2014年4月の日記

■…2014年 4月 1日 (Wed)…….Rocking for 10 years
忘れていたわけではないが、眠れずにぼーっとしていたら思い出した。うちらのバンド、Imari Tonesは、こう見えても長い歴史がある。いつからやっているのか、いつが始まりだったのか、それはどこをスタートを考えるかによって変わってくる。けれども、バンドの形ができあがり、ライヴをやるようになったところを考えると、それは2004年のことだった。記憶が確かなら、「Tone、みねっち、はらっち」という最初のラインナップ(それ以前にもバンドの形は試行錯誤していたけれど)で、最初のギグをやったのは、2004年の3月の終わりのことだった。これは、10年間バンドが続いてきたことの、僕らのちいさなお祝い(Celebration)であり、そしてこれはその日、演奏した曲のひとつだ。(そしてこれは、ジョークではないですw) こちら

No(3565)

■…2014年 4月 3日 (Fri)…….古典音楽
ちょっと前からこのAC/DCのThunderstruckのカバー(AC/DCで有名な曲といえばHighway To HellやBack In Blackだと思うが、今となってはこのThunderstruckも、僕らの世代以降だと、むしろいちばん有名な曲のひとつだろう)が、インターネット上をcirculateしているが、
こちら
この動画は面白いし、たくさんの人が、新しいとか、ポストモダンなんちゃらとか、awesomeだとか言っているけれど、僕が思うにこの動画が示唆しているものはたくさんあるが、この動画が示唆しているのは、単にロックンロールがクラシックなものになって、文字通りクラシカルミュージックと同じようになってきた、という事実でありそれ以上でもそれ以下でもないように思う。
またこのようなカバーバンドや、
こちら
往年のロッククラシックのミュージカルが流行するのを見るにつれ、
まあそんなこと言う前に、90年代以降のDJカルチャーを見ればわかりきったことだったけれど、
今はもうオリジナル音楽をプレイするよりも、如何に社会的に新鮮な文脈で既知のものを提示するかの方が大事であり、あるいはオリジナルバンドをやるよりも、大小のクライアントのためにカバーバンドをやる方が稼げる、という事実に他ならないと思う。
クラシック音楽の世界で、たとえば演奏家がモーツァルトの曲を演奏したからといって、誰もそれを「パクリだ」とは言わない。
ではオリジナルというのはどういうことだろうか。
僕はそれは、種を撒くことに他ならないと思う。
誰もが先人から学び、歴史が積み上げたものの上に自分の音を鳴らす。その時、捧げようと思うのか、奪おうとするのか、そんな感じだ。それは、音楽そのものに対して。
本当に新しい音楽が、果たしてこれからまだ生まれてくるのだろうか。それとも、レジェンドたちの去った後に、20世紀が生んだロックンロール文化は終焉するのだろうか。

No(3571)

■…2014年 4月 5日 (Sun)…….Stratocaster
Fender Japanのストラトキャスターをたくさん試奏した。
バッカスもモモセもいろいろ弾けたのでゴキゲンではある。
ストラトキャスターというのも難しい命題だが悪夢のようなレスポールにくらべればまだ簡単だといえる。それはストラトというものの音の回答が比較的定番としてこれ、というものがあるからだ。
その意味では、今日弾いたBacchusのImperialや、Momoseのストラトは、形こそストラトキャスターの形をしているが、楽器としては実際ストラトキャスターとは完全に別のものだといえる。あれらは素晴らしい楽器だが、ストラトというよりは、「なんでも弾ける普通に良いギター」になってしまっているからだ。
またその意味では、MusicManの楽器なんかは、ストラトというかフェンダー系の楽器のカラーというか本質を踏み外さずにその延長線上の(その先、の)楽器を作っているので偉いと言えるのだろう。G&Lなんかもそうなのかな。
自分は現在、ストラトキャスターを所有していない。
だけれども、自分にとてのストラトキャスターの回答(または、Fender系の楽器の回答)といえるギターは、いくつか所有しているのだ。
その意味でストラトやFender系の楽器についても、自分なりの考えを持っているつもりではある。
本日、友人と一緒にFender Japanのストラトキャスターを何本も弾き、その中で当たりと思えるものが2本あったが、それらは違う個性を持ったものだったが、友人はその当たりの2本の「中間」にあったものを選んだ(笑) それでいいのだろう。楽器というのは結局、用途でありスタイルである。あれはあれでバランスの取れた楽器だった。自分としてもとても勉強になった。彼がこれからあのギターでどんな音を鳴らしていくか楽しみにしている。
前から試してみたいと思っていたMomoseのコリーナ製のフライングVを試してみた。
結果は、なんというか。
自分はコリーナの58年スタイルのフライングVにはちょっとばかりこだわりがあり、97年製のHamerのモデルを所有している。
それは97年に、Hamerが72本だけ生産し、それはオリジナルのGibsonとくらべ、ボディの厚みや、ネックの形状などが違う。僕の立場からすれば、それはよりモダンで実用的に「改良」されているのであり、むしろオリジナルGibsonよりも自分に合っているだろうと思えるものだ。(もちろんオリジナルGibson 58フライングVなど僕には死んでも手が出ないが)
Hamerはその後はコリーナVは受注生産で少数しか作っていないらしい。
そしてご存知のとおりHamerは昨年2013年をもって、ブランドがついに消滅してしまった。
72本のうちの1本は、どうやら僕も大好きなアースシェイカーのシャラさんが所有しているらしい。そして、その同じモデルが僕のもとにも一本あるということだ。
僕は昨年をもって、生涯に出会うべきギターとしては人生で究極の答えとなるギターにすべて出会ったと思っている。
そのうちの一本がBacchus「猫ポール」であり、もう一本がこのHamerのコリーナVだ。HamerコリーナVは、もちろん自分仕様にピックアップを載せ替えている。それは僕はダンカンのJBは好きではないからだ。何のPUに替えたか、それは秘密だ(笑)
だが、一本だけ持って最後の旅に出るとなれば僕はおそらくこのギターを持って旅に出るだろう。それは、シャラさんも言っているが、ルックスやステージパフォーマンスからすると、フライングVがいちばん好きだという。しかし、音はどうしてもレスポールタイプの方が良いという結果になってしまうそうだ。そしてそれは僕にとっても同じことだった。人生最後の2本、音を比較すると、7対3くらいで猫ポールが勝ってしまう(たとえ値段の比率は逆だとしても)。
けれども、たとえ猫ポールが世界のどこにもない究極のレスポールだったとしても、質の良いレスポールは、誰かがどこかに持っている。けれども、こういうタイプの質の良いフライングVは、存在する絶対数が、持っている人の絶対数が、少ない。(たとえばオリジナルフライングVは100本程度しか作られなかったが、オリジナルバーストレスポールは1500本ほど作られた事実を見てもわかる。)結果的に、希少性として一本もって旅に出るならHamerのこの72本のうちの一本を持っていくことになるということだ。
そしてMomoseのコリーナVだったが、やはりHamerとは違い、なんというか、違ったものだった。Momose、Bacchus(Deviser社)の楽器は、前にも書いたように、モデルごとに結構狙いというか方向性が違っていることが多いが、明らかにクラシックを狙った(でも微妙にモダンw)この楽器は、なんというのだろう、やはり僕の求めているものとは違う。
これをもって、GibsonともMomoseとも違うこのHamerの72本が、他には存在しない貴重なものであることが判明してしまった。
これは困ったことで、つまりHamerというのは既に現在この世には存在しないブランドである以上、これは失われたギターだということなのだ。
なくしたらそれっきりだということだ。
けれどもGibsonとかと違い、リセールバリューというのか、別に中古市場でそれほど価値があるわけでもない(笑)
僕はFender系の楽器に対しての自分なりの回答も前述のとおり持っている。
そしてレスポールに対しての究極の自分の回答も見つけた。
安ギター、安価なギターを弾くことの回答も自分の身をもって体験し証明している。
80年代系ヘヴィメタル系ギターやスーパーストラトについても自分なりに証明し体験した。
そしてUSA製の楽器と、日本製の楽器(アジア製の楽器もだけど)のそれぞれの良さも少しは身を以て体験しているつもりだ。
もちろん、まだ僕が知らないもの、知らないこと、知らない世界もたくさんあることを承知しているけれど、自分にとって本当に必要なことは、これで十分だ。
楽器屋めぐりをすると、世の中にこれだけいろいろな楽器があるのに、よくもきちんと自分が必要とする楽器、自分に合った楽器をこれまでも見つけてきたものだと思い、頭がくらくらとしてくる。
それを言うならば世界にこれだけ人間が居て、日本にも一億人以上、人間がいる中で、よくも自分にふさわしいパートナーと出会うことができたと思う。
それは、奇跡という言葉もだけれど、それ以上になんというか、ほとんど超能力、とでも言いたくなる感じだ。でも直感なんていうものは皆大なり小なりもっている。
愛なんて言葉を使いたくなるところだが、僕は昔から思っていて言っているが、僕にとって愛というものの定義を聞かれたら、僕は、「川原にあるたくさんの石ころの中から、砂浜にある何百万という砂つぶの中から、夜空にある幾千という星の中から、これだ、という正しいただひとつを間違いなく選ぶことのできる能力」みたいに回答している。そしてそれを確信を持って選び、そして後悔をしないことだと。それはいわゆるニュータイプ(ガンダムの)みたいなものではないかと思うのだ。愛という言葉の定義や意味はたくさんあるけれど、僕にとっては、なぜかそんな感じなのだ。そして、僕にとってはそういうことなのだろうと思っている。

