とりとめもなく長い記事になった。
半分は愚痴であるが、半分は前向きな思考である。
相変わらずヴォーカルトラックの録音に取り組んでいる。
1月の末の時点で、ヴォーカルが必要な22曲のうち、「リードヴォーカルはあと4曲」というところまで追い込んだのだけれど、2月に入ると様々な事情によって作業スピードが落ちてしまった。
それは、精神的なプレッシャーであったり、残っていた曲が内容の難しいものであったことや、体調、コンディションの管理がうまくいかなかったこと等、いくつかの理由がある。逆に言えば、1月中の作業は非常に順調に進んでいたということであり、今回の作業量や内容を考えると、それは幸運以外の何物でもない。
リードヴォーカルはそうはいかないが、バッキングヴォーカル、いわゆるコーラスについては、コンディションが悪い日でも進めることが可能なので、それらを並行して進め、先週というのか2月15日を迎えた時点で、やっとすべてのリードヴォーカルを録り終え、そしてバックグラウンドヴォーカルも半分は片付けることが出来た。
残るはおよそ半分のバックグラウンドヴォーカル(コーラス)をやるだけだから、あとはもう、それほど難しいことはない。
ただ、コーラスパートで厄介なのは、ハーモニーを付けるにしてもいくつかのパターン、いくつかのアレンジがあるので、たとえ事前に計画を立てていたとしても、ある程度試行錯誤しながらの作業になってしまうことだ。
けれども、時間さえあればそれほど難儀せずに進む作業であり、どちらにしても消化試合であり、秒読みに入ったと言える。
人生最大の制作であり、自分の音楽人生の到達点と言えるこの作品”Nabeshima”、その「録り」も、いよいよここまできた。
もうすぐだ。
(その後の、ミックス等のことは、今は考えない)
さて、それはさておき、ジェンダー、ということについて考える機会があった。
さらには「水と油」ということについても考える機会があった。
水と油、とは、霊に関することでもあり、この僕たちが生きる娑婆の世界についてであり、またどこかにあるはずの天国のことでもあり、またどこにあるにせよ救済ということと、それがどのような形を取るのか、という問題のことである。そして、これは相も変わらずそこにある最も大事なテーマとして、そうであったとしても、やはり愛を伝えるという奇跡のことである。が、その話題は今回は置いておこう。
いずれにせよジェンダーについてのことだ。
それは、こうしてヴォーカルトラックのレコーディング作業をして、自分の声、および、自分の声を使った表現に向き合う中でも、より意識して浮き彫りになってきたことだ。
なぜなら普通、人間は、自分の容姿ひとつとっても、それが人と比べて「どう違う」のか、ということは、普段は意識はしないし、また自分の「声」が人と比べて「どう違う」のか、ということについては、尚更意識はしないだろう。
シンガーや俳優、声優といった、声を商売にする人たちは、もちろん考えはするのだろうし、考えたからこそそういった職業に就くのだろうが、たとえそうであっても、普段それを「意識」しているかといえば、また別の話だ。
こと「シンガー」については、意識したからシンガーになったのではなく、意識しなかったからこそシンガーになったのだろう、という人の方が多いかもしれない。特にロックバンドにおいては。
同じテーマとして「セクシャリティ」ということがあって、
自分の「セクシャリティ」が他人と比べてどうなのか、ということについて、意識して認識することは、かなり難しいことなのではないかと思う。
たとえば「LGBTQ」とか、そういった「セクシャルマイノリティ」の人々にとって、少年少女の時代から、思春期を通過して、やがて大人になっていく過程で、自分自身の「セクシャリティ」その性質について「認識」することは、おそらくかなり難しいことだろう。
世の中の「教育」のプログラムやシステムの中に、そういったことをガイドしてくれる内容があれば良いのだが、(たぶん、しらんけど)、一般的な「男と女」という範囲のことですら、そういった「前提やルール、基本と応用」を教えてくれるものは、僕の知る限りなかったのであるから、一般から多少であっても外れてしまった場合には、いわんや、という状況だと推測する。
つまり、一般的な「男と女」、ストレートと言われる範疇にある人間であっても、その詳細な内容、具体的にどういった性的な嗜好や好みを持っているのか、等、わかってくるためには、それなりの時間が必要なのではないかと思う。
わかりやすい例で言えば、一般的な男性がスケベな話題に花を咲かせたとして、自分は果たして「巨乳、普通サイズ、貧乳」のうち、どれが好みなのか、という点について、自分自身に問いかけた時、「うーん、どうなんだろう」とならないだろうか。少なくとも僕は、若かった少年時代から、そんな感じであった。そこで「俺は絶対巨乳」と即答できてしまう人は、たぶんごく少数で、さもなくば生活の中のベーシックな嗜好や選択のレベルまで、世の中にあふれる情報によって左右され洗脳されてしまっているタイプなのではないかと思う。もちろんこれは僕の偏見であるかもしれない。
これは大事なテーマであるので、「モテたい」という動機でバンドをやること、その是非について、また「モテる」とはいったいどういうことなのか、「モテたい」とは具体的にどうなりたいことなのか、というテーマについて、別途詳細に深く突っ込んだブログ記事を書いてみたいと、かなり以前から思っている。
だが今回はまだその機会ではないので、やめておくけれども、
この年齢まで生きてきて、いや、もう今から5、6年前には「やっと」わかっていたけれども、僕にとっては「残念ながら自分はモテたくて音楽を始めたタイプではない」というのが自分のたどり着いた結論だった。
