不用意な発言-やめとけばいいのに仏教トーク

先日、Xieさんのスタジオで3曲ほどのギターの録音をさせていただいた。
感謝である。

Vintechのマイクプリもついに試すことが出来て、その感想はまた別途、またの機会にちょっと書いてみたいとは思っている。(もっとも、ちゃんとした評価は作品が出来上がってからでないと結論は言えないが)
もちろんクオリティは高かった。
ひとつだけ確かなのはすげー古い音になったということだ。

 

その録音した3曲というのは、いずれも僕が高校時代の時に書いた曲だ。
いつも言っているように僕は高校時代に100曲以上の曲を書いたし、

(正確な曲数は不明、断片的なものも合わせると不明。そんでもって、若い頃はそれこそ全部頭の中に記憶しておけたが、30過ぎるともう全部忘れる。当時のテープも実家のどこかにはあるだろうが、聴く手段がない。)

そしてその高校時代に書いた曲を、今までにもバンドで演奏したり、バンドで録音したり、バンドに持ち出さずに一人で録音したりしてきた。(恥ずかしい曲も多いので。つーか、そういう恥ずかしい曲も平気で世間に向けて発表してきたし、そういうスタンスだから、クリスチャンメタル、みたいなことも平気でやれている。)

そんで、高校時代の曲もこれまでにいっぱい使ってきたから、まだ余ってる素材があるのか、と言われれば、まだあるのである(笑) しかも、わりといいやつが。つまりそれは、今の時代にこれは無いよな、とか思ってスルーしていたやつが、あらためて見てみると、「意外といいんじゃね」というような素材である。

 

今度のプロジェクトは、その3曲っていうのは、まぁ、またいずれ詳細を書くけれど、色々と訳あって、
僕が高校1年の夏に「生まれて初めて書いた曲」もあるし(もちろん、ちょこっとアレンジはし直したが)、高校1年の秋に書いた「2番目か3番目くらいの曲」もあるし、
あとは、高校2年の時に書いた「仏教ソング」も含まれている。

仏教ソングって何、って言ったら、説明に困るのだが、なんかそういう感じの仏教っぽい響きを持つサウンドだった、ってことだ。
そういうの、よくあるだろう。フラワートラベリンバンドとかもそうだけど。たとえば長渕の曲の中にもそういうのがひとつやふたつはあるんじゃないか。(知らんけど)

サウンド的には、Van Halenの”Seventh Seal”にちょっと似ているので、影響されたのかもしれないが、そうではないかもしれない。Van Halenの”Balance”アルバムを聴いたのと、この曲を書いたのが、どっちが先だか、記憶が曖昧だからだ。でも、自分の記憶によれば、Seventh Sealを聴く前に書いたような気がする。

当時付けた仮タイトルは”Bosatsu”っていうんだけれど、
ちょっと歌詞とかどうかと思うし、
仮にも今ではクリスチャンバンドやってる身で(誤解を生み易いインターネット社会の中で)、「菩薩」ってタイトルの曲を(海外のファンに向けて)発表するのもどうかと思うので、
たぶんその曲は”Spiritual Seeker”というタイトルにして発表すると思うが。
(歌詞も書き直さないといけない)

 

仏教っぽい曲、とか、キリスト教っぽい曲、
とか、そういう言葉も、もちろん曖昧だ。
宗教の教義で使うべき音階が決められているわけではないし。

昨年短期でオフィスワークやってた近くの浄土真宗の有名な寺で、バッハやモーツァルトのコンサートが行われているという記事も読んだし、
別にバッハやヘンデルの旋律に乗せて読経しちゃいけないってこともあるまい。

ただ単に、それは文化、歴史、その地に根付いた風土、それに基づく音、というだけだ。

 

んだけれども、僕はこれまでにも、たまーに、であるけれども、「仏教っぽい曲」っていうのも、いくつか書いてきた。

たとえば昨年ようやく発表したコンセプトアルバム”Jesus Wind”に入っている”Saints Seeking Salvation”なんかもそのひとつだ。
平安時代とか鎌倉時代とかの偉いお坊さんが、大衆のための真理と救済を求めて、デスヴォイスでグロウルするという曲(笑)。

 

 

なんでそんな曲を書いてしまうのか、それは知らん。
けれども、民族的な音階以外にも、日本人がなんかそういう精神的なものを追求する時に、そうなってしまうような「気分」みたいなものがあるのだろう。

 

