ヘヴィメタルを象徴する伝説のバンド、
Judas Priestの新作”Redeemer of Souls”が、今年の夏、リリースされましたね。
例によって、(えらそうに)感想、評論、レビューを書いてみたいと思います。
自分は、ヘヴィメタルに限らず、ちょっとくらいは新しいバンドも聴いていますし、
もっと言うと、ヘヴィメタル以外のものの方が割合としては多いですが、
あまり、そういうもののレビューを書いてなくて、
一方でこういうヘヴィメタルの重鎮の作品の感想を書くことの方が多いですが、
それは、やっぱり自分が自分のバンドでやっている音楽が、ヘヴィメタルの範疇のものだから、ということ、
そして、こういう伝説の、歴史をつくってきたバンドの作品について考察することは、
ロックの歴史そのものを考察することに他ならないからです。
そして、その歴史に対する、自分の立ち位置、ひいては自分の目指す行き先を考え、確認することに他ならないからです。
そして、歴史的な伝説のバンド、超一流な世界的バンドであっても、
結構僕は好き勝手に上から目線で評論してしまうので不評きわまりないのですが、
今回もやっぱり好き勝手に上から目線で書こうと思います(笑)
さて、僕は、Judas Priestは、とても好きなバンドです。
というか、もっと言えば、好き、なんて言葉では片付けられないくらい、自分にとっては重要なバンドです。
なぜか、それは、僕にとって初めてのヘヴィメタル、
というよりも、初めてのロック。
初めてロックというものを体験し、夢中になったバンド。
それがJudas Priestだったからです。
そして、ギターを始めたのも、もちろんJudas Priestに憧れたからでした。
当時13歳だった僕が、複雑な思春期の入口に立ちながら、
夢中になり、大きな影響を受けたバンドこそが、
Judas Priestだったのです。
少年時代に、
僕が最初に買ったロック、ヘヴィメタルのCDは、Judas Priestの”Ram It Down”であり、その翌月には、”Painkiller”を買ったのでした。
そして、その一年後には、Priestの80年代のアルバムは、すべてそろえていたのでした。
Glenn Tiptonと、K.K.Downingのギタープレイは、自分にとってのヘヴィメタルのギターの在り方の基準となり、
そして自分にとっての「ヘヴィメタル」の基準は、Judas Priestそのものでした。
僕は、どちらかというと型通りのヘヴィメタルはあまり好きではないので、
人と話していて、自分は本当はヘヴィメタルが好きではないのではないか、と思うことが度々ありますが、
あえて言えば、僕はヘヴィメタルが好きなのではなく、Judas Priestが好きなのであり、
そして僕にとってのヘヴィメタルとは、Judas Priestであり、Judas Priestだけがヘヴィメタルなのです。
(たとえば、僕はIron Maidenを本気でいいと思ったことは一度もありませんし、ジャーマンメタル系も、ほとんどは無理です。)
そしてJudas Priestといえば、「メタルゴッド」。
ヘヴィメタルの世界の頂点であり、ヘヴィメタルという音楽表現を切り開いてきた先駆者。
だからこそヘヴィメタルを演奏するミュージシャン、プレイヤーは、
多かれ少なかれ、Priestを聴き、学びます。
たとえば、1990年の”Painkiller”(ペインキラー)、1982年の”Screaming For Vengeance”(復讐の叫び)などは、ヘヴィメタルミュージシャンであれば、誰もが知っている、知らない方が珍しい作品でしょう。
けれども、逆に言えば、有名なバンドゆえに、
それらの代表的な作品、代表的な曲しか知らない、聴かれていない、
そういう現象も多く見かけますし、
よほどヘヴィメタルの世界に長くいる人であっても、
僕のような(それほど詳しいとは言いませんが)熱心なファンからすると
この人はPriestをまったく知らないな、と言いたくなるような人も、
たくさん見かけました。
そして、僕に言わせれば、Priestの本当の魅力とは、
Painkillerや、Screaming For Vengeance、Difenders of the Faithのような代表的なヒット作品だけではなく、
むしろ問題作と言われるアルバムや楽曲の中にこそあると思います。
それはたとえば、一般的にはとても評価の低い”Point of Entry”のようなアルバムや、物議をかもした”Turbo”などの作品にも言えることです。
そして、90年代の、ヘヴィメタルの冬の時代に青春を過ごした僕らの世代ですが、
