これは著名なギター系YouTuberの方が、音楽制作用のAIアプリケーションについて話しているビデオだ。(記憶が間違っていなければドイツの方だったと思う。個性的なミュージシャン兼YouTuberの方で、僕もこの方の動画は何年も前から数え切れないほど視聴していると思う。)
敢えて閲覧注意と書き添えておきたい。
もしあなたがミュージシャンであったり、音楽制作に関わっている人間であったなら、この映像を見て、あるいはすべてを投げ出したくなる可能性がある。
Suno Studioっていうのかな。
この音楽生成AIアプリケーション(??)については、ソーシャルメディア等を通じて情報は結構流れてきていた。
たとえば僕が自分の短い人生を振り返ると、1990年代の終盤にかけて、当時まだ学生だった僕はコンピュータを購入し、そこでいわゆるDAWと呼ばれるアプリケーションを使い、録音制作を始めた。アプリケーションは当時オーディオを扱う機能が充実してきていたCubaseだった。
当時、そういったデジタル技術を駆使して、個人での音楽制作の環境やツールが充実してきたのを見て、僕はそれは大きなパラダイムシフトだと感じた。そして同時に、これだけ簡単に音楽が作れるようになったということは、これは音楽業界、ひいては音楽をめぐる状況は大きく変わっていくだろうな、と感じ、また予想していた。
その後、時代が21世紀となり、インターネットが当然の時代となると、Napster等をはじめとしたファイルシェアリングが台頭し、iPod/iPhone/iTunesなどによる楽曲配信販売が普及し、やがてソーシャルメディアの時代となり、そして音楽についてはストリーミングの時代となった。
そして今、僕たちはAI時代を迎えようとしているわけだ。
たぶんこれは、21世紀に入ってから僕たちが経験する音楽をめぐる最大のパラダイムシフトだ。
このEytschPi42さんのビデオにあるSuno Studioの動作する様子を見るだけで、この生成AIを使用した音楽制作が、どれだけの可能性を秘めているのか、よくわかる。そしてたぶん、少しでも音楽制作に携わり、知識や経験のある人なら、余計にそれがわかるのではないかと思う。
— パラダイムシフトなんてことを言うと、これもいつも言っていることである。それは音質のことだ。
その当時、僕が1990年代の終わり頃に、学生だった僕が音楽制作を始めた頃、デジタル録音のフォーマットは、24bit/44.1kHzだった (場合によっては48kHz)。最初は16bitだったかもしれないが、すぐに24bitの録音が可能になったと記憶している。
そして当時、僕は、ああこれは、きっと時代が進むにつれて、もっとハイビット、ハイレートのレコーディングが当たり前となり、そしてそういった素晴らしく高音質なデータを、CDやレコードといったフィジカルの媒体にとらわれることなく、リスナーに届けられるようになるのだろう、と考えていた。
しかし、ご存じのように、時代はそういった方向には向かわなかった。
フィジカルメディアが衰退していったのは確かに事実だったが、音質の面ではmp3に代表される圧縮フォーマットが標準となり、またインターネットを通じたストリーミングが一般化し、むしろ音質は低下した。
それは人間社会における音楽というものの立ち位置、扱われ方を象徴しているようで、つまり、ああほとんどの人にとっては音楽というものはどうでもいいものなのだ、という意味であり、仮にも音楽家のはしくれである自分にとってはそれは結構悲しいことだった。
これは映像や写真の分野においては、たとえばテレビやビデオの画質がどんどん向上し、解像度が上がっていったのと好対照だ。つまり人間は、ビジュアルつまり目に見えるものには非常にこだわるが、目に見えない音というものについては、あまりこだわらない。そしてこだわったとしても、目に見えないものである以上、そこには嘘や間違いが多分に含まれてくるということだ。
しかし音質についての話は、今回のトピックとはまた違うので置いておこう。
現代ではインターネットのストリーミングを通じていくらでも世界中の音楽カタログからプレイリストをクリックひとつで呼び出すことができる。
それだけでも、音楽家、演奏家、ミュージシャンの存在意義というものは希薄となる。
単に居心地のよいBGMを求めるのであれば、生身のミュージシャンなどよりも、デジタルデバイスで注文どおりのプレイリストにアクセスする方がよほど便利だ。
21世紀になり、インターネット時代となってから、ことミュージシャンという立場から見れば、音楽をめぐる状況は悪化し続けてきた。ミュージシャンという立場から、というよりは、人間性という立場からの話である。音楽はもともと人間のため、人間の幸せのために作られ、鳴らされていたものが、ソーシャルメディアの数字のためとなり、プラットフォームのためとなり、アルゴリズムのためのものとなり、そして今ではAIのために鳴らされる時代となっている。「人間のための音楽」はおそらくもう終わっている。
少なくとも「人間が音楽を作っていた時代」はこれで終わりを告げたのだと、上記のYouTuberであるEytschPi42さんは、そう言っているのだ。
僕もだいたいおそらく、それに同意する。
これは、僕が生きてきた中では、おそらくこれまでに体験した中で音楽をめぐる最大のパラダイムシフトとなるだろう。
