2015年6月の日記

■…2015年 6月 4日 (Fri)…….マスタリングこんぴれーしょん
とあるプロジェクトのマスタリング作業開始。ちょっと忙し。まずは自分のバンドであるImari Tonesと、これも自分のサイトバンドのJesus Modeの、過去音源のマスタリング前のファイルを見つけるところから(笑) ハードディスクのすみっこにかろうじて残ってたw そのうち情報解禁されると思います。

No(4519)

■…2015年 6月 5日 (Sat)…….PLAY in tongue
これはクリスチャンの中にも信じる人と信じない人がいると思うけれど、キリスト教の世界の中には「異言」(いげん)ってやつがある。知らない人のために書くと、新約聖書の「使徒行伝」に出てくる、いきなり知らない外国の言葉で皆が話し出すという現象のことだ。英語で言うと[tongue]とか[pray in tongue]というふうに言うと思う。
そっち系(聖霊派とかペンテコステ系?と言うらしい)のクリスチャンの集会に行くと、いささかうたがわしい(笑)その[tongue]で祈る一種異様な十分にあやしい(笑)その祈りの声を聞くことができる。
で、信じるとか信じないとか以前に自分もその「異言」で祈ることはできる。
無意識で言ってんだか舌がからまってるだけなのかどうかしらないが事実できるのでそれはしょうがない。

で、たとえばバンドやってる身としては、「異言」でラップしてみたらおもしろいんじゃないか、とかそういうアイディアは以前から自分にもあった(笑) ありがちなアイディアだとは思う。実際、まだラップを収録する機会には恵まれていないが、曲の中に異言での祈りをこっそり忍ばせたことくらいは一度くらいあったと思う。(スタジオの時間内に無理矢理「異言のひと」に来てもらって演技させたので、あまりクオリティは高くないが笑) (あ、異言の人というのはもちろんインナーパーソンのことです)

で、ラップさせてみよう、とかそういうくだらないアイディアは別として、
では、その「異言」で、祈るのではなく、音を引き出してみたら、曲を書いてみたら、音を鳴らしてみたらどうなるだろう、ということに今回行き着いた。その発想はこれまでなかったのだけれど、ここ1、2年ようやくにして追求していた自分の音楽の最終的な方向性(キーワードは「鍋島」すなわち「伊万里の究極形」)、どんな方向性なのかそれは企業秘密だけれど(笑) これをこの1、2年のうちに突き詰めてソングライティングをしているうちに、先日ふとしたきっかけでそこに突き当たった。で、気が付いた。

あ、なんだ、「音」で異言をやればいいんじゃん、って。

その「音」が、出てくる「元」は、どうやら同じ。祈りの言葉と。

異言ってやつも人によっていろいろあると思うが、俺のそれは、いつでも同じで、なんだか「アジア大陸のどっか」の言葉みたいな響きのやつだ。イメージとしては、中国の奥地とかモンゴルのどっかとか、中央アジアのどこかかなあ、みたいな感じだ。想像に過ぎないけれど。最初にそれが出て来たときは、なんじゃこりゃと思ったものだ。たぶんその理由もいつかわかるのだろう。

で、僕は結婚してから、そしてずいぶん大人になってからクリスチャンになったので、自分がこの「異言」っつーので祈ることができるようになったのは、洗礼を受けるちょっと前のことであるが、なのでそれは30歳も過ぎてからであった。

けれども、よくよく思い当たってみると、自分がギターを弾いていて、「そこからくる音」、すなわち、「なんじゃこれ、この不思議な音、このヴィブラートはどこから来るのか」と思っていた特定の音。それは、二十歳前後からすでに自分の中に見つけていたものであった。(もちろんその音、技法は自分の楽曲の中でも何度となく使用しているよ) すなわちそのヴィブラートが来る先と、自分の「異言」が来る先は同じものである。

たとえば純粋に世界各国の民族音楽がやりたいのであれば、それらを研究すれば良かろう。
だが自分がやりたいのはそれではない。
「霊」によって自分の魂をさかのぼり、そこに本来ある民族音楽を見つけることだ。
人の手によって書かれた歴史ではない、神の手によって魂に記録された真の歴史をたどることだ。

そんなことができるんかいな、と思っていたが、
音による異言、
これをやりゃあいいんだ、と気が付いたので、
なんとかなりそうだ。

すなわち、「異言の解き明かし」というテーマは、聖書とかキリスト教の中でもまたもうひとつの違ったテーマであると思うが、
俺は自分の「異言の祈り」が、何言ってんだかよくわからん。
いや、気持ちは十分にわかるが、言葉のひとつひとつを翻訳したりはできん。(解釈なら出来るが。)

だが、音なら解読できる。
なぜか。
それは俺は一応ミュージシャンのはしくれだからだ。

(そのへんは、そうだね、ヘンドリクスにでも聞いてくれ。たぶん彼は、とっくにそれをやってる。)

そして近年いつも言っているように、
ここで気になるのは、
その解明した「音」を形にして届けるまで、
果たしてバンド活動は存続するだろうか、
果たして自分は生きていられるだろうか、
ということだ。

(今年発表するのが、昨年録音した”Revive The World”というアルバム。その次に作る予定なのが、歴史をテーマにしたコンセプト作品”Jesus Wind”(仮)、この「鍋島」を発表できるのは、早くて、その次の作品。)

つまりは、こんな音、この地上で鳴らせるんだろうかということだ。
正直なところ、天国で鳴らしゃいいんじゃねえかとも思っている。
でももし生きて、形にして、鳴らせたら、神に感謝しようと思う。

No(4520)

■…2015年 6月 9日 (Wed)…….こんぴれーしょん皆の
近日発表されるプロジェクトのマスタリング作業、半分は終わった!音作りの面はほぼ終わっているので、実質終わってると言ってもいい。これは我ながら素晴らしい仕事っぷり(笑) もちろん、自分が担当しているのは「マスタリング」なので、作品の出来は演奏したバンドさんたちの実力なのだけれども、自分のマスタリングも良い仕事になった! 自分らのバンドや、ソルフェイも含まれているけれど(ネタバレ)、どれも、自分らのアルバムやEPに入れたバージョンよりも良い音になってしまった!(笑) 自分らのアルバムやEPのマスタリングをやりなおしたいくらいだ! でも今回のことで自分のマスタリングや音作りもまた進歩した!勉強になった! ぶっちゃけ半分は使ってる道具だ。つまりパソコンのシステムに入ってるプラグインエフェクトの力だ。実は最近またWavesの安売りにはまって(もうはまるのは最後にしたい)、とあるEQを新調した。その成果が如実に表れた。たかだかEQでここまで変わるということをやっと知った(笑) 思い返せば、以前、WIndows上で古いCubase&WaveLabを走らせていたときには、それなりに(今から考えれば旧式の)プラグインもあり、お気に入りのコンプレッサーとか、たくさんのフリープラグインも愛用していたし、お気に入りのリヴァーブも3つくらいあった。そしてそのリヴァーブやコンプを使い分けていた。けれども数年前にMacに乗り換えてから、当初はそんなにプラグインなかったし、そろえるつもりもなかったけれど、それでも少しずつ、バーゲンを見つけては買い足して、フリーのものも探して、いよいよ最小限のものはそろってきた。その方向性も昔とは違い、上手く昔のアナログを再現したようなプラグインが今の時代にはたくさんある。そして気付けば、昔ほどの「お気に入りが3つ」とかではないけれどリヴァーブも最低限は揃い、EQもこれで揃って、そしてコンプに関してはそもそもLogicPro(アップデートしてない)の標準コンプが優秀すぎて買い足す必要を感じない(Wavesのデモをインストールして比較したけどLogic標準コンプの方が良かった)。もちろん大好きなテープシュミレーターのプラグインはMacに乗り換えてすぐ真っ先にゲットしたし、それらの使い方も、やっとわかってきた。ぶっちゃけマスタリングの作業は神経使うし疲れるけれど、作業時間はそれほどかかるわけではない、けれども、システムや環境をそろえることもあるけれど、それは普段から音楽を聴く耳を持っておく、その耳を学び育てる、ということなのでやはり一朝一夕ではない。もちろん本格的なプロのスタジオがやっている業務のマスタリングとはその質も方向性も全然違うものであるし、持ってるプラグインやシステムも、本格的なスタジオに比べれば100ぶんの1くらいしか無いと思う。けれども、少しは自分なりのやり方が出来るようになってきた、かもしれない。このプロジェクトの発表と、リリースが楽しみだ。すごく充実した良い作品だ。