僕にとっては、その冬の時代である「リッパー時代」、つまり、Rob Halfordが脱退し、Tim “Ripper” Owensが劇的に加入した時代の作品、1997年の”Jagulator”、そして2001年の”Demolition”、
この時代も、実は僕はかなり好きで、また作品としてもかなり評価しています。
確かに楽曲や方向性に、全盛期とくらべていろいろと問題はあるのですが、
「ヘヴィメタル冬の時代」に作られたこれらの作品を、華やかだった1980年代の作品と比較するのは、単純にフェアではなく、
また、これらは「ヘヴィメタル冬の時代」に作られたからこそ、深い意義をもった作品であり、そこにはきちんと、Judas Priestならではの意図、ヘヴィメタルというものに対するメッセージが含まれていると僕は感じます。
そして2000年代に入ると、ついにRob Halfordが復帰し、2005年に、ドラマティックな復活作”Angel of Retribution”が発表されます。
けれども、僕は、この「ロブ復帰後」、「復活後」のPriestに関しては、ちょっと複雑な思いを持っています。
その複雑な思いを、どうやって表現すればよいか、とても難しく、わかりませんが、
ひとつ言うのであれば、僕が思うに、
「自分で自分のことをメタルゴッドと呼ぶようになってからのロブ・ハルフォードは、すでにメタルゴッドではない」
という逆説です。
もちろん、ロブ復帰後、復活後のプリーストも、とてもクオリティの高い作品を毎回作っており、また、とても素晴らしいステージをやっていると思いますが、
しかし、21世紀になり、時代が変わり、押しも押されぬベテランとなった彼らが、”Metal God”を自称、自認するようになったとき、彼らはすでに、かつての時代を切り開いてきたヒーローではなくなっているからです。
21世紀に入り、ヘヴィメタル、そしてロックという表現も出尽くし、細分化され、すべてのジャンルが一回りして、
またヘヴィメタルというものも、定型化した表現が完成し、若い世代のミュージシャンも含め、皆がその定型化した音楽を繰り返さざるを得なくなった。
そんな時代に「メタル・ゴッド」を自称する彼らもまた、
定型化した音楽表現を追いかけ、繰り返すだけの、
いわば、自分たちが過去に作り上げた「Metal God」という偶像を自分たちで祭り上げる、「その他大勢」の一人に成り果てたということです。
ただ、彼らに残されたのは「司祭」という権威と、地位。
その地位と権威を持って、彼らは自分たちが作り上げた偶像を祀り、模倣し、民衆を煽動してきた、そう言うことができると思います。
だから、ロブ復帰後の作品、ライヴも含め、どれもクオリティは高いですが、
本当の意味で音楽的な驚きや、興奮はなかったと思います。
2005年に発表された”Angel of Retribution”は、音楽的にはあまりおもしろくない作品ではありました。
ロブの歌唱にしても、グレンとK.K.のギターにしても、楽曲のアイディアにしても、やはりかつてのような切れ味は望めないということも強く感じました。
けれども、それでも、メタルの定型ともいえる定番のスタイルを、自己パロディぎりぎり、というか、むしろ自己パロディ丸出しで鳴らし、結果として、世界の多くのファンを納得させた事実は認めざるを得ません。
2008年に発表された”Nostradamus”、これも結果的に「問題作」と呼ばれるものになりました。
彼らが不在だった時代に、世の中に出て来た新しい世代のヘヴィメタルなども含めて考えると、この”Nostradamus”も、音楽性として新しいとは言えず、「大仰なストーリーのコンセプトアルバム」という内容は、どちらかというと退屈なものでした。内容も冗長で、このmp3やYouTubeの普及したインターネット時代の基準から考えると非常に聴きづらく、僕も眠れないときには睡眠導入剤の変わりにこのアルバムを聴いたりするくらいでした(笑) (退屈で眠ってしまうからです)
けれども、よく聴いてみると、その音楽性は、確かにプリーストならではの、まさにプリーストとしか言いようのないもので、また、かなり本格的なオペラ、クラシックへの接近、英国的な趣味丸出しのコンセプトや演出など、まあ歳を取ったミュージシャンの優雅なお遊びに思えなくもないですが、それも含めて、凄さを感じます。
そして、その年齢というキャリアの中でのタイミングということも関係してはいるでしょうが、ロブ復帰後の2作目にして、このようにリスキーで野心に満ちた作品を作ってきたことは、少なくとも僕にとっては、「安全策」一辺倒であった”Angel of Retribution”よりも、面白みを感じる作品ではありました。
