インターネットは便利で、
いつでも世界中とつながるけれど、
逆に、精神的に一人になれる空間が少なくなることでもある。
というわけで、落ち着いて、日々の出来事を書き留める時間がほしい。
僕にとって書き留めるという行為は祈りにも近い、かもしれない。
あるいはただ頭の中の整理か、あるいはただの脅迫観念かも。
覚えてるところから。
先日は、恵比寿CAMにて、とある飲み。
うちの嫁さんが、ADW関係で良さげなCAM友を見つけてきたので、
一緒に飲んできた。
こうしてつながりが、公私ともに、ADW関係も、
広がっていくとよいですね。
そして、その前に、その日は、007の新作をやっと見たんだった。
なんだか、前作から、そんな時間がたったように感じない。
なぜだか、ここずっと、007は映画館でちゃんと見ている。
そういう習慣になってしまった。
横浜の、とある、ちょっとはずれにある街の映画館で見て、
とても、その郊外具合が心地よかった。
横浜もちょっといくと、とてもよい感じの都会/地方具合で良い。
うーん、良い。
007の前作、ダニエル・クレイグだっけか、が、ボンドになった最初のやつ、
それを、見たのが、2年前。米持師匠とSXSWを訪問して、初めてアメリカに行くちょっと前だったような気がする。
逆に言うと、あれから2年も、あっというまに、たったわけだ。
2年かかった、というべきか。
2年、かけたのか。
ちゃんと、また、行けるといいな。
大人にはなったがまだ子供だ。
でもだんだん大人になってきてると思う。
人間が本当に大人になれるのっていくつぐらいなんだ。
映画の感想としては、
全体の出来とか技術的なところは、
すんごい素晴らしい、
現代のこういうのって、ほんと、優秀な人達が、
みんなで作ってるんだろうから、ほんと凄い。
世界の人達のクリエイティヴィティ、って、どんどん進化して向上してるから、
たとえば、一人の天才とかヒーローが、全体をリードできるような牧歌的な時代では
もうとっくにないんだろうね。
しかし、とはいえ、
前作をひきずる中、意外と弱いストーリーと展開。
張ってある伏線にしても、意外とおなじみのものであったり、
まったく説明や回収がされないものも多々あり、
その点では、全体を貫く物語の演出の弱さを感じた。
その点、衝撃的なインパクトがあった前作に及ばないと感じた。
しかし、スピーディな展開の中で、
細かいの感情の描写が織り込まれており、
また、前作からの新しいボンドの人物描写も引き続きじわじわとリアルで、
何度か見てみれば、より楽しめるだろうと思った。
総合すると十分な出来であると思った。
しかしいちばんびっくりしたのは、ボンドと、メインのボンドガールが、最後まで一度もエッチしないところでした(笑)
これは、お約束を破ったという意味でも、かなりびっくりでした。
そして、その日は、飲んで会談した後、
嫁さんと一緒に、とある方のお家で朝まで避難させてもらい仮眠。
翌日そのままデイジョブに出勤した。
朝起きると、突然自分がJudas Priestになっているのを発見した。
というのは嘘だけれど、
昼休みにふらふら港北区の日差しの下で川沿いを歩いていたら、
いつのまにか自分がJudas Priestになっているのを発見したんだ。
それはなかなか良い気分だった。
だってJudas Priestは、古典ロックだけれど、
僕が、少年の頃、いちばん最初に好きになったロックバンドなわけだからね。
だから、あたりまえといえばあたりまえなのかもしれない。
良い気分だったよ。
古典ロックは、自由で、夢があるからね。
少年の頃、思春期の入り口で聞いたことも含め、
僕のJudas Priestへの思いは、普通のメタルファンとは、ちょっと質が違うだろうと思う。
皆が良くないっていうアルバムでも僕は全然違うふうに感じる。
まあ、のんびり楽しもう。
今日も帰り道にThe Beatlesを聞いていた。
ゆっくりといっぱい愛があると思った。
ほっといちゃいけない。
土曜日はバンドのリハだった。
はっしーはやっとベースを収納するハードケース/フライトケースを見つけたようだ。
ネックが長くヘッドが大きいやつをよりによってサブの一本として導入したもんだから、
普通サイズのSKBに入らなかった。
しかし多少いろんな形に対応しているのかGATORのやつに入ってひとまずやれやれです。
リハは多少時間を長めにとったが、まったく疲れを感じなかった。
4時間演奏しっぱなし、歌いっぱなしで声がほとんどまったく嗄れないというのは、
何年か前なら考えられなかったことで、それだけでもとりあえず進歩としようじゃないか。
先日の渋谷のライヴから、ちょっとヴォーカルがトラウマ的にスランプに陥っていた。
そこから抜けるため、また逆にそれをバネとしてより向上するために実はいろいろしている。