No(4526)

■…2015年 6月11日 (Fri)…….急いで三年
弱音である。
おちごとのために早く寝たいのだが弱音を角。
たとえば、以前見た「赤い公園」なんかもそうだけれど、こんなふうに女の子たちが変拍子とへんてこな音に満ちたインディロックを演奏しているのは悪いことではない。
こちら
ましてやそれが国境を越えてアジア各国とかで支持を得ているのであればそれは素晴らしい。まあ今の時代の当たり前だろうという気はする。
インディバンドであってもどんどん海外へ出て行くべきだし、僕たちもそうしているつもりではある。
こういうバンドをもっと見たいし、こういうバンドがたくさんいるべきだ。そして僕が言うまでもなくこういうバンドは今、たくさんいるに違いない。

けれどもそれが新しい音楽かと聞かれればそれはまったく新しくないわけで、こうしたポストロック、インディロック、ポストオルタナだか呼び方は知らないがこうした音が鳴っていたのはそれはもう10年以上前からあったわけで、それがやっとこの島国日本のシーンにも定着するほどに陳腐化したということに過ぎない。女の子がそういうバンドをやるにしたってそういうバンドはずっと前からあった。つしまみれとかどれだけ人気あったのかしらないがみんな記憶していると思う。

僕が2000年代にいちばん好きになったバンドはたぶんニューヨークの+/-{plus/minus}だけれど、彼らが本格的な活動を事実上やめてしまって以来、そして昨年出たアルバムも「穏やかで、静かな」作品だったので、僕は自分の狭い人生の範囲内において、+/-{plus/minus}以降、新しい音楽に出会えていないし、本気で好きになれるバンドにも出会えていない。いや、実は今年ついに本気で好きになれるバンドに出会ったのだが、そのバンドは1960年代のバンドだったというありがちなオチだった。

「新しい」という言葉にもいろいろと意味がある。世の中というのは「記号」で満ちており、「記号」によって動いている。それが世間というものだ。けれども言うまでもなく僕が言っているのは「記号としての新しさ」ではなく、純粋に本来的な意味で音楽的な意味での新しさのことだ。

記号としての新しさ、記号としての「新しい」バンドに出会うことなんて簡単なことだ。そしてそんなバンドはいくらでも作り出されている。それっぽい見た目のバンドをメディアがフィーチャーし、そうした「10年前にすでにあったけど流行らなかったスタイル」を演奏させ、メディア上で「画期的なニュースタイル」と書けば、それでもう「新しい」ことになってしまう。
けれどもそういうバンドが僕の音楽的な飢えを癒してくれるかといえば、本当にそうであってくれたらどんなにかいいのだけれども、現実は残念ながら違う。

たとえばブルーズはとてもシンプルな音楽のスタイルだけれども、その中で自分の中の気持ちいいところにあたってくれる「本物のブルーズ」「自分にとってのブルーズ」は、数多のブルーズのバンド、ミュージシャンの中でほんのひとつ、ふたつ、しかないのと同じことだ。

エディ・ヴァン・ヘイレンがよくインタビューで言う口癖のひとつに「バッハが平均律を発明して以来、音楽の世界で本当に新しいものなんてひとつもない」というものがある。実はイングヴェイも似たようなことを言っていて、それはイングヴェイの言葉で言うと「人類の歴史上、本物の作曲家は二人しかいない。一人はバッハ。もう一人は俺だ!」という言葉だ(笑) ニュアンスはずいぶん違うが言わんとしていることはたぶん同じなんだろうなということはなんとなくわかる(笑)

バッハ以降新しいものがあるかないかはさておいて、たとえばロックの世界だったらThe Beatles以降本当に新しいものがあり得たのか、とか、ハードロックだったらZeppelin以降に新しいものなんてあったのか、ということはいくらでも言える。

本当の意味で新しいものを作り出す、新しい音を鳴らす、ということは、その事実に正面から向き合うことを意味する。
つまり、バッハ以降あたらしいものなど何もないこの世界において、そしてThe BeatlesやLed Zeppelinがあらゆることをやりつくし、そうでなくても、偉大なロックのレジェンドや、あらゆる先人たちが血と汗と涙を流して作ってきた音楽とロックの歴史、そこに正面から向き合って、果たして自分がそこに、「新しい音」を一音だけでも鳴らせるのか、どうか、そこに向き合うことだ。

人が話をするときに5W1Hみたいなのがあると思う。いつ、どこで、誰が、何を、なぜ、どうしたのか、という。
本来、ロックの歴史の原初においては、それはWhatの問題であったと思う。それが、いつしか歴史が下るにともない、「誰が」になったり「どのように」という問題になっていった。これは歴史の必然であるけれども、今こんな時代にあっては「How (どのように)」も突き抜けて、「How well」(どんだけうまくやるか)というところにとっくに達しているし、それは既にクラシック音楽と同じところにロックミュージックがたどり着いてしまっているという事実の裏付けでもある。

じゃあ今時「What」や「Why」で勝負できるやつに俺は会いたい。たとえかなわなかったとしてもバッハに面と向かって中指を立てることができるやつの音楽を俺は聴きたい。

忙しいので、5月にやったライヴであるとか、アコースティックライヴのこととか、先日オオハラシンイチの横でベースを弾いたライヴのことであるとか、感想や所感なども日記に書けていない。
けれども先日、オオハラ氏に「俺はもうずっと新しい音楽を聴いていない」と愚痴った数分後に、確かに「宇宙詩人アトムさん」の音楽は、それなりに新しいものだった。新しいかどうかはさておき、確かにそれは面白かった。

つまりはロックの黄金時代、世界のトップの舞台で、レジェンドたちは最先端の音を鳴らし、紡ぎ、だからこそそれはロックの黄金時代と呼ばれる。
80年代くらいになると、その状況は変わり、そしてオルタナティヴの時代になり、僕らの時代である2000年代には、インディーシーンまでもぐらないと既に新しい音なんてものは見つからなかった。
けれども、今は、さらにもっと、もっとこれくらいまで深くもぐらないことには、新しいものには出会えないのだということを、東京の飲屋街の片隅で僕は実感したのだ。
もちろん、こういうクレイジーで独創的なアーティストは世界中にいる。俺もたとえばヒューストンとかシアトルとかそういうどっかの街で何度も見た。彼らがみんな凄いわけじゃないが、たぶん時代的に、彼らのような立ち位置で、本当にすごいアーティストは増えているはずだ。

ここで愚痴を言おう。
若いバンドはいくらでもいる。
彼らは、残念ながら新しいスタイルをやっていない、人もすごく多いのだけれど(汗)、でもやはり、新しいスタイルの音楽をやっている人もいる。先述のバンドのような10年前のアンダーグラウンド的な音も今でも当たり前になっている。メジャーの音にしたって、ぜんぜん進化してない部分もあるが、それなりに取り入れ進化している部分ももちろんある。
けれどそれはやっぱり新しくない。オリジナルではないからだ。

つまり、なぜ俺がいちいち音楽をやらなくてはいけないのか、
逆に言えば、若いバンドもたくさん出てくるし、今の時代、いろんなバンドはたくさんたくさんたっくさんいるし、みんな優秀だしね。
それはたとえばギタービルドの世界でもそうだろう。Jol Dantzigもブログに書いてたよ。今の時代はある意味黄金時代じゃないかって。FenderとGibsonだけじゃなく、またその他の大手メーカーだけでもなく、世界中にたくさんのカスタムショップや、大小の工房があって、どれもがレベルの高い楽器を作り出している。プレイヤーとしては選び放題だと。

だから、なにも俺なんかが音楽やバンドをやらなくたって、と思うのは簡単なのだ。いや、実のところ僕はいつだって、毎日のようにそう思っている。俺なんかが意地を張ってバンドとかやらなくたって、世界には三千万くらいバンドがいて、うまいやつらもいっぱいいる、って。

けれども、どいつもこいつも俺を打ちのめしてはくれない。
ひとつでも、たったひとつでもいい。
こいつらには勝てない。
こいつらにはかないっこない。

逆に言えば、こいつらが居れば、ロックシーンは安泰だ。
とか、もっと狭く言えば、クリスチャンシーンでもいいけれど(涙) 狭すぎるよな(涙)