No(3580)

■…2014年 4月 9日 (Thu)…….Get Nutty
さて、明日(4/10木曜)は、町田Nutty’sにてライヴ、Song of Songsというイベントにて、Imari Tones(イマリトーンズ)、ライヴをします。
これは、ソルフェイのオオハラさんにお誘いいただいて、クリスチャン系のバンドがなんと4つも共演するという、しかも、ワーシップとかじゃなく、普通にロックで激突するという、かなり画期的なイベント。
私たちも「クリスチャンバンド」になってからかれこれ6年が経過しましたが、日本でクリスチャンロック、しかもメタルぅぅ、とか難儀していたけれど、こうしてクリスチャンバンドの皆さんと一緒にライヴができるなんて夢のようです。
さて、そんなライヴを前日に控えて、前日というか、正確には二日前、火曜日の出来事なのですが、ちょっとまた事件が起きてしまいました!こんなコンディションでライヴに臨むのは初めてかもよ!どうしよう、大丈夫か!

ここから先は、若干血なまぐさい、かつ下(しも)な感じの話題になるので、食事中の方とか、抵抗のある方は読まないことをおすすめします。

事の発端は「ヒールフリップ」というトリックです。
そう、スケートボードですね。
私、ここ数年、バンドで定期的に遠征とか繰り返す生活だったので、まともに働けず、今現在、ほぼ嫁さんの世話になりつつ、アルバイトで生活費を稼いでいますが、
バイトの前に大抵、スケートボードの練習をしてから働きに行っております。
で、「ヒールフリップ」ですね。
僕は、このヒールフリップというやつが、わりと苦手なんですよ。
昨年の5月にキックフリップとヒールフリップを習得して以来、キックフリップは、順調にさくさく決めているんですが、ヒールフリップに関しては、急にできたりできなかったり、しばらくできなかったり、ちょっと苦手っぽいんですね。
そもそも、スケートボードについて書かれたウェブサイトとか見ても、「大抵、キックフリップとヒールフリップのどちらかが得意になりどちらかが苦手になる。体のバランスが関係している。」とか書かれていました。
なので僕はキックフリップの方が合っているのでしょう。
けれども最近、正確には1月の終わりにスケートシューズを変えてから、FallenのReverbというモデルに変えてから、ヒールフリップがなぜだかばしばし決まるようになってきたんですね。これは、靴の形なのかなんなのか。つま先がちょっと長過ぎるので、キックフリップは回り過ぎてしまいやりづらいんですが、逆にヒールフリップは良い感じで決まる。
で、ここ数ヶ月、ヒールフリップはさくさくと気持ちよく決めていたわけです。
と、そこまではよかったんですが、ヒールフリップには実はひとつの落とし穴があったのです。
それは、「刺さりやすい」。
刺さる、というのは、板が股間を直撃する、ということです。
英語で言うと、nut shotとか、credit cardedとか言うあれです。
ヒールフリップは、ミスをすると、刺さりやすいトリックと言われているのです。
で、昨日も僕はスケートをし、いろいろなトリックを決めつつ、なんの気もなしになにげなくヒールフリップを決めようとしたそのとき、左足がすっぽぬけ、「刺さり」ました。
いや、スケートボードをやっていて、トリックのミスで股間を痛打するのは別に初めてじゃないんです。
痛いは痛いけれど、別にあわてるほどのこともない。
ちくしょー、やっちまった。
そう思いながら、でも、2、3分もすれば別に痛みも収まりますんで、
その後もフツーにがんがんスケートしていたわけです。
で、1時間以上経過し、よし時間だ、バイト行こう。
そう思って、その前にトイレに寄って、パークのトイレで用を足そうとしたところ、
「わあ!!!!!!」
血のしょんべんでした。
しかも、なんというか、用を足した後も、その部分から、血がぽたぽたと流れてきて止まらない。
トイレの白い便器が、瞬く間に真っ赤な鮮血に染まります。
うわ、鮮血、真っ赤。きれいだな。
とか言っている場合ではなく。

よく、野球とかスポ根マンガとか、「血を吐くまで練習する」とか、「血の小便が出るまで練習する」とかいう表現がありますが、
こちとら楽しく夢中でスケートボードをやっていただけだよ!
別に血の小便が出たからといって、偉いわけでもなんでもない。
それってただ体を痛めてるだけだってば。
というのが、よくわかりました。

さて、めっちゃ焦りましたが、
病院に行こうにも、うちの嫁さん、先月仕事を変えて、保険証も手続き中で、こんなときに限って手元に保険証が無いんですね。
大事なところから、超、血が出てますが・・・

見なかったことにして、そのままバイトへ。
バイトをこなし、帰宅。
まだ生きてる、ってことは、たぶん死なない。
出血多量とかで死ぬわけではなさそう。

で、帰ってきて、今現在、まだ、やはり用を足すと、見事に血の小便です。
しかも小便をした後、しばらく血がぼたぼた流れます。
なんやねん。

下半身から血が出るとか、
まるで女性になった気分だ。
たぶんちょっと違うけれど、少しだけ女性の苦労というものが想像できた気分。

目下、いちばんの心配はやはり、夫婦生活に支障がないかどうか。
やっぱ、それは困る。
うちはたぶん子供は持たないと思うんだけれど、それでもやっぱり困る。
けれども、たぶん大丈夫なんじゃないかなあ、どうかな。

