ソーシャルメディアにちらっと掲載しましたが、バンドで京都を訪れ、様々な場所を巡ると同時に、ちょっとした写真や動画を自主的に撮影するということを行ってきました。
もちろん撮影はルールにのっとった形で行っています。
これはひとつには、僕らのバンドが、現在、和風メタルを演っており、またドラマーのShinryu師範が武道家ということで、和風のテーマの追及として意義があったという理由。
しかし本当のきっかけけは、Marieが「京都にあるそうにゃんルームを見たい」と言ったことでした。(それが何かの説明はしない笑)
そういったわけで僕は、10年以上ぶりに京都を訪れたのですが、
たとえ短い訪問であったとしても、
若い頃にはわからなかったことに、すぐに気付きました。
それはたとえば、少ない経験の中であっても、アメリカでいくつもの町を訪れ、過去にはドイツも訪れましたが、そういう中で、海外の「良い町」というものは、どういうものなのかを、少しは見ていて、見聞が広がった、ということがあります。(国内でも同じことが言えますが)
そうやって少しはアメリカあたりの「いい町」を見た後に、あらためて京都を訪れると、京都という町が、いかにインターナショナルな、普遍的な意味において、「良い町」の条件を兼ね備えているか、ということに、すぐに気付くんですね。
あれ、これって、アメリカのあの町や、この町と、遜色ないじゃん。いや、遜色ないっていうのは控えめで、むしろ・・・
それは、地形とか、磁場とか、そういったものも含めて。
で、ちょっと町を歩いただけで、いろいろなことに気付き、腑に落ちたわけです。
町の構造が、非常に理に適っている、ということが。
それは、政治とか経済とかいうだけでなく、霊的な意味において、理にかなっている。
で、いつからそうだったのかというと、たぶん1000年以上前から、そうだったのだ、ということに、あらためて気付くわけですよね。
きっと日本人は、みんなそうやって、京都という町の魅力に気付くのだと思いますが。
どちらにしても僕は、Marieと一緒に訪れた久しぶりの京都で、この京都という町の、あまりにも霊的な磁場の良さ、というよりは特別さ、にちょっと驚いて、感銘というよりは、衝撃を受けたわけです。
そしてあっという間に、僕の中でいろいろな点が線となってつながり、線は面となって、また立体となって、様々なものが腑に落ちました。
そしてそれは、僕の中で、ひとつ世界観、いや、宇宙観を変えるきっかけとして十分なものだったと思います。
そんで、それから2ヶ月の後、なぜだか、ライヴをするわけでもなく、ただバンドの皆で、ちょっと写真とか動画を撮るためだけに、京都を訪問することになりました。
神社とかだけでなく、キリシタンゆかりの地を訪れ、日曜には現地の教会の礼拝に参加したりもしました。
その中で、様々な、言葉に出来ないほどの意義、発見、霊的な体験と、気付きがあったのは確かです。
以下は、ソーシャルメディアに掲載した文章です。
僕たちのバンドの活動の意義を表明するステイトメントとして、あらためて看板に書いてもいいくらいの内容だと思っています。
日本の国の美しさ。
それは豊かな自然のもとで、人の調和が織りなす、神の世界の美しさです。
そんな理想の『和』の真実を求めて、永遠の都を訪れた私たち。
日本では珍しい『クリスチャンメタルバンド』として世界に発信している僕ら。
しかし、一般に西洋の宗教とされているキリスト教をテーマとしているからといって、それは日本の文化や、伝統を否定しているわけではありません。
むしろそれは逆であり、仏教の『空』の概念を知り、自然と人を尊ぶ神道の心を自然に身に付けているからこそ、日本人は本当の意味でキリストを理解出来るのではないかと考えています。
自らの命を犠牲とし、人の罪をかぶることで救いを成し遂げた、そのような神の姿を理解することは、本当の意味で『和』を知ることなしには難しいからです。
そして知れば知るほど、学べば学ぶほど、キリスト教は西洋の宗教という固定観念から解放され、日本人のルーツ、その歴史の中でこの遠いユダヤの『愛の神』がいかに大きな影響を与えてきたかを実感するようになったのです。
京都の、そして日本文化のおおもととなり、『平安京』の建造に大きく関わったとされる渡来人、秦氏。
その氏神とされる『松尾大社』(日本酒の神様として知られています)、そして彼らが治水に関わったとされる大堰川、嵐山を訪れ、私はなぜ彼らが日本の地を選び、そしてこの京都を平安の地(平安京=エル・シャローム)としたのか、その理由がよくわかったように思います。
日本の国の成り立ち、その神の計画を、この『永遠の都』を訪れることで理解出来たように思います。
一説にはユダヤ系の末裔と言われる『秦氏』、彼らが建立に関わったとされる神社仏閣がこの京都にはたくさん存在します。
けれども、八坂神社(シオンの神)も、松尾大社も素晴らしいものでしたが、私がいちばん神を感じたのは、それらの立派な神社仏閣ではなく、キリスト教徒の殉教の地を訪れた時でした。
イエス・キリストはエルサレムで十字架にかかりました。
エル・シャローム(平安の都)と呼ばれる東洋のエルサレムであるこの京都が、日本で最初の殉教と言われる『二十六聖人の殉教』の舞台となったのも、決して偶然ではないでしょう。
人の世の歴史は矛盾に満ちています。
しかしそんな矛盾の中で、虐げられた者たちの側に居たのがキリスト(救い主)であり、そこにこそ神の愛があるのです。
それが神の民であるユダヤの歴史の中で、キリストが十字架を以て示された本当の神の姿なのです。
そして同様に神の国の住人である日本の皆さんには、それがきっと理解出来ると信じています。
この神の国の『和』を、世界に伝えていくことが、表現者としての僕たちの使命です。
(そしてロックとはブルーズから生まれた『虐げられた者の芸術』であり、それはゴスペルから生まれた祈りの歌なのです)
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