日本という国は、狭い国土にたくさんの人が密集して住んでいるせいもあり、人々は「迷惑」という価値観の上に生きており、つまり人様に迷惑をかけちゃいけない、すなわち大きな音は出しちゃいけない、人の気に障るようなことはしちゃいけない、という文化の前提の上で生きている。
(端的に言えば、真面目に働け、それ以外のことはするな、という意味)
けれども、楽器の音やスケートボードの音は迷惑がられるのに、選挙の際の品のない騒音はまかりとおるのはどういうことなんだぜ?
新メンバーを正式に発表し、それについてのあれこれをもっと書いていきたいのだが、タイミング的に「政治」みたいなブログを書かなきゃいけないのが本当に馬鹿馬鹿しい。だが、このブログを読んでいる人はそんなにいないだろうし、(どうせうちのバンドのオーディエンスは海外にしかいない)、逆に読んでくれている方は、なんというか理解のある方であろうから。
インターネットを信じていないわけではないが(発信も共有もそれしかないし)、少なくともソーシャルネットワークと、その上に成り立った現代のソーシャルメディア社会はあまり信じていない。
参議院選挙の時期になり、ソーシャルメディア上でも皆さんのそういった選挙とか政党に関する発信が盛んになされているが、
僕だってそういったことに関心が無いわけではなく、むしろ大いに考え、悩んでいるのだが、けれどもソーシャルメディア上でそういった発信を積極的に行う気にはなかなかなれない。
書くとすれば、馬鹿みたいな個人的なことであったり、「政治」とか「民主主義」とか「統治」「支配」ってことに対する、ごく基本的な原則的なことについての持論というよりは所感、のみしか書くことができない。
けれども、何かひとつくらいは発信しておかないと、いくばくかの良心や義務感が疼いてしまう故に、こうして個人的な文章としてブログ等の形式でしたためている次第である。
きっと、無駄に長いから、伝わらないか、誤解されるんだろうな。
フェアにするために記しておけば、いつも言っているが僕は立場としてはリベラルな方だと思っている。与党に投票したことなんてほとんど無いんじゃないか。いつもまったく人気のない泡沫候補みたいな人に入れて死に票になっていた気がする(笑)
でもそれは、別に泡沫候補だと思って投票したわけではなく、自分だったらこの人にお願いしたいな、という人を素直に選んだ結果、なぜか泡沫候補であることが多い、というだけのことだ。
だが、気のせいかもしれないが、自分はヘヴィメタル的なヴィジュアルイメージとか、日本の歴史のなんたらの、みたいな表現を何度かしてきたせいか、右寄りの愛国者と勘違いされることが多いような気がする。それは普段の言動とか、それこそソーシャルメディア上でも、いわゆる一般的な左寄りの人と同じような発言もあまりしないからだろう。でも、面と向かってゆっくり話せば、ちゃんと話すぜ?
しかし、右とか左とかいう概念についてdon’t get me started、語らせないで欲しい。なぜかと言うと例のウ○コの話をしてしまうから。つまり、人というものは誰しもウxコをするものであり、政治とはそのウxコに向き合うことであるが、その扱い方が右の人と左の人ではまったく違い、そしてどちらも笑っちゃうくらい的外れである、というジョークのネタだ。
自分はもはや若者という年齢ではまったく無いが、しかし若者の政治離れなんていうことが言われて非常に久しいが、かといって僕だって選挙権を得た昔から、だいたいなるべく欠かさず投票はするようにしていたつもりなのだけれどな。しかし、それによって何かが変わったという手応えはほとんど無かった。みんな、だいたいそんな感じの現実じゃないか?
