Van Halenを熱狂的に信じる、
“Van Halen原理主義者”だからこそ書けるレビューをここに。
“This was not supposed to happen”
「期待を遥かに上回る出来」とヘヴィメタル専門誌に書かれ、
“Shockingly Good”といったレビューが大量にインターネットに書かれ、
世界中の人が、
Van Halenは、もっと古くさく、歳をとって衰えた作品をリリースするはずだったのに、
それが、衝撃的なまでに凄まじい内容の新作をリリースしたことに、
世界中のロックファン、ハードロックファンたちが驚いている。
「デイヴ時代に戻った」
とか、
「初期の勢いを取り戻した」
とか、
「1stの頃に戻った」
あるいは
「1984年に戻ったみたいだ」
いろいろ言われているけれど、
事実はそんなに単純じゃない。
そのへん、うちのベースのはっしーはよく理解していた。
これはまったく新しい音楽だ。
僕が数年前に、自分の(以前はYahooカテゴリにも登録されていた)Van Halenファンサイトに、「世界はまだEddie Van Halenの音楽を聴いていない」と書いたのは、冗談ではなくて。
新しく進化した、
これはまったく聴いたことのない音楽だと思うのね。
また、僕にとっては、
このVan Halenの新作は、
ほとんどもってイエス・キリストの再臨に近いくらいの
インパクトを持つ出来事だということは、
先だって書いた通りだ。
リリース前に”Tattoo”を一聴した段階で書いた
「リリース前」レビューのふたつの文章に関して、
おおよそばっちり合っていたことは、
軽く誇らしいが、
Van Halenのただのフリークというだけでなく、
技術でもなくもっと根本からEVHを理解して、
それを自分の人生に援用して表現を模索してきた自分としては、
いわば予測ではなくて、
明らかに知っていることを書いたのであって、
こうなることがわかっていたとしても、
別に不思議なことは無いといえば無い。
そういうわけで、
やっと、ひととおりアルバムを実際に聴いてから、
冷静に分析する機会を得た。
しかし本当のところ、
冷静に分析することなんてできやしない。
地球上でVan Halenを本当に理解する数少ない人間の一人を自認し、
それなりのソングライティング能力を持って、
それなりにバンド経験を経て、
多少は人よりもこの道については知っている(と思う)僕にとってみても、
この新しいVan Halen “A Different Kind of Truth”の音楽は、
正確に分析することができない。
神が与えた天才による奇跡としか、言いようがない。
なぜ彼らはこの時代に、こんな凄まじく圧倒的な復活作を作ることができたのか。
フルアルバムとしては、実に14年ものブランクがあるにも関わらず。
まずは当たり前のことだが、
彼らとてこの14年間、何もしていなかったわけではないということだ。
「昔そのまま」のサウンドではなく、
確実に昔よりも進歩し進化したサウンドは、
まずギターサウンドについて分析するならば、
分析もへったくれもないのだが、
そもそもはっきりいって
どのバンドのどんなレコードと比較しても、
もちろん過去のヴァン・ヘイレンの作品と比較しても、
はっきりいって、
こんな凄いギターサウンドは初めて聴いた、
というのが正直な感想で、
圧倒的すぎて言葉もないのだが、
エディ・ヴァン・ヘイレンのギタリストとしての功績は
数え上げればきりがないほどロックギターの世界に大きいけれど、
彼がシグネチャーモデルとしてギターとアンプを開発したのは、
1990年頃から使い始めた、
Peavey 5150アンプ、
そのサウンドが、その後のロックのサウンドをどれくらい大幅に変えてしまったかは、
あまり話題には上らないものの、
実はタッピングなどの演奏技術以上に、大きく世界を変えた功績なのではないかと思う。
そのPeavey 5150のサウンドは、
ゲインが高いにもかかわらず、透明感があり、理想的な厚みとプレゼンスを併せ持っており、パワーがありながらもスムースという、エレクトリックギターのサウンドのひとつの理想型だった。
そして、しかし、
21世紀に入ってから、
Van Halenはバンドとしては活動停止状態にあったものの、
エディは5150-3の開発など、地味にしていて、
そのサウンドは、それまでのものよりも、
よりヘヴィかつファットな方向へ向かっていた。
それは、エディが90年代に開発、使用して、
今ではヘヴィロックの世界のスタンダードとなったPeavey 5150/6505のサウンドよりも、
より高次元の、最高に分厚く、beefyで、ファットで破壊力のあるものになっていた。
Peavey5150でもってサミー・ヘイガーとプレイしていた90年代に、
初期の曲をライヴで演奏するとサウンドに違和感があった、というのは、
皆思っていることだと思うが、
2000年代に入ってから開発された5150-3が、
よりストレート&ヘヴィ、そしてワイルドなサウンドになっていったということは、
ひょっとしてエディの中で、
デイヴをシンガーに据えた楽曲のイメージが、
この新作のサウンドが、
そういったものがエディの頭の中にあったかもしれない。
ギターサウンドに関しても、
そうした長い開発と追求が、水面下であったからこそ、
この”A Different Kind of Truth”のサウンドは完成した。
このサウンドは、たとえば1978年当時、あるいは1984年当時では、
実現不可能だったと思われる。
初期の雰囲気に戻った、という意見は、
ある意味では正しいが、
過去のVan Halenで、この新作の雰囲気、そして全体の音楽性に、
もっとも近かったのは、
おそらくデビュー前の、ロサンゼルスのローカルクラブで演奏してイケイケだった頃のVan Halenだろう。
アルバムの楽曲の約半分ほどは、
過去の素材、有名なジーン・シモンズのデモに入っていたものや、
過去に使用されなかった楽曲の焼き直しで構成されているが、
これらの楽曲も、見事にこの2012年に、
見たこともないくらい強力なモンスターとしてよみがえっている。
そう思うと、なんで今までこれらの楽曲を発表しなかったんだよ、
