものは善も悪も入り交じってグレーに決まっているからだ。)

 

けれども、便宜上、「癌」という言葉を使って、その病気に例えるのであれば。
それに対抗するためには、たとえば、その患部を切り離したり、破壊したりするよりも、
本来の細胞の自然な働きの中で、それらに対処していくべきだ。
(ただの喩えであって、実際の医学については知らない)

 

つまり、それが「言葉」の上の作用であるならば、「言葉」を以て対応すべきだし、
それが「思想」の上での作用であるならば、「思想」を以て対応すべきだし、
それが「モラル」の上での作用であるならば、「モラル」を以て対応すべきだし、
それが「スピリット」(霊)の上での作用であるならば、「スピリット」を以て対応すべきだ。

そしてそれが「魂」や「愛」の上でのことだと思うならば、やはり「魂」や「愛」を以て戦うべきだ。

キリスト教の世界では、これは「霊的な戦い」といった言葉で、昔から表現されていると思う。

(そしてまた、僕は、音楽、ロックミュージックの分野で、この「霊的な戦い」に、少しでも貢献しようとしてきたつもりだ。)

 

ソーシャルメディア上に限らず、またインターネット時代に限らず、もともと、昔から、人間社会の中では、「善意」というものは広がりにくく、「悪意」は広がりやすいものだ。
また「虚偽」や「虚飾」は広がりやすく、それに対して「本質」はなかなか伝わりにくいものだ。

みんな、そんな現実を前にして、だいたいどっかであきらめちゃうだろう。

あきらめちゃだめだ。
たとえそれが大変なことでも、一人一人がそれに向き合うんだ。

この世界にはもっと本質が必要だ。
この世界にはもっと真実が必要だ。
なぜならこの世界にはもっとAwesomeが必要だ。

あきらめない人間が、一人でも多く必要なんだ。

 

たとえそのような矛盾に満ちた世界の中であっても、人間の仕事とは、本質に向き合い、本質を成就することだと思う。

よほど意志が強くなければ出来ないことかもしれない。
それこそ強い「信仰」を持っていないと出来ないことかもしれない。

別にキリスト教でなくとも、「信じる」ことや、「信念」というのは人類共通だ。
信じること、愛すること、それを突き詰めるとイエス・キリストに辿り着くというだけのことだ。

 

キリストの十字架は、「本質」というものの象徴だ。
そして「本質」というのは、世界の人類に共通のものだ。

人間っちゅうのは本質に向き合えるものなのか。

俺たちが戦っているのは、このことだと思っている。
人類が共通して、戦っているのは、ずっとこのことなんだと思う。

 

とても苦しいね。笑。

 

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