それはつまり、自分としては「モテたくてバンドを始める」という動機は、とても健全で正常なものだ、と考えており、「モテたくてバンドを始めた」人たちのことを尊敬しているということだ。
自分もそういうタイプのミュージシャンでありたかった、と思っているのだけれども、残念ながら現実は、自分は「モテたくてバンドを始めた」タイプでは無かったのである。
つまり、こういうことも、実際に始めた当初は、若かったこともあり、自分自身のことがわかっておらず、自分が世間一般と比べてどうなのか、ということも、それほどわかっておらず、よって、「果たして自分はモテたいのか、そうでないのか」などということは、考えたことも無かった、ということだ。
自分自身のことを認識する、ということは、それくらい難しいことではないかと思う。
では「モテる」ということについて考えた時、冷静に分析してみた時、そもそも自分は最初から「モテたい」とすら思っていなかった。そのことに気付いた時には愕然としたし、あぁ、僕が子供の頃から苦しんでいたのは、そのことだったのか、と思ったものだった。(いや、それは、少なくとも15歳くらいの時には自分の中で解決を見たのだが、あらためて何度も再確認する、という意味合いだ。)
スケベ、ということについて言及するのであれば、たとえば僕も芸術家のはしくれであるからには、いっぱしの「変態」であるつもりだし、(詳細は聞くな、笑)、青春時代には普通に性欲も持っていると思っていたのであるから、自分は性格こそ暗いが、人並みにスケベである、と考えていた。(いわゆるむっつりスケベのカテゴリに入るだろうと考えていた)
だが、大人になって、歳を重ねてみてわかってきたことは、それとは違い、どうやら自分は、性欲、というのか、性的に何かを手に入れたい、(わかりやすく言えば女にモテたい、ないしは、やりたい)、といった欲求は、他人と比べて著しく少ないのではないか、という疑いを持つようになってきた。それが疑いや推測の域を出ず、確証に至らないのは、「欲求」の形や性質について、他人と比較することは事実上不可能だからだ。
だからこそ、歳を重ね、人間観察を続け、世の中が少しずつわかるようになってきた時、世の中の人々というのは、こんなにも「性的な欲求」であるとか、それに基づいた色々なものに左右されて生きているのだ、と理解できた時、自分はそれが信じられなかったのである。
つまり、そもそも僕は、世間の人々が生活しているところの、その「前提」の部分から、すでにわかっていなかったことになる。逆に言えば、その「前提」をわからぬまま、何十年も漫然と生きてきた、ということだ。時間もったいないよな。笑。
(逆に言えば、世の人間がそうした「性的な欲求」を前提として生活していることに対して、「へえ、そうなのか、これは面白い」と思い、さらに人間観察に興味が出て来たわけである。)
(おそらくは恋愛小説の優れた書き手がいるとすれば、それはナチュラルに自分自身が恋愛が出来る人間ではなく、むしろ自分自身は恋愛をしないが、人間一般の恋愛感情や行動について、「へえ、そうなんだ、人というのはこうやって恋愛をするものなのか」と面白がって観察が出来る人の方ではなかろうか)
とはいえ、「草食」という言葉が普及して久しい世の中であるし、結婚しない日本人、セックスレス、若者の恋愛離れ、といったことがとっくに「普通」になっているこの日本という国であるから、この件についても、ある程度の理解を得られるだろうという予感も持っている。
だが、そういう意味では、僕は実のところ「草食」ですら無い。
僕が、自分は非常に気持ち悪い人間である、と自分で思うことは多々あるが、そのひとつとして、そういった一般的な前提ともなる「性欲」の部分は相当に薄いのに、そのわりに、「人に何かを伝えたい」「人と触れ合いたい」といったコミュニケーションに対する欲求は人一倍、あるいは何倍も持っていることであって、それがもたらすアンバランスさ、温度感の違い、距離感の違いが、他者から見れば「理解できない」「誤解を生む」「気持ち悪い」といった印象や、結果につながっていただろう、ということは想像に難くない。
これが自分の音楽表現、「クリスチャンメタル」なんてものを日本人だてらにやっている身に当てはめてみるのであれば、僕がステージで、汗をいっぱいに浮かべながら、満面の笑顔で「ジーザス!!」と叫んだとして、僕が普通に「素」であり、「普通に真面目」にそれをやったとして、ほとんどの人、少なくともほとんどの日本人にとっては、「え、冗談ですよね、それ」としか思われない、ということだと思う。そこで僕が「はい、これは冗談ですよ、あくまでエンターテイメントです」と言えれば、双方が笑って済ませられるのだけれども、現実には僕はそれを「素」でやっているのであって、受け取る側の「観客」は、それが冗談でないとわかった瞬間に「怒り出す」のである。少なくとも、それが今まで、僕が体験してきた現実だ。そしてその構図は、これから先もおそらくは大きく変わることは無いだろう。残念ながら。
そういったことも、「セクシャリティ」につながっている。僕はそう理解している。
「セクシャリティ」は、「罪」ということにもつながっていると思う。
そして、この「罪」という概念は、一般的な日本人が、キリスト教に触れる際に、もっとも「理解しづらい」ハードルとなる部分だ。
だが、その「罪」ということについては、やはり難しいテーマであるから今日は触れまい。
今回、書き綴っておきたかったのは、そういった自分の与えられた「性質」、自分に与えられた「セクシャリティ」ないしは「ジェンダー」、もっと広い意味の言葉で言えば自分に与えられた境遇。
つまり、「神様、どうして自分はこんなふうに生まれてしまったんですか?」という部分。
そこの記述、記述することによる認識。