という思いも抱くかもしれないが、
この事実から
ひとつ気付かされるのは、時代の流れの中で、世の中というのは、
バンドというのは、そう芸術的に、完璧に自由な中で作品を発表しているわけではないということだ。
たとえば、1stから3rdくらいの時期において、
Van Halenは実際にはAin’t Talkin’ Bout Loveとか、
On Fireとか、
Dance The Night Awayとか、
And The Cradle Will Rockとか、
が収録されたアルバムを、発表したけれど、
必ずしも、本当はそれがベストな選択ではなかったかもしれないということだ。
実際は、もっとこの、本当にクラブシーンのレパートリーだった、
Pasadenaのホットなクラブバンドだった頃のレパートリーだった、
これらの楽曲を発表するべきだったかもしれない、ということだ。
しかし現実には、ジーン・シモンズのデモの段階では、Van Halenはレコード会社からサインされなかったのであって、
歴史上の事実としては、
1978年のデビュー以来、
Van Halenは、時代の流れや、勢いのままに、
あれらの作品を発表したのである。
時代の流れとか、時代の勢いっていうものは、
誰にも止めることができないもので、
そして、すべての人に影響するもので、
それは、良いこともあるけれど、
悪いこともある。
つまり、1980年代にデビューしたHR/HMのバンドであれば、
やはり多かれ少なかれ、ああいった80年代的なメインストリームのポップメタルの音楽性を、やはり演奏することになる。
それは、とても華やかなものではあったが、
しかしそれが、必ずしもそのバンドの真の音楽性、
そのミュージシャンの本当にやりたかった音楽ではないかもしれない。
ハードロック系のおなじみのバンドであれば、
Extremeの場合も、
80年代にリリースした1stや、その後の2ndも、
非常にポップメタルの背景に基づくものだった。
しかし、2008年にリリースされた復活作では、
よりストレートで奔放な、ZeppelinやQueenなどの王道により忠実な、そして70年代的にプリミティヴなサウンドのロックを展開していた。
今にして思えば、Extremeの面々が、本当に自然に鳴らすはずだった本来の音楽性は、
ああいったものだったのかもしれない、と思わされる。
時が過ぎたからこそ、
あるいは歳を取ったからこそ、
本来の自分たちに気付く、ということがある。
MR.BIGにしても同じようなことが言えると思う。
やはり彼らの場合も1stや2ndはポップメタルのマーケットの背景に基づいた作風を持つものだった。
その後、だんだんとブルーズや、ルーツっぽい音楽に彼らは向かっていったが、
かといって、それは本来の方向性をうまく追い求めるというよりも、
90年代の時代背景に追いやられていったような性格のものであり、
結果、そこからバンドは方向性を見失い分裂していったと思われる。
2010(場所によっては2011)に発表されたMR.BIGの復活作においては、
彼らが本来もっていた、独特のノスタルジーと、自然なプレイヤビリティが同居したサウンドが実現されており、
楽曲としてはあまり派手ではないものの、
ああ、この4人が本来鳴らしたかった音は、この4人が本来追い求めていた音は、この4人が本来鳴らすべきであった音は、きっとこれだったのだろう、と思わされるものだった。
このように当時、時代の流れの中で彼らがリリースし、鳴らしていた音は、
時代の流れに乗ったものではあったけれど、
必ずしも、彼らの本来の音を正確に表現したものではないというケースが、
おそらく世の中にはたくさんあると思われる。
世の中というのは、そして、バンドというのは、
ビジネスひとつとってみても、
きっとそんなに生易しいものではないのだろうから。
Van Halenについても、
同様のことが言えて、
おそらく彼らの意図のひとつとしては、
ビジネスやレコード会社が介入する前の、
勢いのあるパサディナのローカルバンドだった頃の
本来のVan Halenの姿に立ち戻るという意図があったかもしれない。
そして、それは、これほどまでに凄いものだったということだろう。
そして、それらの楽曲が、当時発表されなかったことは、
今となっては、
良いことだったのだ。
なぜなら、当時では到底、
当時のレコーディング技術、機材環境では、
作り上げることができなかった、
これらの楽曲の、本来の凄まじいサウンドが、
こうして2012年の今になって、
巨大なモンスターとなって届けられたからだ。
これらの楽曲は、
まさしく時代を待っていたのだと言える。
このアルバムにおいて、
もうひとつの重要なトピック、
目を引くほど優れている点は、
ベースの演奏だ。
これも、この14年間、彼らが進歩していたことのひとつだと言える。
つまりは、このものすごい才能を持ったプレイヤー(今のVan Halenにあってはベースプレイヤーであるが、明らかにすべての楽器を演奏できるマルチプレイヤーだと思われる)は、
この空白の年月の間に、文字通り、大きく成長していたのだから。
エディの息子であるウォルフガング・ヴァン・ヘイレン(Wolfgang Van Halen)が、
実際にこのアルバムでベースを弾いているかどうかについては、
疑う向きもあるようだが、
(つまり、ベースは全部エディが弾いたんじゃないか、と)
少なくとも現在出回っているライヴ映像において、
ウルフィー君は、軽々と、アルバムどおりの演奏をしている、
ということだ。
少なくとも僕は、このアルバムでウルフィー君が実際にベースを弾いてると思っている。
他の作品(Van Halen 3やIt’s About Timeなど)で聴かれるエディのベースと比べ、明らかにタッチもタイム感も違うからだ。もちろん似ているが、明らかに違う。
そして、たくさんの人が指摘しているように、
このウルフィー君のベースが、ちょっと凄い。
ていうか、ちょっとなんてもんじゃないくらい凄い。
要所要所で、軽々とエディとユニゾンで絡んでみせるテクニック、ビリー・シーンを彷彿とさせるタッピングプレイ、そうしたすっとんだ演奏もそうだが、