とにもかくにも、明日、木曜、町田Nutty’sでライブなんですが、
と、ここまで書いて、”Nutty’s”っていうライヴハウスの名前が既に、
予言のようにこの状況を言い当てていることに。
“Get nutty”でたぶん、股間痛打、ってことだと思うので。
nutって、たまたまのことですからね。

そんなこんなでnuttyになってしまっている私なんですが、
血の小便を流しつつ、演奏したいと思います。
果たして演奏できるのか。
わからん。やってみます。
bloody nutsということですね。

とにかくも、しばらくヒールフリップはやりません。
いや、やるかもしれないけど、
でも忘れたころにまたやるんだろうなあ。

面白いことに、普通の直線的なヒールフリップは、
刺さる危険があるんですが、
今、キックフリップのバリエーションとともに、
ヒールフリップのバリエーションも、練習を始めてますが、

つまり、バリアルヒールとか、インワードヒールとか。
面白いことに、ヒールフリップのバリエーションのトリックは、
あんまり刺さる危険が無いみたいなんですね。

なので、ヒールフリップは、回す形だけ練習しておいて、
無理に着地しようとせず、違和感のあるときは避けておいて。
ヒールフリップのバリエーションだけ、マスターしていったらいいんじゃないかな、
と、今、思ってます。

と、画像とかないかなと思い、
skateboard nut shotで最初に出てきたこの動画。
こちら

僕もすっかりファンをやっているRevive Skateboardsのチームの一員でもある、Josh Katsくんのビデオですね。
やっぱりインターネット上というか、YouTube上では相当人気あるんだなあ。
Nut shotのところはノーコンプライでミスったみたいですが、その後カメラにぶつかってるところでヒールフリップもやってますね。

Revive Skateboardsにしろ、今、メジャーなプロの流れとはまた違ったところで、YouTubeやインターネットで自己表現をしていっているスケーターたちが、かなり熱いです。
やがて彼らが、スケートボードの業界に風穴を開けるかもしれません。

見習いたいものです。
うちのバンドも。

木曜、町田Nutty’s、よろしくです。
イマリトーンズは8:10PM出番予定です。

No(3596)

■…2014年 4月10日 (Fri)…….未来ギター
さて明日はライヴということで、
文章書いてる場合じゃないんですが、
前日のバンドリハーサルも良い出来だったし、
nut shotによるめっちゃ血尿も「だいたい」治ってきたし、
(それでもまだふんばれるかどうかわからないけどね)
明日の準備もひとまずできたし。

心残りとしては、ビデオインタビューのときに
ライヴに、何か食べ物を煮込んでもっていく、っていう話をしたんだけれど
スケートボードの怪我によって体調的にとてもそんな余裕がなかったので
煮込み料理はまた次回、ごめん、ってことで。

でも今日、もう昨日だけど、のバンド練習で、
HamerのコリーナVちゃんが、やっと言うことを聞いてくれたというか、
やっと使いこなせるようになってきた。
(もっとも明日のライヴはまた白いランディVを使うけどね。使いやすいから。)

ずっと安いギターを使うことにこだわりを持ってきた私ですが、
昨年から始めた研究をもって、自分にとって本当に良いギターのあれこれが少しずつわかってきて、
ギターを鳴らす、ひいてはロックを鳴らす、ということの本質に、少しずつ迫ることが出来てきている気がします。

そんなこんなで、
またギターについてつれづれを書いているんですが、
Minarik Guitarsというメーカーがあります。
たぶん皆さん聞き慣れないメーカーだと思うんですが、

ここ数年、アメリカのギター雑誌なんか買うと、結構載ってるんですね。
で、なぜ載ってるかというと、
なぜというか、たぶんネタ的に、
すごいインパクトなわけです。
ギアレビューみたいのに載ってる、ギター一覧の写真を見て、
一目見て、「なんじゃこりゃ」みたいな。

実際、そんなに買って使ってる人いないと思うんですけど、
あまりにネタとして面白いから、雑誌も載っけると思うんですね。
あるいはただの広告だとは思いますが。
ブランドの経営者も、果たして本当にビジネスやってるのか、半分道楽だったりするのか、謎ですが。

で、ウェブサイト見てほしいんですが、

これね、
こちら

カタログのページを見た方が写真が大きくてよくわかるかな。
とにかく、ありえない形をしているわけです、このブランドのギター。

で、もうなんというか、見てもらうしかないんですが、

このとんでもない奇抜かつ華麗かつ神秘的なデザインのギターたちの写真を見るにつけ、
僕が思っていたのは、
「こんなギターでいったいどんな音楽を鳴らせばいいんだ!?」
という疑問。

きっとすごく高いんだろうし、
明らかに美術品としても価値があるし、
なんというか、楽器そのものがアートになってるし、
たぶん楽器としても高級だと思うんですが、

そんな楽器にふさわしい音楽を
どうやったら鳴らせるのか。

いくら考えてもさっぱりわからなかったんです。

でも、最近、YouTubeに、あまり数は多くないけれど、
ここの楽器のサンプルムービーとかあるのを、試しに見てみて、
音を聞いてみたら、

思いのほか良い音をしてるんですね。
それは、別に、ヴィンテージレスポールみたいな、
とか、そういう傾向の音ではなくて、
どちらかというと、もうちょっと現代的な
いわゆる普通のギターの音を、
やたらめったらパワーアップさせたみたいな。

別になんてことのない音なんですが、
とにかくボディが大きいので、
この大きなボディの共鳴が、
響きまくることによってぐうの音も出ないような
説得力のある音になってしまっている、
みたい、な、たぶん。

どっかで聞いたことのある音のような気もするんですが、
感触としては、たとえばよく響く広いホールなんかで
ギターを鳴らしたときの感覚に近い、
そういう音がギターのボディからしているというのか。

用途はわかりませんが、
でもこれは、方向性としてあまりなかったし、
たぶん良い楽器には違いないと思ったんですね。

その現代的な音をさらにパワーアップさせたような
クリアかつ朗々とした音に
これがひょっとして未来の音か、と
思うと同時に、
僕の中で、この楽器を鳴らすのにふさわしい音楽というか
ふさわしい状況が
たぶんここのブランドのこの奇抜な楽器、
鳴らすのにふさわしい音楽は

今から50年後、100年後、
そのとき、こういうデザインのギターは「普通」になっていて
とりたてて特別でもなく、普通に、
子供たちが学生が、学校の授業やクラブなんかで弾いている、
すごく普通な曲を。

そうに違いない、と思いました(笑)

それだけ!
寝ます!

