世の中にはもっと気にかけるべきことや、祈るべきこと、
悼むべき物事や、やらなければいけない物事がたくさんあるが、
それにもかかわらず、それらを比喩する意味であったとしても、
くだらないフィクションのお話をすることを許していただきたい。
これはやはり単純に自分が精神的に幼稚であることの証明でもある。
格闘技を題材とした漫画である「軍鶏」が最終回を迎えた。
主人公であるナルシマリョウはついに死亡し、
漫画は完結した。
その最後の展開や、死に方、
そしてそれまでの伏線や物語を回収しない、
ほとんど打ち切りに近いような終わり方は、
世間の読者から賛否両論、というか、かなり不評なようだ。
とにもかくにもナルシマリョウは死んだ。
たかだか漫画の中のキャラクターであり、
また、キャラクターとしても、正義のヒーローでもなんでもなく、
どちらかというと悪人、そして罪人として描かれていたキャラクターであるので、
そこに共感する必要は一切ないのだが、
意外とショックを受けている自分がいる(笑)
もっと現実に悼むべき人たちや、讃えるべき人たちがたくさんいるにもかかわらず、
こうしたフィクションの世界の人物としては、まあ実在のミュージシャンではあるけれど、
ブッチャーズの吉村秀樹氏が亡くなったときに近いくらいのショックがある(笑)
なので、自分なりに、ナルシマリョウ追悼の文章を書いてみたい。
僕が最初にこの軍鶏という漫画を発見したとき、
連載していた物語は既に中国編の最中だった。
そして、このナルシマリョウという特異なキャラクターに惹かれて最初から読んでみたら、これが実に興味深いテーマを扱っていた漫画だったわけだ。
格闘技漫画というよりは、なんか、生きのびることに関しての何か。
そして、まあ僕もこの作者の「たなか亜希夫」氏の作品を全部読んだわけではないが、この「軍鶏」に出会わなければ、あの傑作である「ボーダー」を読むこともなかったわけで、その意味でも感慨深いものがある。
(実際に僕の現実の人生も、どちらかというと年々、「ボーダー」に近くなってきている笑)
まあとにかくも、僕も僕なりにこの軍鶏に対しては少なからず思い入れはあるわけだ。
そして、まず、この漫画についていろいろと前提となる状況を書けば、
作者の側のトラブル、つまりは、原作者である橋本以蔵氏とたなか亜希夫氏の間での、権利かなんかをめぐる裁判があり、それによって作品の連載が中断するなど、制作側のイシューがいろいろとあったことは事実である。
この「軍鶏」は、漫画の内容からしてもアンダーグラウンドな匂いがただよっているし、そこまでメジャーではないにせよ、一応は多数を売り上げたヒット作である。実際に格闘家の魔裟斗を大ボスの敵キャラ役として映画化もされている。
映画化された部分というのも、両親を殺害して少年院に入った主人公が空手を習得して出所し、裏社会で生きながら格闘技に挑み続け、K-1みたいな大きな試合のリングに上がって最強の空手家と対決するというくだり。
「親殺し」の犯罪者であり社会の落伍者であるナルシマリョウが、名声も実力も兼ね備えた天才空手家である菅原直人にどう立ち向かっていくのか。
つまりはここが、「軍鶏」の当初のテーマであり、いちばん面白い部分である。
それでも作品というのは世の中の都合とか、受け取る側の社会の限界ということもあり、その最強の空手家である「菅原直人」との対決の後、物語をどう描くか、ということはかなり難しかったはずなのだ。
当初の物語のテーマから言えば、菅原直人との対決をもって、物語が完結してもまったく不思議はない。
現に、軍鶏が面白かったのは菅原直人との決戦までで、その後の中国編以降はダメ、という読者も多いと思われる。
けれども人生は続いていくし、ヒット作となった人気漫画であるからには続編も描かなければいけない。けれどもその先を描くにあたっても、漫画の枠もあり、受け取る側である社会の枠もあり、また「その先」を描くにはどうしても大風呂敷を広げざるを得ない。
いきなり舞台が中国に飛んだのも無理はないと思われる。