それ以上にバンド内のアンサンブルの起爆剤としての能力がものすごい。
ちょっと信じられないことだが、
アルバムの演奏を聴く限り、今現在このVan Halenのバンドアンサンブルを引っ張っているのは、エディでもアレックスでもなくこのウルフィー君だと思われる。
言うまでもなくVan Halenというのは、エディのギターがすべてを引っ張るバンドだ。それは、それだけエディが才能のあるプレイヤーだったからだが、
もしそこに、同じくらいの、あるいはそれ以上の才能を持ったプレイヤーがいたらどうなってしまうのか。
その答えが現実となってここにある。
しかも、親子という特別な関係だからなのか、
その才能は、食い合うことなく、お互いに完璧に補い合うような形で、とんでもないプラスの作用をアンサンブルにもたらしている。
このアルバムで、アレックス叔父さん(今では牧師)のドラミングも、いったいどうしちゃったの、っていうくらい、過去に例がないくらいぶっとんでいるが、
これも明らかに、ウルフィー君のベースがアンサンブルにもたらした奇跡だと思われる。
China TownやShe’s The Womanなどで(そして他の曲でも)顕著に見られる、まるでバンドがひとつの生き物になったような変幻自在のグルーヴ、バンドアンサンブルがもたらす、ここまで凄いのか、というマジック。
少なくとも、このアルバムは、ウルフィー君という存在なしには、成立しなかったということがはっきりと言える。
そして、この衝撃的に一体となった奇跡のようなバンドアンサンブルが、僕がこのアルバムでもっとも衝撃を受けた点のひとつだ。
まるでひとつの生き物のように相互に一体化しているのだ。
バンドのアンサンブルとは、極めるとここまでものすごいグルーヴを生み出すものなのか。ここまでの多彩な表現が可能になるものなのか。
ウルフィー君は、シンガーとしても優秀なようで、マイケル・アンソニーほど特徴的な声ではないにしても、高音のコーラスをしっかりとこなしているし、
このバンドをRe-vitalize 、若返らせてしまうほどの起爆剤となったウルフィー君の凄まじい才能、そして親子というか家族アンサンブルの奇跡を見るにつけ、
マイケル・アンソニーの離脱は残念ではあったけれど、はっきりいってウルフィー君のほうがずっといい、正直そう思ってしまう。
この凄まじい衝撃と、軽々と”Van Halen”をマイキー以上に体現するウルフィー君の才能を見てしまうと、はっきりいってマイケル・アンソニーが平凡に見えてきてしまう。もちろん、マイキーだって伝説的なベーシストなのだけれど。
Van Halenは、いまや、かつて以上にもっと”Van Halen”になったのだ。
かつてよりも、もっとすっとんだことが、軽々とできる。
今までのバンドはなんだったんだ、と、
今までのVan Halenはただの予行練習に過ぎなかったのか、とすら思えてくる。
つまり、エディはこの理想のバンドを実現するために、実に長い時間をかけて、ウルフィーという才能あふれる人材が育つのを待っていたのか、と。
これもたくさんの人が指摘しているのを(英語のサイトのレビューとかで)見たが、
このアルバムのテンションの高さ、そして、ギターとベースのすっとんだインタープレイは、
まるでDave Lee Rothの1986年のソロアルバム”Eat’em and Smile”を思い起こさせる。
というか、実際、このアルバムはEat’em And Smileによく似ている部分が多い。
奇しくも、エディのギターは、ところどころでSteve Vaiのようなサウンドと音使いをする場面があるし、
そしてウルフィー君はのベースは、Billy Sheehanのようだ。
もっとも、ウルフィー君のサウンドの方がよりナチュラルで柔軟だけれども。
だが、あのEat’em and SmileのDLRバンドとの決定的な違いは、
DLRバンドの選ばれた超絶メンバーによる戦闘的なピリピリした緊張感と違い、
今のVan Halenはそれをいかにもナチュラルに、リラックスして、柔軟な演奏の中でこなしてしまっていることだ。
2月8日にLA FORUMで行われたドレスリハーサルの演奏の様子がインターネットにアップされているが、
この映像を見てまた僕は衝撃を受けた。
China Townという曲は、このアルバムの中でもハイライトのひとつだが、
エディ親父とウルフィー君は、この曲のテクニカルなインタープレイを、ぴりぴりした緊張感などまったくなく、終止笑顔でリラックスした雰囲気の中で軽々とこなしている。
昔からエディの魅力は難しい顔をせずに、笑顔でテクニックを決めることだったから、これはある意味Van Halenの面目躍如でもあるけれど、
明らかにこの今のVan Halenのステージ上の雰囲気は、「戦うロック」ではなくて、「リラックスした家族団らん」なのだ。
家族団らんのハッピーでリラックスしたムードの中で、これ以上ないくらいにナチュラルにハイレベルな演奏を軽々と決めていく。
この家族団らんの光景に、僕は非常に衝撃を受けた。
それはつまり、Van Halenというバンドの音楽性の本質にかかわる部分でもあるし、
そしてまた、エディ・ヴァン・ヘイレンという人間のミュージシャンとしての考え方をよく表している。
考え方はどうあれ、このリラックスしたムードの中で、このウォルフギャングという才能ある若いミュージシャンは成長し、世界一流のミュージシャンである親父や叔父に軽々と追従し、リードすらするような優れたプレイヤーとなり、
そしてこのとんでもない内容の”A Different Kind of Truth”を作り上げたのだ。
このステージ上のリラックスしたパフォーマンスに、
あらためて僕は、
ロックとは何なのか。
Van Halenとは何なのか。
そして音楽とは何なのか、ということを、考えさせられた。
話はそれたが、
このウルフィー君という、才能あふれる若きプレイヤーを得たことで、
Van Halenは、
過去に類を見ないほどの強力なアンサンブルを獲得し、
また、全盛期のDLRバンドや、MR.BIGに負けないくらいのテクニカルな見せ場の応酬が可能なバンドへと変貌したのだ。
It was certainly worth the wait.
