2014年5月の日記

■…2014年 5月 4日 (Mon)…….音楽の一部
ぼくらのバンド、Imari TonesのFacebookページ、現在927Like(いいね)がついている。
今、ちょっと有料の広告を試している。
ちょっとだけの予算で、数日の間試しているだけだけれど、
Likeの数は程よく増えている。
このぶんだと、1000を超えるのもたぶんそれほど難しくはなさそうだ。

FacebookページのLike数なんて、
多角的なインターネットのほんのひとつの要素に過ぎないし、
そうはいっても今となってはひとつの重要な部分、基準ではあるけれど。

広告を打ってLikeが増えるというのは、
ちょっと不思議な気分だけれど、

たとえば思い出してみると、
MySpaceの時代、
(今は、もう跡形もないのだろうけれど)
たくさんフレンドリクエストを送って、
フレンド数を増やすということが重要だと思われていた。
うちのバンドもフレンド数が一万に達したところで、
それらの管理に飽きてしまい、
また、そうこうしているうちにMySpaceの時代が終わってしまった。

けれども、その恩恵は、確かに少なからずあった。
かなりの部分、ルールがなく、カオス度が高く、虚飾の多かったMySpaceと違い、
Facebookの場合は、もう少しリアルで、社会生活にも密着し反映していることから、
MySpaceのときよりは、もう少し根強く、インフラとして残ってくれるんじゃないかという淡い期待はある。

けれども、Facebookだっていつどうなってなくなるかわからないから、
やはり多角的な攻め方をしないといけない。
そして結局のところ、インターネットはインターネットに過ぎない。
現実のほんの一部に過ぎない。
そのこともわかった上で、
また現代においては、かなり重要な一部であることも。

この年齢になり、この段階にさしかかり、
僕も正直なところ、現実的な成功、
それはつまり、小さなもので良いので、バンドや活動を維持するのに必要なだけ、
そして、バンドとしての目標、目的を達するのに必要なぶんだけ、
小さくてよいから現実的な成功というものが欲しくなっている。
とにかくも次の扉、次のステージへ進むために、
どうやっていったらいいか、悩み抜いていたりする。
これは当然のことだ。

もっとも、うちみたいなバンドが、ここまで生き残って続けてこれただけでも、
十分にラッキーというか、奇跡に近いと思うし、
そのことは知っている。
いろいろな条件や、営業努力とか、お客さんを楽しませる努力とか、
そういうの、一般のバンドのひとたちが、必死にやっているのを見て、
うちはとてもこんなの無理だなと思い、
同時に、よくうちはそれでも最低限ここまでもったよな、と思う。

とにもかくにも、
音楽、
そう、音楽ってなんだろう。
昨年から、ずいぶんと楽器という面から、
音楽について考え、自分なりにちょっとだけ追求し。

そして、世の中のいろんな人が、
いろんなギターを弾く人や、バンドマンや、
趣味でギターを弾く人だけでなく、
老若男女のプレイヤーたちが、
それを追求しているのを見るとき、

そして道を追求するということ、
たとえば本気でバイオリンなどを演奏し身をたてていこうとする人たちが、
プロとして身をたてようとたてまいと、
その道を追求する人たちが、
良い道具を手に入れるため、
また、良い教師につき、良い学校に行くため、
どれだけのお金をはらい、どれだけのものを犠牲にして
それを追求するものか、そう考えると。

ことエレクトリックギターという点に関しては、
おそらくは、そういったクラシックの人たちにくらべ、
何十ぶんの一、あるいはもっと少ない金額で、
自分の人生の答えは出てしまった。

けれどもあるいは、
音楽を演奏するということ。
そこに聞いてくれる聴衆、
受け取ってくれる人たち、
音楽を聴いてくれる人々がいるということ。
それも、大事な音楽の一部であることに気が付いた。
気が付いたっていうと、嘘だけど、
いってみれば、
楽器も音楽の一部であれば、
聴いてくれる人、リスナー、オーディエンス、聴衆、
それも音楽の大事な一部だということ。

ロックの場合は、
必ずしも高いお金を払って、ヨーロッパの歴史のある学校に留学する必要はない。
権威のあるコンクールで優勝する必要もない。

もちろん僕もこれまで、
音楽を追求するのに、
ずいぶんと学費というのか、
お金と犠牲を払ってきた。

けれども、
それはたぶん、このインターネットのインディーズ時代に、
一個のロックバンドとして必要なものを追求するのに、
たぶん、まだまだ、小さいのだと思う、
僕が支払ってきたものは。
なぜならクラシックの世界をはじめ、
本当に道を究めようとする人々は、
もっと大きな犠牲を支払っているからだ。

小さなスケールから始めているけれど、
PR活動は、PR広告は、
打てるうちに打っておこうと思う。

なぜなら今は僕らみたいな小さなバンドでも、
そういった広告がある程度現実的な効果をともなって
打つことができるからだ。

その際に、コンテンツの質というものは問われるが、
そこにはもちろん確信を持っているからだ。
それは、万人を喜ばせ、万人に受けるものではなく、
必要としている人がきっといる、という意味において。

これが学費であるならば、
僕はまだまだ勉強させていただく。

さて、FacebookのLike数が、いくつになったら、
YouTubeの視聴回数が、いくつを超えたら、
メーリングリストの購読人数が、何人になったら、
僕の目指す成功というものは、手に入るのだろうか。

というか、そもそも僕はずっと成功というものを、
信じていなかった。
そんなものがあるとは、信じていなかった。

やっと少しは、信じる気になったのか。

それは、変化といえるかもしれない。

どれだけの成功を手に入れたら、
世界を変え、
世界を征服し、
新たな世界を作り出すことができるか。

問いかけているつもりですよ。

No(3899)

■…2014年 5月 4日 (Mon)…….CODAMA runs through it
熊谷幸子さんのコンサートを見てきた。
2012年にアーティスト活動を再開されて以来、
3年連続で、熊谷幸子さんのコンサートを見ていることになる。

何度でも繰り返すが、
熊谷幸子さんは、僕が日本のポップミュージックの歴史の中で、
ロックバンドとかも含めて、
僕が知っている中では、
もっとも尊敬し、敬愛する、フェイバリットミュージシャンだ。

90年代に活躍した熊谷幸子さんが、
その後、家庭に入るとともに活動を休止し、
ずっとその素晴らしい音楽の思い出にひたっていた僕たちにとっては、

こうしてリアルタイムで、現在形の充実した熊谷幸子さんのコンサートが毎年のように見れるというのは、ほとんど夢のような出来事だ。

そして3年目となる今年のコンサート、Kumasachi Exhibitionは、
本当にすばらしかった。

特にここ最近、心身ともに落ち込むような思いの出来事が多かったので、
自分にとってもとても癒しというのか励みになった。

僕は、先述のように、
日本のポップミュージックの歴史の中で、
ロックバンドも含め、
いちばんのフェイバリットは、この熊谷幸子さんであると
常々言っているが、

その思いは、なんというか、またあらためて、確信に変わってしまった。

そして本当に、考えさせられた。

個人的なことを言えば、
ここ数年、僕は毎年のように、自分の人生のとって節目のような重要な音楽的な体験をしているが、
それは、嬉しい意味だけでなく、寂しい意味においても。

例をあげれば僕の「日本でいちばん好きなロックバンド」であるところのbloodthirsty butchersは、昨年、リーダーの吉村秀樹氏が急逝したことで、伝説になってしまったし、

またそのブッチャーズとも縁の深い、僕にとっては「21世紀になって出会ったもっとも素晴らしいインディーバンド」であるところの+/-{plus/minus}は、彼らも家庭を持ったことにより活動がスローダウンし、今年の初頭に出た5年半ぶりのアルバムは、なんというのだろうか、かなり丸くなっており、少なくとも僕の飢えと渇きを癒してくれるものではなかった。

もちろん、世の中には、日々自分に刺激をくれる大小、新旧のバンドはいくつも存在しているけれど、

本当の意味で光を注いでくれる存在として、
熊谷幸子さんが、ここへきて、これほどに着実な活動、そしてこれほどの音楽を現在形のアーティストとして届けてくれるとは、
正直まったく予想していなかった。

復活後、夫婦ユニット”CODAMA Through”としての新たな活動であるが、
今回のコンサートは、初めてバンドを起用しての演奏ということもあり、
その感動もひとしおだった。
演奏した曲目も、もちろんかつての熊谷幸子の名曲をやりつつも、
完全に現在形でCODAMA Throughの音になった、と言える感じになった。

バンドの人たちも、それぞれに素晴らしく優秀なミュージシャンたちだったが、
かといって、気になった点や、注文したい点はそれぞれなくはないのだけれど、
けれどもこのバンド編成での演奏は本当に感動的だった。

そして現在、この時代に、この場所で、日本で、音楽をやるということの意味。

そのメッセージ。

アンコール1曲目で、「CODAMA Throughなりの反戦歌」といって演奏した曲。
「けもの」というタイトルのその曲、けものという言葉は、まるで黙示録を思い起こさせるが、ここまでストレートなメッセージを歌い上げることに、心が打たれた。

メッセージというのは、言葉にできないし、
けれども、それがなければ音楽には意味はない。
僕は、今の熊谷幸子さん、CODAMA Throughが鳴らしているそのメッセージに、本当に心打たれている。

考えさせられたのは、その世界のどこにも無いであろう音楽世界。
その作り上げてきた音楽世界。

どうだろう、たとえば、
日本は、一般には、ロックや、いろんなポップミュージックをやるのに、
必ずしも、土壌が豊かなわけではない。

つまりは、多くのポップミュージックが、外国から輸入されたものであること、
一般に日本人は、リズム感や、音感の面で、不利であったり、
また言語や文化や生活環境の面で、歌うことに関してもハンディキャップがあったり、
どうしても甘やかし噛み砕いて与える現代のカルチャーが本物の普及を阻んでいたり、

少なくとも日本で本物のロックをやろう、と言ったときに、
それはかなり、無理じゃない、という感じの部分がある。

それは、ロックに限らず、また音楽に限らず、いろいろな分野でも共通して言えることだとは思う。

だが同時に、日本は豊かな国であり、矛盾するようだが、文化的なレベルは高い。

その中で、そうしたハンディを克服して、また才能によって乗り越えて、
道を追求する人たちは、本当にレベルが高いのだ。

それは、あるいは世界のどこよりも、日本において道を究めようとする人たちは、その独特の在り方において高度なのかもしれない。

それは、世界を理解した上で、自らを理解することができるからではないかと、僕はそう思う。

それは霊的(スピリット)な意味合いにおいて、
もっとも霊的に高いものをつかむことができるのは、
意外とやはりこの国において道を究めようとする人々なのかもしれない。

話それたし、うまく言葉にも文章にもできていないが、
僕の中ではそれはmake senseしたのだ。
そう、すべてがmake senseしたのだ。

案外とそれが今回のコンサートで僕が得た最大のものかもしれない。

僕は映画を見てもコンサートを見ても涙もろい方なので、
今回も、1曲目の「ハーモニー」からあっけなく号泣し、
最後まで感動しっぱなしだった。

バンド演奏だけでなく、
「夜明けの歌」や、「まくなぎ」などは、
こうしてピアノの弾き語りで聴くと、
いかにすさまじい楽曲かということがよくわかる。
またその音の向こうにあるメッセージと世界観は本当に素晴らしい。
本当に涙が出て、また戦慄し鳥肌が立った。

日本にはユーミンもいたかもしれない、
矢野顕子もいたかもしれない、
他にもいろいろいたと思うが、
その誰でもなく、

もっとも恐るべき才能は、
この熊谷幸子さんだったのだ。

その思いは、ほとんど確信になった。

そして、90年代のメジャーアーティストとしての活動よりも、
むしろアーティスト、ミュージシャン、
そしてライヴ活動においては特に、
熊谷幸子というアーティストの、今こそが旬ではないか。