と、こんなすげーやつらが居れば、俺は音楽をやる必要なんてない。
と、そう思わせてくれるバンドが、ひとつでもいたら。
俺はもっと早く、どれだけか楽になっていただろうに。

たとえば、Van Halenが、
そうだよどう逆立ちしたってEddie Van Halenにギタリストとしてかないっこない。
そのVan Halenが、あのとき、”Van Halen 3″でこけずに、あるいはその後も、ずっと活躍と君臨を続けてくれていたら。

あるいはVan Halenでなくったって、
本当の意味で「正義」を鳴らせるバンドが、そして音楽にあっては本当の意味で「王道」を鳴らせるバンドが、ひとつでもメジャーシーンに居てくれたのなら。

俺は音楽なんてやることなかった。

そして、俺が憧れ、畏怖し、夢中になったそれらのバンドたちも、ひとり、またひとりと、勝負の土俵を降りていってしまう。

それがどれだけ絶望的なことなのかという愚痴だ。

俺は最近、ひさしぶりに本気で夢中になれるバンド、ミュージシャン、ギタリストに出会った。それは知ってのとおりPeter Greenというギタリストで、初期Fleetwood Macのリーダーだった人だ。(その後の、世界的に成功した有名な女性ヴォーカルのFleetwood Macとは、別物であることは、ロックの歴史書に書かれているとおりだ。)

俺はこのPeter Greenという一人のユダヤ人ギタリストの音の中に、自分にとっての理想のブルーズを見つけたばかりか、あろうことか理想のヘヴィメタルまで見つけてしまった。
彼の音楽の中には、たとえば俺が21世紀に夢中になったインディロック、ポストロック、それもすでに彼のグループは1960年代、1970年代初頭に鳴らしていた。
そして俺が自分のバンドを始めたときにしきりにキーワードとして言っていた発展系のハードロック”Heterogenious Hard Rock”(異能ハードロック)、その始祖について聞かれたら、今の俺はやはりそれはPeter Greenと初期Fleetwood Macがそれだと言わざるを得ないだろう。
そしてVan Halenすらも、あのEddie Van Halenが鳴らそうとして叶わなかった「3」の向こう側にあったロックの「その先」すらも、Peter Greenはすでに鳴らしていた。
そして彼は拒絶され、理解されず、悲劇の中に落ちていった。
そう歴史はただ単に繰り返していただけだった。
何度も何度も。
新しいもの、未来の音は、すでにもう、すべてそこに鳴らされていた。
Peter Greenという一人の異能のギタリストの手の中に。

だからたぶんこのPeter Greenという不遇のミュージシャンは、僕の人生でおそらく最後のギターヒーローになると思う。

いつも、自分の残りの人生があと一年だったとしたら、あと何をして、この地球を去りたいか、ということを考えるが、
そしてこの10年ばかり、そのようにして生きてきたつもりだけれど、

今の僕にそれをひとつだけ選べと言われたとしたら、
やはり今自分の中にある「その先」の音をきちんと鳴らしたい。
きちんと鳴らした上でこの地球を去りたい。
そう答えるしかない。

まあ、一年じゃ無理なんだけれども。
せめて三年ください。
全力で急いで三年だろうな。

No(4527)

■…2015年 6月13日 (Sun)…….Potential
打ち所が悪かったのかなんかまたスイッチが入ってしまった。漫画か小説の前田慶次郎じゃないが、男の子がやりたいこと。それはすなわち喧嘩、そして恋だ。喧嘩を売る相手は大きければ大きいほどいい。では俺は誰に対して、何に対して喧嘩を売っているのか。自分の喧嘩を戦い抜こう。そしてまた同様に、恋をする相手は大きければ大きいほどいい。では俺は誰に恋い焦がれ、何に対して恋をしているのか。自分のラヴストーリーを生き抜こう。そして俺は自分がまったく孤独ではなかったことに気が付くのだ。こちら

No(4528)

■…2015年 6月17日 (Thu)…….今年はビデオはいろいろ作ってるけどね
[プチ報告]Born To Rideのミュージックビデオが1000再生いきました。また小規模な話をしますが、3ヶ月半で1000回いったのは今までの自分らのビデオでは最速です(涙) まあ例の3万再生間近のスケートボード動画からリンク張ってあるんでそのせいなんですが・・・。こう見えても僕、自分のスケート映像が3万回再生されてるスケーター、ってことですね・・・(遠い目)
こちら

No(4529)

■…2015年 6月18日 (Fri)…….賛美 of a lifetime
誰というわけでもなく記録と報告をしておく。喜びと興奮が先に立ってしまうが、たった今俺は生涯に一度しか書けない曲を書いた。
それは自分のバンドImari Tones(伊万里音色)の次の次のアルバム、っていうかリリース順でいうと今年これから”Revive The World”を発表して、次に取り掛かるのがもうバンドでもリハーサルが半分は進んでる「日本の歴史をテーマにしたコンセプトアルバム」である”Jesus Wind”なんだけれど、その次に作るやつ。
タイトルはわからんけどたぶん「鍋島」になる予定であり(subject to change, of course)、その全体の「テーマ曲」となるべき楽曲、”Anthem”をたった今、作った。
正確には昨晩ジーザスモードの練習に出かける電車の中で思いつき、iPhoneに声メモとかスタジオでおおざっぱなリフだけメモしておき、さきほどギターパートの骨組みを示す「スケッチ」の形に仕上げた。僕にとってはこれは既に完成と言える。
もちろん曲なんてただの曲であり、どーってことはないのだが、それでもこんな曲を書けるのは一生に一度のチャレンジであることに違いはない。
出来のほどはわからない。正直なところ、先だって「魂をさかのぼり、歴史を書き換える」とか大きなことぶちあげたり書いたり発言していたわりには、作ってみたら、普通のただの現代メタルの範疇だった、ということも言えなくもない。
もしそうであれば、それは自分にとってはめでたいことで、つまり、それは「自分の才能の限界」をついに知ったということであり、自分のクリエイティヴィティな能力と才能の限界にたどりついたのであれば、「自分はここまででした!力及ばずともがんばりましたがここが限界です!」と宣言して音楽をやめることができる。ついにやっとやめることができる、からだ。
だがもし、この楽曲が、自分が狙っていた魂の領域を射抜くことに成功していたとすれば、それは、それでまた別の形で地獄の試練が待っているだけである。
スケッチの形では「鍋島」の青写真はかなり出来上がってきている。
デモの形に仕上げるのが、早ければ年内、現実的には来年の前半。
バンドでいえば、まずは”Jesus Wind”のレコーディングというのか録音制作をするから、それが終わってからこの「いよいよついに最後の作品になるかもしれない」、ていうか、そもそも「Jesus Wind」も、これで最後かなと思っていたから、今度こそ本当に最後になる可能性の高い「鍋島」(仮)、まあそこまでもバンドが存続する保証はどこにもないし、存続できるかどうかわからないのだけれど、もし作れたとすればそれが自分の生涯一度の境地であることに違いはない。
そして、その音を、この本日書いた”Anthem”を、皆の前で、演奏できる日が来たら、その時は「命をかけて音楽を演奏する」ということが、どういうことなのか、きっとお見せできるだろうと思う。まあでも、それも先人たちというか諸先輩がたもみんなやってきたことだと思うけどね。
ひとまず自分の中で軽く祝杯、と、それだけ。

No(4530)

■…2015年 6月19日 (Sat)…….mata-guchi
気が付けば日本人であることに殉じていた。
もっと楽しい世界で生きたかったけどね。
もっと楽しい世界で音を鳴らしたかったけれど。
気が付けば世界の方から崩れてきた。
世界の方から音をたてて崩れてきた。

いや、音もたてずに、か。
世界から音は消えていった。

もちろん悪いことじゃないけどね。
自分の祖国に殉じることは。
でも楽しいことではないな(苦笑)

まあもちろん世界で音を鳴らしてはいるけれど。
小規模に(笑)

60年代や70年代の音楽を聴くと、
それは本当に命がけだったんだなと感じる。
ロックを演奏するということの意味は、現代よりも何百倍も大きかった。
それはとても大掛かりで、特別なものだったに違いない。
ドラッグやいろいろで命を落とすのも無理はないと感じる。

90年代あたりになると、
音楽はもっと小規模なものになっていく。
ロック音楽はありふれたものになった。
音楽を鳴らし演奏する意味合いもまったく違ってくる。

僕たちはそういう世界で青春を過ごし生きてきた。
そして、何もない荒野を越えて21世紀を生きてきた。
僕らはどういう意味合いで音楽を鳴らしてきただろうか。
これからどういう意味合いで音を鳴らすのだろうか。

世界の果てを見たいという思いは変わらない。

No(4531)

■…2015年 6月22日 (Tue)…….おふぃしゃるブログに書いたやつ
Great news.
We are happy to announce the launch of “Calling Records”, that is probably the first Japanese record label which focuses on “Christian Rock” exclusively. Calling Records is established by 3 people, Tak Nakamine from Imari Tones, Hiroki Miki from CLOD, and Shinichi Ohara from Soul of Faith.