No(3602)

■…2014年 4月12日 (Sun)…….Song of Songs お礼と反省
先日の町田Nutty’sのライヴ、応援していただいた皆さん、本当にありがとうございます。
主催のソルフェイさんや、共演の皆さんも素晴らしく、とても素敵なイベントになったと思います。
と、さて、しかし自分としては反省しきりなので反省です。
見ていただいた方々には、好評の言葉をいただき、本当に嬉しいのですが、
演奏している本人の立場としては反省事項がとても多いので……

いちばんの反省点というか失敗は、ランディローズVを使用したにもかかわらず、アームを、アームを、トレモロアームを、付け忘れてステージに上がってしまったということです。
これはどういうことかというと、リハーサルの時はきちんとアームを付けていたんですが、リハーサルが終わった後、楽屋にギターをしまって、その際に、ギターをケースにしまいますね。そのときに、アームをはずして、そのままはずしたままで本番のステージに上がってしまったということです。
これは僕にとってはすごいショックで、不完全なままのギター、不完全なままの道具を持って現場であるステージに上がってしまったということで、それはギターを弾く人間としてどうなんだ、と、ものすごいショックにさいなまれています。
そもそもが、フロイドローズの付いたギターをわざわざライヴで使うのは、アームでぎゅいーん、きゅいーん、ぎゃーん、と言わせたいからなのに、それが出来ないというのは、かなりえらいことです。しょうがなくブリッジをぐらぐらさせたり叩いたりするのが精一杯でした。
なぜ忘れてしまったのかという点については、それくらい平常心ではなかった、という点、そして、今回は、演奏する前にビールを飲むことを選択しました。これは、演奏にあたって、アルコールの力を使わずに、代わりにカフェイン(コーヒー)の力を利用して集中力を高める方法と、あまりに緊張の度合いが高くてコントロールできない時は、逆にアルコールで弛緩させて演奏に挑む方法のふたつがあります。今回は、諸状況から後者の方が有効であろうと判断したわけです。
しかし、その副作用として、やはり少し「オフ」になってしまったということですね。
今回のステージに臨むにあたっては、精神的なプレッシャーの質というものはありましたので、これはある程度仕方のないことです。
けれども、よりによってギターの一部であるアームを付け忘れたままステージに上がるとは、自分としては少しショックでした。うまい喩えが思いつきませんが、たとえばズボンを履き忘れてステージに上がってしまった、というような感じに近いでしょうか。アームの無いフロイドローズブリッジは、それくらい見た目も滑稽で不完全です。

とはいえ、ギタープレイに関しては、決して悪いわけではありませんでした。
アームを付け忘れていたといっても、それでソロが弾けないわけではないですしね。
ぶっちゃけプレイは荒かったんです。
ギターソロを弾きながら、うわ、荒いな、ミスしまくってるな、と思いつつ弾いていましたが、見ていただいた人々に話を聞いてみると、おおむね好評だったようで、後でビデオを見返してみると、確かに勢いのあるソロを弾いています。
これは、今回わりとアルコールの影響がもろに出てしまったこともあって、ピッキングミスも多かったんですが、かえって、そのピッキングミスによって、予想外の音が出て、ぎゅいんぎゅいんと、うなりをあげる勢いのあるギターソロになっている。
これは、思った通りに弾くことが必ずしもベストではない、という教訓であるとともに、ミスや、荒いのも含めて無意識下で自然な表現にすることができたということで、自分も少しはましなギタリストになってきたのかな、という感じはします。
勢いのあるギターソロが弾けたことは、全体として荒い演奏だった今回のライヴの中では救いであったと思います。

リズムギター、バッキングというのか、ギターのリズムプレイに関しては、ぎりぎり及第点といったところでしょうか。これもアルコールの影響、あとはアルコールがあったとしてもやはり平常心ではなく、少し舞い上がっていたことで、リフを弾いていてもミスが多い内容でした。調子の良いときというのは、ステージで動いてアクションを決めても、リフは乱れないものですが、今回は、ちょっと動くたびにリフの音を外してしまい、かなり自分に腹をたてて苛立ちながら演奏していました。最近、年々気が短くなっている自分としては、投げ出さずに最後まで演奏しただけでも自分を誉めたいところですが(汗)、けれども、土台となるプレイを崩すほどの乱れではなかったので、まあなんとか、と言ったところでしょう。

ギターサウンドについては、決して悪くはなかったと思います。
そもそもが、最近、ライヴの場で、僕が頻繁にJacksonランディローズVと、BlackStarのペダルを使っているのは、音の作りやすさと、安定性を重視してのことです。(あと見た目)
ライヴに自分のアンプを運搬して持ち込むことのほとんどない僕たち日本のギタリストは、現場にあるアンプを使うことが多いので、アンプの種類や状態によることなく確実に音が作れることは案外重要です。BlackStarのペダルは、決して100点満点の音は出ませんが、80点、90点の音は、確実に作ることができます。そして、それはかなり重要なことです。Jackson ランディVについても同様で、僕はスルーネックの音は必ずしも好きではないのですが、ライヴにおいては安定して抜けの良い、素直で使いやすい音を出すことができる、そしてこれも、100点満点の音は出なくても、90点の音は確実に出てくれるギターです。
その結果、100点の演奏が出来れば、それは正しい選択だ、ということですね。
今回も、自分が平常心ではなく、いかに荒い演奏だったとしても、ギターと機材は、確実に使いやすいサウンドで自分の演奏をサポートしてくれたということで、選択としては間違っていなかったと思います。
今回現場にあったのはJCM900ということで、ピッキングのニュアンスがかなり生々しく出てしまうJCM900を歪ませ、アンプの真空管をブースターでヒットしていたら、たぶんもっと演奏のハードルは上がってしまっていたでしょう。使いやすい機材というのも大事なファクターだと思わされます。

ヴォーカルについては60点というところでしょうか。
リハーサルの時点で、今日の調子、体調、現場の空気と、なにより自分の精神状態はどうかな、という点をチェックします。そして、この日は、場の緊張感と、自分の調子があまりよくないと判断し、カフェインよりもアルコールを選択することにしました。結果としてそれは間違いではなかったと思います。少なくとも「歌う」ことは出来ましたので……。
細かいことを言えば、ちょうど家にあるコーヒーの豆が切れていた。一杯分に足りないくらいの豆しか家に無かったんですね(笑) これがもしもっとたくさんあったら、アルコールではなく、カフェイン押しで行けたかもしれませんが。そしたらあるいは、もっとシャープな演奏になっていた可能性はあります。細かいことですが、そういう細かいところも演奏に影響してくるということだと思います。
自分は、昨年の10月の、あの外人バンドたちと一緒に行ったツアーが終わった後に、ちょっとしたきっかけと学びがあってヴォーカルの技術が少し向上し、今年に入ってからも、ライヴの本数は少ないですが、わりと良い感じで歌うことができていたんですが、今回はちょっと苦戦しました。他のシンガーさんはわかりませんが、自分の場合はスタイル的にも、ヴォーカルには精神状態がとても表れてしまうところです。こればかりは仕方が無いといった点ではあります。しかし、自分は知っています。ロックバンドにおける、リードヴォーカルの役割とは、決して上手く歌うことや、完璧に歌いあげることではなく、フロントマンの役割を果たすことである、つまり、メッセージを発し、バンドの爆音に負けないシャウトを提供し、最後まで歌い切ることである、と。その意味では、調子の悪いなりにも、自分の役割を果たしたと思います。そして、案外重要なのはそこだけであろうとも思います。精神状態や、当日の場のawkwardさもあって、声はひっくりかえりまくっていましたが、要所要所では声は出ていたと思います。

