2015年1月の日記

■…2015年 1月 2日 (Fri)…….HR/HM Les Paul
先日、レスポールやGibsonについてあれこれ書いた際に、ヴィンテージレスポールがハードロック、ヘヴィメタルの文脈で使用されている例を教えてほしい、と書いたところ、Facebook上において、親切な方にいくつか教えていただきました。

もとより、王道のZeppelinやFree、それからブルーズの方面ではクラプトン、Peter Green、Mike Bloomfield、Peter Framptonなどなど、ヴィンテージレスポールの名演は有名なものがいろいろありますが、

HR/HMの文脈ということで教えていただいたには、
Vandenberg、RIOT、Night Ranger、Boston、Montroseなどを挙げていただきました。

Montroseなんかはもちろん僕も聴いてたんですが。Van Halenのファンですし。

Peter Greenなんかは、Hamerの創業者であるJol Dantzigが、常にフェイバリット、ヒーローとして挙げている人ですし、ふと聴いてみたら、これは自分の思う理想のブルーズというものではないかと思ったくらいで、これからじっくり聞き込んでいきたいと思っているところです。

そしてそれ以上に驚いたのが、Adrian Vandenberg
若い頃のヴァンデンバーグについては、YouTube上でちょっと聴いて、そのギターサウンドに関して、そのクリアで素直な音に非常に感銘を受けました。

けれども、昨年リリースされたばかりの彼の復活作、Vandenberg’s Moonkingsにおいて、彼はかなりクラシックなアプローチで正統派のハードロックをやっていて、これがYouTube上で結構聴けるんですけれど、すごいサウンドを鳴らしているじゃないですか。

ミュージックビデオの中で、レコーディングでレスポールカスタムを使った曲に関しては、ビデオでもカスタムを持って撮影しているようで、スタンダードとカスタムの音の違いも楽しむことができますが、どちらも非常にツボを得たサウンドとギタープレイだと感じました。

これって、ヴィンテージギブソン弾き、ヴィンテージギブソン、レスポールをきちんと鳴らせるロックギタリスト、ということで言えば、エイドリアン・ヴァンデンバーグ、この地球上でも第一人者である、と言ってしまっていいんじゃないでしょうか。

喜ばしいことだと思います。

まだYouTube上で数曲聴いただけで、なんとも言えませんが、ひょっとしたら、10年単位での、自分の新たなフェイバリットレコードに、なるかもしれません、Vandenberg’s Moonkings

そしてまた、教えていただいたもの以外で、「自分が思うところの、ヴィンテージレスポール、またはそれに準ずるものとしての、ハードロック、ヘヴィメタルの文脈の中での名演」として、別の機会に書くことができたらと思っています。
おそらく、ちょっと意外なものが出てくるリストになると思いますから。

No(4321)

■…2015年 1月 2日 (Fri)…….クラシックシリーズ
処分価格になってから、ずっと書きたかったんですが、
最強クラスのレスポール!
投げ売り価格で売られてます!
嘘と言い訳ばかりの世の中で、この本物のクオリティの楽器が、
こんな価格で売られているのは本当にシュールで、ほとんどギャグ!
おそらく市場に残っているほとんど最後の一本だと思います。
レスポールは形は同じでも、中身は千差万別ですが、
自分の意見ではこれは最強クラスだと思います。
決してヴィンテージギブソンと同じではないと思いますが、
「楽器としてちゃんとした、まともなレスポール」という点では間違いないです。
そういう楽器、すごく貴重だと思います。
このメーカー、ディバイザーさんも、こんな気合いの入ったレスポールをいつも作ってくれるわけではないので、その意味でも貴重だと思われます。
僕が昨年以来べた惚れで愛用している「猫ポール」と同じモデルですが、
僕のやつとシリアルナンバーも近く(Bacchusのブログを見ると杢目から個体が特定できるので)、
同時期に同バッチで作られたものと思われます。
ちなみに僕はこれよりもさらに安い価格で手に入れました(笑)
真剣に使う用途のあるギタリストさんには、全力でおすすめできます。
こちら

No(4322)

■…2015年 1月 2日 (Fri)…….コピーモデル
Not sure they are “legally” ok, but some interesting guitar business in China.
その一方で、こんなギターショップもあるわけです。
こちら

リンク張るだけでもどうしようかと思うくらいですが、あまりに面白いので。
たとえばJudas PriestのGlenn TiptonがPainkillerあたりの時期に使っていたオリジナルシェイプのHamer GTモデルとかを検索してたらたどりついたわけです。

いろいろな有名なギターの「レプリカ」を製作している、という、このショップ、住所も国籍も書いてませんが、ウェブサイトを見ていけば、中国のショップなのだということがわかります。
もちろん、いろいろと法的に問題があるような気がしますが、
ウェブサイトとかの記述にはやたら気合いが入っていて、カスタマーサービスであるとか。
製作のクオリティについても、ギターについても、サービスについても、懇切丁寧に、誠心誠意、オープンに、真摯に商売がんばっています、という姿勢を打ち出している(笑)
けれど、その前提のところですでに何かが間違っている(笑)

かといって、欧米主導で発展してきたこのロックミュージックの世界。アジアの、東洋の片隅で、ギターを作って商売しようという時に、そういう発想になることに対して、法的にはともかくとして、人間が生きていく術として、どうして人ごとのようにして責められるだろうか。(僕らだって未だに似たような姿勢で音楽を鳴らしていないだろうか)

中国といえばコピー商品みたいなイメージがあるけれど、よく言われるように昔は日本もそうだったわけで、こういう商売をしているショップにしても、ひょっとしてそういうところ、そういう土台から素晴らしいビルダーとか本物のメーカーが育たないとは限らないし、世界全体のためにもぜひそうあってほしいと思う。

一時期とくらべれば中国製のギターもクオリティがずいぶん上がったと言われているし、都内の楽器屋さんに行っても安価で一定のクオリティを持った最近の低価格高性能ギターはみんな中国製。おそるべしといったところですが、このウェブサイトの記述とかを見てみても、そのクオリティといったことについては、なんというのか、商品というか工業製品的な意味合いで書かれている印象が強く、じゃあ楽器に関して本当に大事な、目に見えない部分とか、本当の意味でのサウンド、そしてスピリチュアルな意味でのクオリティにまで達しているのか、突き詰められているかというと、そういうところまでは達していない印象を受ける。まあでも実際にこのショップで作られたギターを弾いてみないことには判断はできないけれど。

ディバイザーさんとこの楽器をいろいろ眺めて触ってみて思ったのは、楽器を作るにしても、何を作るにしても、それは技術とか規格とか企画とか設計もそうなんだけれど、やっぱりそれ以上に人とか、文化とか、人間なんだろうな、ということ。それはもちろん本質的にスピリット的な意味で。
そういった文化とか人を育てるところまで、達するのであれば、たとえばディバイザーさんとこのフィリピン製のギターみたいな、価格以上の何かを提供できるものが作れるのだろうと思う。
どれだけ精進したら、あるいはどんな社風とか技術訓練とかがあればそうなるのかは、よくわからん。座禅でも組んでいるのか。

そういう意味では、昔の1950年代とかもっと昔の、GibsonとかFenderとかMartinとか、他のギターメーカーが、時代背景、社会背景も含めて、どんな環境の中で、どんな商売をしていた、どんな社風の会社だったのか、非常に興味深いところだ。
僕らは、少なくとも僕は、当時の社会背景も、当時のアメリカあたりの時代背景も、当時の音楽シーンが、どんなだったかも、よく知らんのだから。
少なくとも1950年代に、Gibsonの人たちがレスポール作っていたときに、「ぶっとい音で最高のオーバードライヴサウンドを奏でる最高のロックギターを作るぜ」とか考えてなかったことは確かなわけで。当然、当時まだ、Marshallアンプはもとより、Zeppelinも、クラプトンも、ビートルズすら無かったわけで。どちらかというとたぶん「Gibson社ならではのデザインで上品な音のする流行りのジャズギターを作りましょ」といったノリだったはず。

でもFenderさんが先端を行き過ぎていたにせよ、Gibson社にしても、1950年代にフライングVとかエクスプローラーとかモダーンとか、すごい形のギターを作っちゃうわけだから、それなりに進取の精神のある自由な会社だったのではないかとは思うのです。わからないけれどね。逆かもしれないけど。時代背景、知らないから。

話を最初に戻すと、Glenn TiptonのオリジナルシェイプのGTモデルって、市販は一切されてなかったはずだから、この形のギターを手に入れようと思ったら、どこかのビルダーに高いお金払って作ってもらうか、あるいはこの中国のちょっとあやしいショップから買うしかないわけです。

で、普通の人は、安くて手軽な方を選ぶよね。
よほど、音にこだわる人でない限りは。
それも、この中国のショップが、ある程度まずまずのクオリティで作ってくれるのであれば、なおさら。
そこまで音にこだわる、音がわかる人、そこまでの音を必要とする人って、そんなにいるわけじゃない。
で、たくさんのアメリカあたりのギタープレイヤーが、このショップから安いレプリカを買っているとしたら、それはそれで、面白いことだよね。

昔のグレコやトーカイが、今世界中でジャパンヴィンテージとして珍重されているのと同じくらい、あるいはそれ以上に面白いかもしれない。

だって、Gibsonだって今や嘘をいっぱいやってるじゃない。
中国のコピーショップを非難するまでもなく。
嘘に国境は無いという感じです。

No(4323)

■…2015年 1月 2日 (Fri)…….×ジャパン
何人かの方に、「ヴィンテージレスポールがハードロック、メタルの文脈の中で使われている例」をいくつか教えていただきまして、とても感謝でして、これから少しずつ勉強していきたいのですが、よく考えると、ヴィンテージレスポールがメタルで使われている例として、このバンドのことを忘れるわけにはいかないですね。
こちら

当時、日本でいちばんビッグなバンドだったわけですから、そういった高価で貴重なものであっても、最高の楽器を使うことは、自然のなりゆきとも言えますし、当時はまだ今ほど「バースト」の値段も高騰していなかったらしいですが、どちらにしてもすごいことです。

この映像に限って言えば、PATA氏がヴィンテージと思われるサンバーストのレスポール、HIDE氏がシグネチャーであるモッキンバードモデルを持っていますが、圧倒的にやはりPATA氏のレスポールの音が前に出ています。

僕はXは、当時からあまり好きではなく、というのは僕にはヘヴィメタルというよりはJ-Popに聴こえてしまったので、またこのバンドの世界観にも正直あまり興味はないのですが、この日本一のバンドで大きなコンサートを行うにあたり、ヴィンテージレスポールいわゆるバースト、を使用して最高のサウンドを奏でるという、このPATA氏の姿勢には、ロックギタリストとして、これがプロフェッショナルの仕事であるという姿勢を感じます。

またよく考えるとPATA氏のMarshallは、どこかで聞いたには、Albitによって改造されたものであるとか。Albitさんによって、ゲインアップの改造を施されたマーシャルで、ヴィンテージレスポールを鳴らすというのは、僭越ながら、僕はメイン機材ではAlbit/Cranetortoiseの真空管プリアンプ/ブースターを常に通してMarshallをドライヴさせていますので、考え方としては僕のサウンドと似たような感じなわけです。

かといって出てくる音はまったく違うような気はします(笑)

故HIDE氏が、彼も所有していたという59年レスポールを、どのように鳴らしていたかも、また別に興味がありますが、PATA氏がこのX Japanというバンドにおいてバーストを鳴らす姿には、ギターというか、楽器、本物の価値のある楽器とプレイヤーの関係性において、感慨深いものがあります。
どちらにせよ楽器というのは必要とする人の手にわたってこそ価値、役割を発揮するものであるという、その関係性のロマンですね。

No(4324)

■…2015年 1月 2日 (Fri)…….CGIスパム攻撃
自分のバンドのウェブサイトに、人知れず好き勝手に書いている、古い形式の日記CGIによるダイヤリー(ブログですらない)、なんか使えなくなった・・・見ると、なんだかどうやら微妙なサイバー攻撃を受けているような・・・。好き勝手書いてるせいかもしれないが、単なる古いCGIをターゲットにしたスパムのようにも思える。でも、怖いなあ。書いた文章自体は、手元には残っているけれど。別の日記帳に移行かなあ。ブログ、みたいなのは使いたくないんだよね。完全に日記帳、なので。人にも見える、というだけで。そこがまた、難しいところなんですが。大したことじゃあないけどね。自分の落書きくらい、削除したところで。でも少しだけ、もったいないな。

ファイルの中身のぞいてみたら、2年くらい前から無効な日付のスパム書き込みがたくさん・・・気が付いていないだけだったorz あれか、アメリカでWIFI使ったときか、ひょっとして原因は。日付が無効だから、気にしなければ表示されないけれど、、、そこまで神経太く、、、いや太いです(苦笑)

No(4325)

■…2015年 1月 3日 (Sat)…….かけがえのない時間と勝利、2015年の目標と抱負
[新年ポエム]
[写真(FB)は、15歳のときの自分。名古屋にて。この10代の頃のバンドを、続けなかったことは、自分にとって敗北であったのか、勝利であったのか。いや、どっちかな。Musically speaking, 音楽的に語れば、それは勝利であったと思っている。]