As the first product from the label, Calling Records will release “Calling from you Vol.1″, which is a compilation album contains 10 songs from 5 Japanese Christian bands – CLOD, Soul of Faith, Atsuki Ryo with Jesus Mode, Indicator, and Imari Tones.
CD release party/gig is planned on 8th August Saturday, at Shimokitazawa Voice Factory, Tokyo, Japan. The CD will be available on BandCamp and other online outlets accordingly.

This is a very positive news. Not like “major industry breakthrough” but it will have a positive impact on Japanese Christian music scene in a long run.
These Japanese Christian bands united and working together, it means more power, more love and more music. This is a new born hope for still very small Japanese Christian rock music scene.

Please check the CD when it’s released.
Please come to the CD release gig if you are in Japan.

Also please like Calling Records’ facebook page.
こちら

Calling Records website
こちら

嬉しいお知らせです。
僕たちはここにCalling Records (コーリングレコーズ)の発足をアナウンスします。
Calling Recordsは、おそらく日本で最初の、「クリスチャンロック専門レーベル」です。
Calling Recordsは、Imari TonesのTak Nakamine、CLODの三木裕季、ソルフェイのオオハラシンイチの三人によって設立されました。

最初のプロダクトとして、Calling Recordsはコンピレーションアルバム「Calling from you Vol.1」をリリースします。アルバムには日本の5つのクリスチャンロックバンドによる10曲が収録されています。収録アーティストはCLOD、ソルフェイ、熱きリョウとジーザスモード、Indicator、Imari Tonesです。
レコ発ライブは8月8日(土)に下北沢ボイスファクトリーにて行われます。
その日にCDは正式にリリースされ、順を追ってインターネットでも販売される予定です。

これはとても前向きなニュースです。大きな音楽業界でのブレイクスルーということではなく、長期的に見て日本のクリスチャンミュージックシーンの中で良い影響を持つことだからです。これらのクリスチャンロックバンドが団結して力を合わせることは、より大きな力、より大きな愛、そしてよりたくさんの音楽を意味します。これは、今はまだ小さな日本のクリスチャンロックシーンに、新しく生まれた希望だと言えます。

どうぞCDをチェックして、
8月8日の下北沢ボイスファクトリーのレコ発ライブに足を運んでいただき、
そしてまたレーベルのFacebookページを「いいね」していただければと思います。
こちら

Calling Records ホームページ
こちら

No(4532)

■…2015年 6月24日 (Thu)…….世界潮流
俺は別に「憲法9条を死守しなければ」とかは思ってないのね。法律とか制度とかじゃなくて、大事なのは人でも国家でもその行いでありふるまいであり精神の部分だから。自分の人生振り返って自分はどちらかといえば改憲論者だったし。今回の法律ひとつとっても、それ自体が実用的にどうなのかは知らない。でも今、世界中で起きてる「戦い」はちょっと違う種類のものだと思うんだ。右と左、前と後の人々の話がかみあわないのは、議論以前に前提がずれているから。生きる前提、世界を考える前提、魂の前提。今、天の国で起きてる「戦い」は、その前提の部分の戦いだと思うんだよね。そんな戦いを、言葉で説明することなんてできやしないよ。だから人は、この世界にこの時代に生まれた一人として、自分が望むもの、欲しいものをはっきりと求め、信じていけばいい。自由って何だ。知らないよ。でも、何のために生きて、何のために死ぬのか、それくらいは決めておいた方がいい。それが俺の考える自由です。

No(4538)

■…2015年 6月25日 (Fri)…….レーベル発足所感
さて、日記です。
先日バンドのブログにも書いたとおり、
“Calling Records”というものが発足し、
コンピレーションアルバムが発売されます。

なにはともあれ、これはめでたいことです。
そして、これについて、自分のバンド活動からの視点から、所感と報告を、
また赤裸々に、書いてしまおうと思います。

自分の思っていることを、平気で言ったり、書いてしまうのは、自分のよくない癖なのですが、
まあそれでも、いろいろの参考や、後世の記録や、神さんへの報告のために。
あとは状況の整理とか笑。

まずはこのCalling Records、イマリトーンズの私ナカミネタカヒロ、そしてソルフェイのオオハラシンイチ、そしてCLODのミキヒロキ、この三名が中心になって立ち上げた、ということになっています。
そしてそれは実際そのとおりです。

あれかな、きっかけは、やはり昨年の第二回目となるThe Extreme Tour Japan。
それを通じて、たとえばあの下北沢でやったライヴには、僕らImari Tones、ソルフェイ、CLOD、Indicatorと、今回のコンピに参加しているバンドは(Jesus Mode以外は笑)全部出ていたわけです。まあそのライヴもCLODのツアーファイナルだったんだけどね。

それらを通じて、僕らの交流や、団結は深まり、これらは、これだけ優れたクリスチャンロックバンドが世に出て、こうして集まっているということは、これは「風が吹いている」、つまりムーヴメントを起こす絶好のチャンスではないか、ということで、僕らはその後、その三者で話し合いの場を持ったのです。
実際のところ、いいだしっぺはCLODの三木君であったと思います。そこに関しては彼をクレジットしておいて良い部分です。功績というか、功績として。

で、なにはともあれ、レーベルといったらコンピレーション。
これは、古の時代からのお約束です。
というわけで、まずはコンピレーションを出そう、という話になったわけですが、
今回のコンピレーションCDに参加している5バンド。
つまり、CLOD、ソルフェイ、熱きリョウとジーザスモード、Indicator、そして僕らImari Tones。
どれも非常に優れた、強力なバンドです。
正味、まじで、本音で、現金掛け値無しに、とても良いバンドばかりです。

で、確かに、この狭いゴスペルシーン、日本のクリスチャンミュージックの世界。
はっきりいって非常に小さい、とても狭いシーンです。
その中でもやはり歴史はあり、いろんなアーティスト、諸先輩がた、それぞれの活動があり。
けれども、このタイミングで、これだけ優れたバンドが、(まだまだ数は少ないながらも)、しかもライヴハウスでばちばちやれる本物のロックバンドが、この東京のライヴハウスシーンに、リアルに存在し現れたということは、
やはりちょいとばかし、偶然では説明できない部分だと思います。

現在、日本のクリスチャンミュージックの中で、実績と人気のあるバンド、アーティストさんとして、たとえばサルーキ=さんや、Night De Lightさんを挙げることができますが、(まあぶっちゃけ彼らは今回の企画に参加してもらうには人気がありすぎるので)、彼らほどにestablishedされた実績のあるバンドではなくて、これからのup and comingなバンドとして、
より多様なジャンルで、よりロックバンドという意味で、今回のコンピレーションに収録された5バンドは、どれも共通の土俵に立ち、なおかつそれぞれのフィールド、それぞれの方向性を向いている、実に「実戦仕様」な5バンドであると思います。
クリスチャンシーンだけでなく、一般のシーンにおいても、ばちばちとガチの喧嘩をやれるバンドばかりです。

要するに音楽的には本気ですごいぜ、ということです。

僕は今回の企画、まずはソルフェイのオオハラさんや、CLODの三木くんと、昨年の末ごろから、何度も会ってミーティングし、それについては、とても嬉しい思いでした。
こうして、それぞれの活動が、それぞれの道が交わり、キリストの愛というひとつの志のもとに、日本のため、人々のため、大きなことを思い、状況を憂い、それを打破しようとして、手を組み、力を合わせる。
そして、そのきっかけとして、僕らがアメリカから持ち込んだThe Extreme Tourがきっかけとなれたのであれば、僕としては非常に嬉しいことだからです。