自分はただの無名のインディバンドの人であるので、あまり関係ないと言えば関係がないが、一般にはミュージシャンが政治について発言すべきではない、という考え方がある。
有名な人の話ね。有名な人は影響力があるから。僕らはまったく無名なので、そこはあまり関係ない。
それでもその気持ちは大いにわかる。
つまり、ミュージシャンである以上、またそこに個人的な思想信条を必然的に込めることになるロックミュージックの場合、言いたいことは音楽を通じてだいたい全部言っているのであって、俺の意見を知りたいんなら音楽を聞いてくれ、の一言で済んでしまうし、それ以上何を言う必要もない。
ただ、現実には「音楽」の中に込めたメッセージを読み取ることの出来る人間は必ずしも多くない。言葉では表現できないからこそ音楽をやるわけだが、だがその音楽の中に込められたノンヴァーバルな表現を読み取れない人には、やっぱり永遠に伝わらないことになる。
だからこそ「愛がすべてさ〜」と歌っている曲がヒットすることになる。歌詞というか言葉とか宣伝の上で「愛がすべて」と言っていても、ちゃんと耳をすませば、「音楽」そのものは「金がすべてさ〜、力がすべてさ〜」と言っていることが多いのだが。
たとえばうちのバンドの曲で言うと、”Jesus Wind”アルバムに”The War”という曲が入っていたが、あれは書いた本人である僕の解釈からすると、反戦の歌であって、いち兵士の視点から書かれたものであるが、明らかに反戦の歌だと思うんだけれど、どこかのクリスチャン系のレビューでまったく逆の事を書かれたことがあった。つまり、これはどんな困難があっても国や神のために戦い抜く歌だ、みたいに。いや、めっちゃわかりやすく反戦ソングだと思うんだけど、なぜそうなる?と驚いたが。ここまで伝わらんもんかと。もっとも、作品の解釈は受け取る側の自由であり、それが間違っているとは僕にも言えないけれども。
スピリットの問題。
スピリットというのは、日本語で言うと「霊」と書きたいのだが、適切な言葉が見つからない。
霊、という漢字を書くと、一般的には、幽霊とかお化けとか心霊現象、みたいな方を人は想起してしまうから。
言葉ってものの本質、そしてその後ろにある霊ってことで言うと、それこそヨハネの福音書の有名な冒頭の部分、ってことだけ言えば十分なんだけれど、伝わらない人にはそれこそそんなの永遠にわからない。
(だからこそ、「霊」の表象である言葉を使って生活しながら「神なんて存在しない」と言っている人は、Twitter上で「コンピュータなんて存在しない」って言っているのと同じことのように、僕は感じるんだけれど・・・)
さて選挙ってことでもそうだが、こと政治ってことになると、そしてこの世界に山積みになった様々の問題、課題、issues、ってことになると、これはその人の世界認識が大いに影響してくる。
その人が、自分の生きているこの世界、この地球、あるいはこの宇宙に関して、どのような状態にあり、今この時がどのような時であるのか、どう認識しているか、それが考え方を分ける前提になっていると思う。
つまり、この世界はまったく問題がなくてすべてが順調である、と考えている人と、
この世界は問題が山積みで大変な状態である、と考えている人とでは、
その人のする判断と導き出す結論は大きく変わってくる。
僕は、どちらかと言えば後者に近く、
この世界は問題が山積みで、大変な状態だ、と考えている方の人間だ。
むしろ、山積みになりすぎて、もうどうしようもない、どうにもならない状態になって久しく、とっくに救いようがない、と考えている。
いつからそういう状態だったのかはわからない。
それこそアダムとイブの時代からそうだったのかもしれない。
でも、自分の世代だけでも、そういった決定的な瞬間はいくつもあった。
(とはいえ、自分はポジティヴな人間であり、たとえこの世界が問題山積みであったとしても、別に地球のひとつやふたつ滅亡しても、宇宙全体から見れば大したことない、という視点からは、「別に問題ない」と楽観視している。)
音楽(ロックンロール)に政治は関係ないか、というとそうではなく、ロックンロールは民主主義の音楽であり、その根幹には政治ってことが大いにある。
