自分もずいぶんいい歳になって、
でもそれなりに、ちゃんと作るものは作ってきたつもりだ。
もちろん他人の評価はどうかはわからないが。
けれども、こうして創作の上では人生の「終盤」(だととっくの昔に思っている)になっても、
まだまだギターを練習していたり(そんなにしてないけどね)、
ギターもだけれどサウンドについて研究を重ねていたり、
本質みたいなものを理解しようとしているのは何なんだろうね。
また、歌唱の技術に関しては、もともと全然ダメなこともあって、
いまだにこの歳でも少しずつ向上している。(と思っている)
なんか僕は、まるでその人生の終盤の帰結において、
やるべき何か、とか、戦うべき何か、とか、成し遂げるべき何か、とか、
おっきなツアーであるとか、
some big gigが、
大きなギグがあるような
大きなギグが待っているような、
そんなふうに考えて、そんな前提で、物事をやってきたようなフシがある。
単純に円熟や、歳を取って積み重ねた豊かさに憧れがあるのかもしれない。
あるいはいつかは、これまでの努力が実る日が来ると信じているのか。
いつかは、その「晴れの日」とか「来たるべき日」がやってくると考えているのか。
そう知っているのか。
人とはそういっていつだって「来たるべき日」のために研鑽を続ける生き物なのか。
そうあるべきなのか。
たまに冗談のように言っていたんだけれど、
たとえば僕はRPGみたいなゲームをやる時でも(10代前半を最後にそういうゲームはやっていない気がするが、笑)、
ボスを倒すために、用意周到に必要なレベルよりももっともっとレベル上げをしてから挑むタイプだ、みたいに、そんなジョークを言っていた。
だとしたら僕が最終的に挑もうとしている「ボス」っていうのはどういうものなんだろう。
世の中では音楽業界そのものというか、少なくともコンサートやツアーみたいなのは止まっている。
僕の好きな有名なバンドたちも、たとえばツアーやコンサートを2021年に延期したり、あるいはわかりやすい例ではSmashing Pumpkinsなんかも、Melon Collieの25周年企画っていうことで、大規模なツアーを最近発表したと思うけれど、この冬や来年のコロナウイルスをめぐる状況によっては、来年2021年になってもそれが実現不可能となる可能性だってまだまだ十分にある。
そんなふうに世の中のミュージシャンの演奏活動が止まっている現在の世界において、いったい僕はこれから、どのような”big gig”を、これからの人生の「終盤」においてやろうとしているというのか。
ふと思い当たった。
天国でギグがあるのだ。
天国でギグがあるに違いない。
そのbig gigは、天国にあるのだ。
天国でbib gigが待っているに違いない。
なんかすげーコンサートとか、なんかすげーツアーとか。
すべてを賭けるにふさわしいでっかい何かが、そこにあるのだ。
たぶん持っていけるのだ。
形のあるものとか、物質に属するものは持っていけないかもしれない。
けれども霊に属するもの、あるいは魂に属するものは持っていける。
オーバードライブのペダルは持っていけないかもしれないが、
自分がオーバードライブについて理解した概念は持っていけるのだ。
ギターは持っていけないかもしれないが、
自分がギターについて理解した概念は持っていけるのだ。
お気に入りのギターそのものは持っていけないかもしれないが、お気に入りのギターの「本質」は持っていける。
レコーディングした楽曲は、たとえばCDやレコードの形で持っていけるかどうかわからないが、作り出した概念の形においては持っていけるに違いない。(そこでは、むしろ物理的に限界のあるこの地球上のサウンド以上に、本来の形でそれらの楽曲が存在し得るに違いない。
この世界においても世の中には物事に関して、才能や能力がある人もいれば、ない人もいる。それは人それぞれ、それぞれの分野によって違う。
僕たちはこの世の中、人生において、努力してそれらを学ぼうとするが、もっとも良い学び、もっとも良い訓練とは、生まれる前に神の世界ですでに学び知っていることだ。才能と呼ばれるものはたぶんそういうものだ。
たとえばスポーツの世界において、たとえば僕も大人になってからスケートボードを始めたけれど、才能のある人というのは、それらのスポーツにおける体の動かし方や、スポーツのプレイの仕方について、たくさんのことを前提のようにして知っている。それは技術的なことだけでなく、知識や興味、性格や気質に至るまでそうだと思う。
たとえばバランスの取り方とか、空中における姿勢の維持とか、いろいろの様々なことを、言われなくても、上手い人、才能のある人、というのはわかっている。
僕はスケートボードの才能もたかが知れている、あんまり無い、のは、やってみてわかったが(多少器用に足元で板を動かすことだけは出来たが)、
才能のある人からしてみれば、これらの、前提となるバランスや姿勢や動きや、そういった物事を僕がわかっていないことについて、「え、そんなところから教えなきゃいけないの?」といった具合になるかと思う。
出来る人、才能のある人、というのは、それらのことを、考えなくても、当たり前のようにしてわかっているものだと思う。
それと同様で、僕は音楽の才能については多少は恵まれたが(とはいえやはり不器用で、本当にもっと高いレベルでやれる人にはかなわないが)、
僕はそういった、物事の前提としてわかっていることが、どうやら人より多少はあるのだ、ということに、歳を取ってから気が付くようになった。
それは、神が与えてくれたギフトということになるが、それはどこで訓練したものなのか。
たとえば精神と時の部屋で何年もかけて修行したものなのか。
神の国において時間の概念が無い場所において何億年とかかけて身に付けたものなのか。
それはさっぱりわからんが、魂の中において、本当に理解した本質的な何かについてはたぶん次元を越えても持っていけるのだ。
だがこの世界において、僕らがいくつになっても、たとえば人生の終盤にさしかかっても、あるいは年老いて、人生の最後の日であったとしても、やはり僕たちが学ぶことをやめないのは、
それは、そういった、次元を越えて、違う世界において、新しい場所において、前提として知っている物事の理解を深めるためなのだと思う。
そこでまた、きっと僕たちにはbig gigが、大きな仕事が待っている。
天国だかどこだか、生まれ変わったらジャズも演れるかもしれない(笑)
今は複雑でやれないと思っているけれど。
天国であれ、世界のどこかであれ、
僕たちにはbig gigが待っている。
そう信じている。
だから、学ぶことをやめないでいよう。
成長することを止めないでいよう。
そう思って、書き記しておきたかった。
また、この世界にあっては、しょせん僕たちは「この世界に属さない」存在であるから。
これまでに演奏する機会をいただいたたくさんのステージ。
たとえそれが、世間から見て、小さいものであっても、
自分にはもったいないくらいの、「ここでしかありえない場所」。
そういった「特別なステージ」に立つ機会を、僕たちは何度も頂いてきた。
たとえばエクストリームツアーで演った、ホームレスと子供たちを相手にしたステージ。
地方の小さなハコで、組んでもらったイベント。
キリスト教の世界であれ、そうでない場所であれ、何か新しいことをやろうとしている人たちに向けた演奏。
そこに居る人たちが、すべて愛しいと思うからこそ。
そのひとつひとつが、
天国における「いちばん大きな、栄光のステージ」
そうだと思って、僕は、僕たちは、演奏してきました。
そう思っていたからこそ、僕たちは続けてきた。
I think this explains it all.