でも、レーベルとか、コンピの企画とか、もちろん協力するけど、どうかな、みたいな、ところはいつだってあるので(汗) めんどくさいな、とか(汗)
けれども今回、僕はマスタリングを担当しました。
そして、各バンドの音作りの仕上げを担当するとともに、それら各バンドの音に、正面から向き合った。
(もとよりソルフェイは僕にとっても既に他人とは言えないバンドです)

そして、これらの5つのバンドが、どれも本当に優れたバンドであることを実感した。
もちろん、ジャンルはどれも違うけれど、クオリティは本当に高く、その実力は本物で、自分たちの作品ながら、これは実に聴き応えのある、素晴らしいCDになっていると思う。

なので、マスタリングを担当し、実際に出来てきた音を聴いて、俺は、これは、たくさんの人に聴いてほしい、今の2015年の日本のクリスチャンロックを代表する、どこに出しても恥ずかしくない作品であるということを確信した。

なので、やはりとても意義のあるリリースであると思う。
クリスチャンの人たちや、教会や、ミニストリー、ミッショナリーの人たちにも、このCDを、ぜひ宣教のために役立ててほしいし、それだけの内容があるCDだと思う。なぜなら、音楽は、人種や国籍や信条を越えて人にうったえかけるその力は、決して嘘はつかないからだ。(ぶっちゃけ宗教も越えて伝わる。)

次に書かなくてはいけないのは、
そうね、今回のコンピレーションに参加しているバンドなんだけれど、
「Atuski Ryo with Jesus Mode」は、僕が嫁さんや友人たちとやっているサイドプロジェクト、というのは公然の事実だけれど、昨年以来、僕もソルフェイに参加し、今では現状、正式にバンドの一員に数えられているので(汗)、
つまり、この5バンドのうち、3バンドに、俺は参加しているのね。

これは、もう、笑うしかなくて。
で、レーベルの、告知動画とか、フライヤーとか。
見ると、動画にも、俺の顔が、3回出てくるし、フライヤーにも、3バンドぶん写真が載ってるし(笑)
しかも、わりと目立つ位置で。
ええんかな、これ、みたいな。

そんで、幸い、というか、ソルフェイの収録された2曲のうち、僕がギターを弾いているのは新曲の”Unbeliever”1曲だけなんだけれど、それでも、収録曲10曲のうち、実に半分の5曲で、俺がギターを弾いている、というのは、どうかな、という(笑)

もちろん、その5曲で、すべて俺がギターソロを弾いているので、このCDを聴いた人は、「どのバンドもみんなギター上手いなあ」と思ってくれれば幸いなんだけれど、
逆に、耳の鋭い人は、同じ人間が弾いてることがわかるかもしれないので、
クリスチャンミュージックの世界では、そんなに良いギタリストが不足しているのか、と思われたらどうしよう、と(爆)
どんだけ人材不足なんだ、と(笑)

ともあれ、こうしていろいろなことが立ち上がって、始まってきている。
昨年の収穫のひとつとして、ソルフェイオオハラシンイチという人物に出会えたことを数えることができるけれども、こうしてCLOD三木君も一緒に、そしてまた、それだけでなく、仲間といえる人たちが集って、だんだん仲間が増えていき、この狭く、まだまだこれからの「日本のクリスチャンミュージック」のシーンで、物事が始まっていくのは、それはもうなんという希望であろうことか。

それはもう、なんとなく海外向けになってしまって、それも好きでそうなったのではなく、いろいろな国内の状況についての絶望から仕方なくそうなっていた、そんな僕らイマリトーンズからしてみれば、このような仲間と出会って力を合わせ、日本国内において、こうした物事が始まっていくのは、それはもう夢のような状況なわけです。

夢のような状況かもしれない。
そして、やはり風が吹いているのかもしれない。
たとえば、1970年代の終わりから、1980年代の初頭にかけてのロサンゼルスで、そのローカルでやっていたバンドたちが世界を変えていったように。
また、あるいは1980年代の半ばにはサンフランシスコあたりのスラッシュメタルをやっていたローカルのバンドたちが同様に革命を起こしたように。
これから僕らが大きな何かを、波紋を起こす雫の一滴となってやれるのかもしれない。

だったら、どうするか。

その時、その場所で、もっともすげえ音を鳴らすまでだ(笑)

僕らも決して若くない。
全然若くない。
そして、その意味では成功からは程遠い。
はなっから成功から程遠い場所から、僕らはスタートした。
けれども、be in the right place at the right time
何かを成し遂げるために、その時、そのタイミングで、その場所にいる。
たとえば「人生の80パーセントはshowing up、つまり、その場に居合わせることだ」というウッディ・アレンだかの格言(quote)があるらしいが、

この歳、この段階にして、僕らにもちょっとだけそういうチャンスが訪れているのかもしれないし。
あるいは、単に希望にすぎないけれど。

で、このCalling Recordsなんですが、
立ち上げとリリースを発表し、
レーベルのFacebookページを開設して、
ほんの1、2週間ですが、
はやくも150Like。

ぶっちゃけ、これは、自分らが持っている名ばかりのレーベルKitchen Knife Recordsよりもぜんぜん成績いいので。

さて、もちろん、これが「レーベル」と名前がついているからには、リリースどうすんの、とか、自分らのバンドのアルバムどうするの、とか。
あるいは自分らの名義のKitchen Knife Recordsとの棲み分けをどうするのか、とかそういう問題もあるわけです。

僕らは今年、昨年録音制作した”Revive The World”をリリースするけれど、(予定では9月かなぁー)、
その作品をCalling Recordsからいきなり出すのはスケジュール的にも無理があるとは思うんだけれど、
たとえばその次の作品「Jesus Wind」なんかは日本の歴史をテーマにした作品だし、もし、その方がたくさんの人に届くっていうんであれば、このCalling Recordsからリリースするのも良いのかもしれない。
そのへん、各バンドや、レーベルに関わる人たちがどう考えているのかも、話し合って、これからより、交流を深め、ともに活動をしていく中で決まっていくことだと思う。

けれども、僕には、Eddie Van Halenがインタビューで言っていたモットー、つまり「自分の下着の中でやれないことは、やらない」という哲学があるので、まあそれも、インタビュー記事、昔に日本の雑誌で読んだ文章だし、翻訳の中でニュアンスが変わってしまってるただの勘違いかもしれないんだけれど、どっちにせよ。
(今じゃインターネットがあるから、そういったバンドのインタビューも英語で読むことの方が多いし、動画も見れるし、時代は変わったね。)

その「下着」の哲学が、僕らが成功はちっともしてないにせよ、ここまでバンドを存続させ、音楽を作り続けることができた秘訣のひとつであることは間違いないんだ。

だから、それが下着の外だと思うのであれば、やっぱり自分のところの名義で出すかもしれないけれど。
それらも神さんが示してくれるだろう。

まあ結局のところ僕らイマリトーンズは、音楽としても本質としてもしょせんは一匹狼的なところがあるのも事実で、バンドの生き方、メンバーの気質体質、目指すところ、鳴らし方、死に方、それらにすべて流儀があるので、しょせん限界はあるのかもしれないけれど。つまりしょせんはヘヴィメタルだということ(笑)

けれども、この僕らにとっても、日本のクリスチャンロックにとっても、千載一遇のこのチャンス。
このCalling Recordsが、これからどうなっていくか。
皆で力を合わせて、より大きく発展していくか。
あるいは、それほど力を合わせるわけにもいかないのか。
あるいは、うまいこと皆がうまくいくようなやり方を見つけられるのか。

楽しみにがんばっていこうと思います。

いずれにせよ、自分の人生をこうして眺めて思うに、
今回のこのコンピレーションCDにしても。

こうしてgrass rootsなクリスチャンのロックバンドたちと手をつなぐことができたことも。
そして、実に3バンド、3回も顔が出て来て、10曲中5曲でギターを弾いてることからしても、
決して俺のミュージシャン人生、なまけてるわけじゃない、と言っても良さそうだぜ!(笑)

それなりには、働いているつもりさ!