今回、そういった感じで、自分のプレイは荒い部分が多く、ギターソロに勢いがあったのがせめてもの救い、といった感じなのですが、
お客さんや、見ていただいた皆さんにはおおむね好評で、楽しんでいただけたようで、その要因のひとつとしては、後でビデオを見返したところ、リズム陣のプレイが非常に良い。
つまり、はっしーとジェイクのリズム隊、はっしーのベースと、ジェイクのドラムが非常に良かったという点ですね。
彼らのプレイが、僕の演奏の荒い部分を、きれいにカバーしてくれたということです。
彼らも決して、世界一才能のあるプレイヤーというわけではありませんので、今までもバンドをやりながら、不満に思うこともあれば、他の上手いバンドさんを見るにつけ、うちのリズム隊もこんなだったら、と思うことも度々あったのですが、
やはり何年も一緒にバンドをやり、ツアーというか遠征も何度もこなして経験を積むうちに、彼らの技術も向上し、また彼らも自分のスタイルというものを築き上げ、確立してきたということでしょう。
パフォーマンスという点では、ジェイクは非常に見る人を楽しませるドラマーになったし、はっしーのサウンドは非常に良いレベルに達しています。
ああ、いつのまにかうちのリズム隊も頼れるものになってきたのだな、というよりも、いつのまにかうちもバンドらしく、バンドサウンドというものが出来てきたのだな、と思わされる内容でした。
しょせんギターや歌なんてものは「上物」(うわもの)ですから、多少乱れたところで、そんなもん、というか、土台は揺らがないわけですね。
だんだんバンドのあるべき姿になってきたかもしれません。
そういう意味で、やっとうちのバンドも、良い演奏ができるのはこれからなのだろうと思います。

反省点ばかりの演奏でしたが、
実は自分のベストポイントとしては、曲間のMCではないかと思います。
クリスチャンバンドが4つも集まった、ちょっと貴重なイベントでしたが、そんな場において、自分たちらしいステージを展開し、メッセージを発するために、自分らしいMCを展開することができたことは、自分としては進歩であり、ポイントの高い部分です。
自分はいつも、ギタープレイを人に評価されることが多いですが、実はその上で、自分の本当の武器はヴォーカルというか声であり、そして信仰者というか宗教家?のはしくれである以上は、最終的な武器は言葉であることは自覚しているつもりです。
自分たちはおおよそ、どこのライヴやイベントでも、大なり小なり、「浮いて」しまいますが、
そしてそれはこのクリスチャン系のバンドが集まったイベントでも例外ではありませんが、
それでもその立場を、投げ出すことなく自然に主張することができたことで、十分に意味はあったのではないかと考えています。

曲目という点についても書いておきたいと思います。
今回、演奏するのに選んだ曲目は、比較的、今までもずっと演奏してきた、定番というか、安全策な選曲です。
それは、クリスチャンバンドが集まるこの貴重なイベントにおいて、名刺を渡すような意味合いで、Imari Tonesとしての定番というか、僕らの典型的なステージを見せておきたいという意味合いがあったからです。
同時に、この場において、自分たちに求められるものはそこであろう、と、つまりは、小難しく行くよりも、単純にどっかーん、と盛り上げることだろう、と。
そういう、その場に求められるものを考えた結果でもありました。
けれども、そういった定番の安全策な選曲は、同時に自分たちにとっては退屈な選択でもあります。
自分達は本当はもっと「その先」の音を鳴らすことができるし、本当は鳴らしたい。けれども、自分たちの鳴らしたい音よりも、その時、その場に、お客さんや、ひとつのイベントとして共演バンドとのつながりも含め、求められる役割を果たすことを優先したということです。
その選択は正しかったと思うし、自分たちはこの日、このイベントにおいて自分たちに求められる役割をきっちり果たしたと思いますが、そこには大なり小なり、葛藤があったということで、
その葛藤がいろんな面で表れた演奏ではあったと思います。
しかし、そういった内面的、外面的な状況もすべて表現し分かち合うのがライヴ演奏の正しい姿であろうと僕は考えています。
それはつまり、葛藤や苦悩まで表現できたら、完璧な演奏をするよりもその方が良いということです。
バンドは現在、”Revive The Nation”という作品の録音作業をしており、それが終わったら、次のコンセプトアルバムの楽曲に取りかかります。
今年もたぶん大規模な遠征とかしないので、ちょっとしばらく、ライヴの本数を減らして、内にこもる期間になるかもしれません。
しかし、その期間が終わったら、また、より進化した完成したバンドとして、人々の前でがんがん演奏できるはずです。

ライヴ活動をするにあたっても、かなり気難しいというか、消極的なわけではないですが、なかなか首を縦に振らない部分のあるうちのバンドImari Tonesですが、
今回のライヴに参加したのは、なによりソルフェイのオオハラ氏の活動や心意気に感じるところがあったからです。

そして、CLODの皆さんともお会いして共演することができ、交流することができました。そして、新たな実りのある出会いがいくつもあったと思います。

僕らもまだまだ未熟であり、演奏も決して完璧ではありませんが、たとえば本当に大事な人たちに見てもらうとき、本当に伝えたいメッセージ、本当に伝えたいこと。
それだけは、身を以てきちんと表現し、伝えることができたのではないかと思います。
大事なのはそこです。
いくら完璧な演奏をしようと、見ていただいた方の心に、後々まで残るのは、そこだけだろうと思うからです。

応援していただいた、見に来ていただいた皆さん、主催者、共演者の皆様、
本当にありがとうございます。
これからも精進いたします。

というわけで、
既にアップしましたライヴの映像です。

「何回ジーザスって言ってんの?」
というクエスチョンがありましたので、数えてみました。
一回のステージで、歌の歌詞と、曲間のMC含めて、42回、「ジーザス」(もしくはイエス)と言っていました! くどいよ!(笑)

こんだけジーザス、ジーザスって言ってるってことは、やっぱ一応うちもクリスチャンバンドなんだろうな、結局。

こちら

No(3622)

■…2014年 4月17日 (Fri)…….デモ制作
どうせ眠れないのでつれづれ。

「次の作品」のデモを作っていて、
そのベーストラックをひたすら弾いています。

先日、先週ですね、現在録音制作、れこーでんぐ中の、”Revive The Nation”の、ベース録音、はっしー先生に弾いてもらって、完了したのですが、

今やっているこれは、さらにその次の作品、”Jesus Wind”(仮)のデモ制作。

これから、”Revive The Nation”の、ギター録音とヴォーカル録音が待っているというのに、それをやる前に、既に次の作品のデモ制作に取りかかっている。

こんなことは初めてです。

はっしーのベース録音が終わって、
これから自分の出番なのに、録音は自分の順番なのに、

頭の中では、次の作品のイメージがあふれていて、
集中できない。

これはよくないので、
先に、”Jesus Wind”のデモ制作をやっつけてしまうのです。

うちの場合、デモ制作は、だいたい僕が、ギター弾いて、ドラム打ち込んで、ベース弾いて、だいたいそれで完了です。
歌とか歌詞はバンドでやりながらゆっくり乗せていくので。

ひたすらベースを弾いて。
弾いてます。

で、次のバンドのリハーサルには、メンバーにそのデモを渡せると思うので。

そしたら、やっと”Revive The Nation”のギター録音でしょうか。

それも、その前に、「音決め」をきちんとやっておきたいし。
まあ、適当に始めちゃうかもしれないけれど。

ギター録音。
スタジオに一人で。
わりと力仕事。
しんどいな。

今、いろんなことが重なってるんですね。

この”Revive The Nation”にしても、
最後に一曲、ボーナス的に「ヒップホップ」のトラックを追加する予定で、
それも制作しなければいけないし。(おいおい)

