預言者はいつも時間が足りない(曲のタイトル)

さて、この状況でいったい何を言うことができるだろうか。

時間がないなぁ、というのは最近いつも思うことで。
いろいろ処理すべきこと、言うべきこと、まとめるべき言葉、紡ぐべき音、作るべき作品、たくさんあるのだけど、とにかく時間がない。
時間が足りない、という言い方はしたくないが、なにかひとつを選ぶのであれば、という選択の問題は常にそこにある。

ある時期以来、僕はだいたい、世界はすでに終わったものとして考えている。すでに終わった世界に生きている。そのように感じてもうどのくらいたつだろうか。
そのたびに自分は生まれ変わり、すべて新しく、自分の限界を何度も超えて、ここまでそれでも歩いてきたように思う。
何度も何度も、世界は終わり続けてきたような気がする。

この人生を生きてきて、いつも思ってきたことだ。
人類の失敗、人類の敗北の原因があるとすれば、やはりそれは神を理解できなかったことだろうと思う。神を認識できなかったことだろうと思う。

イエス・キリストが地上に来て、十字架で神の本質を現した。
それから二千年くらいたって、人類はいろんなところを紆余曲折しつつ、色々を経て、発展し、科学や文化を発達させ、ここまで来た。

音楽はそこにあり、宗教音楽、賛美の音楽として鳴らされ、発達してきた。
そこから個人の内面を表現するようになり、人間の本質をより表現するようになり、20世紀にはロックンロールが与えられた。それは神の本質を鳴らすことができる音楽であったと思う。

それでもなお、やはり人類は宗教を乗り越えられなかった。宗教の枠組みを乗り越えられなかった。そして政治の枠組みを乗り越えられなかった。保身や利己主義から抜け出せなかった。権力の誘惑から逃れられなかった。

人間は弱い。人間は皆、自分が可愛いのだ。かのペテロがイエスを見捨てて逃げ出したように。
その点においては、僕だってやはり大差ないだろう。

僕らのバンドがここまでやって来ることができたのは奇跡だ。

自分たちの純粋な信仰を込めた”Victory In Christ”を始めとして、
日本の歴史に基づいて霊的なメッセージを込めた”Jesus Wind”を作り、
究極の到達地点である”Nabeshima”を作り、
そしてハッピーエンドアルバムとも言える”Coming Back Alive”まで作り、発表することができた。

そして何度もアメリカをツアーする機会に恵まれ、規模は小さくとも、日本のインディバンドとして世界に発信することができた。

もちろんこれから、さらに作品をいくつも作り、また”Christian Samurai”(仮)アルバムを作って、Nabeshimaの方向性をより推し進めた「和風クリスチャンメタル」を提示し、伝統芸能としての正統派ハードロック、ヘヴィメタルを確立したいと思っている。

そして、そのためのバンドメンバーも与えられているし、技術も磨かれているし、自分もさらに高みを目指していく気持ちは満々だ。

だが、さて、今年を準備期間として考え、来年から世界に向けて始動していくとして、果たして世界情勢はそれを許すだろうか。アメリカの政治情勢は、それを許すだろうか。
どうしてもこれから、世界は混乱に向かっていくように思える。

過去十年あまりの間、世界は、そして世界中の政治情勢というものはソーシャルメディアの影響力に支配されていたと言うことができる。そして、そんなソーシャルメディアを見るからネガティヴになってしまうのかもしれないが、現在の世界は、憎しみと、分断と、不信と、保身と、混乱と、誤解と、self-righteousnessと、不信仰に満ちている。そして、今やそういった混乱も極まれりといった地点に来ていると思う。

音楽について言えば、人によって意見は違うだろうが、ことロックの精神と本質という事を歴史的に見れば、圧倒的にロックは死んでおり、敗北し続けてきた。
僕らの世代はロックが死ぬ様子を見続けてきた世代だ。
1990年代にはオーバーグラウンド、メインストリームにおいてロックは死んでいたと思う。僕たちはそれを前提として生きてきたし、それを見た上で、ロックが死んだことを前提として音を鳴らしてきた。好むと好まざると、それが僕たちの人生だ。
2000年代にはアンダーグラウンド、インディシーンにおいて、ロックの精神を引き継ぐ素晴らしい音楽が生まれていたと思う。
しかし、2010年代に入り、ストリーミング、そしてソーシャルメディアが世界を席巻し、人々の日常生活までを支配するようになると、ミュージシャンたちはもう、本当に良い音楽を作らなくなった。また、本当に良い音楽を鳴らす者は衰退せざるを得なくなった。