だから今日のリハも多少心配だった。
だがヴォーカルについてはなんとかなりそうだ。
絶対領域のヘッドヴォイスを生かして、特異なキャラクターを前面に押し出せばいいんだ。
自分は間違っても上手いシンガーじゃない。
でも、人々の注目を集めることはできる。
それがこの声とキャラクターだ。
そうだ僕はこの声でコミュニケートする。
言葉でなく。
言葉は通じなくとも。
それが僕の使う「記号」だ。
神さんが与えてくれた武器だ。
だから僕は、この声が最初に与えられたときから、そう思っているように、
この、制御のきかない、やんちゃで聞かん坊な、馬鹿みたいな性格のすっとんきょうな声を神さんに与えてもらったことに変わらず感謝する。
先日の渋谷の後、力みすぎを多少反省はしたが、
だからといって、今までやってきたことをちょっとだって否定することはない。
つまり、
ヘッドヴォイスの絶対領域では、力む必要などなく、存分に響きを使って好きなようにやるがいい、頭の後ろの空間を信頼して。
そして、中音域のチェンジ付近の落とし穴だけは、上から降りるときには、力を抜いてあててやり、逆に下から上るときには、同様に頭の後ろの空間に信頼して、必要に応じて力んでみるがいい。
そして、チェストの音域は、ひたすら、ささやくようにやさしく、だ。
これでいんじゃん。
しかし、今日の練習では、精神的に不安定でお試しモードの自分のプレイもあいまって、
細かいところが非常に気になった。
現実的にいろんなことを心配しているからかもしれない。
現在のIMARITONESの体制で、弱点のひとつとなりうるのがリズムだろうと思う。
そのリズムの細かいところが、いろいろと気になってしょうがない。
ジェイクは、ネイティヴな意味では強力なリズムを持ったドラマーではないが、
その逆に、非常にクレバーで頭のいいタイプのドラマーだ。
だから、実際に、楽曲を練っていき、ライヴにおいても、問題なく、質の高いパフォーマンスをしてくれると信じているし、実際にしてくれている。
僕が思うのは、仮にもNashvilleに寄るというときに思うこととして、
音楽の本場中の本場で、リズムも歌唱も、一流の人達がたっくさんいるところで、
どこまで通じるのかといったところだ。
たとえばわがIMARITONESにおいても、歴代において、歌唱、コーラスがとれるメンバーは非常に少なかった。
たとえば、はっしーも、コーラスはほとんどできないし、
またベースプレイという、自分の枠の外には、なかなか出てきてくれない。
(最近ずいぶん出てきてくれるようになったけど。)
自分の下手な歌唱を棚に上げて恐縮だが、
本場というか、優秀なバンドの多くは、メンバー皆、コーラスや、リードが歌えたりすることが多いと思う。
そして、自分の楽器だけでなく、もっと根本的な意味で、音楽への素養が豊かだ。
そういう環境においては、余計なことを言う必要もなく、一瞬で音のコミュニケーションが成立する。
そういった環境があたりまえのところにおいて、
日本から来た、一流でもない我々が、
どういったメッセージを発することができるのか、という不安だ。
ぶっちゃけ、そういう音楽的な素養という意味では、
まったく、逆立ちしたって勝てるわけはないのだ。
本場ぁー、な人達に。
だが、特にロックにおいては、技術がすべてではない。
創意工夫であったり、自分たちの表現をすることの方がよっぽど大事だ。
その意味で、自分たちの曲を演奏する限りにおいては、
自分たちの音、自分たちのアンサンブル、という点が成立しているし、
逆に言うと、慣れない曲であるとか、他人の曲を演奏しようとすると、
その素養といった弱さが露呈してしまうのだが、
ヘタウマであっても、自分たちのノリを、出していくしかない。
ジェイクは、最初の印象もそうであったように、
良い意味で、ヴィジュアル系的な、日本人にしか出せない扇動的なグルーヴを出せるドラマーだ。
そして彼は精神的にも特攻と書いてぶっこみと読みそうな感じだ。
彼の爆走のノリにすべてを賭けるしかない。
つまりは、じゃあデイヴ時代のVan Halenなんかどうだったのよ、という話だ。
81-84年頃のブートレッグ聞くとさ。
リズムもへったくれも、それ以上の暴走具合、ってこと。
そして今日は、リハの後、恵比寿に行って、
MONOさんのライヴを見てきた。
見るのは初めてだ。
海外で活躍しているバンドは、なるべく見ておいた方がいいと思った次第だ。
また、インストバンドでもあり、言葉を使わずに、どれだけ、音だけで、何かを伝えるのか、
そういった点に、興味を持ってみてきた。
なぜ、彼らは、歌や、言葉を使わず、インストという形を選んだのか。
ライヴは、終始無言で、MCもなく、コミュニケーション的な要素もギミックもなく、