これから、ソルフェイさんでベース弾くことになってるからそれも練習しなきゃいけないしね。

あと、アコースティックおしゃれ系ユニットの、準備もしないといけない。
これはおそらく、マイペースで進んでいくと思うんだけれど。

あとなんか、ヤオさんから、5/10あたりに桜木町でコンサートやるから手伝ってくれとか言われてなかったっけ。

あとはジーザスモードのレコーディングもしないといけないんだな。
ジーザスモードも、レコーディングが済み次第、新しい楽曲に取り組みたいしね。
ドラム録音はどうなるんだ。

重なるんだよね、こういうことって。
そういうものだと思うんだ。
都合よく順番にやってきたりはしないんだよね、opportunityって。

果たして今年のThe Extreme Tour Japanはどうなるんだ。
ちゃんとやれるんだろうか。
やれると思うけどね。
いろんな人が協力してくれてる。
昨年は一人で苦しんでいたのに。
本当にありがたい。
皆さん本当にありがとう。

“Revive The Nation”の録音制作、
ギターとヴォーカルトラック、自分のパート、
予定では4月中には終わるだろうとか思っていたけれど
全然終わらないね。
5月いっぱいで完了したらラッキーくらいの。
かなりの確率で6月までずれこみそう。
ミックスとかも考えると、
これは夏が来る前にミックスがひととおり上がればいいや、みたいな。
あちゃあ。

この”Revive The Nation”も、かなり自分としては、自分たちとしては、
かなり必殺の、重要な、超弩級の作品なのですが、
どのような形で、いつリリース、世間に発表するか、
これから画策しなければいけませんが、

現在デモを制作中の、この”Jesus Wind”、
まだ5曲しかベース弾いてませんが、
かなりすごいことになってます。

バンドが、ミュージシャンが、
「その時」を迎えるまでに
いったいどのくらいの時間と、努力と、旅路が、
必要なんでしょうか。

人によっては、
傍から見れば、あっというまに、
10代の若いうちとか、
簡単に「その時」、
そして、「これ」というメッセージを
鳴らすことができる人たちがいるように見えます。

バンドが、ミュージシャンが、
自分たちの中にある
「これ」というメッセージを鳴らすまでに
どれくらいの準備と努力と、時間が必要なのか。

でも、僕たちの音楽、僕たちのバンドについて言えば、
この、これから取り組む、”Jesus Wind”こそが、
その作品になる気がしています。
まだメンバーにもちょこっとしか聞かせてないけれど。

はっしーとジェイクは、僕らのバンドに、
これらの楽曲を鳴らすことができるだろうか。

この作品に、すべてを賭けます。
たぶん、そういうことになると思います。

何を賭けるのか、
どんなふうに賭けるか、って、
それは、僕らの流儀なんだろうけれど。

大事なんです、ギャンブルの流儀。
そもそも人生ってでっかいギャンブルですもんね。

No(3659)

■…2014年 4月22日 (Wed)…….次の作品
先週がんばってベースを弾きまくり、「次の作品」のデモが完成しました。次にやるべきことは、「部屋の掃除」!!! 連日激しくベース弾きまくって腱鞘炎一歩手前、なので、今週は手を休めて、「現在の作品」のギター録音は、来週から、かな。

No(3724)

■…2014年 4月22日 (Wed)…….thug life
たとえばね、考えてみたんだけれど、
たとえば、世界のどこでも、アメリカの都市部のゲットーとか、貧しい地域の貧しい環境に生まれたとする。

そこで、環境や、状況のせいで、また社会的ないろいろの差別などもあって、たとえば犯罪に手を染めるような生き方しかできなかったとする。
たとえばその場所では、そうした生き方、犯罪に手を染めるような生き方、犯罪に加担するような生き方、が、普通であり、そうすることによって皆が生活している、とする。

またある場所では銃を持って戦うことが、普通であり、生きていくこと、ということに対して、そうした選択肢しか、考えられないということもあるかもしれない。
けれども、そこで、一人の人間が、それに疑いを持ったとする。
人生というのは、こんなものじゃないはずだ、人間というのは、こんなものじゃないはずだ、と、もっと良い暮らし、もっと良い生き方が、あるはずだ、と思ったとする。

思うに、それは現実に社会的な状況、現実の状況というものはもちろん多分にあるはずだけれども、そういった犯罪に加担するしかない生き方をしている人たち、同時にそこには、どうせ世の中はそういうものなのだ、どうせ自分たちにはこういった生き方しかできないのだ、という、あきらめのような気持ちの状態があるのではないかと思う。

それはつまり、霊的な限界、霊的なひとつの壁につきあたっている状態であり、その霊的な限界が、人々の成長と発展を止めてしまっている状態、じゃないかと思う。
つまり、人々が、何を信じるのか、何を信じられるのか、ということ。

人間にとって、人々の善意を信じることよりも、人々の悪意を信じることの方が、おそらく簡単なことだろうと思うのだ。
それは、たとえば、善意を信じることは、勇気のいることであるからだ。
そんな良いことがあるはずがない、どうせ人間は、みな悪いことを考えるに決まっている、と、そのように思ってしまう。
そのように思う人が多い結果、そこには、本当にそのような社会が形成される。

では、犯罪に手を染めて生きることに疑問を抱き、もっと素晴らしい生き方があるはずだ、と考えたその少年なり青年は、どうなるのだろうか。
銃を持って戦うことに疑問を抱き、もっと人間らしい生き方があるはずだ、と考えたその少年なり青年は、どうなるのだろうか。
あるいは、その「より良い生活」を見つける前に、周囲の裏切りによって、犯罪組織によって殺されてしまうのかもしれない。
あるいは、その「人間らしい生き方」を見つける前に、仲間の裏切りにあって、あっという間に紛争の中で撃たれて死んでしまうのかもしれない。

すべてのことには理由があると、そう思いたいし、そう信じているが、どんなに過酷な境遇にあっても、そこに光を照らし出す人であってほしいと、僕は、その少年なり青年に対して伝えたいし、また、どんなに薄暗い罪の中にあっても、そこに光を注いでくれるのが、キリストの愛であると信じているが、明日にも殺されてしまうかもしれないその少年なり青年は、うまく生き延びて、暗闇の中に光を見つけることができるだろうか。神の愛に出会うことが、できるだろうか。

ところ変わって、今、僕が住んでいる場所。
おおむね、平和だ。世界の中でももっとも平和で犯罪の少ない国。
世界のどこかの国のゲットーで、人々が犯罪に手を染めて生きているなんていう状況は、せいぜい想像する程度しかできないし、実際想像もできない。そういう人たちに対しては、そんな犯罪に手を染めなくても、もっと良い生き方があるのに、と、そう思ってしまう。

だが、そうだろうか。
僕たちも、同じではないだろうか。
僕たちも、そのゲットーや、紛争地帯で暮らす彼らと、何も違わないのではないだろうか。

今の自分たちの生活。
今の自分たちの生き方。
自分たちは、こうやって暮らすのがあたりまえだと思っている。
だが、それは本当に正しい生き方だろうか。

今の自分たちの状況。
どうせ自分なんてこんなものだと、どうせ世の中なんてこんなものだと、霊的な限界を作ってしまっているのではないだろうか。
そして、誰もそれを疑わない。

