昨晩は友人のTakemaroさんの関係で、都内のジャズ風のコンサートにてポップバンドにてギターを弾いてきました。
いろいろ思うことはあれど、こうした機会を与えられたことに感謝でした。
けっこういいギターを弾いてきたと思う。
さて。
終わる世界は美しい、
ということを知っていますか。
人が死を自覚したとき、その目にうつる世界は美しい。
知っていますか?
世界がいつ終わる、なんていう予測も予言も観測も信じてはいないけれど。
5月21日だって、
「オレらが演奏する日に(しかも大好きなシアトルで)終わるわけなかろうが」
と言って、実際にそうMCして、乗り切りましたが、
おれたちが世界を救ったんだと言わんばかりに(笑)
しかし、
ようここまで生き延びてきたなと思うわけです。
命の価値を自覚することなんて本当にはできないわけで、
僕たちはどれだけ感謝してもしすぎることはない。
たとえばあと1年しか生きられないとしたならば、
その1年で、どれだけたくさんのことができることか。
僕は本当にそう思うんです。
そして、これまでの、1年1年、ずっとそうだった。
その1年で、本当にたくさんのことをすることができた。
1年たてば、別世界だった。
そうして、たぶんこの10年、いや15年くらい、生きていた。
要するにうちの嫁さんと出会ってからは、
もうこれで最後かな、と思うことが多かった。
そう思ってからは、一日一日を、大切にしようと自然に思うようになった。
10年後のことは考えない。
10年後、なんて、僕たちにはないかもしれないのだから。
でも、人として、100年後の世界とか、
1000年後の世界とか、
あるいは永遠に続くタマシイとかイノチとかいったものは、
心に留めていたい、
そんなふうに思います。
今日という日は、そのためにこそあるのだから。
これから、1年、2年、
あるいは3年かかるかな。
どれだけのことができるだろう。
3年もあったら。
それは、僕にはとてもたくさんの時間のように思える。
神様に本当にどれだけ感謝したらいいかわからないくらいだ。
もうひとしごと。
そこまで、生きてみよう。
死というものがより身近になったこの日本の地で。
東京は無邪気な日常を取り戻したふりをしているけれど、
でも本当はもう戻れない。
みんな知っている。
好むと好まざると、
僕たちは変わっていかざるを得ない。
そういうものだと思う。
昨晩はたけさんに誘っていただいたジャズのライヴ、
楽しかったし、
演奏者の人々も、そこにいた人たちも、お客さんも、
みんなレベルが高かった。
でも僕は楽しくなかった。
小さな会場ではあったけれど、
たとえばもし自分のバンドのライヴで、
あれだけの演奏会が都内でできたとしたら、
僕はとてもうれしいだろう。
だから、昨日の演者の皆さんの幸福と充実はわかるつもりだ。
それについて本当に尊敬を祝福を送りたい。
どこにいるかは関係ない。
いくつか旅をしたから、もう知っている。
500人のぎょーかいじんの前でショウケースを成功させた翌日、
僕たちはナッシュビルのダウンタウン近くの小さなバーに寄った。
カントリーシンガーのおじちゃんたちが、
誰もいない中で歌っていた。ギター一本で。
いや、美味かった。歌も、ウイスキーも。
でも、僕たちは知った。
環境も、場所も、生まれも育ちも言い訳にはできない。
いちばん最後には。
遅かれ早かれ。
自分がどんな音を鳴らすか、
そこにかかっているんだ。
自分に嘘をつかずに生きられるかどうか。
大切なものは、自分の外ではなく、
自分の中にあるんだ。
こういうことを書くようになったら、
僕もまた調子が戻ってきた証拠です(笑)