ソングライティングについて触れてみよう。
サウンドがよりヘヴィに、そしてストレートになったのに従って、
また、バンドの音楽性が、デビュー前のワイルドなものにシフトしていったのに従って、
ソングライティングは、よりシンプルになっている。
90年代の、”Balance”や、”Van Halen 3″においては、
エディのギターを骨格とするソングライティングは、かなり複雑になっていったが、
(そして、Van Halen 3では、ちょっと複雑すぎるところまで行ってしまったが)
その意味では、この最新作の楽曲のソングライティングは、よりstraight forwardだと言うことができる。
しかし、決してそれだけではない。
やはり、その90年代以降のエディの複雑なギターワークは、随所にちりばめられているし、その奥の深さは、楽曲の骨組みが簡潔になったぶん、より深みを増したと言っていい。
シンプルかつ、ストレートにして、なおかつ奥が深い。
誰にも真似のできない音楽性と、一瞬で圧倒するパワーを兼ね備えている。
はっきり言ってしまうと、僕にもこのアルバムの楽曲のソングライティングについては、理解不能だ。
理解不能な部分が多い。
もちろん、”Ripley”(Blood&Fire)みたいな、1985年くらいのいかにもエディ印の楽曲は、ぜんぜん理解も分析もできるけれど、
リフや構成はシンプルなはずなのに、アンサンブルのせいか、サウンドそのものが凄まじいせいか、圧倒的なパワーでたたみかける”As Is”や、”China Town”, “Stay Frosty”など、すべてが規格外で理解を越えている。
そして、”Bullethead”や”Outta Space”のようなデビュー前の初期の楽曲に関しては、30年以上も前に書かれたリフにもかかわらず、その天才的なひらめきが、一筆書きのようなマジカルなサウンドとともに、誰にも真似ができず、まったく古くささも感じず、これは本当に、初期の若きエディと、このVan Halenというバンドが、どれほどまでに凄いものだったのかということを実感せずにはいられない。
とにもかくにも、「規格外」「桁外れ」「あまりにも巨大」としか形容の仕様がないような、このアルバムの楽曲とサウンドなのである。
なんというか、本当に、素直にひれ伏すしかない、という感じである。
そして、要所要所に、過去の作品からの、テーマの引き継ぎというのか、
ファンに向けてのメッセージが込められているのも大事なポイントだ。
Tattooの、おなじみの手癖満載のエディのソロもそうだし、
同曲のエンディングにおけるボリュームポットを使った”volume swell”のサウンドもそうだし、
Honeybabysweetiedollのイントロが”Tora! Tora!”を想起させるとか、
同曲の後半で犬の鳴き声が聞こえるのは”Baluchitherium”にひっかけたジョークだとか、
アルバムの意外なハイライトのひとつであるStay Frostyもそうだが、
(Ice Cream Manの続編が、Stay Frostyというのは秀逸)
個人的に涙を禁じ得ないのは、
やはりセンチメンタルな楽曲ではあるが、
“Blood and Fire”、
この曲は、熱心ならファンなら知っているとおり、
80年代の映画”Wild Side”のサントラにエディが提供した
“Ripley”という曲で、その名のとおりリプリーギターを使用して制作されているが、
僕ももちろん、その映画のビデオは昔から持っていて、
そのいかにも当時のエディらしいポップで明るい、はつらつとした楽曲に、
「ああ、この曲は1984の後にデイヴが脱退したからお蔵入りになって、サントラで使われることになったんだろうな、この曲に、ヴォーカルが乗ってVan Halenの楽曲として聴いてみたかったなあ」と、
たぶん世界中のファンがそう思っていたけれど、
それがついに30年近くたって実現した、という曲。
すべて素晴らしいのだけれど、
ソロの前のデイヴの”I told you I was coming back”も泣けるんだけれど、
その後のギターソロから歌に戻るまでの展開が、
今までのVan Halenの要素を、サミー時代からゲイリーとの失敗作、その後の空白期間にいたるまで、
すべて総括し、すべてを取り戻して戻ってくるようで、
