さて明日は御園バプテスト教会(小田急相模原)にてライヴであり、ギターの弦を張り替え、着る服(今回はレザーベスト)を選んだついでに部屋で自撮りを撮ってインスタにポストしたのだけれど、
2ヶ月に一度程度のペースでローカルなライヴを行い、その前日に部屋でギター持って自撮りするという行為は決してセクシーではなく、それは決してイケてる投稿とは言えないわけで、自分としては、ううむ、情けないなあ、本当は年中、世界のどこかでライヴをしていたいのになあ、と思うのも事実である。
けれども、ローカルでも一切構わないし、それでもロックすることに幸せを感じている。
ただ、ヘヴィメタルというジャンル、そして70年代や80年代に黄金時代であったハードロック、そしてロック全般ということを考えると、
それは21世紀を迎えて以来、衰退の一途を辿っていたのは事実であり、そしてその「衰退」も、もはやどうにもならない段階まで進行してきたことが、様々な場所で明らかになってきてしまっている。それが2019年の現状だろう。
そしてたとえば、ある程度の名の知れた人たちであっても、既存の枠にはまらない意欲的な作品に対して、古くからのオーディエンスの後ろ向きな反応をネット上などで見ていると、「今は良い音楽がない」と嘆く声はいつだってあるが、もし劣化したとすればそれはミュージシャンだけでなく、誰がというわけではなく、聴き手、売り手も含め、社会全体、マーケット全体が変わっていってしまったのだと痛感せざるを得ない。
つまりは社会全体が、社会の仕組みとして、良いものを生み出さない構造になっていってしまったのであり、だからこそ、社会の中で前向きにロックが生まれていた若い時代を「黄金時代」と呼ぶのだ。これは、自然の成り行きとして、いかにも仕方が無い。
人が音楽を聴く理由、そしてあるいはライヴやイベントに足を運ぶ理由には、色々とあるが、それは実のところ本当に音楽を好きな人というのは一部であって、多くは社会的な理由、もしくは性的傾向等の個人的な理由というものに基づいた動機から来ている、ということは、この歳になれば僕も知っている、というか、歳食ってからようやくそのことに気付いた。
たとえばだからこそ、(これは70年代の昔からそうであっただろうけれども)、ファンを魅了する良いバンドというのは、女性ファンであれ、(逆に男性がターゲットの女性アイドルグループであれ)、大事なのは妄想のネタを提供することであり、良質な「都合の良い妄想」の対象となることだ。
そして、残念ながら、うちはそのへんは最初からNOであった。力一杯ノーであったし、今に至るまでそうだろう。それが良かったのか、悪かったのかは、僕にはわからない。
華やかな80年代もそうだったのだろうけれども、音楽を聴いている人というのは一握りで、人はスポットライトそのものに惹かれて集まってくるものだし、人間とはそういうものだろう。
またヘヴィメタルというジャンルについても、細分化が進む中で、こと日本においては一部の少数派がそれでも徒党を組むための拠り所として存在しているが、21世紀に入ってからの日本のメタルの秋葉原化していく方向性には(良し悪しはともかく)僕はついていけなかったのだし、またそういった徒党を組むための音は一切提供していない以上、そういった「メタルシーン」での支持を得ることも難しかった。(そして、今では、少なくともここ10年以上は、この日本という国はそういった秋葉原的なオタクカルチャーが支配する国になり、それがもはや多数派になったことは、皆さん御存知の通りだろう)
だから僕としては、もし国内のレーベルさんと話をするのであれば、そういったヘヴィメタルの業界の人と話をするよりも、むしろインディロックの文脈でお話をしたいと思っているし、もしそういった方向性で社会的なつながりを切り開くことが出来れば、僕としては(オシャレ系ポップに憧れるデトロイトメタルシティの主人公ではないが)夢が叶うと言えるかもしれない。
(そっちはそっちで、細分化された「タコツボ」なのだろうし、その事も痛いほど知っているつもりだが)(「クリスチャンミュージック」「ゴスペルミュージック」なんて、もっとそういう感じだしね、笑)
時代を考えれば、世界にはもう「ロックスター」なんてものは存在していない。
今の時代にいるのは「ソーシャルメディアのスター」であり、そこに音楽はほとんど関係がない。
知名度のあるベテランのミュージシャンであっても、今も活動を継続しているのはミュージシャンではなく「ソーシャルメディアのスター」として自分をreinvent(再定義)した人だけだ。
そして、残念ながら僕はソーシャルメディアのスターになる気はないし、そのための才覚も持っていない。
Eddie Van Halenがいつも言っていたように、「ロックスター」がスポットライトとゴシップにまみれている間にも、「ミュージシャン」は人知れず音楽を作り続けるが、このソーシャルメディアの時代に、そういった「ミュージシャン」に光が当たることはやはり稀だ。
それでも「王道」を求めて新しいロックを鳴らすことが、僕の個人的な「反抗」であるかもしれないが、そこに実が伴っているかどうかは、聴く人の判断に任せよう。もっともほとんどの人は、その「実」なるものを、インターネット上の数字でしか判断しないかもしれない。
さてそういったロックの衰退の「境目」、あるいは「契機」が、たとえばGunsn’ Rosesであったのか、Nirvanaであったのか、それは人によって意見がそれぞれだろう。
(僕はVan Halenの大ファンであるから、ロックにおける「純粋なクリエイティヴィティ」のピークがVan Halenの”1984″であったと考えることはやぶさかでないが)
オーバーグラウンドのメジャーシーンにおいては、そのあたりが契機だったとして、2000年代以降はどうにもインディシーンまで潜らないと「最先端」が見えない時代に入っていった。
巨大なアリーナで演奏し、巨大な数字をたたき出していたロックの時代は終わり、ロックは細分化し、大衆化し、より個人的なものになっていった、、、って、そのへんは、みんなとっくに「歴史の教科書」にも書いてあることだろう??