新年を迎えるにあたって、
というか昨年の年末に、年末をしめくくるにあたって既に書きたかったことなんだけれども、
年末にちょっとした天啓があって、
まあ天啓というほどのあれではないんだけれども、
none the lessそれは大事な天啓であって。

つまり、ここまでどうにか生きてきて
ここまでどうにか生かされて
今ちょっとこれを書いているこの瞬間に若干depressedな気分なので
この文章を書く筆が乗るかどうかわからないが

つまり僕はわりとこの3、4年、
刹那的に、
たとえばあと一年、あと半年しか生きられないのであれば、
自分はどのように生きるだろう
何をしておきたいと思うだろう
そう思い、行動してきた。
基本的にそれは今も変わらない。

そう、思い出した。
人生における勝利ということ。
人生に対して勝つとか負けるがもしあるとすれば
それは自分自身に対してのものだ。
他の誰にもそれはわかるものではない。

たとえば僕はいつでも音楽をやめたいと思ってきた。
だけれどもそれ以上にやめてはいけないという思いが勝り、
またいろいろなタイミングでちょうどいろいろなことが起こり、
ここまで音楽を辞めることに失敗してきた。

たとえば、2005年、2006年頃にもいろいろなことを考えたし、
もちろんその一方でやはり音楽を作っていたけれど、
自分の夢に見た人生があった。
そのときに限ったことではない。
2007-2010頃にもまた違う夢を見ていたし、
今でもときどき夢に見る。

けれども、目を覚ますと
そこには違う音楽が目の前に鳴っている。
この音を聴け、この音を鳴らせと、迫ってくる。

たぶんそのように人生の中には岐路や選択というものがあるはずで、
もちろん僕にとっては、いつだって選択肢なんてものは
ほとんど存在しなかったというのが実感だけれど
本当に望めばあったはずだ。

だけれどもいくらだって違う人生、幸せな人生を望んだとしても、
たぶん僕は本能的に、どの選択をしたら勝利となり、
どの選択をしたら敗北となるのか、
そのことだけはどこかで知っていたに違いない。

結局のところ何を言ったとしても
何をやったとしても
Yesと言えば勝利であり
Noと言えば敗北なのだ
そこに神の前において、人に本当の選択肢などありはしないのだから
言い訳も理由もありはしない
そのことはよくわかってるつもりだ

たとえ夢に見たような幸せな人生を手に入れることが出来たとしても
心の中ではそれはやはり敗北なのだと知っていたに違いない。
言葉にして書くのが難しい。

人生に勝利や敗北は無いといったとしても
自分自身にとってそれはやはりあるのであって
人生の使命に対する敗北というものは
常に知っておいた方がいい
たぶん

それはパラレルワールドに存在する
別の時空の別の時間の流れにいる
別の自分に問いかけてみるしかない

そしてなぜ自分はこちらの世界を
こちらの時間を選んだのか
神に世界に自分に問いかけるのだ

誰かがリセットボタンを押し
コンティニューの時点からやり直したというのか

人生にセカンドチャンスはある
きっとあるし、必ずある
敗者復活戦もきっとある
けれども、そうだとしても
やはり敗北は敗北であり、
撤退は撤退だ。

輝く時間を生きているのならば
輝かしいものを手にしているのならば
それから手を離してはたぶんいけない
人が何と言おうとも
人からどのように見えようとも
この瞬間が輝いているのであれば
それは自分自身にしかわからないもの
なのであるから

たぶん僕もずいぶん若い頃、
10代の何もわからないとき
(あるいはすべてわかっていたのかもしれないが)
そうした敗北、あるいは失敗、撤退、失地、
そういったものを、
知らずに経験していたのだと、
振り返ったときにそう思う。
ひとつ、ふたつ、みっつくらいは
思い起こすことができる。
(どれも、弔いは、済んでいる)

そこで失ったものを
些細なことかもしれないが
おそらくは決して小さくはないそれを
今でも思って、
そう考える。

Hang on.
言うのはたやすい。

けれども、
何が勝利で、
何が敗北なのか、
よくよく知っているつもりで
そこだけは見極めなければ

人から見てどうということではない
人から見て、何も為していないように
何も成していないように見えたとしても
この複雑な世の中で
自分がどのようなコースで
どのような歩き方で
どのように走って
描いたゴールにたどり着きたいか
その思いは
スケートボードのスタイル以上に
自分のしたいことが誰に教えられなくても
まっすぐに選び取る子供のように
自分でわかっている
つもりだ

そして
そういう意味で言えば
僕の人生は
毎日が勝利であり、
毎年ごとに大勝利を積み重ね
栄光に満ち満ちているのだ。

スタジアムでコンサートなどしなくても
ヒットチャートを制覇しなくても
YouTubeで100万viewsを達成しなくても
ハリウッドに降り立ちレッドカーペットの上を歩かなくても
僕の人生は輝かしい栄光に満ち
僕はかけがえのない瞬間を生きている

たとえば最初の質問に戻り
たとえば人生がかけがえのないものだったとして
たとえば残りの人生の時間が一年与えられたとして
どのようにそのかけがえのない日々を生きるか

そして自分はかけがえのない日々を生きているか
その日々は勝利と呼べるものであるか

思い出してみるといい
あの頃
19歳だった自分が
24歳だった自分が
その後のいつにいたっても
その時々の自分が
どのような日々を願っていたか

大切な人と共に過ごす日々が
その一日、一日が
どれほど輝かしい日々であり
勝利の瞬間であることか

そして自分の音楽や芸術、
表現の基本は、おおもとは、
なによりそこからくるもの
それがすべてではなかったか

愛という言葉を使うのは難しいが
何をもって僕は音を鳴らし
また世界を救おうと思ったか

それはいかにもパーソナルな行為ではなかったか

そしてその輝かしい日々が
長い年月がたった今も
続いていることに
驚き、おどろき、おののき、
そしてまた喜びにむせび泣いている。

自分は今でも勝利の瞬間を生きている
傍からどのように見えようとも
そして、それを容易に手放せばしないだろう
それだけは、知っておいた方がいい
それだけは、覚えておいた方がいい

そのことを胸にとめて
この瞬間に対する感謝をいっぱいに持ち
さらなる勝利に向かって
2015年をスタートしたい。

ちなみに、2015年の目標、抱負は、
すでに決めてある。

うーん、ロックスターかな(笑)
いい歳して(笑)

全力でね!

いい年になるよう皆さんにJesus with you.

No(4326)

■…2015年 1月 6日 (Tue)…….新渡戸稲造歌詞
激しい雨でひるんでスケートはできなかったが、
宿題になっていた楽曲”Bushido”の歌詞は書けた。
つまりはこれは現在取り組んでいるImari Tonesの「次の次の」アルバム”Jesus Wind”に取り組んでいるのである。
順番にバンドでリハーサルしつつ歌詞を書いていって、現在、Jee-You、Dying Prophet、God’s People、Saints Seeking Salvation、ときて、Bushidoは5つめの曲である。曲名こそ武士道だが、サウンドの方はといえばどちらかというと暴走族がバイクで爆走しているようなサウンドの曲だ(笑)
いつか日本の歴史をクリスチャン視点で見たようなコンセプトアルバムをやりたい、とか言い続けて、一生できないだろうなと思っていたけれど、ちょうど一年前くらいに社会状況に触発されて楽曲が書けてしまい、それはかなり複雑な気持ちである。こんなもん書かせんなよ、という本音だ。ストーリーの結末は楽曲を書いた時点で自分でもわからんので、どうなるんだろうな、これは最後は人類が滅亡するストーリーなのかな、と思ったけれど、その後いろいろ見えてきて、どうやら今のところ、人類滅亡はしないようだ(笑) まあもっとも、このアルバムを作り終える前にフィクションでなく実際の人類の方が滅亡しないとも限らないが(笑)

さて歌詞は書けたが、歌詞を書くにあたって、曲名が武士道なので、新渡戸稲造の武士道という本を年末に読んだわけである。一応感想をちょこっと書いておくが、本のタイトルこそ「武士道」であるが、武士の真髄とか刀とか武道について書いてある本ではなく、どちらかというと海外の人たちに日本の精神を説明した本であり、ていうかもっと言うと、日本どころか、単純に日本人の立場から近代、現代をふまえた上で世界人類の人間の精神をフツーに描き、説き、問いかけただけの本だった。
そしてそこに近代日本に生きたクリスチャンならではのキリスト教徒としてのエッセンスが入ることで、この日本精神をベースに世界精神を総まとめにした論文は世界標準としての性能を獲得するのである。ちゃんちゃん。
まあもちろん全部良いなと思ったわけではなく、ところどころ、おいおい、と思うところもあったが、それは時代背景のせいもあるし、新渡戸さんは時代背景や歴史にもとづいて普通に事実を書いているだけだからそれはよかろう。
もともと僕は恥ずかしながら新渡戸稲造なんつう人もよく知らんかったが、東洋のことをよく知らん欧米の学者がでたらめ言うんではなく、こうして世界を理解した日本人が世界精神を説いたというのはそれはやはり誇らしいことであり、近代日本の知識人もたいしたもんだな、と思うと同時に、そうやって見ると、近代日本にはクリスチャンの人たちがけっこういっぱい活躍しておったのだなと改めて思う次第であった。

さて新渡戸さんいわく、というかたぶん彼が考えていたのは、武士道の精神的土壌の上にキリスト教精神が培われていく、ということであると思うのだが、
武士道などとうに滅んでひさしい現代の日本、現代の世界においては、やはりキリスト教精神などというものも培われるわけも、広まるはずもあるまいよ。では武士道がよみがえればキリスト教精神もよみがえるのだろうかね。あるいはそうかもね。昔の武士が刀を持って武士道を実践し表現していたのであれば、そうだね現代の私たちは、やはりギターを持って実践してみますか?どう?

ともあれ僕は今コンセプトアルバムの楽曲やテーマはすでに出来て、バンドでリハーサルしながら順番に歌詞を書いているが、Jesus Wind(仮)みたいな思わせぶりなタイトルになってはいるものの、その「神風」みたいなタイトルから想像するような内容ではたぶんぜんぜんない。俺はクリスチャンだしリベラルだし平和主義者だし(恥ずかしながら)、もっと先に行きたい人間だ。伝えたいところというのはすごく微妙なあたりだけれど、そこはわかってほしいなと思う。

俺は「サムライ」という言葉は必ずしもすきじゃないし、
たとえば「大和魂」みたいなのも、ほとんどの部分は幻想だと思う。
ハイテク手裏剣を駆使する忍者と同じくらいフィクションだと思う。
だって外国の人にも、日本人以上に「サムライ」だったり「大和魂」だったりする人いっぱいいるしね。
ただ俺が、これはいわゆる大和魂みたいなものなのかな、と思うのは、
なんか、どんなつらいめにあっても、ひどい状況にあっても、よくもわるくも、耐え忍ぶ、という性質。
美徳かもしれないし、欠点かもしれないけれど、
これはたぶん日本人に固有の、大和魂と呼んでもいいものなのかなと、今思っている。

俺自身も、自分にもあるそういった性質と、どう向き合っていくべきか、思案しているところです。

No(4327)

■…2015年 1月 8日 (Thu)…….サザンオールスターズ紅白歌合戦
いつも世間の話題に乗り遅れていて心苦しい限りだが、
年始に友人たちと集まった際にも、
大晦日のテレビでサザンオールスターズが行ったというパフォーマンスは話題になっていた。
つっても僕はテレビ見てないしテレビ持ってないし、その映像も見てないので、なんとも言えないのだけれど。
でもネットの話題をちらっと見ていて思ったのは、
このバンド、ずっと昔からこうだったんじゃないかって。
なんか、その昔、実家にいた頃に妹が見ていたんだか録画していたサザンのドキュメタリーを思い出したんだけれど。
つまり、その桑田佳祐さんのパフォーマンスに、怒っている人も、喜んでいる人も、等しくおちょくられているだけなのではないかと。
桑田氏とサザンは、そもそも最初から、そうやって人を世間を、おちょくることで、大きくなってきたバンドなのではないかと。
もちろん、今回の「スタント」の背景には、いろんな事情や、考えや、メッセージや、周囲の状況とか、商業的な判断や、スタッフや関係者の思惑があるのだろうけれども、
それも含めて、桑田氏は楽しみ、おちょくっているのではなかろうか。
なぜか。それが、彼の芸だからではないかと思う。
おちょくるということの目的は、人を怒らせることだ。
なぜなら怒り、感情的になる時、人はその本質を露呈させるからだ。
それが、彼の芸人としての生き様であり、
そしておそらく、彼はその芸のためなら、命をかけてもいいと思っているのではないだろうか。
正しいか間違ってるとかそういうのとはまったく別の次元で、純粋に芸人として、すげえな、と素直にそう思う。

No(4328)