そして信仰ってことにもやっぱり政治がある。
それは歴史的に「宗教」ってやつが政治権力と絡んでいたことは当然だが、そうではなくて、純粋に信仰ってやつは救済であり、民主主義というものはその「救済」ってやつとかなり守備範囲がかぶっているからだ。
何度も繰り返し言っていることであるが、
僕は「よっしゃロックスターになろう」と思って希望を持って音楽を始めた人ではなく、
「こりゃ全部アカンわ」と絶望して、あきらめて、しょうがなく音楽を鳴らすことにした人間だ。
つまり僕は「政治」ってものに絶望したところから自分の音楽が始まっている。
政治ってものに、この国の社会ってものに、あるいは民主主義の現状に絶望したところから始まって、だからこそしょうがなく、追い込まれるようにして芸術の世界に逃げ込んだ。そんな感じだ。
それは自分にとっては否応なし、選択の余地のないことだったのだけれど、人にはきっと理解してもらえないだろう。
いつも言っていることだが、僕たちは、音楽を始めたから子供を持たない選択をしたのではなく、その逆で、子供を持たない選択をせざるを得なかったから、しょうがなく音楽を始めた。
そのことは人にはわかってもらえないだろうし、またその事について批判する人もいるだろうと思う。
だがこれは皮肉ではなく逆説的に、その事について非難されないような社会であったなら、僕たちは最初から子供を持つことが出来ただろう。
余談になるが、適切な「表紙」の画像が無いので、じゃあベランダにある「ミニひまわり」の写真はどうだろう。昨年のなんちゃらスタンプラリーでもらってきて、今年になってようやく嫁さんが種をまいて育てているやつだ。
第一弾でまいた中にはうまく発芽しなかったやつとかもあり、順調なのもあれば、そうでないものある。第二弾で蒔いたやつに関しては順調に芽が出てきている。その様子は、小さなことかもしれないが、とても感動的だ。
うちの嫁さんは、閉鎖的な家庭で一人っ子として育ち、またペットも飼育したことがなく、少女時代から世間一般と少し距離のある性格の人であったから、このように植物を育ててみても、たとえば小さな苗に対して、水をやりすぎたり、しきりにさわったりなでまわしたりしてしまう。いるだろう、そういう、愛情の注ぎ方がわからない人って。
それは痛むからやめれ、と言ったのだが、まぁうちは楽器やぬいぐるみが多いこともあり、実際に猫などの生き物を飼ってはいないし、これからもたぶんよほどの環境の変化が無い限りは飼うことはないだろう。
生き物を飼うことはうちの嫁さんには向いていないだろうからだ。
だが、僕は昔、少年時代とか、ちゃんとした大人になりたかったし、子供も持ちたければ家庭も築きたかったが、やはり人生の誤算というか転換点はうちの嫁さんと出会ってしまった所にあるのだが、今となってはこの選択で正しかったように感じている。
昔は自分は子供が好きだと思っていた。
でも歳をとるにつれて、そうではなかったことに気が付いた。
ましてや、このような小さな鉢植えの植物ひとつとっても、こんなに感情的になり、小さなことで悲しくなってしまうようであれば。
聖書の言葉を引き合いに出すのはやめよう。
理解してくれとも思わない。
「奇跡」や「癒し」でもそうだが、そういうものは振りかざすものでは無いと思っている。
聖書の解説は牧師にまかせればいいし、奇跡というものは人知れず起きてこそ価値がある。
ともあれ、逆説ということを言えば、この国の「政治」や「民主主義」について、絶望しないで済む状態であったなら、僕は最初から音楽なんてやる必要なかった、ということだ。
これは、よくバンドのメンバー同士で言っていた、アメリカに演奏しに行く度に、「いやあアメリカは日本と比べて音楽やる環境がいいな、こっちに生まれりゃよかったな、でも、こっちに生まれてたら、そもそも音楽やってないだろうな、その理由がないから」というジョークとおんなじだ。
もっとも、ここ10年くらいでかの国の状況もずいぶん変わってしまっただろうから、このジョークはもはや成り立たないが。(もちろん、最初からひどい矛盾に満ちた国だという意見もあるだろうが、僕はそう言えるほど世界情勢に詳しくない)