そして、その「インディシーン」すら、2010年代にはもはや陳腐化して、その本質は解体されてしまったように思う。
(いかに小規模なものであっても、人の目を気にせずに純粋に音楽を作るなどという行為はなくなり、インターネット上での見栄えやバズることを優先する価値観となっていったことは、インスタ映えという言葉を持ち出すまでもあるまい)
大衆化し、ロックが特別なものでもなんでもなくなり、より小さな、個人的なものになった時。それは自然の成り行きであって、その意味では僕はロックが死んだなんてまったく全然思わない。
それでも「音楽」は残る。
That’s what I believe in.
さてチリが大変なことになっている。
チリと言えば、2016年に、日本語で歌う「ヴィジュアル系クリスチャンロックバンド」であるところのVictoriano(ビクトリアノ)が、僕らが仲間たちと主催していたThe Extreme Tour Japanに参加するために地球の反対側からやって来てくれた。
2013年から2016年まで、4年連続で行ったThe Extreme Tour Japan (XTJ)であるが、本拠地であるアメリカのバンドではなく、日本側の独自の判断で南米チリからゲストを迎えたその4度目のXTJは、非常に良いものになった。
その時間を共にしたVictorianoの人たち、彼らの住むチリであるから、僕らとしても他人事とは思えない。つまり、チリとは南米の中でも、比較的治安も良く、経済も発展し、安定している国ではなかったのか。
そのチリが、様々な社会問題や経済問題で揺れており、民衆による大規模なデモが起きているというではないか。(そのあたりの詳しい社会情勢は、僕にはわからないが)
そして、そういった事態は今では世界中で起きている。香港しかり、バルセロナしかり。その他にも、世界の色々なところで、「抗議行動」のようなものが起きているから、それらに目をやれば、まるで世界中が揺れているように思えることだろう。
そういったところでは軍隊や警察が民衆を傷つけたり、暴力事件も発生するから、香港のことも、チリのことも、非常に心配ではある。
また、日本でも同様のことが将来的に起こらないと、誰にも断言することは出来ない。
つまり、社会の中に様々な問題が起きており、それらが積み重なっているのは、日本も同様なのだから。
大変な時代だけれど、きっとこれは自然の流れであり、避けることは出来ないのだろうと感じる。社会の変化。時代の変化。そして世界の変化ということだろう。
インターネットの時代になり、また、ソーシャルメディアの時代になり、人々は自由に発信し、自由に発言する。それぞれに、それぞれの(時に極端な)立場の主張を、インターネット上の空間で声高に主張する。
そして、ネット上だけでなく、実際に集まって声を上げるようになった。
Twitterを見ていると、いつの間にこんなにポリティカルになったかなぁ、と思うが、(みんなそう思っているだろう)、あっちこっちでポリティカルな論争が起きており、あっちの立場の人と、こっちの立場の人が議論(罵り合い)をしているかと思えば、別のところでは陰謀論が非常に楽しいストーリーを好き勝手に描いており(エンターテインメントとしては最上級だ)、どれが本当か、どれが嘘なのか、わからないのはもちろんこと、これこそまさに「収集のつかない状態」であるなあ、と、そう感じる。
そして、僕は、ああ、「ロックは世界を変える」とは、まさにこういうことなのだ、と、そう思った。
「みんなが本当に言いたいことを言い、やりたいことをやったら、そんなことをしたら世界はめちゃくちゃになってしまうだろう」
何かの物語か、小説で、そういう台詞があった。よく言われるセリフだろう。
で、それに対する回答は、
「いいや違うね、そしたら、そこは世界でいちばん幸せな場所になるのさ」
っていう返しだったと思う。
人間、そして社会というものは、もともとそういうものだったけれど、今は、そういった混乱や、収集のつかないカオスや、統制されていない情報や、それぞれの中にある矛盾が、どんどん表面に現れ、見えるようになって来た。そんなことも、とっくに教科書に書いてあることだろう。
そして、本当にそういう時代になったら、やっぱりみんな、困惑した(笑)
僕だって困惑したから、そこは、いつか読んだ小説の登場人物を笑えない。
人間には色々な立場があり、人それぞれの主義主張がある。
わかりやすく典型的に、リベラルとコンサバがあるとすれば、
リベラルの人には、リベラルの人で、社会の中で成し遂げるべき役割がある。
またコンサバの人には、コンサバの人で、やはり社会の中で果たすべき役割がある。
どちらも一定数必要なのは当然のことで、人間の社会とはそういうものだ。
