グッバイ家康

前にも書いた事があるかもしれないし、これは何年も前から僕の口癖であるのだけれど、日本でクリスチャンメタルを演奏するにあたって、僕はこれは、徳川家康に喧嘩を売っているのだと考えている。

もちろん、半分冗談で、半分本気と言ったところだ。

日本という国は、現代でも実質は封建社会ではないかと思う。
制度の上では民主主義、自由主義かもしれないが、人々の考え方は現代でも非常に封建的だ。

日本において、最も強力に完成された封建社会を作り上げたのは徳川幕府であり、日本人は今でも社会制度、文化、精神性において、その影響下にあるだろうと思う。(書かれているものであれ、書かれていないものであれ)

 

国家、すなわち統治および権力だが、そこには宗教というものが当然必要となってくるが、日本の伝統宗教、すなわち神道(及び仏教)は、当然ながら封建社会に適したものとなっている。

この前やったオーストラリアの方のポッドキャストのインタビューでも、うっかり口走ってしまったのだけど、「神道」というのは「浸透」という言葉と韻を踏む。
言葉というのはよく出来たもので、神道というものは、人々の生活の中に浸透していく所に特徴があると思う。日本社会では、生活の中に、神道の考え方や宗教行為が深く浸透している。
そして、多くの日本人は、それらの神道に基づいた考え方を、宗教的なものだと意識しないし、神道に基づいた宗教行為も、宗教行為であると認識しない。

そして、それらの考え方は、封建社会の支配者にとってたぶん都合が良いものだったのではないかと思う。

 

僕は、ミュージシャンが音を鳴らすにあたって、多くのミュージシャンが、「ガラスの天井」(glass ceiling)の内側にある音しか鳴らさない事を、かねがね不思議に思っていた。

それは日本人に限った事ではない。
それは日本人に限った事ではなくて、欧米というのか、たとえばアメリカのミュージシャンでも同じである。

たとえば、初期のロック、往年のロック黄金時代には、ミュージシャンたちはもっと自由な音を鳴らしていたかもしれないが、時代が進むと、皆、特定の「たこ壷」の中でしか音を鳴らさなくなる。

けれども、日本人にとっての「ガラスの天井」は、欧米のミュージシャンと比較しても低い位置に設定されているような気がしている。

 

その「ガラスの天井」の正体は、日本人にとっては、それは封建社会という事なのではないかという事に思い当たり、今のところ、僕はわりと納得している。

 

日本人のミュージシャンにとって、ヒット曲を作る、という事は、そのガラスの天井の内側に生きる人々を喜ばせるような曲を作る事だろうと思う。封建社会というガラスの天井の中に生きる人は、その外側に鳴った音は認識が出来ないからだ。

時代が変わり、制度の上ではより自由な社会になったとは言っても、多くの日本人はやはり、いまだに封建的な世界の中に生きているように見える。たぶんそちらの方が居心地がいいのではないだろうか。
ミュージシャンの世界を眺めてみても、「メタル」や「パンク」といったジャンルの中を見てみても、たぶん他のジャンルでもそうなのではないかと思うけれど、ロックミュージック本来の自由な精神を鳴らすよりも、封建的な上下関係を作り出す方に熱心なのではないか。そういう現実があるように思う。

(そういった状況が海外にも無いとは言わないが、やっぱりちょっと違う気がする)

 

人間には名誉欲、出世欲といったものがある。
特に男の子はそうではないかと思う。
女性にもあるとは思うが、男性のそれと女性のそれとでは、少し方向性が違う。

その出世欲、名誉欲というものは、封建社会の中におけるそれである。
封建社会のシステムの中において、人を従え、上位に昇りたい、最終的には君臨したい、というものだ。
そのシステムのピラミッド構造の上にいる者が偉い、という価値観である。

日本の少年は、今の世代は知らないが、たとえば昔であれば、小さな頃から、戦国武将の武勇伝であるとか、その他の英雄の立身出世の物語を読んだり、聞かされたものであると思う。

