さて、ご心配をおかけしましたが、
ここ数年ずっと闘病をしていたうちの親父が亡くなるということが先日ありました。
こうしてふらふらと音楽を続けている社会的には非常に無責任な立場の自分ですので、
まともなことを言うことはできませんし資格もありませんが、
自分が自分の音楽を鳴らし演奏するようになった中にも
家庭や育ちのバックグラウンドの影響というものも大なり小なりあるわけです。
また音楽的なバックグラウンドというのか、
うちは母親は音楽教師、ピアノ教師ですし、
父親もやはりクラシックが大好きで、
合唱団で歌うということを長年続けてきた人です。
音楽一家と言っていいような背景で育ったわけで、
妹もやはり音大を出てピアノ教師などやっておりますが、
基本的な素養や環境といった意味では、
十分なものを両親や家庭環境からはもらっているわけで、
その点についても感謝はしています。
家庭内についても、
問題を抱えていた時期もあり、
うまく説明することはできませんが、
私たち、私と妹が子供として成長し、
大人になって自分たちの道を見つけていく過程は、
そうした目に見えないものも含めた家庭の問題に
向き合っていく過程であっただろうと思います。
私自身、無名のインディーズミュージシャンであり続けている現状もあり、
経済的なことや、目に見える形での親孝行といったものは、
あまり出来たとは言いがたい部分もありますが、
カルマというわけではないですが、
なんというのか、スピリットの意味での義務というか、
たとえば、魂の弁済といいますか、
魂の負債を支払う意味においては、
自分はある程度、神様にもらった宿題を出来たのではないかと思っています。
それが自分の、この育った家庭における役目であったと思うし、
そのためにこの家庭に生まれたのであろうと思うからです。
奇しくも、
先月には妹が結婚式を迎えました。
父親も、病床にあって、妹の結婚式まで果たして持つかどうか、
というところでしたが、
奇跡的に(本当に奇跡的に)もちこたえ、
69歳の誕生日を迎えた上での往生となったのですが、
昨年まではトラブル続きで、
精神的にも大変な状況にあった妹が、
この一年間で、ここまで変わり、
とても幸せな毎日を送るようになり、
幸せな結婚をして、
地元にしっかりとした生活基盤を築いていくようになった。
浮き草のような人生を送っている自分としては、
妹がこうした形で幸福な人生をつかみとっていくことは、
嬉しいことでもあり、実際、ありがたいことでもあり、
また、さきほど述べた「魂の弁済」という意味においても、
ひとつ荷が軽くなったような気持ちでもあるのです。
そうしたこともあり、
この1、2年の間は、
特にこの1年の間ですね、
もう正月の時点で、親父は長くないという話でしたので、
実家を訪れる機会が多かったわけです。
その間、
病床にある親父に対して、
まあ、親父が体調を崩し、
動けなくなって、病院や施設の世話になるようになって以来、
実際に僕にできることは、あまり無かったわけですが、
自分の担当である、
魂の救済の部分においては、
いくつかのことができ、
またいくつかの学びを、
自分自身得ることができたと思っています。
以前の日記にも書いたかもしれませんが、
誰にでも必ず訪れる死というものに対して、
それを自分の目で、自分の肉親を通じて見る中で、
これが、すべての宗教が、すべての哲学が、
ずっと向き合ってきたものなのだと、
So this is what all the religions are all about.
それを目の当たりにしたわけです。
嫁さんとともに病床で祈ることもできましたし、
神やキリストや救済について語ることもできましたが、
亡くなる二日目に不思議と鮮明な夢を見ました。
ああ、やっぱりこういうことってあるのだなあ、と。
とてもはっきりとした別れの夢であったので、
そして、それははっきりと幸福な別れの夢であったこともあり、
魂の面で、為すべきことをしたのであろうと、僕たちは
個人的には親父の魂が、決して良い場所にいるであろうことを
信じています。
思うに人生の中で、
どれだけの財産や富や名声を築こうと、
魂が負債を抱えていたならば
この世で為すべき魂の宿題を完遂することができないのであれば、
つまりは魂が借金だらけであれば、
まったく意味はないわけです。
極端に言ってしまえば、
経済的にどうにもなっていなくても
借金まみれであったとしても
(それはそれで問題がたくさんありますが)
神が与えた魂の宿題というのか、
魂の弁済を果たすのであれば、
その方が人間は幸福なわけです。
その意味では、
自分は、完璧からは程遠くても、
それなりに幸福に、ここまで生きてくることができたのではないかと
思っています。
またひとつ、ここで為すべきことを果たしたのであれば、
さらに遠くへと歩き出す準備は出来ています。
生きようとも死のうとも
豊かであろうと困窮しようと
旅路が長く続いていくことを
私は願っています。
私たちには永遠があるのですから
神がキリストを通じて与えてくれた永遠ってやつが
普通の日本の家庭環境から、
クリスチャンになった私と嫁さんとしては、
肉親の葬儀、
当然に仏教の形式であるものに、
こういう形でかかわるのは初めてでしたが、
その節、家族や親類にも大なり小なり迷惑はかけたと思います。
しかし、それでも出来るだけの参加はしたつもりです。
皆さんに感謝します。