もっと良い生活が、もっと素晴らしい未来が、あるのではないか。
もっと人間らしく、もっと輝かしい可能性に満ちた世界が、あるのではないか。
そう思った僕は、どうなるのだろうか。
ゲットーや、紛争地帯の彼らと同じように、やはり銃で撃たれて死んでしまうのだろうか。

そういう結末も、悪くはないなと思っている。
上を向いて歩き続けることができるのであれば。

No(3725)

■…2014年 4月22日 (Wed)…….my reVolution
ひいては
自分がやりたい革命というのは
社会や世界における
人々の生活や生き方や考え方における
霊的なレベルを
次の段階に引き上げることなのだ

どうせ誰も見てないだろうから
このCGI日記に書き残しておく。

No(3726)

■…2014年 4月24日 (Fri)…….コミュニケーション・エンド・スタート
なんか軽くインターネット疲れというのか、
Facebook, Twitter疲れ状態になっていて、
タイムラインとかも軽く流すくらいで余り見れない感じです。
皆さんとのコミュニケーションが、本当にちゃんと取れない自分で申し訳ない。

けれども、自分がこうやって頭の中を整理する文章を書くくらいはいつもやっていることなので、書くことはできるんだけれど、
そもそも僕が書く文章も、twitterでの140字のコミュニケーションとか、
Facebookでの軽いコメントでのコミュニケーションとかでもなく、
ひとりごとを読みにくい長い文章にしているだけなので、
あまり皆さんとコミュニケーションするという感じではないかもしれない。

でも、なんか、ようやく自分もInstagramとか始めようかと思っていたり、
音楽を通じた、というか、レーベル活動みたいのに絡めて、
いろいろ始めようかとは思っている。
いろいろ発信して、世界中の人たちとコミュニケーションする方が、
本当は良いに決まっているからだ。
自分は、それを、どういうふうにやるのか、ということを、見つけるまでに時間はかかるだけなのだと思う。

最近いろいろよく考えるが、
友人知人に、また最近、結婚であるとか、おめでたのニュースがいくつも舞い込んでいることから、
またよく考えるのだが、
うちは現在、子供はいないし、
現状、このままいくと、子供を持たない可能性が高い。

そのことについては、別に今になって考えたことではなくて、
そもそも、知り合った最初の頃(高校生の頃ですが)から、
うちの嫁さんは、子供を持つことに積極的な女性ではなかった。
どちらかというと、将来とか子供を持って家庭を、みたいなのは、僕の方がそういう願望はあって、安定志向でちゃんとした家庭と仕事と人生を、みたいな希望は僕の方があったと思う(笑)
うちの場合はなんにおいても、周囲から思われてるのとは、実際は逆なので(笑)
そもそも僕は音楽とかやりたくなかったし。

で、今にいたるまでのいろいろなことや現在の状況に関しては、
いちいち長い話をする気も無いのだけれど、
そろそろ年齢を考えても、考えるのならば今が現実的にはタイミングなのだろうけれども。
なので、現実的に考えると、おそらく子供を持たない人生になる可能性が高いなあ、と思っているのだけれど。

ところでon the other hand、
音楽のことを考えると、
自分はわりとproductive(生産的)なミュージシャンというかソングライターで、
もともと自分のバンドの活動に精一杯ではあっても、
昔からいろいろと手を広げることが好きなタイプではあった。
他のバンドを手伝ったり、いろんな楽器を弾いたり、他人のために曲を書くことは、今までもたくさんあったけれど、

またここへきて、わりと地に足の着いた(?)形で、
いろいろなサイドプロジェクトや、他バンドへの参加や、
レーベル活動が、広げられそうな感じになっている。

自分が作ってきた音楽と、
今も現在進行形で、なんだかいつのまにか作ってしまっている音楽や、
これから作る音楽のことを思うとき、

自分は、子供とか家庭は持たなかったかもしれないが、
いろんなところでいろんな形で音楽は生産できるのかもしれないと思う。
昔の、社会制度とかが今と違った時代に、
いろんなところで子供を作って何人も何十人も子供がいるような男性の話が、世界にもこの国にも残っていると思うけれど、

あるいはそれってこんな感じだったのかもしれない、
たぶん意味合いはずいぶん違うけれども、
生産性というか意識の上では、こんな感覚だったのかもしれない、
と、最近ふと思った。

音楽を作るということは、主に霊的なことであり、
それは、肉的(身体的)な意味のこととは違うけれども、
自分は、信仰ということもあって、肉的なことよりも、霊的なことの方がやはり重視した人生を送りたいと思うから、
これはこれで、自分には合っているのかもしれない。

物質的、肉的なところで、周囲から世界から奪ったり、
たとえばいろんなところで子供を作るとか(笑)、
そういうことは、トラブルも呼ぶし、たぶんいろいろと人を不幸にするけれども、
音楽を作ること、いろんな場所でいろんな人と音楽を鳴らし、創作することは、
たぶんどちらかというと人を幸福にする。(と思いたい)

そういう意味では、
自分なりの形で、
これが自分なりの、精力的な生き方の形なのではないかと、
なんとなく納得した。

自分のバンド、Imari Tonesの現在の、これからの活動、創作とともに。
サイドプロジェクト”熱きリョウとジーザスモード”も、ぼちぼち行って、
今度ソルフェイさんでベースを弾かせてもらうことになり(ちゃんと長期的に採用してもらえるかわからないが笑)、
アコースティックおしゃれ系ユニットも水面下でゆっくり準備が進み、
そしてレーベル的な活動を、本格的に始めていきたいと思っている。
そこには、やれることがきっとあるはずだ。
自分たちらしい形で。

そこから、さらにいろんなものの、枝葉を広げていけばいいと思っている。

まだまだ僕たちの青春の熱い季節はこれからではないかという気がする。

未来とか、世界とか、人類の可能性とか、
現在の世界が抱えている問題とか、
いろいろ考えるけれど、
それはまた。
希望を失いたくないよ。
世界とか人類についてね。

No(3756)

■…2014年 4月27日 (Mon)…….半音階
作業が進んでいるようで、進まない。
というか、進まないようで、かなり進んでいる。
どっちやねんん。

愚痴というわけではなく、単純に事実の認識として。

「俺のロマンスと、世間のそれが半音階ずれてるだけのことさ」
という台詞があったような気がする。
何かの漫画で。

これは、ヘヴィメタルに生きている人間としては至極当然の前提かもしれないが、その中でもさらにnarrow pathを歩いている人間として。

僕はコーヒーにはわりとうるさく、カフェイン中毒であるし、毎日コーヒーを自分で豆をがりがりと挽いて飲んでいるが、
他人とコーヒーを飲むと、はたと気付くことがある。

多くの人は、コーヒーに、砂糖や、ミルク、クリームを入れて飲むのだ。
しかも、かなりたっぷりとクリームなどを入れて飲む人もいるようだ。

また、コーヒー専門店に行き、豆を買おうとするとき、店員さんにたとえば、「このコロンビアの豆は、とても飲みやすいですよ」であるとか、「この○○産の豆は、とてもバランスが取れていてどなたにもおすすめですよ」などと言われることがある。

