翻訳の向こうの真実

年末年始ブログその1

 

最近、今更ながらにVan Halenというか、Eddie Van Halenに関する本を読んでいる。

2020年にEdward Van Halen氏が亡くなって以降、彼についての伝記であるとか、インタビュー集、写真集といった類の本はたくさん出版されてきたと思う。

今回、僕が読んだのは、
Steve Rosen氏によるTonechaser – Understanding Edwardという本と、
Eruption: Conversation with Eddie Van Halen (Brad Tolinski, Chris Gill)という本だ。

特に”Tonechaser”の方は数年前に出版されて以来、ずっと興味があって読みたかったのだが、なかなか日本国内で手に入りづらく、これまで読んでいなかったところ、最近ようやくKindle等で読めるようになったので、電子版を購入した。

まだ全部は読破してないが、どちらも英語で読んでいる。とても興味深い内容だ。
もっとも、”Eruption”の方でもSteve Rosen氏のインタビューをたくさん引用しているので、この2冊のインタビューの内容はかぶっている部分もかなりある。

 

軽く15年ほど前から感じて、指摘し、また言っていることであるが、その昔、僕らがキッズだった頃は、日本の出版社が販売している音楽雑誌などで、こういった大物ミュージシャンのインタビューを読んだものだ。それはもちろん、日本語に翻訳されたものである。

しかし、21世紀に入りインターネット時代になると、そういったインタビューは、原語というか英語の状態で、インターネット上で見ることが可能となる。
これは、英語さえ読めれば、よりアーティストが本来言った状態に近い言葉(基本的にはそのまま)で、ミュージシャンたちの発言を読めるわけだから、こっちの方がいい。
しかもその方が情報が早い。そのインタビューが日本語に翻訳されて、日本の雑誌(ないしはウェブサイト)に載るのは、数日後、数週間後、紙媒体であれば間違いなく数ヶ月後だったりするわけだから。

もっとも、今ではそういった状況ももっと改善し、インタビューの日本語訳は早ければ翌日にはどこかのサイトが載せていたりするし、そして言葉の壁もAIツールによって自動翻訳することで、ぐっと低くなっていると思う。
しかし、それでも誤訳はあるし、翻訳のニュアンスがちょっと違ってきてしまうことは、たとえ最新のAIでもよく起きる。

 

Kindleで読んだ上記の2冊に加え、ふと思い立ち、割と最近出版されたばかりであるところの、日本のギターマガジンの「Guitar magazine Archives Vol.8 EDDIE VAN HALEN」を購入してみた。

しかしやっぱり予想はしていたものの、掲載されているインタビュー記事の内容は、上記の”Tonechaser”や”Eruption”と大部分かぶっている。8割くらい、いや下手すると9割くらいかぶっている気がする。(言い過ぎかな。7割くらいかな)。 つまりはこの「ギターマガジン総集編」は、それらの本の内容をまとめて翻訳したものだと言える。

これはつまり、Edward Van Halenのインタビューという意味では、Steve Rosen氏が、特に初期の若い頃のインタビューを、貴重なインタビューをたくさんしており、それが世界共通に貴重な資料となっているという事だと思う。

でもまあ、日本の雑誌は作りがきれいで、美麗な写真がたくさん掲載されているから、これはこれで良い。

当時の「ギタマガ」の編集方針がどのようなものだったかはわからないが、そのへん「YOUNG GUITAR」いわゆるヤンギが偉いのは、なるべく独自のインタビューを取るように努力していた点だと思う。わかんないけど、昔のヤンギを見るとそんな感じがする。日本人の記者が、自分でインタビューした日本人によるインタビューという感じだ。

ただ、ヤンギはヤンギで、「編集方針」というのか「雑誌のカラー」の問題がある。僕が思うに、ヤンギのインタビュー記事には独特のカラーというものがあり、ミュージシャンのインタビューもその「カラー」に沿って編集され、翻訳される傾向が強かったと思う。それは日本の雑誌らしく、健全な青少年向けのカラーであり方針だ。教育上良いような内容にしていたのだと思う。それはそれで、平和な日本らしくて良いことだったと思う。でも、本当にミュージシャンがそう言っていたわけでは必ずしもないので、そこは割引いて読まないと誤解してしまうだろう。

なんにせよ、僕は昔の「ヤンギ」のコレクションなど持っていないし、少し実家から持ってきていた古い雑誌も、2年半前の火事の際にほぼ無くしてしまったので、そういう意味では、この機会に「ヤンギ」のインタビュー集も手に入れてもいいかもしれない。