本当にそこに込められたメッセージに、僕は涙を禁じ得ない。
まさに復活を高らかにならす音なのだ。
レコーディング、録音の面について着目してみるならば、
確証はないけれど、
おそらくはこのアルバムは、
Van Halenの歴史上、初めて、
デジタルでレコーディングしたアルバムではないかと思われる。
確信は無いけどね、音から判断する限りは。
そして、アルバムのクレジットを見ると、レコーディングの場所が、
初めてというかものすごく久しぶりに、
“5150 Studio”以外の場所でレコーディングされたようだから。
エディは皆知っているようにとんでもない頑固者で、
どのインタビューを読んでも、
デジタルなんて絶対使わない、っていう人だったけれど、
どういうわけか、今回は周囲が説得したのだろう、
その結果、
Van Halenサウンドを現代バージョンにアップデートすることに、
見事に成功している。
しかしよく聴くと、かなりマスタリングの際にリミッターにつっこんでいるような音だし、
(過去のVan Halenの作品は、時代のせいもあり、そういった作品はひとつもなかった)
また、かなり全体にサチュレーションというのかデジタルディストーションがかかっていて、
人によっては、このサウンドを気に入らない人もいるようだ。
デイヴ時代の6枚のあのナチュラルでドリーミィーな(Ted Templemanはもともとソフトロックの畑の人であることが重要なポイントだ)サウンドに比べれば、たしかにその気持ちもわからなくはない。
しかしこのあたりも、
おそらくは若い感性をウルフィー君が持ち込んだり、
外部の意見をうまく取り入れたのだろうし、
なによりも時代にコミットし、前に進もうとするバンドの姿勢の現れとして僕は評価したいと思う。
今回Van Halenは、確実に時代を変えることを、そして時代を越えることを意図していたのだから。
ここでこのアルバムの最も重要な点について論点をシフトしたい。
このアルバムの「時代感覚」についてだ。
多くの人が、このアルバムは、
1stの頃に戻っている
“1984”あるいは”Fair Warning”に戻っている
などという意見を言っているが、
もちろん自分の分析では、過去のVan Halenの歴史上で
敢えてもっとも近い点を探すのであればおそらくはデビュー前、
という意見なのだけれど、
このアルバムの時代感覚は本当の独特だ。
そして、その中心軸には間違いなく「今」がある。
多くの人は、Van Halenは大昔の、過去のバンドであり、
もうとっくに終わったバンドだと、思っていただろう。
実は僕もそう思っていた。
それは、以前の「リリース前レビュー」に書いた通りだ。
Van Halenの商業的な全盛期は間違いなく1980年代だし、
90年代を通じても、ベテランらしい活躍はしていたものの、
次第に時代遅れになり、音楽性も新鮮さを失って
次第につまらないオヤジバンドになっていく、
そんな流れの中にいたバンドだった。
“For Unlawful Carnal Knowledge”、
そして
“Balance”、と、音楽性は円熟の一途をたどり、
“Van Halen 3″では、若い新メンバーの加入により
若返るかという期待もあったが、
基本の路線は変わらず、
そういう意味では歳をとってつまらなくなっていく
その流れを変えることはできなかった。
しかし、どういうわけだか、ここへきて、
いちばん歳をとったはずの、60歳に手が届こうかというこの時になって
バンドは突然若返り、
突如として今までで一番勢いがあり、アグレッシヴで、若さのあふれる作品を作り上げてしまった。
これは、もちろんウルフィー君という若い才能の影響があることはもちろんだけれども。
問題は、彼らが何を考えていたかだ。
既に、「リリース前レビュー」において書いていることだけれども、
Van Halenはこのアルバムにおいて、
この21世紀の音楽シーン、
インターネット時代、多様化と先鋭化と、縮小の一途をたどって久しい
「終焉」という言葉が現実味を帯びている2012年の音楽シーンにおいて、
何を提示すべきなのか、という点を明確に押さえてきた。
既にこのテーマは書いたことだから、簡潔にまとめることにするけども、
このアルバムから感じる時代は。
1978年?
いや違う。
1984年?
それも違う。
1980年?
あるいは1976年?