それに次いで「もっとこうだったらよかったのに」という仮定(could have been)、別の言葉で言えば無い物ねだり。
そして、「いや、案外とこれがベストだったのかもしれない」という、受け入れ、ないしはあきらめ。
その部分である。
自分が女だったらよかったのに、と思うことは時々ある。
それは、別にセックスや恋愛の事であるとか、人生のこと、アーティスト活動のことについて、ではない。
そうではなくて、純粋に音楽的なことだ。
自分が作る楽曲は、かなりの確率で歌のキーが高い位置にあり、またその表現の内容も、「女性シンガーが歌った方がしっくりくる」曲が多い。
だから本当は、適当な女性シンガーを連れてきて、歌ってもらった方がいいのだが、自分の音楽表現、この「伊万里音色」(Imari Tones)というバンドにおいては、そもそも個人的なところから始まっているバンドであったり、メッセージ性の問題があったりと、様々な事情によって、自分で歌わざるを得ない状況がある。
だからこそ、決して能力的に恵まれているわけではないのに、「無理をして」「頑張って」、男だてらにそういう高いキーの楽曲を歌う羽目となる。
世の人々の中には、「では楽曲のキーを下げればいいではないか」と言う人もたくさんいるだろうけれども、実際にはそう話は簡単ではない。
僕の中にシンガーとしての人格と、ギタリストとしての人格が居るとすれば、音楽的なイニシアチブを握っているのはギタリストの人格の方であり、その彼に「キーを下げたいんだけどどうよ」と提案すると、ほとんどの場合には「キーを変えたら別の曲」「サウンドが変わる」「ギターの表現が成り立たない」等の理由をつけて否決されることになる。
そこで、「そんなのいいから、無視してキー変えちゃえばいいじゃん」と言われるとすれば、もしそこで気にせずにキーを変えられるようであれば、僕はそもそも自分の人生において、苦労して音楽なんてやらなくて済んだ、という答えを返すしかない。そこでキーを変えることが許せない人間だったから、僕は、大して夢もない現実の中で、自分で音楽を作らざるを得なかったのだ。
また、たとえば僕のシンガーとしての音域に関して、声質が必ずしもヘヴィメタル向けでなく、むしろポップ向けの声質であることなどに鑑み、楽曲のキーや声のレンジに関しても、「いいところ」に合わせた楽曲をやればいいではないか、と意見されることも、今までに何度もあった。(楽曲でいえば”Karma Flower”が典型になる)
「いいところ」というのはつまり、J-Popの一般的なシンガーが歌うところの、点が一個付いたところのCのちょい下辺りから、上は行って最高でAまで、くらいの音域のことだ。
だが、これについても話は単純ではなくて、じゃあキーを下げたら万事うまくいくかと言われたら、そんなことはなくて問題だらけなのだ。
技術的なことについて今回は言及はしないが、この「一般的ないいところ」の音域というのは、皆が思うほど簡単ではない。これは経験のあるシンガーさんや、歌の勉強をした人ならたぶんわかることではないかと思う。
あるいは今の僕は、それができるかもしれないが、少なくとも7、8年前の僕にはまだそれが出来なかった。
そして、もし「それ」を二十歳でやれたとするならば、それはもう、最初からスターになっている、というくらいのことだと思う。
僕はそれを二十歳でやれなかった。だから無名なのであって、その現実は変えられない。僕は、自分にできるベストを、自分なりにやってきているだけだ。
シンガー、歌い手、としての僕の幼い頃からの「経歴」「経緯」について、ここで詳細に書くことはしないけれども、少なくとも10代の頃に「バンド」なるものを始めた時、僕には高い声が出なかった。その出し方もわからなかったし、別に出したいとも思っていなかった。それは自分はあくまでギタリストであり、歌なんてものはどこかからハンサムなシンガーを連れてきて歌わせればいいと思っていたからだ。
僕がやっと「Gより上」の音域を手に入れたのは、二十歳か、21歳くらいのことであったと思う。二十歳かな。
それは、まだ力みの抜けない発声であったけれども、
子供の頃から「無口」「無個性」「大人しい」「優等生タイプ」な子供であった僕にとっては、そのコントロールなんてそっちのけ、馬鹿丸出しの音域は、初めて手に入れた肉体的な個性の表現であって、「無垢な表現」であった。
基本的にはそこからずっと、僕は自分の「自分ならではの声」「自分ならではの表現」を追い続けてきているのだけれども、
その時々によって、発声の仕方は変化、成長を経てきたけれども、基本的には僕の声は、「子供っぽい、素っ頓狂な声」である。それは、たとえば「朗々と響く、ヴィブラートの効いた声」であるとか、「荒々しい男っぽい太い声」であるとか、そういう典型的な男性シンガーの声からも「程遠い」ものだ。
一番「似ている」と比較されることが多いのはRushのGeddy Leeの声であって、要するに金切り声のような細いハイトーンなのだけれど。僕はRushは結構好きではあるが、かといって滅茶苦茶好きというわけでもなく、複雑な気持ちを抱いているので、その比較は光栄ではあるけれども、手放しに喜ぶ気にはなれないと感じている。(もったいない、とは思っている)
だが実は、Led Zeppelin的なことをやる時には適した声質であることも事実で、そこは、自分でも気に入っている部分のひとつだ。
ただ問題は、あの声、あの表現を、Robert Plantがやるからかっこいいのであって、
それを僕みたいな人間がやっても「かっこいい」とはならずに「なんか変」「気持ち悪い」となる可能性の方が高い、ということだ。
そもそも、たとえば昔の話で恐縮だが、高校生の頃、僕が実家にてLed Zeppelinのビデオを見ていると、それをたまたま通りかかって見たうちの妹は、ロバート・プラントを見て「なにこれ、気持ち悪い」とのたまったのであった。