そしてこれはまだ現在形だ。
まだこの続きがあると思うと、
本当にすばらしく期待を感じる。

7月にまた鎌倉でコンサートがあるそうだ。
昨年夏、鎌倉のコンサートは、会場もとても素敵で、
映画でも見ているかのような本当に素敵なコンサートだった。
他にはない音楽体験をしたい方にはおすすめです。

こちら

今、これを書きながらSwitchfootの新譜を聴いている。
これも今年のはじめに出ていたやつだ。
Switchfootは素晴らしいバンドだし、
この新作もとてもポップで素晴らしいが、
もうアメリカのバンドに本当の意味で新しい音が鳴らせるものだろうか。
もっともその中でもSwitchfootはよくやっている方だけれども。

数字や、技術や、物量的な意味ですごいものではなく、
より違う世界に、新しい世界に、より高い次元に、
鳴り響く、
鳴り響き、創り出す、
そんな音楽が聴きたいものだ。

No(3900)

■…2014年 5月 4日 (Mon)…….Lyrics歌詞
現在制作中の作品”Revive The Nation”のベーストラックの編集がやっと完了。4月の上旬にはベース録りは終わっていたので、半月以上、ほとんどひと月近く編集にかかったことになる。とはいってもその間に「その次の作品」のデモ制作をしていたので、決してなまけていたわけではありません。ときに、小さなことですが、その”Revive The Nation”の歌詞を日本語訳しました。ホームページの歌詞ページにささやかにテキストファイルでのっけています。歌の録音をする前に歌詞の確認のついでに訳してみました。もし、興味ある方おられれば、のぞいてやってください。 こちら

No(3906)

■…2014年 5月 5日 (Tue)…….I’m a songwriter.
ミュージシャンや演奏家としての成功は、生まれや育ち、場所や環境、そして運にも左右されると思う。ポップミュージックが古典音楽になっていくこれからの時代はなおさらだろう。けれども、ソングライターとして自分の世界を作り上げることは別だ。作曲家が自分の音楽世界を作り上げることに、時間も場所も、環境も年齢も(それほど)関係ない。クリエイティヴィティ、オリジナリティ、そして人生経験。これらのものは、習うこともできなければ、どこに売ってるものでもない。

Musician’s success depends on, breed, family, circumstance, place, time, and luck. It’s getting more so, as rock music becoming more and more of “classic” art form. However, building your own world as a songwriter is a different thing. Writing songs and creating your own music world, it has nothing to do with time/place/age/circumstance. Creativity, originality, and experience. These things, can’t be taught. These things, you can’t buy anywhere. (and I hope my english is correct.)

No(3907)

■…2014年 5月 7日 (Thu)…….理想のオーディエンス
最近、リスナー、受け取り手、オーディエンス、も音楽の一部である、という当然のことを、違った意味であらためて意識し始めたんですが、

理想の楽器、理想の道具、理想のアンプ、理想のスピーカー、理想のプレイ、理想のステージ、理想のバンド、そういったことを皆、追求し考えるけれど、

理想のオーディエンス、このことってあまり語られない、考えられていないのではないかとふと思いました。

では、楽器は選べる、アンプも選べる、バンドや、会場も選べる(あるいは選べないかも)、
でも、オーディエンスは選べない。
と普通は思うと思いますが、

本当にそうだろうか。
オーディエンスを選ぶということは、
実はいちばん大切な本質なのだと思います。
なぜなら、多くの場合、ミュージシャンは、無意識のうちのそれをしてしまっているから。
あるいは、もっと簡単に、また一般的に、ターゲティング、というふうに考えてみても、それは同様に重要ではあります。

せっかく、この歳までゆっくり時間をかけてきたのだから、
理想のオーディエンス、ということについても、
時間をかけて追求していきたいと思っています。
それは、たぶんかなり深い意味があると思います。

No(3922)

■…2014年 5月 9日 (Sat)…….板が動くか自分が動くか
スケートボードですが、自分は今のところフラットランドの練習を中心にやっています。
それは、まだまだ初心者で、フラットでやれることがたくさんあること、
レッジ、ランプなどのセクションでばりばりやるにはまだ早いと思っている、というか、その前にやれることがまだ山のようにある、と感じていることが理由です。
けれども、小さいお子さん、キッズなど、小さい頃から、がんがんパークのセクションですべっている子たちもいると思います。
最近ちょっと思ったんですが、スケートボードの動き方、考え方にも、大きくわけてふたつあるのではないかと。
それはつまり、フラットグラウンドで、難しいトリックというか、テクニカルな複雑なトリックを決めるスケーター、これは、自分が動くというよりは、板を動かし、板を操作する、というスケート。板を思いのままに動かし、操作する技術を磨いていく感じです。
けれども、大きなランプ、セクションなどを攻めるスケート、これは、板を操作し動かすというよりは、自分の体が動く、自分の体を重力、スピード、慣性にまかせて、自分の体重を操作し、自分の体が飛ぶ、というスケート。
これは、考え方、動き方として、違う種類のものなんじゃないかと思います。
もちろん、両者ともにかぶる部分はあるし、つながっているのですが、なんとなく、傾向というか、性質として、また趣向として、違うもののような気がしています。
おそらく後者の、自分の体を重力にまかせて飛び込んでいくスケートは、小さい頃からやっていく方が、有利なもののような気がします。
僕はずいぶんと歳をとってから始めたので、でっかいランプにいきなり飛び込むとか、やはり難しいところがあり、どちらかというと、板を細かく操作して楽しむ方に、喜びを感じるようです。
これは性格もあるかもしれません。
またハードロック系(テクニカルなスタイル)のギタープレイヤーということも関係しているかもしれません。
さて、スケートを初めて1年半、いろいろとトリックに挑戦しています。
バックサイドフリップは、少しずつ決まるようになっていますが、やっぱり難しいですね。一日に、2、3度きれいに決まればいい方というか、なかなかきれいにはきまりません。きちんとはじこうとしたり、きちんと回ろうと意識すると、かえってフリックが空振りしたり、けれどもきちんとはじかないと、右足がきれいに離れずフリックが回り切らないし、案外と何も考えずに適当にやる方がちょうどよく決まるみたいです。
フロントフリップは少しずつ近づいていますが、まだもうちょっと時間が必要みたいです。
ベリアルヒールは、板は回るので、いけるかな、と思うんですが、実際着地をこころみると、ぜんぜん足下におさまらず、まだ着地までは程遠いようです。
ハードフリップも挑戦していますが、やはり「ハード」という名前がついているだけあって難しい。
まだまだ意味がわかりません。
でも、今のところ、フロントシャヴ(フロントサイドショービット)みたいにして、ちょっと板をひっくりかえすように前方にシャヴって、その時に板の下側に蹴りを入れるようにフリックすると、たぶん正解みたいです。わかりませんが。
夏が来ると、暑いので、練習の効率も悪くなります。
その前にたくさん練習しておきたいところですが、
来週からいよいよ、”Revive The Nation”という作品の、ギター録音、そしてそれが終われば、ヴォーカルトラックの録音。
ちょうどいい気候の時期だけれど、しばらくスケートはお休みになりそうです。
はやく録音終えたいな。

No(3932)

■…2014年 5月 9日 (Sat)…….生々しいギター
自分はアコースティックギターは一本しか持っておらず、それは2002年頃に買った、SeagullのS6というギターです。正確にはS6+という機種で、LR Baggsのピエゾとプリアンプが付いています。値段はとても安く、おそらく買値は4万円程度だったと記憶しています。
けれども、自分にとっては十分に良いギターで、自分はアコースティックギターとしては、これで不足はないし、おそらく将来的にも、これ一本で不足は生じないのではないかと考えています。
もちろん、世の中に、もっと良いアコースティックギターはいくらでもある。
けれども、これはアコースティックギター、ひいてはギターそのものについての捉え方、考え方によるものと思われます。
僕は、アコースティックギターというものを、それほど信用していません。
言葉として意味が通じないかもしれませんが、僕はアコースティックギターという楽器を、存在として、あまり信用していないということです。
「生ギター」という言葉があります。ちょっとおかしい、不思議な日本語です。
アコースティックギターのことを「生ギター」というふうに呼ぶことが、音楽ファンの間ではありますね。
この言葉に、すごく違和感があります。
違和感というか、僕としてはほとんど不快感があります。
それ、間違ってるよ、っていう。
ちょっと前に、いかにも偏屈そうな関西在住のギター製作家の方が、ブログで、「生ギターという言葉は間違っていて、実際はアコースティックギターというものは、弦の音を拡大するために、音を非常に加工している。加工の度合いからすれば、エレクトリックギターの方が生に近い」という趣旨のことを書いているのを発見し、自分が長年違和感を感じていたことについて、納得したというか、腑に落ちたことがあります。
つまり、アコースティックギターというのは、ちっとも「生」じゃない、ということです。
そして、一人のプレイヤーとして、僕も正直、そう感じます。
ギタープレイヤーとして、自分にとっての基準というものがあります。
自分の表現の、中心というのか、核というのか、これが素の、生の状態、という音。
それは、皆さん笑うかもしれませんが、アンプをつながないエレクトリックギターの「生音」なんですね。
この「生音」という言葉が、正しいかどうかは、また同じくわかりませんが。
でも、アコースティックギターの音にくらべれば、まだ「生」なんじゃないかと思うんですよ。
アコースティックギターの音は、僕が思うに、生というよりは、衣をつけて、唐揚げにして、なおかつソースをかけたくらいの音に思えるので。
自分が、ギターで表現したいもの、表現できること、その基準となるものは、エレクトリックギターのアンプを通さない生音にあって、
そこで表現できるものを、大きな音で表現できる方法を探しています。
アンプを通さない生音でできる表現と、同じ表現ができるアンプが、理想のアンプだし、また、アンプを通さない状態で、理想の音がするギターが、僕にとっての理想のギターです。あとは、その音を素直なアンプで増幅してやるだけですから。
同様に、アンプを通さない生音の状態で、面白い、と感じない楽曲は、基本的に、アンプを通しても、僕は面白いとは感じないでしょう。
よく言われる、エレクトリックギターはアンプを通さないと練習ができない、という事柄に対しても、僕はそうは思わないです。もちろん、アンプの鳴りをちゃんと知って、真空管アンプの鳴り方を体で理解した上での話だとは思いますが。
この「生」の音というのは、アコースティック楽器の時代には、基本的には望み得なかったもので、エレクトリックギターという、小さな弦の振動を拡大する装置が発明されてはじめて可能になったことだと思うんですね。
だからエレクトリックギターは、生々しく、官能的な表現が可能なのだと思います。
そしてその「生々しい」音を聴いたとき、多くの聴衆は、「いいね」と思うのではなく、どちらかというと、「ぎょっとする」のです。そして、かなりの部分の人は、それを拒絶する。
でも、それこそが、どっちかというと、芸術の本質のような気がします。
僕が思うに、アコースティックギターは、「アンプ内蔵」です。
スピーカーを内蔵した、有名な「象さん」ギターがありますが、あれと、基本的には変わらない。
だから、アコースティックギターというのは、楽器であると同時に、ひとつのオーディオシステムであって、そのオーディオシステムの機能、性能に対して、プレイヤーはお金を払うのだと思います。
ギターという楽器を「鳴らす」部分とは、少し違う要素が、そこにはあるように僕は感じます。もちろんこれはハードロック系エレクトリックプレイヤーのたわごとではあります。
そして、ぶっちゃけ、僕はその「オーディオシステム」の部分には、あまり興味が無い、ということですね。その部分を、「楽器」としては、あまりとらえていない、ということです。
またアコースティックギターというものは、良いものは本当に高価です。
そういった「システム」が必要な本格的なアコースティックの演奏家にとっては、そういった部分に、百万円以上のお金をかけることは、理にかなったことかもしれません。
それは、エレクトリックギターのプレイヤーが、アンプやエフェクターなどのシステムにお金をかけるのと同じことでしょう。
ただひとつ確かに僕が思うのは、アコースティックギターの音は、決して楽器の生の音ではなく、アコースティックギターの構造の中には、アンプも、エフェクターも、スピーカーも、すべて内蔵されている、ということだと思います。
僕が持っているSeagullのギターは、安価ですが、とても素直な楽器です。そして、シンプルで、潔い楽器です。また、素直に「鳴らす」ことが可能な楽器です。
本格的にアコースティックの弾き語りなどをしたい人にとっては、用途に合わない楽器かもしれませんが、
エレクトリックギターの生音を基準として考え、アコースティックギターについて、エレクトリックの延長、ひとつのバリエーションとして、アンサンブルの中で使うことが多い僕にとっては、適しています。
どちらにせよ、アコースティックギターの高価な音に関しては、実際のところ、僕は、楽器として、あまり魅力を感じない。どうしてでしょうね。BGMとして聴くぶんには気にしないんですが。
これは、案外とバイオリンなどの古典楽器についてもそうかもしれません。
高価なバイオリン、弾けないし、あまり聴いたこともないと思いますが、
これにも案外と僕は、楽器というよりは、オーディオシステム、としての魅力しか感じないのではないか。まだ仮説ですが。
ハードロック系エレクトリックプレイヤーのたわごとですが、
世間のイメージとして、エレクトリックギターはおもちゃで、アコースティックギターの方がちゃんとした楽器。
エレクトリックギターよりも、アコースティックギターの方が、高尚で、高級で、高等。
エレクトリックギターよりも、アコースティックギターや、バイオリンなどの古典楽器の方が、偉い。
そして、エレクトリックギターのプレイヤーよりも、アコースティックのプレイヤーの方が、「偉い」。「なぜなら生だから」。「基本だから」。
そういうイメージが、あるいはあるかもしれません。
僕はそうは思わないです。
アコースティックギターというのは、その特殊なオーディオシステムに、特化した楽器で、その演奏形態や、演奏技術も、その「ぜんぜん生ではない」オーディオシステムの形態に、特化したものだと思います。特殊だと、思います。断じて、基本では、ないと思います。
ただ、よく考えると、不思議なことに、古いブルーズの演奏形態というか、ブルーズにおける、アコースティックギターの使い方というのは、おかしなことに、なんだかちょっと違います。
素朴で、また自由で、発想が、演奏技法にしても、エレクトリックギターの使い方に近いように思います。
それは、なんだろう、ブルーズでは、あまり高価なギターが使われなかったからだろうか。
また、ブルーズというものが、その生い立ちから、個の表現というか、パーソナルなところから始まっているからなのか。
ブルーズが、エレクトリックになっていき、エレクトリックギターの発展とともに発展し、そしてロックンロールにつながっていったのは、このへんから考えても、必然だったのだと思います。
アコースティックギターひとつとってみても、本当にいろんな使い方、いろんな演奏スタイルがあるということですね。
一応、たとえばクラシカルな、たとえば弾き語りなどの、アコースティックギターのプレイヤーの方たちを、批判する趣旨の文章ではないです。
でも、僕は、あまりそっちには本質的な興味はないのかもしれない、という、自分にとっての気付きの記録です。
そうはいっても弾けるようになりたいですけどね、もうちょっと上手く、アコースティック。