■…2015年 1月 8日 (Thu)…….ほーら、ほら、ほら、ホラー
最近、街に出かけると「妖怪」というのをよく見かける。
妖怪ウォッチだか、クロックだかしらないが、そういうのをいくつか見る。
アメリカ人はゾンビが大好きだ。映画でもなんでも、なんであんなにゾンビばっかなんだろう、そんなに君たちゾンビが好きなのか、とずっと思っていたが、
よく考えると日本にもずっと昔からこの妖怪というものがあった。
そして日本人は妖怪が大好きだ。
アメリカ人のゾンビ好きに勝るとも劣らないくらい、日本人は妖怪が好きだ。
そして、それぞれの文化の中で、言葉の意味合いや使われ方としても、アメリカでいうゾンビと、日本でいう妖怪はほぼ同じではないかと思う。
妖怪というのは、人であることをやめてしまった人のことだ。
それは水木しげるは言うまでもなく、もっと江戸時代あたりの頃から変わっていないのだろうと思う。
きっと君のまわりにもいるだろう。
日常的にいるだろう。
かく言う僕も、そろそろ立派に妖怪の仲間入りが出来そうな気がします(とほほ)

No(4329)

■…2015年 1月 8日 (Thu)…….美しきその花を咲かせるため煮
You say never surrender.
I’d rather surrender to Love

武士道続き。

ひとまず先日の”Bushido”に続き、”The War”の歌詞もひととおり書いた。
暗い曲だ(笑)
これで、今年の第一四半期(ファーストクォーター)の宿題は出来た(笑)

とにもかくにも、新渡戸稲造を読んでなんとなく察したには、
武士道というのは、キリスト教とかなり近い。
かなりイコールの関係にある。
というか、その内容とか教義はともかくとして、
その結果として出てくる行為、行動が、かなりイコールになるように思う。

ただ、一般に言う武士道というのは、男性的な行動規範であって、
また生きる上での外的な行動の規律であるので、
内的なところというか、つまりは家庭的な部分はたぶんあまりカバーしてない。
ように思う。わからないけれど。

そうはいっても、日本とか東洋には儒教があって、まあ儒教も正しく伝わっていない感が満々だが、
孔子は仁という言葉を使っていたはずだ。
仁というのはつまり愛のことで、
彼はそれを人の生きる中心に据えようとしたはずだ。

愛はつまり神でありキリストであるので、
愛とは神そのものであるので
そういう言うと話がそこで終わってしまうけれども、
けれども愛を言葉で説明できるものであればどうして音楽や芸術が必要だろうか。

愛は人の生きるその行為の中にしか表せない。

なぜ僕らは生まれてきたのか。
何の為に僕らは生まれてきたのか。
そして、
なぜ、なんのために僕らはこの日本という地に生まれてきたのか。

そして、人の生きる最大の、そして唯一の目的とは何か。

愛を表現するためだろう。

じゃあ僕らがこの日本という地に生まれてきたのは。

武士道を完遂するためだ!!!(笑)

武士道を、この地に表現し、
美しい花のごとく咲かせるためだ!

そして、武士道を完成させるためだ!

果たしてそのためだけに
これまでどれだけの名も無い戦士や
幾多の英雄たちが
散っていったのか!

たとえば、新渡戸稲造の本にも書いてあった。
武士道は、戦い、争い、殺し合う、
戦国の戦いの中で培われた。
そういった、血なまぐさい、情け容赦ない残酷な世界の中で、
人としての道をつらぬいて生きる精神が、
かえってなぜだか培われた。

そしてそういった時代だからこそ
昔の武士と言われる人たちは、
刀だか槍だかスォードだか日本刀だか
そういったものを使って人の生きる道を表現した。

ここで、剣豪宮本武蔵を思い浮かべてもいいし、
あるいは、るろうに剣心を思い浮かべてもいいと思う。

けれども、彼らは思わなかっただろうか。
そういったいにしえの剣豪たちは、
思わなかっただろうか。

自らの刀が、人の血を吸うたびに。
ああ、この刀が、それを振るうたびに、
人の命を吸い、人を殺め、人を悲しませ、命を奪うのではなく。

その反対に、
それを振るうたびに、
人に命を与え、人を導き、人を幸せにするような
そのような剣が、ありはしないかと
彼らは思わなかっただろうか。

ここに断言しぶち上げるが、

およそ日本人で、現代の日本において、
ギターを、楽器を鳴らし、
またロックに立ち向かう者たちは、

およそ武士道に憧れ
武士道に挑み
武士道を完遂するために
その道を選ぶのだ!

これは、日本人のDNAにある本能だからしょうがない。

もちろんそれはロックミュージシャンに世界共通のものとして
あると思うけれども、
こと日本人には、そうした強みがある。
ロックとは何ぞや。
そしてなぜ神は人間にロックを与えたのか。

そう問うとき、
日本人には武士道という強みがある。
歴史もある。
つまりは、武士道こそが日本人のブルーズなのだ。
ブルーズの行き着く先なのだ。

日本人がロックにそしてブルーズに向かうとき、
そこには武士道という明確な目的があり、最終形があり、
道があるのだ。

武士ってどんなものだったか。
それは、あえて今、僕が語る必要は1ミリもない。
みんなの方がたぶん詳しい。
幕末の志士たちはどんなだったか。
戦国の武将たちはどんなだったか。
源平合戦の英雄たちはどんなだったか。
みんなよく知っているはずだ。

なぜ神は人にロックを与えたのか。

新約聖書で、有名なところ、
ヨハネの福音書を開くと、
最初に、

「はじめに言葉があった」
とある。
そして、
「言葉は神であった」
ともある。

手元にあるのが新共同訳なので
(新改訳は嫁さんの手元)
引用しよう。
ヨハネの福音書の1章の1~5まで。

初めに言(ことば)があった。
言は神と共にあった。
言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。
成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の内に命があった。
命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。
暗闇は光を理解しなかった。

引用ここまで。

さすがにこれの意味を解釈したり解説することは出来ない。
けれども、なぜ神が人間にロックを与えたのか
その理由はこれだけで俺には十分にわかる。

そして、なぜ神は、ロックを、
ロックミュージシャンを選んだのか。

なぜわざわざ聖書に、
「神はロックだ」
と書いてあるのか。

日本人が生まれる理由。
それは、この地に最高の
武士道を表現し、実現するためだ。
この地に最高の武士道を、完成させるためだ。

武士道とは、
日本人のために神が与えたキリストの似姿だ。

なぜなら、武士道とは、
本に書かれた教えではなく、人が行う行為の中にあるものであり、
人が人生を通じて表現するものだからだ。

そして、こと日本人にとっては、
キリスト教を実現するために武士道があるのではない。

その逆だ。

武士道を達成するために、キリスト教があるのだ。

もう一度言うけれど、
武士道を使って、キリスト教を理解するのではない。

武士道を究めるために、キリストの助けを必要とするのだ。

これが日本人とキリストさんとのパーソナルな個別の関係であり契約であると俺は思う。

目的はあくまで、武士道を実現すること。

それは、愛と正義に満ちた国を作ることだよ!

まあ愛も正義も、言うほど大して信じてないけどね(笑)
Surrender to LOVE!!

No(4330)

■…2015年 1月11日 (Sun)…….UDON
「わてがこの香川に来て最初に思ったんは、うどんというのはこんなに自由なものなんやということでした。わてはこの一杯の中に、その自由というものを表現してみたい、そう思ったんです」(キャラ・佐田・マラン 1989年)

我が家でうどんが流行している。
きっかけはやはり11月のツアーでオオハラ氏の地元である香川を訪れたことだった。
もとより僕はうどんは嫌いではない。けれども、どちらかといえば蕎麦を食べることの方が多いし、うどんは関西風のものはだしがきいていて美味しいと思ってはいたけれど、それ以上のものだと思ったことはなかった。

けれども香川でいくつか連れていってもらったうどん店で目撃したものは、なんかそういったうどんの概念よりも明らかに上を行くものだった。

うどんというのはたかだが小麦粉の固まりである。小麦粉から作った麺にすぎない。だが、たかがその小麦粉の固まりに、かようにも根性の入った喰い方ができるものか。
それが、たとえば世界各地で食べられる根性の入った食い物(ソウルフード)や、ラーメン二郎のような意味のわからんパワーを持った、食い物以上の食い物であることはすぐにわかった。

つまりは、今まで僕は、うどんというものの食べ方を知らなかっただけなのである。
というよりは、おそらくはうどんというもの自体について知らなかった。
そして世間の大多数の人は、うどんというものついて、そこまで考えたことがなく、そして考えることなく人生を終えるのに違いない。
だから、いわゆる普通のお店で出てくるようなうどん、きつねうどんとか、そういうものだと思い、それ以上のものなど想像すらせずに生涯を終える。

だが、このうどんというものには、もっとそれ以上の可能性があった。
たかだか小麦粉の固まりにすぎないうどんという麺類の一種に、
しかしこれほどに考え、命をかける人たちがいたということである。
しかもどちらかというと、その地元である香川の人たちは、
自分たちがそれほどうどんというものにこだわっている、という自覚すら持っていないに違いない。

もちろん、「うどん県」として全国にPRされ、メディアの発達した現代では、うどんは香川の名物であり名産品なのだ、という自覚は一般に浸透しているとは思うが、
そのほとんどについては、歴史上、その自覚すらなしに、日常あたりまえのものとして、うどんは存在し、発達してきたのではないだろうか。

うどんを食べる、という行為の意味合いからして、すでに明らかに何か違う。
そのへんは、たぶん現地に行き、体験することでしか理解できない部分であろうと思う。

というわけで、
その後、我が家ではうどんを食べる機会が増えている。
というのは、非常に貧乏くさい話で恐縮だが、
うどんは経済的だからだ。

もとより、無名の貧乏ミュージシャンくずれをやっている我が家では、
贅沢な食事をすることはあまりなく、
今までも安価な無名の料理で腹を満たすことが多かった。
そこへもってきて、うどんというのは、安価に量が稼げる。
もちろん、値段から言っても、質から言っても、やはり本場にはかなわない、というのは、本場ではおそらく値段すらもっと安いのではないかと推測する。

が、安価に量を稼ぐ事ができ、
また、その調理法や、食べ方にしても、今までは「うどんというものはこういうもの」と思い込んでいたのが (せいぜい、かけ以外では、焼きうどんくらいが精一杯)、
もっともっといろんな食べ方があるのだ、そしてむしろ、オリジナルの食べ方やアレンジを含め、食べ方は自由なのだ、
と、そう開眼することによって、
我が家の「名も無い安価な料理」の中に、うどんが加わることになった。

この冬の我が家の流行は「柚子胡椒」である。
うどんのアレンジに使えるのだ。
どう使うかはしかし、君次第だ。

もちろん、そのへんのスーパーで売っているうどんの麺なので、
本場のものとはぜんぜん違うし、質もはるかに劣るだろう。
けれども、いろんなバリエーションで、この小麦粉のかたまりに相対することができる。
今の僕にはそれで十分だ。

こんな小麦粉のかたまりに、ただの麺という以上に、日々を生き抜くパワーの源、そう命を見出すことができるのである。

かくも食というものは深遠にして、欠く事のできぬものであることよ。

No(4331)

■…2015年 1月12日 (Mon)…….本当の贅沢
さてこの気力のない状態でいろいろ書けるかどうかわかりませんが。
今日はちょっと宿題になってる音源の制作に、ちょこっとだけ手をつけることができたんですが、
まあ昨日もいろいろ忙しかったしね。

さて年末にいろいろ散歩していた時に、
昨年2014年に制作した僕らImari Tones (伊万里音色)の新しい作品(アルバムというか)であるところの”Revive The World”を久しぶりに聴いておりました。

そこでふと気付いたことがありました。

知ってのとおりというか、僕は、少年時代から、Van Halenの、それはもう大ファンなのですが、

Van Halenの歴代のアルバムの中で、世間的な評価とかヒット作とは関係のないところで、少し特別であると思う作品があります。
もちろんVan Halenのアルバムはすべて、とても大好きで、どれがより好きか、などは言えないくらいですが、

派手ではないけれど気に入っている、という意味あいでは、
たとえば2ndアルバムや、Diver Down、そしてOU812を挙げることができます。
(まあそうはいっても、Van Halenなので、どれもやっぱり派手なんですが)

その中でもこのOU812というアルバムは、ちょっと不思議な魅力のあるアルバムです。
そして僕は、いつかこの”OU812″のような作品を作りたいものだ、と思っていた、ような、いないような(笑)
どこかでは思っていたかもしれません。

で、制作してから半年が経過し、少し冷静に距離を置いて聴いてみた結果、自分らで作ったこの”Revive The World”という作品、まあ世間に発表するのは順調にいって今年の後半になると思いますが、
これは、僕らなりの”OU812″なのだな、ということを理解し、感慨を覚えました。

そして、最近、自分なりの仮説に基づき、「武士道ブルーズ」に思いを馳せていたことからも、考えてみました。

これは、とても贅沢なレコードなのだと。

そして、本当の贅沢というものが、どういうものなのかを。

世の中というのは、
およそ大昔から、人の歴史は、不平等なものであり、
富めるごく一部の人と、持たざる大多数の一般大衆と、という世の中であります。

そして、この現代の資本主義の世の中においては、お金という富を所有している人たちが、およそほとんどの贅沢というものを独占していると思われます。
わからんけど。あんまり金持ちの友達いるわけでもないし。