なので、史上最高のロック・レジェンドであるLed Zeppelinをして、一般的なロックファンではないところの日本人の感覚からすれば「エキセントリック過ぎる」「気持ち悪い」となる可能性はむしろ高いのであって、そしてこれは推測だが、日本だけではなく、たとえばアメリカあたりの若者をつかまえてきた場合にも、1970年代にはそれが「エキセントリックでセクシーでかっこいい」ものだったけれども、現代の若い世代にそれを見せたら「なんか変」となる可能性は結構高いのではないかと思っている。
いずれにせよ、僕はもっとも影響を受けたシンガーはSuedeのBrett Andersonだと公言していることからもわかるように、自分の声の表現としては「中性的」なものを目指している部分が大きい。
自分が目指す声はどのようなものかと問われれば、「のび太くん」の声だと答えるようにしている。
それは、世代的に新しいものは知らないが、昔のオリジナルの「のび太くん」のことであって、つまり、女性の声優さんが少年の声を演じる時の声であって、のび太くんが「ドラえも〜ん!!」と叫んで助けを求めるその時の声が、僕の理想とする声だ、ということだ。もう一度繰り返すが、女性の声優さんが、少年の声を当てる時のその声を、逆に男だてらに出したい、というのが、僕の理想になっている。
その声が、ヘヴィメタルに向いていない、と言われれば、そうですね、すみません、としか言えないし、
その声が、表現として「弱過ぎる」「やわらか過ぎる」「女々し過ぎる」云々言われるのであれば、やはり同様に、そうですよね、すみません、と返すしかない。
これが自分の表現なんで、で話が終わってしまう。
で、ここで問題になってくるのは、やはり自分が「男」だった、という部分なのだと思う。
もし仮に自分が女であったのであれば、このあたりの目指す声の表現も、もっと容易に達成することが出来ただろう。それは、女性であれば、当然そこはナチュラルな音域になるからだ。
そしておそらく「気持ち悪い」と言われることも、もっと少なかったに違いない。
もっと言えば、僕がステージ上で、汗びっしょりになりながら笑顔で「ジーザス!!」と叫んだ時に、怒り出す人の割合は、もっと少なかったに違いない。その逆に「応援してあげよう」と思う人の割合は、もっと多かったかもしれない。
そして、僕が「性欲」といったものが希薄であり、その逆に「コミュニケーション」に対する欲求が人一倍強かったとしても、それを問題にしたり、怪訝に思ったり、アンバランスで普通ではないと思う人の割合も、おそらくはぐっと少なかったに違いない。
もし僕が女であったら。
では、なぜ、僕は男に生まれたのか。
さらに言うなれば、これで、僕が「男らしい男」であったのであれば、それはそれで良かった。
だが現実には、「一応、分類上は男になってます」というだけであって、肉体的にも精神的にも「男らしい」部分は、残念ながらほとんど持ち合わせていない。そういう状況だ。
プラス、と、マイナスの向きについて文句を言われるかもしれないが、
わかりやすく数字で表現してみるとして、
ゼロがまったくの中性であったとして、プラスの1から100までが男。数字が上がるほど男らしい、マイナスの1から100までが女、数字が下がるほど女らしい、というスケール(ものさし)があったとして、
マッチョな男の人が80とか90とかだったりするとすれば、僕はたぶん、せいぜい10とか、12とか、13あたりではないかと思う。
世の中にはいろんな人がいて、それこそセクシャルマイノリティと呼ばれる人であるとか、トランスなんとかとか、いわゆるオカマに分類される人であるとか、いろんなタイプの人間がいるから、本当にそういったトランスなんとかと呼ばれる「数値が一桁」の人たちには及ばないと思うが、かといって「男」と呼ぶにはあまりにもその要素が希薄、というのが、僕の立っている場所ではないかと思う。
もちろん僕の中にも、精神的に「男らしい」部分がまったく無いわけではないけれども、たとえば、女性の中にも「男っぽい性格」の女性や、「男らしい」性格の女性はいるのだから、それこそ、単純な分類は出来ない。
ここでさらに言ってしまえば、僕は「ゲイ」ですらなかった、ということだ。
もし自分が「ゲイ」であったら、どうであったろう、と考えることが無いではない。
偉大なアーティストの中には、「ゲイ」であった人物はたくさんいる。
「ゲイ」だけでなく「バイ」でもいいのかもしれないが、そのあたりの分類すら、僕には詳細にはわからない。
フレディ・マーキュリーやロブ・ハルフォードを始めとして、「ゲイ」のカテゴリに分類されるシンガーの中には、やはりセクシーな表現という意味も含めて、人並み外れた魅力を持つ伝説的なシンガーがいっぱいいる。
だから、もし自分も「ゲイ」であったのなら、もっと官能的に深い表現の領域に達することが出来たのではないか、と思うことが、時々あるのである。
(そして、もっと言ってしまえば、たとえ「中性的」な表現をしたとしても、もう少し受け入れてもらえただろう。)
だが、現実には自分はまったく男らしくも無い上に、かといって性的な嗜好について言えば、「普通のつまらないストレート」だった。
その事について、残念に思うべきなのか、あるいはこれでよかったと感謝すべきなのか、それは僕にはわからない。
だが、すでに「クリスチャン」といったことを始めとして、日本の社会におけるデモグラフィック的、統計的なデータの中で、すでに何重にも「少数派」となっているのに、その中でさらに、性的なトピックに限らず、少数派になるのも難儀なことであるから、あるいはこれで良かったと、少なくとも他人からは言われそうだ。
だが、もし「ゲイ」に生まれ変わったら、もっと良い歌が歌えるようになる、と言われたら、僕はそうするかもしれない。現実には、もう遅いと思うけど(笑)