No(3933)

■…2014年 5月11日 (Mon)…….桜木町コンサート
昨日は牧師のヤオさんのコンサートで桜木町の県民共済ホールにて演奏してきました。
これは、僕らの友人でもあり、ヤオさんのCDのプロデュースをしている、Nori Kelly氏率いるバンド、WINDが、ひさしぶりに来日したのに合わせて行われたコンサートです。
WINDも、クリスチャンの家族バンドですが、Kelly家の皆さんは何年も日本に住んでいて、3年前にアメリカに帰ってしまった。ちょうど、滞在期間が終わり、アメリカで次のミッションが決まったところで、あの震災が起き、彼らは震災の後、後ろ髪を引かれながらアメリカへ戻っていったのでした。それ以来ずっと日本に来たいと思っていて、それがやっと叶い、また福島のいわきにも訪問が実現したようで、よかったと思います。
で、ヤオさんの新しいCDですが、ヤオさん3作目にして、ワーシップのCDになっています。そうはいっても、ヤオさんの得意のレゲエも入っていれば、ガーナ語のアフリカンリズムの曲も入っています。
今回のコンサート、ヤオさんは活動はマイペースなので、また、ヤオさん独特のタイム感というのか、アフリカンならではの感覚に、傍から見ていて大丈夫かな、と思うことも多々ありますが、同時にヤオさん独特の美意識やこだわりといったものも次第に理解はしてきていますので、今回のコンサートも、そのヤオさんのこだわりや、彼のスタイルといったものが、発揮されたコンサートだったと思います。終わってみれば、とても素晴らしいコンサートだったのでした。
僕はヤオさんに前座での演奏を依頼され、アコースティックで2曲だけ演奏してきました。
と、それはよかったのですが、イベントの一週間前になって、ヤオさんのバンドでベースを弾いてくれと言われ、新しいCDからの知らない曲ばかりだったので、無理だよ、と言ったんですが、他に弾ける人もいないようなので、しょうがなく。
これは、もともとベースを担当する予定だった方が、都合つかなくなってしまったのが理由だと思いますが、その方はアフリカ人の凄腕ベーシストなので、その代わりをやるのは非常に荷が重い。しかも突然のことなので練習の時間も取れず、ぶっつけ本番。一応、曲は送ってもらって、なるべく聴いて覚えるようにはしてきたんですが、その程度。僕は当日のリハーサルまで、他のバンドメンバーが誰なのかも知らなかったくらいです。で、当日のリハーサルで時間があるからそこで練習すればいい、と言われていたんですが、蓋をあけてみれば、セッティングに時間がかかり、「練習」の時間はほとんどなし。いくつかの曲を、ささっと合わせてみて、それでもう本番。はっきり言って無茶でした。観客の皆さんは、僕らが、そんでベースを弾いている僕が、普通に演奏してると思ったかもしれませんが、普通に演奏してること自体、実はぜんぜん普通じゃなかったということはお伝えしておきたい(笑) 曲の進行を覚えていないので、ヤオさんの横に貼り付いて展開を追いながら、苦笑いして半分きれそうになりながらも、なんとか格好はつけました。
ひとつよかったのは、最近ベースをよく練習していたことですね。
僕もベースは時々弾いていましたし、過去にもヤオさんのバンドでベースを担当したことはあります。自分のバンドのデモ制作や、いくつかの制作で、ベースを弾いたりは当然していたけれど、今年の2月の終わり頃に、突然、「もっと本格的にベースを弾いてみよう」と突然思い立ち、この2、3ヶ月の間に、突如としてスリーフィンガーで速弾きができるベーシスト(笑)に生まれ変わっていたので、この土壇場で、その技術は生きたと思います。またプレイヤーとしても非常に良い経験でしたが、でももうこんな無茶なスケジュールは無理です(汗)
けれども、昨年の東北、石巻以来のりょう氏のドラム、3年ぶりのNori Kellyさんのギター、そしてこれも久しぶりに会うJoe Motterのトランペットと、一緒に合わせるのが楽しいメンバーだったこともあり、なんとかやりとげることができました。
使用したベースは、数年前にネットオークションで一万円くらいで手に入れた往年の日本製JacksonのFuture、いわゆるKip Wingerモデルのベースですが、ネックのトラブルで寝かせてあったのを最近、近所の楽器屋さん(といっても白楽のMusic Jumpですが)で修理していただき、久々にステージで使いましたが、コンパクトだし軽いし取り回し良いので、こういう場でも気軽に使えますね。見た目もスリムでスマートだし、今時誰も持ってない往年のヘヴィメタル用ベースですが、実際かなりヴァーサタイルです。今後のソルフェイさんのライヴでも使用するでしょうね。
ヤオさんに「この曲はシンプルだから、簡単だから」と言われたアフリカンビートの曲、確かにコード進行はシンプルかもしれませんが、あのアフリカンなダンスのグルーヴを出すのは、はっきりいって「超難しい」「超たいへん」です。全然簡単じゃないじゃん!と思ったけれど、実際ステージでも死にそうになりながら弾いてましたが、会場の皆さん、アフリカの人たちはじめ、いろんな国籍の人たちが、大人も子供も踊りまくっているのを見て、自分のグルーヴ(僕のベースとりょう氏のドラム)で踊ってくれているんだと思うと、それはそれでちょっとした経験でした。またアンコールで再度その曲をやったものだから、指が超痛い(笑)
自分のアコースティックのソロ演奏は、2曲だけでしたが、オリジナルの日本語ワーシップを歌いました。他人の曲や、英語のワーシップでもよかったのですが、やはり、日本語で、オリジナルのワーシップソングというものにこだわってみたかったので。音のよく響く立派なホールで演奏させてもらい、またアコースティックギターのサウンドという点からいっても、良い経験ができました。感謝です。自分の曲は、必ずしもこういう場で一人での弾き語りに適した曲というわけではないですが、また、アコースティックでこういう場で演奏すると、歌い方としてもスタイル的な制限が出てきてしまうので、どうしても低めのキーでの歌い方しかできませんが、それも含めて良い経験でした。機会があればまたYouTubeなどにアップしてみたいと思います。なにしろああいう感じの広いホールでの演奏は僕にとってみても結構貴重な体験でしたので(笑) しかし機会があれば自分のバンドでもそういう場所でコンサートをやってみたいものですね。
りょう氏、Kelly家の皆さん、トランペットのジョーなど、久しぶりに会えたこと、またりょう氏は今度めでたく結婚するということもあり、そんな彼とゆっくり話せたことが自分としては良い一日でした。
Junさんをはじめ、コンサートを支えていただいた皆さんには本当に感謝したいと思います。
そして、かなりどたばたとはしましたが、ヤオさんの魅力、美学、人望、そういったものが遺憾なく発揮されたコンサートだったのではないかと思います。
僕も非常に勉強になりました。

No(3939)