もちろん、ポジティブになりたいのであれば、まだ「ロックは死んでない」と言い張ることもできる。
つまり、小規模なローカルにおいてはまだロックは鳴らされている。僕らもそれを守ってきた。
だが、現状ではそれがメインストリームになることはない。
また、敗北の上で鳴らされたそれらの音が、ロックの本質に達することも、また期待できないだろう。僕の経験上、ミュージシャンは「ガラスの天井」の外側にある音は鳴らそうとしないものだからだ。

もちろん、ブルーズはいつだってそこにあった。
ブルーズは不死身だ。ブルーズはいつだって勝利している。ブルーズはいつだって栄光に包まれている。
だから、望みはそこにあるかもしれないが、それは世の栄枯盛衰とはまた違った場所の話である。
ブルーズは鳴らされ、引き継がれるが、ブルーズマンはやがて野垂れ死ぬ運命にあるのだから。
本当の意味でブルーズを鳴らせる人間が、現代にどれだけいるのかは知らない。(リサーチするべきだろうか)

ロックが死に向かう分岐点。
僕にとっては21世紀の訪れと時を同じくしてVan Halenがいなくなったことがそうだったし、
また2013年に僕が日本のロッカーでもっとも尊敬する一人である吉村秀樹氏(bloodthirsty butchers)が亡くなったこともそうだった。

それ以外にも、ロックが終わった瞬間、ロックが死んだ瞬間を、僕は何度も体験してきたように思う。

それでも、その砕け散ったかけらを拾い集めようとしてきたのが、僕らの人生だった。だいたいそんな感じだ。

人類は失敗したと思う。
宗教は失敗したと思う。
たぶん科学も失敗した。科学には可能性があるが、それを使う人間の方に限界があるからだ。
キリスト教は失敗した。
俺たちは神を理解することができなかった。認識することができなかった。
神を見ているつもりでも、みんなが偶像を見ていた。
結局はself-righteousの集団オナニーであった。
ロックンロールも失敗した。
人類はロックンロールの本質を見失い、ロックミュージックはよくある処世術のひとつにしか過ぎないものとなった。
魂の本質を鳴らそうとする者は結局いなかった。
インターネットを始めとする情報技術は人々を愛と希望でつなぐかわりに、憎しみと不信で分断した。

僕も失敗したのかもしれない。
俺は本当はもっとやれたのかもしれないが、不器用すぎて、意気地がなくて、fall shortしたのかもしれない。
僕は救世主にはなれない。
僕はこの世界を変えられるとは思わない。

それでも、身近な人々だけは天国に連れていきたいと思った。
信じてくれる人には希望を見せようと思った。
それはまあ、最後まで、やろうと思うし、最後までトライするし、最後の瞬間まで戦おうと思っている。

でもどうかな。
だいたい人類の歴史っていうのはいつもそうだったんだろうけど、
ここまでの成り行きは見事に悪魔ちゃんの策略どおりに進んでいるように見えるよ。

神が人類を見捨てていなければ。
それでも、それを超える神の計画ってやつが、あるはずだと思うんだけど。
そんな奇跡が果たしてあるのだろうか。
勝利の瞬間というものを、僕はこの目で、生きて見ることがあるのだろうか。
それは人類にとってはおなじみの問いかけ。
ファウスト的なあれだろうか。

でも言ってしまえば、僕は愛する人とともに、30年一緒にいて、ここまで人生を生きてくることができたし、僕らみたいなバンドがここまでやり続けることができたこと自体、やっぱり奇跡だ。

それは現代だから可能だったことだ。
でも、それは実はいつだってそうだったのかもしれない。
表の歴史に書かれていないだけで。
人々はそうやって希望をつないで来たのかもしれない。
本当の歴史ってそういうことなんだろうか。

日本の古いキリシタンの歴史に、僕がヘヴィメタルを感じるのはそういった理由かもしれない。

神はこの世界を作った。
父なる神は天にいて、人類がどうなろうと痛くも痒くもないし、その気になれば一声で人類なんて終わらせることできるんだろう。神は偉大だから。
でもそのひとりごであるSon of Godイエスキリストは、地上で苦しむ俺たち一人一人のそばにいて、俺たちひとりひとりのために泣いてくれるのだろうと信じている。
まあ、遠藤周作的な解釈だけれど、僕はやっぱり最後には、そう祈らざるを得なくなってしまうよ。

今日はここまで。

 

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