(こういうのは、選んでなるものではないし)
もっとも、「クリスチャン」の世界で、「ゲイ」であったとしたら、それは社会的に、より苦労するであろうことは、推測が出来ることだ。だがこれも繊細な問題であるから、深く言及する資格は僕には無い。
いずれにせよ、僕はクリスチャンのはしくれであるが、「ゲイ」であったり、その他のセクシャルなんとかについても、あるいはストレートの範囲内であっても性的なあれこれについて、人に何かを言う立場ではないし、何かを言おうとも思わない。
保守派のクリスチャンのように「同性愛は罪だ」と言うつもりもないし、そんなことを言ったら、ストレートの人々だって同様に「罪」である。どんぐりの背比べというだけだと考えている。なんでマリアさんなり、キリストはわざわざ「処女懐胎」で生まれなきゃならんかったのか、みたいなことも言えると思う。
ヨセフは「正しい人」であって、マリアも「清い乙女」であったのだから、普通にセックスしてキリストが生まれても良かったんじゃん。でも現実には、天使だか宇宙人だかバイオテクノロジーだかなんだか知らないが、わざわざ「処女懐胎」で生まれる必要があった。それはやっぱり人間のセックスは「罪」の要素がどうしても入り込むっていうのが現実だからだと考えている。ストレートであっても、ゲイであっても、ね。
でも、愛があったんであれば、それでいいじゃない。人間なんだから。命というものは、それでも輝くことが出来るんだから。
ゲイであれストレートであれ、罪人(sinner)であれ聖人(saint)であれ、僕としては、いかした音が鳴ってりゃそれでいい、それが僕の基準であって、それ以上もそれ以下も考えたことはあまりない。
いつも言っているように自分がクリスチャンロックなんてものをやっているのは、それがロックンロールの究極だと思っているから、それだけだ。
(そしてそれは、かの「ロックンロールの母」であるSister Rosetta Tharpeが、ロックンロールのスタート地点ですでに「最高のクリスチャンロック」を鳴らしたことによって証明してくれている。奇しくも、本当かどうか定かではないが、そのSister Rosettaも「レズビアン、ないしはバイセクシャル」であったと言われている。もしそうだとすれば、それは決して偶然ではないと僕は感じている。)
で、自分がもし女であったら、自分がもしゲイであったら、という”what if”ないしは”could have been”の部分であるが。
これも引き合いに出して申し訳ないが、Calling Recordsで一緒にやっていた仲間のうち、オオハラシンイチと同様に、表現の上でシンパシーを感じていたアーティストに「石川ヨナ」がいる。
彼女とは年齢も同じであるし、表現としても共通点があり、僕としては、「もし自分が女だったらこんな感じだったのかな」を想定する対象としてはわかりやすい人物だった。彼女の演奏を見たことがある人であれば当然知っていると思うが、彼女は「男っぽい」骨太な表現をするシンガーである。それはちょうど、僕が「中性的」な表現をする男であるのと対照的だった。
ハードな表現を得意とするクリスチャンのロックシンガーで女性、という意味合いにおいて、もし10年早く出会っていたのであれば僕は彼女を自分のバンドのシンガーの候補として声をかけていただろう、ということは以前も書いたことがある。だが実際には10年遅く出会ったのであるから、現実の上ではそのように声をかけるつもりはさらさら無かった。唯一、ラップの曲を1曲、レコーディングでゲスト共演してもらっただけである。
彼女の活動やライヴを見ていて、インスパイアされることは多いが、かといって、自分も彼女のようになりたいか、と問われれば、それは全然そんなことはない。
それは、女性であることの「利点」も確かにあるかもしれないが、僕が自分が性別の上で「男」に分類されるからこそ(たとえ、男らしい男でなくても)、追求することの出来る表現、追求することの出来る活動、があるのを、ちゃんとわかっているからだ。
また、同程度にシンパシーを感じている「オオハラシンイチ」と比較するのであれば、僕の目から見て、彼はある意味とても「男らしい」人物であると思うが、
ライヴでの歌唱表現において、オオハラシンイチは、汗をかき、力いっぱい歌い、その声の音程、ピッチは、10回のうち5回は的を外し、一回のライヴの中で何度も声をひっくりかえし、どちらかといえば無様と言える格好で演奏を終えるが、
それに対して、石川ヨナは、ライヴでの歌唱表現において、99パーセントは声のピッチも正確に的を射抜き、見事なヴィブラートをきかせ、同じように汗はかいても、かっこよく演奏を終えるだろうと思う。(だいたいの場合には)
だが、それでも僕は、もし自分が見て判断するのであれば、10回のうち6回はオオハラシンイチに軍配を上げそうな気がしている。(音楽は別にスポーツとかの勝負ではなく、好みの問題なのだけれど)
そう言ってしまえば、男であることの最大の利点は、「不格好」であること、そのものだろう。それは、今更僕が言わなくても、明白な事実だと思う。男というものはすべからく不格好なものだが、何もせんでも最初っから不格好である、というのは、実は大きな祝福だ。
そんで、こと「不格好」であることについては、僕だって、自分なりにその道を究めているだろうと思う(笑)
そういうことかな、だいたい結論に達してしまった。苦笑。
ただ、もちろん、無いものねだり、what ifやcould have beenというのは、都合の良い仮定の話であって、女性全般が背負っておられるところの苦労、また引き合いに出した石川ヨナ本人からも、女が音楽活動するにあたっての「あるある」的な苦労話、みたいな話は聞いたことがある。それは、男性からしてみれば、想像の域を出ないものであるから、やっぱりどんな立場の人であっても、それなりの苦労や、条件の良し悪しがあるのは当然のことだ。