けれども、やはり形而上の世界において、世の中のちょい先を行っているはずの音楽家の一人としては、
考えてしまいます。
霊的な意味での、本当の贅沢は、どういうことかを。

こと、自分が一応、長い間本気で向き合ってきた、ギター、エレクトリクギター、ロックギターを弾く、ということに関しては、
ギアということに本気で考えてみたここ1、2年の間に、その世界と価値観の中において、
資本主義の原則に反して、
金額の高いことが、必ずしも本当のクオリティ(品質、というよりは、本質、と訳したい)につながらない、ということを、自分の体感と体験として、目の当たりにしてしまいました。

世の中の仕組みがどうなってんだかわかりませんが、
たとえば本当に、とあるクオリティ(品質ではなく、本質)のエレクトリックギターが欲しい、と思ったときに、
お金がたくさんあれば、それを手に入れることができるか、という質問、命題に対して、
残念ながら、僕の見た答えは”NO”でした。

(もちろん、いくばくかのお金は必要ではありますが。それ以上に、なんというか。)

いくらお金を持っていたところで、
僕の求める、本物のクオリティの楽器は、手に入れることはできない。
見つけることはできない。
そして、それ以上におそらく、見分けることができない。

ではその見分けることのできる目(判断基準)とは、どういったものか。
その判断するための基準を作り上げるために、どうしたものが必要なのか。

しらんがな(笑)

だから、この現代の、複雑怪奇に進歩した世の中で、
また、僕の言葉でいえば、「すでに滅んでしまった」世の中において、
金額の意味ではなく、霊的な意味において、スピリチュアルな意味において、
本当に価値のある、贅沢なものを手に入れるためには、
そして本当に価値のある、贅沢な体験をするためには。

お金以上のものが必要だということだと思います。

もちろん、お金持ちの人たちが、
金銭的に余裕のある中で、
そうした良いものに触れて、良い体験をして、
そうした「目」を培っていく可能性はやはり高いとは思いますが、
それと同じくらい、お金がマイナス要素になってしまうことも、多々あるのではなかろうかと、僕は考えています。

じゃあ、本当の贅沢とは、どういうことなのか。

お金の意味だけではなく、
霊的な意味、スピリチュアルな意味、精神的な本質的な意味においての贅沢とは
どういうことなのか。

このことを、よく考えてみる必要が、僕たちにはあると思います。

思えば、僕はここまで、かなり贅沢な人生を生きてきました。
湯水ざばざばのように贅沢です。
「愛なんてね、当然よ。湯水のように愛をばしゃばしゃ跳ね飛ばして生きればいいんだわ。」誰の台詞だったか。
そんな感じで生きています。
とても感謝していますし、
そのことに対して、自分が非常に貪欲であることを否定しません。
あるいは、本当はたいして貪欲ではないのかもしれないし、
もっともっと貪欲であるべきなのかもしれないけれど、
自分ではかなり、自分なりに、霊的、精神的な意味においての贅沢について、自分は貪欲である、と自覚しています。

そして、冷徹な現実として、
豊かな芸術とは、霊的な意味で優れた音楽とは、
そうした湯水のような贅沢の上でしか、
やはり創造できないものなのだと、
そう思います。

僕が、Van Halenの”OU812″を、あれはちょっと特別な領域にあるレコードだ、
と思うのは、
あれが、
とんでもなくとてつもなく贅沢なレコードだからです。
それは、世界一のロックバンドの絶頂期の作品だから、
ということももちろん、
精神的、霊的な意味においても、贅沢をきわめたレコードであるからです。

僕ら昨年仕上げた、この”Revive The World”という作品は、
とても贅沢なレコードです。
使った金額や、資産は、Van HalenのOU812と比較すると、
何万ぶんの一かわかりません(笑)

しかし、それでも、
この作品を作るにあたって、その基となった、
霊的、精神的なマテリアルを思うとき
あるいはそれらのVan Halenの作品に負けないくらいに、贅沢をさせてもらったものだなあと思います。

僕は無名の貧乏インディミュージシャンですが、
あるいは形而上の世界、霊的な世界においては、
それなりに資産を持つことができたのかもしれません。

贅沢な芸術とは。
贅沢なレコードとは。
それは、単に世間的な意味でのプロフェッショナルなレコードを作るということではない。
もちろん、NEVEのコンソールとか、古いコンプレッサーとか、高価なヴィンテージ機材を使って録音するのは、贅沢なことですが、
そういったことすらも、越えるものは確かにあると思います。

そして、音楽や芸術の良いところとは、
その霊的、精神的な資産を、多くの人たちと共有し、与え合うことができること。

本当の意味での贅沢とはどういうことなのか。
そして、物質的ではなく、
また、精神的という言葉すら越えて、
本質的に、生きるということにおいて、霊的な意味においての贅沢とは、どういうことなのか。

今後は多少なりとも自覚的になって、
物事を見聞きし、体験していきたいと思っています。

そして、この身が耐えうる限りにおいて、
今後も、つとめて贅沢をしていきたいと、考えている所存です。

こんな僕に贅沢をここまでさせてくれている、神様と、皆さんに、心から感謝しています。

まあ今、SoundCloudに上げてあるやつだと、
こんなくらいのものです。
贅沢っていえば贅沢な曲ですこれも。
こちら

No(4332)

■…2015年 1月12日 (Mon)…….カスタム人生
なにかひとつ、偉そうに持論とか自画自賛を書くと、
照れ隠しで別のことを日記に書きたくなります。
いや、自分のCGI日記だけならいいんですが、
FacebookとかSNS的なところに書くと、表示されるし、
みんな適当に表示されるし、
かといって人の目に触れるとこには置いておきたいし。
まあもろもろの作業をする気力が起きないんで頭の整理に書いてるだけです。

音楽を聴きながら。
カスタムギター、ということについて考えます。

カスタムって何でしょう。
英語の辞書をひいてみても、よくわかりません。
でも、カスタムっていう言葉自体が、なんかかっこいい。
カスタム仕様のギター、ということに憧れるのも、
半分くらい、その言葉のかっこよさから来るものかもしれません。

カスタムギターとは、どういうことか。
たとえば、日本語に言い換えて、「改造」としてしまえば。

お店で買ってきたギターを、そのままでなく、
自分で手を加えて、パーツを変えるとか、すれば、
それはもう「改造ギター」ということになります。

そうしたパーツ交換を、お店で購入する際に、指示すれば、
それはもう、カスタムオーダー、ということになる気がします。

あたりまえ過ぎる言葉遊びですが、
カスタム、とは、自分に合った仕様にすること。

たとえばお店に置いてある楽器やギターは、
誰が買うかわからないので、標準的、一般的な仕様になっていると思われます。

それを、使う人に合わせて、
使う人の、用途や、演奏スタイルや、体形に合わせて、
調整、変更していくこと、
カスタムってそういうことかなと。

だから、標準的な使い方しかしない人であって、
標準的な体形の人であれば、多くの場合、カスタム仕様とかは必要ないかもしれません。

極端な使い方、特定の演奏スタイルや方向性、極端な体形、
そういう人には、カスタム仕様といったものが、生きる可能性が高いと思われます。

と、ここまで書いて、
疑問になってくるのが、
そのカスタム仕様の前提となる、「標準」というものが、
どういうものなのか。

その意味は、ふたつみっつ、考えられると思います。

ひとつは、その時代の標準。
エレクトリックギターは、その時代に流行している音楽やスタイルの影響を大きく受ける楽器だと思うので、
その時代にある楽器は、使われるパーツや、材料、外観など、その時代の流行に合わせたもの、その時代の売れ線の楽器の傾向に合わせたものになっていると思います。
それ以外の傾向のものが欲しい場合には、カスタム的なことが必要になることがあるかもしれません。

もうひとつは、いちばん狭く考えたときの、エレクトリックギターの標準。
それは、ずばり言って、エレキギターの王道であるところの、ストラトキャスター、またはレスポール。
このふたつを基にして、そこからどう変えていくのか、という考え方に基づいて、カスタムギター、ということを語ることができると思います。

もうひとつは、もう少し広く考えて、ロックの黄金時代、そしてエレクトリックギターの黎明期である、1950~1960~1970年代くらいまでに作られたベーシックなエレクトリックギターのモデル。
ストラトキャスター、テレキャスター、ジャガー、ジャズマスター、ムスタング、レスポール、レスポール各種、フライングV、エクスプローラー、SG、ファイヤーバード、等。
それらの昔からある代表的なモデルをベーシックとして考え、その中からどう形状を選び、そこからどう変えていくのか、という考え方。

まあエレクトリックギターの歴史をかんがみるに、
2015年まで進んでしまった今となっては、
どんな仕様であっても「標準」の範疇に入ってしまうくらいだと思いますが、

上記の基準で考えれば、
たとえば1980年代のJacksonのギターなどは、
すべて「カスタム仕様」のギターとして作られたものだと考えることができます。

1980年に流行した、いわゆる「スーパーストラト」
ストラトキャスターの形をベースにしつつも、
パワーのあるハムバッカーを載せ、
ボディ形状をさらにスマートにし、
ハイポジションの演奏性を向上させたり、
ネックの形状などを、ヘヴィメタルの速弾きに適したものにする。
そしてヘヴィメタルの標準装備であるフロイドローズを搭載する。
フレットも、24フレットあって当たり前、時にはもっと多かったりする。
などなど。
これは、時代が要求したカスタムギターだと言えます。

僕は、何本もギターを所有していますが、
そうはいっても、たくさん持っている人の基準から言ったら、
ぜんぜん少ないし、
そもそもほとんどが安物ばかりだし。
そしてここ2、3年くらい、なんとかギターの本数を減らそうと
努力してきましたが、自分にはギターを処分したり売却したりするのは、
向いていないのだということを思い知りましたが。

それはともかくとして、
そうやって考えていくと、
自分の所有しているギターは、まぎれもなくすべてが「カスタム仕様のギター」だと言うことができます。

少なくとも、「標準的なFenderのストラトキャスター」、「標準的なGibsonのレスポール」、「標準的なGibsonのフライングV」などは、所有していません。

そして、広義の意味でも狭義においても、それらの「標準的なギター」では、僕の用途の中ではニーズを満たすことができなかったあろう、それも明らかです。
Eddie Van Halenほどではないですが、僕がやりたかったことも、たぶんちょっと、人とは違うことであったからです。

自分の所有しているギターをすべて解説することは面倒なのでしませんが、
たとえば一本くらい見てみましょう。
僕が時々使用している、Jackson Randy Rhoadsモデル、いわゆるランディVを考えてみると。