そして、また、ここ10年くらいはずっと、連載が途切れがちであったわけだけれども、
掲載される雑誌が、アクションからイブニングへと変更となり、出版社も変更になり、
この雑誌と出版社が変わった時点から、かなり展開がおかしかった。
そしてぶっちゃけ、この雑誌の変更の以前と以降では、明らかに違う作品になっている。
ぶっちゃけ、というのはつまり、雑誌がイブニングに移ってからは、つまらなくなったのである。そして、圧倒的につまらなくなった。展開も不自然であり、いろんなことが「なかったこと」にされ、読者としては、なんだかなあ、という感じであったわけだ。
たとえば、中国編において、短期間で「発勁」などといった中国拳法の奥義を身につけたはずのナルシマリョウが、
イブニングでの連載再開後に、「知らない間にゆるやかな下り坂をくだっていた」の一言で、あっさり素人並みの強さに引き戻されたり。そもそも中国編自体が、なかったことになっているような描かれ方をされていた。
(まあ、中国編で習得した「発勁」を含む世間離れした強さをそのままキープされたら、その後の物語の展開が描きづらいというのはわかるけれども)
まあ主人公がどんどん強くなっていくと、敵キャラも強くならざるを得なくなり、ドラゴンボールに代表されるような「強さのインフレ」が起こるので、基本リアルな格闘技路線の漫画である「軍鶏」としては、いったん中国編を無かったことにして、主人公の強さも振り出しからスタート、しないと、いろいろと都合が悪かったのであろう。(けれども、その後の最終章の「どぶ組編」において、中国編の登場人物も幻影、亡霊として登場しており、作者の中で中国編が決して「なかったこと」になっていないことは示された)
そして、雑誌がイブニングに変更になって最大の損失というか、失敗は、広げに広げた「トーマ編」の大風呂敷を、きちんと回収できなかったことであろう。
雑誌がイブニングに移る前、アクションにおいて連載され描かれていた「トーマ編」は、非常に印象的で、悪の存在であるナルシマリョウと対局にある「トーマ」というキャラクターが、非常に鮮烈に描かれていた。
そしてこの「トーマ」という、ほとんどキリストのような救世主的存在として登場したキャラクターによって、物語は大風呂敷を広げに広げ、そしてクライマックスに向かうはずだった。
しかし現実には、そこで物語の権利をめぐる裁判や、掲載雑誌、出版社の変更が起こり、そしておそらくは、そこで物語の筋書きも変更になり、書き換えられたのであろう。
トーマ編で壮大な風呂敷を広げて完結するはずが、いろいろの都合によりそれは変更となり、結果、トーマ編は広げた風呂敷と伏線をたたむことなく、裏番竜会の4人衆と、格闘技イベント「グランドクロス」が展開される中、リョウVSトーマの戦いはいかにも消化不良のままで決着した。
そして、せっかく丁寧な描かれ方によって形作られた救世主キャラであるトーマは、リョウとの戦いの中で、あっさりと発狂し、その本来の実力も見せず、またその本来の役割も果たすことなく、退場していくのである。
(もっとも、決して打撃技を使わないはずのトーマが、リョウとの戦いの中において、初めて打撃技を使う、という、誰もが予想できたお約束は、守られたが。)
僕が思うに、リョウは本来、この「トーマ編」グランドクロス大会において、死ぬべきだったのである。
あるいは、リョウが死ななかったとしても、リョウの罪をかぶる形でトーマが自己犠牲を選んで死ぬか。
いずれにしてもリョウかトーマのいずれかは死ななければならなかった。
おそらくは当初、トーマ編の筋書きを描いた際の、作者側の意図はそういった展開だったのではないかと思われる。
けれども、掲載雑誌の変更、連載再開後の、ぐだぐだの展開の中で、それは起こらなかった。
結果、トーマ編で死ぬことなく、リョウは生き延びた。
連載も引き延ばされた(苦笑)
そして、作者側の意図はどうであったにせよ、
まったくコミカルで緊張感のない、蛇足とも言える「どぶ組編」において、ようやくリョウは死を遂げた。
