2015年2月の日記

■…2015年 2月 1日 (Sun)…….殉教2015
世の中にはいろんな出来事があり、いろんなニュースもあればいろんな意見もありますが、自分は一応クリスチャンでありますので、日本では少数派であるキリスト教徒のはしくれとしては、同じくキリスト教徒であったジャーナリストの後藤氏にRIPを捧げたいと思いポストします。まあクリスチャンタイムラインの一環です。

バンドページにそういうメッセージを書こうと思っていたその矢先、部屋の隅に重ねておいてあった嫁さんの聖書がぱたんと落ちまして、なんや読めっちゅーことかと思い開いたら歴代史1の17章が開きました。なのでそこを引用します。

どんな意味なのかわかりませんが、僕らはみんないつか死ぬけれど、神は決して敗北することはない。キリストの栄光は決して取り去られることはない、というような意味かなあ、と。

あとはやはりピリピ1:21、ヨハネ福音書11:25あたりも引用しておきたいところです。

1歴代史 17:11-14 (新改訳)
11 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちのもとに行くようになるなら、わたしは、あなたの息子の中から、あなたの世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。
12 彼はわたしのために一つの家を建て、わたしはその王座をとこしえまでも堅く立てる。
13 わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。わたしはわたしの恵みをあなたの先にいた者から取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。
14 わたしは、彼をわたしの家とわたしの王国の中に、とこしえまでも立たせる。彼の王座は、とこしえまでも堅く立つ。

引用以上。

すごく不謹慎ですが、今回の事件でひとつ救いだったのは、画面に映る後藤氏が、まあ僕はテレビも見ませんし、動画など見る気もしませんが、ニュースで出回る後藤氏の画像が、どれもすごく男前であったということだと思います。

報道でもなんだか英雄視された報道の仕方をされている後藤氏だけでなく、殺害されたもう一人の方である湯川氏の命も同様に重いのであり、クリスチャンであるかないかに関係がなく、殺害された二人の方の魂が神の愛の内にあることを祈ります。

テレビ的、あるいは報道的に、画面映りが良いことは罪でもありますが、今回の件に限り、それは悪いことではなかったのではないかと思います。それはやはり人間の顔というものは何千の言葉以上に多くのことを語るからです。覆面をして顔を隠したテロリストの画像にくらべ、後藤氏の男前な顔は多くのことを語っていたように思います。何かを語るというのは、人の生涯において、その行動や、仕事や、背中や、そういったもので語るのが唯一確かなのではなかろうかと、改めて思う次第です。

そして、人は遅かれ早かれ誰もが死ぬものである以上、最近は世相としても、また私個人も、とくに死というものを身近に感じますので、自分の死ぬときに、どのような顔をして死ねるだろうかと、思いを馳せる次第です。

May Jesus be with you.
In eternity.

No(4339)

■…2015年 2月 4日 (Wed)…….楽器店
そういえば最近サウンドハウスを利用してないんですね。
(まあ、そういろいろ機材とか買ったりすることも今更ないんだけれど)

スケートボードの道具とか買うときに、恥ずかしながら僕はデッキとかでもパーツでも、実店舗というかお店に足を運んで買ったことって、数えるくらいしかないんですね。ネット通販で済んじゃうというか、ネット通販の方が値段も安けりゃ選択肢も多いみたいな。

で、その中でもメジャーなお店とか有名店がいくつかあって、その中で、デッキはここ、とか、パーツはここ、とか、だいたい決めて買っていたんだけれど、
先日、楽天とかに出店してる、どうもそういう有名店とは違うようなお店で、ツボを得た品揃えのところを見つけて、値段もお買い得で、次からそこにしようかな、って思っているところなんですが。

それと同じ流れで、そういえば最近、サウンドハウスを利用してないな、ってはたと気付いて。
サウンドハウスといえば、有名店で、昔からある安売りの定番のお店で、老舗って言っていいくらいの?言い過ぎか?

でも、最近というか、ここ何年か、利用した記憶がないのは、それは、他のお店とか、他の大手のお店も含めて、サウンドハウスに負けないくらいの品揃えやネット通販やお買い得感を打ち出してきたからか。

そして先日も一度、利用したんですが、それほど有名店でも大手でもない、よくわからない地方のお店とかで、とてもお買い得な値段や、ちょっと興味をひく品揃えのお店がいくつも出て来ていたりする。そういうお店は、決してウェブサイトのデザインも洗練されているわけじゃなかったりしますが、なんか、それぞれがそれぞれのことをやっていて、妙な勢いを感じる。

たとえば、新潟にあるらしい?このお店ですが、まあよく見るとずいぶん昔からある、それこそ「老舗」のようですが、ひとつひとつ見てみると、海外の新進ギターメーカーにいちはやく手をつけて日本で販売しているようで、やるなあ、という感じがします。
こちら

ていうか、老舗、という言葉を書いて気付いたんですが、
いつからサウンドハウス、「老舗」みたいになったよ。老舗っていうか、定番っていうか。

俺が最初にサウンドハウスで買い物をした時は・・・
思い出してみよう。
俺が最初にサウンドハウスで何かを買ったのはいつのことだったか。

思い出して愕然とした。
俺が最初にサウンドハウスで通販をしたとき、
それは、「インターネット通販」ですらなかったのではないか。

そう、サウンドハウスがいつからあるのか知らないが、
その、1990年代の終わり頃に、僕が初めて宅録に手を染めた時。
サウンドハウスって、
「サンレコ誌の最後の方に広告がいっぱいのってるちょっとあやしい通販のお店」
じゃなかったっけ!!??

でも、やたら安いのと、安くても使える商品をうまくアピールしていたので、
当時、個人で宅録していた人たちがみんなお世話になったんじゃなかったっけ?
(そう、Rode NT1とかのマイクが普及したのもその頃。普及させたのはサウンドハウス。)

それが、インターネットの時代になり、
ネット通販があたりまえになり、
楽器をネット通販で買うことももはや普通になり、
いつのまにか定番みたいなお店になっていた!!??

そう、僕は初めてサウンドハウスで注文したとき(実家にまだインターネットというものがなかったのもあり)、実になんと、電話で注文したのだ。(びっくり。愕然)

そう思うと、実にその後、インターネット時代になり、より総合的な楽器や機材の販売をするようになって、実に長い間、サウンドハウスは、「実店舗に行ったことはほとんどないけれどみんなお世話になっている楽器店」として君臨してきたに違いない。

けれども、その王座も、永遠ではない。

また違った形の、新たな勢力が現れ、消費者の状況が変わり、また別のパラダイムシフトが起こるに、ちがいない、ない、ない、い、ぃ、ぃ、ぃ。(アナログディレイをデスクトップ上で精密に再現した、アナログのあたたかみとデジタルの柔軟性を併せ持つディレイプラグイン)

そしてそれは、音楽(バンド、ミュージシャン)の世界でも、商売の世界でも、ひいてはスケートボードの世界でも、同じだと思うのだ。

そしてそのさきほどの新潟のお店のウェブサイトですが、
海外の楽器ウェブサイトから、Lipe Guitarsってのを辿ってきたらたどり着いたのですよ。
で、動画見ると、このLipe Guitars、なかなか良いね。もともとアイバニーズでマスタービルダーをやっていた人だと書いてありますが

先だって、NAMM showには僕の理想の楽器はないかもしれない、と書きましたが、
でもやっぱりこういうギターもあるわけで、やっぱり凄い楽器はいっぱいありますね。あたりまえですが。

しかしけれども、なんだろう、基本的にこのLipe Guitarsもみんなボルトオンの、コンポーネント系というのかスーパーストラトだし、セットネックのギターで、本当に良いと言えるものを探すのは、本当に本当に難しいんだろう、なあ、と実感しつつ。

Deviser/Bacchusさんが作ってくれるようなものはやっぱりないかもしれない、と思うので(いや、それでもあれか、Heritageとかあるだろうけれど)、やはり前言は撤回しないのです。

No(4340)

■…2015年 2月 6日 (Fri)…….skate strategy
今月はスケートの撮影をしようと思っているんです。1年半くらい前にYTにアップした「スケート始めて10ケ月」のビデオが一万ビュー超えてしまい、もうちっと上達した映像をアップしたいので。(そりゃ、まだ全然下手だけどね。)
で、先日インスタに写真上げたんですが、撮影用に赤いブランクデッキを買いました。

何故かというと歌詞の中に「My red deck (俺の赤いデッキ)」という箇所があるからです。つまりスケートフッテージを使ってImari Tonesの楽曲”Born To Ride”のビデオを作ろうということです。11月のエクストリームツアージャパンの際に使っていたムラサキスポーツ製の赤いデッキは友人にあげてしまったので。で、久しぶりにSDS社製のブランクデッキを入手しました。

僕はブランド製デッキはCliche、Almost、Darkstarしか使ったことがなく(どれもDwindle Distribution社の製品)、このSDSのブランクは初心者だった最初の一年に3枚使いました。
当時、まだ初心者だった僕は(今でもまだ初心者に毛が生えた程度ですが)、デッキの違いや良し悪しなどまったくわかりませんでしたが、それでもこのSDSのデッキについて、ひとつだけ当時からわかったことがありました。

それは、音がいい、ということです。
僕は、ミュージシャンのはしくれであるので、この「音」に関してはすぐにわかったというところです。Dwindle社の一般的なブランドデッキにくらべて、デッキをはじいた時の音が、若干音程が高く、また乾いた音がする、という違いがありました。そして、音が違う、ということは乗り心地も同様に違う、ということでもあります。そして僕はこのSDSブランクの乗り心地が、けっこう好きでした。

そんなSDSのブランクデッキでしたが、ひさしぶりに使ってみると、多少なりとも、もう少し、トリックのしやすさなど、違いに気付くことができました。
スケートボードのデッキに関しても、サイズや形状などの情報は、実際のところ、ネットを見てもほとんど書いてないんですが。(これってすごいというかある意味異常なことだと思います。スケートのパフォーマンスに影響する形状やサイズの情報がほとんど提示されておらず、ほとんどスケーターたちは、ブランドやデザインなどでデッキを選んでいる、という現状を表しているからです。)

それは、ここ2ヶ月ほど使っていたDarkstarのデッキにくらべて、SDSデッキはどうやら、「ホイールベースが長い」ということです。それはたぶん、ノーズやテールが若干短い、という意味でもあると思います。そして、そのせいもあるかもしれませんが、SDSデッキはキックもわりと強めに思えます。

Darkstarのデッキは、わりあいにコンケーブも深いタイプのようですが、SDSデッキはそんなに見た目にはコンケーブがきついという感じはしない。けれども、形状の問題か、ゆるやかながらコンケーブはしっかりついているので、その点に関してのフリックのまわしにくいとかはなく、むしろ回しやすい感じです。キックの強さとも関係があるのかもしれません。

で、ホイールベースが長く、テールが短い?ということは、どうやら反応が重い、ということであるようです。テールをはじいてオーリするにも、ちょっとしっかりはじかないと、はじいてくれない、ということだと思います。実際に、トリックを決めるときの操作感はちょっと重い感じがします。

これはSDSデッキの不幸な点でして、つまり、実際にデッキの重さを計量してみると、グリップテープを張った状態で、体重計でおおざっぱに測っただけですが、むしろClicheやDarkstarのデッキよりも、若干SDSの方が軽いようです。しかし、若干あつぼったい作りなので、イメージで重く感じてしまう。そして、実際に操作感は重いということです。

そんなわけでひさしぶりのSDSブランクで試運転をしてみた今日は若干てこずったんですが、
けれどもわかったのは、操作は若干重いけれども、しっかりはじいたときにはばっちり反応してくれるし、トリックも、ハードルは上がるけれど、ちゃんと決まれば、むしろきれいに決まってくれる、ということです。
つまり、オーリーでも、ちゃんとはじかないと上がってくれないけど、ちゃんとはじけば、最高に上がってくれる、ということです。

これは、今回ちょっと撮影しようと思っているので欲しい絵は、
がんばってトライして失敗している数回の映像と、ばっちりきれいに決まっているたった一回の映像だけなので、その一回がきれいにきまるという意味では、悪くないところです。

ちなみにオーリーでもなんでもそうですが、はじく、ということに対して、最近やっとわかったのは、あたりまえのことですが、空手などでパンチを繰り出すにも、拳を突き出して、出しっ放し、にするよりも、当たった瞬間に拳を引いた方が、なんか強そうなイメージがありますが、スケートボードのポップに関してはまさにそれが当てはまるようです。ぱちんとはじいて、しゅっと足をあげてやれば、そのぶんポップもぱしっと決まるようであります。まあこんなことはうまい人なら最初の日にわかることだとは思いますが。

来週にはバンドの写真撮影も予定しているので、この赤いブランクデッキを使うのはそれも含めて撮影用の都合という事情がありますが、けれどもこの「ちょっとハードルの高いSDSデッキ」でやってみようかと思っている次第です。もしうまくいかなかったらDarkstarに戻せばいいだけですから。

さて撮影をしようと思っているのでそのための戦略です。

この数ヶ月で、上手くなった部分もあれば、たいして進歩していない部分もあります。

正直に告白すれば自分は臆病な方です。
それは、精神的に度胸がないというのとは別で、肉体的なアクションに対して、安全装置がしっかりかかっている、という意味においてです。
だから自分がフラットグラウンドでトリックを決めることに夢中になっているけれど、ランプをがーっと滑るのは苦手であるのはそういう理由です。子供の頃からやっていれば少しは違うんでしょうけれど。

なので自分にとってスケートボードはその「自分の中にある安全装置」を少しずつ外していく作業でもあります。というよりは、その作業に他なりません。
ギターの速弾きでもそうですが、本当は人間は、できる能力があります。スピードや、アクションに、対応できる能力があるんです。でも、すぐにそれができないのは、安全装置がはたらくから。ギターの速弾きで大けがをすることはまずないと思いますが、それでもいろんな理由でやはり安全装置がはたらきます。
なので怪我をする可能性の高いスケートボードにおいて安全装置がはたらくのは至極あたりまえのことです。

自分は歳をとってからスケートを始めたこともあり、また自分の性格や不器用さなども鑑みて、その安全装置と、ゆっくり付き合っていきたいと考えています。そのわりにフラットトリックの習得は早いですが、それでも、ゆっくり少しずつ、です。フラットトリックに向いていたのは、不器用の裏側にある器用さの故です。

なので、今回の撮影も、とろとろとスロースピードで、ほとんど静止状態でトリックを繰り出すだけでいいなと考えています。実のところ自分はいい感じのスピードで走りながらトリックを繰り出すことは少ない。よほど気持ちの準備ができていて、タイミングが合った時だけです。

まあそんな感じですが、以下のトリックを使って作戦を立てています。

まずはキックフリップ(Kickflip)とビッグスピン(B/S Bigspin)です。
これは、その自分たちのバンドの曲”Born To Ride”の歌詞に、キックフリップとビッグスピンが出てくるからです。なのでどうしても必須です。

この曲の歌詞を書いたのは、まだスケート始めて2ヶ月とか3ヶ月とかそれくらいの初心者の頃ですが、スケートボードの技の中で、歌詞として言葉のひびきがかっこいいトリックを選んで、歌詞に織り込んでみたというだけのことです。

しかしおかげさまで今ではどちらの技もできるようになりました。
キックフリップはスケート始めて7ヶ月半で。ビッグスピンは1年3ヶ月くらいたった頃からなんとなく出来るようになりました。

そして必須なのは目下の必殺技であるインポッシブル(Ollie Impossible)です。
これは、手持ちのトリックでは、一般的に言われる難易度から言うといちばん難しい技です。
しかし、昨年の9月頃に初めて成功して以来、今ではなんだか得意技になってしまいました。正直言って、「初心者に毛が生えた程度」の何をやっても不安定な僕のスケートにおいて、現状でいちばん成功率が高いのは、このオーリーインポッシブルです。たぶんなんか、体とか動きのクセに合ってるんでしょうね。あるいは「不可能」という名前のこの技が、不可能だと言われると逆にやりたくなってしまうという自分の性格に合っているのかもしれません。なので、このスペシャルな必殺技に関しては、絶対に映像に織り込もうと思っています。

次に難しい、難易度の高いトリックはやはりトレフリップ(360kickflip、日本ではサブロクフリップという通称でも呼ばれるらしい)だと思います。
トレに関しては、やはり本当に難しく、昨年の8月の末に成功して以来、出来たり出来なかったりしており、デッキを回す動きが、むしろインポッシブルの方向に行ってしまったことや、ポップが強くなってポップとフリックの兼ね合いがわからなくなってしまったりと、8月、9月といつもできていたのに、10月以降はあまり決まらない技になってしまった。けれども、ポップとフリックの兼ね合いに関して試行錯誤は続けておりましたので、今日も何度かそれっぽく決まっていたし、現状、「がんばればできるかな」という感じの位置にあります。で、俺は、これはぜひカメラの前で決めたいと思っています。それはつまり、以下のフロントフリップや、ベリアルヒールが、若干あやしい状態になっているので、そのぶん、まだ可能性の高いトレに関しては、是が非でも成功させて映像に残したい、と考えているのです。

そのついでとして、「普通のスリーシャヴ」があります。スリーシャヴ、とは、360ショービットのことでありますが、自分は和製英語丸出しの「ショービット」という発音がどうにも恥ずかしく、ショービットのことは「シャヴ」と呼んでいるのですが(覚せい剤みたいに聞こえてしまいますが)、まあ360 Shove-It、3shove、つまりスリーシャヴのことです。

スリーシャヴに関しては、まあ見た目にもインポッシブルと、素人目にはほとんど変わらず、そして、トレを繰り出そうとしてフリックに失敗すると、スリーシャヴになってしまったりするので、実際に、それほど難しいという感じでありません。トレに挑戦しているうちに、失敗してスリーシャヴになってしまうシーンがおそらくあるだろうと。そして、しっかりポップしたスリーシャヴもですが、あまりポップしない、というか純粋に水平に回転したスリーシャヴも、それはそれでありかな、と思っています。それほど難易度の高い技ではないので(in my opinion、僕の意見では。逆のことを言う人もいますね。トレフリップよりもスリーシャヴの方が難しい、という人もたくさんいると思います。)、これも、普通に、成功させたいところです。ただ、見た目に、そんなに派手かどうか、やってみないとわからないので、実際の映像で使うかどうかは、また別問題かと思います。