Nail in the coffin なんて言い方は好きではないが、これはたぶん間違いなく、「人間の音楽家」にとってはとどめの一撃となりうるものだ。
もちろんそこには、ネガティヴな要素だけではなく、利便性も含めたプラスの面がないわけではない。
たとえば僕は、ソングライターとしては「意図せずとも勝手に曲ができてしまう」タイプだ。タイプだった、と言ったほうが正確だろうか。歳を取り、このくらいの年齢になると、さすがに「創造の泉」も落ち着いて、勝手に曲が浮かんできて止まらない、みたいなことはなくなった。
だが、若い頃はずっとそういう状態だったのだ。
であるから、若い頃から自分のバンドで発表してきた楽曲の他にも、書いた曲というのは実はたくさんある。
むしろ、自分のバンドでレコーディングし演奏し発表してきた楽曲は、ある意味では氷山の一角と言っていい。
でも、それらを形にするのは大変じゃん。
だから、僕はこれは生きてる間に、すべてを形にして発表するなんてことは無理だと考えていた。
だが、こういったAIのテクノロジーがあるのであれば、その前提は変わる。
完成形になる前の楽曲の骨組みのアイディアを、たとえばギタートラックだけのラフなデモ音源を、これらの音楽生成AIを利用すれば、形として成立させることができるではないか。少なくとも、なんらかの「形」にして発表することが可能となる。
しかも、「ほんの数秒」の間に。
これは、結構夢のような、すごい話である。
時間がないからまっすぐに結論へ向かおう。
創作とは、アイディアであり、またインスピレーションだ。
そのインスピレーションとは、一瞬にしてやってくる。
「ああしよう、こうしよう」と言って、計画して考えて作る場合もあるかもしれないが、本来、創作というものは、一瞬にして降ってくるインスピレーションだ。
このようなAI、人工知能、デジタルテクノロジーによって、その「創作」「インスピレーション」がシミュレーションされ、提示される時、我々はむしろ、その「創作」という行為の本質に向き合わざるを得なくなる。
それは才能ある芸術家であれば、当然わかるはずのことである。
ましてや、音楽の中にある「霊性」について敏感な(であるはずの)クリスチャンミュージシャン、ゴスペルミュージシャンであればなおさらのことだ。
イラスト、絵画の分野において、生成AIが発達したのと同様に、映像を生成するAIについても発達がめざましく随分話題となっている。
現実には存在しなかったものを、映像として作り出すことが、もはや可能となっている。
それはある意味では、存在しなかった歴史の捏造であり、また記憶の捏造でもある。
現在インターネット上が、さまざまな嘘と虚構であふれているように、これから人間社会における、おそらくは歴史などを含めた情報も、虚と実がないまぜとなっていくだろう。
ではそのような中にあって、真の「情報」とは何か。
さっくり結論を言ってしまえば、それはスピリット、霊そして魂の領域にある情報である。
本当にすぐれた芸術家は、単にアートを作っているわけではない。音楽や絵画を作っているだけではない。
本当にすぐれた芸術家は、世界そのものを作っている。作品を通じて、ひとつの宇宙を作り上げているのだ。
それはもちろん、クリエイション、つまり神の似姿としてのわれわれ人間に与えられた、創造性の本質である。宇宙を作り、世界を作り、生命を作り、そして物語を紡ぐのだ。
世界をひとつ作り出し、そこに命を育み、物語を紡ぐ時。
さまざまなものが必要となる。
アイデンティティ
自己という主体
他者という存在
ひとつのテーマ
願い
欲求
希望
そして最後にはやはり愛か
世界は物語でできている。
そして誰もが発信者となった現代では、無数の物語がデジタル空間に満ちて、花びらのように、あるいは枯葉のように舞っている。
物語の中では、すべては「設定」にすぎない。それが虚構であれ、真実であれ、この瞬間にあるものはそれはすべて「設定」である。
僕が好んで使う言い方にすれば「前提」ということだ。
「前提」とはこれほど不確かなものであったか。
その不確かさに、今我々は恐れ慄いている。
それは神話であり、古い怪談であり、SFの提示する古典的なテーマとも言える。
ではその「前提」を変えるにはどうしたらいいか。
あなたにとっての「前提」とは何であったのか、今我々はそれを問われているのだ。
僕はまだAIを使いこなしているとは言い難いが、しかしChatGPTと少しばかりお話を試みて、いくつかわかったことがある。
それは、些細な分野であったとしても、AIに自分の求めるものを提供してもらうことは非常に難しいということだ。
修正のプロンプトを10回入力しなければならないのであれば、じゃあ自分で作るよ、となる。
人間には欲望がある。欲求がある。希求がある。
その欲望を満たすことは、果たしてAIといえども可能だろうか。
しかしそれは人間が人間であり続けた場合の話である。
人間が人間以下の存在となり、巨大なアルゴリズムに従属するだけの生理的端末デバイスとなっていく様子を、過去10年あまりの間に我々は目撃してきたように思う。
そもそも日本人は、いや日本人に限った話ではないが、お行儀よく「ガラスの天井」「ガラスケース」の中だけで思考し、その中で生きていくことに慣らされている。
魂のネットワークを介して、人を人たらしめる大きな何かを見出せるかどうか。
それにつながることができるかどうか。
キリストはまことの葡萄の木、人は枝ってね。
なんか聞き覚えのある話ではある。