世は滅びても道は滅びない

 

さっきポストした話からの派生、そして補足。
あとは、自分の心の中のメモ。

 

保守派の人というのは、新しいものに対して、怒りがちだ。
また、道から外れたものに対して、批判的になりがちだ。

その気持ちは結構理解出来る。

彼らはそれについて、真剣だからこそ、そうなる。
何かを大切にしているからこそ、そのようになる。

 

たとえば僕も、音楽、特に、ハードロック、ヘヴィメタルといった分野の音楽について、そういった気持ちを抱くことがよくある。

僕は一応、カテゴリ的にはヘヴィメタルに分類されるバンドをやっているが、
それは実際にはどちらかといえば古典的なハードロック、ヘヴィメタルのスタイルだ。

だから、ある時代以降の、現代的なハードロック、ヘヴィメタルについては、実はあまり好きでなかったり、否定的に捉えているところがある。

では新しい音楽が嫌いなのかというと、決してそうではなく、
現代的な音楽、ある時代以降の音楽で言えば、ヘヴィメタル以外の音楽の方が好きなのだ。

 

僕は、古典的なハードロック、ヘヴィメタルのスタイルを、大切なものだと考えている。
そしてある意味、絶対的なものだと考えている。

その中には、追い求める価値のある「道」というものがあると感じている。

だからこそ、それを大切にする余り、それとは違ったスタイルのものに対して、批判的になりがちだ。

もちろん、それはそれで、自分のアイデンティティを作り上げている部分でもあるから、そう考えること自体は間違いではないと思う。

 

だけれども、だからといって、それとは違うスタイルの音楽であるとか、
また、そこから違う方向へと進んでいく世の中の流れに対して、
必要以上に否定的になる必要はないのだ、ということに、最近気が付いた。

なぜなら、そういった「大切なもの」は、決して廃れたり、なくなったりは、しないからだ。

 

昔から、「道」みたいなものが、世の中にはある。
すごく昔から。

たとえば、その昔、古代の中国では。
孔子とか、そういう人たちが、
「道」みたいな理想を求めて、
その「道」にもとづいた世の中を作ろうとした。
「道」にもとづいた政治を行おうとした。

しらんけど。

けれども、世の中は乱れており、
世間ではそういった「道」は行われていなかった。
つまり「道」は廃れていた。

なので、孔子とか、そういった人たちは、そのような乱れた世の中にあっては、
士官するに値しない、政治に取り組むに値しない、みたいなことを言って、
政治権力に関わるかわりに、
野にあって学問や教育に力を注いだりした。
しらんけど。

 

僕も時々、そんな気分になることがある。

たぶん人生の最初からそんな感じだったに違いない。

「道」が廃れた世の中に対して、にがにがしく思ったり、
そういう孔子とか孟子とか、昔の人にちょっとだけ共感してみたり。

あるいは、旧約聖書に出て来る預言者みたいな気持ちになったり。

 

(だからというわけじゃないけれど、”Dying Prophet”という曲を作りましたね、そういえば。)

 

だけれども、そういった孔子とかそういった人たちが求めていた理想は、滅びてしまったわけじゃない。

それらの人が求めていた「道」ってやつは、決して滅びてはいない。

むしろ、当時栄えていた国々が滅びて、そこから何百年、何千年という時代が流れても、「道」ってやつは、やっぱりそこにある。

たとえば日本の武士は、その孔子が書いた(かどうか知らんけど)「論語」とかを大切に読んで、その精神は日本の侍たちにとっても理想となった。
しらんけど。

そして、その「道」ってやつは、今でもやっぱりそこにある。

 

もちろん、キリスト教徒、「キリスト者」(クリスチャン)にとっては、
Jesus is the Way
キリストこそが道
である。

聖書にそう書いてある。

 

キリスト教徒ってのは、熱心だ。
熱心だから、そういった教義みたいなことをめぐって争いもする。
歴史を見れば、戦争とかもしてる。
やめてほしいけど。

僕はいつも、祝福をめぐって争うことは、
海の水をめぐってケンカするようなものだと感じている。
人は海の水をバケツで汲んで、けれどもその海を自分一人のものだと思い込み、
(それも神に対する熱心さと愛情の表れではあるのだが)
他に水を汲んでいる人がいると、これは俺のだと言い張ったり、
あるいは、君の汲み方は間違っているよ、と説教したりする。

実際には、海の水はたくさんあるので、人の持つバケツではひとりじめできないし、みんなで汲んでも減るもんじゃない。

また、水をどうやって汲むか、そのフォームに決まりなんてないし、
また、ひとりひとり、持っているバケツの形も違う。
どんな形のバケツで汲んだところで、海の水に違いはない。

 

そして、ちょっとでも教義に反するようなことを見かけると、
熱心なキリスト教徒ほど、躍起になる。

それは、
教義に反していること、というよりは、教義に反している「ような」ことだ。
なぜなら、キリスト教には、律法ってものも確かにあるが、それは前提であり、
それよりも大切なのは許しだからだ。
許しの中にキリスト教の本質があるからだ。
そうだったはずだ。