次にバックサイドフリップです。Backside Kickflip。
これも、自分の中では、わりと得意な技でして、昨年の3月に出来るようになって以来、わりとコンスタントに決めています。
実のところ、タイミングもシビアな技だし、そんなに実際成功率が高いわけではないのですが(よく空振りします)、けれど、なんというか、この技は、自分の中で精神的なハードルが低いんですね。失敗もするけど、タイミングさえ合ってしまえば、いくらでも決まる、というか。なので、気軽にトライして、気軽に成功し、そして気軽に失敗もできる技です。そしてこの技もたぶん自分の体のクセに合っているのだと思います。そしてこの技は、見た目に結構派手なので、人前で決めてもかっこつきますし、映像の中でも華麗に成功させたいところです。

次にフロントフリップ (Frontside Kickflip)なんですが、
これは自分の中ではバックサイドフリップの倍くらい難しい技です。
で、この技も、昨年の8月頃になんとなく何度か成功して以来、何度かは成功させているんですが、それでもよく考えると、10回くらいしか成功していないかもしれません。あるいは15回かもしれませんが、20回は成功していないような気がします。
で、ここ最近、1月中に、何度か良い感じで成功していたんですが、ほとんど心理的な原因で、またちょっと決まらなくなってきました。この技を本当に自分のものにするには、もうちょっと時間が必要なのかもしれません。原因はほとんど心理的なもの、そしてその時の身体の状態とかバランスの状態とか、その時のバイオリズム的な、そういう繊細なやつです。出来る時期と出来ない時期があるんだと思います。
もし出来ない時期にあたってしまえば、今回の撮影は、短期間で済ませるものなので、仕方が無いとしか言えません。今の状態から言うと、今回は、「運良く決まればいいかな」くらいのトリックです。でも、決して「まったく出来ないトリック」ではないので、やはり全力で挑戦はしたいと思っています。

次にベリアルフリップ(バリアルキックフリップ、Varial Kickflip)です。
これも自分の得意技のひとつです。ショービットの時と同じように、「バリアル」というのが英語の発音として間違っているようで恥ずかしいので、どうしても「ベリアル」の方がしっくりきます。
なぜかスケートボードの世界(アメリカだけかもしれませんが)では、「クールじゃない」と言われているいわくつきのトリックですが、何の因果か、僕はこれが得意なんですね。実際、けっこう好きです、ベリアル。で、そんなに難しくない上に、見た目もクールじゃないといいつつも、素人さんというか皆の前で披露すると結構驚いてもらえるトリックだったりします。派手に板が動きますからね。
で、これは得意な方の技なので、カメラの前でも普通に成功させたいし、そして実際に、普通に成功すると思います。

次に、ベリアルヒール、および、フロントサイドヒール、です。
このふたつはセットで説明してもいいと思います。
どちらも、まだ完全にものにはなってません。
昨年の春頃から、ベリアルヒールの練習に取り組んではいるのですが、これがなかなか成功しない。まだスケート歴も2年ちょっとですが、これほど手をつけてから、習得に長い時間がかかっているトリックは初めてです。まあヒールフリップ全般があまり得意ではないので、当然といえば当然かもしれません。僕がヒールフリップが苦手になった理由というか経緯は、知っている人は知っていると思います。昨年の4月のライヴ直前にやってしまったあれが原因です。出血しましたから。たった一発の空振りが原因で、その後もう「ヒールフリップはやりたくない」となってしまいました。
ただベリアルヒールやフロントヒールなど、ヒールのバリエーションには、その危険性はないので、安心して取り組めます。
で、ベリアルヒールと、フロントヒールは、板の動きとしては共通するものなので、セットで取り組んでいたりします。フロントヒールは、先月、1月に、数回成功しました。ただ、これがカメラの前でうまく決まってくれるかどうかは、限りなく別問題です。
またベリアルヒールは、ほとんど成功直前というか、かなり追いつめている状態で、実際に、半乗り、とか、ちょっとごまかして乗る、とかなら、何度かやっています。
ただ自分の中ではまだ「成功」という感じにはなっていません。
追いつめている技で、なおかつ決して不可能ではないので、ちょっと粘ってカメラの前で成功させたいと気持ちでいます。でも、ダメだったらダメで、あきらめようと思います。でも、最悪、半乗りでごまかしている絵くらいだったら、普通に撮れると思うので、その絵をネタとして盛り込むのはアリかな、と思っています。

次に、フロントサイト360でしょうか。(Frontside 360 ollie)、日本での通称は「ヒッピー」という呼び名があるようです。英語でそう言うのかどうかわかりませんが、今のところネットで英語のスケート動画見ていても、聞いたことはありません。
これも、まだ完全に習得したとは言えないトリックです。ただ、数回は、それっぽいのが360度回ったことはあるし、最近では270度はわりとコンスタントに回れるので、十分にチャレンジする射程距離にはあるトリックです。まあ、高さはあまり出ないと思いますが。
実のところ、自分のフロントサイドの180はあまりきれいではなく、軸もぶれており、バランスも悪く高さもない。自分は本当はバックサイドの180の方が得意で、たぶん明らかにバックサイドの方が体に合っており、180でもバックサイドの方がきれいに回るし、高さも出ます。だから、がんばればバックサイドで360回れるかもしれないけれど、どうかな。「きれいに回っているぶん、ごまかしもきかない」という感じなので、やはり勢いとごり押しで回れるフロントサイドで、360に挑戦したいと思っています。

そして、実際、わかってはいるんですが。フロント180の回転の軸が安定している時には、フロントフリップの成功率も上がることを。
わかっていても、出来ないこと、たくさんあります。

めぼしい技としてはそんなところでしょうかね。
あとはもちろん、調子のいい、きれいなオーリーもいくつか収録したいところです。
オーリーはやはり、スケーターのすべてを表すものですからね。
ここ1、2ヶ月、自分のオーリーも、少しはマシになってきました・・・かといって、いつもうまく決まるわけではない。ちゃんとはじかないと反応してくれないこのSDSデッキだとなおさら。でも、がんばります。

ああ、そうだ、あとマニュアルがありましたね。
マニュアル大好きなんですが、
残念ながら自分はまだ、
「オーリーしてマニュアル状態で着地、
そこからさらにマニュアル状態からフリップ技を繰り出す」
とかそういう真似は出来ません。
なので、ひたすら普通にマニュアル。
長距離をマニュアル、長距離をノーズマニュアル。
あるいは、立ったまんまで静止マニュアルを30秒!
とか。
たぶん30秒くらいが自己記録です。
絵的に地味なので、ビデオの中で使い方が難しいですが、
上達の記録としてはありかなあ。
で、最近わかってきたのが、
やっぱりマニュアルは、路面の状態というか、
スケートパークのつるつるの路面の方が、
ウィールを細かく動かせるので、
つるつるの良い路面の方が、マニュアルやりやすいです。
撮影する場所に、そういう良い路面が、あるかどうか。
それがけっこう、カギになりそうです。
まあ、どちらにしても地味な技です。

あとは、小技。
バックサイドノーコンプライくらいはやってもいいかなあ。

めぼしい技はそれくらいですが、
たとえば、小技をからめて、
バックサイド180ノーコンプライから、ハーフキャブ、キックフリップと、小技でひとつのラインをつなぐとか。
同じスタートでB/S180ノーコンプライ、ビッグスピン、ベリアルフリップで板の向きをなおした後にインポッシブルを決める、大技も入るラインとか。
やってみたいところですが、
実のところ、
できない!!!!!

なぜか。

一緒に後を付いてすべって撮影してくれる、いわゆる「フィルマー」が居ないからです。
たとえ、誰かに頼んだり、嫁さんに頼むとか、しても、彼らはスケートができない。
だから、撮影者に一緒に後をついて滑ってもらって、一連のトリックのラインを撮影をする、というのは、今回はできません。

また、それはスケートをやる場所の環境ということもあり、
また、僕がスケーターの友人がほとんど居ないということでもあり、
やたら一人で行動してしまう自分の性格でもあります。

一人寂しく、固定カメラ(せめてものことにフィッシュアイレンズは使って)で、
単発トリックをひたすら撮る、
それだけです。

そしてまた、同様の理由で
レッジやランプの撮影もできないんです。
ひたすら一人でフラットトリックです。

まあ、普段一人で淡々と練習している場所に、
レッジも、ランプも、良い具合のマニュアルパッドの段差も、
なんにもない、ということです(泣)

そしてそういった環境、
物理的な環境だけでなく、
精神的なものもかんがみるに、
自分は、世界をめざして音楽やっている身としては、
外国に行かなければ、という課題は、何年も前からありますが、
いつか自分が、いよいよ外国に行くとすれば、
それは、音楽の理由よりも、
よりスケーターとしての動機や理由の方が
強いのではないかと。
そう、なんとなく今、予感のように思います。

年齢とか、立場とか関係なく。
進歩し続ける、ということは、
人間にとってなによりも大事なことだからです。

さてそんなこんなで、
ここ最近、この「撮影しよう」という計画を意識して、
可能性のある技のみに集中し、
他のもっと広い技、たとえばスイッチ系の技とか、ノーリーの技とか、
ずっとパスしてたんですが、
この撮影が終わったら、また、ノーリー系の技や、いろんな小技、
そして新たにハードフリップとかのまだ手をつけてない技などに、
範囲を広げて挑戦していきたいと思います!

Skate or Die!!!
Ride for Jesus!!!

No(4341)

■…2015年 2月 7日 (Sat)
こちら
これね。Van Halenの2013年の東京ドームの演奏がライヴアルバムとしてリリースされるって。その時から噂はあったよね。ここ数日にネットに噂がリークされてから、VHNDがしばらく無言を貫いていたので、却ってそれを見て、ああこれは本当なんだな、と思ったらやはり本当だった。で、デイヴのヴォーカルなんですが、これ、ずっと前から思ってることで、何度か書いたことあるかもしれないけれど、Dave Lee Rothって、実は歌、うまくなってるのよ。明らかに。年齢を重ねるにつれて。でも彼の場合めずらしいのは、「歌がうまくなった結果、かえって批判されるようになった」ということ。ちゃんとアルバム聴いてるファンならわかると思うんだけれど、デイヴはVH抜けてから、だんだん歌うまくなって、声域も広くなったし、声も響くようになったし、かなりのところまでハイトーンも出るようになった。けれどもその結果、逆に「ひどいヴォーカル」と批判されるようになった(笑)
それはなにかっていうと、そもそも全盛期のVH時代は、デイヴはライヴでほとんど歌ってなかった。歌ってなかった、っていうか、最小限だけ歌って、あとは歌詞をラップしてたり、わめいていただけ、で、サビの部分はマイケル・アンソニーが歌う、っていう。でも、そのわめきたてているのがかっこよかった。
でも、ある程度歌えるようになって、デイヴは、歌うようになってしまい、そして、音域も広がって高い声も出すようになった結果、なんというか、もともと決してきれいとはいえないしゃがれ声なので、そのしゃがれ声が強調されて、「ひどい」と言われるようになった。で、たくさんのファンや、いろんな音楽誌が、「デイヴはもう歌えない。全盛期は過ぎた。若い頃の面影はまったくない。衰えた。」と書いているわけだ。
けれども、上記のとおり、全盛期のデイヴはそもそも歌ってなかったわけで、その批判はまったく的外れなわけです。こういうことを書いているのは昔のことを知らない知識のない評論の証拠。でも、「わめいていただけ」の昔の方がかっこよかったのは事実。
そして、もっと言うと、その昔、70年代や80年代には、ロックコンサートで、シンガーの歌がちょっとくらい音を外していたり、声が出ていなかったりしても、誰も批判などしなかった(と思う)。みんな、そんなことは大した問題じゃない、ということをわかっていた。そしてロックンロールを楽しんでいたはずだ。
21世紀の現代、レコードでは皆、AutoTuneなどで音程を完璧に修正された、人工的に加工された完璧な音源を皆は聴いている。そして、ライヴ演奏ですら、リアルタイムにピッチ修正された歌を、みんなは聴いている。そして、それがあたりまえになってしまった。そして、さらに言えば、コンサートの様子はYouTubeにアップされ、そこでたくさんの人が、パフォーマンスのあら探しをして、批判をするようになってしまった。生の迫力を体験するからこそ良いものを、YouTubeの映像でいちいち皆が批判する。ロックヴォーカルにとっては受難の時代だとはっきり言って思う(セバスチャン・バックがそんなことをインタビューで言っていた気がする)。ロックンロールのライヴで、完璧なヴォーカルを求めるのは、果てしなくお門違いで、たとえばそれは、なんというか、大衆食堂でトンカツ定食を注文しておいて、高級フレンチだかフィレステーキを期待するようなものだと思う。あるいは逆に、表面だけ完璧に加工されたポップミュージックのように、レンジであたためた添加物いっぱいのファストフードを出せば、そのほうが皆、喜ぶのかもしれないが。

No(4342)

■…2015年 2月 8日 (Sun)…….Colors & Sounds
いわゆるモスキート音というものがあると思うんです。
なんか先日、嫁さんが言ってたには17000ヘルツくらいの周波数の音のことを指すらしいですが。
人間に聞こえる周波数は、下は、どのくらいなのかな、50Hz? 20Hz? 一般的なオーディオ機器とかだと下は20Hzくらいまで、とスペックでなっている場合が多いですね。
上は、2万ヘルツくらいが限界ではないかと言われていますよね。
そして、15000ヘルツ以上とか、そういう、高い周波数は、歳を取るごとに聴こえなくなってくる。
なので、モスキート音は、若者だけに聴こえるので、学校で、生徒がモスキート音を使って合図して、先生はそれが聴こえない、というエピソードを、どこかで聞いたことがあります。

俺は、一応、音楽をやっているので、それなりには音について意識は持っています。
なので、17kHzとか、20kHzとかでも、それなりに聴こえるはず。
なんだけれど、そういうテストをしたのも、もうずいぶん昔のことなので。

ほとんどのオーディオを扱うソフト、アプリケーション、波形編集ソフトとかでは、音を発生させる機能というか、ジェネレーターみたいな機能がついてますね。
それで、サイン派で、17000ヘルツの音とか作れるわけです。

この前、嫁さんとそういう話題になって、
「じゃあ、実際に聞いてみようか」となり、
部屋のパソコンと、小さなFostexのスピーカーで、試してみた。

果たしてこの歳になってまだそんな音が聴こえるか、ちょっと心配でしたが、
ありがたいことに高い周波数をまだ聴くことができました。
17000Hzならはっきりと聴こえます。
18000Hzも、ほぼ聴こえる。
20000Hzになると、「聴こえる」って感じじゃないけれど、感じ取ることはできます。なんか、その、圧迫感をね。
まあ、抜き打ちでテストされたら、わからないかもしれないけれど、意識していれば、感じ取ることはできる。
ていうか、うるさいしね、やっぱり。
うわ、これはきついわ、っていう。

でも、そんな「これはうるさい、きつい」っていうくらいの音が流れても、
うちの嫁さんはそれがわからんらしいのですね。
僕にははっきりと聴こえる範囲である17000Hzも、嫁さんはわからないらしい。

もっとも、これは、嫁さん、そのとき、ビールを飲んでましたので、シラフのときにテストしてあげないとちょっとフェアじゃないとは思います。俺だって、酔ってたら聴こえないかもしれないしね。

で、年齢とともに聴こえなくなる、ということなんですが、
これは、個人差もあると思うし、環境とか、意識の問題も大きいと思うんです。

ちょっと外国に行ってみたりとか、あるいは日本でも環境の良い田舎の方に住んでいれば、すぐにわかることだと思いますが、
日本は、特に都市部は、すごく騒音が多い。
そして、そういった騒音とか、音に関して、すごく無頓着です。
なんというか、繁華街とか、パチンコ屋とか、そういうのを例に出すまでもなく。
嫌な感じの音が、商売、という名目のもと、堂々と放置されています。
ちょっと音楽を演奏しようとすると、すぐに苦情言われたり、するのにね(苦笑)
そのへんは環境の良い外国とかだとまったく逆だと思います。

そんな都市部の騒音に囲まれて生活しているので、
人間の、というか、ぼくら日本人の耳は、どんどん鈍感になっていくんだと思います。
品のない騒音に慣れてしまい、そしてどんどん感覚が麻痺していく。
これはたぶん聴覚だけに限った話ではないですね。

そして、この高めの周波数の音ってことで言うと、
ずっと昔から思っていることがあって。
それは、たとえば街を歩いているとき。
都市部のビルの入口とか前とか、特定の場所。
あとは、スーパーで買い物している時。
いつもいくスーパーであれば、そのスーパーの、特定の場所で。
聴こえるんですよ。
ばちばちばち、っていう、かなりうるさい、高周波の音が。

これって、たぶんネズミ対策とか、ゴキブリ対策とか、
そういうので、高周波を発する装置を設置してるんだろうな、
って思っていたんですが、
さきほど、ウィキペディアでモスキート音の項目を見てみたら、
レストランで居座っている客を追い出したり、万引きの防止などの目的にも使われるみたいですね。

やな感じです(笑)

で、かなり大きな音でばちばち言っているにもかかわらず、
皆、そのことについて何も言わないので、
たぶんきっとみんな、気にしてないか、聴こえてないんだろうな、
と思っていたんですが。
そんなこと、友人たちと話題にしたり、しないしね、あまり。

だって、話題にしたら、きっとさ(笑)

で、きっとね、このモスキート音。
ある人にははっきり聴こえて、物理的にもちゃんと証明されている17000Hzという音。

でも、聴こえない人にとってみては、
それは、存在しないものと同じ。

たとえば、数人で集まっていて、
その中で、一人だけ、この17000Hzが聴こえる人が居て、
他の人には聴こえなかったとしたら。

そして、その一人が、その音について言及したとしたら。
きっと、頭がおかしい、って言われますよね、他の人たちから。
ちゃんと、実際に鳴っている音にも関わらず。
きっと全否定される。「お前はおかしいんだ」って(笑)

そういうことって、たくさん世の中にあると、思います。きっと。

なにはともあれ、
この歳で、まだ、上の方が聴こえていたのは、嬉しいことですが、
そのうち僕にも、17000Hzが聴こえなくなる日が来るかもしれません。

想像すると、ちょっと嫌だ、
なぜって、それはちょうど、モノクロの世界に住んでいるみたいじゃない。
(そういうことです。音って。音楽って。)

でも、そうなった時に、
自分にどんな音が、果たして鳴らせるか、
ちょっと今から、思いを馳せる次第です。

犬とか猫とか、イルカとか、
もっと高い周波数の音、いわゆる超音波が、聴こえるって言われるけれど、
そう思えば、まあしょせん人間の感覚なんてずいぶん鈍いものなんでしょうけれど。