さて、そして、まあ経過は端折りますが、
その後、K.K.Downingの衝撃的な脱退、
そしてツアー活動停止のアナウンス、フェアウェルツアーなどを経た上で、
あるいはこれがPriestの最後のアルバムになるかもしれないといった雰囲気の中で、
2014年、この”Redeemer of Souls”が発表されました。
前置きが長かったですが、
レビュー、感想に入ります。
まず、このアルバムは、”リッチー・フォークナーのアルバム”です。
もちろん、Priestのアルバムには違いないのですが、内容としては限りなく、Richie Faulknerのアルバムになっている、ということです。
そして、そのクオリティに関してですが、
「思ったよりもかなり良い」と言うことができます。
ぶっちゃけ、僕はこのPriestの、あるいは最後になるかもしれないアルバムに対して、音楽的にあまり高い期待値は持っていませんでした
あんまり期待してなかったです。
どうせまた、あたりさわりのない、つまらない作品を聴かされるだろうと。
けれども、確かに、つまらないっちゃあつまらないんですが、
それでも、思っていたよりは、かなり良いと思いました。
そして、それって、凄いことだと、僕は思います。
ポイントその1、「Painkillerの呪縛」、
これについて書きたいと思います。
Judas Priestは、近代ヘヴィメタルを切り開き、長年にわたり世界中のヘヴィメタルバンドのトップとして君臨してきた偉大なバンドです。
なので、その長い歴史の中で、多くの素晴らしい作品、代表的な作品を作り出してきました。
けれども、現代のヘヴィメタルの文脈の中で、世界中のキッズの頭の中に、もっとも強いインパクトとして刻まれているのはやはり”Painkiller”でしょう。
1990年に発表されたアルバムであり、
時代の変わり目に発表されたアルバムということもあり、
当時、正当な評価がされたかどうかわかりませんが、
そして、今でも、このアルバムに対して正当な評価がされているか、それすらわからないくらいの作品ですが、
クラシックとモダンを併せ持つ音楽スタイルの中で、
インテンスな気迫、プレイの凄まじさ、サウンドの徹底、世界観の凄さ、窒息しそうな密度の濃さ、そしてヘヴィメタルという概念を見事なまでに表現したこのアルバムは、
ほとんど空前絶後と言える内容であり、
ヘヴィメタルの歴史の中でもほとんど特異と言えるような、金字塔であると同時に、特異点であり、
その意味では、あるいは今でも、このアルバムを越えるヘヴィメタルのアルバムは、無いと言ってもいいのかもしれません。
その、あまりの特異な内容を持つ強烈な傑作ゆえに、
そして、その作品を最後にRob Halfordは脱退し、時代はヘヴィメタル冬の時代へと突入、Priestは伝説となってしまったがゆえに、
ロブ復帰後のプリーストには、この”Painkiller”の続編が期待されることとなり、
そして、それは本人たちも同じくわかっており、本人たちも、この”Painkiller”の幻影を追いかけることになったと思われます。
それはロブ復帰後の作品のジャケット、アートワークにも如実に現れており、そして今回の作品”Redeemer of Souls”のジャケットにも、”Painkiller”のアートワークを手がけたMark Wilkinsonのアートワークが使われています。そしてそれは当然、またしても、”Painkiller”を意識したアートワークになっています。
Painkillerの呪縛は、ジャケットだけでなく、当然楽曲にも現れており、ロブ復帰後、”Angel”においても、”Nostradamus”においても、そのサウンド、ならびに演奏スタイルは、”Painkiller”を意識した、ペインキラーの路線を狙ったものになっていました。
けれども、それがPainkillerを越えていたか、Painkillerの域に達していたか、というと、それは越えていない、達していなかった、と言えると思います。
そして、この今回の作品”Redeemer of Souls”においても、そのサウンドは当然、またも、Painkillerを意識したものになっています。そして、その内容は、またしても、Painkillerを越えているかと言われれば、越えていません。
でも、確かにペインキラーを越えてないけれど、でも、それでも、いいかな、と、この作品は思えます。
なぜか。
なぜなら、そこにRichie Faulknerがいるからです。
