歳をとってこういう走り書きをすることは少なくなったけれど久しぶりに。
神様に祈りたくなる時がある。
祈るしかないみたいな時。
たとえば世界の中で、大きな紛争や悲劇が起きた時。
もちろん冷静になると、そういった紛争や悲劇はいつでも世界のどこかで起きている。
たまたまそれが、自分たちに関わりのある地域や、政治的に関心の高い場所で起きると、世間で報道されるというだけのことだろう。
けれどもどこで誰に起きたとしても悲劇は悲劇には違いない。
なのでそんなとき、人々は祈る。
神様がそんな事態を解決してくれないかと祈る。
あるいはどんな理由にせよ祈る。
自分も祈るしかない。
自分はなんの社会的な力も持たないしがないインディミュージシャンでしかない。
こういった事件や災害みたいなことが起きると、自分は本当に社会的に力もなければつながりもなく、out of touchで無力な存在であることを思い知らされる。
けれども逆に考えてみる。
逆の立場で考えてみる。
もし自分に力があったとしたらどうだろうか。
もし君が神様だったとしたら、君はこの事態をどうするだろうか。
人々が祈り、その祈りが届けられる。
神様はその祈りに応える必要がある。
神様の立場にある君は、もし君だったら、どのように解決するだろうか。
たとえばその紛争で悪役とされている権力者を何らかの方法でやっつけて、それで解決と呼ぶことが出来るだろうか。
そういうのはもちろん神様の立場に立ってみないとわからない。
神の視点からは、きっと僕たちには見えないものがたくさん見えるだろうから。
けれどもきっと、神様が考える解決法は、僕たちが期待するような安直なものではないだろう。
悪役をやっつけておしまい、みたいなふうには、たぶん絶対にならない。
悲劇を終わらせるにはどのようにしたらいいのだろう。
そもそもなぜ悲劇というものが存在するのだろう。
なぜ神様はこのような悲劇と矛盾に満ちた世界を作ったのか。
僕だったら。
そう、僕だったら。
きっと、全部なかったことにするだろう。
悲劇も、争いも、痛みも、悲しみも、流血も、
ぜんぶ、それはフィクションでした。
ただの映画でした、っていうことにするだろう。
死も、病気も、老いも、怪我も、肉体的な苦しみも、
それはぜんぶ、ただの設定でした、
って言い切ってしまいたい。
それはただのフィクションだった。
オンラインゲームの中の話に過ぎなかった。
だから、こうして指をぱちんと鳴らせば、
それはすべて、なかったことになる。
そうしてしまいたい。
争いのない世界に生きたい。
殴られたら、殴り返すという人もいる。
それも確かに正しい。
やられる前にやるという人もいる。
それもわかる。
けれども、そもそも殴る必要のない世界に生きていたいという人もいる。
そして、そういう人の方が現代では多数派ではないかと思う。
そういう人は、もっともっと増えていくだろう。
僕は自由というものを信じている。
やらなければやられる、だから自分はこの銃を撃たなければならない。
それよりは、僕は、撃つよりも撃たれることを選ぶ方がまだ自由があると思う。
それは、たぶん死というものを恐れていないということ。
これがただのフィクションだということを、知っているということ。
その自由を選ぶ人が増えれば、もう戦争なんてものは、成り立たない。
争いなんてものも、成立しない。
人類が存在することの、生きていく上での、前提そのものが変わってしまうから。
あるいはこの世界はもうおしまいかもしれない。
もう、人類が存続するには、色々なものが遅いかもしれない。
けれど、最後にそういった争いのない世界が作れたら、
それだけでもやっぱり意味があるんじゃないかと思う。
話が噛み合ないのは、前提が違うから。
その前提を、ひっくり返してみたい。
ひっくり返るところを見てみたい。
生きていく上での前提を、変えてみないか。
そろそろそれを見てみたい。
最後の最後で、この大逆転。
ならば、このフィクションにも意味がある。
そして気付く。
指をぱちんと鳴らして、
すべてがなかったことになる。
すべての悲劇は、なかったことになる。
その力は、君の中にもあるのだと。
祈るっていうことは、本当はそういうことだ。
もし君が神様だったら。
君の願いが、神様に届くとしたら。
君はどうやって、争いや悲劇をなくす?
僕はたぶん、世界そのものを作り変える。
悲劇なんて存在しない世界を作り上げる。
そのために僕はペンを取ってみたい。
多くの先達がそうしてきたように。