老人になったら、モノクロの音しか聴こえなくなるのかもしれないけれど、いつか死んで、天国行ったら、もっといろんな周波数の、もっともっと色鮮やかな、音楽が、聴けるんじゃないかと期待しています。

No(4343)

■…2015年 2月 9日 (Mon)…….解き明かし2015
いや解き明かしをやろうかなと。
解き明かし。説き明かし。

疲れてる人は読まなくていいです。
この人、変わってるな、って思ってくれたら幸い(さいわい)。
読んでつらくなったら申し訳ない。
極力、読まないことを推奨。
もしも必要な人がいるかもしれないから、
アップしているだけだから。

なぜって、本当につらいからね。

最近またつらいですね。
いや、もうここ数年ずっとつらかったし、
もっと言えばもっともっと前からつらかったけれど、

でもある意味そのつらさがだんだんとクライマックスに
近づいていくことは、
運命のショウダウン、
結末と終わりに近づくことなのだから、
それはそれで悪くはないかなあ、なんて思っています。
宿題をやりおえたら神の国へ帰るだけ。
みんなそうだろ。

先日、スケートしようと自転車に乗って走っているとき、
ふとまた神さんの手が触れまして、
スケートしながら、またいろいろと「解き明かし」がダウンロードされてきた。

けっこう膨大な量なので、ダウンロードされたデータを開いて見てみるだけでも、
けっこうしんどくて、疲れるので、数日放っておいたけれど、
そのまま放っておくと余計に負担になって、そのうち殺されるので、
がんばって開いてみます。

ここまで生きてきたけれど、
まあそれでも、全部ではないにせよ、まだまだごく一部だけにせよ、
自分が何者であるか、
そしてこの世界で何をするためにここにいるのか、
自分と世界について、
ここまでの解き明かしがあったことは、
今までになかったので、
まあ今までの中ではいちばん深い解き明かしであったということです。

そしてねこういうことを書くと、
変な人だと思われるし、
いろいろな問題につっこんで書くと、友達なくしたりするし、
またとにもかくにもおかしなやつだと思われるので、
本当は書きたくないんです。
でも書かないでいると余計にひどいことになるからね。

そして、たぶんおかしな変人だと思われるし、
現在でも現状で現在進行形で僕はたいていにおいては
おかしな変人だと思われていると思うし、
僕はそれでいいと思う。

そして本当のことを言えば、
これからもずっと、そのおかしな変人だと思われたままで生涯を終えたい。
だって怖いもの。
理解されるということは。

その意味では僕は一生無名のミュージシャンで構わないんです。
大事なことは、もうちょっと別のところにあったりしますから。

だからこの文章も、FBにも上げないと思うし、あるいは敢えて上げるかもしれないけれど、
おそらくはいちばん見ている人の少ない、ウェブサイトの日本語cgi日記にいつものようにひっそりアップして残しておくのが筋だと思うの。

自分が何者であるか。
まあ人間なんてのは、自分自身がいちばん、自分のことをわかってないのが常ですが、
それでもなるべく説き明かし、現時点での最新バージョンの説き明かしを。
そして、それでも結局最後のところは、自分が何者であるかの答えは言わないのだと思います。

table of contents、
目次ってやつを書いてみましょうか。
議題、アジェンダ、です。

聖書(四次元)について
なぜ戦争が起こるのか
戦争なんてものは既に始まっている件
イスラム国と呼ばれるテロリスト組織のこと
インディーズミュージシャンとテロリスト
ジャーナリズムとポルノ
なぜ音楽をやっているのか: 政治と音楽と私
政治とスポーツと下水道について
日本という国、その事情
すでに終わった世界における成功とは
なぜ神は人類にロックンロールを与えたのか
勝利とは何か
誰が味方で、誰が敵なのか
ままごととリアル
創造力、親方と弟子
世界一元気な病人と、現在書いている預言書

さて、うまく情報を拾って文字に起こすことができるかな。
ダイヴします。内面に。
ダイヴーー!!!

[聖書(四次元)について]

はじめに言葉があった、って
有名な言葉ですね。
新約聖書の、ヨハネの福音書の最初のところにあるやつね。

俺はクリスチャンだけれども、聖書をばっちり暗記したりするほど熟読はしてないよ。登場人物の名前もみんな覚えてるってわけじゃない。
音楽を聴いて、そこから情報を得る方が僕には速いからね。

なぜだか最初に聖書の話をすることになっちゃった。

俺はねクリスチャンになるずっと前のことだけれど、
神の存在について考えたことがあった。
それは別に科学的とか物理的な証明でもなく、論理的な論証でもなく、
神学的や学術的な検証でもなく、
自分の霊感と生きてきた中での実感と体験から考えたものだった。

で、俺が思うには、
「神は存在しない!」
って宣言することそのものが、
神が存在することの証明になるのだな、
と気が付いた。

それにはいろんな意味があるんだけれど、
たとえばわかりやすく卑近なたとえにすれば、
それはメールとかtwitterとかで、
キーボードを叩きながら
「コンピューターは存在しない!」
と書き込むようなものだから。

この世界において、
形あるものはみな、滅ぶ。滅する。壊れる。無くなる。
生きているものは、みな、死ぬ。
これは、別に仏教の高僧でなくったって、
誰でも知っているこの世界の法則。

でも、形のないもの、
ひいては、存在しないものは、滅ぶことはない。
滅することもない。
ていうか、滅することもできるし、一瞬にしてまた戻ることもできる。
たぶんできるとか、できないとか、そういう概念すらない。いやある。いやない。
なんかこれも、仏教の範疇な気がするけれど。
だから存在しないものは、永遠だ。
(仏教は本当に純粋にサイエンスなのだと思う。それが僕が仏教をクールだと思う理由だ。)

けれども、存在しないけれど、存在するものなんて、
そんなもの、あるだろうか。

あるじゃないか!(笑)

今、ここにも、ほら。

ここにも、そこにも、そこかしこに!
Here, there, everywhere!

思うに世の中の才能のある芸術家と言われる人々は、
それらのものを感じることに長けているに違いない。

宗教はすごい。
宗教は偉大だ。
おおよそ間違って理解され、間違って運用され、間違って引用されることが多いけれども、
やはり宗教は偉大だ。

だけれども、
芸術ってやつは、芸術家ってやつは、
その宗教が何千年と積み上げてきた境地に、
一瞬でたどりつきやがったりする。

それこそが僕が音楽(芸術)をやっている理由であり、
また同時に、音楽を追求していった結果、宗教(神、キリスト)にたどりついた理由でもある。
(卵が先でもニワトリが先でも、オムレツが食べられれば僕はどちらでも構わない。)

僕も一応、ちょっとくらいは才能のあるミュージシャンのはしくれ、
というか、ソングライターのつもりだ。
つまり、僕がすごい勢いでいくらでも曲が書けるのは、
冗談で書けているわけじゃあ、ない。

僕が普通に生活しているように、普通に元気に生きているように見えるかもしれないが、
そんなのはもちろん、本当じゃあない。

それだけ曲を書いている(書かされている)っていうことは、
それだけ血反吐を吐いている、っていうことであり、他の何でもない。

もうよっぽどかおかしくなっているんだよ。

そして、だからこそ僕は、目に見えない芸術であるとか、
音符、サウンド、音、楽曲、それが作り出すものについて、
つまり、
音楽に触ることもできるし、抱きかかえることもできる。
そして、音楽の色も少なからず見たことがあるし、
音楽が命をはぐくみ、命を生み出す様子も見たことがある。

さわることができるんだよ(笑)

だから、音の手触りはよくわかるんだ。

だから、目に見えないもの、
たとえば、この「言葉」というものが、
どういうもので、どういった形をして、どういった色を持つのか、
少しはわかるのさ。

才能のある数学の学者とか、そういう感じなんじゃないのかな。
映画とかで見るとそういうのあるじゃん。
数字と会話できたりするやつ。
数字の性格の違いがわかるとか、さ。
素数の形がわかるとか。

そして、音楽は言葉なんだよ。

世界の共通言語。
そうだろ。

聖書も同じだ。

聖書で大事なのは、
紙に印刷されている言葉じゃない。

その言葉の指し示している、本体こそが大事なんだ。
まあ本体はもちろん神そのものであるんだけれども。

だから聖書は、
よく言われることではあると思うけれども、
霊の助けなしには読み解くことなどできないよ。

よくもこんな、神さん基準の難しい書物を
神さんは投げてよこしたもんだと思う。

まあでも、霊なんて、誰にでも、どこにでもAvailableあるし、
誰にでもいつでもどこでも、聖霊はアクセス可能だからね。

だから聖書で大切なのは、本当は行間を読むことだと思う。

聖書は完璧な書物だと思う。
そのことを俺は疑っていない。
(「信じている」ではなく「疑っていない」と書いた。それは、聖書は意図して信じる必要すらないほど完璧なものだからだ。晴れた日に、「僕は空が青いことを信じます」と言う子供がおるか? いなあぁぁぁぁぁいいい!!)

しかしそれは、完璧というのは、物質的、3次元的に完璧ということじゃない。
もっと、もっと高度なものだ。
聖書は、四次元、あるいはもっと高次元において、完璧なのだ。

いいか聖書を書き換えることはできる。
出来るだろう。やってみなよ。書き換えることなんて出来るんだよ。
ブログに聖書を引用して、ひとつふたつ、ミススペルしてみればいいだけだ。
書き換えなんて誰にでもできる。

けれども、行間を書き換えるなんてことは、
誰にもできやしない。

書かれていないことを、書き換えるなんて、
人間には誰にもできないからだよ!

だから聖書で大事なのは、本当は書かれていることじゃなくて、
書かれていないことの方だ。

優れた書物というものは、
書かれていないことを伝えるために、
書かれている書物のことなのだ。

人と人が会話をしたり、
あるいは議論したりするときでもそうだろ。
大事なのは話の内容ではなくて、
むしろその前提の方なんだ。

そんなことは、
ちょっと才能のある物書きならわかることだ。

人間のどんな偉大な作家や文豪よりも、
神の方が上だ。
あたりまえだ。神なんだから。

だから、もっとも優れた作家である神が、
書かれている情報の上に、その何百倍、何千倍もの情報をインプットしているのは、
至極あたりまえのことだ。

じゃあ、書かれていないことなんて、
どうやって読み取ったらいいのか。

書かれていないことを読むなんて、
できやしないじゃないか。

そりゃそうだ。
だから聖霊の助けがいるんだよ!

でも、本当はそれはちょっとした言い訳だ。
聖霊の助けも必要だけれど、聖霊の助けを得る前に、
たとえば小学校の国語の授業であっても、
ちゃんと学ぶことが出来ているなら、
書かれていないことの、ひとつやふたつ、
見えてくるはずだ。

そして、僕たちの国の母国語である日本語ってやつは、
それくらい高機能な言語だ。
高機能なぶん、ちょっと重いけれど。

そのくらいの基礎をおさえておけば、
きっとたぶん聖霊も力を貸してくれるんじゃないかな、
と思うよ(笑)

俺はクリスチャンになって初めて聖書を読んだとき、
あ、これ知ってる、と思った。

みんなもそうじゃなかったか?

そこに書かれていることは、
全部、知っていることばかりだった。
知っていること、思っていたこと、自分で体験したこと。

すごくfamiliar(親しみなじんだ)なものだったんだよ。

それが本当だと思う。
それこそが聖書を読むということだと俺は思う。

なぜならそこに書かれている言葉ではなく、
その言葉が表す本体そのもの。

その本体である神と、
僕はクリスチャンになる前から、
聖書を読む前からずっと一緒に居たからだ。

言葉を覚えることよりも
その本体と仲良くなることの方が大事なんだよ。

そしたら神は、全部教えてくれるのだから。
目にも見えない、理屈でもない、言葉にすら表すことのできない、
その「愛」というものを、そのものをひょいと投げてよこしてくれるのだから。

そしてキリストとはそういうことだ。
その目に見えず無限に広がっていく愛こそがキリストだ。

そして聖書というものは四次元的な視野で書かれている。
たぶんもっと高次元から書かれているだろうけれど、
僕たちに認識し説明できるのは四次元までだからそれで話す。

たとえばギターやバイオリンなどの楽器を作るとき。
楽器に限らず、家具であれなんであれ、職人さんがものを作るとき。

はいできた、これで完璧だ!
なんてふうには作らない。

楽器は、今日使って、明日にはポイ、なんていうものじゃない。

何年も、何十年も、時には何百年にもわたって使われるものだ。

だから、優れた職人さんは、
その楽器が時を経ても、性能を発揮し続けられるように、
もっと言えば、何年、何十年、という時を経て、
やっとそこで完成するように、
おそらくそういう視野をもって作る。
(と思う。)

聖書も同じだ。
人間のどんな職人よりも優れ、
また人類史上のどんな作家よりも優れている神が、
そこを考えずに聖書を書くはずがない。

何千年にもわたる、使用に耐えるよう。
善意の書き換え、悪意の書き換え、
翻訳、ミスプリ、書き間違い、解釈のミス、
そういったものにも耐えうるよう。
そして、むしろそういったことすべてを計算に入れて、
歴史を見通した上で書いている、はずだ!

そして、聖書は歴史のすべての時に対応、する。

だから、昨日読んだ聖書と、
今日読む聖書の中身は、同じじゃあない。

違うんだよ。

書いてある文言は同じかもしれないが、
そこから読み取れる内容は、
ちゃんと変化しているんだ。

だからたとえば、
今から500年前、千年前の人間が、
聖書から読み取った内容と、
現代の人間が、
聖書から読み取るべき内容は、
違う。
違うはずだ。

もちろん、その本体である神と、
神の約束は、変わらない。
永遠に変わりようがない。

けれども、神は巨大だ。
人間の視点からは、とらえられないほど巨大だ。

だからこそ、
静岡県から見た富士山と、
東京都から見た富士山が、
微妙に違うように、

千年前の人間が見ることのできた神と、
現代の人間が見ることのできる神の姿は、
多少なりとも違うはずだ。

だよね!?

この話はここまでにしておこう。

いいかいこれが前提だよ。
前提なんだ。
わかるかい。
でもきっと、これだけ書いても、
わからないんだろうな。

[なぜ戦争が起こるのか]

で、次の議題はなんだっけ。
あれか、戦争。
なぜ戦争が起こるのか。

それは、簡単なことだと思う。
戦争したい人がいるからだ。

そして、戦争したい人がいっぱいいるからだ。

いいかい物事は複雑に見えても、
結局この宇宙にはイエスか、ノーか、
そのふたつしかないんだ。

君のまわりにも、いっぱいいるだろう、戦争したいって人が。

神よりも、悪魔に身を任せたいって人が。

それはなにも、権力者や支配者に限ったことじゃあないよ。

それはつまり、みんなが幸せであることが許せない、っていう人だ。

愛を信じることができない人のことだ。

多くは臆病者か、愛されたことのない人たちだ。

愛に対して、
つまりキリスト本人に対して、
許せるか、許せないか。

多くの人は。
その人が、どんな宗教であれ、どんな信条であれ。
イエス・キリストのことを、許せないんだ。

なぜか。
それは、イエス・キリストのことを、神だと認めたくないからだよ。

それこそが人の原罪であり、
それこそが人々がイエス・キリストを殺してしまった理由でもある。

人々は、イエス・キリストのことを神だと認めたくないんだ。
なぜなら、認めてしまったら・・・
(例: 僕たちは天国に行かなくてはならない)

(君は天国に行くのが怖いのかい。そう、怖いんだね。無理もない。ほとんどの人はそうさ。)

だからこそ人々は、イエス・キリストではなく、自分自身のことを、神だと思っていたいんだ。
あるいは、なにか別のものを、神だと思っていたいんだよ。
偶像ってやつだね。

そっちの方が安心できるんだよ。
そしたら怖い怖い天国に行かなくて済むし。

結論としては、
人々は、イエス・キリストを許せないから、そして神だと認めたくないから、戦争をする。

これでいいじゃないかと思う。

[戦争はもう始まっている件について]

こと日本の話をしよう。

平和ぼけ、っていう言葉がある。

いいかい、俺は平和ボケだ。
それくらいは認めよう。

でも平和ボケという言葉があるように、
喉元過ぎれば熱さ忘れる、ということわざも日本にはある。

平和ぼけ、という言葉のぼけ、という意味は、
その状態が長く続いて、それ以前のことを忘れてしまうこと。

火にかけられ、熱くなった鍋があったとしよう。

ある人がその鍋に不用意に触って、手を火傷してしまったとする。
その人は、もう不用意に鍋を触るまい、と思う。
けれども、しばらくすると、その人は鍋が熱かったことも、手を火傷したことも忘れてしまう。
そして、もう一度鍋に触れ、やはりまた火傷をしてしまうんだ。

平和ぼけというのはこういうことだ。

この話はまた後ですることにしよう。

でもまあ、僕が平和ボケであることは認めよう。

僕は戦争否定派だ。
平和主義とかじゃなくて、もっと極端に、国と国が争い、国の命令で人が人を殺すこと自体について、否定している。かなり極端だ。平和主義ですらないかもしれない。

もちろん、世界の歴史とその現実において、戦争が起き、戦うことが必要であったことは事実だ。その事実は大なり小なり今も変わらないだろう。そして、これが違う時代であったら、僕は戦争を否定しなかったかもしれない。だが、人類史上のこの時点、この時代における状況として、僕は戦争を否定する。それは、物質的な状況もそうであるが、なによりも霊的な状況、霊的な立ち位置において、現状の人類には戦争をすることが許されていないと思うからだ。言葉を変えれば「そんな暢気なことをやっている場合ではない」ということだ。しかしこの事について話すのは後にしよう。

なるほど僕は平和主義者だ。僕は戦争を否定する。

だけれども、人生は戦いである、人生は戦争そのものである。
このことについては、僕は1ミリの疑いもなくイエス(Yes)と答える。

そして、戦争はもう始まっているんだよ。

「戦争になったらどうするんだ」
君たちは、まだそういうことを僕に聞くかもしれない。

でも、もう戦争は始まっているじゃないか。

それは、僕が一年前に歌詞にも書いたとおりさ。
まだ正式にリリースしていない曲だけれど、ライヴではもう演奏しているし、
今度発表するライヴレコーディング作品にも収録されている。

