天下の取り方

 
 
最近、歳をとったせいか、「天下」ということを考える。
天下ってものに興味が出てきた。
 
僕はたとえば、世界一上手いギタリストになりたい、と思ったことはない。
また、ヘヴィメタルの速弾きの世界で、世界一の速弾きギタリストになりたい、と思ったこともない。少年の頃から、ぜんぜん無かった。(それは憧れのEddie Van Halenの本質が、速弾きとは違うところにあったからだ。)
 
そんでこのバンドを始めた時にも、天下を取ろうなんて気持ちはさらさらなかった。
そういうのには興味が無かった。
今もあんまり無い。
 
だけれども、それとはまた違った意味で、天下ってものを考えるようになった。
 
「天下を取る」って、みんなお決まりのように言ったりする。
野望とか、目標みたいなものか。
 
だけれども、天下ってどうやって取るのだろう。
そして、そもそも天下ってどういうものなのだろう。
天下なんてものは、そもそも一人の人間の懐におさまるようなものなのだろうか。
 
だから、僕なりに天下の取り方を、最近考えるようになった。
 
そういう、人間には不可能みたいな命題に向き合ってみることは、人間である以上、そしてやっぱり男である以上、とても挑戦しがいのある事柄だからだ。
 
 
天下を取るとか言っても、
地上にあるいろいろのものに、あんまり興味のない僕としては、
天下のすべてを手に入れるより、まず何よりも天をつかみたい。
天そのものをつかみたい。
 
天を仰ぎ見る。
天をつかもうとして、人は天を仰ぎ見る。
 
天をつかむには、まず天を知り、そして天を愛することだ。
 
だけれども、天は広過ぎて、天は大き過ぎて、
一人の人間の視野の中にすら収まらない。
 
君の見ている天は、どんなものなのか。
天下を取る、と言い放つ時、
その人間が見ている「天」とは、どんなものなのか。
 
天下を取る。
つまり、頂点に立つ。
トップを究める。
ナンバーワンになる。
なんでもいい。
 
けれども、あるひとつの、狭い価値観の中の競争に、
あんまり僕は興味がない。
 
さっきの例で言えば、
ヘヴィメタル的な価値観の中で、誰がいちばん速くギターを弾くのか。
ジャズ的な価値観の中で、誰がいちばん複雑なフレーズを弾くのか。
ビートルズ的な価値観の中で、誰がいちばん魅力的なポップソングを書くのか。
インディのドリームポップ的な価値観の中で、誰がいちばん切ないメロディを歌うのか。
 
そういったことにも、僕はやっぱり、あんまり興味がない。
たとえストーンズであろうとツェッペリンであろうと、ブルーズであろうと同じことだ。
 
それらのことは、狭い天の中での話だからだ。
 
限られた、ひとつの狭い価値観の中での、話に過ぎないからだ。
 
広くて限りのない天に、無理矢理に線を引いて、その中で誰かと競うことに、僕はあんまり興味がない。
 
それよりも、ひとつの価値観があるとするならば、僕はその価値観そのものを作ったり、壊したりしてみたい。
人は自分の価値観の中でしか物を見れないとすれば、その価値観そのものを疑い、疑い抜いた上で命をかけてみたい。
 
その人は、どんな天を仰ぎ見ているのか。
 
人間を見る時、その人がどんな天を仰ぎ見ているのかを見れば、人の本質がわかる。
 
だから答えを言えば、僕にとっての天下を取るということは、
誰がいちばん広く、大きな空を仰ぎ見るのか、
それだけの競争だ。
 
たとえば僕にとって、クリスチャンロック、
つまり、神のために自分の音楽を捧げることは、
 
何ひとつ自分を制約することではなく、
その逆に、自由に羽ばたくことのできる、
広く大きな空だった。
 
その気持ちは今も変わらない。
僕にとって、神が与えてくれたこの使命は、
まだまだ果てしなく広がる、
どこまでも続く大きな空だ。
 
とてもじゃないが自分のポケットには入らない。
けれどもこの空とひとつになって、
いつの日にか天そのもの、と言えるような音を鳴らしたい。
 
そんな野望だけは、心の中に持っている。

 

 

 

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