女性といえば、今ではバンドのメンバーになってしまったところの「うちの嫁さん」であるが、うちの夫婦についての話は、下記にちょこっとだけ書いたが、僕と「うちの嫁さん」は、これまた世間から見て一般的な意味での「夫婦」という枠にはあまり当てはまらない姿をしていると思う。言ってしまえば、人間の社会において夫婦は「社会的事情」および「経済的事情」から結びつくものだ。だが、僕らはその部分が非常に希薄で、そのかわり「精神的事情」での結びつきはたぶんかなり強い。だからこそ、僕らの関係は周囲から理解されにくい。若い頃はともかくとして、歳を経るごとにそれが明確になってきた。つまり、周囲からすれば、なんでこの二人が夫婦をやっているのかわからん、というふうになる。
そのような理由があるので、僕たち夫婦の間では「精神的事情」は非常にうまく機能しているが、「経済的」「社会的」部分においては、都合の悪い部分が多々ある。
一般的なジェンダーに期待される役割と、自分たち夫婦の持っている特性が、ことごとくミスマッチになっている、と感じることがとても多いのだ。
一般的に言って、夫婦のうち、一方が「クリエイティブなアーティスト」であろうとした場合、経済的に責任を負うことを期待されるのは男性の方がその度合いが強いこともあり、「真面目で優等生タイプな夫」が、「自由奔放でクリエイティブな妻」を支えるパターンになる方が一般的ではないかと思う。わかりやすく仮定してしまえば、この場合、夫は国立大学を出て一流企業の会社員ないし公務員になっており、妻は芸術大学を出て自由業をやっている、というプロフィールがわかりやすい。
だがうちの場合、この「役割」と「プロフィール」はことごとく逆だ。だから、生活をしていく上で、それぞれの能力と特性がミスマッチになってしまっており、ライフスタイルの上で、非常に無駄が多いというか、「ああ、これが逆だったらなあ」と思うことが多々あるのである。
つまり、僕が持っているところの(今では長年の音楽活動により立派に廃人になっているが、昔は)「ビジネス能力、英語スキルetc」を、僕ではなく嫁が持っていて、そのかわりに「自由奔放な性格」を嫁ではなく僕が持っていれば、もっと物事がうまく回るであろうに、と、感じることが常々なのである。単純に、音楽の才能を持っているのが僕ではなくて嫁の方であっても良かったかもしれない。そうすれば、僕はそれをサポートする方に徹することが出来ただろう。
だが、それも含めて、人が考えている一般的な「ジェンダーの役割」とはあくまで一般論であり、本当はそうではない、ということが世の中にはあるのだろう。たぶんうちの夫婦はそういうことだ。
そして、これは最後に書くことになる結論であるが、長い目で見れば、そこにはきっと重要な意味があるだろうと信じている。
世の中には色々な立場があり、いろいろな役割がある。
そして、世の中には「女性にしか出来ないこと」というものが多々あると思う。
その逆に「男性にしか出来ないこと」も同様に多々あるだろう。
冒頭で触れたように、自分は、どうやら最初から「モテたい」とすら思っていなかった人間だ。
なので、上で引き合いに出したCalling Recordsで仲間たちと話した時にも、「クリスチャン」ということもあり、日本における隠れキリシタンにひっかけて「潜伏する」「潜伏しつつ活動する」という話題になったことがあったように記憶している。(近年では「隠れキリシタン」について「潜伏キリシタン」という名称で呼ばれることが多いかと思う)
通常、バンド活動や音楽活動をする人たちは、なるべく人気が出るように、なるべく評判となるように努力するものだと思う。
だが、最初から「モテたい」と思っていなかった自分は、どうやら、なるべく人気が出ないように、なるべく評判とならないように、なるべく人から放っておかれるように、そのように自ら選んで活動をしてきたフシがある。
それは、無意識のうちにそのように選んでしまっているものだ。
下手をすると、それこそ生まれる前から選んでしまっていることだと思う。
それが、自分のやりたいことにつながっているのか。
その先に、自分の目指すものがあるのか。
その答えは、常に問いかけてきたことであり、今も問いかけている事であるが、
ネタばらしをしてしまえば、その「やりたいこと」が、今この瞬間にも見えているからこそ、こうして「自分が持つジェンダーの上での役割」という記事を書いている。それは、自明のことだろう。
身の丈に合わないことをやっているな、と思う。
普通はこんなことはやらないだろう。
僕のやっている表現は、その意味では、無茶を幾重にも重ね着している状態、とでも言うべきだろうか。
普通はこんな表現をしたいと思っても、
「自分は男だから」と言って、
あるいは別の国、別の環境にあっては「自分は女だから」、
という理由で、やらないのではないかと思う。
こんな曲は、自分で歌うものじゃない。
たとえJourneyのSteve Perryを連れてきても、こんなもん歌えるのか、と言いたくなるメロディラインを書きあげるたび、僕はいつもそう感じている。
たとえば分業制であったところの、
古い音楽業界における作家、作曲家、作詞家などであれば、
それは歌というものは「アーティスト」「歌手」に歌わせるものであり、
自ら歌って表現するものではないのだ。
あるいは自分も本来、そっちに進むべきだったかもしれないと考えることもある。
ジェンダーということで言えば、日本の男子、というか、作詞家が世の中一般に提供するところの歌詞の上で、そこに共感するファンも含め、日本の男子が本当に「本音」を言えるのは、可愛い女の子のアイドルに歌わせる歌を通じて、だけではないかと感じることがある。