僕たちはもう戦場に立っているんだよ。
否応無しにね。

マタイの24章とか、聖書のあちこちに書かれているこの世の終わり。
そしてヨハネの福音書に書かれている最後の戦いみたいなやつ。

それっていつ起こるのか、って思うけど、
それってすでに今もう起きてるんじゃん。

僕たちは最後の戦いの真っ最中にいるんだと思うよ。
そして、その意味では、学びの時とか、試験の時間は、もう終了しているんだと思う。
終了の鐘は鳴った。
残っているのは答え合わせの時間だけだ。

そしてねこの世の終わりなんてものは、
いつ、って言えないものなんじゃないかという気がする。
間違いなく、ある人々にとっては、この世の終わりはもう起きてしまったことだし、
たとえば先の震災の際、そのマタイの24章のくだりはよく引用されたし、
津波を目にした人は、きっとこの世の終わりだと思わなかっただろうか。
そして、確かにその人にとっては、それはこの世の終わりであったはずなんだ。

またロックミュージック、音楽や芸術を愛するもの、それに携わるものとして、
すべての音楽家、才能のある音楽家、そして本道に迫ろうとする音楽家は、
すべてその芸術人生の中で、一度は必ず黙示録の戦いを行わなくてはならないことを、
僕は経験上知っている。
それは、すべて自らの内にあるものだ。
彼らは世界を終わらせ、そしてまた甦る。
そしてそれは、音楽家や芸術家においてそうであるならば、
すべての人にやはり、起こるべきものなんだ。

では、今、この現代において、僕らが戦っている戦争とは、
どのようなものなのか。

[イスラム国と呼ばれるテロリスト組織について]

今、世界を騒がし、揺るがしている、中東におけるISISあるいはイスラム国と呼ばれるテロリストの組織。
彼らの話をしてみよう。

この2015年の1月、彼らはこの日本をも揺るがした。
日本は今、そのために揺れに揺れているし、世界もまた、揺れている。

もちろん僕は世界情勢にも詳しくないし、
中東情勢にも詳しくない。
専門家でも学者でもない。
だから僕に言えることは、一介の市民としての限られた視点だ。
でも、それでもわかることがあるし、それでたぶん十分だと思う。
そして、ミュージシャンだからあるいはわかることがある。

中東地域における、いろいろな紛争とか、
歴史は長いんだろうし、
そういったテロリストたちの組織や活動もずっと前からあったのだろう。

けれども、このイスラム国と言われる組織が怖いのは、
彼らが新しい時代の、新しいタイプのテロリストだからだ。

このインターネットの時代に生活している人間ならば、
みんなも既にわかっていることだと思うけれども、

普通、テロリストとか、武装組織とか、そういう人たちは、
銃とか、マシンガンとか、爆弾とか、戦車とか、ミサイルとか、
そういうものを使って、紛争を起こし、破壊行為を行い、
それによって世界を混乱させ、自分たちの目的を実現しようとする。

そして、それはもちろんこのISISとかイスラム国とか言われる人たちも同じだ。

けれども、彼らは、それだけにとどまらず、さらにそれ以上の攻撃を、世界に向かって仕掛けてくる。

それは、現代のこのインターネット時代、つまり人々が直接つながれた高度な情報化社会によって、
YouTubeに代表される直接的なインターネットによって、
彼らは「霊的な攻撃」を、世界全体に向かって行うことができるようになってしまった。

そして、彼らはそれをすごく効果的に行っている、ということだ。

そして、それによって、直接に銃弾やミサイルの届く範囲だけでなく、世界中の人々に、直接、ひとりひとりに、彼らは攻撃を仕掛けることができるようになってしまった。

そして現に、それによって世界は混乱している。大混乱だ。
そして僕が思うに、それによって彼らイスラム国は、確かに目的を実現している。

これは、まったく新しいテロリズムの脅威であり、
銃や戦車で覇を唱えるよりも、はるかに危険で差し迫った脅威だ。

そして、この「霊的な攻撃」ってやつは、
その性質上、もろに影響を受けてしまう人と、あまり影響を受けない人がいるが、
その、もろに影響を受けてしまう人は、霊的世界のメカニズム上、攻撃されていること自体に気付かない(気付けない)という、本質的に危険な性質を持っている。

この「霊的」という言葉を、僕は最近(ここ1、2年)頻繁に使うけれど、
英語でいうとこれは「スピリチュアル(spiritual)」なんだけれど、
日本語でこれにあたるちょうどいい言葉がない。
「精神的」でも近いんだけれど、単純に「精神的」っていうのとはちょっと違う。
だから、クリスチャン用語っぽく、「霊的」という言葉を使うしかないので、そういう表現を使っている。

僕は中東の歴史にも中東情勢にも詳しくないし、
たとえばこのISIS、イスラム国という組織が生まれた経緯や背景、理由、
そして、たとえばその背後にどんな勢力があるか、など、
いろいろな意見があると思うのだけれど、
ここではそこまで立ち入ったことには触れない。

ただ、どんな背景があるにせよ、このイスラム国と呼ばれるテロ組織が、
非常に危険であって、
また、今までにない種類の危険性を持っている、ということは確かだと思う。

[テロリストとインディーズミュージシャン]

世の中というのは時代に連れて変わります。
そして、そこに生きる人々も変わる。

ガリレオ・ガリレイが生きていた16世紀だか17世紀だかと、
現代では人々は違う世界に生きている。
当時は地球が回っているなんていうことは誰も信じなかったわけだけれど、
今では地球が回っていないと思っている人を見つける方が難しい。

そして21世紀に生きる僕たちは、
人類史上、これまでにない世界に住んでいる。

そして、かのイスラム国と言われる組織のテロリストとて、
その同じ時代に生きる、現代人に他ならない。

この事実を忘れると、僕は彼らのことを見誤ると思う。

彼らは僕らと同じだ。
この21世紀初頭のインターネット時代に生きる、
MacBookやiPadでインターネットを通じて世界にアクセスし、
twitterやFacebookを通じて人々とコミュニケーションする、
そんな現代人たちだ。

そして、現代に生きる、無名のインディーズミュージシャンをやっている僕みたいな立場から、彼らに対して思うことがある。

彼らは、インディーズミュージシャンと同じだ。

そして、彼らの考えていること、
彼らの行動原理、
その行動の裏側にある動機の部分なども、
おそらくは僕たちインディーズミュージシャンと似たものがあるに違いない。

それは、世界を変えたいということだ。

世界の現状に疑問と不満を持ち、
それに対して、make a difference (違いをつくりだす)したいと思い、
行動を起こし、表現する。

もちろん、ミュージシャンの現実的な成功が、
有名になったり、レコードを売ったり、大きなコンサートやヒットチャートに入ることだったりするのと同じように、
彼らにも地域を制圧したり、テロリストの国を拡大することが現実的な目的だと思われるが、
それ以上に、世界の現状を変えていくという目的が、本能的にインプットされているのだと思う。

そして、僕らミュージシャンが、自分たちの無力さや、決して報われないことがわかっていても、捨て身で音楽を作りメッセージを放つように、
自爆テロのようにして捨て身でテロ行為を行う彼らの行動原理も、あるいは似たようなところにあるのかもしれない。

ただ、僕らインディーズミュージシャンが、少なくとも僕たちの友人であるクリスチャンミュージシャンたちが、ポジティヴな愛のメッセージを放ち、世界をより良い方向に変えていこうとするのに対して、
彼らテロリストは、ネガティヴな破壊と混乱、暴力と恐怖のメッセージを、世界に発する。

そこが違うのだ。

今回、2015年1月に起きた、日本人二名を人質にした事件においても、
イスラム国と呼ばれる組織は、YouTubeに映像を公開し、それを全世界に発信した。

だが、思い当たった人はけっこう多いと思うのだが、
その行為自体は、そのへんの、YouTubeに動画をアップしている人たち、
たとえば、最近の言葉で言うYouTuber(ユーチューバー)と言われる、YouTubeで多くのアクセスを集め人気を持つ人たちと、なんら違わないのだ。

彼らは動画を作り、編集し、YouTubeに動画をアップし、そのメッセージを発信する。
その行為自体は、一般のYouTuberといわれる人たちと、なんら変わらない。

ただ、その中身、内容が、残虐であり、非道であり、恐怖のメッセージであるのだ。

こうした恐怖のメッセージで満ちあふれた世界の中で、
僕たちは悟らなければいけない。

これは、新しい種類の戦争なのだということを。

僕は、最近、戦争はもうすでに始まっている、という言葉を、よく口にする。

少なくとも一年くらい前からは言っているし、歌詞にも書いた。

そして、僕も、君も、すでにその戦争に巻き込まれているんだ。

もしそのことに気付いていないのであれば、
僕はそのときこそ、
「君はどんなに平和な世界に住んでいるんだい」
という言葉をかけようと思う。

最終戦争はたぶんもう始まっている。
僕たちは皆、同じ土俵に乗っている。
そして、これが「霊的な戦争」なのだとしたら、
なんだ、目に見えない戦争なんて、ずいぶん暢気な戦いだな、
と思うのではなくて、
これが本当に何よりも、世界の行く末を大きく左右する、
非常に危険な状態にある戦いだということを
知っておいた方がいい。

そしてここで問題なのは、
その戦いにおいて、
味方は誰で、敵は誰なのか、
ということだと思う。

[ジャーナリズムとポルノ]

どうしようかと思ったけれど、これもついでに書いてしまおうと思う。
インターネット時代ってことも含めて。

テレビの時代も大差なかったかもしれないけれど、
インターネットの時代の今、
すべての情報は、コンピュータなどの端末を通じて送られてくる。

それはイスラム国と呼ばれる組織のテロリズム情報とて同じで、
パソコンを通じて表示されるその画像や映像、文字情報、
それは、画像や映像、文字情報以外のなにものでもない。
それ以上でも、以下でもない。

だから、今回の日本人二人が人質になった事件においても、
それらの画像や映像が果たして本当に真実なのか、信憑性があるのかどうか、
少なからず議論があった。

たとえ、それが作られた、嘘の情報だったとしても、
僕たちにはそれが本当なのか、嘘なのか、わからない、ということだ。

そしてそれは、実のところ今回の事件だけに限らない。

今回の事件では、テロリストが発信した情報について、
それが本物なのかどうか、議論や検証が少しはあったけれど、

普段、目にするその他の各種情報については、
それらの情報が、本当に正しいのか、どうか、
世の中が公式に検証したりすることは、まずない。

俺は、ジャーナリズムというものは、基本、ポルノだと思う。

初めて新聞を発行した人間は、
あるいは、初めて印刷というものを発明し、出版をした人間は、
それらの言葉が、活字になり、人々に読まれることに、
ある種の快感と興奮を覚えたに違いないと、僕は思っている。

言葉が文字になり、そして活字になり、
それらが印刷され、読まれること。
それらはすべて、ポルノだ。

それがたとえ真実でなかったとしても、嘘であったとしても、
それらが文字になり、活字になり、印刷されれば、
本当になる。
あるいは、本当だと錯覚できる。

それが生み出すのは、快感だ。

インターネット時代になり、
メディアは多様化して、ニュースを配信する媒体も多様化した。

その結果、人々は、自分が欲しいと思う情報を、
そして自分が読みたいと思うニュースを、
いくらでも読むことができるようになった。

殺人事件が好きならば、いくらでも殺人事件を。
不倫報道が好きならば、いくらでも不倫報道を。
読むことができる。

そして、人々は無意識のうちに、
自分の求める情報を集め、
自分の求める世界を、構築していく。
たとえそれが真実とかけはなれたものであっても。

もちろん、情報にまったく触れないわけにはいかないし、
ポルノを全否定することはできない。
けれども、ポルノを、ポルノだと知って、
どう付き合っていくか、
それは、考えなくてはいけない。

新聞や雑誌が、どんなに権威付けを行い、報道姿勢を謳ったとしても、
しょせんそれらはポルノだ。

どの報道を信じるにしても、どの情報を信じないにしても、
自分がスケベであることは、自覚しておいた方がいい、
と思うよ(笑)

[なぜ音楽をやっているのか: 政治と音楽と私]

ここで、僕がどうして音楽をやっているのか。
21世紀の現代において、自分がなぜ、無名のインディーズミュージシャンとして、
しがない日常を生きるはめになったのか(涙)、
その理由と経緯を少しだけ説明してみたい。

うちのバンドのウェブサイトにも経緯が書かれているように、
たぶん直接の原因は、嫁さんに出会ってしまったことだった。高校時代に。
それによって僕は自分の運命を大きく狂わされ、まあ狂ったわけではないかもしれないが、考えていた人生計画としてずいぶん変更を余儀なくされた。

しかしそれはひとつのきっかけだったのであって、
もっと本質的なところを考えてみたい。

その昔。
僕が本当に少年の頃。
僕に「君は大きくなったら政治家になりなさい」と言った人が居た。

誰でもいい。親しい人だ。きっと君にもそういう人が居ただろう。
大人になったら学者に。大臣に。それともスポーツ選手に。

けれどもその人は、僕が少しばかり、真面目すぎたり、純粋すぎたり、
あるいは不器用すぎるのをわかっていたのだと思う。
だから僕はそれに「うん」とは言わなかった。

「それならば、君は政治家ではなくて、法律家になったらいい。弁護士か、検事になって、法律を通じて正義を実現するのがいい。」

それには僕は「うん」と言うことができた。
そして、小さい頃にそう刷り込まれたので、
少年の頃の僕の夢は法律家になることだった。

で、優秀な学生になり、自分の行きたい大学は(まあ文系なら)どこでも選べる感じになり、そして現実に、いろいろ選択にごたごたしたけれどもとある大学の法学部に入学することはできた。

僕は13歳でロックに目覚め、14歳でギターを始め、
そして15歳からバンドを始めた。
高校時代もバンドをやっていた。
どういうわけか作曲もたくさんして、高校時代に100曲以上は曲を作った。
そして実際にバンドでオリジナル曲を演奏し、コンテストでけっこういいところまで行ったりもした。
けれども、僕は「将来音楽でプロになりたい」なんて、言ったこともなかったし、思ったこともなかった。

そして、僕は、「僕は法律家になる夢があるから。受験勉強を優先したいんだ。僕はギターじゃなくても、自分の仕事を通じてロックのメッセージを実現するよ。」みたいなことを言って(笑)、その高校時代にやりかけていたバンドを辞めた。

けれども、実際に僕の人生は、その後、そうはならなかった。
高校時代の最後の方に、嫁さんと出会ったことがきっかけとなって、
その法律家になるという夢は、現実的に閉ざされてしまった。
というよりも、そのことがきっかけになって、僕はその法律家になるという夢自体に、疑問を持った。そして、社会そのものにも疑問を持った。

結果、僕はすることがなくなり、音楽だけが残り、
僕は今でも貧乏バンドマンをやっている。

政治家->法律家->バンドマン

と、見事にこういう感じで、グレードダウンするみたいにして
現実に僕はすべりおちていったわけだ。

けれども、実際には、僕自身は何も変わっていなかったのだということに
気付くまでに、時間はかからなかった。

すべては政治にあったからだ。

そして、その政治のさらに根底にあるもの。
それは「信仰」ということであるけれども。

幼少の頃。
俺は、「政治なんかやってられるか」
と思ったから、たぶん法律家志望になった。

そして、青年になろうとする頃、
「法律家もやってられない」
ということに気付いてしまい、
バンドマンになった。

非常に悲しいことだ。

バンドマンというのは、
世捨て人、と考えてもらっていい。
それで間違ってない。

世捨て人だ。

なぜ、「政治なんてやってられるか」
と思ったか。

政治に出来ることなんて何もない。

中国の故事とか伝説をひもとけば、
その昔、尭だの舜だの、黄帝だの、そういう昔の王様が出てくる。
そういう昔の王様は、愛とか人徳とか、高潔な人間性とかで、国を治めた。

でも、孔子の頃には、世の中は乱れていて、
孔子は既に政治に携わるっていう感じじゃなかった。
孔子は昔の王様のように、愛とか人徳とか仁とかを説いたけれど、
権力の座にはつかなかった。

たとえば聖書をひもとけば。
ダビデとかソロモンとかそういう王様が出てくる。
ダビデも多少は間違いをしたけれども、
偉大な王様として神の忠実な僕として聖書に描かれている。

けれども、イエス・キリストの頃には、
すでに世の中はずいぶん乱れていて、
イエスは政治に関わるって感じじゃなかった。
ユダヤ人たちは、救世主として、イエスに政治権力を握って自分たちを救ってくれることを期待したけれど、
イエスがしたのはそういうことじゃなくて、
愛を説いたり、貧しい人々を救ったり。
そして、彼が実現したのは魂の救い。

政治なんてものが機能していたのは、
ダビデとか尭舜とか、
そういう伝説上の古代、昔の時代までだ。

孔子や、イエスの時代に、すでに機能していなかったものが、
現代に機能しているはずがない。

もちろん、人類は進歩する。
たぶんこの2千年の間に、人類の政治も、ちっとはマシになった。
民主主義とか、そういうのが出来た。

でも、まだぜんぜん、及ばない。
「神の政治には、及ばない」

尭とか舜とか、ダビデとか、
そういう伝説の時代に行われていたのは、
たぶん神の政治。

そのレベルに、人類の政治が達するには、
まだまだ足りないものが多過ぎる。

だから俺は、思ったんだ。
政治なんてやったって、ダメだ、って。

そして、じゃあ、もうちょっと社会構造のピラミッドを移動して、
法律で社会正義を実現し、人々を救うことが出来るだろうか、
と僕は考えた。

残念ながら、それもだめだった。
法律は、人の心までは救ってくれない。

そして、僕たちが生きているこの社会は、
その人の心が、ないがしろにされている社会であることを、
青年時代を迎えようとする僕は思い知らされたんだ。

そして人の心がないがしろにされている社会に、
社会正義などというものが、そもそも存在しないことが、
わかってしまった。

だから僕は途方に暮れて、
まったく何も出来なくなってしまった。

そして出来たことはと言えば、
途方に暮れた放心状態のまま、
ギターの弦をかき鳴らすことぐらいだったわけだ。

あきらめと、絶望の境地。
途方に暮れた、あきらめの境地。

もうこの世界は、
どうしようもない、
救いようもない、
手の施しようもない状態。

そんな社会を立て直すために。
荒れ果てた社会というレイヤーを立て直すために、
向かうべきは、その上位にある、政治というレイヤー。
けれども、その政治というレイヤーも、はるか長く乱れきっていて、
機能しない。
であれば、向かうべきは、そのさらに上位にあるレイヤー。
上位にあるのは、宗教、そして、信仰というレイヤー。
そのさらに中心にあるのは、魂というコア。