で、ちょうど良い機会なので仏教に対する思いを書いてみたい。
やめておけばいいのに、ってわかってはいるのだが、書いてしまう。

つまり、日本には熱心な仏教の信者はたくさんいる。
その中には、カルトっぽいやつもある。
そして、僕は仏教の知識なんて全然ない。

だから、身の程をわきまえれば、こういう不用意なことは書くべきではないのだが、
でもこういうことを僕が書くのは、だいたいいつも、自分を鼓舞するために書いているのだ。

これは、自分がただの無名のインディーバンドの人で、そんでもって、無名だからこそ書けることでもある。有名な人が書いたら、いろいろ危ないが、僕みたいなそもそも世間と距離が遠い人間が何を言ったところで、変人のたわごとで終わることがほとんどだからだ。(海外向けにやってるバンドだからこそ、こういうことは日本語でしか書かない)

そんでもって僕は、別に生涯、功成り名を為すこともなく、一生変人扱いされて、「なんか変わったことをやったり言ってた人」で終わることに、なんら不満がない。
というよりもそうやって「なんか変な人」で終わることを、自分にとっての勝利と信じて生きている人間だ。

だからこういうことを、平気でうっかり書いてしまう。

(神にとっての勝利がどんなもんかは、それは知らん。どっちにしろ自分には知る由もない。)

 

 

これも常々、今までにも何度も発言していることだけれども、僕は仏教は嫌いじゃない。

それは、in my opinion、僕の意見では、仏教はそもそも宗教ではなく、精神世界、宇宙の精神を解明する科学(サイエンス)だと思うからだ。

サイエンス、科学、っていう言葉を使うと、めんどくさいのは、なんか日本中に安っぽいギリシャ神殿みたいのを建てている新興宗教を想像してしまうことだ。でも、それは黙っておいて欲しい(笑)

 

だが、その仏教が指し示す「精神世界のサイエンス」は、結構な精度で正しいというか、正鵠を射ていると思う。

そして、その意味では、少なくとも僕が思うに仏教は「宗教」ではないが、「科学」と「宗教」のきわめて曖昧な境目をつなぐものであり、
それが「科学」だからこそ、始祖である仏陀(だよね?)にとどまらず、それ以降の時代にあっても、後続の「研究者」たちが、それぞれに発見を重ね、その精神宇宙の体系を完成させてきた。

 

科学も宗教も、そこに共通した目的は「真理」つーのか真実みたいなものを発見し、解明することである。
ただ、その手法がちょこっと違うし、それを人のために役立てる方法もちょこっとずつ違う。

だが、宗教にあって科学に無いものは、その目的の中に「救済」という概念が含まれることだ。

つーか救済って何やねん。

大乗だか小乗だか、そのへんの詳しいことは知識がないので全然わからないが、もともと精神宇宙のサイエンスであった仏教に、「救済」という概念がどのように存在し、どのように発展し、そこに歴史上におけるキリスト教の影響がどの程度あったのか、なかったのか、そのあたりは知らない。

けれども、僕はいつも言っている決まり文句として、仏教とキリスト教の違いはこういうことだと思っている。

Buddhism implies eternity, but Christianity GIVES you eternity.

つまり仏教において、救済、そして永遠というものは、指し示され、語られ、予言される。
だが、キリスト教において、救済、そして永遠というものは、今ここで、この時、この場で、今すぐ、与えられる。

仏教は救済者について語り、その救済者がすべての者の前に現れることを予言するが、キリスト教は、救済者もう来ちゃった、だから「お前はもう、救われている」と暗殺拳の達人が秘孔でも点いたかのように宣告するのだ。

 

仏教とキリスト教は結構似ている。
その類似点とか、世界観の共通した部分は、いろんな人が指摘しているだろうから、今更僕が書くまでもない。

わかりやすい例で言えば、旧約聖書にある「伝道者の書」(別名、コヘレトの言葉)が、日本人の目からすると、どっから見ても仏教の経典みたいに見える、ということは、きっと今では有名な話だろう。

 

無常の世の中にあって、仏教は解脱ということを説いた。
だけれども、「解脱」と「救済」は、決してイコールってわけじゃない。

今すぐここで永遠、っていうことで言ったら、
あるいは「即身成仏」みたいに言う人もいるかもしれないが、
僕としては、「ああ、がんばってね」としか言えない。

人の身である我々には、どうしたって限界があるというのが、僕の認識であり、そんでたぶん、キリスト教の立場でもあるはずだ。

でも、限界を定めたからこそ、逆に無限になることがある。

(チェスタトン式に、すなわちこれも逆説というやつだ)

 