 

僕は愛知県の出身である。愛知県と言えば、戦国の三英傑の故郷だ。
織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康。

数多くの物語の中で、彼らの功績は繰り返し語られ、魅力的な人物、偉大な英雄として描かれる。男の子たちは、大抵、そういうのに憧れる。

直情的で喧嘩っぱやい子は、織田信長に憧れるかもしれない。
商才があって、世渡りの上手い子は、豊臣秀吉に憧れるかもしれない。

子供だった僕が憧れたのは、徳川家康だった。

僕は小さい頃から、臆病で、大人しく、実直で、慎重なタイプであった。
だから、慎重で思慮深く、最後に天下を取った徳川家康に魅力を感じるのは、当然だったかもしれない。

 

不思議な事だが、子供社会の中にも序列というものがある。
今はどうだか知らない。

学校の中で、クラスの中で、近所の友達の輪の中で。

僕はたとえば学級委員であるとか、生徒会といったものに選ばれる方だった。
そして典型的なガリ勉優等生タイプであった。

子供の頃、少年の頃ではあっても、そういった組織の中での地位をめぐる競争、人の上に立つ事への競争を意識させられた。

ある意味では当然の事なのかもしれない。

腕っぷしの強いタイプの男の子であれば、不良になって喧嘩したりして、その道でトップを目指したりなんかしちゃうのだと思う。(そういうの今はもう流行ってないと思うが)

けれど、そういった不良であるとか、やくざさんの世界も、やはり封建社会の価値観の中の出来事だ。(というよりも、封建社会そのものだ。)

 

少なくとも日本の男の子は、そういった封建社会の中での価値観を植え付けられ、その中での立身出世という事を善だと刷り込まれて育つ。

そして、馬鹿みたいな事だが、男の子っていうのは、多くの場合、その立身出世みたいな価値観から逃れられない。

あるいは僕もひとつ違っていたら、そういった価値観の中で生きる人間になっていたかもしれない。

人々が徳川家康に憧れ、実際に神のようにして祭り上げるのは、徳川家康がそのような立身出世の競争、そのもっとも激しい戦国時代の権力抗争の中で、最終的に武将たちをまとめ上げ、最大の権力を築き上げた人物だからだろう。

その影響は、たぶん何百年たった今でも、僕らの生活や人生に現実として及んでいるに違いない。

 

だが、ある時、僕はロックンロールに出会った。
ロックミュージックの本質は、そういった封建社会の価値観の外側にあった。

ちょうど思春期の、今では中二病と言われそうな、13、14歳頃の事だ。
決め手になってくれたのはEddie Van Halenのギタープレイだ。それですべてが理解出来た。

僕はすべてがどうでもよくなった。
人間社会の価値観がすべてどうでもよくなった。
もっと大切なものがそこにある事を知った。

そしてひとつずつ、自分にとっての大切なものを見つけていった。

 

ロックンロールは「放蕩息子」の音楽だ。
そして、その神髄はやはり、放蕩の中に、その旅の中にあると思う。

放蕩の果て、すべてに見放されて、何も無い砂漠に放り出された時、たぶん人は、神に向き合う事が出来る。キリストに出会う事が出来る。

 

そこから、結構長い旅をしてきた。
人にはわかってもらえないかもしれないが。

けれど、一緒に歩いてくれた人はいたし、多くの仲間もいた。

僕は幸運であったと思う。
また、幸せであると思う。

 

その旅の果てに何があるのか。
問いかける必要なんて無いと思う。
楽しかった。それでいい。

人にとって最上の至福は、
神に出会う事だと思う。
本質を知る事だと思う。
人生の中で、たった一度、たった一瞬でもいい、神に向き合い、真実をつかむ瞬間を得る事だと思う。

他の事は、わりとどうでもいい気がしている。

Let there be ROCK.

 

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