まずこれは1990年製の、日本製のJacksonです。
これは、僕は日本人ミュージシャンのアイデンティティとして、なるべく日本製の楽器を使いたいという思いがあり、たとえスケールの大きなアメリカ製のギターのような豪快な音は望めなくても、堅実に作られた繊細さを持つ日本製の楽器の音を好むからです。そしてなぜ2000年代以降の現代のJacksonではなく、1990年製かというと、現代のJacksonは、昔のJacksonとは少し作りや仕様が違い、僕が欲しいのはポプラボディの昔のタイプのJacksonだからです。そしてまたなぜ1990年製かというと、この日本で作られたJackson Randy Rhoads Customのモデルは、翌年の1991年からは24フレット仕様になってしまうからです。たぶんカタログなど見る限り、フロイドローズの付いたRandy Rhoads Customで、22フレットのモデルが作られたのは、1990年だけのようです。そして、僕は22フレットの方が好きなのです。24フレットのギターは、どうも好きではないのです。
そして色は、パールブルーホワイトというちょっと特別な色の仕様になっています。
これは、僕はいつもヘヴィメタルを演奏するにあたっては、白い色のギターを常に欲しかったということがあります。そしてもっと言うと、当時のJacksonが採用していた、このパール仕様のホワイトに対してずっと憧れがありました。ただの白ではなく、より光沢と高級感のあるメタリックな白だからということもありますが、もっと言うと、僕が14歳のときから弾いている、最初のギターがやはり90年代のJacksonで、それがパール仕様のホワイトだったからです。けれども僕は15歳のある時に、そのパールホワイトの塗装を剥がしてしまうという暴挙を働きました。それは確かに理由のあることで、後悔はちっともしていないのですが、破壊してしまった塗装に対して罪悪感があり、そのうち、ちゃんとしたパールホワイトのJacksonを手に入れたいとずっと思っていたのです。ちなみにその塗装を剥がしたJacksonはパールバイオレットホワイトという、紫の光沢の入った白でしたが、カタログ情報ではパールブルーホワイトという青の光沢の入った白があるのを知っていたので、いつか手に入れるならそちらの方がいいなと思っていたのです。
そしてピックアップは、リアにセイモアダンカンの59モデル、フロントには日本のギターメーカーのモデルに供給されたもので型番こそ違いますがディマジオのPAF Proが載せてあります。これは、僕はなんだかんだ言って、ヴィンテージギブソン系の、素直で高域のシャキっとしたそれでいて丸みのある音が好きだからです。ダンカン59は、ピッキングに対する反応も素直で、ニュアンスが出しやすい、自分の中でも標準として位置づけて良いピックアップです。しかもこれは、どんなギターにのっけても、わりとヴィンテージギブソン風の素直な音になってくれるという便利なやつです。また、ヴィンテージ系といいつつも、ノイズにも強くエフェクトの乗りもよくて、現代的なヘヴィメタルなどの音楽にも使いやすいピックアップです。ヘヴィメタルの文脈の中でヴィンテージ系の音を意識している僕のスタイルには、かなりぴったりくるやつです。そしてフロントのPAF Proに関しては、ある程度の太さと明瞭さを併せ持ったやつで、なおかつリアのダンカンと比べてキャラクターの違う、気分を一気に切り替えることのできるもの、とうことでディマジオです。まあ定番の組み合わせだったらしいです当時。
そしてブリッジはフロイドローズ。Randy Rhoadsモデルといえば、本来の仕様はフィックスのtune-o-maticブリッジで弦は裏通しですが、自分が思うにはやはりこのような尖った80年代的なシェイプのギターを使うにあたっては、ヘヴィメタル仕様らしくアーミングをしたいと思ったのです。よって、Randy Rhoadsのクラシックとかプロフェッショナルとかいうのではなく、このフロイドローズの付いた「カスタム」を選んだ次第です。
そしてこのフロイドローズに、さらに「ESPアーミングアジャスター」を搭載してあります。これは、最近になってドロップDの楽曲をいくつか演奏するようになったので、その必要に迫られて”EVH D-tuna”を搭載したのに合わせてセットしました。
つまりはEVH D-tunaを使うためにブリッジを固定するためのツールですが、これを搭載したことで思わぬ副作用、良い意味での副作用、があり、フロイドローズの弱点である振動の伝達の悪さが改善されたのか、ギター本来の鳴りがぐっとよくなりました。本来、スルーネック仕様のギターなので、ネックとボディの振動の伝達は良いはずですが、ブリッジも固定されたことで、ほとんどヴィンテージに迫るくらいの鳴り方をするようになりました。サウンドもより輪郭の強い存在感のあるものになり、素直なヴィンテージ系のダンカン59ピックアップと相まって、非常に満足がいくものになっています。そして、EVH D-tunaを搭載したことにより、一瞬でドロップDのチューニングに切り替えることができます。これなどはまさに、ドロップDの楽曲を演奏する、という必要性に迫られたカスタム仕様である、と言えます。
そして、ほとんど見えない小さな部分ではありますが、ボリュームノブに、接着剤を使用して、小さな印をつけてあります。これは、目盛りの数字のついていない黒一色のボリュームノブに、目印をつけて、特にボリュームを下げてクリーンにする際に、ボリュームの位置の目安にするためです。
そして最後に、内部の配線とジャックなどの部分を、某リペア店にて、セールストークにだまされて(笑)クライオジェニック処理されたものに交換してあります。しかし、自分好みの、抜けのよいハイファイで素直な音になったので気に入っています。

といった次第の、自分仕様のカスタム仕様な、僕のランディVです。

すみからすみまで、自分の用途と、スタイル、好みに合わせたものになっていることがわかると思います。
ランディVを使っているギタリストはたくさんいると思いますが、言ってみれば自分のはこれだけ特別なのであって、他のランディVを持ってきても、とても同じようにはいかないということをご理解いただけると思います(苦笑)

と、ここまで、詳しく書いたんですが、
実は、上記の「カスタム仕様」ランディV、これらの仕様の、ほとんどは、「偶然」です。(笑)

もっともらしく、ピックアップや、年式や、音について書きましたが、

たまたま、ヤフーオークションで安く見つけたから入手したまでで、最初から、ピックアップも、これらのものが載っていたわけです。
面倒だからこれでいいや、って思ったからそのまま使っているだけで(笑)

もちろん、リペア屋の口車にのって配線変えたりはしましたが、
D-tunaだって必要に迫られて乗っけただけで、
アーミングアジャスター付けたら音がよくなったのだって、単なる偶然だし。

でも、上に書いたこだわりや、自分の好みのスタイル、というのは全部本当です。

でも、それらは、後づけの理由というか、
使っていくうちに、後からわかってきた、というのが本当のところです。

だから、もし僕が、自分にとっての理想のランディVということで、好きなようにカスタムオーダーするとしたら、これとまったく同じようにするでしょう(笑)

ここまでいろいろ書いて、何が言いたいのか、何を書きたいのか、というと、
それは、自分が何を必要としているかなんて、自分でもわからない、わかりゃしない、わかっちゃいない、ということです。

自分に合ったものがどういうものなのか。
自分のスタイルはどういうものなのか。
そういうのって、後からわかってくるんだと思います。

だから、僕は、ギターについては、カスタムオーダー、とか、自分仕様のものを注文して買う、ということは、好きではないし、あまりしません。今までもしたことないです。

そりゃピックアップ変えたことくらいは何度かありますが、でもピックアップについても、どちらかというと、入手したギターに、最初から何か載っていて、使ってみて、あ、これいいじゃん、ていうパターンの方が多いです。

カスタム仕様を考えるよりも、偶然と、出会いと、運命を信じて、そして自分の直感を信じる方が、ギターについては正しい気がしています。
バンドやってる方々には言うまでもないことかもしれません。
あらためて文字にして書いてみようと思ったまでです。

自分に何が合っているのか。
自分に何が必要なのか。

それは、案外、自分自身ではわかっていないことが多い。
だから、それは、ギターが教えてくれたり、音楽が教えてくれたり、出会いが教えてくれたり、神様が教えてくれたり。

カスタムっていうのは、なんかしらんうちに、必要に迫られていつのまにか発生するものだと思います。

いつのまにかそうなってしまっている。

男女関係もそういうものではないかと。

たとえば、嫁さんをカスタムオーダーするとします。

こういうルックスで、こういう性格で、こういう体形で、って、オーダーできるとする。

俺は、それをしなかったんですね。
どちらかというと、神さんに押しつけられた。
お前はこの人と一緒になれ、つって。

俺は、最初、それに反抗した。
でも、20年もたつうちには、よほど身にしみてわかりました。

この人は、どんなカスタムオーダーよりも、
自分に合っている相手なのだと。

たとえば自分で好きなように理想の女性をカスタムオーダーしたとしても、
こんなふうにはならなかったと思う。
つまり、自分でわかる範囲以上に、自分の注文を越えて、理想以上に自分に合った女性であったということです。
そんなことは、神さんにしかわからない。

今からあらためて嫁さんをカスタムオーダーできるとして、
「じゃあやっぱり、体形をこう、胸の大きさをこう」
とか、するかっていうと、しない(笑)

年月がたってわかることってある。
それはレスポールがエレクトリックギターの究極の形であることを理解するのと同じようなものだ。

もちろん先のことはわからない。
3年先には違うことを言っていないとも限らない(笑)

でもこれらのことから、
俺は人生に対してもこう考える。

わざわざ自分が文句を言って、望みどおりの人生をカスタムオーダーしなくても、
神はそれ以上に、自分にふさわしい人生を最初から設計してくれている。
神は、俺が知っている以上に、俺に必要なものが何なのか、知ってくれてる。

だから文句は言わない。
いっしょうけんめい歩くだけ。

俺はそこんとこ、わりと信じている。

文句は最後まで歩ききってから、天国で神さんに言やあいい。

No(4333)

■…2015年 1月18日 (Sun)…….楽器屋めぐり
久々にお会いした友人のミュージシャンの方(男性)にデート付き合ってもらった後、楽器屋めぐりの旅!

Bacchus Duke Standardやばい!恐るべきボディ鳴り!だけでなく、ピックアップも凄え!こんな凄えギターがあったのかという感じ。「猫ポール」とどっちが良いかわからん。価値観を変えるインパクトがある。

決してヴィンテージ系ではないが、ヴィンテージと、モダンの、良いとこ取りには違いない。

しかし生産数は少ない。滅多に見かけない!
個体差もあるだろうと思われるが!

今日も茶水、秋葉、と、楽器屋何店かめぐって、高い楽器もいくつか試して(嫌がらせ)みたが、
ディバイザーさん何故この値段でこんな楽器が作れるのかいよいよもって謎だ!

そして、他メーカー、どんなに高い楽器であっても、いくら職人技やハイクオリティと宣伝してみても、
他メーカーにどうしてこれができないのか、それも謎だ!

音というのはあたりまえだが価値観の問題なのだろうか。

みんな「良い音」というのは人それぞればらばらなのだろうか。
けれどもこれほど極端に見事にばらばらで良いものだろうか。
みんなディバイザーさんとこの楽器が安いのに異常に鳴ることに気付かないのだろうか。(もちろん全部ってわけではないが)
それも「使いやすい素直な音」で鳴るということに気付かないのだろうか。
それともかなり気付いてるからあんな値段でも経営が成り立っているのだろうか。
「素直な音」で鳴ってくれるということは、飾り立てたり、自分を豪華に見せてくれるわけではないが、自分の音、自分の色、は最大限に出せるのだ。

EVHのレスポールもどきも試してみた。
気になっていた”ヴァン・ヘイレン・レスポール”。
EVHがFenderに作らせてしまったレスポール。
これは実はかなり良かった。
そのへんのGibsonよりはぜんぜん良かった!
少なくとも落胆はしなかった。
レスポールが苦手な(最近レスポールのことばかり書いているけれど笑)僕でも、「これなら使ってあげてもいいかな」と思える楽器だった。「これなら使えるな」という感じ。
Van Halenファンとしては嬉しい限りだ。
エディはひどい楽器を選んではいなかった。
だかやはりBacchus Duke、そして「猫ポール」には正直及ばない。
Van Halenに数日間だけ居たMitch MalloyですらBacchus Dukeに気付いて使っているというのにどうなのだ。
しかしそもそもエディ・ヴァン・ヘイレンくらいギターを「鳴らせる」能力があれば実際そこまで「鳴る」楽器を使わなくても大丈夫なことは先刻承知なのだ。
というか本当はそっちの方が大事だし。

まあVan Halenみたいなハイゲイン全開な音ででっかいアリーナで鳴らすんだからそもそも鳴りまくるギターだと逆に不便、とかそういうことかもしれん。俺はそんな場所で演奏したことないのでわからんのだ。

でもどちらにせよほとんどのGibsonよりは鳴る、良いギターだった!

そしてDeviserから登録ユーザーに送られてきたカレンダー(顧客サービス笑)に載っていた、黒柿のベース。デジマートでも特集されてたし、目玉商品だと思うんだけど、
めっちゃ後ろの方に隠れて地味に陳列されてた!目玉商品なんじゃないのかよ!(笑)

でも試したらすごいエグい音だった!こんなパワフルだと思わなかった(笑)
どんなメタルでもやれるじゃん!
いや欲しいようちのバンドで(笑)

No(4334)

■…2015年 1月18日 (Sun)…….追悼ナルシマリョウ
世の中にはもっと気にかけるべきことや、祈るべきこと、
悼むべき物事や、やらなければいけない物事がたくさんあるが、
それにもかかわらず、それらを比喩する意味であったとしても、
くだらないフィクションのお話をすることを許していただきたい。
これはやはり単純に自分が精神的に幼稚であることの証明でもある。

格闘技を題材とした漫画である「軍鶏」が最終回を迎えた。

主人公であるナルシマリョウはついに死亡し、
漫画は完結した。

その最後の展開や、死に方、
そしてそれまでの伏線や物語を回収しない、
ほとんど打ち切りに近いような終わり方は、
世間の読者から賛否両論、というか、かなり不評なようだ。

とにもかくにもナルシマリョウは死んだ。

たかだか漫画の中のキャラクターであり、
また、キャラクターとしても、正義のヒーローでもなんでもなく、
どちらかというと悪人、そして罪人として描かれていたキャラクターであるので、
そこに共感する必要は一切ないのだが、

意外とショックを受けている自分がいる(笑)

もっと現実に悼むべき人たちや、讃えるべき人たちがたくさんいるにもかかわらず、
こうしたフィクションの世界の人物としては、まあ実在のミュージシャンではあるけれど、
ブッチャーズの吉村秀樹氏が亡くなったときに近いくらいのショックがある(笑)

なので、自分なりに、ナルシマリョウ追悼の文章を書いてみたい。

僕が最初にこの軍鶏という漫画を発見したとき、
連載していた物語は既に中国編の最中だった。
そして、このナルシマリョウという特異なキャラクターに惹かれて最初から読んでみたら、これが実に興味深いテーマを扱っていた漫画だったわけだ。
格闘技漫画というよりは、なんか、生きのびることに関しての何か。

そして、まあ僕もこの作者の「たなか亜希夫」氏の作品を全部読んだわけではないが、この「軍鶏」に出会わなければ、あの傑作である「ボーダー」を読むこともなかったわけで、その意味でも感慨深いものがある。
(実際に僕の現実の人生も、どちらかというと年々、「ボーダー」に近くなってきている笑)