そしてこれは希望が含まれた意見であるが、そのどちらが数として多かったにせよ、その時代時代で、それぞれの役割を果たすために、必要な人数というものは、きちんとそろっているのではないかと思う。必要なのは、自分自身の使命や役割に目覚め、本来の仕事を為すことだ。
僕は自分自身はリベラル側であるから、そちらの方向に社会を変えていきたいと思っているが、きっと、それは実現できるだろう。それは、各人が言うべきことを言い、為すべきことを為す中で、自然に変わっていく。いつだって人間社会はそうだっただろうから。
だから、その中で、自分と考えを異にする人たちや、保守派の人たちを、目の敵にする必要はない。たとえ少数派であったとしても、僕たちはきちんと役割を果たし、世界を変えていけるだろうから。
だから、この収集のつかなくなった世の中を眺めた時、僕は「ああ、これでいいのだ」と、そう思った。世界は、これでいいのだ。これで、正しいのかもしれない、世界の、ロックの行き先は。
少なくとも、偉大なロックスターでもなく、偉大な政治家でもなく、ヒーローすらも必要とせず。
僕は数年前から、民主主義というものを考えたとき、「政治の陳腐化」ということを言ってきた。
つまり、政治というものが陳腐化し、有名無実になり、最終的には形がなくなっていく。そのことは、民主主義というシステムの中にプログラムされた予定された機能の一部であろうと思うのだ。
果てしない議論と混乱の果てに、「支配」というものが、「政」(祭り事)というものが、それまでの形をなくし、支配する者と、支配される側の境目が、あいまいになっていく。そういった、まるで「老子」にでも書いてありそうなことが、これから現実になっていくのかもしれないし、たぶんもうなっている。
現代の民衆というものは、各自が信じているものが何であれ、もう、黙ってなどいない。
右であれ左であれ、発言し、主張をするし、そして行動する。
その多くは、些細な物事を論点の対象にしているかもしれない。
だが、それが誰かにとって大事なものであるのならば、やはり議論すべきだ。
「クリスチャンヘヴィメタル」なんてものを日本人ながらにやっている僕も、あるいはその「些細な論点」を鳴らす一人なのかもしれない。
だが、政治的あるいは哲学的というだけでなく、音楽的には、自分は「原理」であり「原則」を鳴らしてきたつもりだ。枝葉末節ではなく、リフ一発ですべてを包み込む音を求めてきたつもりだ。王道と言いたいところだが、上記のように、今の時代にあっては「王道」なんてものがそもそもニッチであり、少数派になっている。
王道は、今となっては底辺だ。
いや、底辺こそが、むしろ最初からロックの王道であったのか。
明日のライヴは小規模なものだ。
だが、商店街の中にある、バプテスト教会の地下を借り切って行われているそのイベントは、志が高く、画期的で、関係者やスタッフの熱意も素晴らしく、音楽的にもレベルの高いバンドが集まっており、これも間違いなく「世界の音楽の最先端」のひとつであると言いきれる、そんな誇りを持てるイベントだ。
僕らのバンドは無名の小規模なバンドかもしれないが、そして、相変わらず底辺から音を鳴らしている状況であるけれども、それでも僕らは誇りを持っている。
そこからの音が、世界を変える瞬間が、もうすぐやってくるはずだ。
底辺から、であるかもしれないが、いや底辺だからこそ、「世界を変える」ための、その音を、その決定的なたった一音を、鳴らしたい、いや、鳴らしてみせよう。
世界は揺れているし、これからもまだまだ揺れ続けるだろう。
形のなくなった「政治」というものが、新たな名前を見つけるまでは。
大変な世の中になったものだが、
勇気を持って歩んでいっていいのだろうと思う。
戦争というものすら、すでに形がないから、それでも戦う覚悟は必要だ。
その戦いは現在進行形なのだから。
でも、世界中で起きている、そういったデモや、抗議や、混乱を見ていると、それでも規模が大きくなれば、やはり血が流れる。
日本という国は和を重んじる国であり、日本の人々は世界にくらべて、より「和やか」であろうと思う。
ためらいなく銃を撃ち、身を守るために人を攻撃しなければならない外国の社会と違い、日本の人たちは、右であれ左であれ、人を傷つけたいとは思っていないはずだ。
だからこそ、そういった「血を流す」ことにつながる行為だけでなく、
つまりはデモや抗議集会ですらなく、
もっと違った形で、その「変化」を進めていけたら、理想的ではないか。
それこそ、様々な「表現」の中に、それらのメッセージを込めたらいい。
なぜなら、本当に世界を変えるってことは、誰の手柄でもなく、自然に変わることが一番だ。
そして、日本人ならそれが出来るだろうと踏んでいる。
そんなことが出来た日には、その時には日本は本当の意味で、世界をリードする国になっているだろう。
そんなふうに世界を変えられる音を、明日、あるいは今日これから、鳴らせるはずだと思って、なんとか生きている。
In Jesus’ name.