それは、ほとんど打ち切りのような、
または、作者が作品を書くのが嫌になって投げ出したのではないか、
と思いたくなるような唐突な死だった。
(当然、読者からは非難ごうごうである)
けれども、グランドクロス編における本来死すべきだったリョウの死亡フラグと、
「どぶ組」編における、意外と丁寧に描かれた(台詞や説明ではなく、絵によって無言で描かれた)心理描写、死亡フラグの描写を、考慮すれば、
これは意外と、機が熟した上での、丁寧な殺し方であったと言うことができるように思う。
まず、グランドクロス編(トーマ編)のテーマをおさらいしてみると。
ナルシマリョウという存在に決着をつけること。
犯罪者であり、「親殺し」という非常に重い罪、十字架を背負った存在であり、なおかつ戦い続ける格闘家であるこのナルシマリョウという存在。
それは、その「悪鬼」を作り出した空手の師匠である「黒川のじいさん」が、悪鬼を作り出した責任を感じ、一度ならずリョウを殺そうという描写があったのと同じように、
作者にとっても、このリョウという存在を、どうやって殺すか、どう決着をつけるかは、難しい問題であったはずなのだ。
で、わかりきった結論から言えば。
このナルシマリョウという男に決着を付けるには、そしてこのナルシマリョウという男を救うには、
まったくもって壮大に、宗教的なテーマに迫るしか方法は無いのだ。
だからこそ、その宗教的なテーマに迫るべくして生まれた、救世主のごときトーマというキャラクターが生み出され登場したのだ。
だけれども、そのテーマは、あまりにもやはり大きすぎ、また壮大すぎた。
理由はどうあれ、結果として、作者サイドは、それを描き切ることができなかった。
結果、トーマによってリョウは救済されず、また死ぬこともなかった。
トーマとリョウとの魂の邂逅は、起こらなかったのである。
ナルシマリョウの最後(救済)は、次の章に持ち越された。
ナルシマリョウは、死ななければならない。
あるいは、永遠に闇の中をさまよわなければならない。
それは、いかに漫画の中のフィクションとはいえ、
いや漫画の中のフィクションだからこそ、
親殺しの犯罪者であるナルシマリョウは、幸せになってはいけないからである。
幸せなエンディングは、リョウには許されていないからである。
永遠に闇の中をさまようエンディングでも良かったのかもしれないが、
作者はそれよりは、死によってリョウに永遠という安らぎを与えた。
それは、作者なりのリョウというキャラクターに対する愛情、
であったかもしれないし、
あるいは、やっぱり単純に、もう描くことに疲れたからかもしれない。
どちらかというと描くことに疲れたのだろいうという気がする(笑)
結果から言うと、ナルシマリョウは死に、
そして、わりときちんと救済された。
コミカルに、格闘技としてもあまりハイライトがなく、
緊張感の無い展開で描かれた「どぶ組」編であるが、
僕は実際、思い出してみて、そんなに嫌いではなかった。
ストーリー展開は、まったく盛り上がらないが、
以外と、リョウの死に向けた描写が、きちんと描かれているからである。
まず、グランドクロス編の後、
それまでの物語で重要な役割を果たしてきたキャラクターたちが、
思い出したかのように再登場し、そしてみんな、きちっと死んでいった。
最終回でリョウが「走馬灯はどうした」とつぶやくが、
そう考えると、走馬灯はきちっと起こっていたともいえる。
どちらにせよ、重要なキャラクターをみんな殺す、という手続きはきちんと経ている。
そして、この「どぶ組」編において、
リョウは、およそこの物語の作中において初めて、
ちょっとだけ「幸せな時間」を持つのである。
サキコというキャラクターが登場し、
そして、これはリョウにとって、物語の中で初めて、
恋人といえる存在になる。
かなり、まさかの展開と言える(笑)
そして、まさかの子犬によって、
廃人状態の妹であるナツミも、かなりのところまで回復。
トーマでも救済されなかったのに子犬ひとつで救済してしまうところが、