まあとにかくも、僕も僕なりにこの軍鶏に対しては少なからず思い入れはあるわけだ。

そして、まず、この漫画についていろいろと前提となる状況を書けば、
作者の側のトラブル、つまりは、原作者である橋本以蔵氏とたなか亜希夫氏の間での、権利かなんかをめぐる裁判があり、それによって作品の連載が中断するなど、制作側のイシューがいろいろとあったことは事実である。

この「軍鶏」は、漫画の内容からしてもアンダーグラウンドな匂いがただよっているし、そこまでメジャーではないにせよ、一応は多数を売り上げたヒット作である。実際に格闘家の魔裟斗を大ボスの敵キャラ役として映画化もされている。

映画化された部分というのも、両親を殺害して少年院に入った主人公が空手を習得して出所し、裏社会で生きながら格闘技に挑み続け、K-1みたいな大きな試合のリングに上がって最強の空手家と対決するというくだり。
「親殺し」の犯罪者であり社会の落伍者であるナルシマリョウが、名声も実力も兼ね備えた天才空手家である菅原直人にどう立ち向かっていくのか。
つまりはここが、「軍鶏」の当初のテーマであり、いちばん面白い部分である。

それでも作品というのは世の中の都合とか、受け取る側の社会の限界ということもあり、その最強の空手家である「菅原直人」との対決の後、物語をどう描くか、ということはかなり難しかったはずなのだ。
当初の物語のテーマから言えば、菅原直人との対決をもって、物語が完結してもまったく不思議はない。

現に、軍鶏が面白かったのは菅原直人との決戦までで、その後の中国編以降はダメ、という読者も多いと思われる。

けれども人生は続いていくし、ヒット作となった人気漫画であるからには続編も描かなければいけない。けれどもその先を描くにあたっても、漫画の枠もあり、受け取る側である社会の枠もあり、また「その先」を描くにはどうしても大風呂敷を広げざるを得ない。
いきなり舞台が中国に飛んだのも無理はないと思われる。

そして、また、ここ10年くらいはずっと、連載が途切れがちであったわけだけれども、
掲載される雑誌が、アクションからイブニングへと変更となり、出版社も変更になり、
この雑誌と出版社が変わった時点から、かなり展開がおかしかった。
そしてぶっちゃけ、この雑誌の変更の以前と以降では、明らかに違う作品になっている。

ぶっちゃけ、というのはつまり、雑誌がイブニングに移ってからは、つまらなくなったのである。そして、圧倒的につまらなくなった。展開も不自然であり、いろんなことが「なかったこと」にされ、読者としては、なんだかなあ、という感じであったわけだ。

たとえば、中国編において、短期間で「発勁」などといった中国拳法の奥義を身につけたはずのナルシマリョウが、
イブニングでの連載再開後に、「知らない間にゆるやかな下り坂をくだっていた」の一言で、あっさり素人並みの強さに引き戻されたり。そもそも中国編自体が、なかったことになっているような描かれ方をされていた。
(まあ、中国編で習得した「発勁」を含む世間離れした強さをそのままキープされたら、その後の物語の展開が描きづらいというのはわかるけれども)

まあ主人公がどんどん強くなっていくと、敵キャラも強くならざるを得なくなり、ドラゴンボールに代表されるような「強さのインフレ」が起こるので、基本リアルな格闘技路線の漫画である「軍鶏」としては、いったん中国編を無かったことにして、主人公の強さも振り出しからスタート、しないと、いろいろと都合が悪かったのであろう。(けれども、その後の最終章の「どぶ組編」において、中国編の登場人物も幻影、亡霊として登場しており、作者の中で中国編が決して「なかったこと」になっていないことは示された)

そして、雑誌がイブニングに変更になって最大の損失というか、失敗は、広げに広げた「トーマ編」の大風呂敷を、きちんと回収できなかったことであろう。

雑誌がイブニングに移る前、アクションにおいて連載され描かれていた「トーマ編」は、非常に印象的で、悪の存在であるナルシマリョウと対局にある「トーマ」というキャラクターが、非常に鮮烈に描かれていた。

そしてこの「トーマ」という、ほとんどキリストのような救世主的存在として登場したキャラクターによって、物語は大風呂敷を広げに広げ、そしてクライマックスに向かうはずだった。

しかし現実には、そこで物語の権利をめぐる裁判や、掲載雑誌、出版社の変更が起こり、そしておそらくは、そこで物語の筋書きも変更になり、書き換えられたのであろう。
トーマ編で壮大な風呂敷を広げて完結するはずが、いろいろの都合によりそれは変更となり、結果、トーマ編は広げた風呂敷と伏線をたたむことなく、裏番竜会の4人衆と、格闘技イベント「グランドクロス」が展開される中、リョウVSトーマの戦いはいかにも消化不良のままで決着した。

そして、せっかく丁寧な描かれ方によって形作られた救世主キャラであるトーマは、リョウとの戦いの中で、あっさりと発狂し、その本来の実力も見せず、またその本来の役割も果たすことなく、退場していくのである。
(もっとも、決して打撃技を使わないはずのトーマが、リョウとの戦いの中において、初めて打撃技を使う、という、誰もが予想できたお約束は、守られたが。)

僕が思うに、リョウは本来、この「トーマ編」グランドクロス大会において、死ぬべきだったのである。
あるいは、リョウが死ななかったとしても、リョウの罪をかぶる形でトーマが自己犠牲を選んで死ぬか。
いずれにしてもリョウかトーマのいずれかは死ななければならなかった。

おそらくは当初、トーマ編の筋書きを描いた際の、作者側の意図はそういった展開だったのではないかと思われる。

けれども、掲載雑誌の変更、連載再開後の、ぐだぐだの展開の中で、それは起こらなかった。

結果、トーマ編で死ぬことなく、リョウは生き延びた。
連載も引き延ばされた(苦笑)

そして、作者側の意図はどうであったにせよ、
まったくコミカルで緊張感のない、蛇足とも言える「どぶ組編」において、ようやくリョウは死を遂げた。

それは、ほとんど打ち切りのような、
または、作者が作品を書くのが嫌になって投げ出したのではないか、
と思いたくなるような唐突な死だった。
(当然、読者からは非難ごうごうである)

けれども、グランドクロス編における本来死すべきだったリョウの死亡フラグと、
「どぶ組」編における、意外と丁寧に描かれた(台詞や説明ではなく、絵によって無言で描かれた)心理描写、死亡フラグの描写を、考慮すれば、
これは意外と、機が熟した上での、丁寧な殺し方であったと言うことができるように思う。

まず、グランドクロス編(トーマ編)のテーマをおさらいしてみると。
ナルシマリョウという存在に決着をつけること。
犯罪者であり、「親殺し」という非常に重い罪、十字架を背負った存在であり、なおかつ戦い続ける格闘家であるこのナルシマリョウという存在。

それは、その「悪鬼」を作り出した空手の師匠である「黒川のじいさん」が、悪鬼を作り出した責任を感じ、一度ならずリョウを殺そうという描写があったのと同じように、
作者にとっても、このリョウという存在を、どうやって殺すか、どう決着をつけるかは、難しい問題であったはずなのだ。

で、わかりきった結論から言えば。
このナルシマリョウという男に決着を付けるには、そしてこのナルシマリョウという男を救うには、
まったくもって壮大に、宗教的なテーマに迫るしか方法は無いのだ。

だからこそ、その宗教的なテーマに迫るべくして生まれた、救世主のごときトーマというキャラクターが生み出され登場したのだ。

だけれども、そのテーマは、あまりにもやはり大きすぎ、また壮大すぎた。
理由はどうあれ、結果として、作者サイドは、それを描き切ることができなかった。

結果、トーマによってリョウは救済されず、また死ぬこともなかった。
トーマとリョウとの魂の邂逅は、起こらなかったのである。

ナルシマリョウの最後(救済)は、次の章に持ち越された。

ナルシマリョウは、死ななければならない。
あるいは、永遠に闇の中をさまよわなければならない。

それは、いかに漫画の中のフィクションとはいえ、
いや漫画の中のフィクションだからこそ、
親殺しの犯罪者であるナルシマリョウは、幸せになってはいけないからである。
幸せなエンディングは、リョウには許されていないからである。

永遠に闇の中をさまようエンディングでも良かったのかもしれないが、
作者はそれよりは、死によってリョウに永遠という安らぎを与えた。

それは、作者なりのリョウというキャラクターに対する愛情、
であったかもしれないし、
あるいは、やっぱり単純に、もう描くことに疲れたからかもしれない。
どちらかというと描くことに疲れたのだろいうという気がする(笑)

結果から言うと、ナルシマリョウは死に、
そして、わりときちんと救済された。

コミカルに、格闘技としてもあまりハイライトがなく、
緊張感の無い展開で描かれた「どぶ組」編であるが、
僕は実際、思い出してみて、そんなに嫌いではなかった。

ストーリー展開は、まったく盛り上がらないが、
以外と、リョウの死に向けた描写が、きちんと描かれているからである。

まず、グランドクロス編の後、
それまでの物語で重要な役割を果たしてきたキャラクターたちが、
思い出したかのように再登場し、そしてみんな、きちっと死んでいった。

最終回でリョウが「走馬灯はどうした」とつぶやくが、
そう考えると、走馬灯はきちっと起こっていたともいえる。
どちらにせよ、重要なキャラクターをみんな殺す、という手続きはきちんと経ている。

そして、この「どぶ組」編において、
リョウは、およそこの物語の作中において初めて、
ちょっとだけ「幸せな時間」を持つのである。

サキコというキャラクターが登場し、
そして、これはリョウにとって、物語の中で初めて、
恋人といえる存在になる。
かなり、まさかの展開と言える(笑)

そして、まさかの子犬によって、
廃人状態の妹であるナツミも、かなりのところまで回復。
トーマでも救済されなかったのに子犬ひとつで救済してしまうところが、
なんともご都合主義全開であるが。

最終回の「カモシカ」や「アリ」といい、
このラストの「どぶ組」編は、どうにも動物に重要な役割を振っている(笑)

それはもう、人間のキャラクターには限界がありすぎて無理だ、
ということの表れかもしれない。

ここまで必死にリアル格闘技を通じたディープな人間ドラマを展開してきたのに、
最終章では重要な役割を果たすのは子犬とアリとカモシカ。
そして「バカ兄弟」と「爆弾」(笑)

投げ出しすぎにもほどがある(笑)

というか、「バカ兄弟」もそもそもほとんど妖精のようなキャラクターであり、人間というよりは動物に近いくらいだ。リョウを殺すためにわざわざ用意した森の妖精としか思えない。

どちらにせよ、この最終章の「どぶ組」編において、
初めてリョウは、「恋人」そして「家族」と言えるような存在に囲まれ、
ほんのわずかではあるけれども、幸せというものを垣間みる。

それは、作者なりの愛情であり、情けであり、
またリョウの死に向けた手続きの一環であったと思う。

しかし幸せを感じながらもリョウは、
今まで戦ってきた、あるいは殺し、地獄に突き落としてきた対戦相手たち、
それらの亡霊、
おそらくは罪の意識、
にさいなまれ、
おそらくはその深層心理にある罪の意識によって、
幸せに生きることを選択することなく、
戦いの中でのたれ死ぬことを選択したのだと解釈できよう。

それはやはり、決して幸せになることのできない罪人であるリョウの宿命でもある。

なんとなく深層心理において、自ら死ぬことを選択したのではないかという感じがそこはかとなく、する。
どぶ組の「バカ兄弟」との戦いの後、
出血多量のリョウは、
なぜ、あんな誰も人がいない山奥の、森の中を歩いていたのか。
本当に帰り道はそちらだったのか。
どこかでリョウは、自ら死を望んだのではないか。

そしてひとつ良いことを言えば、
リョウは誰にも知られず、誰にも手の届かない場所で人知れず死んだ。

誰にも弔われることなく、山の奥深くで、
(って、どんな山奥なんだよ、笑)
その死体も亡骸も誰にも発見されることなく、
自然のままで土に還っていった。

人間社会の中においては、リョウの救済はできない。
人間社会の枠組みの中では、リョウの罪は許されず、その救済は不可能だった。

そして、リョウの戦いの真実もまた、そんな人の手の届かないところにある。
世間の常識や理屈で理解できるところにはないのだ。

だからこそ、作者はリョウを、誰にも手の届かない場所で、人の通わぬ山の奥深く(笑)で、
カモシカとアリに看取られて(笑)
死なせることにした。

それは、収集がつかなくなってしまったこの軍鶏という物語を、
リョウというキャラクターを、
人の手の届かないところに送り出してやる、という儀式でもある。

そんな人間の手の届かない場所で死んだリョウの死に様は、
ある意味、彼にふさわしい死に様であったと言うことができる。

本来、トーマ編で、トーマと魂の邂逅の後、死ぬことがベストであった。
けれども、この死に方は、セカンドベストというか、その次に良い死に方、だと言うことができる。

そして思い出してみれば、この死に方は、
深海でなんかいつのまにかいなくなってよくわからん世界に行ってしまった、
グロコス(たなか亜希夫の別の作品)の主人公(名前覚えてない)の死に方とも、
共通している。