だから僕たちがギターの弦をかき鳴らすとき、
そこに届け、と思って鳴らすのは、
その部分。
すべての中心にある、魂というもの。

とどのつまり、
とっくの昔に手遅れで、
手の施しようがないってことが
わかったから、
音楽を始めたんだ。

というよりも、
音楽しか残ってなかったんだ。

[政治とスポーツと下水道]

だからこそ、僕が音楽を鳴らそうとする時、
それはまぎれも無く、政治的行為だ。

そういう理由があったからこそ、
僕はその部分には最初からけっこう意識的であったし、
その目的もわかってた。

だから僕らの音楽は、政治的なメッセージであるし、
ロックンロールはそうあるべきだと思う。

それは、単純に歌詞が政治的とか、そういうことじゃない。
もっと、魂の部分において、ということだ。

さて、政治ってことについて語ろうとすると。
特に民主主義社会である現代の政治ってことだけれど。
いつも思うことがある。

それは、
「政治ってのはスポーツと同じだ」ってこと。

もうずっと前からわかってたし、
ずっとそう思ってる。
今でも毎回、そう思う。何かあるたびに。

つまりは、お気に入りの野球チームを応援するのと、
何も変わらないってこと。

たとえば、阪神タイガースを応援しているファンは、
いったいなにゆえ、阪神ファンになったのか。

大阪出身だからかもしれない。
アンチ巨人だから、結果的に阪神を応援しているのかもしれない。
お気に入りの選手がいるからかもしれない。
そこにはいろんな理由があると思う。

けれども、
「阪神タイガースの政治理念に賛同したから」
という理由で、ファンになった人は、
たぶんあんまりいないのではないだろうか。

僕は、政治についての議論を見聞きするたびに、
また、自分たちでも政治についてちょっとでも話すたびに、
思う。
政治ってのは、これと同じだ、って。

そして、なぜ人は、そこに対して、これほど感情的になるのだろうか。

政治っていうのは、現実だ。
感情で処理するものじゃない。

けれども、人は、ほとんどの場合、感情の問題として捉える。

あるいは理論的に考えているように見せかけるけれども、
実際は感情的に捉えている。

お酒の場とか、友人たちとの間とか、触れてはいけない話題として、
スポーツと政治の話はしない方がいい、
とか言われる所以だと思う。

日本だったら野球がいちばんメジャーだろうし、
アメリカ人だったらフットボールだろう。
フットボールの話題でケンカになってもまったくおかしくないのだと思う。

では、何故、人は政治に対して感情的な反応しかできないのか。

それは、支配されているからだと思う。

支配されている立場の、メンタリティというよりは、霊的なレイヤー、スピリットレベルとして、感情的に捉えることしか出来ないからだ。

支配、被支配というのは、感情的な関係だ。
お気に入りの野球チームが、勝ったり負けたりして、嬉しかったり、悔しかったり、するのは、そこに感情的な依存があるからだ。

そして、政治も同じで、そこに支配、被支配という依存関係があるから、感情のレイヤーでの反応しかすることができなくなってしまう。

本当に政治を考えるには、この被支配の感情レイヤーから、抜け出すことが必要だ。

政治に対してもうひとつ思うことがある。

僕は政治が嫌いだ。
それは、僕がミュージシャンであることが大いに関係していると思う。

僕に言わせれば、政治なんてまどろっこしくってやってられないからだ。

けれども、では、政治なくして社会が成り立つかと言うと、確かにちょっと成り立たないかもしれない。

たとえ、完璧ではなく、機能していない機能不全の政治であっても、
何もないよりは、はるかにマシだと言うことはできる。

政治家というのは嫌われる職業だと思う。

何故か。

下水道というものがあると思う。

下水道は、人々の生活の中で出る汚水を処理するものだ。

誰も、それを見たくもないし、聞きたくもない。
触れるなんてもっての他だ。

けれども、人々は皆、下水道のお世話になっているし、
それなくしては、人々の生活は成り立たない。

そして、政治家というのは、
その下水道の大元締めなのだと思う。

政治が汚いのは当たり前だ。
なぜなら、政治は現実に対処しなければならず、
現実は汚いからだ。
下水道と同じように汚いからだ。

そんな世の中の汚い仕事を受け持ってくれている
政治に対して、僕が言えることと言えば。
「どうもありがとう」
その一言くらいだ。

だからといって、
じゃあその下水道屋さんの大元締めが、偉いのか。
そうじゃない。

「俺はこんなに汚い仕事をみんなのためにやっている。だからみんな、俺の言うことを聞け。」
もし元締めがそんなことを言ったら、その人は、みんなを汚れた世界に引き込んでしまうだろう。
たぶんきっと、汚れていなければ許されない社会に、してしまうだろう。

汚れというのは、
この世界において、だいたい権力というものと同義だ。
であればこそ、その下水道に携わるものこそは。

たぶんその下水道屋さんこそが、
いちばんきれいなものを、
人々に見せていかなきゃいけないんだよ。
それは、現実という下水にまみれているからこそ。

けれども、
そんな勇気のあるやつは、誰もいない。

なぜか。
それはみんな、もうきたないものに、
慣れ切っているからだ。

きれいなやつは、それだけで、
「許されない存在」
なんだよ。

そう、まるで一点の汚れもない、
ただ一人この世界で罪というものを持たない、
イエス・キリストのように。

人々がそんな彼のことを許せなかったのは、
当然のことなんだ。

政治というのは巨大なブルドーザーだ。
これも前から口癖みたくよく考えていたことだ。

政治という巨大なブルドーザーは、
右に進んだとしても、左に進んだとしても、
そこにいる人を押しつぶしてしまう。

都心のビル街に、郊外の住宅密集地に、
現れた、全長100メートルの巨大なブルドーザー。

どちらに進んでも、家屋や建物を破壊してしまう。
どちらに進んでも、誰かを押しつぶして犠牲にしてしまう。

それが政治なんだと思う。

でも、そのブルドーザーの運転席に座ってしまったら。
もう覚悟を決めるしかないんだ。
犠牲を払ってでも、自分が殺人者になるとしても、
あるいは自分がどんな批判に晒されようとも、
本当に皆のために、国のために、そして世界のために、
これが正しいと信じた方向に、
レバーを入れるしかないんだ。

そこまでの覚悟があった政治家は、
現代社会に、果たしてどれだけ居たんだ。

当座をしのげりゃいい、っていうんじゃないんだ。
また、日本だけ助かればいい、ってのでもない。
命をかけるんなら、その価値があるものを。
国民と心中するんなら、その価値があるものを。

示せるやつがいるのか。

俺が求めているレベルは、
ダビデや、尭舜の、それ以上に。
孔子ないしは老子。
あるいは無理でもキリストの。
神の政治だよ。

なぜか。

でなけりゃ、
間に合わないからさ!

俺たち人類に、
猶予があるなんて、
思うな。

[日本という国、その事情]

日本という国に生まれ、育ち、
その日本という国に対して、愛を持ち、誇りを持つ、
これは、親が子を愛し、子が親を愛するように、
普通のことだ。

けれども、その当然のことを、
当然と言ってしまうことを許さない状況が、日本にはある。

この違和感は、どこから来るのか。

曲がりなりにも、多少は、ちょっとは、
世界を相手に表現し、活動しているミュージシャンのはしくれとしては。
日本人であるという自分のアイデンティティに、
自らの音楽表現の源泉を求め、
また日本人であることの自覚と誇りをもって、
音楽を鳴らしていくのは、当然のことだ。

そんなことは、世界を相手に表現している芸術家であれば、
誰でもやっていることだと思う。

現に俺は日本人であることに誇りを持ち、
日本人にしかできないロックンロール、その表現を求めているし、
また、それが欧米のそれに劣らない、むしろ勝る、と考えている。
そして自分は日本製のギターがとても好きだし、自分がギタープレイヤーとしての人生で、最高のものとして出会った楽器はやはり日本製のものであった。
それは、その日本人だからこそ表現できる繊細さとスピリチュアルな面での高度さが、日本人ミュージシャンの自分には必要だからだ。

俺は、まあ日本人だから自分の国をひいきして見るのはもちろんだけれども、
日本というのは、日本人というのは、世界の中でもちょっと特別だと思っている。

そして、世界の中でも、神からちょっと特別な役割や仕事を与えられている国だと考えている。

それは買いかぶりかもしれんが、そうとばかり言えない部分も確かにある。

ただ俺が思う日本人の特別さというのは、日本人だけが優れている、とか、日本人だけが特別だ、とかそういうのじゃなくて、なんだか、世界人類に共通した何かの要素の、流れ中にあるものなのじゃないかと感じている。

だから、日本人だけが優れていて、隣の国々は劣っている、みたいなことは、断じて思わない。

この国の歴史は長く、複雑だ。
そして特に、明治維新以降、近代の歴史は、世界史の激動の中に放り込まれたゆえに、複雑で、とらえづらい。

特に日本は第二次世界大戦において敗戦国であり、つまり戦争に負けたので、
余計に歴史がとらえづらい。語るのも難しい。どっちに向いても非難される。

いきなり自分の拙い歴史認識を語るが、
笑う人もたくさんいるだろうけれども、
ここで俺が言いたいのは、優れてるとか劣ってるとかそういうことじゃない。
賢いとか愚かだとかそういうことでもない。
そして、正しいか間違っているか、それですらない。
俺が思うのは、神の目から見て神さんの意にかなってるかどうか、
そして、なにより「歴史の中で倒れていった先人たち、彼らの意にかなっているかどうか」
そこだけだ。
まあしらんけどね、先人たちにもいろいろいるだろうし。倒れていった先人に会ったことないし。(天国で会えるか?)

俺は、たとえば、
「第二次世界大戦において日本は帝国主義によって諸外国を侵略し、悪事をたくさん働いた。だから私達は反省し、諸外国に謝罪しなければならない。」
みたいなのともちょっと違う。

でも、
「太平洋戦争は正しい戦争だった。だから私達は日本人としての誇りを失わず、諸外国に頭を下げることなく堂々としなければならない。」
という感じでもない。

現実って複雑でしょ。
たぶんそんなに単純なことじゃないはず。

でも、俺は個人としては、
日本が戦争したのには、なんらかの理由があったはずだ、と思っている。

そして、あるいはそれが、人類の歴史、世界史の中で、何らかの役割を果たすためだった、と考えることにやぶさかではない。

たとえ、それが、自らを犠牲にし、自国の国土を焦土と化す結果に終わったとしても……。。。。

けれども、そこに、間違いや、人の罪がなかったかといえば、きっとあったと思う。
そして、それは、たぶん、いっぱいあったと思う。
反省すべきことがあったかと問われれば、たぶんいっぱいあるのだろうと思う。

そして、俺は、日本はアジアを導くリーダーであるべきだと思っている。
それだけでなく、俺は、日本は世界を導くリーダーであるべきだと思っている。
それは、政治とか、軍事の話じゃない。もっと、「霊的」な意味においてだ。

であると、するならば。

かぶるべき罪があるならば、
かぶってやればいいではないか。

かぶるべき非難があるならば、
みずからかぶればいいではないか。

それが、ずっと歴史の中で、
日本人がやってきたことではなかったか。

この日本という国が、民族が、
その命と存亡をかけて、歴史の使命を果たそうとした、
その成果を、果実を、
みずから破壊してどうするよ。

歴史の中で倒れていった名も無き英雄たちが望んだのは、
日本が世界の中で覇を唱えることなのか?

違えよ(笑)

誰もそんなちっぽけなことのために、
命を捨てようとは思わねえよ(笑)

日本人の偉大すぎる、高潔すぎるその志を受け継ぐんなら、
戦い続けろよ。
このやたらめったら困難な戦いを。
刃でなく、心で戦うこの武士の本懐を。

日本はアジアのリーダーであったし、
今もそうであると思いたい。

であれば、日本は長兄であるべきだし、また親であるべきだ。
そしてその兄弟たちが成長してきたというのであれば、
今度はより、精神的なアドバイスを与える立場であるべきだ。
そしてその背中で見本を示す立場であるべきだ。

そこに至って、
今度はその兄の方が、親の方が、
精神的に成熟しきれていない。

どないすんねん。

リーダーシップを取れよ。
霊的に。

日本は戦争に負けた国であり、
戦争に勝ったのはアメリカであるということで。

日本はアメリカに占領され、
そして、たぶん今も、なんとなくやっぱり、占領されているのだろう。
それは、いろんな人が言っていることだと思うし、
みんなどっかでわかってる。

けれども、その結果、
日本とアメリカは、他人じゃない。

俺は、戦後、日本とアメリカは、
その関係こそ、いびつであったにしても、
なんか、いわば夫婦の関係にあったのだと思っている。
だからこそ日本はアメリカを愛し、
アメリカは日本に惹かれる。
なぜかしらんけど、結構相思相愛の関係がある、と思っている。
これには、いろいろと深い理由があると思う。

しかし、では、その他人じゃない関係になってしまった
日本とアメリカは、どうしていくべきなのか。

というよりは、立場の弱い愛人みたいな立ち位置にいる日本は
どうしていくべきなのか。

さあ。。。。
聖書のどっかにあるだろうかね、答え。

いずれにしろ、
こんなに世界をリードすべき立場にいるのに、
なにもしない、なにもできない、日本。

意気地がないのか。
勇気がないのか。
インフラがないのか。

しかし無理もないのだ。
日本人に対し、神が課したハードルは、
最初から、他よりもずいぶん高いのだから。

だからがんばろうぜ。
あきらめずに。
今からでも。
俺たちは成長するんだ。

そして、人々がこの日本という母国について持つ複雑な感情と違和感なんですが、
日本が世界と歴史の中で本来の役割を未来に向かって果たし、
この国が本来の姿を取り戻す時がくれば、晴れます。

一言で片付けちゃったけれども(涙)

つまりは、この日本人という人たちが、
神に従って本来の使命を果たしたい、という願望は、
それほど強い、ということです。
この感情は、むしろ、下手なナショナリズムとかよりも、はるかに上です。
(ゆえに、それが歪んだ形になって表現されることも、ありますね)

日本人が、本来の役目を果たすとき。
それは、人類の未来が開かれるとき。
その時、この国も、この世界も、本来の姿を取り戻す。

そうなりゃ、
君が代を歌いたくない、なんてやつは、一人もいなくなるさ。
(まあ、一人や二人、いてくれないと、はりあいがないけれども)

ていうか君が代に関しては・・・(以後のミュージシャントークは省略)

[終わった世界における成功とは]

ここ何年かのことでしょうか。
俺は、世界はもう終わったんだ、と思わされる出来事が、いくつもありました。

そして、たとえば、1999年に、大予言で世界が終わるとか、
2012年に、マヤ暦で世界が終わるとか。
そういうのがいろいろあったと思います。

そして、実際にそのマヤ暦の2012年だかも、
無事に過ぎたけれども、
それから1、2年が経過して、やっと実感したのは、
ああ、実はやっぱり本当に、世界、すでに終わってしまっていたんだなあ、
って。

だから、俺は、もう世界は終わったものとして考えています。

だって、これは、ミュージシャンやってると身近に実感できると思うけれど、
それまであった世界、すでに跡形も無く、崩れ去ったじゃない。
今、僕らの目の前にあるのは、それらすべてのものが、跡形も無く崩れ去った後の世界。

これは冗談で言ってるわけではないです。
みんな、どこかではわかってるんでしょ。
実際に今、生きている人類に対しても、どれだけ時間があるのかわからない。

けれども、もし世界がすでに終わってしまっているのだとしたら、
そこには、天国も地獄も、自由に作り出すことができる、ということでもあります。

「不正を行う者はますます不正を行い、汚れた者はますます汚れを行いなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行い、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」(黙示録 22:11)
ってなもんでしょ。

じゃあさあ、そういう滅亡した後の崩壊後の世界に生きている自分らとしては、
そういう世界でインディーズミュージシャンとして音楽を鳴らしてる自分らは、
いったい何をもって成功したらいいのかね。

たぶん、もうなんもかも全部崩壊してなくなったんだとしたら、
成功というものさえ自分で作り出さなけりゃいけないと思うのね。

そして、その成功というものがどういう形をしているのか、
それさえも自分で考え出さなきゃいけない。

だからイメージせよ。
それがどんな形をしているのか。

わからん。
それは自分の魂が、望んだもの、そのままの形であるはずだ。

もう必要ないんだよ、余計な飾りとか、
余計なふさふさとか、ぎざぎざとかさ。
欲しいものそのまま、100%正直に、欲しいものを言えばいいんだ。

だって、もう必要ないんだからさ、
余計なあれこれは。

鳴らしたい音を、
欲しいと思った音を、
そのまま、ありのまま、鳴らせばいいんだよ。

なぜなら、
君はこの時を、ずいぶん長いこと、待ったのだから。

そして同様に、君がもし、ミュージシャンでないのだとしたら、
この崩壊した世界における、
君の幸せはどんな形をしている?

もうなにも、遠慮することは無いのだよ。

君はただそれをイメージすれば、
もうそれを手に入れることができる、
そんな世界に住んでいるのだから。

そして、この崩壊した最後の世界で、
最後のたたかいが、あるとしたら、
君はどんな刃(やいば)を以て、
その戦いに挑むかい?

そして、君は、誰のために戦うのか、
その決心はついたかい?