(つまり、新しい世界が開けているからです)
そして、3度目の正直というべきか、
このポストペインキラー路線も、3度も繰り返すと、なんだか説得力があるというか、確かにペインキラーをもう一度作ることはできないけれど、この路線で、それなりにクオリティの高い作品は作れているので、もう今のプリーストは、この路線でいいのかな、と思えてきます。
そして、実際、もう「ペインキラーの呪縛」を忘れてもいいんじゃないか、というくらいの内容の濃さを、このアルバムは持っています。
その意味で、果たしてこれがPriestの最後の作品になるのか、あるいはもう一枚、二枚、次の作品があるのかわかりませんが、
その意味で、たとえば次の作品があるとしたら、もう「ペインキラーの呪縛」は、あらゆる意味で吹っ切れるんじゃないかと、そんな気がします。
ポイントその2、リッチー・フォークナー。
これについて書きたいと思います。
2011年、K.K.DowningがJudas Priestを脱退することがアナウンスされ、世界中のファンが衝撃を受けました。
そして、若い世代のギタリスト、Richie Faulknerが加入し、Epitaph World Tourが行われたわけですが。
この、キャリアの終盤、しめくくりの時期にあっての、メンバーの交代。
これが、この有終の美となるべきこのアルバムにとって、吉と出るか、凶と出るか。
それが、ファンが注目したこのアルバムのポイントのひとつであったと思いますが、
このRedeemer of Soulsにとって、リッチー・フォークナーの加入は、結果として、吉と出ています。
というよりも、むしろこのリッチー・フォークナーという若いギタリストの加入こそが、この年老いたバンドにとって、ほとんど福音となっていると思います。
このアルバムは、リッチー・フォークナーのアルバムだと思います。
実際に、ギターソロの大部分を、グレンではなく、リッチーが弾いている。
そして、リフワークに関しても、前乗りのタイミングで弾き、アンサンブルをリードしているのは、リッチーのギターです。
そしてソングライティングにおいても、おそらくはリッチーのインプットがかなりあったのではないかと感じます。
それは、楽曲のところどころに、これまでのプリーストにはなかったような音使いが聴かれるからです。
それらの「若きギタリストの指紋」こそが、このアルバムに、ちょっとした驚きを与え、この自ら定型を作り上げたヘヴィメタルを繰り返すより他なかったベテランバンドに、新たな活力を注ぎ込んだのだと思います。
そしてそれはどういうことかというと、
世代間の、立場の違いから来る表現の制約の違い、
それが生み出したマジックであると思います。
リッチー・フォークナーは若い世代のギタリストです。
(もっとも、「若い」という言葉の定義すらも、プリーストが全盛期だった昔と、ロックが古典音楽となった今とでは、違ってきていますが)
リッチー・フォークナー自身、昔からプリーストの大ファンであったということですが、
彼の世代のミュージシャンは、自分たちがバンドで鳴らす音楽としては、プリーストのような音楽を、そのまま鳴らすのは難しいでしょう。
それは、時代が違うので、ミュージシャンとして成功していくためには、新しいスタイルの音楽を演奏しなければいけないからです。
音楽とは社会的なものであり、若い世代のミュージシャンが成功するためには、その世代、その時代の社会に受け入れられる音楽である必要があります。
リッチーの世代、つまり現代では、プリーストのような音楽は「クラシックロック」と呼ばれ、またあるいは古典的ハードロックについては「ストーナー・ロック」という言い方もあるかもしれません、彼自身、そうしたクラシックロックが好きだったことは事実でしょう。
けれども、そうした音楽を、彼の世代がそのまま鳴らすことは難しいことです。
もちろん、敢えてクラシックロック的な音楽を、そうした演出の上で鳴らす若いバンドも存在していると思いますが、それはまた違った方法論であると思います。
けれども、Judas Priestという世界一の伝説的なヘヴィメタルバンドに加入することによって、リッチー・フォークナーは、その「クラシックロック」を、もっともど真ん中の、もっとも直球で、そのまま鳴らすことが出来るようになりました。(というよりも、それが求められた)
すべてのロックが鳴らされた後の、制約だらけの時代に生きる若きミュージシャンにとって、このJudas Priestという環境は、それらの制約からの解放であったに違いありません。
この世代間の立場の交換というマジックが、このJudas Priestの新しいアルバムにおいて、非常に良い結果を生み出す要因になっていると僕は考えています。