それが言いたかった(笑)

こうした素晴らしい企画の中にミュージシャンとして居られることに、
そしてまた、共に戦ってくれる皆さんに、
応援してくれる皆さんに、
本当に感謝します。

ありがとう。
がんばりましょう。
これから、どんどん始まっていきます。

こちら

No(4539)

■…2015年 6月27日 (Sun)…….願いJune
「鍋島」の扉が開かれた。
アイディアは溢れ出し、それを形にせよと僕に迫る。
無視すれば気が狂ってしまうそれはまるで、何にたとえればいいのか。
ソングライティングの基礎の部分、つまり楽曲の青写真はほぼ出揃ったと言っていい。
美しいバラードもある。最高に激しくインテンスなヘヴィメタルもある。すがすがしいメロディもある。無駄を削ぎ落としたリフがある。あっといわせるようなリズムもある。沈み行くようなブルーズもある。昇天してしまいそうなコードもある。
あとはそれをデモの形にする。
そしてそれをバンドでリハーサルする。
歌詞やメロディを磨き上げる。
バンドでライヴ演奏し、録音作品の形に完成させる。
そういった過程を経るまでにどれだけかかるだろう。
「鍋島」、それは僕がこのImari Tonesというバンドに名前をつけたときから、持っていたキーワード。
つまりそれは伊万里の究極形であり最終形。
そのキーワードを提示するための許可がついに下り、扉は開かれた。
はっきりいって内容は凄い。
これを聴いたら本当にこの音を鳴らすためだけに人生を賭けたくなってしまうだろう。
最近の僕らは、いや当初からそうであったけれども、僕らのひきこもり具合はまるでXTCのようだ。僕らは仮にもヘヴィメタルのバンドであるから、ひきこもり方やその理由も彼らとは少し違うけれども、XTCのようであることができるのであれば、そうであったら、そうでありたいものだけれど。
本当はもっと外に出ていきたい。海外ツアーもしたい。アメリカにも行きたい。国内でもツアーとか演奏活動をもっとしたい。
けれども、この音を作れるのであれば、このままひきこもって作ってしまってもいいのではないだろうか。
その価値があるのではないだろうか。
この音を作り上げたら、本当に僕らは世界を征服できるのではないだろうか。(笑)
もうすぐRevive The Worldをリリースするが、今バンドで取り組んでいるのは日本の歴史をテーマにしたコンセプトアルバムJesus Windだけれど、それの音も非常に突き詰めたものであるけれども、この「鍋島」はその数段に上を行く。
バンドでのリハーサルはきっと過酷なものになる。そこまでたどり着けるかどうかもわからない。うちのリズム隊は、このリズムを果たして理解できるだろうか。把握できるだろうか。それ以前にそもそも認識ができるだろうか。
でももしこれを作り上げたら、その後は素直に世界を取りにいけばいいのではないだろうか。
そう思わせる。
僕らは恵まれた状況にもいないし、世渡りが上手な方でもない。
有名になってから傑作を作り上げればいいという発想は僕らにはない。
有名とか成功を求めてすらもいない。
けれども頂点はひたすらに求めている。(笑)
僕はすでにソングライティングの媒体としては抜け殻だ。
はっきりいってこのソングライティングの期間中に、僕は自分の限界に突き当たった。
楽曲を生み出す、アイディアが降り注ぐその過程において、初めて僕は自分に限界を感じた。
こんなことは初めてだと言っていい。
だから僕にたぶんもう楽曲は作れないし、少なくともこれ以上のものはもう人生で作り出せはしない。
創作という意味ではひとつの締めくくりを迎えることができるのだろう。
もちろん余録はあるかもしれないけれど、それは余録にすぎない。
僕はすでに「出涸らし」だ。
ここ数年、バンド活動を続けていて、その時間に対しての価値が、どんどんと貴重なものになっていった。
だから最後に鳴らすその一音が、もっとも価値のあるものになる。
その音をこそ鳴らすために僕たちはここまで努力し続けてきた。
そのことをちゃんと承知しておきたい。
ゴール直前の八合目の地点で止めてしまって、それでいいというものではないのだ。
願わくば、これを最後まで鳴らし切り、神さんの宿題と期待に応えて、いやもとより応えることなどできようもないが、自分なりにこの地でできることをやりきって人生を終えたいものだ。
これはそう願う、その願いのためにしたためる記述だ。

No(4540)

■…2015年 6月28日 (Mon)…….進取派の人たちの勝利の日
Okay, so gay sex is a sin. I know that. However, my sex is no less sinful than theirs. I know that for sure. So I have no problem with being friends with them. We’re all sinners. Marriage? Frankly, I think that’s a social issue, not a religious issue. This is a human world. Who can possibly follow God’s law? No one can. It’s just we need Jesus and His Love even more. Congratulations to my friends. We are taking each step to understand God’s Love and His plan. (ははは、一応海外向けにクリスチャンバンドやってる身としてはこれだけ書くのもちょっとだけ勇気いるぜ。とほほ。)

No(4541)

■…2015年 6月28日 (Mon)…….Battle at the Berrics 8 Cody Cepeda vis Luan Oliveira
昨年このBattle at the Berricsでアマチュア代表から彗星のごとく登場し優勝して一気に知名度を上げたCody Cepedaと、その昨年の決勝で死闘を繰り広げたLuan Oliveiraが準々決勝で激突。
普段は抜群の安定感を誇るCodyがミスを連発、対してLuanは驚異的な安定度でレベルの高い技を連発。技の高さ、ダイナミックさ、美しさなど、プロの中でも超一級なLuanの技術と能力の高さを見せつける。ぶっちゃけスケーターとしての能力はプロとしてLuanの方が上であることを示す。けれども4ポイント連取されて追い込まれてからCodyがまさかの逆転。意味がわからない。この容赦ない勝負強さ。魅せるプロとしてはLuanの方が上でも勝負師としてはCodyの方が一枚上なのか。技術の高さは言うまでもないが、だんだんこの無表情なCody Cepedaがスケートボード上のケンシロウのように見えてきた(笑) さて決勝は。俺の予想では今年はSewaが持ってくんじゃないかな〜。ちなみにこのCodyとも、そしてSewaとも仲の良い、同様に昨年のBATBでアマチュアから出て来て名を上げた、Chris Channくんですが、彼は先にこのCodyとの友人対決で敗れて2回戦で姿を消しています。彼はアジア系でキュートな美形スケーターで、俺は大ファンなんですが、彼は優しすぎる性格が災いしてこういう勝負事には向かないですね〜。でもYouTubeなどでファンを魅了する不思議な魅力が彼にはありますね。でも彼はたぶんプロには行かないんじゃないかな〜。もっとちゃんとした人生をやりそう。
こちら

No(4542)

■…2015年 6月28日 (Mon)…….国内中堅メーカーとエレクトリックベース
いつのまにかBacchusのウェブサイトから、ベースの製品ページからTwenty Fourモデルがなくなっている。どうやらこれは生産中止ということらしい。
(サイト内検索すれば、生産完了モデルのページも見ることができる。リンク先はそれ。)
こちら

かわりにWoodlineの24フレットバージョンがCraft Seriesやイケベショップモデルに登場しているが、形こそ似ているもののこれはやはり違うモデルだ。

Bacchusも今となっては、90年代から数えてそれなりに歴史があるから(かといって他の老舗ブランドからすればまだまだ全然歴史は浅い)、その中でいろいろなモデルがあったと思うが、定番として長続きするモデルが少ないというか、生き残れるモデルはその中のごく一部で、それ以外のものは次々に姿を消していってしまうという、これは国内の中堅メーカーとしては仕方のないことかもしれない。

Bacchusブランドの楽器の中で、たとえば3年後とか5年後にもたぶん生産されている、と言えるのは、ほとんどWoodlineだけなんじゃないか。あとはギターならテレキャスのモデルとか。Dukeも生産数は少ないだろうから、いつのまにか無くなったらどうしよう。凄いギターなのに。

世界一と言っていいくらいに凄い楽器を作っているのに、いろんな理由で買いたたかれ、冗談のようなバーゲン価格で手に入ってしまう。これがBacchusの宿命だ(泣) でも俺はそんなブランドが好きだ。

とにもかくにもTwenty Fourだ。
僕はバッカスのベースの中で、いちばん魅力を感じ、そしてこれがベストである、と思ったモデルはTwenty Fourなのだ。
現に、僕がベーシストとして活動するときのメイン楽器はTwenty FourのCraft Series廉価版であるTF-Ashを使っているし、うちの嫁さんがAtsuki Ryo with Jesus Modeでベースを弾くとき、昨年以来お気に入りで使っているのもTwenty Fourのフィリピン製廉価版であるTF-001モデルだ。