■…2014年 5月14日 (Thu)…….サウンドチェック
明日、いやたぶん準備に時間がかかるので明後日、からギター録音に入る。Imari Tonesの、”Revive The Nation”という作品。バンド活動のタイミング的にも、今度はちゃんと売り込みをして海外のレーベルから出したいものだ。とはいえ今時、iTunesやBandCampなどで自主販売しても何の支障もないし、その傾向は日増しに強まっている。あれこれしているうちに自前のレーベルが軌道にのってしまう可能性も高い。そもそもSpotifyが音楽をディストリビュートするメインのアウトレットになっている昨今、「レーベル」という言葉、というよりも「レコード」という言葉にどれほど意味があるかはわからない。(そして、このことがわからないのであれば、余計な口出しはよしてくれ、俺たちのやっていることに)
昨年の秋のツアー直後に入手していた新兵器「猫ポール」(正確にはBacchusのBLP-STD-FMという名前と思う。僕のはチャコールグレーだ。猫でいえば、キジトラだ。)を、ようやくImari Tonesのリハにて使用。さりげなくメンバーにも初お目見え、アンサンブルにも初合わせ。
ジーザスモードの練習やライヴでは何度か使用していたものの、そしてこの半年間、デモ制作やパイロット制作などに何度も使用してきて、そしてこの録音の時までにベストコンディションとなるよう、弾き込んできた。で、いよいよばっちり鳴るようになってきて、やるだろうとは思っていたが、ことごとく期待通りというか期待以上の音が出た。そしてCranetortoise/Albitの真空管ブースター「青(水色)」との組み合わせでちょっとした魔法が起きることもわかった。録音の前にこのことを発見できたのは幸運だった。
そして録音のために、リハスタにあるMarshallのアンプ、JVMと、JCM2000での比較をしてみた。つまりはどちらを使って録音しようかな、ということだ。何度もいうようだがうちのバンドの録音制作は、本当に本当に予算がまったくかかっていない。ほとんどギャグというかお笑いの冗談のように低予算だ。かといって予算を使って立派なスタジオで録音したことも一度ならず二度あるいは三度くらいあるが、それで必ずしも満足する結果が出るわけではない。一応、一流プロデューサーに録音してもらったこともあるのでそのへんも知っているつもりの上で。
結果としては、JVMのクランチチャンネルにつっこむのがどうやらいいようだ。
そしてこうして「猫ポール」で比較してみたことで、JCM2000がいったいどういうアンプだったのか、それが今になってよくわかった。
JCM2000にしても僕はローゲインというのかLeadの1番というかクランチっぽい歪みのチャンネルしか使っていないけれども、どちらにしてもJCM2000は「安いギターを突っ込んでも」良い音がするアンプだ。かなりぐちゃっと飽和する。上の方の暴れ方も凄い。その飽和感と、鳴り方というのか固まり具合は、たとえばVan Halenの1stみたいな音が出したいときには、そんなに悪いチョイスではないと思う。
逆に言うと、今まで僕が、具体的には”Victory In Christ”と”Japan Metal Jesus”で、このJCM2000で、比較的安価なギターを使って録音し、良い結果が出たのは、ひとえにこのJCM2000の特性のおかげだと言える(と思う)。要するに安いギターをつっこんでも、ぐちゃっと鳴ってくれるので、良い感じなのだ。(説明になってない)
これに高いギターをつっこんでも、たぶんちょっと、趣旨が違う。
そう思ってみても、やはりEddie Van Halenが偉大だったのは、安いギター、ぼろぼろの自作ギター、鳴らないギターを使って、良い音を出したことなのだとあらためて思う。僕の永遠のヒーローでもあるエディは、彼は「鳴るギター」なんて持っていなかった。あるいは持っていたかもしれないが合わなかった。
鳴らないギターで、自由な発想で自分のスタイルを築き上げ、そしていろいろいじってブーストしたアンプの強烈なドライヴで、ストラトボディにのせたハムバッカーで、そしてなにより自分の「手」(ひいてはピッキング)で、鳴らないギターを鳴らし、機材以上に自らの手でギターを歪ませてきた。
彼は「鳴るギター」なんかに頼ってギターを弾くプレイヤーではなかったということだろう。彼が歴代、使ってきたのは、「素晴らしい鳴りのヴィンテージギター」などではなく、自由なプレイヤビリティを持った、「鳴らし甲斐のある」ギターだったのだろうと思う。だからEddie Van Halenモデルのギターを使っても、機能性とか発想は素晴らしいと思うけれど、きっとそれは「素晴らしく鳴るギター」ではないかもしれない。エディ本人はそれでも鳴らせてしまうのだろうから。
そしてその意味でいえば、JCM2000は、非常に現実的というか、時代にあわせ、「どうせみんな本来の意味で鳴るギターなんて使ってないんだろ」というアンプなのかもしれない。「中国製の安価なギターや、レンジの狭いいまどきのメタルギターをつっこんでも、アンプの方でばっちり良い音に歪ませてやるよ」っていう感じの。その設計思想、設計意図がようやく汲み取れた。でも誤解はしてほしくないけれど僕はJCM2000は好きだ。そのぐちゃっと暴れて箱鳴りしてくれる部分のコントロールが、非常に気持ちよくできるから、安価で素直なギターをつっこんだ場合には。
でも、本来の意味で鳴るギターをプラグインした場合には、ちょっと話は別かもしれない。音が作られすぎていて、ギターの方でコントロールできる余地があまりない。
その意味で、「もっとぜんぜん歪まない」JVMのクランチチャンネルに突っ込んだ方が、今回の僕の用途には合うようだ。
JVMのひとつ良いところは、歪みチャンネルが、緑、オレンジ、赤、とみっつあるので、歪ませたい人はオレンジ以上にしてね、っていう感じで、緑はいさぎよく素直なクランチにとどめてあるところだ。本来の意味で鳴るギターがあれば、これを秘密兵器の真空管ブースターに突っ込んで、そして緑のクランチに突っ込めば、狙い通りにどうやら鳴ってくれるようだ。
そして、これをもって、たとえいちばん強烈なメタルコアっぽい曲をやるときにも、いちばんヘヴィな曲をやるときにも、僕にはハイゲインアンプなど必要ないことがはっきりと判明した。素直なクランチのアンプがあれば、十分だ。僕はそれで十分、ヘヴィメタルでもメタルコアでも演奏できる。もちろんそれは、本来の意味で鳴るギターが手元にあれば、の話だ。
今回のギター録音は、大部分は、このBacchus「猫ポール」と、HamerのコリーナVを使うことになると思う。この2本は、自分のギタープレイヤーとしての人生の到達点であろうと思う。これから、このギターをたくさん鳴らしていける時間が、自分に残されていることを願う。どちらも決して「高い」ギターではない。けれども、「高い」ギター以上のものであることは自分が知っている。
決して高いギターではないものの、人生で初めて自分は「良いギター」を手にしている。
けれども僕は安価なギターを弾くのが大好きだ。
そして、「安価だけれど素直なギター」を使って録音制作してきた、今までの作品が、決して間違っていなかったことがこれでわかった。どんな道具にも、正しい使い方がある。そして、その使い方がわかるのは、お金持ちのギターコレクターよりは、限られた日々の中、自分の人生の音を命がけで鳴らそうとするミュージシャンたちなのだ。
Bacchus「猫ポール」とCranetortoise/Albitのブースター(青)の組み合わせを発見したけれど、このブースター(青)の、リードチャンネルの使い方が、今までどうしても謎だった。けれども、猫ポールを通してみることで、これの意味というか使い方がようやくわかった。今まで、こんな基本的なことがわからなかったのだ。本当に恥ずかしい。これはおそらく、現行のAlbitの真空管プリアンプのリードチャンネルあたりとおそらく同じような感じになっているのだろう。要するにヴィンテージマーシャル(?)みたいなクラシックな真空管の歪みということか。つまり猫ポールをこれに通すと、本当にクラプトンのBluesBreakersみたいな音が出てしまう。これはやばい。この音が出せるアンプが、今どれくらいあるのかわからないが、おそらくそんなにないから、Albitの真空管プリアンプなんてものが作られているのだろう。そして、そのトーンの発展系でヘヴィメタルが弾けるとしたら。
弾けるものなら弾いてみろ、という感じだ!!!

しかしその音をこうして目の当たりにすると。
「猫ポール」は本当に奇跡的な楽器だということがよくわかる。
昨年、この楽器に出会い、僕は、霊的な意味において、これがたぶん自分のギタリスト人生において、自分が出会うことのできるもっとも良いものであろうと、つまりはこれが自分のギタープレイヤーとしての霊的な限界であろう、と思った。
(なぜなら、人は誰でも、自分の霊的な限界を超えるものを認識することが出来ないからだ)
しかしそれは違ったのだ。
この楽器は、自分のギタリストとしての霊的な限界を超えるものだった。
つまりは、本来であれば手に入れることのできない、出会うことのできないはずの楽器だったのだ。
これは、自分が自分自身の霊的な限界を乗り越える、ブレイクスルーする、ということを意味する。
あの時、この行動をしなかったなら
昨年、この選択をしなかったなら
その時、彼とこういう会話をしなかったなら
あのとき、彼女に親切にしなかったら
それらのものが、ひとつでも欠ければ、出会えなかった境地。
今までであれば、自分の器、自分の器量を超えてしまうもの。
自分を変えていくこと。
自分を日々新たにしていくこと。
新しいことに挑戦する。
未知のものに心を開いてみる。
探求のために、もう一歩、踏み出してみる。
その一歩が、自分を変えていくことにつながっていくのかもしれない。
まだまだ、僕は歩き出したばかりだ。

僕は昨年、この「猫ポール」を手に入れるに際しても、非常に逡巡した。
僕にとってそれは、one more extra stepだったからだ。
さらにもう一歩、前に進み、究めようというのか。
少しでも予算があるならば、
それを、たとえば次のアメリカ遠征であるとか
世界戦略であるとか、
ビザの取得であるとか、
そういったことのために残しておくべきではないか
成功したいのであれば、予算を管理して
戦略的に過ごしていくべきではないのか
そう考え、迷い躊躇した。
けれども、予算の残りの額で、人生や戦略を考えてしまうのはよくない。
予算の限界を、人生の限界にしてしまう発想はよくない。
神様につつかれているような気がして
そして、親父さんに背中を押されているような気がして
自分はこの楽器を選んでみた。
あるいはその一歩は、
これからも音楽を鳴らし、道を究めていくのだという、
神に対しての申告であったかもしれない。
自分の考えや、人の計画を超えて、きっと神さんの計画はあるはずだ。
それが、「より霊的に高みをめざし、道を究めていけ」という趣旨であることは、いずれにせよ間違いはなかろうと思う。
そしてリハーサルとサウンドチェックを終え、長い一日の帰り道、世の中に対してのフラストレーションと疲れに消耗していた自分の前に、ふとイエス・キリストが現れた。
そして彼は言ってくれた。
自分の迷いや憤りは溶けていった。
存分に音楽を鳴らそうと思う。
彼がそう言ってくれたように。

何度も言うけれど、Deviser社の楽器は、95%は自分のスタイルには合わないけれど、残りの5%の中に、自分にどんぴしゃのものが存在しているようだ。猫ポールはその数パーセントの一例だった。
アコースティックギターなんてものは、
自分にはそれほど必要がないけれど、
もし長生きして、いくばくかの成功を、芸術的にも技量としても現実的にも手に入れることができたら、
そのうちHeadwayのアコースティックギターも、手に入れてみたいな。
そんな未来があったらいい。

No(3945)

■…2014年 5月15日 (Fri)…….訃報アナザー
Unitedの横山さんのニュースが入り、ヘヴィメタル界に衝撃が走っていますね。皆さん、それぞれの思い出を書かれています。この狭いメタル界で、何年もいろいろやっている中で、僕も2度くらいならお会いしたことがあります。あとは2011のLoudparkの感想をmixiに書いたら本人がコメントくれたこともあったなあ。昨年のちょうど今頃、大好きなbloodthirsty butchersの吉村氏が同じように急逝したのを思い出しました。日々、生きている時間はあたりまえではないですね。明日はギター録音をせいいっぱいやってきます。

No(3951)

■…2014年 5月20日 (Wed)…….初ギター録音
またひとりごと日記です。
もう先週のことになっちゃいますが、木曜と金曜と二日間かけて、ギタートラックの録音をしてきました。今、録音作業を進めている、”Revive The Nation”という名前のアルバムというか作品です。さて発表するのはいつになるやら。
2月にドラム録音して、3月はいろいろ準備して4月にベース録音して、5月にやっとギター録音だよ。でも5月中にギター録音終わって良かったよ。
これで梅雨に入ると湿っぽい音になっちゃうし、夏になったら暑苦しい音になっちゃうからねー。5月のさわやかな気候のときに間に合ってよかったよ。

