カテゴリみたいに分ければ、自分は「クリスチャンミュージシャン」かもしれない。またあるいは「ヘヴィメタルミュージシャン」かもしれない。他にも色々、ラベルの貼り方はあるだろう。
けれども、それらの前に、自分はやはり「インディーミュージシャン」なのだと思う。つまりインディーバンドの人ということ。
ここに、「レベルミュージック」であるとか、「ソウルミュージック」なんていう呼び方をすることも出来る。それも嫌いじゃない。
けれども、そうした呼び方や分類すらも、すでに形の伴わないものになっている。
こうした音楽、こうした表現は、誰かが気持ちを持って引き継いでいかないと、続いてはいかない。志はバトンのようにして受け継がれるものだ。「愛が伝わる」人は、多くはないかもしれないが、「救い」つーもんがそうであるように、それでも続けていかなくちゃならない。
数字でも、規模でも、成功でも、名声でもなく、そうしたものからは切り離されたところで鳴らされる音楽。
個人、なんていう言葉すら陳腐になりきった後に、そこに鳴る、小さな者たちの鳴らすロックンロール。
それがロックンロールの最涯の地であることを、確かに僕は信じた。
(そして、もっとも遠くへ行くために、神への信仰、すなわち「信じる心」ってやつが、唯一最強の武器であると信じた)
普通の多くの人たちには、そんな音楽が存在し得るのだ、ということ自体、想像ができないことに違いない。そんな価値観をすら、信じられない、あるいは認識できない人間が、世の中には多数派だからだ。
それは、大規模なロック音楽が音を立てて崩壊する様子を眺めていた90年代世代。そしてインターネットという新しい地平が人類の歴史に登場する瞬間を眺めていたノーティーズ世代(00年代)のみに許された夢であったかもしれない。
たとえばエレクトロニックミュージックにしても、ノーティーズの「エレクトロニカ」と呼ばれた表現にはそうした自由があったに違いない。だが、ダブステップを経てEDMと呼ばれるようになった現代のシーンにはそういったものはあまり残っていないだろう。(コンピューターのアップデートとともに移り変わってしまうジャンルを君は信頼できるか? それも時代と歓迎するのか? 実際に現代の音楽ビジネスの勝者とは、Spotifyのアルゴリズム上の勝者に過ぎないではないか?)
変拍子のガレージドラムとジャズマスターのアルペジオの後ろでマンドリンを鳴らすことが当たり前になってしまった2010年代のインディーミュージックにも、やはり同様に、そういった自由なときめきは残っていない。それは表面上、そのマンドリンが三味線になろうと尺八になろうとあまり変わらないことだろう。
つまり本物の「純情」を鳴らすってことは、そんなに生易しいことじゃない。
僕が自分の人生の中で惚れた音楽はいくつもある。
だが僕が2000年代の中盤頃に出会った、この+/-{plus/minus}の3rdにあたる”Let’s Build A Fire”というアルバムは、確かに自分の人生の中で出会った最高のもののうちのひとつと言えるアルバムだ。(わかってくれる人は、決して多くはないが)
このアルバムが、彼らが鳴らしていた「自由」の向こうに、確かに僕は夢を見た。見果てぬ夢を見た。そして、ここまで歩いてきた。
そのオトシマエは、我らが日本の「アウトサイダー」(のけもの)たちのロックを鳴らす、もっとも頼れる男、bloodthirsty butchers吉村秀樹が、確かに、そのオトシマエを付けてくれた。オトシマエを付けて、そして彼は逝ってしまった。
改めて言おう。
数字でも規模でも、成功でも名声でもないんだ。
そんなものとは関係のない価値観の世界の中で、音を鳴らしたい。
そして、僕はその「自由」っていうやつを、もっともっと求めるべきなんだ。
その中にある「ぶっちぎり」を、いつでも求めるべきなんだ。
僕はインディーミュージシャンだ。
そして、もっともっと、インディペンデント(独立した)なアーティストでありたい。
頼るもの(depend)があるとすれば、それは神だけでいい。
あの男(吉村秀樹)が逝ってしまって以来、忘れかけていたかもしれない、その最初の志を。
初心ってやつを。
あらためて、新鮮な気持ちで、思い出したいんだ。
と、ふと見てみたら、YouTube上にぜんぜん公式のビデオが残ってないので・・・
Fadeout
Unsung
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