Woodlineが売れるのはわかる。Bacchusの製品の中ではほとんど唯一、マーケットの中で大なり小なり定番の位置を築いたモデルではないだろうか。
要するにジャズベを現代的に使いやすくしたモデルなのだけれど、僕もそしてうちのバンドのはっしー先生も、「普通のジャズベなんて」みたいなところがあるので、Woodlineは自動的にパスになってしまう。
そして実際に楽器屋さんで試してみると、Woodlineは実に堅実でversatile(応用範囲の拾い)な充実した鳴りを誇る素晴らしい楽器だったが、俺はともかく、うちのはっしー先生には合わないという結果がはっきりと出てしまった(笑)

ベースという商品はとても難しい。
たぶんそうなんだと思う。
ギター(エレクトリックギター)にくらべて、ベースというものは、比較的、性能が価格に比例する。
つまり、ギターの場合は、安くても使える楽器というものはいろいろ存在するし、使い方次第でどうにでもなるのだが、ベースは、用途もはっきりしているし、音色がごまかせない部分も多く、どうしてもある程度、高い金額を払わないと良いものが手に入らない。

恐ろしいほどのコストパフォーマンスを誇るBacchusさんであっても、それは同様で、ギターに関しては、ほんの数万円で「まさか」の結果を見つける可能性はわりとあるのだけれど、ベースに関しては「値段のわりにはとても良い」と言えるけれど、10倍の値段の製品を凌駕するような「まさか」を見つける可能性はやはりぐっと下がってくる。(無いとは言わない)

そしてベースという商品は難しい。楽器としても難しい。
価格と性能が比例するということを書いておいて、また矛盾するようだけれど、ぶっちゃけベースの役割というものは、アンサンブルの中で必要な低音を供給することさえ出来れば、シンセベースのサイン波でも間に合ってしまうわけである。そしてそんなシンセベースの音が、高いエレクトリックベースに負けないくらい気持ちいい音になってしまうことさえある。
そんな低音の宿命に、正面から向き合い取り組むことは、とても難儀で、報われない仕事だ。

そしてエレクトリックベースというものはさらに難しく、その用途というか用法が限られている以上、定番の楽器というものも限られている。
それはつまり古くからあるFenderのジャズベースというものが、永遠の「正解」としてそこに存在するのである。誰がどうあがいても、文句を言っても、それが「正解」だったんだからしょうがない。それくらいの勢いだ。

あとは、プレベとか、StingRayとかあるくらいで、あとは特定のジャンル向け、特定の用法向けのニッチなもの(Thunderbirdやリッケンバッカーもここに入るだろう)、ないしはやたら高価で気持ち悪いくらいに木目が入った、弦のいっぱいついてるやつがあるくらいだ。それはまたそれで、別の世界な気がしてしまう。

ああそうね、Spectorとかそっち系もあるけれど、それもStingRayのとなりくらいに置いておいて間違いなさそうだ。つまりはちょっとモダンなベースの定番ということで。

このように「定番」の商品がマーケットに存在し、その周辺も固められている以上、それ以外のオリジナルモデルを作り、販売する、というのは、とても難しく、また勇気のいることだ。そんな気がする。だから、ベースに限らずギターもそうだけれど、IbanezやYamahaといった「日本の大手」が、オリジナルモデルのベースでそれなりに支持を得ているのは、実はとてつもなく凄いことだと言える。

で、つまりは結局、90年代にBacchusというブランドが始まって以来、こうして年月を経てみれば、いろいろなモデルがあったと思うのだけれど、生き残ったのは「定番」であるジャズベタイプのWoodlineだけだった、ということなのかもしれない。結局、ジャズベを作らないと売れない、ということなのだろうか。

で、Twenty Fourである。
まずはデザインがかっこいい。流線型で無駄のないボディシェイプは、24Fの機能性とルックスが同居した洗練されたものだ。国内の中堅メーカーにはよくある宿命で、Bacchus/Deviserさんもデザインや企画のセンスがわりとださいので、その中では奇跡的なくらいにセンスが良いデザインだと思う。

でも僕が思うにはそのデザインのセンスがださいというのも、Bacchusの良いところのひとつだと思うのだ。たとえばBacchusといえば初心者用の低価格モデルが充実しているし、実際初心者向けというイメージだけれど、初心者でも気後れせずに手に取れる親しみやすい(ださい)デザインの楽器で、低価格で、でもその実、楽器としては高性能というこの取り合わせは、日本の楽器プレイヤーの裾野を広げ、良いプレイヤーを育てる環境として、すごく良い方向に働くと思うのだ。

話をTwenty Fourに戻すが、そしてこの洗練された流線型のボディシェイプは、パワーとテクニックを兼ね備えたロックベースとしてのストレートなスタイルとして定番たり得ると、僕は思ったのだ。

けれども話はそれほど簡単ではなかった。
まず、Bacchusのベースは2013年?あたりにモデルチェンジをしており、それ以前のモデルはセパレートタイプのブリッジを採用している。モデルチェンジ後は、なんていうの、バダスダイプ?の普通のブリッジになったのだけれど、Bacchusの最上級ラインであるHandMadeシリーズの楽器は、そもそも生産数が少ない上に、その2012年までに作られたTwenty Fourベースは、このセパレートタイプのブリッジだ。だから中古で見つけることができるもののほとんどはこのタイプだと言っていい。

で、残念ながら、このセパレートブリッジのやつは、試してみたら、だめだった。楽器としては個性があってとても良いのだけれど、僕らが求めるものではなかった。ちょっとうちの用途だと、音がウォームすぎるというか、鈍すぎるのだ。

そして、現行モデル(もう生産中止だけど)の普通のブリッジのやつも、もちろん試してみたことがあるのだけれど、いまいちインパクトに欠ける。とても素直な音で、使いやすいのだけれど、何だろう。素直すぎて、用途がいまいちはっきりしないのだろうか。このあたりが、Bacchusベースのフラッグシップでありながら、Woodlineのように売れなかった(?)理由なのだろうか。

今回、このTwenty Fourが生産中止になってしまったけれども、あるいはその理由の一環かもしれないモデルとして見逃せないモデルが、僕も持っているCraft Seriesの廉価版であるTF-Ashだったと思う。Craft Seriesは、一応日本製のモデルであるが、たぶん木工とかの部分はGlobalシリーズと同様にフィリピン工場なんじゃないかと思われ、組み込みは日本の工場でやっているんじゃないかというモデルだ。

その廉価版であるTF-Ashは、ぶっちゃけ上位モデルのTwenty Four DXよりも、用途や使い道、サウンドの方向性がはっきりしていた。そして、値段もさらに安かった。俺がいくらでそれを入手したかは言うまい。けれども10万円よりもはるかに下だったことは断っておこう。
もちろん本質的な楽器の基本性能としてはHandMadeシリーズのTwenty Fourの方が上であったことだろう。だけれども、このCraft SeriesのTF-Ashも十分に性能は高く、用途がはっきりしているぶん、むしろTwenty Fourよりも「使える」楽器になってしまっていたのではないだろうか。

ボディは重いタイプのアッシュなので、ちょっと重いんだけれど、これがアッシュのベースだぜ、といわんばかりの、上から下まで隙間のない、ズドン!という重低音。かといってレンジの広い、ガラスのようなきめこまかい高音。そしてそれを素直に出力するAguilarのプリアンプ。そう、ストレートなロックとか、ヘヴィな音楽やるんだったら、こっちの方がいいんだよね。

TF-Ashはそういう意味で、大穴であり、Bacchusさんが「ついうっかり作ってしまった」名器であると思います。これも既に生産中止だけれども、市場にはまだそれなりに残っているから、しかもすでに大部分はバーゲン価格になっている頃だから、必要な人は、今のうちに手に入れておいた方がいい。値段の2倍か3倍の働きはきっとしてくれる。

そんなTF-Ashの意外な大穴っぷりが、共食い現象として、上位モデルのTwenty Four DXの売り上げにも響いてしまったのかもしれない。(あくまで想像)
そんな微妙な立ち位置に立たされてしまったTwenty Four。
そして昨年くらいから既に、次第に店頭やネットでも見かけなくなり、ついにはメーカーのホームページからも姿を消してしまった。

俺が思うに、Bacchusの国内の最上級モデルであるHandMadeシリーズ。
その、ギターでいえば、Duke Standardであるとか、これも既に生産中止だけれどClassic SeriesのHシリアルのレスポール。
これらのモデルは、レスポールというカテゴリに於いては、値段が5倍くらいする本家をしのぐくらいのクオリティであり、世界でもトップレベルにあると言っていいものだと思う。