で、今週からヴォーカルトラックを録音しないといけないんですが、ともかく。

今回、ギター録音は、ちょっと初めてのことがありました。
というのは、昨年あたりから、ギターとか楽器とかギターサウンドということについて、ずいぶん考えて、いろいろ発見があって、ちょっとした楽器を手に入れて、ギタープレイヤーとして少しは進歩したと思うんですね。別に急に上手くなったとかじゃないけれど、エレクトリックギターのサウンドの本質というのか、ギターを鳴らすことについての本質について、ちょっと考えることが出来た気がするので。

で、何が初めてだったかというと、こんな良い楽器を使って録音したのは初めてだということでした。
別に、今までだって悪い楽器を使っていたわけではないし、
過去にはとても良いギターを使わせてもらったり、自分の所有するギターでももちろん良いものは使っていたけれど、
こんなふうに突き詰めたレベルにたどり着けたのはちょっとした成果でした。

最近とみにこう言って、こう考えるんですが、
昔は、自分が主体的に音楽をやっている感覚がまだあったけれど、
近年、年々、楽器の奴隷というのか、
自分はそれほど何も考えず、楽器の言うなりに、楽器に操られるように、
それは演奏とか音楽とかだけじゃなく、人生そのものが、
楽器にあやつられて、楽器の奴隷みたくなっていて、

でも、それは、人としては、困ったことばかりだけれど、
プレイヤーとしては必ずしも悪いことではないわけですね。
なぜって、楽器の声が聞こえるわけだから。
だから、演奏するときも、楽器の言う通りにしていればいいわけです。

今回、初めて、これほど「良い」楽器を使って録音してみて、
それは、とても楽だった点というのがあって、
それは、ギターの言うままにどんどん弾いていけばよかった点。
あまり、こちらの方で考える必要がなかったし、
自分が鳴らさなくても、
楽器の方で勝手に鳴ってくれた。
良い道具というのは、こういうことなのだと少し理解した。

今回の録音に使ったのは、3本のエレクトリックギター、

まずはHamerの97年製コリーナフライングV、Vectorというやつですね。
これ、1997年に限定で作られたやつで、
最近、Hamerのクロニクル本を読んだんですが、そこに載っていた当時の日本の代理店の広告に書かれている当時の定価を見て、ほとんど卒倒しました。そんなに高いギターだったのかよ、これ、って。悲しいかなこれはGibsonとかじゃないんで、中古のリセールバリューはあんましないんですね。
でもそのHamerの資料本によると、その当時作られたこの限定のコリーナフライングVとか、コリーナエクスプローラーは、Hamerの歴史の中でも最高傑作の部類らしい。そして今回の録音でもその真価は体感できました。さすが「うん十万」のギターだよ、つって(笑) まあ、そうはいっても輸入代理店がたっぷり上乗せしてたんだろうけれども。

次に、これは昨年出会った自分のギタリスト人生のファイナルアンサーである楽器、Bacchusの通称「猫ポール」ですね。フレイムメイプルの日本製レスポールなんですが。これ、値段はHamerの、定価ベースで考えても、売値で考えても、何分の一かってところなんですが、楽器としての実力はほぼ互角かなと。この数ヶ月、家でちまちまとデモ制作やパイロットトラック制作の折に、Hamerと競争させまして、今回のこの録音、12曲のうち、パイロットトラックの段階では3曲でHamerに軍配、あとの9曲には猫ポールに軍配が上がりました。これは、どうしてもHamerはフライングVなので、低音のかっちりしたレスポールの方がどうしても応用範囲が広いってことなんだけれど、果たして、スタジオでアンプでおっきい音鳴らしたら、この結果は変わるだろうなと予想していました。半々くらいになるんじゃないかと。で、この2本の最高のギターを比較して競わせながら、この曲にはどっちの楽器が合うかなと試しながら録音していったんですが。

結果、パイロットトラックの予想と少し違い、
Unlimitという曲は、Hamer Vectorが持っていった。
Hometownは予想どおりHamerが持っていったけれど、
Unknown Roadは予想に反して猫ポールが持っていき、
そして、予想では絶対にHamerの方が合うだろうと思っていたBorn To Rideも、猫ポールが持っていってしまった。

ギターとしての凄さっていうか、鳴り方で言うと、さすがにHamer USAの傑作フライングVは、めっちゃ鳴りで、こっちのが凄いかなと思うんだけれど、
フライングV独特の鳴り方をするので、なんというか軽やかなサウンドで、少し柔らかめな音ということもあり、どの曲にも合うというわけにはいかない。

けれども猫ポールの場合は、レスポールというギターの特性なのか、ほとんどどんな音でも出すことができてしまう。ので、結果として、こっちの方が採用される曲が多くなり、終わってみれば、12曲中、Hamerを使用したのは2曲のみで、あとはBacchus猫ポールを使用、けれども2曲のギターソロでは、MusicMan Axis-EXSのソリッドの赤を使ったのでした。まあ、そうはいっても、Hamerを使ったのは、アルバムの頭の2曲だから、責任は重大だよね。

猫ポールの表現力の多彩さということについては本当に思い知らされたのであって、いちばんヘヴィな曲から、繊細なアルペジオまで、本当によく表現してくれる。
ぶっちゃけ弾いていて気持ちいいのはHamer Vectorの方なんだけれど、Vectorが3種類の音が出るとすると、猫ポールは20種類くらいの音が出てしまう。
けれども気持ち良さっていうこともあり、軽やかなサウンドキャラクターは自分に合うことを考えても、ライヴとかツアーとかだったら、たぶん僕はHamer Vectorの方を持ち出すだろう。パフォーマンスとか見た目の問題もあるしね。
でもどうかな、もうちょっとHamer Vectorを使うべきだったかな。
すべてに満足しているわけではないし、面倒だしこういうのは自分は一発勝負なので、録りなおしはしたくないけれど、結果は作品が完成するまでわからない。
でもどちらにしても、すごく良いギターが録れたのは事実だ。

Hamer Vectorはひたすら弾いていて気持ちよいけれど、猫ポールの場合は、気持ちよいというよりは、ギターの方からいちいち要求してきたり、注文をつけてくる。必ずしも弾いていて楽しいってわけではない。「この下手くそ、もっとこういうふうに弾けよ」とギターの方から言ってくる。それはそれで、たまったものじゃない。けれども、ちゃんと耳を傾ければ、自分の力量以上の演奏ができる。その楽器とのインタラクションというものを、今回の録音作業を通じて本当に思い知った。

今回、アンプはスタジオにあるMarshallのJVM210を使用したのだけれど、
事前に書いていたように、オーバードライヴのチャンネルでも、クランチっていうか、いちばん歪まない緑のチャンネルしか使わなかった。
長いこと愛用しているCranetortoise/Albitの真空管ブースターに突っ込むことで、ギターの特性を生かした生々しい音を鳴らすことができた。
そしていちばんヘヴィなメタルコア的な曲や、現代ヘヴィネスな曲、スラッシュメタル的な曲まで、このクランチチャンネルで弾ききってしまった。
それはそれで、間違いなく、どんどんレンジが狭くなりどんどんダイナミクスがなくなってゲインばかりが上がっていく現代のヘヴィメタルサウンドに対する、自分のアンチテーゼでもある。問題提起ということだ。
おまえら、そんなギターサウンドでいいのか、という。
本当のヘヴィネスっていうのはそういうことじゃないぞ、と。
ゲイン低くてももっとヘヴィな音出せるんだよ、
ていうかヘヴィという概念を変えてやる、っていう。

そして、録音方法は、2本のマイクを使ったけれども、
低予算のDIY録音ではあるけれど、何度もやっていることなので、
果たしてギターアンプの音を、どのようにしてキャプチャーしたらいいか、
ということについては、自分なりのノウハウが出来てきたと思う。
とても生々しい音を録音することができたと思う、
思うの、だが、

そうは思っても、
今回本当に思い知ったのは、
本当の意味で「本来の意味で鳴る」エレクトリックギターを鳴らしたとき、
そのサウンドは、とてもじゃないけれど録音できるものじゃない、
とらえられるものではない、
とてもじゃないがキャプチャーできない、
ということを、身を以て思い知った。
だから、いにしえの昔、60年代とかの時代から、
現代に至るまで、
レコード、CDで聴けるギターサウンドなんていうのは、
やはり所詮、録音というか、
生のギターサウンドをそのままとらえられるわけじゃない。
というか、このサウンドを、とらえられるわけがない、
ということが、よくわかった。
周波数も、ダイナミズムも、音圧も、パワーも、アタックも、
すべて、録音機器の能力をはるかに超えている。
こりゃ無理だ。

トッププロやレジェンドが長い歴史の中で無理なんだから、
DIY貧乏録音している僕に、それができるわけがない。
だから、そのへんは割り切ってやるしかない。

というよりも、
自分は、今回、このように「本当の意味で鳴るギター」で、
本当の意味で真空管をドライヴさせて、
素直なアンプで鳴らした音、
それで録音するというのが、そもそも初めてだったわけだ。
今更ながら、本来、本物のエレクトリックギターの音というものを、
この歳にして初体験したと言っていい。
それはもう、衝撃的な体験だった。

なので、結果的に、そんなに爆音出していたってわけじゃないはずなんだけれど、
でもやっぱり非常にラウドで、
ヘッドホンでモニタリングも非常に無理があり、
リズムトラック、つまりドラムやベースをきちんと聴く余裕もなく、
アドレナリンが出っぱなしのままで、
がくがく震えながら必死で弾いた。
そしてなるべく数テイクで済ませるようにした。
ていうか、こんなのそんなに何テイクも弾けるはずない。
体がもたない。
心ももたない。
だから、リズムというかタイム感的にはかなり走ったギタートラックになったと思う。
けれども、それでたぶん良かったのだろうと思うのだ。

そして、同様に、ソロを弾く段も、非常に大変だった。
完璧でなくてもいいから!
テイク数はなるべく少なく!
そして、パンチインや、テイクをつなぎあわせることも極力なく!
とにかく走り切った。
とにかくにも、この「鳴るギター」を「ずっと使ってきた真空管ブースター」にぶっこんだときに、「あの音」が出ることに気付いたのが、録音の二日前のバンドリハ。

つまり、「こんな音」でギターソロを弾くこと自体が初めてなのだ。
もう、とてもじゃないがマイクでとらえることのできない倍音とアタックのきゅんきゅん、ぎゅんぎゅんっぷりに、
もう、顔をくしゃくしゃにしながら、顔弾きよろしく、悶絶しながら僕は弾いていたのだ。
それはもう、生々しいソロが録れたと思う。

2曲のソロで使用した、MusicMan Axis-EXSも良い仕事をしてくれた。
僕はAxis-EXは2本持っていて、2002年から使っているピンクと、2004年から使っているこの”EXS”の赤だけれど、
このEXSはアルダーのソリッドボディで、どちらかというとストラトに近い。
そして、まるでストラトの完成形のように、そして年月を重ねるごとに、まるでヴィンテージストラトのような鳴き方をするようになってきた。
ボルトオンのギターにはこういうことがあると思う。
ぶっちゃけボルトオンのギターは値段でもないし作りでもないと思う。
なんというか、気持ちいい音が出ればそれで勝ちというか、まさかの要素があるように思う、ボルトオンのギターには。
その、「万能型完成形ストラト」の持ち味を、十分に引き出すことができた。
たった2曲のソロであるが、とても印象的であろうと思う。
そもそもよく考えると、僕はこれまでこのAxis-EXSの赤を、結構ひんぱんに録音で使ってきた。ドイツで録音したときにも連れていった。あの作品でもこの作品でも使っている。実はそれだけ優秀なギターということだろうと思う。
ピンクのAxis-EXの方が音は高級で安定感もあり、バッキングを弾くには良いのだが、食いつくようなソロを弾くときにはこっちの方が勝る。

