さて、YouTubeに、ここ数ヶ月のライヴ映像をいくつかアップしました。
先にすでにアップしていた昨年8月の寸座ロックフェスティバルの映像と合わせて、現在のイマリトーンズの新メンバーによる演奏がどんな感じかを見る(聴く)ことができますね。
上記のライヴも、1曲だけでなく、一本まるごととか、いろんな曲をアップしても良かったんだけれど、なかなか諸事情でそうはいかず。
さて、昨年7月に公式に発表したところの「新ラインナップ」での活動。
まだまだ最初のうちでありますので、これまでのところ、わりと昔の曲ばかりやっておりました。
上記の曲も、何年も前からやってる曲ばかりだから、まだ同じ曲をやってるのか、と思われるのは不本意なんだけれども、まずはバンドとしてアンサンブルを固めるのが先決だからね。
少しずつレパートリーを増やし、その他の定番だった曲や、新しい曲、これまでやったことのない新しい領域に到達するために、これからまたしばらく練習期間に入ります。
数ヶ月、あるいは半年くらいはライヴをやらずに潜伏することになるかと思います。
でも、きっとパワーアップして戻ってくるから、よろしくね。
さてね話題は変わるんだけれど、
上記の曲の中で、”Love Is To Do Something No One Dares To Do”という曲がある。
この曲もかなり昔からやっているバラードで、僕らの曲の中ではわりと人気のある曲のうちのひとつなんだけれど、この曲のタイトルは長ったらしくて、ちょっと意味不明の日本語英語ではあるんだけれど、「愛とは誰もしたがらないことを勇気を持ってやることである」という意味のメッセージが込められている。
上記のライヴ映像も、冒頭のMCで、アフガニスタンで人々のために力を尽くした中村哲さんについて触れているけれど(中村氏はクリスチャンであり、時事ネタでもあったので)、テーマとしては似つかわしいものであったかもしれない。僕はわりとメッセージ性の強いライヴをやってしまうことが多いけれど、これはクリスチャンバンドってわざわざ言ってやっているわけだから仕方ないね。
曲のエンディングの部分で、「こんな俺たちを許してくれてありがとう、ジーザス」と言っている。
これは歌詞の一部で、レコーディングでも(Victory In Christというアルバムに収録されている)”Thank you Jesus for forgiving us all”と言っている。
で、日本でライヴをやっている以上、要所のメッセージはなるべく日本語で言うようにしているので、ここでも、それを日本語に翻訳すると、上記のようになるんだね。
でも、ライブが終わって、ドラマーのKojiさんに「どうしてそういう弱気なことを言うのか」とツッコミが入って、そこではじめて「ああ、そうか、クリスチャンじゃない人には意味がわからないのか」と気が付いた(笑)
(Kojiさんは、あくまでメタルドラマーであり、クリスチャンではないので)
なのでいい機会だから書いておこうと思います。
「こんな俺たちを許してくれてありがとう、ジーザス」というのは、
俺たち、というのは、自分も含めた人類みんなのことなんだね。
なぜなら人間というものは罪深い存在で、誰一人として、天国に行けるほど正しい人はいない。
そんな俺たちなのに、イエス・キリストは十字架の上で、自らの血でもって俺たち人類の罪をつぐなってくれた。
つまり、人間というのは、正しいから天国に行くんじゃない、許されて天国に行くんだよ。
なので、「ああジーザス、こんな俺たちのことを許してくれてありがとう」となる。
なので、この台詞は歌詞の一部だけれど、弱気なんじゃなくて、罪人として悔い改めているということなんだね。イエス・キリストに感謝をささげているんだよ。
これは、キリスト教の教義の大事なところだから、クリスチャンバンドとしてはどうしても外せない、笑。
たとえば、一般的な宗教とか、普通の考えでは、「良い事をしたら天国に行ける」とか、「良い人間になれば天国に行ける」と思っていると思う。
でもキリスト教はそうじゃない。
「良い行いをしても誰も天国に行けない」なぜなら、人間がどれだけ良い行いをしても、人間は罪というものを持っていて、天国に値する人間は結局一人もいないから。
だからイエス・キリストがわざわざ十字架にかかって、「罪の身代わり」をする必要があった。
これがどういう意味なのかは、はっきりいってすごく難しいことだと思う。
クリスチャンの人でも、ちゃんとわかっていない人もいると思うし、けれど、わかるわからないじゃなくて、ただ信じればいい。
信じるっていうのは、言葉じゃないから、説明できないんだけどね。
でもわかるやつは、一瞬で理解できたりする。
理屈じゃなくって、魂で理解することだからね。
こういうことも、クリスチャンでない人には、たぶん言われないとわからない。
キリスト教が根付いている国では、小さい頃から何度もそういうお話を聞いているから、自然とわかることでも、
(欧米のアーティストだと、自分は無神論者だと言っているアーティストでも、キリスト教文化に基づいた曲をちゃんと書いていたりする)
普通に日本の文化の中で育つと、ほとんど聞いたことが無いからわからないと思う。
だから、壁は高いな、といつも思う。
また、精神的にその壁を越えても、今度は文化的な壁というものが、どうしても立ちはだかる。
それくらい、一般的な日本人には、キリスト教の真実から引き離されるような構造が、社会的にも歴史的にも出来上がっている。
これは今までの活動の経験からも、痛いほどわかっていることだ。
かといって、キリスト教的な精神は、むしろ日本の文化の中にもばっちり入っているのよ。これは、今更言わなくてもいいと思う。
そういう作品、作ってきたからね、僕たちは、これまでも。
今、作っている”Nabeshima”も、そういうテーマ、日本の文化にもとづいたクリスチャンヘヴィメタル、その究極の形を提示するものになります。
いまだに、こうして「クリスチャンメタル」やってても、「キリスト教は西洋の宗教でしょ」みたいに言われるのは、不本意だからね(笑)
これは、僕が祖国である日本という国に対して出来る、最大限のことであろうと思う。
だから、こうまでして、命をかけて作っているんだよ。