それはつまり、男である自分がそれを言っても世の中には伝わらないが、可愛い女の子のアイドルであればそれを言っても許される、という理由によるものだと思う。結果的に「可愛い女の子のアイドル」は、「自分たちが思っていても言えないことを代弁してくれる存在」となる。この日本という国は、もうそのような状態の社会が長い間続いているように思う。が、これはあまりにも情けないこの国の現状ということであるから、悲しくなってしまうので、深く考えることはしないでおきたい。
今回の”Nabeshima”の楽曲の中にも、「これは普通、いかにも女性シンガーに歌わせるべき曲だろうな」というものがいくつもあった。
ああ、この曲は[誰々]に歌わせたいなぁ、って。
[誰々]に歌わせたら、きっと素晴らしい曲になるんだろうなぁ、って。
この[誰々]のところには、誰でもいいから、その時に一番人気のある実力派女性シンガー、とか、ベテランの女性シンガー、の名前を入れてほしい。[insert a name of any currently popular female singer]
それを自分で歌っちゃうのが、自分の難儀な人生であり、自分の「不幸」であったのだけれども(笑)
さきほど触れた、古い音楽業界における作家、作曲、歌手の分業制であるが、
これは、ロックバンド全盛の時代にも完全に廃れたわけではなかったし、
また、近年においては、アメリカのポップミュージックの世界においても、かなり復活してきているシステムだと思う。
で、twitterとかにも書いたけれども、ある時、録音作業を終えて、ラーメン屋で食事をしていると、この曲が流れてきた。
このDemi Lovatoという人は、僕はあまり知らなかったけれど、当然、ビッグスターであり、人気も実力もある人だと思われる。
なぜこの曲が耳に止まったかと言うと、シンプルなサウンドのバラードなので、歌詞がそれなりに聞き取れた。
で、僕は笑ってしまったわけだ。
なぜ笑ってしまったかといえば、僕の耳にはそれは、
「ガヤガヤとうるさい、皆が食事をしているバーやレストランで、ミュージシャンが(営業で)演奏している時に、(外人さんは大抵、しゃべってばかりで演奏なんて聞かないことが多いので)、無理矢理に注目を集めて、自虐的な大ネタとして笑いを取るための曲」
に聞こえたからだ。
もちろん、後で歌詞をちゃんとlook upしてみると、もうちょっとシリアスな内容のものであったけれど、そうした分業制で、作家が書いた曲であると考えれば、たぶんこの曲は、もともとそのような「バーで演奏する時に笑いを取りに行くための曲」であったはずだ。
それは、演奏や歌唱が凄まじいものであればあるほど、逆に笑いが取れる曲であり、だからこそ面白いネタなのだけれども、これを「普通に売れる良い曲」としてDemi Lovatoさんに歌わせることになったのだと推測している。
ちなみにぐぐってみたところ、Demi Lovatoさんは最近のグラミー・アワードにおいて、「カムバック」のパフォーマンスとしてこの曲を披露し、評判になったということだ。
そして、それはドラッグの問題でリハビリに入り、しばらく表舞台から姿を消していた彼女が、復帰にあたってこの曲を選んだ、という、シリアスな背景のある曲らしい。苦悩や葛藤、助けを求めるメッセージが込められた、ドラマティックな入魂の一曲、ということなのだけれども、
でも、ごめん、やっぱり僕にはどうしても「笑いを取りにいく曲」にしか聞こえない(笑)
どうしてもやっぱ、やかましいバーの中で、営業してるシンガーが「お願いだから誰か聞いて!!」とやっているシーンを想像してしまう(笑)
人間の世界においては、そしてエンターテイメントの世界においては、「不幸」というものは売れるものであると思う。
「愛」や「平和」や「幸せ」が売れれば、もっと良いのだけれども、現実には人間というものは「不幸」が大好きだ。
そのことは、昔からのお昼のドラマを引き合いに出すまでもないだろう。
現実には「憎しみ」を題材にしたものは売れるし、「戦争」を題材にしたものは売れるし、「不幸」が盛りだくさんのエンターテイメントは、売れるのだ。
だからこそ、アーティストの経歴というものは、不幸な生い立ちであったり、精神的な病を煩っていたり、虐待を受けた過去があったり、元ギャングのメンバーであったり、そういった経歴を持っている人が多い。
実際にそういった事を経験してきた人が良いアーティストになる可能性を、僕は否定しないが、
かといって、それを鵜呑みにするほど、世の中を知らないわけでもない。
別にアーティスト本人が、望んで嘘を付いている訳ではなく、それを売り出そうとする人たちが、そういった「プロフィール」を作り出すわけであって。それはプロレスの覆面レスラーのキャラクターなんかと同じで、「みんな、それが架空のものであるとわかった上で楽しむものだ」という暗黙の了解がある。
なので、このDemi Lovatoさんの曲についても、「ドラマティックな復帰」を演出するために選ばれたこの曲について、そのシリアスな背景のストーリーを、決して嘘だとは思わないものの、半分くらいは「塩をつまんで」(with a grain of salt)見るべきもののように感じている。
エンターテイメントというものは、もともとそういうものだろう。
かといって、世の中の音楽ファンの人たちが、そういった不幸な生い立ちや境遇を背負ったアーティストに対して「共感」する気持ちは本物であると思うし、
また、ファン、リスナーが、その「共感」を通じて、その音楽の中に希望や、前向きなメッセージを見出すのであれば、それはむしろ「本質」であり「真実」であるから、僕はやはりそれでいいと思う。それこそ、ミュージシャン、音楽業界の人々の「目的が達成された」ことであり、「努力が報われた」ということになる。