仏教の概念の中で十界というものがあったように思う。

歳がバレそうだが、子供の頃に「セイントセイヤ」を読んで、シャカという敵キャラが出てきて「六道輪廻」みたいな技を使って、怖いなぁ、と子供心に思ったアレである。

僕とてただの人間であるので、普段生活していて、おおよそ人間的な欲望とか、不満とか、喜びとか、そういった下級の感情にとらわれて生活していることが大半であるけれども、
六道の上にある4つのランクについては、僕の理解するところではおおよそこんな感じである。

声聞、これは、学ぼう、知ろう、究めよう、そう思っている探究心のことだ。これは、人間なら誰しも自然に持っている本性のように思う。人間というのは、ひとつのことに興味を持つと、それを掘り下げ、夢中になり、深く知ろうとする性質がある。

縁覚、これは、研究し、知識を得た結果、なるほど、俺はわかった、こうに違いない、となる状態のことだ。だがこれは、頭の中でわかった状態に過ぎない。だからここからさらに上に進むには、身を以て行動することが必要だ。

菩薩。これは、その意味では自分の身を以て行動し、その使命に燃えている状態だ。
人々を救いたい、人を助けたい、世の中を変えたい。
そういった、自分の存在以上のものに身を捧げ、大きな慈悲で行動することだ。
こうすることで、それまで学んだことが、「こういうことであったか」と身を以て納得することになる。

仏。(だっけか?)
これは、その菩薩の状態すらも行き過ぎ、「なんかもう、どうでもいいや」となることである。
なんかもう、これは言葉で説明できん。だってどうでもいいんだもん。
説明できない位だからこそ、仏と呼ぶ。仏、ほっとけ、ってね。
人は何かを為すとき、それに執着していては為すことが出来ない。これはどんなことでも一緒で、たとえば女性をナンパする時でもそうだ。思い詰めている時よりも、軽く考えている時の方が、ナンパは成功率が高い。
「世を救いたい」と必死に思っている人は、そう思っているうちは、救うことは出来ないのである。
だから仏って状態にある人は、「人を救う」「世を救済する」ってことに関しても、「別にどうでもいい」って思っているはずだ。
そして、どうでもいい、何にも執着しないからこそ、「無苦」ってやつに辿り着く。
だが、そうやって書いているこの俺も、頭の中の机上の空論としてこれを書いているだけである。
実際にはこれは、すごい捉え難い。

 

そんでもって、「菩薩」の状態にある人間は尊いし、世にあって素晴らしい存在である。
また「仏」の境地にあれば、人はたぶん結構な確率で、人間以上の能力を持ち、天とか神とかに近い存在となるはずだ。

 

だが、それをもってしても、「救済」ではない。

なぜなら、この「十界」とて、仮のものであるからだ。

 

僕が思うに、「救済」というのは、この十界の外側にあるものだと思う。

なぜなら人の身で身に付けた仮の十界くらいでは、僕の言葉で言うところの「ラスボス」にはきっと通用しない。たぶん全然無力なはずだ。

 

人の世における十界の意義は、たぶん別にある。

六道、十界というのは、この物質世界における人間の精神の作用だが、
その意義は、人はこの便宜上10くらいに分類されたランクの中を、自在に行き来出来ることだ。
そして、それを自在に行き来することこそが、現世に生きている人間の特権でもあり、またここでこの言葉を使ってしまうが、「救済」の意味でもある。

この前、ネットでタダで読めたので「ワンパンマン」なるマンガを読んでしまったのだが、その中で印象的なシーンがあり、あまりにも強過ぎてすべてがどうでもよくなり、自分は感情を無くした、と無気力な発言をしていた主人公のサイタマ氏であるが、友人のキング氏にゲームの話題を振られると、「言ったな!」と、いきなり鬼の形相になりムキになって感情をむき出しにするのである。これはつまり、仏の境地から、一瞬にして修羅の境地に落ちたことの描写である。
だが、それは悪いことではなく、ギャグの描写であり、そんな様子を、人は「人間らしい」と思い、好感を持つものなのだ。

地獄、餓鬼、といった状態にある人間が、2分後には「菩薩」になっているかもしれない。
その逆に「菩薩」の状態にある人間は、3分後には「人界」に落ちているかもしれない。(お給料の心配とか)

そこが人間世界の面白いところであり、また「娑婆」(シャバ)と呼ばれる現世に生きていることの意義である。

つまり、地獄にいる者であっても、修羅を生きる者であっても、そこに救済が訪れる可能性がいつでも残されているのだ。(Don’t even get me started about the meaning of 観音)

 