そして、Judas Priestの大ファンでもあった彼は、Judas Priestとはどうあるべきか、そして、ファンが何を求めているか、よくわかっていたのではないでしょうか。そう、つまり、Robや、Glenn以上に、何がJudas Priestらしいのか、Judas Priestは何をやるべきなのか、リッチーはわかっていたのかもしれません。
そしてリッチーには、RobやGlennには無い、新しい世代の発想がありました。
それらのものが、このアルバムにおいて、爆発しているのだと、僕は思います。
推測に過ぎませんが、”Sword of Damocles”や”Crossfire”におけるいかにも70年代的なブルージーなストーナーロックの要素は、むしろGlennよりも、Richieのアイディアなのではないでしょうか。
もうひとつ、Priestにとって大切だったのは、
彼、リッチー・フォークナーが英国人であった、ということだと思います。
そして、伝統を大切にする、正統派のギタリストであった点も大きいと思います。
Richie Faulknerは、プレイスタイルとして、特に大きな特徴や、突出したものを持っているわけではありません。
どちらかというとすべてのプレイを、優秀かつ無難にこなしている感じです。
Epitaph Tourでの来日公演を、僕も見ましたが、そのギタープレイのスタイルは、
かなりZakk Wyldeを想起させるもので、なんかちょうど、ザック・ワイルドと、ダグ・アルドリッチを足して2で割ったような、そんな感じでした。
そして、その印象は、このアルバムでもほとんど変わりません。
現代のギタリストとしては、オーソドックスなほどに、オーソドックス過ぎるくらいのプレイです。
けれども、やはり、どこかに、K.K.Downingの後継者にふさわしい、「Priestの香り」がする、それは、やはり、彼が英国人だという部分に秘密があるように思います。もちろん、英国人のギタリストが誰しもJudas Priestになれるわけではありませんが、けれども、たとえば今まで、Scott Travisはアメリカ人であるし、Tim “Ripper” Owensもアメリカ人であった、けれども、K.K.の後任となるギタリストだけは、リッチーだけは、やはり英国人でなければいけなかったのだろうと、そう思います。
そして、それは、Priestのベテランたち、つまり、Robや、Glennからの、若い世代のメタル戦士たち、それはつまり、Richieのことですが、その若い世代のミュージシャンたちへの、伝統の継承であり、ギフトの継承の意味を持つのだろうと思います。
これが最後のアルバムになるにせよ、ならないにせよ、
このPriestの最晩年のアルバムにおいて、偶然であっても、このようなベテランから若手への、古い世代から新しい世代への、伝統の継承が行われているなんて、
なんだか出来過ぎというか、物語が美しすぎるというか、
K.K.の脱退は、衝撃的ではありましたが、結果的に、プリーストにとって、このような前向きなドラマを産むことになったのだと思います。
長年のファンにとって、Judas Priestといえば、GlennとK.K.の鉄壁のリフワーク。
そんなファンにとって、このアルバムのリフワーク、少し早めのタイム感で刻まれるRichie Faulkerのリフと、そのサウンドは、確かに少し違和感があります。
けれども、それこそが、新しい世代のヘヴィメタルの音であり、新しい時代への、ヘヴィメタルの伝統の継承に他ならないのだと、僕は思います。
さてリッチーならびPriest、今回のアルバムを、高く評価する言葉を重ねましたが、
そうはいっても、やはりこのアルバム、しょせんは「復帰後」の「安全策」なアルバム。
音楽的には、新しい驚きであるとか、予想を越えてくる要素は、ほとんど、まったく、ありません。
まさに予想通りの、安心できる、金太郎飴的な、おなじみのヘヴィメタルが並んでいます。
ぶっちゃけ、つまらんなー、と思う瞬間も、たくさんあります。
たとえば、Burrnのインタビューかなんかで、メンバーがお気に入りの曲として挙げていた”Halls of Valhalla”、
メンバーは、「この曲は凄いぜ」みたいなこと言ってたと思いますが、
僕にはどうにも、未完成の失敗作にしか聞こえません。
たとえばこの曲のBメロ(bridge)のリフは、単調なリズムにアクセントをつけるために、どう聴いても6拍子つーのか6拍で切ることを誘ってます。