なんともご都合主義全開であるが。
最終回の「カモシカ」や「アリ」といい、
このラストの「どぶ組」編は、どうにも動物に重要な役割を振っている(笑)
それはもう、人間のキャラクターには限界がありすぎて無理だ、
ということの表れかもしれない。
ここまで必死にリアル格闘技を通じたディープな人間ドラマを展開してきたのに、
最終章では重要な役割を果たすのは子犬とアリとカモシカ。
そして「バカ兄弟」と「爆弾」(笑)
投げ出しすぎにもほどがある(笑)
というか、「バカ兄弟」もそもそもほとんど妖精のようなキャラクターであり、人間というよりは動物に近いくらいだ。リョウを殺すためにわざわざ用意した森の妖精としか思えない。
どちらにせよ、この最終章の「どぶ組」編において、
初めてリョウは、「恋人」そして「家族」と言えるような存在に囲まれ、
ほんのわずかではあるけれども、幸せというものを垣間みる。
それは、作者なりの愛情であり、情けであり、
またリョウの死に向けた手続きの一環であったと思う。
しかし幸せを感じながらもリョウは、
今まで戦ってきた、あるいは殺し、地獄に突き落としてきた対戦相手たち、
それらの亡霊、
おそらくは罪の意識、
にさいなまれ、
おそらくはその深層心理にある罪の意識によって、
幸せに生きることを選択することなく、
戦いの中でのたれ死ぬことを選択したのだと解釈できよう。
それはやはり、決して幸せになることのできない罪人であるリョウの宿命でもある。
なんとなく深層心理において、自ら死ぬことを選択したのではないかという感じがそこはかとなく、する。
どぶ組の「バカ兄弟」との戦いの後、
出血多量のリョウは、
なぜ、あんな誰も人がいない山奥の、森の中を歩いていたのか。
本当に帰り道はそちらだったのか。
どこかでリョウは、自ら死を望んだのではないか。
そしてひとつ良いことを言えば、
リョウは誰にも知られず、誰にも手の届かない場所で人知れず死んだ。
誰にも弔われることなく、山の奥深くで、
(って、どんな山奥なんだよ、笑)
その死体も亡骸も誰にも発見されることなく、
自然のままで土に還っていった。
人間社会の中においては、リョウの救済はできない。
人間社会の枠組みの中では、リョウの罪は許されず、その救済は不可能だった。
そして、リョウの戦いの真実もまた、そんな人の手の届かないところにある。
世間の常識や理屈で理解できるところにはないのだ。
だからこそ、作者はリョウを、誰にも手の届かない場所で、人の通わぬ山の奥深く(笑)で、
カモシカとアリに看取られて(笑)
死なせることにした。
それは、収集がつかなくなってしまったこの軍鶏という物語を、
リョウというキャラクターを、
人の手の届かないところに送り出してやる、という儀式でもある。
そんな人間の手の届かない場所で死んだリョウの死に様は、
ある意味、彼にふさわしい死に様であったと言うことができる。
本来、トーマ編で、トーマと魂の邂逅の後、死ぬことがベストであった。
けれども、この死に方は、セカンドベストというか、その次に良い死に方、だと言うことができる。
そして思い出してみれば、この死に方は、
深海でなんかいつのまにかいなくなってよくわからん世界に行ってしまった、
グロコス(たなか亜希夫の別の作品)の主人公(名前覚えてない)の死に方とも、
共通している。
リョウも、グロコスの主人公も、どちらも、人知を越えた大自然の中で、
人間の手の届かない場所へと旅立っていったのだ。
そして、もうひとつ良いことを言えば、
彼は戦って死んだ。
そして、きちんと自分の仕事は果たして死んでいった。
つまり、「どぶ組」編は、サキコを中心に物語が回っており、
リョウはサキコのために戦い、どぶ組のバカ兄弟と戦うことになった。
だが、リョウは、戦いの後で出血多量でのたれ死んだものの、
「バカ兄弟」との戦いにはきっちり勝利しており、
サキコを守り、サキコを両親(父親?)の呪縛から解放する、
という仕事はきっちり果たしているからである。
およそ読者に親切なわかりやすい説明というものがあまり無く、