リョウも、グロコスの主人公も、どちらも、人知を越えた大自然の中で、
人間の手の届かない場所へと旅立っていったのだ。

そして、もうひとつ良いことを言えば、
彼は戦って死んだ。
そして、きちんと自分の仕事は果たして死んでいった。

つまり、「どぶ組」編は、サキコを中心に物語が回っており、
リョウはサキコのために戦い、どぶ組のバカ兄弟と戦うことになった。

だが、リョウは、戦いの後で出血多量でのたれ死んだものの、
「バカ兄弟」との戦いにはきっちり勝利しており、
サキコを守り、サキコを両親(父親?)の呪縛から解放する、
という仕事はきっちり果たしているからである。

およそ読者に親切なわかりやすい説明というものがあまり無く、
絵による表現や隠喩とかが多い(特に、原作者がいなくなって以降)この作品であるが、
そこで示されたことは、確定事項として解釈して良いと思われるので、
バカ兄弟がサキコの件からこれで手を引いたことは間違いないと思われる。
というか、かなりの確立でバカ兄弟の弟の方は、戦いの後で死亡した可能性が高いと思われる。ちょっとかわいそうだが。だって、鉄柱が、胴体、貫いてたもんね。普通即死というか。

だが、リョウは、きっちり、なるべくバカ兄弟を殺すことなく、少なくとも自分の手で殺すことはなく、
戦闘に不能になったバカ兄弟を、叩き殺すかわりに、救急車を呼ぶことを許し、
そしてその場から去るのである。

なにげに男として立派な戦いぶりである。

そもそも、リョウは、まあ作中を通じて、だいたいずっと悪人で、
作中でもひどい行いや、犯罪行為を何度となく行ってはいるものの、
自らの手で対戦相手を殺すことは、ほとんど行っていない。

もちろん、殺すつもりで戦っていたし、
結果として、対戦相手は、失明したり(ランガー)、植物状態になったり(菅原直人)、崖から飛び降りたり(斉天大聖、劉)、発狂したり(トーマ)、しているが、かといってリョウは、菅原の時も救急車呼んでるし、最低限、無駄に相手を殺してはいない。

かといって、それでも、
今回、「どぶ組」編において、リョウは初めて、他人というか、惚れた女のために戦い、そして相手を殺すことなく戦いを決着させ(まあ後で死んだかもしれんが)、
相手を許して戦いを終えているのである。

これは果たして作品中においてようやくにしてリョウが見せた人間的な変化というか成長と言えるかもしれん。

まあずっと廃人状態の妹のために戦ってきた経緯はあるが、
基本的にリョウは自分のためだけに戦ってきた。
自分が生きのびるためだけに。

けれども、この最後の「どぶ組」編において、リョウは、ちょっとだけでも、恋人とか家族とか、そういうもののために戦った。
そしてきちっと勝って、戦う男としての役割は果たした。

けれども、待っている家族のもとに帰って、喜びを分かち合う、
ことは出来ない。
そのカタルシスはリョウには与えられない。

それがこの軍鶏という作品の、リョウという男の、宿命であり、罪と罰であったわけだ。

でもこうして整理してみるとなにげに結構、男として立派な死に方であったわけだ。

もちろん作品としては、また格闘漫画、格闘家としては、
もっとできることがあっただろうに、
もっと描くことのできる展開があっただろうに、
もっと可能性があっただろうに、
回収すべき伏線や、描くべきキャラクターがあっただろうに、
とも言えるが、
読者を喜ばせる展開を拒むのが、せめてもの作者と、この軍鶏という作品の、最後に残った矜持であったかもしれない。

残されたキャラクターたちにも、
幸せな未来は待っていないかもしれないが、
サキコは両親の呪縛からは解放された。(少なくとも大きく前進できた)
妹のナツミも、最低限、精神の均衡を保つことができるほどには回復した。
トーキチは大変だろうけれど、彼は戦うことこそできないが、根性のある男だ。
最低限、明るい未来ではなくても、そこまで暗い未来ではないと思えるのではないか。

植物状態から回復し、懸命にリハビリを行っている宿命のライバル菅原直人、をはじめとする、放り出されたキャラクターたちには、不憫だ、としか言いようがない(笑)

だが、そもそもこの物語は、登場人物は誰ひとりとして幸せにはならないことが前提になっている世界だ(笑)

リョウは、サキコに出会わなければ、どぶ組とも戦わず、死ぬこともなかったので、
結果的には(予想どおりというか)、サキコこそがリョウにとっては死神というか死亡フラグそのものであったわけだけれども、

トーマ編においてすでに本来死亡が確定事項であったリョウにとっては、
サキコの存在、そして最後のわずかな幸福な時間は、死の前の神というか作者が与えた情けというか、

せめて最後くらいは、惚れた女のために戦って死ぬということを、
させてやりたかったのであろうと思う。
けっこうそれは、かっこいいことだ。

でも最後は一人。
死ぬのは孤独に、一人で死ぬ。
それがリョウにはやはりふさわしかったのだ。

そしてリョウはきっちり救済された。
救済したのは、派手に登場した救世主トーマ、でもなんでもなく、

カモシカと、アリと、あと絵本。
ナツミの読んでいた絵本(笑)
それから、木の芽。

ほとんどギャグである。

でも、最初に述べたように、
作中世界において、また作品の発表される世間の枠においても、
リョウの救済は、人間世界の枠組みの中においては不可能だ。

だからこそ、作者は、それをカモシカとか山とかアリとか絵本に託し、
無言のままで救済を実現した。

もちろんカモシカは、ナウシカとかけたギャグであったことも事実だろうと思うが(笑)
(インターネットによれば、最後に芽が出て終わるシーンが、ナウシカそのままだったということらしい)

どんだけ苦しいエンディングだよ、という感じはしますが(笑)

でも、おいおいwwwこれはないよwww
と思った、読後の正直な感想でしたが、

こうやってよくよく要素を整理してみると、
かなりきちっと作品の重要な要素を加味した、
実に丁寧な死に方であったことがわかるのです。
丁寧、というのは、苦しい描き方、とも言えますが(笑)

でも、少なからず作品とキャラクターに思い入れがある中でも、
先程も述べたとおり、本来トーマ編で死ぬべきだった、ベストの死に方ではないけれど、
引き延ばされた展開の中では、
セカンドベストな、今のリョウと「軍鶏」にふさわしい、
死に方と結末であったなあ、と。

そしてまた、最後の最後でちょっとだけかっこよかったリョウの戦いぶりと死に様に、
またも男の死に方を考えると同時に、

罪人として生きた人間世界から離れて、
ようやく安らぎを手に入れたナルシマリョウに対して、
ちょっとうらやましいな、
と思うのも事実であるのでした。

さて自分はどうやって死ぬか。

でもねそして最後に書きとめておきたいのは。
結局、作者も、キャラクターたちも、
「トーマ編」において、
壮大な宗教的なテーマを描くことはできなかった。

そして、作品の世界観の枠の中で、
リョウは決して幸せになることはできなかった。

けれども、現実の世界では、
僕たちの生きる現実の世界は、そうではない。

フィクションの世界、
作家の描く物語の世界には、限界があるかもしれない。

でも、僕たちの生きるこの世界には、限界なんてありはしない。
なぜなら、この世界の作者である神には、限界なんてないからだ。

そして、イエス・キリストはどんな人間の罪であっても許すことができるからだ。
そう、ナルシマリョウの罪であっても。

でも、それを描いちゃったら漫画は終わってしまう。
だから、これが「ナルニア」であれば、あそこで出てくるのはカモシカではなく、ライオンだったのだろう。

その意味では、リョウはきちんとキリストに出会っていたかもしれない。

限界のない世界で、限界のない神を信じて、僕らは生きる。

もうひとつ。
作中で、連載期間が延びるのにしたがって、
作中の年代とか時代も、登場人物が歳をとらないままで、年代だけが変化していく漫画も多いけれど、
軍鶏、は、それほど、年代がスライドしなかった作品のように思う。
ナルシマリョウは、基本的に90年代を生きた人物だと思うし、
トーマ編の格闘技イベント「グランドクラス」という大会も1999年を想起させる。

とはいえ、日産スタジアムの描写とか、格闘ブームの終焉とか、当然、部分的に時代も変わっていたが。

だから、実際のタイムラインに当てはめるのであれば、
おそらく、ナルシマリョウは、90年代を走り抜け、
そして2000年前後とか、2000年代の前半には、死んでいたのではないか。

そう思うと、ナルシマリョウは、その後の時代の変化や、
いわんや、2011年の日本の災害なども、見ていないだろうと思われる。

その後の時代を見ずに、逝ったことに対して、
少しうらやましくもあり、
その後の困難を見ずに去ったことについて、
良かったなと、彼に対して、そう思う。

No(4335)

■…2015年 1月24日 (Sat)…….Not only violence but also ignorance
きつい話題は書きたくないし、
けれどもニュースもネットもどこを見ても、
この数日間、本当にショックだった、日本人の方、二人が、イスラム国の人質となり身代金を要求されている事件。
僕は政府の高官でもなければ事情通でもないので、事態はわからないし事件の全貌もわからないし、ましてやそれに対して何らかの対策が打てる立場でもない。

なのできちんとした意見を言うこともできなければ、誰かを批判する立場にもない。
現実に起きている高度に政治的な事態なわけで、それに携わっている人たちが高度に政治的な判断をし、高度に政治的な対処をするだろうと思われ、そういう人たちにベストを尽くしてもらうしかないとは思っている。
また人質になっている二名の日本人の人たちに対しても、僕は安全な日本の地で、いわば安全地帯でニュースを眺めているだけの立場であるので、意見や批判をする立場にはない。彼らとて望んでテロリスト組織の人質になったわけではないだろう。

けれどももう「期限」はそうこうしているうちに経過してしまったのか。
実際のところ、日本中がそうだったのだろうけれど、結構僕もこの事件はショックであり、他人事とはいいつつも、ある意味他人事には違いないけれども、やはりなんだかショックを受け、どうしたらいいかわかんない状態で。
また人質になっている二名の方うちの後藤氏はクリスチャンだいうことで、FacebookやTwitterのタイムラインはクリスチャンの友人知人の人たちによるポストが流れていた。
祈れるのならば祈りたいが、僕はもうこういう場合、どういうふうに祈ったらいいのかもわからない。
それくらい結構、ショックなことだったし、また、ショックというだけでなく、いろんな理由で、コメントとかポストもしたくなかったし、できなかった。
なのでこれも半分は自分のメモと気持ちの整理だけのポストであるが、
けれども自分の思うところを少しは記録しておきたい。

まずは原則というものがあると思う。
それは、テロリストの脅迫に従って身代金を払うことは、テロリズムに屈することであり、また日本に対してこうしたテロ行為を行うことで利益が得られる前例を作ってしまうので、よくない、ということ。
これはひとつ、原則であると思う。

しかし、かといって、自国民の命を見捨てることは、それもまた国家として、またなんというのか、民族とか人の共同体として、大事な何かを失うことであり、またあってはならないことだ。

ここ数日間、ネットを見ると「自己責任」という言葉をたくさん見かけるのだけれど、

テロリスト組織に本当に勝利するには、要求に従って身代金を支払うのでも、またテロリズムに屈しないと主張して要求を拒むのでもなく、なにか別の、その上を行く手段があってほしいように思う。それがどういうものかはわからないが、政府やしかるべき立場にある人々はそのために手段を尽くしているものだと信じたい。表の手段もあれば、裏の手段もあるのだろうから。

思うにテロリストの組織、今回の場合はいわゆる「イスラム国」と呼ばれている人たちだと思うが、彼らとて、少なくとも名目上は、大義名分というものがあってテロリズム行為であるとか、そういう活動をしているはずだ。たとえば、イスラムの教えとか、そういう大義名分があるのだと思う。(それが果たして正統なイスラム教かどうかは、ここでは触れないでおくが)

であれば、理想としては、日本国が示すべきは、それを上回る大義名分(人道的な意味であれ、政治的な意味であれ、宗教的な意味であれ)を、世界に発するような対応ができれば、本当の意味で相手を打ち負かすことになるのだと思う。
(そんなことができるリーダーが日本にいれば、いまごろもっと良い国になっているだろう、って。そりゃそうだ、しかし理想を言えば、の話だ。)

本当にどうしようもないというか、どうしたらいいのかわからない事態で、
僕自身もショックで何したらいいのかわからない数日間だった。
だから人質の方の家族や友人、知人の方々にはなおさらであろうと思う。

テロリズムに屈することはできない。
かといって、「自己責任だから死んで当然」と言ってしまえるようであれば、国家としても、民族としても、僕らに生きる資格はない。平気で仲間を見捨てられるのであれば、そんな国に存在価値はない。滅びて当然だろうという気がする。