とにもかくにも、こんな音で弾くのも初めてだったし、
こんな音で録るのも初めてだ。
録音したトラックを既にだいたい整理しているが、
たとえ、その場で鳴っていた音の半分もキャプチャーできていないにしても、
それでも十分、生々しく、衝撃的な音を記録することができていると思う。

猫ポール、つまりそれはレスポールであるので、
しかもヴィンテージタイプの鳴り方をする楽器であるので、
速弾きをするのに適しているか、と聞かれれば、ぶっちゃけ適していない。
けれども、幸い、本物のヴィンテージよりは、現代的な音がするはずだし、僕はそれこそが今回のテーマだと思い、そのサウンドのままで弾き倒してしまった。
きゅいんきゅいんという決して速くはない立ち上がりのアタック、その音のままで弾き倒した速弾きのソロは、果たして成功なのか失敗なのか。
それはわからないが、でも新しい境地は開くことができたのではないかと思っている。まさに猫がぎゃーっとうめくごとく、わめきまくっていると思う。
それが、新しい時代のギタープレイ、ギターサウンドを切り開くことができているかどうかは、聴いてくれる人ひとりひとりに判断してもらうしかない。

正直なところ、
ミュージシャン、プレイヤーのはしくれとして、
自分の実力の無さや、結果の出ない時には、落ち込むことも多々あるが、
今回、こうして録音作業に取り組んでみて、
また、ここ最近の自分が取り組んでいたことが、こうして結果に結びついているのを感じ、
ああ、自分は間違ってはいなかった、というのか、
ここまでの境地に来ることが出来ただけでも、
たぶん自分の選択は間違ってはいなかった、と、
なんだかとても報われた気持ちになった。
たぶん、これでいいのだ。

世界で最高のエレクトリックギターとされる、
たとえば、59年製のレスポールや、58年製のフライングV、
それらは、もう何千万円という価値、値段がついているもので、
とてもではないが、僕ら無名のバンドマンに手が出るようなものではない。

けれども、今回、僕が取り組んだ録音、ギターサウンド、
つまり、Hamer Korina Vectorは、
「もし、伝説の58年フライングVを、無名のインディバンドが手にしたらどうなるのか」というテーマであるし、
笑うかもしれないが、Bacchus猫ポールは、
「もし、伝説のヴィンテージレスポールを、無名のインディバンドのギタリストが手にしたらどうなるのか」という仮想条件のテーマでもあるのだ。
もちろん本物の59レスポールなど弾いたこともないし、
むしろBacchus猫ポールは、それよりもモダンな味付けの楽器だと思うけれども、
それも含めて、本来のエレクトリックギターというもののサウンドと、その表現力が、どれだけ自分を導いてくれるのか、という実験。
その意味では、今回の録音は、自分をまったく未知の領域まで導いてくれた体験だったと断言できる。

とある曲のイントロで、無伴奏のギターソロから入る曲があるのだけれど、
それはフルピッキングでシンプルな速いシーケンスフレーズを繰り返すもので、
それはそれで難しいものだったのだけれど、
実は、録音の前日に、「これ、やっぱ変えよう。もっと華やかにしよう。」と思い立ち、
一年以上練習してきたそのフルピッキングの面倒なフレーズを放棄して、
前日の晩に、それ以上に面倒なタッピングのソロに変えてしまった。
どう面倒かというと、右手の指を3本使うタッピングなので、ちょっと難しいのだ。
当日、それを爆音のフィードバックの中で弾くと、余計に難しかった、が、なんとかやりきった。

ぶっちゃけ「弾いていて気持ちいい」Hamer Vectorをもっと多用すべきだったかもとも思う。
けれども、その無伴奏タッピングのソロも含めて、猫ポールの表現力と、いちいち弾き手に要求してくるあたりが、どれだけ今回の楽曲の可能性を広げたかわからない。
不可能が可能になった瞬間をいくつも見たように思う。

一人のギタープレイヤーとして、
こういう演奏ができるようになった、
こういう境地に立つことが出来たこと、
それだけでも感謝したい。

でもこれからだ。
これから始まるんだ。
そして、自分はまだまだ下手くそだと、
そう猫ポールに言われている。
本当にしゃくにさわる楽器だ。

だからツアーには絶対にHamerを持っていく(笑)

今週はヴォーカルトラックに取り組む。
その予定だ。

ハーモニーをつけるのが難しい曲ばかりだ。
どうか良い発声ができますように。

No(3970)

■…2014年 5月21日 (Thu)
さて私、最近、東京は町田を拠点とするクリスチャンJ-Rockバンド、「ソルフェイ」(Soul of Faith)にベーシストとして参加しております。なんだか既にホームページにも写真のっけてもらってます。(ベースはMuto氏との分業制ですが。) で、単なる世間話ですが、今月末5/31(土)に、クリスチャンの友人の中でも僕がいちばんキュートでチャーミングな人物だと思っている良き友人のRyo氏がついに結婚して式をあげます。Ryo氏は素晴らしいドラマーでもあり、東北は石巻にて昨年もThe Extreme Tourにご助力いただきましたが、そんなキュートなRyo氏についにふさわしい人が見つかったということで、僕は本当に嬉しい思いです。Ryo氏とはドラマーとして何度もステージを共にしていますが、思い起こせば僕がクリスチャンになって間もない2008年、うちのImari TonesとRyo氏のバンドは新宿JAMにてイベント共演したのでした。そのとき、Ryo氏のバンドでベースを弾いて歌っていたのがAso氏ですが、最近その私が加入した「ソルフェイ」のヴォーカルのオオハラ氏がボイストレーニングに通い始めたそうです。で、「ボイトレの先生がクリスチャンだったよ!」って言ってたので、聞いてみたら、やっぱりAso氏ということで(彼が町田でボイストレーニングの講師をやっていることは知っていたので)、どんだけ世間狭いんだよ、って。そして5/31(土)、そんなRyo氏の結婚式に横浜は山手のYCACにて参加し、おそらくはAso氏にも会うことができるであろうそのすぐ後、私はベースをかついで町田にとんぼがえりして、町田Nutty’sにてソルフェイ参加初ライヴを行います。というわけで、まわりくどいライヴ告知でしたが、オオハラ氏率いる「ソルフェイ」ぜひよろしくお願いいたします! こちら

No(3971)

■…2014年 5月23日 (Sat)…….Vrec
ヴォーカル録音二日やった。初日は微熱を出していた嫁さんの影響か体がだるく調子悪かったがなんとか4曲のリードヴォーカルをやっつけ、二日目は得意の不眠症をやってしまい一睡もしない中、どうせ声出ないので残っていたアコースティックギターのパートを2曲、豪雨でアコギも持っていけないかと思ったが雨やんだ隙を見ていった。徹夜明けのときは声のウォームアップはほぼ必要ないが、嗄れるのも早い。が、その嗄れた声を生かせる曲を選んで結局3曲のリードヴォーカルを片付ける。残り5曲。ハイトーンシャウトのスタイルで二日連続で6時間、7時間と歌い続けると、さすがに三日目はきつい。声帯のダメージも蓄積していると思うが、でもたぶん今日もスタジオに行くだろう。ほとんど強迫観念との戦いがいちばん辛いからだ。今週末でリードヴォーカルが終われば、あとはコーラスというのかハーモニーのパートだけだ。これは比較的楽なはず。なおアコギをこういう形(NT-2AとSM57の組み合わせ)で本格的にマイク録りするのはひさしぶりだったが、自分の音楽性でアンサンブルの中で使用するには安物だが素直な特性のSeagullで十分という仮説はあらためて証明されたように思う。楽器屋のサイト見てるとHeadwayのアコギはとてもきれいだが(笑)

No(3984)

■…2014年 5月23日 (Sat)…….Shara
シャラさん、自分の意見をはっきり言うなあ。そして、すげえ判決文だな!
こちら

No(3985)

■…2014年 5月23日 (Sat)…….逆らわない者
先日牛丼屋の有線で流れていた「ジーザス、ジーザス」って言ってる曲。
どうやらそれは”N’夙川BOYS”の、ジーザスフレンドという曲で、ドラマの主題歌らしい、ということまではわかった。でもウェブサイトとか見る限り、バンド自体に別にクリスチャン的な要素は感じられない。この曲の歌詞もちゃんと読んでないし、曲の背景やメンバーの背景に宗教的、信仰的要素があるかどうかも知らないが、どっちにしろこれは良いことなんじゃないかと思っている。聖書にも「イエスの名前を使って奇跡を起こす者、逆らわない者は味方」みたいに書いてあるし、メジャーなところ(つっても今時ドラマの主題歌のバンドがどれだけメジャーかは不明だけれど)であれだけ印象的に「ジーザス」って名前が連呼されるなんて面白い。特に日本においては、こういうのの方が案外大事かもしれない。こういうのがもっと増えるといい。こういうとき、僕は、目立たないところで地道にクリスチャンのバンドをやってきてよかったなと思う。僕自身も最近「ソルフェイ」に参加したが、そういえば、最近、クリスチャンのロックバンドも少しずつ増えてきたように思う。僕ら(Imari Tones)は「日本最初のクリスチャンヘヴィメタル」を勝手に名乗っているし、実際、厳密に最初かどうかわからんけど、そして、栄光号(B.D.Badge)のような先輩たちもいるけれど、偉そうなことを言えば、先駆者の喜びというのは、自分たちがもてはやされることにあるわけではない。先駆者の本当の喜びというのは、自分のやっていること、やってきたことが、普通になること、特別ではなくなることなのだ。誰だって、望んで「普通じゃない」人になったわけではないのだから。

No(3986)

■…2014年 5月24日 (Sun)…….ヴォーカル録音3日目
ヴォーカル録り3日目。
三日連続でやるんじゃなかった(笑)
初日、二日目と体調の悪い中、無理矢理に7時間くらいずつシャウトし続け、
今日は体調こそ悪くなかったものの、
声帯に蓄積した疲労とダメージは非常に深刻(笑)
明らかにノドにダメージのある中、それでも無理矢理に3曲のリードヴォーカルのパートをやっつけ、
ていうか、3曲やっつけられたことがほとんど信じられない(笑)
これらの曲は、昨年から何度もライヴで演奏して歌っているし、普段のバンド練習でも歌っているので、決して歌うのは難しいわけではないんだけれど、
これだけノドの状態がダメージDamagedな状態だと、普段簡単に歌えるものも難しくなってしまう。
結果的に、ほとんど歌詞の一行か二行ずつ歌ってパンチインしてつないでいくような作業になってしまった。(もちろん、過去にもそういう手法で録音したことはありますが)

が、逆に言えば、これだけ状態の悪い中、声が疲労している中でも、技術によってなんとか出すべき声を出してひとつずつクリアしていくことができている、ということで、そのあたり(発声の技術)は数年前に比べて、年々向上していっているところだ。
初日は体調が悪かったし、二日目は不眠症で一睡もできなかったし、三日目は前日までの無理がたたって声が死んでた、ってことで、どの日も、おおよそ声の出ない中、技術を使って声をひねり出している、ということで、言ってしまえば今回の作品のヴォーカル録音は、残念ながら調子の悪い状態で行っていることになる。
今日も、3曲歌ったうちの、3曲目になるころには、もう技術でもどうにもならないくらいまで声が死んで、残りの力で勢いだけで振り絞って、振り絞るなんていう言葉は発声の観点からしても適切ではない言葉だけれど(笑)、そのくらい無理矢理にやった。