どっちにしろ、僕がここまで鳴らしてきた音楽、「日本初クリスチャンメタル」なんてラベルをくっつけることになったが、それは、こういう逆説的な矛盾の中でこそ生まれた音楽だ。
自分の人生の中で、間違った選択、失敗、タイミング、チャンスを逃したり、状況が悪かったり、色々なマイナスはあったけれど、それでも純粋に音楽的に見れば、ベストに近い道のりを歩いてくることが出来たと思っている。わからんけど。
でも、それ以外は悲しいことが多かったな。
自分の「意見」を述べるのはこのくらいにしておこう。
つまり、自分自身の政治的な主張についてはこれで十分だ。
しかし、もうひとつ指摘しておきたいこととして、
最近、近年、この歳まで生きてきて、ひとつ気が付いたことがある。
みんな最初から気付いているのかもしれないが、この歳になってやっとわかったことがある。
それは、人間というものは、たとえそれが政治的なイシューであっても、仕事上のことであっても、人間関係上のことであっても、「性癖」に左右されるということだ。
つまり、人間というのは、物事を為す時、また何かの判断を下す時に、かなりの部分が個人の「性癖」に基づいていることに、僕は最近になってやっと気が付いた。
だから「右」の人が「右寄り」な判断をするのも、それは結構な割合で個人的な性癖に基づいていたり、
あるいは「左」の人が「左寄り」な判断をするのも、やはり同様に結構な割合で個人的な性癖がベースにあったりする。
そんでもって、政治的なイシューに対して人が感情的になるのは、その自分の性癖を否定されたり、見透かされたりするように感じるからだろう。(そのメカニズムはスポーツの応援とだいたい同じではないかと思う)
性癖、というのは、肉体的なこともあるけれど、それよりも精神的な性分のことだ。
人間というものは、誰しも弱点があり、その精神的に欠けている部分が、性癖となって現れる。
そして、人間の行動のかなりの部分は、その性癖が元となっていることに、この歳になってようやく気がついた。
こんなことは、最初からみんな前提みたいにわかっていたことかもしれない。
その性癖、というよりは、個人個人の精神的に欠けた部分、を克服しない限り、人はやっぱり、「誰かに」「何かに」支配されたままだ。
俺は・・・うーん、努力はしてるつもりだけど、やっぱりなかなか克服はできてないんだろうな。
だからこそこんな文章書いてるんだろうし。
人間だからね。
不完全な世界で、肉体を持って生きている以上。
奪うことよりも与えること。
Let Goすること。
許すこと。
言うのは簡単なんだけどね。
スピリットの問題。
霊の、と言いたいが、適切な翻訳が見つからない。
音の中にこめたメッセージのこと。
言葉の向こうにあるイマジネーションのこと。
僕にとっては、政治も社会も、やはりすべて「スピリット」(霊)の上の問題であり、
それを解決しない限り、科学の発展も、政治の進展もあり得ない。
恐ろしく遠回りに見えるかもしれないが、だからこそ、しょうがねえから、音楽をやることにしたんだけれど。
無名のインディで意味のわからん「クリスチャンヘヴィメタル」みたいな看板掲げて、報われない音楽をずっと続けているのは、そういう理由です。
もちろん自分が「マイケル・ジャクソン」にも、「エディ・ヴァン・ヘイレン」にもなれないことはわかっているんだけれど。
それであっても、せめて、だからこそ。
でもね、本当の事を言えば、何年か前に思索の結果、日記に書き記したけれど、民主主義の本質は「政治の陳腐化」にこそあると思っているよ。
自然の摂理みたいなもんかな。
そういう意味では、これでいいのだと楽観し、希望を持っている。
I believe in the power of people.
-> 追記2019July11
なんか特定の政党とかそういうの書かずに自分の基本的な考えだけ書いただけの随筆なんだけど、ひまわりの芽の写真は、単純にちょうどいいモチーフだったからであって、なんかよく似たマークの政党あるらしいけど、別に関係ないぜ! めんどくさいな、こういうの(笑)