部分的にはそうだけれども、
どれも違う。
このアルバムから感じる時代感覚は、
実に形容しがたい、
単純にいつっぽい音、というのが言えないものだ。
内容が高度すぎて、凄まじすぎて、
70年代っぽい音だね、
とか、80年代っぽい音だね、
とか、
逆に今っぽい音だね、
とか、
どれも言えない。
で、僕に聞くのであれば、
僕が敢えて何年、ということを言うのならば、
僕の意見では、
これは1912年ぽい音なのだ。
そして、おそらくは2112年ぽい音なのだろうと思う。
要するに、
すべてが多様化し曖昧になったこの時代において、
そして、ロックが生まれて50年だか60年だか、
伝説のミュージシャンたちが高齢化し、あるいは去り、
ロックンロールが終焉を迎えようとするこの時代において、
彼らはロックンロールというものを突き詰め、
そして新しく始めようとしたのだと思う。
これには、他のバンドと大きな違いがある。
他のどの大物のベテランバンドにしても、
近年にリリースされた新作は、
そのキャリアの終盤にあって、
確実に、そのキャリアに終止符を打つ、
その終わりを意識した内容になっている。
しかし、Van Halenは違う。
彼らは、過去100年のエンターテインメントと、
ロックンロールの本質を見つめ直し、
そして次の100年を始めるために、
これからを指し示す新しいロックンロールを作り上げた。
これは、新しいロックンロールだ。
次の100年のためのロックンロールだ。
僕もミュージシャンのはしくれである以上、
これがどれほど大きな啓示であるか、
どれほどの意味を持つか、
それは、言葉にできないくらいだ。
彼らの持つレトロ趣味、
いや、レトロというよりは、クラシックといったほうが
いいのかもしれない。
振り返ってみると、Van Halenの音楽はいつでも「クラシック」だった。
その時代感覚は、いつでも100年の単位でのクラシックを作り上げようとするスケール感を持っていた。
アルバムのアートワークは、アレックスが担当している、と少なくとも以前はそうインタビューで言っていたが、
Van Halen 3や、Balanceあたりのアートワークは、
あきらかに「クラシック」としてのVan Halenならではの独特のレトロ感覚を持ったものだった。
そしてVan Halenのサウンドは、そうした100年の単位での次元を越えたクラシックにふさわしいファンタジーを伴っている。
もう一度、まとめて言うと、
彼らは100年前までにさかのぼって、
エンターテインメントの本質を見つめ直し、
ロックンロールの本質を見つめ直し、
自らがinventした唯一無二のロックンロールを見つめ直し、
そして、それをもって、
次の100年に、僕ら人類が鳴らすべきロックンロールの答えを
指し示した。
その空前絶後のサウンドでもって。
これが、どれほどの意味を持つ啓示なのか、
君が才能あるギタリストであれば、
きっとそのメッセージを感じ取るはずだ。
なぜ、Van Halenだけにこんなことができたのだろう。
論点を少し戻して、
この14年間、Van Halenは何もしていなかったわけではない、
という点について。
デイヴ・リー・ロスにとっては、
それは14年間ではなく、
28年間だった。
1985年に、Van Halenを脱退してからというもの、
David Lee Rothは。
Steve Vai、Billy Sheehanらとともに、
超絶のスーパーバンドを結成し、
Eat’em and Smileという強力なアルバムを
リリースし、ソロキャリアを勢いよくスタートさせたのは、
皆の知るところだ。
そして、その後も、
Skyscraper、A Little Ain’t Enoughなどの
デイヴらしい躍動的なメッセージを伴った作品をリリースしていったが、
時代の変化とともに、デイヴの独特のキャラクターや彼の体現するエンターテインメント自体が、時代遅れとなっていき、
同時期に音楽的に円熟と発展を見せていったVan Hagarとは対照的に、
彼のキャリアは尻すぼみになっていった、
これも皆の知るところだ。
そして、そこから、デイヴの独特の歩みが始まる。
おそらくは、Van Halenを辞めてからの28年間、キャリアに浮き沈みはあっても、デイヴの中で、彼の考えるエンターテインメントというものへの志向が止むことは無かったのだろうと思われる。
90年代半ばには、ラスベガスでショウをするデイヴの姿があったし、
1994年の作品、”Your Filthy Little Mouth”は、内容は地味ながらも、そこにはデイヴらしい機知と、若い頃とは違った個性、そして音楽性は変わっても一貫して失われない「人生を楽しむ姿勢」があった。
そして、2000年代に入ってからも、彼は独特のパフォーマンスに磨きをかけ、2004年には来日もしたし、カバーアルバムをリリースするなど、彼の「エンターテインメント」への追求は決して止まっていなかった。
そして、Van Halenに居た頃は、おそらくは相当に自己中心的なロッカーだった彼、
頭は良かったと思うんだけれど、
若い頃は、その天性の魅力と、ワイルドでセクシーな肉体性でもって、
技術なんてなくても十分にスターであったデイヴ、
歳を重ねて、そういった魅力が失われるにつれて、
その代わりに、彼は、彼の考えるところの、本物のエンターテイナーに
なろうとしていたのだろうと思う。
「人を楽しませたい」というその志だけは、
おそらくはこの人の中では、ずっと変わっていないのだろう。
彼が、この15年間で学んできたであろう、エンターテインメントの追求。
それは、やはりVan Halenの音楽と同じく、
100年単位での本物のクラシックを目指すものだったと思われる。
彼は100年先まで語り継がれる本物の伝説のエンターテイナーになろうとしたのだ。
このアルバムにおいて、
デイヴ・リー・ロスの歌詞は、
過去にないくらい複雑で、機知に富み、洒落の効いたものになっている。
独特のドローイングで彩られた歌詞カードとともに、