そして、サビの展開に、もうひとひねり、ふたひねり、山をつくることが、出来たはずです。
メインリフに単調なメロディを載せただけで、完成にしてしまうのは、非常にもったいなく、もっと飛び抜けた傑作になるポテンシャルがあるのに、それをしなかったPriestの作曲陣には、「この能無しめが!」の一言をもれなくプレゼントしたい気分です。
そうした瞬間は、このアルバムの中にいくつもあり、やっぱそのへんは、ちょっと歯がゆいなー、と思うわけです。
あと、僕らの世代としてはつっこみを入れておきたい部分としては、
件の”Crossfire”ですね、なんか、すごくどっかで聴いたようなリフですよね。
こんなジェネリックな、どっかで聴いたようなリフ、使っちゃっていいのか、
少なくとも、僕らの世代は、90年代にKのつくバンドのヒット曲で、これとまったく同じリフを聴かされた記憶があると思います。。。
とにもかくにも、予想された「型」を越えてくることは、まったくありません。
まったく予想どおりの、安全な、定番どおりの楽曲です。
けれども、その「型」の中、「安全策」の中において、
予想以上の質の高さを作ってきた、
そして、いくばくかの「小さな驚き」があったこと、
これこそが「予想外」であり「予想以上」であった部分です。
ここまで「やっぱりつまんない」と書いたように、
僕はこのアルバムの音楽性を、100%評価しているわけではありません。
すごい好き、とも言えません。
もっと本当に好きと思える音楽、もっと本当に自分を興奮させてくれる音楽は、新しいものでも、他にいっぱいあるし。
けれども、これが凄いアルバムかどうか、と聞かれたら、
僕は迷うことなくこう答えます。
「これは間違いなく、文句なしに凄いアルバムだ!」
と。
なぜか。
考えてもみてください。
70年代の昔から、
長きにわたり、時代を切り開き、
ヘヴィメタルという表現を作り上げ、
ヘヴィメタルの時代を作り上げ、
伝説となってきた偉大なバンド。
そんな彼らが、
年老いた今も、
これだけのアルバムが作れる。
そして、そこに、ひとつでもふたつでも、
「おっ?」と思える要素がある。
これは、
とんでもなく凄いことだと思います。
間違いなく、ヘヴィメタルの伝説は、新たに塗り替えられたと思います。
僕たちはまた、伝説を目撃することが出来ました。
そして、無名のミュージシャンのはしくれとして、
仮にもヘヴィメタルのジャンルに入る音楽を演奏する一人として、
僕もまた、これからも、
この作品や、プリーストの他の作品から、
たくさんのことを学び、また影響を受け続けていくでしょう。
ちなみに僕が手元に持っているのは、「通常版」ですが、
そうはいっても、YouTube上で、ボーナストラックを、僕もちょっと聴いてみました。
Snakebiteなどは、まるで80年代のプリーストの楽曲のよう。
こうした楽曲が今でも作れること、
その音楽性の深さが、今回のアルバムの、驚きのひとつでもあります。
そして、最後をかざる”Never Forget”、
Priestからの、フェアウェルメッセージとも受け取れる、
(というか、フェアウェルメッセージとしか受け取りようがない)
エモーショナルたっぷりの美しい楽曲。
これは、ちょっと、さすがに、驚き、震えずにはいられない。
アルバムの中で、自分がこれは、と思う曲を挙げるとすれば、
個人的には、”Metalizer”(笑)でしょう。
なぜ(笑)がついてしまうかというと、
この曲、すごく笑えるからです。
メタライザー、というタイトルから、
空間系エフェクトをかけて刻みまくるリフから、
大仰なハーモニー、必殺技を繰り出すようなサビのメロディまで、
ものすごい中二病パワーに溢れています(笑)
この偉大なる伝説のベテランが、こんな中二病全開の楽曲を繰り出してきたことに、
僕はヘヴィメタルという音楽の、底知れぬ奥深さとパワーを感じずにはいられません。
そしてあとはやはり”Battle Cry”でしょうか。
一部ではIron Maidenっぽいと批判されているみたいですが、
やっぱりいかに型通りとはいえ、
これほどに期待通りのヘヴィメタルを展開してくれるのは痛快としか言いようがないです。
あとは何度も聴いてるうちに”March of the Damned”とかも良い感じに思えてきました。
さんざん上から目線で斬りましたが、
堂々たるヘヴィメタルのアルバムであることに間違いはありません。
いずれにせよ、質の高さで、期待値を越えてきたJudas Priestの、あるいは最後になるかもしれない、この新作。
こんながつんと来るJudas Priestを、いまさらまた聴けたことに、ちょっと感謝したいと思います。