教義に反することがあるとすれば、
それは、
許さないこと
悔い改めないこと
だろう。

でも、許す、ってことも、
悔い改める、ってことも、
実際にはなかなか難しい。

こうやればいい、ってものじゃない。
それは神様にしかわからない。

 

人間は罪をもった存在だとされる。
人の世は罪に満ちているとされる。

だからこそ、「道」が行われている世の中、なんていうのは稀だ。
古代中国でもそうだったように、それは神話の世界の話だ。

現実には、人間の世は、いつだって「道」は廃れ、乱れていたんじゃないかと思う。

そうじゃなかったら、イエスさんはわざわざ十字架にかかる必要なんてなかった。

 

 

愛の理想ってものがあったとしよう。
聖書には有名な、第一コリント13章とかの、愛についての記述がある。
愛は寛容、愛は情け深い、愛は妬まない、愛は高ぶらない、とかいうあれだ。

人にとって人生の中で為すべき仕事があるとすれば、
それはこの愛の理想をどれだけ実現するか、ってことだろう。
聖書に書かれたような愛を、どれだけ人生の中で為すことが出来るか。
どれだけ、その理想に近付けるか。

人間というのは罪を持った生き物だ。
ただ、キリスト者っていうのは、それについて悔い改め、許されているというだけに過ぎない。
もちろん、出来るだけ罪を犯さないように努力するのだけれど。
それでもやっぱり人だから限界がある。悲しいくらいにある。情けないくらいにある。そうだろう。

そんな人間の愛は、やっぱり完璧ではない。
罪というものがやはり入り込む。
それは、人である限り、どのような愛の形であっても変わりはない。
たとえばゲイであっても、ストレートであっても、そこに罪があることに変わりはない。

それが罪かどうか、あるいは罪の重さに違いがあるか、それは僕はしらん。
ぶっちゃけ興味もない。
どっかの偉い学者さんや神学者さんや牧師が言ったとしても、やっぱりしらん。
大事なのは目の前のあなただから。

だが、罪を持ったしがない人間、人間というちっぽけな弱い存在であったとしても、どれだけ許し合い、どれだけ悔い改め、人生の中で、どれだけ愛を為すのか。
基準は結局それだけだと思う。

 

どんな人生であっても、
どんな関係であっても、
愛の理想は変わらない。

その愛に、どれだけ近付けるのか。
基準はそれだけでいいんじゃないか。

奇しくも、第一コリント13章には、
愛は最後まで残る、と書いてあるじゃないか。
人は子供の頃には、ああしちゃだめ、こうしちゃだめ、と教えられる。
だが大人になり、顔を顔を合わせて真実を見つめた時、愛ってどういうことか、本当のことがわかるのだ。
そして人は本当の愛を知るのだ。

そんなふうに書いてあるような気がするぞ。

Time to know real love.

 

国を憂う気持ちはわかる。
僕も日本の国を思うとき、その病の深さにどうしようもない気持ちになる。
誇りに思う気持ちが多いと同時に、やるせなくなることが多い。
最初からとっくにすべてが手遅れだったと知れば知るほどに思う。

けれどもそれも、小さなことなのだと、今は僕は思っている。

 

世の乱れを嘆く必要はない。

なぜならいくら人の世が乱れたとしても、
神の真実は変わらない。

変わらないし、なくなることは決してない。

海がいつまでもそこにあるように、
空がいつまでもそこにあるように、
「真実」ってやつは、
「道」ってやつは、
いつだって人の手の届かないところで輝いている。

 

だから、人の世がいくら乱れ、
世の中で「道」が行われていなかったとしても、
別に慌てる必要はない。

「このままでは道が廃れてしまう」
とか言って、大々的なキャンペーンを行う必要もない。
(たぶん)

なぜって、人の世が乱れているのは、
今に始まったことじゃないからだ。
世界各国の神話でも、大抵そうだと思うけど、
聖書にしたって、そのほとんどの部分において、人間ってのは「乱れきって」いたとされているのだから。

 

それでも、いつの時代にも、「道」を行う者はきっと居る。

それを伝統と呼んだっていいし、芸術と呼んだっていいし、ブルースと呼んだっていい。

武士道と呼んでもしっくりくる。
ジェダイと呼んでみたい気もちょっとする。
別になんかの漫画でもいい。

長い目で見れば、「道」っていうものは絶対に残る。
たぶん、僕にとっての「古典的なハードロック、ヘヴィメタル」も同じことだろう。

本道は絶対に傷付かないし、その偉大さが失われることはない。
(きっとこれから本当の意味で「古典音楽」になっていくのだろうし。)

 

だから、本当に神を信じているのなら、
その大きさと、人の愚かさを知っているのなら、
いちいち慌てる必要は、たぶんないだろうと思う。

心配しなくても、神の法は、人には変えられない。
神の真実は、人には壊せない。

滅びるのはいつだって「人」の方だ。
「道」は絶対に残る。

 

もうちょっと整理して書きたかったが、
別に本を書くわけではないから、せいぜいこんなもんだ。
なんかすみませんすみません。

 

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