これは、他の誰にも書くことのできない歌詞であろうと思う。
これだけでも、クラシックに値するかもしれない。
そして、この新しいVan Halenのステージにおいての、
デイヴのパフォーマンスを、オーディエンスはどう受け止めるだろうか。
タップダンスというか、ボードヴィルダンスというのか、
それこそ100年前のクラシックなエンターテイナーに本当になってしまっている。
困惑はあるかもしれないが、
僕は、方向性としてはこれは間違っていないと思う。
それが、デイヴが本来目指していた「エンターテインメント」なのだから。
デイヴは歌唱においても進化している。
いや、純粋に進化と呼んでいいかどうかは、意見が分かれるかもしれないが。
Van Halen在籍時は、歌唱力で勝負するタイプではまったくなかったし、
音域も狭く、声もしゃがれ声であり、とても優れたシンガーとは言いがたく、
特にライヴにおいてはほとんどラップ状態でまともに歌っていないほどで、
(しかしそれでも成立したのがデイヴ時代のVan Halenの凄いところなのだが)
それもあってシンガーがSammy Hagarに変わったときは、
その反動のようにエディはメロディアスな名曲を連発したが、
デイヴも、Van Halen脱退以降、地道に訓練を重ねていたようで、
年月を経るごとに、その声域は少しずつ広がり、
次第にハイトーンも出るようになっていった。
“Your Filthy Little Mouth”の頃には、楽曲の中に、それなりに高いピッチの歌唱やシャウトがフィーチャリングされるようになった。
しかし、いかんせん、もともと持っている声が、
聞き苦しいしゃがれ声のため、
高い音が出るようになったとはいっても、
それは優れたメタルシンガーのような朗々とした声ではなく、
むしろ無理して出しているような哀れなしゃがれ声であり、
それが、シンガーとしての実力のなさを、余計に露呈させてしまっていたきらいがあった。
この新しいVan Halenのアルバムにおいても、
デイヴのヴォーカルは完璧ではない。
しかし、それでもやはり、年月を経て広くなった音域がなければ、
このアルバムの楽曲は成立しなかったし、
凄まじくなったバックの演奏、
その「100年クラシック」の新しいVH印のサウンドは、
どういうわけだか、この歳をとった「クラシックデイヴ」の声と
ちゃんとマッチするようだ。
このあたりが、やはり運命というか、
人間的にはともかくも、
音楽的に、エディとデイヴが、
実に相性がいいというその証拠なのだろう。
実に、ロックシンガーとしてスタートしてから、
30年以上、おそらくは40年にもなって、
デヴィッド・リー・ロスは、
ようやく今、ロックシンガーとして完成し、
彼の本当の歌唱を聴かせることができるようになった。
その結果が、この”A Different Kind of Truth”だ。
歌唱力はどうあれ、
彼がロックシンガーとして、
歌唱ではなく、アティチュードとキャラクターでもって、
魅力的なパフォーマーであることに変わりはない。
このアルバムにはデイヴの魅力が満載されている。
そして、やはり、Van Halenのシンガーは、
David Lee Rothだった、ということだ。
「サミーか、デイヴか」
という、長年の議論に、
今こうして、事実上の決着が付いたのだ。
いいんだよ、サミーは、
凄いシンガーだけれど、
ソロでも、Chickenfootでも、うまくやっていけるし、
テキーラでも大もうけした優秀なビジネスマンなんだから。
デイヴには、Van Halenしかない。
そして、Van Halenにも、やっぱりデイヴしかいないのだ。
その天性のエンターテイナーの、
これまで追い求めてきた本物のエンターテインメントが、
これからVan Halenのワールドツアーにて、
披露されるはずだ。
それはきっと、華やかなものだろう。
ライヴコンサートということについて、
ついでに触れておくのであれば、
多くのロックバンドにおいて、
どんなベテランの大物バンドであっても、
そのコンサートが、高い質を持って安定して楽しめるようになったのは、
実は最近のことであろうと思われる。
それは、ロックという音楽が、まだ歴史の浅い、新しいものであるからだ。
ソングライティングや、創作の面、
また、時代性をとらえたパフォーマンスということでいえば、
60年代、70年代といった時代の伝説のアーティストたちには
もちろんかなわないが、
ライヴ演奏ということにおいては、
アーティストも肉体という限界を持つ存在である以上、
年齢を重ねて経験と修練を経てはじめて、
(そして、修練を重ねることが出来た者だけが)
その質が向上していく。
40代、50代といった、ベテランのアーティストたちが、
完成されたショウを見せることができるのはそのとおりだし、
彼らのクリエイティヴな全盛期は、20年前だったかもしれないが、
ライヴショウにおいての全盛期は、実は今だったりする。
これは、機材や、音響の進歩によるところも、実は大きい。
たとえば、The Beatlesは、
ロックという辞書の中では、間違いなく「最高のバンド」であるが、
60年代において、そのコンサートは、
少なくとも、当時、まだ珍しかった大きな会場におけるコンサートは、
そのクオリティは、現代とは比較にならない低いものだったと思われる。
それは、当時は、大出力のアンプはおろか、
PAシステムすらも、まだ発達していなかったからであって、
ステージ上のモニターなんてものすらあるはずもなく、
そんな中では、どんなミュージシャンであれ、
まともな演奏など臨むべくもないわけである。
1970年代にはハードロックが発達し、
大音量、大会場が可能になったが、
1980年代においてすら、
大会場でのコンサートは、
今とくらべれば、おそらくは質の違うものだったのではないか。
ミュージシャンたちの過去のインタビューなどを見るにつけ、
限られた音響と、環境の中で、
おそらくはやっと演奏するだけで精一杯だったのではないか。
大音量で演奏するヘヴィメタルにとっては余計にそうだろう。