 

どちらにしても、「翻訳」というものは、厄介なものだと思う。
そしてそれは、商品を輸入したり、輸入代理店みたいな商売にも言えることだ。

翻訳というのは、商売に都合がいいように、そして各方面に波風が立たないように、「マイルドにして」なおかつ「盛って」翻訳されることがほとんどだ。
これは食品とか、食べ物などでも同じことが言える。

それが嫌だったら、なんとかがんばって原語で読むしかない、みたいなことは言える。学者さんとか、物事を学ぶ立場にある人は、そうやって言葉を学び、原典にアクセスするものだろう。

都合のいい翻訳というのは、たとえばその昔、戦国時代に日本にキリスト教が伝来した時。
ヨーロッパから来たローマンカソリック、イエズス会の宣教師がいろいろ説教するのを、付き添いの日本人ががんばって翻訳したのだと思うけれど、その翻訳がいくぶん「マイルド」だったために、人々はそれを仏教の一派だと勘違いして、おそらくは勘違いしたまま信じていたという話を聞いたことがある。

そんなふうな例は、たぶん古今東西たくさんあるに違いない。

それはつまり、物事を伝えることの難しさであり、人間にとって何かを理解するということが、いかに難しいか、ということだ。
よく聖書を読む時に言われることだが、本当になんというか、びびっと来るひらめき、インスピレーション、いわゆる「聖霊の導き」がなければ、人間はなにひとつ理解することはできないのかもしれない。
それはあるいは勘違いかもしれないが、ひとつひとつ勘違いを超えていくのもまた、理解の過程である。

 

日本のロックは、勘違いの文化である。
みんなみんな、勘違いしていたのだと思う。

ロストイントランズレイション。誤訳。聞き間違い。言い回し。前提の違い。そして環境の違い。言葉が違うということは、世界観そのものが違うということだから、間違って理解されるということはある意味仕方がない。

それは実際、言葉に限らず、サウンド、音楽そのものの面でもそうだ。
音楽に国境はない、音楽はユニバーサルランゲージだとは言うものの、現代社会の音楽をめぐる状況を考えると、むしろ「音」そのものの方が誤解は大きいかもしれない。ギターをめぐる状況や、オーディオをめぐる状況を考えてみればよくわかる。そして、こっちの方が実は問題が深刻だ。なにしろ今はスマホで音楽を聴く時代なのだから。

もちろん、勘違いが一概に悪いわけではない。
勘違いから生まれるものもたくさんある。
そしてむしろ、新しいもの、クリエイティブみたいなものは勘違いから生まれるものだと言うこともできる。(まさにEddie Van Halenの生み出したクリエイティブは多くが間違い、無知、勘違いから生み出されたのだから)

でも時に、その誤解や勘違いを超えて、何かに迫りたいと感じる時がある。

それは、「イエス・キリスト」「神」といったものかもしれないし、「真実」といったものかもしれない。
そして今回、僕の場合それは「エドワード・ヴァン・ヘイレン」だ。

翻訳、誤訳、ロストイントランズレーション。
それらを超えて、その人の事を理解したいと思った時、文化や言葉、時代、環境、そういった壁をひとつひとつ超えていきたいと感じる。たとえ面倒であっても。
そういう意味では、理解というのはやはり愛なくしては成り立たないのだろう。

 

今回のギタマガの「総集編」。それは、80年代当時の誌面も掲載されているし、いつ翻訳されたのがわからない部分もあるけれど。
いろいろ含めて、やっぱり誤訳がいっぱいある。上記の2冊や、インターネット上で見ることのできる英語でのインタビューと見比べても、やっぱり誤訳がちょくちょくある。ちょくちょく、というか、なんなら結構ある。
やっぱり、すごくモヤモヤするのである。

そういった昔の音楽雑誌なんかも、誤訳はきっと多かっただろうと思う。けれどもそういった誤訳を通じて、僕たちは勘違いしながら、アーティスト、そしてロックを理解した。

その昔、いわゆる洋楽のロックのレコードやCDには、詳細なライナーノーツと共に、歌詞の対訳、日本語訳といったものが付属していた。この解説、ライナーノーツというものも日本独自の音楽をめぐる非常に興味深い文化だったけれど。

それらの「歌詞対訳」は、誰がどのように翻訳していたのかはわからないが、誤訳、迷訳のオンパレードであったと思う。もちろん、時には「名訳」もあったと思うけれど。
キッズ時代と違い、大人になってから、それなりに英語がわかるようになり、今になって見返してみると、本当に笑ってしまうくらいの「迷訳」がいっぱいある。それこそ誰かに特集記事を書いてもらいたいくらいだ。(“空耳”と”Engrish”の中間あたりにあるネタだ)

