意地の悪い話題ではあるが、先日、とある音楽系のミニストリーの人たちと会った。
その場に居合わせたきっかけは色々である。
ヨーロッパに拠点を置く、歴史も伝統も実績もある音楽ミニストリーの人たちだった。
クリスチャンロックをやってる身からすれば、尊敬すべき偉大な先人ということになるし、実際に敬意を感じている。
んだけれども、野良信徒の身分で10年くらいクリスチャンメタルなんて言ってささやかにやってくる中で、僕はそれなりにシニカルな面も身に付けてしまっている。XTJを通じてアメリカの人たちと直接やりあった経験も多少手伝っている。
断っておくが、僕はStryperにだって文句を付けた。(苦笑)
できれば違うと言って欲しいし、身を以てそれを証明して欲しいが、残念な事実としてはキリスト教のミニストリーと言っても、やはり自分たちの利益になることしか考えないし、ただその利益の追いかけ方が一般の団体組織と少し違うだけかもしれない。
牧師とは言っても、祝福という名の栄誉や名声を求めてそれぞれに「番を張っている」人たちに過ぎないかもしれない。「番を張る」という言い方はたぶん精一杯に好意的な言葉だ。人間、誰しもが突っ張るにしても、神のために突っ張るのがキリスト者というものだから。
もちろん、僕だって一人じゃ何もできない弱い人間なので、尊敬するけどね、そういった「番を張っている」人たち、いろいろなことをやっている人たちのことは。だって、俺なんかほんと何もできんもん。
海外のミニストリーにはよくあることで、きっと牧師さんという職にある人たちは、こういった話をさんざん聞かされているのかもしれない。
「俺たちは中東でも、東欧でも、メキシコでも、南米でもうまくやった。だから日本でもうまくやれる」
こう言い出す海外の「実績のある」ミニストリー/ミッショナリーの人たちの話を聞いて、その瞬間に、「ああ、これはダメだな」とわかる。
波打ち際なり、水槽の端に岩が置いてあって、水槽の9割は水に浸かっているけれど、はしっこの岩だけは水から顔を出している。そんなふうな状況が見える。
いわゆる先進国の中で(もっとも今時先進国の定義も随分変わったが)、唯一、キリスト教が「まったくといっていいほど」根付いていない国。その理由を考えて来て欲しい。歴史を調べてから来てほしい。あえて言うなら遠藤周作くらい読破してから来てほしい。
それらの国の問題は状況が「悪い」ことだったかもしれない。
だが日本の問題は状況が「良過ぎる」ことなのだから。
もちろん、言っていることはわりと正しかったし、実際に勉強にもなった。
だが、だいたい「彼ら」(don’t ask me who)はそういう感じだが、読み筋は悪くないのだが、導き出す行動がちょっと違う。
僕は、その場で、平信徒の身分で、偉そうに発言する気は別になかったし、会合をぶちこわす気とかはもちろん全然ない。お互いの状況に合わせて、理解と調整を進め、彼らのミニストリーが、日本の教会と協力し合って、ちゃんと機能して結果を残せるといいな、と思っていただけだ。
そうなるといいなと思っている。
なぜなら日本の教会だって変わらなくてはいけない。
だからうっかり「プラン練り直して出直して来な」的な事を言ってしまったのだと思う。
(いや、オブラートには包んでますよ。日本人だし。笑)
でも、こっから話がアレな方向に行くが、
だからここから読まなくていいが、
たぶん僕の「霊」が言っていたこと、言いたかったことは、翻訳すればこういうような内容のことだろう。
もっと純度の高いキリスト教を持ってきてくれないか。
人間が神、そして宗教というものに関わる時、歴史の中でいつもそうであったように、宗教というものには支配というものがくっついてくる。
キリスト教が、西から日本にやって来る時、そこにはいつも支配ってものがくっついていた。だから、日本人にはそれは広まらなかった。
けれども逆に、東からやってきた時、それはあれこれ言うまでもなく、普通に日本人の間に広まった。ただ、そこに違う名前が付いていただけだった。
正しい名前で、正しく神さんの姿と、真実つーものが日本人に見出せるようになった時。
果たして何が起こるのか。
その答えは聞くな。
でも、誰もそんなこと、本当に欲してないだろ。望んでないだろ、そもそも。
そんな「やべえ」こと、誰も望んでないだろ。
望んでいるのは、自分たちの利益とか名声だけじゃないか。
日本人はかたくなだ。
そのかたくなさは、まるで旧約聖書にあるイスラエルの人たちとどっこいどっこいじゃないか。
けれどこの国でミッショナリーをやる難しさは、
たとえばモラルの高さ、生活水準の高さ、文化の高さ。
「宣教」しようって人たちが、そもそもこれらの面で、日本の「普通」にかなわない。
どれも落ちぶれてきてはいるが、それでもやはり、モノが違う。
そんで、この日本という地が、宗教にとって最涯の地であるという事実。
だからある意味、人類の歴史的な意味では、日本は宗教の面では「いちばん進んでいる」。
(そんで、そのうち世界全部が、そこに追いついてくるだろう)
そこに、歴史の中で血にまみれたキリスト教を持ってきても、あんまり通用しないだろう。
祝福と喜びと良い約束がいっぱいある宗教を持ってきても、そんなものは日本の仏教系、神道系の宗教の中にだってそういうのを提供してくれる宗教、および宗教組織はいっぱいある。
(つーか今時、普通のスピリチュアル系なんたらにもいっぱいある)
なにしろここは「最涯の地」だ。
宗教の最終到達地点だ。
そこにある「宗教団体」は、その中にキリスト教の枠組みだって、当然組み込んでいるだろう。そこへの対処の仕方もプログラムされているに違いない。
だから「支配」のキリスト教じゃ、そこは破れないだろう。
組織というのは、みんなそうだけれど、理念や理想がどうあれ、組織という形になった途端に、自己保全の力学が働く。それは、仕方のないことだし、人間は一人一人では弱い存在である以上、大切な何かを守るためには組織や団体という形を取るのはどうしても仕方の無いことだ。
世界というものは弱肉強食で、競争で、支配というものに満ちている。
でも、神の愛は、そうじゃねえ。
キリスト教はそうじゃねえ、ってことを見せてくれなきゃ、「日本人」は納得しないよ。
でもさ、そんな弱い一人一人でも、強くなれるんだってことを、キリストさんは見せてくれたんじゃ、ねえのか。
だからこそ、理不尽な状況の中で、迫害に合った日本の「キリシタン」たちは、勇敢に死んでいったし、あるいは勇敢に忍んで生き延びたんじゃ、ねえかな。
日本人が、まっすぐに神を見つめた時、どんな音が鳴らせるのか。
それが楽しみで、俺はこれからの音楽活動に、挑戦しようと思っているのだけれども。
日本の伝統に向き合ったクリスチャンメタル「Nabeshima」にね。
もいっぺん言うけれど、枠組みなんてものが、全部ぶっこわれちまった後に、それでも「信仰」が残るために、俺たちはクリスチャンロックなんてものを鳴らしている。
でも、考えてみれば、賛美歌っていうものは、昔からそういうものか。
ちなみに、何のフォローにもなってはいないかもしれないが、その日、もうひとつ、別の海外のミッショナリーの人たちと会い、やっぱり僕は平信徒の身分で偉そうに参加していたが、そっちの人たちとは、わりと仲良くなれた。オーストラリアのミニストリーだった。
理由は、なぜだろうな。
スタッフの中にメタラーが居たからかな(笑)