[なぜ神は人類にロックンロールを与えたのか]

20世紀、人類の歴史の中で、The Beatlesというものがありました。
最初にして、最大の、ロックンロールのポップスター。
それは、20世紀の文化を塗り替え、世界中に影響を与え、
それから、それから。
わからん、たぶんみんなの方がくわしいでしょうよ。

なんで、そんなことになったのか。

しかし、理由はともあれ、
その後、世界には、ロックンロールミュージックが、あふれ、
たくさんのロックバンドが、今もなお、誕生し、
世界中で音楽を鳴らしている。

俺が初めて、”Sgt.Peppers Lonely Hearts Club Band”を聴いたとき、
俺はそこに神の存在を感じました。
そして、涙が止まらなかった。

俺はThe Beatlesには神の介入があったと思います。
明らかに。

そして、そこには、何の理由もなかったと思う。
なぜ、彼らなのか。なぜ、The Beatlesなのか。
なぜ、20世紀、1960年代の、イギリスなのか。
そういった理由や理屈が、ぜんぜんまったく関係ないほどに。

ただそこにあるから、仕方ない。
ただそこに愛があるから、仕方ない。
ただそこに神の存在があるから、どうしようもない。
そんな、どうしようもない愛こそが、絶対の真実。

あのレコードには一音たりとも意味のない音は入っていない。

A Day In The Lifeの、ラストの音が、ヒットしたとき。
ロックンロールの宇宙が、爆発した。
ビッグバンのように、広がり、
そしてそれが永遠に向けた開始のベルだった。

そして神は言った。
「さあ開始だ。これから好きなように、このロックンロールを鳴らしなさい。」

俺はブルーズは本来、武士道だと思っているし、
ロックンロールはその受け皿でありキャンバスです。

けれどもなぜ神は人類にThe Beatlesを、ひいてはロックンロールを与えたのか。

それは、音楽こそが、世界の共通言語であるからだと俺は思います。

言葉とは、神を表すもの。
形もなく、存在もしない神を指し示すことができるもの。

そして音という目に見えない現象を媒体とするからこそ。
音楽こそは唯一、神の形を、その手触りを、表現することができる芸術手段。

そしてロックンロールこそは、個人の肉体と精神を唯一初めて完全に表現できる音楽形態だったからです。

そしてその個人の肉体と精神の表現の先に、あるのはキリスト。

ロックンロールこそが、個人に対してのキリストと成り得る。そして鳴り得る。

それが神が、人間にロックンロールを与えた理由です。

聖書には、明確に、神はロックである、と書いてある。

そして、俺はイエス・キリストこそがロックンロールであると、何の疑いもなく信じています。

なぜなら、世の中には、そしてロックの世界にも、正しいものもあれば、間違ったものもある。多種多様に、いろんなものがあり、あらゆるものがある。

けれども、唯一、本当に真実なのは、イエス・キリストだけだからです。

武士道も。
ブルーズも。
そしてロックンロールも。
すべてはイエス・キリストにたどり着きます。

[勝利とは何か]

誰もが人生の中で勝利したいと考えています。

でも、その勝利というものは、いったいどういうものなのか。

多くの人は、それをわかっていない。

欲しいものが何かをわからずに、それをつかみ取ることはできない。

目的をわからないままで、成功を収めることはできない。

俺は、勝利とは最上のものをつかみとることだと考えています。

作曲家であれば、最上の作曲技法を手に入れ、最上の楽曲を作り出すこと。
ギタリストであれば、最上の演奏技術と、最上のギターを手に入れ、最上のサウンドを鳴らすこと。
男性であれば、最上の女性と出会い、最上の人生を送ること。
女性であれば、それは知らん(笑) ちょっとでもマシな男性と出会うことか。

料理人であれば、最上の素材と、最上の技術を手に入れ、最上の料理を作り出すこと。

そしてもし自分が王様であれば、最上の召使い、最上の奴隷が欲しい。
そしてもし自分が奴隷であれば、最上の主人に仕えたい。

けれども、どちらが奴隷で、どちらが主人かなんて、誰にいったいわかるだろうか。
主人と奴隷の間に、いったいどれだけの違いがあるだろうか。

同じように、僕は最上の世界において、最上の政治が欲しい。
そして最上の国に生きて、最上の人生を送りたい。
そして、なにより音楽家として、もっともっと高みを目指したい。

俺はけっこう極端な人間です。そのことを否定する気はないです。
だから俺はこの世界に対しても、そして自分の祖国である日本に対しても、
最上のものを望み、そうでなければ、いらない。

それくらい俺の理想は高いです。
その部分における俺の勝利は、あるいは手に入らないかもしれない。
でもそれでもいい。

なぜなら、
俺の人生における勝利は、最上の戦いをすることです。

でも何が最上なのか、その答えは誰にもわからない。
そして、わかってたまるものか。

人の人生には、それぞれ目的がある。

そしてそこには、勝利もあれば敗北もある。

けれども、最上のものをつかむことが勝利だとすれば、
いったいどうすれば最上のものをつかむことができるのか。

それよりなにより、
いったいどうすれば、最上のものを知り、そして見分けることができるのか。

その勝利だけは、誰にも、サタンにも、どんな権力者にも、
奪い去ることはできないものです。

最終的に、人はその信仰によって裁かれる。
最上の答え=キリストを、君はつかむことができたか。
君の手にした答えが、当たりか、ハズレか、
その時にわかる。

その他のことは、
大したことじゃないです。

[誰が味方で、誰が敵なのか]

この世界は、サタンによって支配されている、と、聖書にはあります。
そうらしいです。
悪魔にはこの世の一切の権力が、任されているからです。(ルカ4:6とか、第一ヨハネ5:19とか)
そんなの言われるまでもなく、ろくでもない世界です。

この世の支配者って誰なんでしょうか。
世の中はたくさんの悪いニュースで満ちあふれ、悲劇や不幸が起こり、問題であふれています。
それらのものの背後にいるのは誰なんでしょうか。

どこかの宗教組織でしょうか。
どこかの秘密結社でしょうか。
どこかの国の政府でしょうか。
それともどこかの財閥でしょうか。

俺は、誰でもいいと思っています。

俺たちは、誰に対して戦っているのか。

俺たちは、サタン(悪魔)に対して戦っているんです。

そして、俺たちは、誰のために戦っているのか。
俺たちの味方は、誰なのか。

俺たちは、キリスト(イエス・キリスト、神)のために戦っているんです。

そして、それで十分だと思います。

そして、単純に見えますが、現状は複雑なので、
その本質を、忘れちゃいけないと思います。

別に俺たちは、どっかの宗教組織と戦ってるわけじゃない。
そして、どっかの国と戦ってるわけでもない。
また、どっかの国の政府と戦ってるわけでもない。
いわんや、特定の個人と戦っているわけじゃない。

俺たちが戦うべきは、サタンっちゅーやつなわけです。

いちばん怖いのは、目の前に戦に勝ったつもりで、
実は気付かないうちに、しっかりサタンに負けていること。
スーパー空しい勝利です。
で、負けたことにすら気付かない。
繰り返す人類の歴史って感じです。

そして、この世界を支配しているのが誰であるにせよ、
俺たちは、それを、気にする必要はない。
そして、この世界を支配しているのが誰であるにせよ、
俺たちはそれを恐れることはない。

なぜなら、
この世の、この宇宙の、本当の主とは誰か。

それは、神っすね。

それでいいんじゃないかと、俺は思います。

[ままごととリアル]

この世の支配者と、その奴隷について考えたいんです。

皆さんは、ゲームとかしますか?
コンピューターゲームとか、テレビゲームのことです。

昔だったら、ファミコンがあったし、プレステとか、
今はみんな、iPhoneとか、スマートフォンで、ゲームするのかな。

俺は、中学生以降は、あんましゲームしなくなり、
大人になって、まあ遊び人のようなバンドマンやっていても、
コンピューターゲームは、ほとんどやっていません。
あんまり興味もないです。

まあ、もちろん、大人になってからも、数回くらいは、
ちょっとやってみたこともある。
現実逃避とか、あと、げんかつぎ、ってわけじゃなけれど、
「ツアーから生きて帰ってきたら、このゲームをやろう」と思って、
買っておいて、で、無事に帰ってきたんだけど、結局やらない、とか。

でも、3、4年前に、いっぺん、iPhoneにファイナルファンタジーをダウンロードして、ちょっと遊んだことがありました。今もまだ、iPhoneに入ってそのままになってますが、それ以来起動すらしてません。

ゲームにあまり興味がわかないのは、それがリアルではないからです。
ゲームの、架空の世界で、作られたゲームの世界でいろいろやるよりも、現実に、楽器を演奏したり、音楽を人に聴いてもらったり、人に会って話したり、またスケートボードをしたり、自分の技術やらを磨く方が、何倍も楽しく、意義がある、と思うからです。

けれども、そのとき、はたと考え込んでしまった。
リアルとは、なんぞや、と。

なるほど、確かに、iPhoneにダウンロードしたファイナルファンタジーの世界は、リアルではないかもしれない。
たぶん、現実にスケートボードやる方が、まだリアルだろう。

けれども、僕がリアルだと思ってやっているいろんな事。
そして、僕がリアルだと思って生きているこの世界は、
果たして、本当にリアルなんだろうか、と。

もっとリアルなものがあるんではないだろうか。
そして、リアルとはいったい何だろう、と。

たぶん、俺が思うにこの世界の現実は、
それほどリアルではないと思うんです。

でも、リアルというものは確かに存在する。
それは、たぶん、その人、ひとりひとり、違う。

ひとりひとりが思う、リアルなもの。
音楽家にとっては、音楽がリアルだし、
投資家にとっては株価がリアルでしょう。
酪農家にとっては牛がリアルでしょうし、
兵士にとってはマシンガンがリアルでしょう。

人にとって、本当に大事なものは、
たぶんそのリアル。

この世の、あまりリアルではない現実の中で、
自身にとってのよりリアルなものを追い求めるのが、人の人生ではないかと思います。

そして、そんなリアルをつかみ取ることができるのか、できないのか。

たとえば、子供がままごとをしているとします。
近所の子供たちと集まって、ままごとをしている。
ある子は、先生の役をやって、ある子は、生徒の役をやっている。
またある子は、泥棒の役をやって、別の子は、警察の役をやっている。
あるいは、社長さんの役をやって、別の子は、用務員さんの役をやっているかもしれない。

けれども、その様子を見て、台所で夕飯の支度をしているお母さんは、
そのことにいちいち、めくじらを立てたり、気にしたり、するでしょうか。

「どうしてうちの子が泥棒なの?警察をやらせなさい。」
とか、
「うちの子を社長にしなさいよ」
とか、しゃしゃり出てくるでしょうか。

まあ最近の世の中だとそういうお母さんもいるかもしれませんが、
普通は気にしませんよね、
子供たちがままごとの中で、どんな役をやろうと、
それは、ままごとの中のことですから。
リアルではないですから。

でも、神から見たら。
俺たちの生きているこの世界の現実は、
それと同じくらいの感じの、
あまりリアルでない世界なんじゃないかと
思うことが度々あるのです。

だから、この世界の中で、
誰が王様だとか、誰が家来だとか、
あんまり関係ないのじゃないか。
もっと大事なもの、もっとリアルなことは、違うところにあるんじゃないか。

だからといって、
すべてがどうでもいいというわけじゃない。
ゲームにはゲームのルールがあり、
ままごとには、ままごとのルールがある。

けれども、本当にリアルなものを見つけたのであれば、
どんな権力であれ、地位であれ、社会的立場であれ、
恐れる必要はないのだと、そう思います。

[創造する力、親方と弟子]

では、俺たちが最後に作るべきものとは何でしょうか。

俺たちが、何も恐れることなく、
この世の権力も、暴君も、
死すらも恐れることなく、
キリストという魂の道を、
進んでいけるのは、
何故なのか。

それは、俺たちに与えられた力であると思います。

神の御前で、俺たちが最後に為すべきこと。

それは、宇宙の創造です。
そして、命の創造です。

俺たちは、神に仕えるもの。
そして、キリストの弟子です。

神の職業って何だろう。
神の職業は、神。
でも、強いていえば、創造主?

たとえば、
バイオリン職人に弟子入りしたとすれば、
最後に親方に認められて一人前になるには、
バイオリンを作ります。

大工さんに弟子入りしたら、
親方に認められるための試験は、
やはり、家を作ることだと思います。

寿司職人に弟子入りしたとすれば、
親方に認められて一人前になるには、
親方と同じように寿司を作ると思います。

だから、創造主である神に弟子入りしたとなれば、
やっぱり、
世界を作らなくてはいけません。

騒ぐ必要はないですよ。
そんな大仰なことじゃないです。

だって、俺、いつもやってるもん、それ。
音楽を通じて。

そしてそれは別に、音楽家に限らないでしょう。

その力が、俺たちには与えられている。

そして、キリストの命が、俺たちには与えられている。

そっから先は、言う必要が少しもないです。

世界を作れないやつに、神の御前で、なんにも言う資格はない。

「落第だね。作れんやん。何しとったんや、お前、現世で。」

神さん(親方)に怒られるぞー。

ままごとしてる場合じゃないと思うの。

[世界一元気な病人として]

さて俺はいかれています。
でも別にそれはずいぶん昔からわかっていることなので、
今更言ってもらわなくても大丈夫です。

俺は人並みの成功ということを思うんです。

俺は病気です。
でも、どういうわけか、俺は病人にしては随分元気なんです。

それは、いろいろな幸運が重なったからであり、
たまたま運が良かったからであり、
また、神さんがそのための力を与えてくれたからだと思っています。

俺はいじめられっこだったけれど、
いじめを克服することができた。
また、愛した人と一緒になることができた。
自分を救ってくれた音楽に出会うことができた。
信じたものをつかみとることができた。

なので俺は、病人であっても、ここまで歩くことができた。
でもそれは、運が良かったからだと思っています。

この日本中にたくさんいる、病気の仲間たち。
立ち上がることすらできない人が、たくさんいるのを知っています。
俺も、彼らと変わりない。
たまたま、ちょっと巡り合わせが良かっただけ。

だから、俺がrepresent(代弁)すべきは、そうした人たちです。

そして、そんな病気の俺に、人並みの世間的な成功などおこがましい。

よくわかっています。

これが俺の、人生に対する基本の姿勢です。

そんな俺ですが、
急に思い立ってこんな文章を書いているのは、
世の中に対してショックを受け、
いたたまれなくなったからです。

俺の頭の中にはやたらめったら「そういう感じの」情報が流れて来ます。
つまりは、
18000Hzの音が、他の人には聴こえないのに、
自分には聴こえたりするのと同じことです。

俺は結構、曲が書ける方です。
たくさん書けます。
ミュージシャン人生やってて、
今まででも、「曲が書けない」なんてことは無かったです。
どちらかというと、勝手に曲が出来てしまい、溢れてきてしまうので、
意識的に曲を書かないように蓋をしないといけなかった方です。

でも、そういうふうに曲が書けるってことは、
タダでそうなってるわけではないということです。
代償があります。

つまり、いろいろとかなりしんどい、ということです。

どうしんどいのか、それは言えないです。

でも、自分で求め、背負った運命であれば、
まあね。

自分には何の力もありません。
なくてよかったと思います。

もし自分になんらかの力があったなら、
たとえば、ミサイルを発射するスイッチがあったなら、
地球を滅亡させるボタンがあったなら、
とっくの昔に僕はそれを押していたと思うからです。

だから僕にはそういう権限は与えられていない。

与えられているとすれば、それは。

わからんです。

でも俺は、今、自分のバンドImari Tones (伊万里音色)で、
次のアルバム”Jesus Wind”(仮)に取り組んでいます。
そろそろ半分近くまでリハーサルが進んでいます。
まだまだ時間はかかるけれども。

それは、俺なりに、旧約聖書の預言者の真似をして。
神の言葉を、預言書を書いてみたいと思ったからです。

コンセプトアルバムで、ストーリーがあるのだけれど、
あまり、ハッピーなストーリーではない。

でも、最後には、革命が起こり、新しい世界が始まるような、
そんな結末に、なるようです。

誰かが言っていた言葉かもしれないが、
預言者つーか、予言者にとって、
本当の勝利とは、予言が外れることです。

なぜなら、大抵の場合、予言とか預言は、ひどい災難とか、大変な内容だからです。

それが現実になるように、ではなくて、
どっちかというと、それが現実にならないように、
予言者は言葉をしたためる。

神の預言は、必ず成就するけれども、
人々がそれに、耳を傾けることを願って、
少しでも災難を避けることができるよう、
預言者は命をかけて言葉を伝える。

預言者は、神の霊によって預言をします。
でも、世の中には偽物の預言者もたくさんいる。

俺も霊によって言葉をつづり、
音楽を奏でているけれど、
それが神の霊なのか、悪魔の霊なのか、
それは自分で言えないです。
人間にわかるはずがない。

だから、預言者ワナビーとしては、
せめてもの良心で、こう言います。

「さぁ・・・間違ってるかもねぇ〜」

皆さんに、神の祝福があり、また皆さんが人生において、勝利をつかみとることができますよう。

そして、最後に書いておきましょう。

この文章は、正しいとか、正しくないとか、そういうことのために書いたものではないです。

また、自分の心の内面のために書いたものであり、他人のために書いたものでもないです。

なので、最初に書いたとおり、これを読んだ人が、この人、変人だね、とか、変わってるね、とか思われるのは、本望でありますが、

これは間違ってるよ、と、わざわざ指摘してくれたりする親切な方々や、友人たちには、あらかじめ言っておきます。

「もちろん間違ってるさ。俺たちはみんな、間違ってる。唯一間違ってないのは、イエス・キリストただ一人さ。」

God bless you all.
In Jesus’ name.

No(4344)

■…2015年 2月15日 (Sun)…….Valentine’s Day photo session
こちら
Imari Tones photo by Midori
これはわりとやわらかい写真。
Many many more to come.

フォトセッション、というのか、アー写撮影、というのか、写真撮影をしてきた。
ご協力いただいた方々、感謝します。
良い写真がたくさん撮れました。少しずつ使っていこうかと。
たぶんようやく、数年そのままになっているFacebookのプロフィール写真もそろそろ変更できるかと思います(笑)

アー写撮影、みたいなことをするのも、僕らも単なる無名のインディーバンドですし、
そんなしょっちゅう写真撮影とかするわけじゃありません。
しかも面倒なことのきらいなうちのバンドのこと、
今回も重い腰を上げてやった感じですが。

今までやった写真撮影だと、たとえば教会の関係者の中に、写真を勉強している人がいたり、それで2009年に初めてわりとちゃんとした形の写真を撮ってもらい。あるいは2010年にやった撮影の場合は、本当にプロの写真家の方に、つまりは教会関係者の中にプロの写真家の方が居たので。お願いすることができたわけです。確かその2010年にやった写真撮影のときには、ヤオ牧師のレゲエバンド用の写真も一緒に撮って。で、すごく良い写真が撮れたので、ウェブサイトとか、プレスキットとか、そういうところに使うことが出来たわけです。今でも使ってるし、これからも使うと思うけれど。

で、その後、いろいろ忙しく、面倒なので、写真撮影などもせず、ただ、アルバムのカバー用に撮る必要があるよね、って言って、(今は亡き)小田急相模原のロクデナシの前で安いカメラでさっくり撮った写真が、”Japan Metal Jesus”の裏ジャケに採用され。それが2012年のこと。それからさらに2年半が経過してしまったわけで。

で、今回、撮るぞ。よし撮るぞ。そろそろ撮るぞ。なんとしても撮るぞ、と思い。
場所をどうする、というところから。バンドやってる皆さんわかると思いますが、それっぽい写真撮るのにも、場所の選定からしてすでに難しく。
広い場所があって雰囲気のある場所がたくさんある外国ならまだしも、日本の環境でそういう場所を探すのは簡単ではなく。まあアイディア次第ではもちろんありますが。

今までは、音楽スタジオというかリハーサルスタジオのダンスルームを使う、というふうにして過去2度は撮影してたんですが、今回は違うところでやりたい。というのは、そのスタジオのダンスルームは、靴を脱がなきゃいけないんで、その2010年に撮ったちゃんとしたアー写にしても、皆、靴を脱いでいて、靴下なわけです。

で、うちのバンドは幸か不幸か、わりと海外向けに発信してる感じになっているので、
海外の人たちには、「日本では建物の中では靴を脱がなくてはいけない」というのがわからないため、それらの写真にも「なんで靴を履いてないんだ。なんで靴下なんだ。」というコメントが連続して付くという、文化の壁を飛び越えるよりも先に壁の方が人間を飛び越えてしまう状態がありまして。

で、今回、使ったのが、地域の文化ホール的な。まあ現実的なチョイスだったと思います。こういう場所、初めて予約しましたが、使い道はいろいろありますね。今までこういう公共の施設のお世話になることを思いつかなかった。不徳の致す所沢航空公園。

で、次に、誰に撮ってもらおうかと。
いろいろあれなので、自分でカメラを買うことも考えました。
でも、高いし、それに自分で使うのも簡単じゃないでしょ。
カメラを趣味にするのも、とても楽しそうだし、いろいろ可能性がありそうだけれど、
音楽やってて、クリスチャンやってて、スケートボードやってる、っていう三重苦なので(三重楽、と読みたいけれど)、これ以上うかつに何かにはまりたくないし。

けれども今回は、Midoriさんと、Nobuさんにお願いすることができた。
本当にありがとう!!!!