この選択が正しかったか誤りだったのか、つまり、調子の悪い中、三日間連続で作業してしまったことが、やはり無茶というか、間違った選択だったかどうかは、録音作業が終わって作品が完成してみないとわからない。むしろ状態が悪かったからこそ、技術に頼るしかなく、だからこそできた表現もあるかもしれない。けれども状態の悪い中、最小限のテイクをつないでいったので、そのあたりはアラが見えてしまう結果になるかもしれない。あとはそれを編集とエフェクトなどでどれだけごまかせるか。ハーモニーパートを加えることで気にならないところまで持っていけるか。

さすがに明日は歌わないことにしようと思う。
明日またこれをやったら間違いなくノドに問題が出る。
というか、三日連続でこれをやってしまった時点で、既にノドに問題が生じても文句は言えないというのが正直なところだ。回復してくれると良いのだが。

ノドに負担のかかる録音作業で、初日、二日目と体調が悪く無理な発声を続け、その上で三日目もやってしまったということで、そういった不運のせいもあるが、こんなにヴォーカル録音に苦しむのは、あのスランプまっただ中だった”Japanese Pop”の時以来ではないか。あの時は場所や環境もいつもと違ったからなおさらだったけれども。
しかし今回はその体調などの不運も、技術でなんとか乗り越えているという感覚はある。

バンドで歌う時、バンドの爆音に対して対抗しようなんていう意識はすでに無いので、力まずにマイクにまかせて声を響かせる方法論でだいたい歌っている。(もっともそれができるようになるまでには時間がかかった。そして今でもときどき、力んでしまうことはある。)
(僕は2006年初頭までは、パワーで力んでシャウトする発声法だった。それを2006年、2007年くらいから、力まずにいわゆるミックスヴォイスを使って発声する方法に変えた。”Japanese Pop”のレコーディングの際にスランプだったのは、その切り替えの真っ最中だったからだ。)
だが今回の録音に際して、録音のときには表現を突き詰めていく必要があるし、体調が悪かったので必要以上に声を出そうとして力んでしまっていた。それもあってノドに次第に疲労とダメージが蓄積されてしまった。
またあらためて、ライヴ、バンドで歌うことと、録音で歌うことは本質的にまったく別のことであるということも思い知った。
もちろん録音も何度もやってきていることではあるし、ここ最近のヴォーカル録音ではいつもうまくやっていたつもりなのだが、今回はあらためて録音作業の恐ろしさを味わっている。よくよく考えると、今回取り組んでいる楽曲はどれも難しいのだ。

こんなに無理をせず、もっとゆっくりと時間をおいて、時間をかけて作業すればよいと思うかもしれないが、Do you think we can afford it? そんな余裕があると思うだろうか、つまり生活や、予算や、時間や、そして気持ちの上でも。やはり人生の残りの時間を、僕は急いでいるのだろう。

さてリードヴォーカルに関しては残り2曲となった。
ほんのちょっとだけ休憩したのち、やっつけると思う。
そしてその2曲のうちのひとつは、「大ボス」だ。
僕らはこのレコーディング作業中、その曲のことを「大ボス」と呼んでいた。
ドラムについても、ベースについても、そしてギターについても、その曲は非常に難しい難曲なのだ。
そしてそれはヴォーカルパートとて例外ではないのだ。
その曲には、今までで書いた曲の中でいちばん高い音が出てくる。
女性だったら出ると思うが、もちろん男性にとっての高い音ということだ。
つまり点のふたつ(?)ついたAの音が出てくる。
もちろん、それはシャウトする音だ。
その音をシャウトし終えた瞬間に、ノドが壊れてもおかしくない領域だ。
(もちろん、バンドリハーサルや、ライヴでも、何度も出しているのだけどね。)
難しいから最後にとっておこうと思ったのだが、
今から思うと、ノドにダメージの少ない最初のうちにやっつけておけばよかった(笑)

自分がロブ・ハルフォードとか、マイケル・スウィートとかに、なったと思い込んでやろうと思う。

以下は自分のためのメモだ

歌う声としゃべる声は別、とよく言うし、僕もどちらかというとしゃべり声と歌う声は違う方だけれど(いくつかの意味で)、
今回、しゃべる声の方にそれほど影響はなく、歌う声、つまりはヘッドヴォイス、いやもっというとヘッドヴォイスを歌うために下ろしてきたときの声、が、非常に嗄れていた。だからといってしゃべるのがつらくないわけではないが、しゃべる声は比較的、普通のままだ。といっても、今、嫁さんと会話していたら、しゃべる声もついに嗄れてきたけれど(しばらくしゃべらないほうがよさそうだ)。この現象はわりと初めてかもしれない。興味深い。

今回、たとえばギター録音の際にも、現場でアンプが鳴っている音がマイクに収録できない、マイクや録音機器の能力を超えてしまっている、という現象があったわけだけれども、ヴォーカルに関しても似た現象が起きた。それは、急に音量が大きくなったときにおかしなクリップ現象が起きてしまうということだった。マイクの時点で歪んでいるわけでもないし、デジタルの入力でクリップしているわけでもない。ただ、音量の急激な変動の部分で、波形が直立し、クリップと同じような現象が起きてしまうのだ。これも初めてだった。結果、マイク(NT-2Aだった)のパッドを入れて、マイクから比較的離れて歌うことでなんとか対応した。けれども、これはちょっと嫌だった。原因がよくわからず、マイクなのか、オーディオインターフェイスなのか、あるいは録音するLogic Proの方なのか、何が悪いのかよくわからずいろいろ試行錯誤せざるを得なかった。なんにせよマイクにパッドを入れて歌うなんて初めてのことだった。これは機器のせいにしたほうがいいのか、それとも自分のダイナミズムが向上したと捉えていいのか。

今回、ノドへの影響という点でいちばん苦しんだのは、音域の落差というか、切り替わりというか、つまりはチェストヴォイスからヘッドヴォイスへの切り替えの部分だ。今回取り組んだ曲目は、わりと音程、音域の落差が激しく、かなり低いところから高いところに切り替わる場面がちょくちょくあり、チェストで表現するために声を押し出さなくてはいけないところに、そのすぐ後にヘッドヴォイスで表現するために脱力しなければいけないところが来たりして、その切り替えがノドや体に非常に負担をかけた。これも、普段だったらそれほど苦労しないところなのだけれど、今回、体調やノドの状態が悪かったことで、より繊細なコントロールが必要になった。

自分は決して歌い手として上手いわけではないし、スタイル的にも無理してシャウトしている方ではあるが、自分の声の扱い方については年々少しずつこれでも向上している。ヴォーカルというか発声というのは、これはギターにも同じようなことが言えるが、気、みたいなのの操作みたいなところがあると思う。いわゆる中国拳法みたいなやつだ。力のかけかた、脱力の仕方、タイミング、そういう「気」みたいのの操作については、少しは上達してきたのではないか。

自分はアコースティック演奏をするときは、バンドでやるようなハイトーンでの歌唱はしないことが多い。これは、ひとつにはやはり、上で書いたように、チェストの領域での表現と、ヘッドヴォイスの領域での表現が、両立が難しいからだ。そしてヘッドヴォイスの領域での表現は、非常に繊細であるからだ。だが、ロックバンドの演奏において、自分が個性を表現できる、自分の表現ができる、と思うのも、そのヘッドヴォイスの領域での表現だ。落ち着いたアコースティックの表現と、エキセントリックで素っ頓狂なヘッドヴォイスのシャウトは、あまり両立しない。僕の場合は。

自分も年齢を重ねてきて、今回、ヴォーカルの録音をする中で、やはり少し年齢というものを感じた。それは別に、高い音域が出なくなったとか、声が老けたということではなく、ひとつには単純に声の深みが増した部分、これはどちらかというと、表現の幅が広がることであり、良いことだ。そしてもうひとつは、ヴィブラートの部分、ヴィブラートは、下手であるけれども、歳を重ねることで、やはり日本人ならではの、少し演歌や歌謡曲を感じさせるヴィブラートが自然にかかるようになってきた。ここは、やはりDNAの部分でごまかせないところではある(笑) 今回、特に、体調やノドの状態が悪く、そういった「嗄れた」声で歌ったことで、余計にその部分が強調されたかもしれない。つまりは、演歌というか、これは僕は、自分のヘヴィメタルヴォーカリストとしての、一番の指標となる、目標とする声は、「のび太くん」の声優さん(昔のね)だと常々言っているし、それから男性のハードロック、ハイトーンシンガーには皆言えることで、たとえばアースシェイカーのMarcyなんかも、近年のマーシーは、次第に、まるで「水前寺清子」のような声になってきているし、「枯れ具合」として演歌歌手のような渋みや貫禄が出てきている。日本人のルーツと、性別を超えたところの声の表現として、日本人男性ハイトーンロックシンガーの究極は「水前寺清子」なのかもしれない、と僕も時々思うのだけれど、なんだか僕も少しだけそっちの方向に近づいてきたかもしれない(笑) かといって、素っ頓狂な高音の表現はまだまだ可能だ。

結局また長い文章になった。

No(3987)

■…2014年 5月26日 (Tue)…….リードヴォーカルは完了
作業を通じて連日のように吐き出すような日記の文章を。
まがりなりにもこれで全12曲のリードヴォーカルのパートの録音が終わったわけだ。
(あと1曲、ヒップホップの曲をボーナス的に追加するとかいうアイディアがあるけれど、それはまた後で考えよう。)
コーラスというのかハーモニーパートが残っているけれど、これは、リードヴォーカルのパートをじっくり聴いて、どこにどう加えるかよく考えてから、またゆっくりやっつける。コーラスパートは比較的簡単だし、わざわざスタジオいかなくても家でハンドマイクでできる箇所もあるし、一日か二日あれば軽くやっつけられるはずだ。

というわけで一応、リードヴォーカルは終わったわけだけれど、今回は本当に苦労したヴォーカル録音だった。体調の不良や、無茶な作業スケジュールのせいももちろんあったけれど、一日休んで行った本日の作業は、体調も、ノドの調子も、決して悪くなかった。だけれど、気持ちの上では、もう限界といったところだった。
結局のところ、精神的な部分、精神的なプレッシャー、霊的なもの、霊的な戦い、それから、決して言葉にして書けないけれど、あらゆる部分での霊的、スピリット的な戦い、つらい部分、苦しい部分、そういったものが、いちばん今自分にとって、「歌う」「声を出す」「奏でる」そして「生きる」ということに。そのあたりはやはりはっきりと言葉にすることができない。本当に苦しいときというのは、祈ることすらできない。できるのは「うめく」ことだけ。そして「おおジーザス」「おお神よ」と、助けを求めるようにつぶやくことだけ。考えてみれば、僕もそういう状態がずいぶん長いこと続いているのかもしれない。

録音作業を始め、歌おうとするとき、毎回、毎日のように、「声が出ない」「もう歌えない」「自分に歌えるわけがない」「こんなことできるわけがない」「もう歌うことなんてやめてしまおう」「もう音楽なんてやめてしまおう」、本当にそう思うのだ。「歌いたくない」そう思う。けれども、そこからなんとか声を絞り出していって、今回、本当になんとかリードヴォーカルの録音を終えた。大袈裟に聞こえるかもしれないが、自分にとっては今回のヴォーカルパートの録音はそういう種類の経験だった。