絵による表現や隠喩とかが多い(特に、原作者がいなくなって以降)この作品であるが、
そこで示されたことは、確定事項として解釈して良いと思われるので、
バカ兄弟がサキコの件からこれで手を引いたことは間違いないと思われる。
というか、かなりの確立でバカ兄弟の弟の方は、戦いの後で死亡した可能性が高いと思われる。ちょっとかわいそうだが。だって、鉄柱が、胴体、貫いてたもんね。普通即死というか。
だが、リョウは、きっちり、なるべくバカ兄弟を殺すことなく、少なくとも自分の手で殺すことはなく、
戦闘に不能になったバカ兄弟を、叩き殺すかわりに、救急車を呼ぶことを許し、
そしてその場から去るのである。
なにげに男として立派な戦いぶりである。
そもそも、リョウは、まあ作中を通じて、だいたいずっと悪人で、
作中でもひどい行いや、犯罪行為を何度となく行ってはいるものの、
自らの手で対戦相手を殺すことは、ほとんど行っていない。
もちろん、殺すつもりで戦っていたし、
結果として、対戦相手は、失明したり(ランガー)、植物状態になったり(菅原直人)、崖から飛び降りたり(斉天大聖、劉)、発狂したり(トーマ)、しているが、かといってリョウは、菅原の時も救急車呼んでるし、最低限、無駄に相手を殺してはいない。
かといって、それでも、
今回、「どぶ組」編において、リョウは初めて、他人というか、惚れた女のために戦い、そして相手を殺すことなく戦いを決着させ(まあ後で死んだかもしれんが)、
相手を許して戦いを終えているのである。
これは果たして作品中においてようやくにしてリョウが見せた人間的な変化というか成長と言えるかもしれん。
まあずっと廃人状態の妹のために戦ってきた経緯はあるが、
基本的にリョウは自分のためだけに戦ってきた。
自分が生きのびるためだけに。
けれども、この最後の「どぶ組」編において、リョウは、ちょっとだけでも、恋人とか家族とか、そういうもののために戦った。
そしてきちっと勝って、戦う男としての役割は果たした。
けれども、待っている家族のもとに帰って、喜びを分かち合う、
ことは出来ない。
そのカタルシスはリョウには与えられない。
それがこの軍鶏という作品の、リョウという男の、宿命であり、罪と罰であったわけだ。
でもこうして整理してみるとなにげに結構、男として立派な死に方であったわけだ。
もちろん作品としては、また格闘漫画、格闘家としては、
もっとできることがあっただろうに、
もっと描くことのできる展開があっただろうに、
もっと可能性があっただろうに、
回収すべき伏線や、描くべきキャラクターがあっただろうに、
とも言えるが、
読者を喜ばせる展開を拒むのが、せめてもの作者と、この軍鶏という作品の、最後に残った矜持であったかもしれない。
残されたキャラクターたちにも、
幸せな未来は待っていないかもしれないが、
サキコは両親の呪縛からは解放された。(少なくとも大きく前進できた)
妹のナツミも、最低限、精神の均衡を保つことができるほどには回復した。
トーキチは大変だろうけれど、彼は戦うことこそできないが、根性のある男だ。
最低限、明るい未来ではなくても、そこまで暗い未来ではないと思えるのではないか。
植物状態から回復し、懸命にリハビリを行っている宿命のライバル菅原直人、をはじめとする、放り出されたキャラクターたちには、不憫だ、としか言いようがない(笑)
だが、そもそもこの物語は、登場人物は誰ひとりとして幸せにはならないことが前提になっている世界だ(笑)
リョウは、サキコに出会わなければ、どぶ組とも戦わず、死ぬこともなかったので、
結果的には(予想どおりというか)、サキコこそがリョウにとっては死神というか死亡フラグそのものであったわけだけれども、
トーマ編においてすでに本来死亡が確定事項であったリョウにとっては、
サキコの存在、そして最後のわずかな幸福な時間は、死の前の神というか作者が与えた情けというか、
せめて最後くらいは、惚れた女のために戦って死ぬということを、
させてやりたかったのであろうと思う。