Van Halenに関して言えば、
デビュー前のブートレッグで聴ける凄まじいクオリティの演奏と比較して、
そのライヴ演奏が、もっとも乱れていたのが、
80年代前半の時期だったと思われる。
それは、そうした、時代や、環境のせいも、
少なからずあったのだろう。
クラブ時代には正確無比な演奏をしていたVan Halenにとっても、
80年代前半という時代にあって、スタジアムのような巨大な会場で演奏するには、やはり難しい環境だったのだろう。そういう時代でもあった。
それでも客を魅了する、圧倒的な魅力を放っていたのが当時のVan Halenだったと思う。
しかし、そう思うと、僕らは、この全盛期のVan Halenの本当の演奏を、まだ聴いていないかもしれない。
それが聴けるのは、今まさに、これからなのだ。
1980年代後半、そして、1990年代に入って、円熟期を迎えたVan Halenのライヴ演奏が、安定したスケールの大きなものになっていったのは、そういった音響機材などの発達も背景にあっただろうと思われる。
そして、ロックも次第に、勢いだけで演奏するのではなく、じっくりと鳴らす円熟味が評価される時代になっていった。
今は、ロックそのものが円熟しつつある時代。
ロックというものが、どういうものなのか、
今は、やる側も、聴く側も、昔よりももっとよくわかっている。
創作についてはともかく、ライヴのそういった現実的な要素については、
現代の方が格段に向上しているだろう。
そんな今の時代に、最高のサウンドで作り出された究極のVan Halenを、
ぜひライヴで体験したいものだ。
機材の発達について、ひとつ、記憶しているエピソードを添えるのであれば、
プロのミュージシャンの間で、今では常識となっている、
インナーイヤーモニター、
いわゆるイヤモニ、
これが開発されるきっかけも、実は他でもないVan Halenだったと何かで読んだことがある。
90年代の円熟期のVan Halenは、キーボードとの同期の関係もあり、
Alex Van Halenは、ヘッドフォンの音を聴きながらドラムを叩いていた。
Live:Right Here, Right Nowの映像でも、AKGの大きなヘッドフォンを着けてドラミングするアレックスの姿を確認することができる。
しかし、”Balance”のツアーの際、
ファンなら知っていると思うが、当時、アレックスは、首を痛めて、むちうち状態であり、ギプスのようなもので首を固定してドラムを叩いていた。それはちょっと、痛々しい光景だったけれど。
そのせいで、ヘッドフォンを着けてプレイするのが、難しかったらしい。
「ヘッドフォンではなく、耳に直接差し込んでモニターできるものを作ってくれ」
このときのアレックスのこの注文が、
後のインイヤーモニターの開発のきっかけになったということだ。
これにより、世界中のアーティストたちは、
足下に置く、いわゆる「転がし」のモニターよりも、
より正確なモニタリングが、ステージ上のどの位置でも可能になり、
そしてそれによって、特にシンガーたちのステージでの歌唱のクオリティは、格段に増した。
ロックバンドの爆音の中でも、自分の声が、より確実に聞こえるようになったのだ。
Van Halenは、実にいろんな形で、ロックの世界に影響を与えている。
Conclusion:
「Van Halenこそがロックの真実」
何度も繰り返しているように、
僕にとってはこのVan Halenの復活のニューアルバムは、
ほとんどイエス・キリストの再来に近いくらいの意味合いがある。
僕の辞書の中では、
歴史上のどんなロックバンドよりも、
どんなにメジャーな大物バンドよりも、
Van Halenは、本物のロックを体現する存在だ。
世界中にどれだけのロックバンドがいようとも、
Van Halenは、本当に正しいロックを鳴らす、
本当に唯一の特別なバンドだったのだ。
それはまさに、
「ロックの王道」と呼ぶにふさわしいバンドだ。
そのVan Halenが、ついに帰ってきた。
前作のオリジナルアルバムから、実に14年、
また、ずっと待望されていた、Dave Lee Rothの復活作としては、
実に28年ぶりに。
そして、その長い不在にもかかわらず、
なんと驚くべきことに、この進化した2012年において、
Van Halenは、時代の最先端どころか、
時代を越えてその先を指し示す、
そんな凄まじい、重大な意義を持つ作品を作ってきた。
時代遅れどころか、彼らは先頭に居た。
Van Halenは、
自らが今でも時代のトップランナーであることを、
再び強力に証明したのだ。
今、世界中のロックファンたちが、
Van Halenのこの衝撃的な復活作に、
驚き、賞賛の声を挙げている。
Van Halenのような伝説的なバンドが、
これだけ素晴らしい復活作を、
この時代に作り上げたというだけで、
既に重大な事件なのだ。
奇跡と言っていいと思う。
そして、この奇跡をもって、
僕はこう言いたい。
他のどのバンドでもなく、
唯一、Van Halenこそが、
ロックの真実だったのだ、と。
今、年月を経て、
彼らが身を以てこれだけの偉業を示してみせた事、
それはすなわち、
ロックの真実が示されたことであり、
これはロックンロールの歴史上、
重大な意味を持つターニングポイントであると、
僕は断言する。
あらためて言いたい。
エディ・ヴァン・ヘイレンには、
結局のところ、誰もかなわなかった。
彼のぶっとんだプレイとサウンドは、
他の誰にも真似のできないものであることが、
今、はっきりしてしまった。
エディ・ヴァン・ヘイレンこそが、
神に選ばれた本物のロックギタリストであり、
Van Halenこそが、
ロックの王道であり、
真実なのだと。
50年前、
神は人間にロックンロールを与え、
The Beatlesが生まれた。
そして、
神はハードロックを選ばれた。
今、Van Halenの
“A Different Kind of Truth”によって、
ロックの真実が示された!!