数日実家に滞在していた。
最初は、もっと長い期間滞在しようかと考えていたのだけれど、
だんだん、まあいっか、という気持ちになってしまい、最小限の日数だけになった。
数年ぶりで祖母にも会えたし、母親とも話せたし、妹とも話せたし、父親の顔も見ることができたし、
最小限といいつつ、十分に必要最小限、必要なことはできたと思う。
言葉で伝えられたこと以外のことに。
だからそれらは言葉にしないでおこうと思う。
レーザーディスクなんていう死滅したメディアで、
小さい頃に見た映画をもう一度見てみたりした。
昔何度も見ていた映画たちだったが、
ずいぶんと英語がわかるようになっていることに自分で驚き、軽く感動する。
たぶんここ最近、いろいろともがいていたせいだと思う。
逆に言うと、10年以上かけて、やっとこれだけ進歩したのかと思うと、
人間の変わるスピードや進歩のゆっくりさに、
ああ、と思うが、それでも進歩できるのだから面白いと思う。
定番のクラシック映画ではあるが、
Back To The Futureトリロジーを見たりした。
いくつか気がついて示唆を感じたことがあった。
皆、言っていることだとは思うが、
BTTF2において、主人公たちは2015年の未来にタイムスリップする。
そこでは乗用車は空を飛んでおり、
天気予報は秒単位で予測され、
ジャケットには自動乾燥装置がついており、
スケボーは半重力装置で浮遊している。
2015年といえば、
あと5年先だが、
見てのとおり、これらの物事は実現していないし、
実現しそうにない。
車でいえば、せいぜいやっとプリウスが普及しましたよ、とか、そのくらいだ。
現実が、フィクションの予測を下回ってしまったわけだ。
あるいは、技術的には、
世界の先端の科学者さんや技術者さんは、
これらを実現する技術を、すでに持っているのかもしれないが、
少なくとも実際には製品化も普及もしていない。
これは、ひとつには、
これをもって思うのは、
実はすでにうすうす、15年前からわかっていたことではあるけれど、
その本当の理由は、
現実に、世界の人々が、あるいはこの国の人々が、
そういった、SFのような、ドラスティックなハイテク技術を、
それによってもたらされる生活の変化を、
実は望んでいないからではないかと、
僕は思う。
車が空を飛ぶことを、本当に人々は望んでいるか。
今のままで、十分に便利で、それに慣れきって、
それ以上の変化を、本当は望んでいないのではないか。
あるいは、車が空を飛んでしまったら、
困る人達が、世の中にはたくさん居るんではないか。
便利な世界に安穏と住んでいる僕たちは、
現実には案外、変われないのだ。
なにもしなくても、今のまま生きていられるなら、
なにもしない方を、選びたいのだ。
それが、夢のような技術や、
夢のような未来を、
実現から阻んでいる、本当の理由かもしれないと思う。
これがひとつ。
もうひとつ。
それは、このBTTFで予測されなかった現実の未来、
BTTFに描かれなかった事象だ。
(あるいはターミネーターとか、他のSFでは、描かれているかもしれないけど)
この映画BTTFに出てくる人達、あるいはこの映画を見た1985年なり1990年なりの人達に、
僕らが、「未来はこんなふうに進化しましたよ」と、
いえるものがあるとすれば、
(陳腐な回答ながら)
それは間違いなくインターネット、そしてそれにまつわるモバイルなどの情報機器だ。
これだけは、フィクションの予測を現実が上回った点だ。
おもしろいことに、
インターネットは、それを使用しない人にとっては、
存在しないに等しい。
たとえば、うちの父や母は、インターネットを使用しない。
パソコンも使わない。
そうすると、うちの父や母にとっては、
インターネットは、存在しないも同然の、
あってもなくても変わらないものなのだ。
だから、うちの父や母にとっては、
21世紀の現代の時代というのは、
20年前の20世紀と、たいしてあまり変わらない。
せいぜい、そろそろテレビが地デジになって、
とか、そのくらいだ。
しかし、言うまでもなく、ヘヴィに使用する人にとっては、
インターネットは、それがなくては物事が進まないツールであり、
その中に人生の大半、ないしはかなりの部分がある。
僕だってそうだ。
こうして日々のジャーナルを書いていることから始まって、
ストリーミングのラジオサービスで曲を聞いてもらうことから、
マイスペースやフェイスブックのようなソーシャルサイト、
バンドマンとしては、インターネットを、海外に向けてのパブリシティに、たくさん使っているし、ある意味バンドの実体はインターネットの中にあるんではないかと思うことすらある。
そして、そのインターネット上の事象と、現実の事象が、交互に相互に作用しながら、物事が、人生が、実際に進んでいく。
それは、インターネットがなかった時代には、少なくとも不可能であり考えられなかった事象であり可能性だ。
ある、と思えば、そこにあり、
ない、と思う人には、存在しない。