淡々と進んだ。
僕は古典的なロックが好きなこともあり、
椅子に座って演奏される、このサウンドスケープが、音の風景が、
アートではあっても、ロックには思えなかった。
それは、ネットで音を以前聞いたときもそう思っていた。
だが、演奏は、非常に美しく、また、音の向こうに見える風景も、
非常に美しいものだった。
その美しさこそが、きっとこのバンドがもっとも伝えたいものなんだろうとなんとなく思った。
そして静と動の、静けさと爆音のダイナミズムも見事だった。
しかし、楽曲は、構成としては、必ずしも複雑なものではなく淡々と進むものだし、悪くいえば音楽的な要素としてはかならずしも豊富ではなく、単調であるし、
そういったインストが延々と続くのは、その美しさや繊細さを差し引いても、少し退屈で眠くなってしまう部分を感じた。
その意味では、一部のヴィジュアル系や、その流れのバンドと同じで、
非常に狭い感情領域の繰り返しであり、
僕はいまいち、本当には好きになれなかった。
アートとしては凄いと思うし尊敬もするけれど。
その単調さというのか、シンプルに的を絞った表現というのは、
Eel ShockやPeelanderさんたちに共通する、
わかりやすくシンプルに的をしぼった表現、というのと、同じ方法論であり、
わかりやすく伝えるために記号化する、ということに他ならない。
インストという形態も、複雑化というよりは、むしろシンプルに向かうための手段であると感じた。
そういう意味では、繊細で格調高いインストゥルメンタルと感じたMONOさんも、
馬鹿みたいなスーパーパフォーマンスでお客さんをノリノリにするEel Shockさんといったようなバンドと、やはり同じなのだと思った。
海外で、言葉も文化も違う中で、伝えていくための、記号化であり、シンプル化であり、狙いの絞り方だ。
彼らは、自分たちの形にこだわり、アンコールもなしで終了した。
アルバムの音楽の物語に沿った演奏だったからだろうと思う。
アンコールを求める拍手は鳴り止まなかったが、応じなかった。
そういう意味でも、ギミックを大事にしてお客さんと対話するバンドではなく、
あくまで、無言で伝えるバンドだと思った。
それも彼らの、シンプルに無駄を省いた結果なのだろう。
あるいは、繊細なバンドだから、会場の「気」とか、なんか、気に入らなかったんだろうか(汗)
アルバムも買ってきた。
スティーブ・アルビニによるアナログ録音だが、
繊細な世界観、音世界の風景という意味では、
ライヴもだが、むしろアルバムを良い環境で聞かないとわからないバンドかもしれない。
しかし、一聴して、その段階では、むしろアナログ録音である必然性を、必ずしも感じなかった。
古い映画のような質感を狙っているのかもしれないが、
必ずしも、アナログ録音の、狭いレンジの中に、わざわざこの音世界を閉じ込める必然性を、いまいち感じない。
音楽的な理由よりは、差別化であるとか、ブランド化の狙いもあるかもしれない。
苦労して作っているMONOさんたちや、アルビニさんには申し訳ないんだけれど。
極論してしまえば、どんな録音方式を使ったか、とか、どんなに苦労して録音したか、
とか、は、聞く側にとっては関係の無いことだ。
僕が関心があるのは、どれだけ、愛を伝えてくれたか、という、それだけだ、
みたいな(笑)
優れたアルバムだし、これからも聞き込むと思うけれど、
本当に好きには、ならないかもしれない。
その後、帰り道、嫁さんに、ここのラーメン食ってみ、と言われて、
恵比寿の某、ラーメン屋さんをトライする。
おしゃれな感じで若者向けの店と思われた。
すごくおいしかったけれど、かなりおいしかったけれど、
インパクトやソウルの面では、衝撃はなかった。
贅沢なのか、これは。
でも、音はともかく、音もかもしれんけど、
味とか食い物には嘘はつけない。
おしゃれなお店っぽい感じに偏見してしまったのか、
味覚も、感じ方がそんなに恣意的に変わるもんか。
それでもフィルターかかっちゃうんだったら、
それはもう、仕方ない。
そういう人生だ。
でも、美味しかったです。
感謝。
今日のコンサートに来ていた人達は、
お客さんの層として、
繊細でピュアな人達が、きっと多かったと思うけど、
それであっても、バンドにお客さんが来るということは、
バンドが知名度が出て、お客さんが来るという事は、
必ずしも音楽というコミュニケーションではなく、
その周辺の華やかなスポットライトに引かれて、
いろんな人種が集まってくることを意味するのだろう。
そういう意味では、
たとえ生活が苦しかろうとも、
人気なんてずっと出なくてもいいや、
知名度もずっと無くていいや、
と、
思わなくも無い。
ちょっと、そう思った。
だから、よく考えよう。
その方が、良いコミュニケーションが、できるもの。