そういう意味では、これも「ジェンダー」に関係があるかどうかわからないが、
僕は「不幸」ですら無かった。
むしろ、このバンドの生い立ちを見ればわかるけれども、このImari Tones(伊万里音色)という音楽の成り立ちは、「個人的な愛」と「幸せ」を全面に押し出している。そもそもバンド名の中に、「最愛の女性」の名前が入っている時点で、すでに終わっているではないか(笑)
「不幸にして」僕はとても幸せな人生をやっていた。今もそうだ。
うちの嫁さんとは、高校時代に出会って、今年でなんと25年になるが、いまだにこんなにラブラブでいられるなんて、日々、信じられない思いでいる。
僕たち夫婦には子供がいないが、それは唯一、不幸と言えるかもしれない。なぜならそれは僕にしてみれば決して望んで選んだことではなく、僕は本来は子供のいる人生を望んでいたからだ。
だが、それを除けば、恐ろしいくらいに幸せだ。
そろそろいい年齢になっているはずのうちの嫁さんは、どういったわけか年々きれいになっているし、まったく訳がわからないし、説明がつかない。僕は半分くらい、というよりは半分以上、彼女は本当に天使か女神か何かなのではないかと、近年では思っているくらいである。
個人的な夫婦関係のことは置いておくとしても、僕らはどちらかといえば、若い頃から、周囲から見れば、あまりに仲が良いので「一生やってろ」「勝手にやってろ」と言われるタイプのカップルだったのであって、そう言われたからこそ、「一生勝手にやることにした」わけであり、また、このImari Tonesという音楽表現は、その「一生勝手にやっている」中から生まれてきた音楽だと言える。
そういう意味でも、一般に向けたエンターテイメントとしては、むしろ売れない要素が満載であったと思う。
幸せを全面に押し出した表現は、人を楽しませることもあるが、それ以上に、人を「怒らせる」ことの方が多い。理由はわかるだろう。
「僕たちはモテない、だからモテたい」と叫ぶパンクバンドは、たぶん人気が出る。
「私はずっと彼氏がいなくて寂しいんです」と叫ぶ女性アイドルは、たぶん人気が出る。
「俺はこんなに不幸で、苦しんでいるんだ!」とスクリームするモダンメタルのバンドは、たぶん人気が出る。
面倒だからそこから先は書かないけれども。
どちらにしても、僕らは「不幸」を売るバンドではなくて、その表現は、もともと、一人の女性にインスピレーションを得た個人的な「ラブラブ」の表現が、クリスチャンバンドとなって以降、「神様とラブラブ」という、もうちょっとユニバーサルなテーマに移行していったに過ぎない。
どっちにしても「幸せ」を前面に押し出した表現は、演る側としても受け取る側としても決して簡単なものではなく、むしろ最大級の大胆さが必要とされるものであると思う。
(ここで全盛期のVan Halenを引き合いに出すのはおそらく間違ってはいまい。つまり、あれ以上の「陽気なパーティー」をやれたバンドが、どれだけいるか、ということだ。)
まったくもって話が逸れた。
だが、たかだか録音作業の合間に頭の体操をするためのブログ記事であるから、問題はないだろう。
身の丈に合わないことをやっているな、と思う。
これ以上言っても言い訳にしかならないので、やめておくが、
ちっぽけな身で、無茶をして、いくつも無茶を重ね着していやっているな、と思う。
ていうか、無茶だ。
普通はこんなことやらないだろう。
自分はそれを無茶だと思ってやったわけではなく、そうするより仕方がなかったから、やってしまっただけであり、上手く演れているわけではないが、それでもちょっとずつ進歩してマシになってきたつもりだ。
なぜこんな記事を書く気になったかというと、
今回の”Nabeshima”のヴォーカルを録っていて、やはりその中で、
「うわ、これ、本当に男が出してる声かよ」
と、ジェンダーの垣根をついに越えることが出来そうな領域を感じていた。
それはもちろん、単純に音域の面ではなくて、表現の内容や、官能の面である。
自分の目指す「クリスチャンメタル」において、「聖なるホーリー」を表現するために、ジェンダーを越えたところにある「無垢なる声」の表現が必要だったことも事実だ。
それだけの表現が、ようやく出来るようになってきたことに、自分でも感銘を覚えている。
きっと、僕はこの作品で、この表現で、世界を驚かすことが出来るだろう。
その、ジェンダーを越えていきたい、その限界を越えていきたい、
という意味合いにおいて、
自分のちっぽけな身を振り返ってみた。
今まで、自分は、自らの「ジェンダー」に逆らうようにして、
無理をして、無茶をして、表現に取り組んできたかもしれない。
けれど、これからは、きっと、この「ジェンダー」が武器になっていく。
そう考えている。
男であること。日本人であること。まったく性的要素の欠けた痩せた小柄な日本人の男であること。年齢。世代。文化的背景。
これらが全部、これから自分の武器となる。利点となる。表現の上での礎となる。
「神様、自分は、なんでこんなふうなんですか」
「神様、自分は、なんで男なんですか」
「神様、自分は、なんでこんなおかしなジェンダーなんですか」
そう問いかけたくなる日もあるが、けれど、神はきっと、「君」にしかやれないことのために、すべてを計画して、「君」をそのように作ったはずだ。
僕はそう信じているし、たった今も、それを確信している。
男にしかやれないこと。
女にしかやれないこと。
あるいは人と違ったとしても、君の「ジェンダー」にしかやれないこと。
そこには、たぶんきっと絶対に「役割」がある。
そして。
人間は、肉体にも縛られるし、「性」にも縛られるし、境遇にも縛られるし、「罪」にも縛られる。
でも、たぶんそれは越えられる。
証明して見せたいよ。