とてもノリノリで撮影していただいたので、バンドの面々もかなり乗せられて(あれでもずいぶんのっていたほうです・笑)、ノリノリで被写体になることができました。本当によかった。

Midoriさんは柔らかい光で、またアイディアもいろいろ感じられる構図で、バンドの表情をとても捉えてくれたし、
Nobuさんは、カメラの色調なのか、深みのある色で、ばしっと決まった構図で撮っていただき、
結果的に、使える写真がたくさん撮れた。
最高の形で撮ってもらえたと思います。
本当によかった。

また、今現在、バンドの居る状態、立って居る場所、ならびにこれから向かう音楽的な場所、という意味で、
光の具合なのかカメラの具合なのか、ちょっとサムライっぽい、武士道を感じさせる雰囲気の写真が撮れたのがよかった。
古い写真みたい、というのか、
どこの維新志士だよ、みたいな劇画調の絵になっているのが何枚も。

まあ音楽的に考えれば、神さんはいろいろ僕にこれまでもインスピレーションを与えてくれますが、
神は僕にエレクトリックギターを、そしてロックンロールを、そしてVan Halenを、そしてうちの嫁さんというインスピレーションを。
その後、神さんは僕にクリスチャニティというインスピレーションを与え、
2012年にはスケートボードというインスピレーションを与えて、
最近ではまた武士道とブルーズというキーワードを与えてくれました。
もっといっぱいありますが省略です。

与えてもらいまくりなんですが、

そういえば今回、昨日の撮影でひとつ発見したことがありました。
写真撮影に持っていったのは、ここ一年半ほど愛用している、Bacchus 「猫ポール」ならびに、Hamer Korina Vなんですが、

発見したのは、ヘアワックスはどうやらラッカー塗装によくない、ということ。

うちの「猫ポール」は、入手した際、お茶の水の某楽器店で、売れ残りで激安になってたやつです。ちょい傷価格、みたいな感じで。

で、確かにそのときから、ネック裏に、指紋のような跡がついていた。

「猫ポール」は、塗装はトップラッカーなので、ラッカーつっても表面だけで、だからそんなに気を使う必要はないといえばない。けれども、そのネック裏の指紋の跡を見て、ああ、これもたぶん「ちょい傷価格」の理由なんだろう、と思っていた次第。

そして僕も、お店で売ってる中古のギターとか、おそらくはラッカーの塗装についてしまったであろう、そういった指紋の跡みたいな汚れや白濁は、何度も目にしたことがあります。

でも、それがどういうふうにしてつくのかわからなかった。

昨日の写真撮影で、めずらしく僕がシャワーの跡「髪の毛をドライヤーで乾かした」というポストをしたと思いますが、撮影にあたって、さらに、普段まったくほとんど使わない整髪料、ということでヘアワックスを少し付けてみた。

そして一夜明けて「猫ポール」を見てみると、指紋の跡が、いくつか白濁した状態でついてしまっています。
そうか、ヘアワックスが原因だったのだな、と。

ヘアワックスだか、整髪料だか、に含まれる成分が、ラッカー塗装と化学反応を起こして、跡が残ってしまうのだろう、と思います。
だから、たぶんギターのリペア屋さんとか、楽器屋さんとか、塗装に携わる人とか、ひょっとしたらそういった整髪料には気をつけているのかもしれません。

まあ、しかしちょいと汚れの跡が付くくらいはもちろん気にしません。
「猫ポール」は、手放す気のまったくないギターNo.1なので、売る際の心配もしないし。

しかし同様に撮影に使用したHamer USAのフライングVに関しては、指紋の跡などは残っていませんでした。
Hamerに関しては、これはオールラッカーだと思うんだけれど、前からなんとなく気付いていたし、ネットのどこかでも読んだ気がするけれど、あるいはわりと丈夫な、化学変化や温度差などに比較的強いブレンドのラッカー塗装をしているのだろうか、と思う。ある時期以降のHamerは。
だからといって気を使わなくていいわけではないと思うが、そこまで繊細でないのは助かる。

まあこのHamer USA Korina Vectorは、当時、日本市場向けに少量作られたものという経緯があるので、実はラッカー塗装ではない、というオチもあるかもしれないが、触った感触とか質感で、僕にはラッカーのように思えます。

いずれにせよ僕は塗装に関しては別にラッカー信者というわけではない。
猫ポールはトップラッカーだが、サウンドには150%満足しているし、ラッカーにはラッカーのサウンドがあり、ウレタンにはウレタンのサウンドがあり、トップラッカーも同様だし、オイルフィニッシュにはオイルフィニッシュのサウンドがある。

それはサウンドの最後の表面のお化粧のような質感の違いであって、それぞれに特徴はあれど、これでなくてはいけない、というものではない。適材適所というか。

まあでもやっぱ面倒ですよラッカー塗装の楽器。

とにもかくにも、ここ1、2年でも自分の音楽的な志向するものについても、
自分の中ではいろいろと進化、発見、発展があったし、
「猫ポール」や「Hamer Korina」と共に、武士道モードに突入しつつあるImari Tonesの姿を写真に収めることができたのは感謝だ。

「猫ポール」やHamer Korinaなどのギター、決して高いものではないが、
今にして思えば、空から少しばかりの予算が降ってきた。
けれどもそれらのお金にしても、無条件で降ってきたものではない。
No strings attached (なんの罠も条件もない) とはいかなかった。

その本人から言われたには、
この予算は自らの武士道を追求し究めるために使えと。
そして自分の身の成功や野心のためではなく、
たとえば諸外国に攻め入るために使うのではなく、
むしろ世界の人々をこの国に招き、この国の精神文化の発展のために使用せよ、
という使途目的が指定されていた。
サムライのコスプレで言われたんだよ(笑)

なぜサムライのコスプレだったのか、
その時はわからなかったが、
今、その理由は少しずつ、わかるようになった。

だから僕はこうして2年連続でUSA/Canadaからアーティストを招いて、日本の友人たちとともにThe Extreme Tour Japanを行うことができたと思う。

だからといって今年もやれるとは限らん。

でも、いろいろなものが見えた。

世界に向けて、鳴らすべきものは。

日本人+クリスチャニティ、
イコール武士道。

それまで生きていられれば。
鳴らせるまで、生きていられれば。
願わくば。

No(4345)

■…2015年 2月21日 (Sat)…….スケート撮影終了
こちら

Music Video “Born To Ride”のための、スケート撮影期間、終了〜〜!!
いやー疲れた。
でもがんばった。
今の自分に出来ることはだいたい全部しぼり出しました。
スケートボード始めて2年ちょい。
年齢を考えれば、かなりがんばったと思っています。
(まあ遊び人のバンドマンという状況は有利ではあるが)

で、結果。
事前に計画していたトリックがどれだけ決まったか。

TreFlip: 成功
Ollie Impossible: 成功しまくり
360 Shove-It: 成功
Front Side 360: なんとか成功。というか、280度くらい回ってあとはピボット。それで十分。
Front Side Flip: 成功
Back Side Flip: 成功
Varial Flip: 成功
Varial Heel Flip: これは結局出来なかった〜。でも、ほぼ決まりというか、決めて乗りゴケの映像は撮れたので、十分。
Front Side Heel Flip: 成功
Back Side Big Spin: これでもかってくらい成功
Manual: きれいな路面で自己記録、ってことは出来なかったけれど、必要な秒数は撮影できた。(曲のBメロ、というか10小節ぶん)
Kick Flip: まあ普通に。きれいではないけど。まあ決めの部分にはYokohama Dreamingのビデオ作るときにやった「ギター持ってキックフリップ」の映像を使うし。
Front Side 180: 普通に何度か。
Back Side 180: 普通に何度か。
Ollie: まあ今の自分にできるマシな部類のオーリーは何度か撮れた
No Comply (F/S & B/S): 1、2度やったけど、地味なのでたぶん使わない。

以上です。

やれたらいいな、と計画したトリックのうち、Varial Heelを除いては全部成功。
しかもVarial Heelも乗りゴケまではいった、ということで、
限りなく完全達成に近い。
自分としては大成功です。
やったー。
よかったー。
つかれたー。

たった2年ちょいではありますが、
今までのがんばりを映像にまとめることができるよ。

そうそう、そもそもこの映像を撮ろうと思ったのは、
一年半前にYouTubeにアップした「スケート始めて10ヶ月」の動画が、一万アクセス越えてしまって恥ずかしかったから・・・

でも、その「10ヶ月」の動画もそうだけれど、
上手くなる過程というか、そのときそのときで、がんばりを記録するのに意味があるかなと。
つまり、トレフリップにしても、上級者にとっては、どうってことのない技。
だけれども、まだまだ未熟な自分が、何度も失敗しながら成功させるから、ストーリーが生まれるかなと。

で、所感。

まずはなんといってもトレフリップがちゃんとカメラの前で決まってくれたのがよかった!
これはちょっと自分でも感動だった。
昨年の8月に初めて決めて以来、一応、ちょくちょくやってた技ではあるんだけれど、出来たり出来なかったりで、完全に自分のものにしたって感じじゃなかったからね。
きれいに決まって良かったよ!

そして、今週のことですが、フロントフリップ。
これは、撮影始めようと計画していた2月初旬の時点で、フロントフリップの調子がすごく悪くなっていたので、今回は無理かなーと半ばあきらめていたトリック。
そしたら、昨日のことですね、あれ、なんか、やれそうだな、という感じになり、半決まりを連発。
そして今日、ばっちり成功させましたー。これはちょっとラッキーというか嬉しいな。出来ると思わなかったよ。

で、撮影は2週間の期間のうちに何度かやったんですが、
最初のうち、カメラ回したら、精神的にも焦るし、カメラの位置とかいろいろ気にしていつものように技が出せないし、まったく絶不調でびっくりした。
まあ、普段はリラックスして、技を決めるのでも、「適当でいいや。きれいに決めなくてもぜんぜんオッケー」って感じなのが、映像に残そうと思うと、やっぱある程度きれいに決めないといけないし。
で、ぜんぜん調子悪かったんだけれども。撮影にあたってSDSのブランクデッキに急に切り替えたのも影響し。どうやって板をはじくのか、それすらわかんなくなった。

でも、今週というか、最終の二日間で、やっと調子が出てきた。そしてやっと最終日、カメラを回しても、ちょっとリラックスして楽しんでスケートすることができた。

よかったー。

でも調子が悪いとかカメラ回すの慣れてない、とかいいつつも、必要な技は(100回トライして2、3回成功する、くらいの確率であったとしても笑)ちゃんと決めていたので、その集中力は誉めてあげよう自分を。

まあそらレコーディングでもライヴでも何度もやっておるからの。
そう思えば。

撮影中にいっぺん、DarkStarのデッキに戻して試してみた。
それは、SDSのデッキが操作のハードル高いので、不調のときには余計になんにもできなくなったから。
Darkstarのデッキはコンケーブ深いし、キックも弾きやすい形なので、それでようやく「どうやって弾いていたのか思い出した」。でもそしたら、SDSでも出来るような気がしたので戻した!そしたら復調した!

結果、なんか結果的には、SDSデッキは、形状の関係で、しっかり弾かないと反応してくれないけれど、ちゃんと弾くとちゃんと反応してくれるので、結果的に、SDSデッキを使ったときの方がいろいろ成功していた!

というわけで、ひさしぶりに使ったけれど、これは俺はSDSデッキ今後もちょくちょく使うかもしれない。
なによりやっぱり音がいい。

これ大事。ミュージシャンのはしくれですから、やっぱり。
弾いたときの音は大事。

というわけであとはバンドの映像を撮影したら、
急いで”Born To Ride”のビデオを作ります!!

自分のスケート映像のBGMを、自分たちのバンドの曲でやれるのだから、それはちょっと良いね!

そこばかりは、たとえスケートはまだまだ下手っぴでも、他のスケーターさんとちょっと違うところかもしれない!

写真は、あれだ、自分にしてはマシな部類のオーリーだけれど、
カメラの前の静止オーリーだし、前足を突き出せていないので、板が水平になる絵を選ぶと、高さのピークをちょっと過ぎた後。
だから、ちょっと既に落ちてきてる図だけれど、まあそうさね、そのうちもっと高く飛べるようになるさ。

そうそう、所感、もうひとつ大事なことあった。

フラットトリックばかりやっているとはいっても、
撮影でどんどん挑戦して、何十回、何百回とコケまくり。
それで、自分の手首をどうやって守ったか。

つまり自分はギタリストなので、手首は守りたい。
いつも手首にリストガードを付けてスケートするのもそれが理由。

で、今回気付いたのは、市販のリストガードを付けていたとしても、
手首を完全には守れない。

転んだときに、どうしても思わず手をついてしまうことがある。
そのときに、市販のリストガードは、残念ながら、手首を守ってくれるような構造をしていない。
つまり、衝撃をやわらげるクッションとかは、付いていない。

それは、保護機能が不完全であるのだから、
メーカーさんはもっと仕事していいし、そういう提案を誰かがしてもいい。

だから僕は今回どうやったかというと、
リストガードの中に、「インソール」を切ったやつを入れた。

あれだ、Footprint Insoleの、King Foamってやつ。
卵を落としても割れませんよ、っていう謳い文句の。

卵を落としても割れない衝撃吸収力を信じて、
それをリストガードの手首部分に入れておいた。

おかげで、撮影中に、何度もトライして、
何十回、何百回とコケても、僕の手首は大丈夫だった。

少なくともダメージは10ぶんの1くらいにはなったと思う。
ちゃんとギターも弾ける。

もしこれをやってなかったら、
きっと3回くらい手首を骨折していたと思う(笑)
いや、冗談ではなく。

サンキュージーザス!
Thank you Jesus for Skateboarding!!

No(4346)

■…2015年 2月23日 (Mon)…….2014年音楽リスト投稿の
毎年某サイトに投稿させていただいているやつです

2014年に聴いた新譜

2014年は旧譜もいろいろ良いものを聴きましたが、面倒なので新譜に限ってリストアップします。新譜はどうしても嫁さんが買ってくるものを聴くので若干チョイスが偏りますが。ざっとiTunesを眺めて、目についたものを。なにか忘れてたらすみません。旧譜に関してはいろいろと手を広げて聴いた年でしたが、新譜に関しては前から追っているお気に入りのバンドを順当にフォローした感じです。

1位
CODAMA Through “A Codama runs through it”
90年代に活躍したJ-Popのシンガーソングライター、熊谷幸子さんのユニットCODAMA Throughの正式デビュー作品というべきEP。6曲入りのハーフアルバムではありますが、2014年にもっとも心に響いたという意味ではやはりこれがトップかなあ。熊谷さんの優れた作曲技法と、力強いメッセージ性が合わさって、あるいは世界のどこにあるよりも今いちばん強靭な音を紡いでいるかもしれません。メッセージ性の強い「けもの」は鳥肌ものでした。

2位
+/-{plus/minus} “Jumping The Tracks”
大好きなニューヨークのインディーバンドの、実に2008年以来、5年半ぶりとなる新譜。その間、未発表曲のコンピレーションアルバムを出したり、震災のベネフィットアルバムに楽曲を提供してはいたが、そこから数えても3年は待たされたので、待ちくたびれた、待ちに待った新譜だ。個人的には本当に現代ロックのいちばん先端を鳴らしていた彼らの、その次の音がどんなものなのか本当に楽しみにしていた。けれども、音が届いてみれば、5年もの間に、家庭を持ち、生活が変わってしまった彼らの音は、少しばかりなまぬるいものだった。結果、このアルバムは僕が欲していたものとは少し違い、待ち続けた彼らの新譜も、「その先」が聴きたいという僕の渇きを完全に癒してくれることはなかった。けれども、そこに見えるあたたかくも荒涼とした景色は、先端を走り続けた彼らだけにしか見えないものだ。そして、やはり心に染みる曲がいくつもあり、結果的にはたくさん聴いた。現代という時代を生きるインディーズミュージシャンとして、このアルバムの音と風景に、考えさせられることはいくつもあり、僕にはそれで十分だとも言える。個人的には”Running The Distance”が非常に泣けた。

3位
Vandenberg’s Moonkings “MoonKings”
ヴィンテージ系のレスポールサウンドでハードロックを弾くことに関しては世界でも第一人者の一人であろう、エイドリアン・ヴァンデンバーグの復活作。
ソングライティング的には、特に奇をてらった所もなく、新しさも無く、ストレートなZeppelin系のハードロックだが、この「本物感」は凄い。伝統的なハードロックのお手本とも言うべきバンドサウンド、そして最高のギターサウンドと、表情豊かで無駄のないギタープレイは至高と言える。才能も経験も積んだ最高のミュージシャンによって生み出された、これがハードロックだというひとつの最高のサンプル。長く愛聴することができそうな一枚。