人質になっている後藤さんにしても、クリスチャンであるということで、非難や批判の対象になっていることが、どうやらあるような、そんな記事を、見てしまった。

クリスチャンだから、日本人の仲間ではない、だから死んでも当然、
そういって僕や、僕の友人たちが、公然と殺される日も遠くないかもしれない。

莫大な身代金を支払うことは、日本にとっても世界にとってもよくないだろう。
けれども、もし多数の日本人が、「自己責任で行ったのだから殺されても仕方が無い」と思っているのであれば、
それは国家として、身代金の経済的な損害よりもはるかに大きな損失であろうと思う。

もし、テロリストの組織が、そういう「精神的、霊的」な意味において、
日本という国にダメージを与えようと意図したのであれば、
たぶん日本は、その狙いにまんまとはまっているのではないかと感じる。

本当にテロリズムに勝利する、ということは、
どういうことか、

たとえば歴史上の英雄たちや、
殉教者たちは、
どのようにして死んでいったのか。

少なくとも、彼らは高潔な魂を持ったままで、
死刑台に登ったはずだ。

もうこのへんで勘弁してほしい。

No(4336)

■…2015年 1月25日 (Sun)…….Those guitars you can’t find at NAMM
[memo日記] さてコメントのレスも返してないですが、
精神安定剤がわりのギタートピックのひとりごとを書きまち。
VHND (Van Halen News Desk)に、最近ウルフィーくんがたくさんアップしてるエディーお父さんのギターの写真をとりあげて、
伝説の赤白黒ストライプの通称”フランケン”(フランキー、とかいろいろ)の写真をシェアして、「もし君がこのギターを手にしたら、君はどうする?」という問いかけ。

もちろんそこにはいろんな人がコメントしていて、
「気絶する」とか「Eruptionを弾く」とか、「飾っておく」とか。そういうの。

どうだろう。
もし「伝説のギター」をこの手にしてしまったら、
僕はその後、どういう人生を送るだろう。
無名のミュージシャンのはしくれとして。ギタープレイヤーとして。
一人の人間として。
人生が変わるだろうか。

たとえば宮本武蔵が使っていた刀とか、
名刀正宗でもなんでも
聖剣エクスカリバーとか、
そういうのを手にしたら剣士はどう生きるか、みたいな問いだけれど。

もちろん、実際にはロックンロールとか、音楽とか、ギタープレイにしても、
大事なのは弾く人の腕前の方であって、大事なのは楽器や道具ではなく、
人間の方なのだから、
こと音楽そのものについていえば、人間が90%で道具が10%みたいな。
音楽を演奏することについていえば環境が50%ともいえるけれど。
だから実際には、「伝説のギター」を手にしたとしても、
「ふうん、こんなもんか」で終わる可能性も結構高い。

僕がこのEddie Van Halenの伝説の「フランケン」を手にしたら、
もちろん僕はまず弾いてみると思う。
そして弾くことによって、いろんなことを発見し、体験し、
そうだね30分、できれば1時間も弾くことができれば、
かなりのことがわかるはずだ。

その上で、きっと、いろいろな発見と感慨とともに、
元の持ち主(Eddie? Wolfie?)に返却し、
自分のギタープレイにその発見を生かすことになるのだと思う。

ときに先日、バンドのリハの後、楽器屋に弦を買いにいったら、
そこに古いTokaiのレスポールがあったので、(またも嫌がらせのように)試させていただいた。

70年代後半のTokai。日本のメーカーがこぞって高いクオリティのコピーモデルを製造し、そのクオリティがかなり高かったこともあって、本家Gibsonから訴えられたという、その時期のものだろうと思う。そしてそれらの楽器は、今ではいわゆるジャパンヴィンテージとして評価されているはずだ。

僕は、何本か試してみた今の現行のTokaiのレスポールモデルに関しては、評価していたりしていなかったり、なんというか難しいところだけれど、一定の評価はしていると思う。で、この一種、伝説になっている古いTokaiはどうかな、と、初めて試してみたわけだけれども。
もちろん、この試した個体が、当時のカタログ上でどのような位置づけのものかわからないし、この一本だけで判断するのは正しくないけれども、僕が弾いたやつはこんな感じだった。

ハイは非常に素直に出て、非常にヴィンテージタイプのピックアップと思われ、しゃきーん、とハイが出る感じは、僕が考えるレスポールの理想像に近かった。そしてむしろピッキングの音がうるさいくらいに聴こえるくらいにハイというのかハイミッドというのか、とにかくハイが出まくっていた。そしてヴィンテージ系レスポールの魅力であると思われる立体感のある甘い音色は確かに出ていて、きゅいんきゅいん言っていた。かなり言っていた。

なんだろう、どこかで聴いたことのある音のような。すごくfamiliarな感じ。なんか過去に所有していたか使用していたギターでもこういうのは体験したことがあるような気がする。それくらい、こういうハイが素直に出て分離のいいギターというのは、僕にとっては違和感がない、自分のスタイルと思えるものだ。

だけれども、全体として良い音、良い楽器かと言われれば、まあ全体の鳴りはわりと良かったんだけれども、低音の迫力が不足しているというのか、そのせいなのかなんなのか、全体にチープな感じがして、また楽器としての「霊力」というのか迫力みたいなものもあまり感じられなかった。ハイはきゅいんきゅいん言うけれど、それだけ、みたいな感じかな。いくつか試した現行のトーカイにも言えることだったけれど、特定のレスポールらしい音はするけれど、楽器としての懐の広さや深さに欠けるというか。おそらくは本物のヴィンテージレスポールの「縮小再生産」されたバージョンというべきか。

わからない、本物のヴィンテージレスポールがどういうものか実際知らないので、なんともいえないんだけれど。

結論としては自分にとってはそれほど魅力的な楽器ではないかな、と。
自分のスタイルには近いけれど、でも今までに使ったやつや、手持ちのギターの中で、これと同等以上の役割を果たせるギターはいくらでもあったな、と。

まあこの70年代のトーカイと、現行のトーカイのレスポールとどっちかくれるから選べって言われたら悩みますね。どっちかな。現行のやつのほうがよいかなあ。

で、「伝説のギター」なんだけれど、
僕にとってはその「聖剣エクスカリバー」は、
59レスポールでも、EVHフランキーでもなく、またクラプトンのストラトとかでもなく、
バッカスだったわけだ。
つまり僕はすでにその神が与え賜うた運命の聖剣を手にしているけれども、
それは、Gibsonでも、またHamerでもなく、
一般には「初心者用の安物」というイメージで認知されている日本製のBacchusブランドだったわけです。

こちら

で、その名剣を手にして、自分の人生は変わったかと言われれば、
たぶん変わったし、よくもわるくも。
そしてそれによって新しい音楽や、楽曲が、インスパイアされて作れたか、
と言われれば、
既にたくさん作れたし、非常に大きなインスピレーションだったし、
また楽曲作りだけでなう非常に広範囲に(時には演奏以外のことに至るまで)インスパイアしてくれるし、また現在進行形でそれは続いて起こっている。
音楽的に次の新たな扉が、その楽器との出会いによって開けたか、と聞かれれば、確かに、開きまくった、と言える。

で、そういった道具を手にして、どう活用していったらいいか、どう生きていったらいいか、それは手にしたときから、今でも進行形で、考え、思案している。

で、楽器屋さんに弦を買いにいった際、
ちょっと見慣れないブランドの、面白いギターが目についた。
もちろん中古の品。

それはOrnettsというブランドのギターで、店に置いてあって目についたのは、なんかHamerのSunburstのモデルによく似たイメージの、フラットトップのダブルカッタウェイのギター。
で、かなりオーラが出ていたので、なんじゃこれ、と思ってみれば、「朝日木工」が作っているブランド、との説明書き。
試奏こそしなかったものの、その、見るからにレベルの高そうな作りと、出ているオーラが、これは良い楽器ではないか、と思わせる、自分好みのオーラだった。

帰って見てみると、どうやら90年代後半から、2000年代前半にかけて存在していたブランドらしく、手がけているのは、朝日木工?ハイエンドギターズ?情報が少ないのでよくわからん。
しかし、どちらも聞いたことのある名称で、それはMusicman Axis-EXの初期のものを作っていたといわれる工房だからだ。

こちら

たぶんなので、僕の予想では、このOrnettsを作っていた同じ会社なり工房が手がけたギターを、僕はもう所有しているのではないだろうか。
それは、僕が長年愛用しているAxis-EXのAシリアルのやつだ。(わからんけど)

しかしこのOrnettsというブランドのギター、相当に良いものだったようだ。
そして、明らかにBacchusと同じような匂いを感じる。
おそらくはBacchusと同じような、とても高いクオリティを持った楽器だったのではないだろうか。(そして、そのわりに非常に安いものだったのだろう)

運良く、Bacchusは今でも存在しているが、Ornettsというブランドは今ではたぶん存在していないようだ。でもどちらも、同じく優れたものだったのではないだろうか。だから貴重なものだと思う。(しかしどっちにしても、どちらのブランドも、ネーミングとか、ブランディングとか、マーケティングとか、いまいち上手くないんだろうな)

いつかまた出会う機会があれば試してみたいと思うが、
これらの、それほどメジャーではないものの、本当の意味ですばらしい、とんでもない、と言えるクオリティを持った日本製の楽器は、何なのだろう。

たとえば、今まさにカリフォルニアのアナハイムあたりではWinter NAMMが開催されていて、僕のFacebookのタイムライン上にも、その様子がいろいろポストされているが、

このNAMM showの会場を、どれだけ探して、果たしてこれらのOrnettsやBacchusの”猫ポール”やDuke Standardのようなギターが見つけられるだろうか。

もちろん、優れたギター、良いギター、すごいギターはいっぱい展示されているのだろうけれども、本当の意味で”猫ポール”や”Duke Standard”以上に優れたギターを見つけるのは、それでも至難の業ではないかと僕は想像する。

だからひょっとしたら、どこの弱小ブランドがそれを作っているにせよ、今、地球上でもっとも優れた本物のギターは、NAMM showにはないかもしれないのだ。

まあ行ってみたいけどね、NAMM show。

たとえばこれもポストしておくけれど、
ちょっと前にネットのどこかで、CarvinがKieselブランドを立ち上げたというニュースを見て、その紹介のビデオをYouTubeで見た。

こちら

つまりはCarvinが創業当初、Carvinという名前になる前はもともとKieselというブランドだったらしく、Carvinのハイエンドカスタムショップを、新たにKieselブランドとして分離して立ち上げるということらしいのだけれど。

もちろんCarvinのカスタムショップ。クオリティは高いのだろう。
ネットで見る限り、このKieselのギターとかも見た目とかすごいし、プレミア感満載だ。
だけれども、この紹介画像で、創業者一家の若き跡継ぎの彼が、「この新しいCNCマシンは、人間の髪の毛の10分の1の精度で制作できるんだ。だからハンドメイドギターよりも凄い楽器ができる。」と言っている言葉を聞く限り、額面どおりには受け取れない。

つまりはそれは、「32bit/192khzの高解像度でレコーディングするからこのアルバムは傑作になる」とミュージシャンが言っているのと同じようなことだからだ。

もちろん実際に弾いてみないとわからないし、実際に弾いてみてすごい楽器だったら感服するけれど。そして実際に弾いてみたいものだけれど。

でもその言葉を聞く限り、彼らは楽器を作るにあたって、うまく言葉にできない「霊的な」(スピリット的な)何かを認識できるレベルには達していないのだろうと感じられる。

そういう世界に住んでいる限り、
僕が思う理想のギターは、やはりNAMMでは見つからない気がする。

ちょっと気軽にひとりごと書くつもりが長くなった。
まあタイプ早いから大して時間かかってないけれど。いつものとおり。
一応は速弾きギタリストのはしくれですから(笑)

No(4337)

■…2015年 1月28日 (Wed)…….熱きリョウヴォーカル
「Atsuki Ryo with Jesus Mode」の2nd EPのミックス作業を進めている。
昨年から使い始めたWaves NLS (non linear summer)を今回も使っているが、
興味深いことに、
Imari Tonesにおける僕のヴォーカルには”Neve”のシュミレーターがぴったりだったが、
熱きリョウのヴォーカルにはNeveは合わず、”EMI”のシュミレーターの方がぴったりくるようだ。
しかもサビなどの箇所でやたら声を張っている場合にはそこだけ”SSL”が例外的に合うこともあるようだ。

またImari Tonesの昨年の制作では楽器にもバスにもNeveが大活躍だったが、今回のジーザスモードの制作には、Neveの出番はあまりないようだ。楽器にはSSLを適用して、熱きリョウのヴォーカルと、全体のバスにEMIを適用するパターンになりそうだ。

しかしこのように3種のアナログコンソールのシミュレーターを使い分けて細かく音のニュアンスを作ることができるわけで、個人レベルにおけるパソコンを使ったDAWによる音楽制作も進歩したなと、そう実感する。
ありがたいことだ。

今回熱きリョウのヴォーカルも、前回の1stEP以上に熱演している。
そしてやはり男性のハイトーンヴォーカルにはロマンがあるなあ、と思う。
エキセントリックな表現ではあるが、本来音域が低い男声において、がんばってハイトーンで叫び歌うという行為には、なにか男のやせがまんのような、高いハードルに敢えて挑むような、ある種の美学があるのかもしれない。

No(4338)

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