そんな中にあって生身の肉体を持って生きる我々は、おそらくはそれは霊的に学ぶべき勉強の課題を与えられているのだろう。それは想像に難くない。

だけれども、そんな「学び」と「成長」すらも、やはり仮のものなのである。

なぜ「仮」なのかというと、それはこの「娑婆」と呼ばれる現世というものが、神の箱庭にあっての「おままごと」だからだろう。

もちろん、おままごとだからといって、それが重要でないわけではない。
そして、ゲームデザインをしたのも神であるから、血だって流れるし、人だって死ぬ。リアルである。
そしてどんな世界にあったとしても、魂、そこにある喜び、悲しみ、苦しみ、そしてひとつの大河のようにして紡がれる「物語」は、すべて本質なのだ。(だから音楽やってるんだけど、俺)

 

仏教というのは、すべての科学と同様、仮のものであると思う。

科学はこの宇宙の中の物理現象や、法則を解き明かすものだが、
それは、神が作りしこの物質宇宙の中にあってのものである。

そしてそれは宇宙の精神構造を解き明かす科学たる仏教も同様だ。

だが科学と同様に、その学問大系の中には、現宇宙を越えて「真実」を指し示す要素が含まれているのも間違いない。

だからつまり、文字にするのもおこがましいが、in my opinion、仏教くらい理解できるようでなければ、「キリスト」なんて理解できる訳がないと、俺は思う。(まあ僕だってわかってないけどね)

精神宇宙の科学大系たる仏教は、きちんと理解すれば、キリストと、その救済を理解するための大きな助けになる。

 

さきほどちょこっと書いた、仏界だか何だか、呼び方は知らないが声聞から上の4段階に及ぶ「学びのプロセス」は、人としての霊の成長だけでなく、すべての物事に当てはまることだ。

人は何かに興味を持ち、夢中になって調べ、納得するが、それで物事を本当に知った訳ではない。それを実地で試し、身を以て実践し、心を理解して、初めて「わかった」ことになる。そして、一度わかってしまえば、「どうでもいい」という境地に達し、執着は消えて、気持ちよくそれらのことを忘れることになる。

人はそういったプロセスを繰り返して成長するものだ。

 

人の「悟り」では、救済には辿り着かない。

確かに人は修養によって、菩薩や仏の境地になれるかもしれない。
だがその「仏」の境地すら「仮もの」であることは、
たぶん「仏道」ってやつをよく知っている人ほど、たぶん知っていることではないか。

仏教においては、「悟り」すらも絶対ではない。
そんでもって、絶対では無いことを認識しなければ、その絶対ではない悟りを手にすることは出来ない。

だが困ったことに、絶対では無いということを知るには、絶対ということを知らなければいけない。

たぶん仏教において「救済者」の概念が導入され、純粋な精神科学だったものが、やがて本当に宗教っぽくなっていったのは、これが理由だ。

つまり絶対者(キリスト)に出会わなければ、「仏」の境地を手に入れることが出来なかった。
その事に、偉い人たちがたぶん気が付いた。

あるいはその逆に、絶対ですらない境地を手にした時、絶対者の存在に気が付いたのかもしれない。
絶対者たるキリストを理解するには、絶対の反対側である仏を知らなければいけない。

虚無があるから、絶対もある。いや、その逆かな。
それは、空即是色だか、なんだか、わからないが、
般若心経をちょっと読んでみれば、気が付くことだろうと思う。

空ってこと、色ってこと、その意味。
神は存在しない、って言った瞬間に、神の存在を証明することになる。
神って何だろうって何年も前に考えたときに、ヨハネの福音書の冒頭にある有名な「言葉」ってことに気が付いたんだけれど、
その話は長くなるからいいや。

 

心配しなくても何度か生まれ変わっているうちに、
そのうち「救済者」に出会える。
きっと仏典にだってそう書いてあるだろう。

でも、出来るなら、今、この場で、この人生を生きているうちに、救ってあげたいじゃないか。
次に生まれ変わって地球に来るの、何億年後かわからないんだし。

そんでもって別に心配しなくても、
なんかのマンガじゃないけれど、
実際に天国に行ってみれば、仏陀とイエスは普通に仲良くやってるはずだ。

日本人としては、それで何の問題も無いんじゃないか。
だから好きだよ、日本人。

 

簡単な日記というか、世間話の延長から書いたけど、これが俺なりのペインキラー、違った、つまり、俺なりのウグイス鳴かせてみた感じ。
(スピリチュアル系の音楽活動をしている知人に意見を求めたい気持ちだ、笑)

 

話が大幅にそれたけど、この高校2年の時に書いた仏教ソングを、人前で演奏できる日を楽しみにしています。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

トップに戻る