同じようなテーマでは、「邦題」っていうものもあるね。これは今はもう音楽の世界ではやってないと思うけど、映画の世界では今でも存在しているからね。なんでこんな邦題になった、みたいなやつが。

 

言葉の壁ということについてはいくらでも言うことが出来るし、それは日本人に限らず、外国の方々が日本を見る時にも双方向で起きているが、

では僕らが「日本のクリスチャンバンド」としてややこしい立場で活動してきて、そういった「言葉の壁」に悩まされたり、つまづいてきたかといえば、それはもう、たくさん悩んできたし、実際に活動に支障が出る程度にはつまづいてきた。

だからこそ、僕はそこをあまり、うやむやにはしたくないし、僕は言葉の向こう側にあるものが気になってしまう性質だ。
かといって誤解は理解への一歩であり、またすべての理解は誤解であるとも言えるが、結局は人にどう思われるかではなく、自分自身がどう向き合うかであり、世界そのものにどうやって向き合うのか、そこで自分自身の真実を鳴らすしかないと思われる。

音、つまり真実、は、言葉の向こう側にあるものだ。言葉の向こう側にある真実に、どう向き合うのか。そこにどれだけ真摯になれるかという事だろうと思う。

 

そしてもちろん、翻訳なんていうことをいえば、キリスト教だってそうだ。
聖書そのものの翻訳ということもある。
国によって、世界各地でキリスト教がどのように受容されてきたのか、という点もそうだ。

もはや音楽以上に翻訳が絡んでくるトピックだ。
突っ込んでいけば歴史の深すぎる泥沼だ。
けれど、結局のところキリスト教の本質はシンプルだ。
十字架。
十字架にどのように向き合うのか。
そして、それぞれ、どのように十字架を背負うのか、背負わないのか。
イエス・キリストに、向き合うのか、背を向けるのか。

ロックも本来それと同じはずだ。

 

 

僕がここ最近、今更、急に、思い出したように、Edward Van Halenに関する書籍を読みたくなったのは、たぶん、
彼が抱えていた苦しみを理解したいと思ったからだと思う。

たとえばキリスト教徒であれば、イエス・キリストが背負った十字架の、何十分の一でも、背負いたいと願うことがある。イエス・キリストが「受難」の際に受けた苦しみの、何千分の一でも、それを知り、理解したいと願うことがある。
(えー、正確な数字でいえば、ジーザスさんは全人類の罪とか苦しみを背負ってるはずなので、たとえ何十億ぶんの一だとしても、御免被りたいところです)

尊敬し、憧れ、その背中を、はるか遠くであっても追いかけたいと願う存在。
僕にとっては、それは、少なくとも二人はいて、それはEddie Van Halenとブッチャーズの吉村さんの二人だと思う。僕にとっては。

どちらも、ミュージシャン、アーティストとしての苦しみは、想像を絶するものだっただろうと思う。特に、その人生の後年というか晩年はそうだっただろう。

その何十分の一かもしれないが、僕もやはり、同じような種類の苦しみ、十字架を知らずと抱えているだろうと思う。
僕は日本のクリスチャンメタルバンドなんていうややこしい立ち位置で音を鳴らしていて、無名のインディであるが、その意味では、僕はそのこと(無名であること)を幸運だと考えている。
しかしそれであっても、たとえ何十分の一であっても、やはり創作を続けてきた者の苦しみがある。
僕はその自分の抱えている苦しみに向き合うために、Edward Van Halen氏の内面を、少しでも覗いてみたいと思ったのだ。
つまりは、これもロックという真実に向き合う上での、僕にとっての十字架の一部だ。

 

“Eddie Van Halen”は、ロックの歴史上、世界でもっとも有名なロックスターの一人であるが、同時にまた、世界でもっとも誤解された人物でもあったと思う。
だから、彼が抱えていたそういった苦しみの部分、闇の部分については、「商品」としての翻訳ではなかなか見えてこない。

そういう意味では、Steve Rosen氏の著書である”Tonechaser”は、一般的なキラキラした伝記よりも、一歩踏み込んだ個人的な深みを持っているように思う。
記事の正確性はわからないが、著作としては、やはり気合い、思い入れ、凄み、そして愛を感じる。
それはもちろん、Steve Rosen氏なりの一流の勘違いであったろう。

だが、それでいい。
あるいは愛とは、高度なる勘違いの事かもしれない。

 

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