陳腐に聞こえようともやはりインターネットの情報空間は、21世紀の人類にとっては新たなフロンティアなのであり、それが本当に何を意味するのかは、まだまだ少ししかわかっていないのだろう。
そして、このインターネットの情報空間というのが、21世紀という時代に、人類の生きる世界に新たに加えられたもうひとつの次元なのだろうと思う。
その加えられた次元を開拓していく、
人間の精神作用が、21世紀という時代を生きる意味なのであろうと、そんなふうに思う。
だから、現実に見える変化だけにとらわれていてはいけないと思う。
そこにあらわれてくる人間の精神の作用とその変化をこそ重視すべきなのだと思う。
今更にあたりまえな話題ではあるがそんなことを思った。
みっつめは、
BTTF1において、
1985年に公開された映画であるが、
クライマックスシーンで、
主人公が、古典的R&Bのバンドに飛び入りして、
Johnny B Goodeを演奏する有名なシーンがある。
その、印象的な主人公のギタープレイの中に、
今更ながら面白い演出意図を発見した。
始めは1950年代的なロックンロールのリフから始まった曲、
その中で、次第に主人公のプレイは、
エレクトリックギターならではの効果音を使用し、
ディストーションサウンドになり、
大音量のソロプレイから、
背面弾きといったパフォーマンスに発展し、
タッピングを炸裂させ、
メタリックな速弾きに帰結して終わる。
そして、1955年の観客は、観客だけでなくバンドの連中も、あっけにとられて演奏が終わる。
これはよく考えられた演出で、
つまりは、主人公が弾いた数分のギタープレイの中に、
ロックギターの1955年から1985年までの30年分の進化が
凝縮されて表現されているのだ。
つまり、1955年から、1985年まで、
ロックの偉人たちが、少しずつ発展させてきたプレイが、
A→B→C→D→E
というふうに、
いきなり数分の間に起きてしまうのである。
だから1955年の観客は、
Aの状態ならまだしも、いきなりEの状態を聞かされることになり、
なにがなんだか、わけがわからない、というリアクションになったのである。
逆に考えるなら、
もし、1985年とか、それ以降に、
Eの状態にある観客に対し、
この同じプレイを披露したなら、
きちんと評価してくれるか、
あるいは、「普通だよね」と言われるだろうと思う。
Eの状態にある観客に逆にCやDの基準の演奏をしたら、
「退屈だね」といわれてしまうかもしれない。
あるいは場合によってはよく知っている定番のオールディーズとして評価してくれるかもしれないが。
新しいことをするというのは大変なことだ。
とてもとても大変なことだ。
僕だって、新しいことができているとは思わない。
また、時代の先端の新しいカテゴリーというのは、競争も激しく生き残りは厳しいものだ。
しかし、あまりに新しいことをやりすぎると、
Aの状態でEの演奏をいきなり聴かされてしまったこの映画の聴衆のように、
まったく理解すら出来ない、という状態になってしまう。
であれば、もし新しいことができなくとも、
たとえ、「よくある、つまらないもの」と言われようとも、
お客さんが、少なくとも理解できる、という状態は、
決してあたりまえではなく、ありがたいことなのだ、と
そんなことを思った。
もし、現在がEの状態にあるならば、
その次であるFの演奏ができれば、
おそらくはいちばん大きな評価を受け、
世の中に衝撃を与えて、天下を取ることができるのだ。
しかし、そのFが、どこにあるのかは、誰にもわからない。
それこそ、タイムマシーンを使って未来を見てこない限り。
しかし(おそらくは)すべてのミュージシャンは、
そのFの演奏を求めて、
新しい進歩を作り出すことを求めて、皆、全力でがんばっているのだ。
そして、ロックが生まれてこのかた、
上の図で言うAからEに進化するまでにも、
いろんな有名無名の多数のミュージシャンが、
ちょっとずつがんばってちょっとずつ新しいものを作り出して、
ここに至っているのだ。
それは、音楽的なものから、技術的なもの、
ハード面での進化、パフォーマンスの面、社会的な面など、
様々な要素で、少しずつ進歩しながら、今日まで来ている。
21世紀になって10年ほど。
ロックに、これ以上、どれだけ新しく進歩する余地があるのかはわからない。
あるいは、それは音楽的なものではなく、
精神的なものや、社会的な意味での進歩かもしれない。
しかし、それが、大きな成功につながろうが、つながらまいが、
ちょっとでも、自分の立ち位置で、
ひとつでもふたつでも、
新しいことを、始められたら、
それは、すごくラッキーなことに違いないと思う。
それが、人類の発展に寄与するということであろうと思う。
演奏するという行為、表現するという行為、
そして、それを楽しむ、楽しんでもらうという行為、
それは、決してあたりまえではなく、
それは、先人たちの積み上げてきた努力と歴史の上に、
そして、終わることのない新たなチャレンジの中にあるのだと、
そんなことを思った。
あまりに大きい。
自分や、自分たちは、しずくの一滴にも満たない。
でも、その大きさを感じることができれば、幸せだ。