以下順位なし

Switchfoot “Fading West”
2000年代を代表する王道のアメリカンバンドのひとつであり、クリスチャンミュージックのマーケットでも根強い支持を持つスイッチフットの最新作。なんでも同名の映画のサウンドトラックとして作成したらしい。これはつまり、映画のサウンドトラックという枠の中で音楽を作ると、何もコンセプトを持たずに自由に作るよりもより機能性にフォーカスした音楽が作れることがあるが、それならば映画を自分たちで作って、そのサウンドトラックを自分たちで作ってしまえ、というノリのようだ。しかしそれは、誰もが真似できることではない。サウンドは非常にポップで、80年代的というのか、ピコピコ、かつ、キラキラしている。だがサーファーという背景を持ったバンドのカラーが強く表れた作品でもある。非常にさわやかで、直球のメッセージ性が素直に入ってくる。

Demon Hunter “Extremist”
シアトルを拠点とする、クリスチャン・メタルコアの重鎮の最新作。
2012年の前作”True Defiance”が非常に良かっただけに、2年のインターバルを感じさせず、え、もう新譜?という印象を持った。そしてなんとなく予感していたのだけれど、非常にポップかつわかりやすくストレートな音楽性を強調した作品になっていた。悪くいえば安直、というか。なので最初は少し拒否感を覚えたが、強力な楽曲はいくつもあり、聞き込むと、なんだかんだDemon Hunterらしさが伝わってくる。また歌詞にこめられらメッセージ性もいつも以上に強く、表面上をいくらストレートにしようとも薄まることのないこのバンドの表現の核を感じる作品だった。

Imogen Heap “Sparks”
現代UKの代表的なエレクトロ系歌姫であるImogen Heapの最新作。
作風は期待通りで、21世紀の歌姫として間違いのない「進歩的な」サウンドと楽曲を提供している。クオリティも非常に高い。
だけれども、ところどころに挿入された(現地で録音したとおぼしき)中国っぽいサウンドとか、民族っぽい要素が、なんだかわざとらしい。そのあたりを自然にブレンドできずに、わざとらしく取って付けたようになってしまうのは、現代のポップミュージックの限界だろうか。いや、たぶん、というよりも、彼女は自分に期待されるものをよくわかっていて、それを演じて見せただけなのだろうな。

Judas Priest “Redeemer of Souls”
ヘヴィメタルの大御所の、あるいはいよいよラストアルバムになるかもしれない最新作。自分はプリーストは大好きなバンドだけれども、このベテランの新譜に、大きな期待は持っていなかった。きっと予定調和の中で作られた、安定はすれど退屈な型どおりのヘヴィメタルを聴かされるだろうと。
果たして届けられたのは確かに予定調和っぽい型どおりのヘヴィメタルだったが、その型の中において、クオリティが非常に高かった。もうこのバンドに新鮮な驚きを覚えることは無いだろうと思っていたのだが、ひとつでもふたつでも、このアルバムの中に驚きの要素があるだけで、自分としては期待以上の作品だった。実質的にはK.K.Downingの後任であるRichie Faulknerの色が強く出ている作品だと思うのだが、若き血の導入はどうやら大成功という結果になったようだ。正直細かいところにいろいろと不満はあるのだけれど、この大ベテランの、この年齢、この時点で、これだけの作品を作ってくるというのは、間違いなく大ホームランだと思う。

Tesla “Simplicity”
1980年代のヘヴィメタル黄金時代を駆け抜けたバンドの中でも、なんだか足に地の着いた音楽を奏でていたTeslaの最新作。
僕はTeslaは最初の3枚のアルバムしか聴いていないけれど、時代背景の中で、変に流行を追うでもなく、また変にレトロ趣味に走るでもなく、自然にハードにロックンロールするその音楽性、良い意味で「普通のアメリカのロックバンド」みたいな彼らの佇まいは素晴らしいと思っていた。そして実際その楽曲のクオリティの高さ、ストレートなようで柔軟性に富んだレベルの高い音楽性は、あるいはGuns n’ Rosesが成し遂げられなかったものを彼らは実現したのではないかと思わせるほどだ。
そんなこんなで、新譜を聴かされたのだけれど、正直なところ、その、若い頃のかつての輝きと、勢いと、派手ではないけれど素晴らしい宝石のような才能、その期待値からすると、どうにも落胆を隠せない内容だった。彼らほどの実力とキャリアがあれば、年を経て、もっともっとロックンロールの高みを極めていてもおかしくはない。けれども、現実にこのアルバムで鳴っている音は、なんだか順当に歳をとって、進化するというよりは、順当に劣化したサウンドだった。なぜだろう。誰もが歳をとり老いていくという当たり前のことを示しているだけだろうか。あるいは人は次から次へと、新たな次元への扉を開いていかなければ後は落ちていくだけだとでも言うのだろうか。ちょっと理由を考えてみたくなった。

Chaotic Resemblance “Get The Hell Out”
オクラホマ出身の、若きヘアメタルバンドにして、クリスチャンバンド、Chaotic Resemblance。かのStryperのOz Foxをプロデューサーとして制作された新作。
こうした80年代っぽいファッションでやっている若いバンドの中でも、彼らはよくやっている方だと思う。クリスチャンメタルの重鎮をプロデューサーに迎え、大きなフェスティバルにも出演を重ねて、着実に知名度を上げている。サウンドは、いかにも順当に元気の良い現代のヘアメタルといった感じだが、そこにそれ以上の特別な何かがあるかと聞かれると難しいところだ。けれども現代のシーンにおいてそういうところはもはやそれほど重要でないことも確か。僕がやっているバンドとも、やっていることとしてはそれほど遠くない。ぜひ彼らと会ってみたいし、そのうちいつか道が交わる機会もあるだろうと思っている。

War of Ages “Supreme Chaos”
ペンシルバニア出身のクリスチャンメタルコアバンドの最新作。
もともと、どストレートな男のメタルコアを展開していたバンドだけれど、こういったストレートなメタルコアがともすれば時代遅れになってきた感のある現代においても、その本質は変わらないようだ。その時々で、流行のサウンドを取り入れてはいるのだけれど、どうつくろっても、やっぱり男のゴリゴリ・メタルコア。むしろそこはやはり好感が持てる。ぶっちゃけこの新譜も、あんまり聴いてないが、そうこうしてるうちに、このタイミングで、まさかの来日決定のニュース。応援に行くかね。

Winger “Better Days Comin'”
80年代に、その華麗なルックスと、それ以上に華麗で洗練された音楽性で一世を風靡したWinger。ルックス先行のバンドと思われがちだが、ミュージシャンとしては職人気質で、その実力はまぎれも無く一流。なのだけれども、僕はなぜか、ライヴを見るたびに、このバンドが、洗練されたサウンドを得意とはすれど、決して本質的にロックバンド足り得ないことを実感してしまい、ライヴを見るたびに興味が失せていく。結果、このバンドに対する僕の認識は、「ルックス先行と思われがちだけれども、実はミュージシャンとしても実力は一流、とはいってもやっぱり最後は結局ルックスとイメージとポップサウンド」という感じになってしまった。
3作目以降、サウンドの深みと複雑さを増していったWingerだが、21世紀に入り、ヘヴィメタルが往年の年齢層の高いファンをターゲットにするようになり、かつてのポップなイメージを振り払うかのように前作2009年の”Karma”では、ヘヴィかつストレートなサウンドに徹した。今作は、その路線を受け継ぎつつも、幾分はかつてのポップで華やかなテイストも取り戻している。だが、結局中途半端な作品のように僕には思える。煮え切らない矛盾した要素をいろいろと抱えた人なのだと思う、Kip Wingerという人は。本質的にポップ職人であり、またクラシックの作曲家であるかもしれないが、根っからのロッカーという人ではないのかもしれない。

Michael Sweet “I’m Not Your Suicide”
2013年にリリースしたStryperの会心作であり実質的な復活作とも言える”No More Hell To Pay”が好評を得て、2014年には自伝のリリース、Stryperのライヴアルバム、ライヴDVD、ソロアルバムのリリース、そして2015年1月にはジョージ・リンチとのプロジェクトのアルバムをリリースと、精力的なんて言葉では間に合わないくらい忙しく活動しているMichale Sweetの、ソロアルバム。実際、この人のソングライティング能力って、今のStryperのようなアウトレットよりも、むしろこのソロアルバムのような形の方が効果的に発揮されるような気がしている。驚きこそ無いものの、普通に好盤。あんまし聴いてないけれども。Stryperの次回作では、期待を越えたものを作ってくれることを楽しみにしたい。

印象に残ったコンサート

Alter Bridge
現代ハードロックの代表選手のひとつであるAlter Bridgeの待望の来日コンサートを見た。今の時代に珍しい本物のロックが密度を伴って展開される素晴らしいコンサートだったのは言うまでもないが、自分はAlter Bridgeというのは基本的にMark Tremontiのバンドだと思っていたのだが、実際ライヴを見てみると、Myles Kennedyのワンマンショウだった。歌も上手けりゃ、ギターもMark Tremontiよりも美味しいところを持っていく、弾き語りもできれば、ルックスもいい。人なつっこい愛嬌とクールなかっこよさと、男の渋さまでも併せ持った、ほとんど無敵キャラ。そりゃスラッシュも惚れ込むだろうと。現代最強のバンドのひとつと思われるが、より上の世代のレジェンドたちと比較して、足りないものもいくつか感じるショウではあった。

CODAMA Through (熊谷幸子)
現代に復活したソングライター熊谷幸子さんのコンサートを今年も二度、見ることができました。どちらも本当に素晴らしい内容だった。どれだけの感情や情報が、その音の中に意味合いとして存在しているか、言葉にして説明できないくらいだけれど、本当に最初の一音だけで涙が出るようなコンサートだった。

Anvil
ヘヴィメタル界の苦労人として有名なAnvilの来日コンサートを見ることができた。僕は決してAnvilのファンというわけではないが、彼らのまっすぐなサウンドと、楽しそうに演奏する様子に、思わず涙が出てしまった。歳を重ねても少年のような笑顔でギターを弾くLipsは天使のようであり、まちがいなくヘヴィメタル界の聖人であった。ぶっちゃけ楽曲はダサいと思うが、80年代初期に非常に画期的なアグレッシヴなヘヴィメタルを奏でていた先駆者であり、またスタイルこそオールドスクールだがLipsのギタープレイヤーとしての実力は一流だ。その点はもっと評価されてしかるべきだと思う。この日もトレードマークとなっているホロウボディのフライングVで、非常に迷いの無いサウンドを奏でていた。

Danger Danger
80年代の終わりから90年代の初期にかけて人気のあったヘアメタルバンド、ポップメタルバンド、Danger Dangerの来日コンサートを見た。
最近、どうにもこの手の往年の華やかなヘアメタルのバンドは、ライヴを見ると幻滅してがっかりしてしまうことが多いのだが、このDanger Dangerもその例に漏れなかった。80年代のヘヴィメタル黄金時代を通じて、ロックやメタルがどう商業化され、記号化され、そして飽和しきってグランジに破壊されたのか、その理由や様子をまざまざと見るような気分だった。出来ればもっと彼らが若く、華やかだった頃に見たかったかもしれない。

Toneさんのプロフィール
Imari Tones (伊万里音色)というバンドでマイペースに活動しております。

No(4347)

■…2015年 2月28日 (Sat)…….錯覚のRock & Roll
[正解]
(たんとん)んたんた
たんとんとたんた
たんとんとたんた
たんととたんんた
んたんたたたたた

[錯覚して聴こえる]
たんたたんとんと
たんたたんとんと
たんたたんととた
んんたんたんたたたたた

いきなり何かと思いますが、これはかの有名なLed Zeppelinの”Rock and Roll”のイントロのドラムです。
わけわかんないですよね。どれだけややこしい変拍子かと思うんですが、実際はシンプルなエイトビートなわけです。ただ、3拍目の裏から入ってるってだけで。

僕は聴覚っていうのは、人間の生活において、
そんなに敏感なものではないと思うんですよ。
たとえば、音楽が無くてもたぶん行きていけるけれど、
食事をしなければたぶん絶対に生きていけない。
だから、味覚はたぶん聴覚よりもみんな発達している。
音楽でも、ヴィジュアルが大事だっていわれるくらいで、
見た目というのは実にわかりやすく、
視覚から訴えることの重要性ということは皆わかっていて、
だから視覚(見ること)というのも、聴覚よりも絶対に敏感で発達しているはずなのです。

でも、みんな、だまされるし、勘違いするし、錯覚する。
味覚でも、視覚でも。
いわんや、聴覚をや、という感じです。

今週の前半くらいに、ラーメンの漫画の話題がviralってました。
人々が、本当はどれくらいラーメンの味がわかっていないか、というような話題で。
多くの日本人同様、僕もラーメンについて話すと長くなりますが(笑)、
それなくしては生きていけないはずの味覚でさえ、これほどに人によって偏りがあり、意見が異なり、さらに曖昧で信用ならない。

で、昨日のドレスの色の話題。
すごい勢いでviralってましたね。
今まで、英語のインターネットの文脈で”The Dress”っていうと、
1994年にElizabeth Hurleyっていう女優さんが着た、
安全ピンのついて胸元の大きく開いた黒いドレス、
のことだったと思いますが、
これで”The Dress”といえば、
この”Blue&Black/White&Gold”のドレス、というふうに、
なってしまいましたね。

うちは、僕は白金に見えて、
嫁さんは青黒に見えて意見が分かれました。
もっとも僕はパソコンがずっと動画編集で使えない状態で、
携帯からしか見ていなかったので、その所為もありますね。

あのドレスの画像について言えば、
光の当たり方がなんとも絶妙で、
僕も白金に見えましたが、
写真が逆光になっていたので、
「暗いところで見た白」
というふうに見えました。
でも、なんとも絶妙なことに、
よくみると、正面からも光がちょっと当たっています。
白金、と思った人は、
「暗いところで見た青みがかった白」と解釈するわけですが、
青黒、と思った人は、
「光が当たったつや消しの黒」と解釈するわけですね。

その光の明るさ、暗さ、をどう解釈するかによって、
光のホワイト処理の脳内補正をかける、かけないという差になって、
違う色に解釈するのだと思います。

そしてまたドレスの形やデザインが、絶妙だったので、
たとえばこれが、実際に人が着た画像だったら、
これほど意見が分かれなかったと思うのですが、
あのデザインだと、白金でしっくりくる感じに思えるのですよ。
それもあって白金と解釈した人が多かったのではないかと思います。

僕は音楽をやっているという理由で、
人々の感覚、それは聴覚だけでなく、
味覚や視覚も含めて、
人々がどのように物事を感じて、どのように受け取るのか、
ということについて、
興味があるので、
このドレスの画像も、ちょっと眺めてみて、
ためしに印刷してみると。
もうちょっと客観的に見れました。

印刷するとCMYKになってちょっと色調が暗くなるので、
なるほど、確かに青いな、と。
でも、黒にはなかなか、見えない。
印刷してみて、いろいろ眺めた感じだと、
僕の結論は、パープルっぽい青と、オリーヴ色、といった感じです。

でも、パソコンや携帯の画面でRGBで見るとやっぱり白金でしっくりくる。

実際のドレスは青黒なのかもしれませんが、
写真に撮った時点で、やっぱりちょっと違ってしまうのかな、と思います。
ネット通販でみんなよくわかっていることだと思いますが、
インターネットの画像や、写真を、あまり信用しない方がいいですね。

(ちなみに、日本語のTwitterでバイラルしていた、青に見えたら右脳タイプとか、そういうのも、たぶんでたらめだと思います。感情に訴えて、バイラルさせるための。)

とはいえこういうことは、
きっとデザインをやる人や、印刷をやる人、
色を扱う仕事の人は、きっとよくわかっていることなんでしょうね。

色、という、はっきりした(と思われる)ものでさえ、
これだけ意見がわかれるわけです。
ものすごく曖昧。
いわんや、音楽、そして、サウンドをや。

で、本題なんですが、
聴覚も、ものすごく錯覚するわけですよね。
サウンドについても錯覚すれば、
音程についても錯覚すれば、
音量についても錯覚するし、
そしてリズムについても錯覚します。

リズムについて、
たとえば曲のイントロを裏拍から入ることによって、
リスナーをビートで錯覚させる、という技は、
ロックの世界でも常套手段なわけですね。

われらがVan Halenでいえば、
デビュー時のYou Really Got Meが有名です。

で、たとえばVan Halenで他の例だと、
これも有名なヒット曲の”Panama”ですね。

僕、これ、すごく恥ずかしい話ですが、
ごく最近まで、勘違いしていました。

イントロのギターリフが、
4拍目の裏から入っているものだ、
と思っていたんです。

でも、実際にはこれは、
1拍目の裏から入る、のが正しいのでした。

少年時代から何度も聴いていた、
大好きな曲のはずなのに、
気付いたときはショックでした。
こんなにも、人の認識というものはあてにならんものか、と。

しかも、このPanamaに関しては、
Van Halenはライヴでは、
わかりやすいようにドラムのビートに乗せてイントロのリフを入れるんですね。
そのライヴテイクも、嫌というほど聴いていながら、
勘違いに気付かずに、20年くらいいた、という。

愕然としますね。

でも、僕が少年時代に聴いて「かっこいい」と思ったのは、
その”4拍目の裏から入る解釈のPanama”だったので、
勘違いが、良いのか、悪いのか、それは誰にも言えないわけです。
幸福な勘違いというものも、世の中にはあります。
そしてきっとたくさんあります。

で、ZeppelinのRock & Roll。

この、どうやって入ってるのかさっぱりわからないイントロ、
なんですが、
まあ有名な曲なので正解もすでに知れ渡ってるとは思うのですが、

つい先日、ひたすら動画を処理する作業の合間に、
ふと気が向いて、謎解きにチャレンジしてみました。
その結果が冒頭のタイコの擬音なのですが、

これ、わかっていても、なかなか正解のように聴こえてくれません。
どうしても耳が、というよりは脳が、最初に鳴るスネアの音を一拍目の頭と捉えてしまうんですね。

人によっては、
最初から、正しくビートを捉えられる、
普通に正解に聴こえる人もいるのかもしれませんが、
僕の場合は、わかっていても、
何度も繰り返し聴かないと、
正解のように聴こえません。

げに人の感覚はあてにならんものよ、
という感慨とともに、

でもそういった感覚にとらわれることなく、
本当に大事なものはそのさらに向こう側にある、
ということだけ、
忘れずにいれば、
いいのかなと思っています。

ちゃんちゃん。

No(4348)

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