革命は一人でやるものじゃない。
それが政治的なものであれ、技術的なものであれ、また精神的なものであれ。
それが生活上の何かであれ。
生活上の何かってやつが一番肝心だったりする。
それを変えるっていうのはちょっとやそっとのことじゃない。
あいかわらずというか、
なるべく色々な音楽を聴くようにはしているんだけれど、
自分にとってのロック、
自分にとってのロックバンドが、
わかりやすく言えば革命軍であり、
レジスタンスだってことに、
(14歳の気分に戻ったつもりになって)
意識的になったことで、
またちょっと見える景色が変わってきた。
基準は厳しくなった。
言ってしまえば、なかなか認めなくなった。
自分自身もだが、他人のことを。
いや、これは前からそうだけれども。
つい昨日もストライパーに文句をつけるブログを書いたでしょ。
(2年前に嫁さんがSSTJを止めたときのことを振り返ってるだけなんだけどね)
でもとりあえず僕みたいな人間は、
一日を始める時に、まず自己否定から始まるので、
そのへんは勘弁して欲しい。
自分がいかにダメ人間か、ってことを自分に言い聞かせている。
そうするまでもなく日々、骨身に染みている。
自分はしょせん、はんぱもの。
Suedeのひとつ前のアルバムでは、Outsider、だったけど、
今度のアルバムでは、アウトサイダーも通り越して、Invisibleになっちゃった。
認識してすらもらえない。
たとえばこれまで、
インディ規模でがんばっているバンドや、
ツアーでがんばっているバンドや、
ある程度の国際的な支持のあるバンドや、
そういったバンドたちを、
自分も良いなと思ったり、
参考にさせていただいたり、
目標にさせていただくことは、
多々あったんだけれど、
自分の欲しかったものがわかり、
自分のやりたかったことがわかり、
自分の目標の基準が上がると、
もうそういったバンドさんのことは、
言葉は悪いがどうでもよくなってしまった。
もっと言えば、
たとえば80年代のヘアメタルでもそうだけれど、
色々な時期のロックの歴史を見返しても、
果たして本当の意味でのロックバンドなんていうものが
どれだけ存在していたのか、
そもそもひとつでもふたつでも、存在していたのか、
そう思うようになってしまった。
だったら自分がやればいい、っていう発想は、人としてたぶん間違ってない。
だけれども、もちろんそれが違うことはわかっていて、
もし革命なんてものがあるとしたら、
それは一人でやるもんじゃない。
みんなでやるものだからだ。
みんなでちょっとずつ、やるものだからだ。
本当の意味でのロックバンド、なんてものが
存在したのか、と問いかけるのであれば、
人類の歴史の中で、
本当の意味での「革命」なんてものが、
果たして存在したのか、
そういうことになってしまう。
もちろん一応、クリスチャンロックとかクリスチャンメタルとか
言い出すほどには神を信じている身としては、
では唯一確かな本当の革命があったとすれば、
それはキリストの十字架である、
という答えは持っている。
どうしてもそれはある。
だから革命家気取っても、
ロックンローラー気取っても、
それらのものは全部幻想であって、
本当に何かを変えるってことは、
キリストの十字架くらいを見習うのでなければ、
何かを変えるなんてことは言えない。
それを感じ取っていたからこそ、
僕はキリスト教徒になって、
クリスチャンロックとかやり始めたはずで、
そのことはずっとわかっていたはずのことだ。
でも、救い主の物語が世代を越えて
何度でも語られるように、
そのことは、何度も何度でも、
自分に繰り返し問いかけなければいけないことだ。
革命なんてものが、
たとえば大きな河のようにして、
多くの人間が、
人の世の営みの中で、
少しずつ何かを変えていくものだとすれば、
じゃあお前は今までその革命に参加していなかったのかと
問われれば、
やっぱり参加していたわけだ。
ただ、その立ち位置が、ちょっと独特だったり、
微妙な位置に居た、というだけのことであり。
だけれども、その「立ち位置」に立てるのは、
あるいは下手をすると自分くらいだったかもしれない、
ということは言えて、
日本においてインディでクリスチャンヘヴィメタルなんてものを
やっている自分の立場が、
それを物語っている。
だから、俺は俺の考える革命に、
ずっと以前から参加していたのであり、
憧れていた「革命軍のリーダー」は、
確かにそこに居たのであり、
(それがキリストであれ、ヘンドリクスであれ、吉村秀樹であれ)
それは確かに思い描いていた理想の人生には
違いなかった。
だけれども、今、僕が、
少年の頃に無意識に描いていた、
「革命軍レジスタンス世界観」としての、
理想のロックバンドの姿に、
やっと意識的になったとすれば、
それは自分なりにこの段階で、
その革命軍の戦いの中において、
ここでもうひとつ
Up The Gameしておきたいという、
もう一段階、高いレベルにおいて、
自分の「革命軍」の戦いを遂行したいという、
希求であり欲求に他ならない。
だからオレはUp The Gameしたい。
そのために、今、新しい形でバンドを立ち上げているのであり、
そうでなければ意味がない。
そうでなければ逃走して隠遁した方がいい。
逃走と闘争って何で音が同じなんだろう。
今、この文章をタイプしながら聴いているのは、
どこかでタダでもらった、Ani DiFrancoのアコギ一本でやっているライブアルバムだけれど、
この人は確か90年代にデビューした人だったと思うが、
時代的なタイミングの充実もあるが、
この人も確かにその後のインディの文脈で言うところの
「革命」にふさわしい音とメッセージを持っている人だ。
つまりはアコギ一本で何かをやるとしても、
最低、やっぱりこのくらいのことはやらなくてはいけない、という事だ。
僕にとっては。
最近90年代をRevisitしていたこともあって、
またその事は他の機会に書きたいのだけれども、
たとえば現代のインディ音楽シーンにおいては、
今の世代にとってはバンドをやるってことは、
あまり効率の良いことでは無いこともあり、
女性シンガー1人でやっていくような
スタイルは、結構多くなっていると思う。
たとえばAlex The Astronautなんか、僕も去年くらい結構好きで聴いていたのだけれど。
でもこのAni DiFrancoとか聴いていると、その後のシンガーソングライターが21世紀になってやっていることを、すでに全部やっているな、と感じなくもない。
しかも、メッセージ性にせよ音楽性にせよ、すべて上回るクオリティで。
つまり最近僕が立てた仮説で、21世紀、2000年代、2010年代のアメリカのメジャーであれインディであれ音楽シーンのすべての感性は、90年代にSmashing Pumpkinsのビリー・コーガンが既に青写真をすべて鳴らしていた、というものなんだけれど。
いいんだけどね、それで。
規模ではなくて、たくさんの人が、
一人のスターではなくて、多くの無名の人々の手によって、
それが、「生活が変わる」ってことなのだから。
革命、って書くと、それはなんかかっこいいけれど、
いちばん大事なのは、
「生活が変わる」ってことなのだから。
普段飲むビールの味とか。
日本酒が良い感じの純米になるとか。
鳴らすメロディの音階がちょっと変わるとか。
ギターのセットネックがちゃんとするとか。
そういうこと。
僕が望むのは。
(でも、それって聖書にも書いてあるだろう? 美味いビールを供えよ、って。え、書いてない?)
でも、だんだん、この国でも美味いビールが飲めるようになってきたよ。
もうどこかに出かけなくても、近所で地ビールが飲めるじゃん。
そこが大事でさ。