けっこうそれは、かっこいいことだ。
でも最後は一人。
死ぬのは孤独に、一人で死ぬ。
それがリョウにはやはりふさわしかったのだ。
そしてリョウはきっちり救済された。
救済したのは、派手に登場した救世主トーマ、でもなんでもなく、
カモシカと、アリと、あと絵本。
ナツミの読んでいた絵本(笑)
それから、木の芽。
ほとんどギャグである。
でも、最初に述べたように、
作中世界において、また作品の発表される世間の枠においても、
リョウの救済は、人間世界の枠組みの中においては不可能だ。
だからこそ、作者は、それをカモシカとか山とかアリとか絵本に託し、
無言のままで救済を実現した。
もちろんカモシカは、ナウシカとかけたギャグであったことも事実だろうと思うが(笑)
(インターネットによれば、最後に芽が出て終わるシーンが、ナウシカそのままだったということらしい)
どんだけ苦しいエンディングだよ、という感じはしますが(笑)
でも、おいおいwwwこれはないよwww
と思った、読後の正直な感想でしたが、
こうやってよくよく要素を整理してみると、
かなりきちっと作品の重要な要素を加味した、
実に丁寧な死に方であったことがわかるのです。
丁寧、というのは、苦しい描き方、とも言えますが(笑)
でも、少なからず作品とキャラクターに思い入れがある中でも、
先程も述べたとおり、本来トーマ編で死ぬべきだった、ベストの死に方ではないけれど、
引き延ばされた展開の中では、
セカンドベストな、今のリョウと「軍鶏」にふさわしい、
死に方と結末であったなあ、と。
そしてまた、最後の最後でちょっとだけかっこよかったリョウの戦いぶりと死に様に、
またも男の死に方を考えると同時に、
罪人として生きた人間世界から離れて、
ようやく安らぎを手に入れたナルシマリョウに対して、
ちょっとうらやましいな、
と思うのも事実であるのでした。
さて自分はどうやって死ぬか。
でもねそして最後に書きとめておきたいのは。
結局、作者も、キャラクターたちも、
「トーマ編」において、
壮大な宗教的なテーマを描くことはできなかった。
そして、作品の世界観の枠の中で、
リョウは決して幸せになることはできなかった。
けれども、現実の世界では、
僕たちの生きる現実の世界は、そうではない。
フィクションの世界、
作家の描く物語の世界には、限界があるかもしれない。
でも、僕たちの生きるこの世界には、限界なんてありはしない。
なぜなら、この世界の作者である神には、限界なんてないからだ。
そして、イエス・キリストはどんな人間の罪であっても許すことができるからだ。
そう、ナルシマリョウの罪であっても。
でも、それを描いちゃったら漫画は終わってしまう。
だから、これが「ナルニア」であれば、あそこで出てくるのはカモシカではなく、ライオンだったのだろう。
その意味では、リョウはきちんとキリストに出会っていたかもしれない。
限界のない世界で、限界のない神を信じて、僕らは生きる。
もうひとつ。
作中で、連載期間が延びるのにしたがって、
作中の年代とか時代も、登場人物が歳をとらないままで、年代だけが変化していく漫画も多いけれど、
軍鶏、は、それほど、年代がスライドしなかった作品のように思う。
ナルシマリョウは、基本的に90年代を生きた人物だと思うし、
トーマ編の格闘技イベント「グランドクラス」という大会も1999年を想起させる。
とはいえ、日産スタジアムの描写とか、格闘ブームの終焉とか、当然、部分的に時代も変わっていたが。
だから、実際のタイムラインに当てはめるのであれば、
おそらく、ナルシマリョウは、90年代を走り抜け、
そして2000年前後とか、2000年代の前半には、死んでいたのではないか。
そう思うと、ナルシマリョウは、その後の時代の変化や、
いわんや、2011年の日本の災害なども、見ていないだろうと思われる。
その後の時代を見ずに、逝ったことに対して、
少しうらやましくもあり、
その後の困難を見ずに去ったことについて、
良かったなと、彼に対して、そう思う。