とにもかくにも「大ボス」であるところの、いちばん難しい曲、”Heaven’s Gate”というタイトルの曲を、歌い切った。点がふたつ?つくところのAの音もぎゃーっと出してきた。4、5回叫んで、適当なテイクを選んだが、今回スタジオで貸し出されたマイクが、なぜだか予約したのとちがい、パッドのついていないNT-1Aだったこともあり、声量の急激な変化による「謎のクリップ現象」を避けようとするあまり、マイクとの距離感が合わずに、いちばん良いシャウトのテイクを却下せざるを得なかった。ううむ。と、これはただの愚痴というか文句だ。このHeaven’s Gateという曲は、まあ、あいかわらず下手っぴでひどい歌唱かもしれないけれど、そうはいっても、メロディも、リズムも、音域も、シャウトも、表現も、使い分けた声の種類も、演じることや語ることも含めた表現の幅の意味でも、たぶん自分の、歌い手というのかシンガー、ハードロックシンガーのはしくれとしての、集大成というのか、今までの技術と表現を集約したひとつの自分にとっての頂点になることは間違いない。たぶん。と、思う。おそらく。願わくば。まだミックスもしてないし、コーラスパートもつけなきゃいけないが、リードヴォーカルを歌い終わって、この曲を歌いきったことに、とても誇りと達成感を感じる。つらい状態の中での作業だったから、本当に最小限のテイクですませたんだけれどね。

最後の一曲は予定外のことが起こった。
例の、無伴奏タッピングのギターから入る曲だ。
この無伴奏ギターイントロのタッピングも、録音の前日に急に予定を変えてこの形になったのだけれど、
リードヴォーカルに関しても、それが起きた。
つまり、”Heaven’s Gate”を歌い切った時点で、「もう無理」「もう限界」「もう歌えない」という状態になり、でもね、最後の一曲だし、いいじゃない。もうつっぱらなくても。
そう思ったときに、思い出した。
もともと、この曲は、オクターブ下の低い声で歌う予定だった。
少なくとも、最初にこの曲を書いて、歌詞ができたとき、僕はオクターブ下のキーで歌う予定だった。
けれども、バンドで合わせてみると、やはり低いキーでは音が通らない。
そこで、スタジオで演奏しながら、自然にオクターブ上で歌うようになった。
一応、ハードロックシンガーのはしくれですから、歌えるんだよ、オクターブ上でも。
でもね、もう歌えない。限界。
ハイトーンは、少なくとも僕にとっては、あたりまえに出るというものじゃないんだよ。
気力、体力、精神力、集中力、なんだろう、マジックポイントみたいなもの、
それが切れたら、もう出ない。
いいじゃない。他の11曲は立派に歌い切ったのだから。
だから、思い出した。もともと、オクターブ下で、気持ちをこめてやさしく歌う曲だったということを。
ライヴで通して、3テイク、低いキーで語るように歌って、
それでおしまい。
それが今回のヴォーカルのラストテイク。
でも、これでよかったと思う。
結果的に、この作品というのかアルバムの中で、
今まででもっとも高い音域のシャウトから、
やさしくcroon(ささやく)する楽曲まで、幅広く表現できた。
また、この曲をオクターブ下で歌ったのは、
たとえ高い音域が出なくても、また将来的に出なくなっても、表現できることがある、伝えられるものがある、歌える曲がある、ということを意図したかったのだ。
技術や能力がなかったとしても、伝えられるということを。

今、心に誓っていることがある。
それは、次の作品のヴォーカルパートのメロディは、絶対にもっと簡単なものにする、ということだ(笑)
今回の作品は、楽曲自体も、自由奔放に作曲してしまい、難しく、またヴォーカルのメロディも非常に音域が幅広く、メロディも難しく、とにかく難しくなってしまっていた。
次は、こんなに難しいものにはしない。
したくない。
もうこんなに辛い思いをして録音なんかしたくないからだ。

ハードロック、ヘヴィメタルだから、ハイトーンを使わないわけにはいかないけれど、
使ったとしても、見せ場のシャウトの一音、二音だけ、とか、そういう定石というか、オーソドックスな手法にする。

そんな感じ。
でもがんばった。
おおよそ、体調が悪く、声もしゃがれ声というのか、嗄れた状態でレコーディングせざるを得なかった曲がいくつもあるけれど、
でも、聴いてみると、それはむしろ福音というか救いだったのかもしれない。
良くも悪くも、細く幼い声である自分のヴォーカルが、そのせいで、少しばかり大人びて、というか、少しは歳をとって聞こえるようになった。
いつも5歳児くらいの声だったけれど、今回は、曲によっては、やっと二十代前半の青年くらいにはなっているかもしれない(笑)

やることはたくさんある。
とりあえず、今週は、バンドのリハもあるけれど、今月の生活の帳尻をあわせるために、もうちょっと働きます(笑)。

でも週末5/31には、ソルフェイのライヴがあるね。ベース弾くよ。
町田Nutty’s、出番は8:30PMくらいの模様。
ソルフェイに参加しての初ステージとなります。
よろしくです。

No(3997)

■…2014年 5月28日 (Thu)…….守り
先週、リードヴォーカルの録音をしていたが、体調の悪さ、精神的なプレッシャー、霊的な事情のあれこれ、などで、声が思うように出ず苦戦し、一人、スタジオに入ると、ウォーミングアップをしながら、毎日のように嫁さんに電話し、「全然声が出ない」「もうだめかも」「もう死にたい」とか言っていた。いや、本当に冗談ではなく苦しかったのだ。それに対して、当然、嫁さんは、平凡な言葉ながらも健気に励ましてくれるわけだが、それは、傍から見れば、とても頼りなく、とてもはかないものに見えるかもしれない。実際、僕もそう思った。無名のインディーズミュージシャンの、人知れず制作している、無名の作品だ。けれども、リードヴォーカルのパートを無事録り終わって、考えてみると、ふと思った。たとえば、往年のロックスターたち、往年のビッグネームのシンガー、ミュージシャン、彼らは、どうだっただろうか、と。一人で立ち向かわなくてはいけない、孤独な戦い、そこに向き合うとき、このように励ましてくれる人はいただろうかと。いたかもしれないが、それはここまで心強いものだっただろうかと。思うのだ。スタジオの中から、嫁さんに電話して弱音を吐いていた自分ではあるが、そこに嫁さんが些細ながら健気な応援をしてくれたとして、そこには実際には、神や天国の天使たちの愛と守りがあったのではないだろうかと。もちろん想像に過ぎないが、もしそうであれば、それはどんなビッグネームやビッグスターが、大きな会社や予算や組織のバックアップがあるよりも、はるかに強い力で守られているのではあるまいか。そして、自分が選んだインディペンデントな音楽の道とは、そういうことなのではあるまいか。そう、僕はそういったものを信じるのにやぶさかではない。仮にもクリスチャンミュージックを神に捧げるためにやっているのだ。そして、そのように神に感謝をするのであれば、実際に関わってくれる人たち、関わってくれた人たち、支えてくれた人たち、に感謝をすることももちろん忘れていないつもりだ。それを世間的にうまく表現できるかどうかは別にしても。

No(4001)

■…2014年 5月28日 (Thu)…….プロフェッショナル
先週、ヴォーカルの録音をやって、果たして自分はいつまで歌うこと、演奏することができるだろうか、と、ふと考えて、思ったことだ。
たとえば、陸上競技の選手は、生涯にわたって100メートルを10秒で走り抜けることができるわけではない。
野球のピッチャーも、50歳を超えても150キロの速球を投げられるというわけではない。
スポーツ選手の競技者生命は短いし、それはミュージシャンにも似たようなことはいえる。
シンガーはどうだろう。シンガー、オペラ歌手にしても、ロックシンガーにしても、少なくともスポーツ選手の選手生命よりは、長く歌えるかもしれない。
けれども、ロバート・プラントにしても、歳をとっても若い頃のような強烈なハイトーンで歌えるというわけではない。
たとえば宇宙飛行士にしたって、毎日のように宇宙に出かけているわけではない。
また、毎年のように宇宙に出かけているわけでもないだろう。
たとえば登山家であれば、毎週エベレストに登頂しているわけではない。
毎日のように何千メートルの山に登っているわけではないだろう。
けれども、人々は、そのスポーツ選手の功績を讃え、たとえばサインを欲しがったりするし、
登山家の功績をたたえ、宇宙飛行士の功績をたたえ、また、往年のロックシンガーにも敬意を表して讃えコンサートを見に行く。
それは、彼らが本当のプロフェッショナルだからだと思う。
人にはできないことを、彼らが成し遂げるからだろう。
たとえば、登山家は、毎日、毎週のように山に登るわけではないだろう。
登山家が、世界でもっとも高く、世界でもっとも困難な山に登り、登頂するのは、人生であるいは一度、あるいは数回だけかもしれない。
年に一度しか出勤しない人を、おそらく普通の職場では、プロとは呼ばない。
けれども、彼らが、その登山家が、たとえその最高峰に登るのが生涯で一度だけだったとしても、彼らが、そこに至るまでの生涯の間、ずっとそのことを考え続けていたとしたらどうだろう。
その山に登ることを、その高い山にいかにして登るかということを、ずっと生涯にわたって考え続けて、そのために生きてきたとしたらどうだろう。
それは、年に一度のパートタイマーではない。
それは、すでに運命と呼べる種類のものだ。
そして、本当のプロフェッショナルとは、そういうことではないかと思うのだ。
人にはできない何かを成し遂げるというのは、そういうことではないかと思うのだ。
42.195kmを、毎日のように走るマラソン選手はいない。たぶん。
けれども、マラソン選手は、42.195kmをいかに走るか、おそらく毎日考えている。
ひるがえって、僕らのヒーローである日本最強のロッカー、すでに故人であるbloodthirsty butchers吉村秀樹氏はどうだっただろうか。
現代に生きたミュージシャンの彼は、一万人のコンサートをやっていたわけではない。
大規模な世界ツアーをやっていたわけでもない。
毎日のようにコンサートをやっていたわけでもないだろう。
けれども、彼は、世界一のロッカーになるために、日々考え続けていたに違いない。
あるいは、世界一のロッカーになるために、日々何も考えなかったかもしれない。
けれども、人間が何かを成し遂げるということは、真のプロフェッショナルとして日々を生きることは、そういうことではないかと思うのだ。

No(4002)

■…2014年 5月29日 (Fri)…….アンドレ
なぜだか思い出すのだよ。
もう今から10年以上前のこと。
いや下手をすると、もう15年にもなるのだろうか。
うちの嫁さんの二十歳の誕生日を祝うために、
僕は彼女の生まれた年に作られたワインを買い求めた。
それは夏の終わりのことで、
僕の実家でささやかなパーティーをやったのだと記憶している。
僕は大学の夏休み期間で実家に戻っており、
それは彼女も同じことだった。
高校を出てから、いろいろな事情と状況で、
しばらく彼女はうちを訪れることができない状況のときがあったが、
その頃、少なくとも僕の方の実家では、
自分と彼女が交際していることについては認められ許されるようになっていたのだ。
果たして彼女の生まれたそのちょうどの年のワインを買うことができたのかどうかは正確には覚えていないが、実家のある地方都市の、それでもワインの品揃えの豊富な店を僕は探し出して、買い求めてきたことは覚えている。
それはささやかな記憶かもしれない。
けれども、僕はこうして、自分の大事な人の二十歳の誕生日を祝ってあげることができたことを本当に誇りに思っているし、ふとしたときにそれを思い出すと、それはなんだか幸福な思い出なのだ。
もちろん、人生は楽しいことばかりではないし、確かにつらく苦しい時というものもあった。
けれども、天国に持っていける記憶というのは、こういう種類のものではないかと思うときがある。
おかしなことだが、そうした些細なことばかり、ふとしたときに思い出してしまうのだ。
嫁さんとはずいぶんいろいろな旅路を一緒に歩いてきた。
お互いに犠牲にしてきたもの、なくしてきたものもいろいろあるだろう。
けれども、彼女がそれにふさわしい女性であったかと問われれば、まちがいなく自分の人生を捧げる価値がある人であったと、僕は誇りと共に言えるだろう。
ふふ、こんなことを言い出すようでは私も先が長くないぞ、アンドレ。

No(4006)

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