だが、それらのコーヒーを飲んでみると、だいたいの場合、僕には物足りない。
僕は個人的には、苦みとパンチのある深入りのコーヒーが好きだが、苦みの強い品種が好きというわけではなく、どちらかというと東南アジア系の豆が、マイルドなものであれ、苦いものであれ、好きなようだ。
どちらにせよ、店員さんが、「これは飲みやすくておすすめです」というものは、僕向けではない。

たとえば自分の演奏する音楽であれ。
自分の人生そのものであれ。
自分は、自分なりに良いもの、最高のものを作ろうとして、努力をしている。

けれども、たとえば、僕が思う、いちばん美味しいコーヒーを作ったとして、
多くの人には、おそらくは苦くて飲めない、
というよりは、多くの人にとっては、
コーヒーをブラックで飲むこと自体が、すでに難しいことなのかもしれない。

そうやって、他の人と一緒にコーヒーを飲んで、
皆が、コーヒーにミルクや砂糖を入れるのを見るまでは、
コーヒーをそんなふうにして飲むのだとは、
思いもしなかった。
知らないわけではなかったが、
ほとんど忘れていた。
自分にとっては、コーヒーは、なるべくローストして日の浅いものを、自分でミルで挽いてドリップし、ブラックのままで飲むのが普通だったからだ。
そこに砂糖やミルクが必要だなんて思ったことはない。

よく考えると、街のカフェでは、人々は、コーヒーに、
なんちゃらラテであるとか、なんちゃらフラペチーノであるとか、
いろんなクリームや、甘いものを入れて飲んでいる。
苦みのあるコーヒーをそのままブラックで飲みたいという人は、
むしろ少数派なのかもしれない。

ハンバーガーについて考えてみてもそうだ。
人気のハンバーガーチェーンであるとか、
美味しいと評判のハンバーガーショップ、
行ってみると、多くの場合、僕はそのハンバーガーがとても小さいのに落胆することになる。
これは日本の話で、アメリカで人気のバーガーレストランに行くと、だいたい、かなりのボリュームが出て来て、満足できるのだが。

僕は典型的なやせの大食いと言われる。
貧乏ミュージシャンでフリーター生活も多々やって、飲食店でアルバイトをした経験もいくつもあるが、そのどのお店でも、僕は大食いチャンピオンだった。
2012年にアメリカのツアーに参加したときは、巨漢の黒人ラッパーと大食い対決をして見事勝利してしまった。(コバヤシ、とか言われたが)

僕は生まれつき大食いだったわけではなく、
子供の頃、少年の頃は、生きているのが嫌だったので、食べるのも嫌で、非常に小食で、食べなくてすむものはなるべく食べないという子供だった。
自分が実は大食いなのだと気付いたのは一人暮らしを始めて、二十歳を過ぎてからだった。
生きるのが嫌だった子供時代の反動が、大人になってからいろいろな意味でやってきたため、逆に食べることに執着するようになった。

とにもかくにも、ほとんどの場合、美味しいと人気のバーガーショップのハンバーガーは、ボリュームの面で僕には信じられないと思うことが多い。
日本人好みの繊細な味で人気とされるモスバーガーなどは、冗談かと思うくらいの小ささだし、味はいっちょまえにアメリカンなフレッシュネスとかもおいおい勘弁してくれよと思うくらいに量が少ない。
ちなみにちょっとオシャレっぽいカフェレストランなどで、スパゲティが一人100gとかだったりすると、もう暴れ出したくなる。僕の基準では、スパゲティは乾麺で一人前は250から300gであり、それは腹一杯ということではなく、最低限食事として成立する量ということだ。腹一杯食べるのであれば、乾麺一袋500gまるまる茹でてしまうことになる。

では僕が本当に美味しいと思うハンバーガーを作り、皆に提供したとしたら、
多くの人にとっては、「なにこれ、大き過ぎる。こんなの食べられない。」ということになり、あるいは「こんな肉々しいの無理」となってしまうのだろう。

僕が美味しいと思い、ボリュームもある程度満足できると思うバーガーレストランは、だいたい、人気が出ず数年で日本から撤退したり、あるいは方向転換していきなり小さくて味の薄いバーガーにモデルチェンジしてしまったりする。

(話は変わるがその意味では、洋光台にあるPass Timeさんは、ほとんどアメリカの古いダイナーのようなアメリカンテイストのハンバーガーを平気で出していて、日本向けに味のアレンジをしていないのに、商売が続いていてすごいものだと思う。ちょっと不思議だ。)

唯一の例外といえば日本の国民食であるラーメンであるが、
これについては「ラーメン二郎」が今となっては市民権を獲得した感があり、
そういったハードコアな店に行きさえすれば、男の大盛りブタダブル野菜マシマシニンニクカラメが食べられる。

けれども、この前、野郎ラーメンという、どう見ても二郎の系列店のような店に入ってみたが、店は一般のチェーン店のような雰囲気で、出て来たのはまったく小さなサイズのラーメンだった。
だが、おそらくはこうして物事は薄められることによって世の中に受け入れられ、浸透するのだろう。

ここで、僕に対して、
「妥協はしないのか」
「お前は、世間に対して、お客様に対して、歩み寄ろうとしないのか」
と聞かれる向きもあろう。

その場合には、僕は全力でこう答える。
「僕は、全力で妥協している。自分にできる限りの妥協をし、人生をかけて、必死でみんなに対し、歩み寄ろうとしている。」

信じてもらえても、信じてもらえなくても。

それはともかくとして、
わがImari Tonesは、2007年以降ずっと海外向けの英語のハードロックを演奏しているが、
時には日本語でアコースティックなワーシップソングも作るのだ。
この曲はバンドではなく、一人アコースティックだけれどね。

簡単なビデオをYouTube用に作ってみた。
こちら

No(3787)

■…2014年 4月27日 (Mon)…….Escaping from Hell
これはFBには書かないけれど、
最近、身の回りや友人知人に、結婚、妊娠、出産のニュースがたくさん舞い込んでいるところ、
2012年をともにまわったアメリカのツアー仲間の一組に、おめでたのニュースがまたひとつ。

「人生を変える Life Changingな出来事」
だというコメント。
そして、それは良い方向に人生を変えてくれるのだという。

まったくそのとおりだと思う。

彼ら仲の良い若いカップル。
彼らは、子供が生まれることによって、
[音楽を作るという無限地獄から抜け出し]
幸せな人生へと歩み出していくのだ。

子供は、彼ら、そして僕らにとっては、
人生を救ってくれる存在に他ならない。

(もっとも、生後2ヶ月の赤ん坊を連れて、
長く激しいツアーに出てしまうとんでもない一家を
知ってはいるが笑)
(あそこはちょっと特別だけどね。大家族、一緒に移動するから。)

なんとなくわかってきたような気がする。

「お前はまだそこでしばらく苦しむがいい」
神はそう僕に言うのだろうか。
僕は僕らは、最後まで地獄に取り残されるのだろうか。

いつでも音楽をやめたいと思っている、思ってきた、人間として、
静かでまっとうな人生に憧れ続けた人間として、
本当にうらやましいと思う。彼らが。

でも地獄で最後まで燃え尽きるのも、それもまた自分らしいかな。

No(3788)

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