だけれども、こと、このベースというカテゴリにおいては、用途も限られ、より値段に性能が比例してしまうベースという楽器においては、Bacchusさんの技術力をもってしても、ミラクルは難しいのだろうか。

いったいベースとは何なのだろう。
ベースの役割とは何なのだろう。
そしてベースという楽器に、何をどこまで期待していいのだろう。

先だって、4月の終わりだっただろうか、僕はベースについていろいろと考える中で、うちのバンドのはっしーと一緒に、都内のイケベさんをはしごして、Bacchusのベースをはっしーに弾いてもらい、いろいろ実践チェックをしてみた。
そこでGlobal Seriesフィリピン製のちょっと変わったモデルに目をつけていたのだけれど、結果は芳しくなかった。そこで、僕がベースを弾くときと、はっしーがベースを弾くときのタッチや鳴らし方の違いというものに気付いたのだった。俺が弾くと良い感じになるベースもあれば、その逆にはっしーが弾くとちょうどよくなるものもある。タッチの違いもあれば、体格の違いもある。どんな楽器であれ僕は「鳴らす」才能と能力は人一倍にあるつもりだ。その一方で小柄な僕にくらべるとはっしーは骨格の部分でベーシストとして有利なのは間違いない。指ひとつとってもはっしーの方が当然に太いわけで。

そして、やはりはっしーのタッチとサウンドには、Midレンジも含めた3バンドのEQが必要なのだということを改めて認識したのだった。(俺もはっしーも、どちらかといえばアクティヴベース派であります)
その時のテストではWoodlineこそ合わなかったものの、逆にはっしーは4、5万円程度のGlobal Seriesのベースを高く評価していた。そして既にイケベさんの店頭には僕が理想として考えるTwenty Fourは無かったし、都内の楽器屋を探しても既にほとんど見つからない状態なのは知っていた。

Twenty Fourを、俺がいいと思うのは、はっしーが長年愛用しているLakland USAのモデルによく似ているからという理由もある。
現代的で洗練されたボディシェイプもそうだし、アクティヴ回路や、ハムバッカーを採用したピックアップのコンフィギュレーションも似ている。
結局のところはっしーはこのLakland USA(値段とても高い。とてもとても高い。)を使い、それでこれまでずっとImari Tonesのサウンドを支えてきた。そして、長年使い込んだはっしーのLaklandは素晴らしい鳴りをするようになっており、別にこれがあれば60年代のヴィンテージFenderとか買う必要はぜんぜんないと俺は思っているくらいである。

だけれども、Bacchus/Deviserさんとこの楽器、そして「猫ポール」と出会って音の価値観をくつがえされて以来、僕はさらに上を求めるようになった。

そして、これから僕たちが挑む「鍋島」の境地。

ここに挑戦するためには、「それ」が必要なことは予感していた。
そして「鍋島」の青写真が出来上がった今、あくまで日本製の、本来の意味で日本製の楽器だと言える、そんなBacchus/Deviserさんとこのベースが必要なことが、はっきりとわかってきた。

だからこそこれまでリサーチを重ねてきたのである。

しかし既にTwenty Fourは生産中止。

レギュラーモデル、現行の普通のブリッジのTwenty Fourモデル。ボディはライトアッシュだが、それを弾いてみたとき、非常に良い楽器だったのだけれど、今、僕らが「鍋島」に必要としているものは、それよりもさらに踏み込んだものではないだろうか。

つまり、ライトアッシュはレンジの広い音を出すものの、音が素直に、透明にすぎる。テクニカルなフュージョンとか、質の高いポップスをやるのにはいいかもしれない。だけれども、僕らが「鍋島」に必要とするのは、それではないかもしれない。

はっしーの愛用するLakland USAがそうであるように、アッシュの上にトップ材として何かを貼れば、果たしてどうだろう。はっしーのLaklandにはトップ材にキルトメイプルが貼ってある。それがミッドレンジを担保し、音の上ではミッドの色気を加え、またアッシュを鳴らすのが比較的苦手な彼のピッキングに、トップのメイプル材が反応してバランスが取れるのである。

そうしたトップ材によって、無色透明なライトアッシュのサウンドに、色気を加えることができるだろうか。
エレクトリックギターの究極であるレスポールと同じように、ベースにおいても、色気とレンジの両立はやはりボディのバック材とトップ材との組み合わせによって達成されるのだろうか。

僕が思うところのBacchusの理想のベースはTwenty Four。
確かにTwenty Fourはどうやら昨年をもって生産中止になっているようだ。
けれども、Bacchusさんは、カタログにも、ホームページにすら載っていないスペシャルモデルや、ショップオリジナルモデルを、案外こっそりといろいろ作っているメーカーでもある。そのあたりは、いろいろウォッチングしていく中で気付いている。であるから、可能性はあるのである。そして、最終的に奥の手としては長野県松本市まで行ってカスタムお願いして作ってもらえばいい、というオチもある。

タネ明かしをしてしまえば、「鍋島」は和風のハードロックである。それはつまり、日本人がLed Zeppelinを鳴らすのであればどうすればいいのか、という、昔から日本人のロッカーたちが何度も挑戦し続けてきた命題への、僕なりの回答でもある。

何かそういった和風のニュアンスや色気を持ったサウンドで、Twenty Fourのパワーとスタイル、そしてとても数字では測ることのできない期待以上の「霊的な」クオリティを持ったBacchusさんのベース。

果たしてそのようなものが存在するだろうか。
そんな「まさか」のベースはあるのだろうか。
存在したとして、果たしてうちのはっしー先生がそれを使いこなせるだろうか。

僕らはこの「鍋島」の戦いに挑むことができるだろうか。

続く。

No(4543)

■…2015年 6月29日 (Tue)…….本当のblasphemy
Religious Freedomについて書きたい。
なんだろう、信教の自由、っていうのともちょっと違う。
こんな言葉を書くと、また英語をしゃべる人たちとかアメリカの子たちが意味もわからずに「いいね」をつけたりするに違いない。思わせぶりな単語を書くからいけないのだが、そうはいっても僕はReligious Freedomについて書きたいんだからしょうがない。

人は、人生は性急な決断をするものではないし、特に大きな物事を決めるときは、急いではいけない。
そういう訳ではないけれど、後になってわかることというものは人生の中で確かにある。
振り返って、たとえばここ2、3年、3、4年を振り返ってみるに、「こうしておいてよかった」と思うことが、ひとつふたつ、ふたつみっつ、ある。

たとえば、ちょいと何年か前、僕らのバンドの活動のタイミングとして、「おいおいちょっとこれから弁護士に声かけてビザでもとってアメリカでどかんとやるか」みたいなタイミングがあった。そんな大袈裟なものじゃないが、ちょっとだけあるにはあった。
なにも不思議なことではない。僕らは世界を虎視眈々と狙う世にも珍しい日本のクリスチャンヘヴィメタルバンドだ。ピザだろうがビザだろうが、つながりを生かせばひとつやふたつ取れないとは言いきれないのだ。

けれども、バンド会議をしてみるに、しょせん僕らはまだまだ無名のインディーバンドである。そして、みんなそこまでのタイミングを見切る度胸もなかったし、成功に向けてがむしゃらにやるような根性もないし、なによりたぶん「めんどくさい」が先に立った。
僕らが弱小バンドであることももちろんだが、アメリカだろうとどこだろうと昨今の音楽業界に景気のいい話などなにもない。これでも数年のうちに僕らも幾人かの「重要人物」と言える人たちに会ったりはしたのだ。だが彼らの口からは景気の悪い話しか聞かれなかった。明るい見通し、などというものは、そもそも存在しないのだ。もちろん僕らの修行が足りないせいもあるだろうが、けれどもしかし、アメリカでそれが起きないのであれば、どこへいっても起きないのだ。

だが、本当にそうだろうか。
クリスチャンアーティストが目指すべきは、ナッシュビルだけだろうか。
俳優が目指すべきは、ハリウッドだけだろうか。
そしてサッカー選手が目指すのは、ワールドカップだけだろうか。

ともあれ、僕らはそういう人生の貴重なタイミングを、なんとなく普通にスルーして、「自分たちの下着の中で」次のことに取り掛かった。(そして、それらは実のところ、とても実りの多いものになっている。)

上を目指す人や、夢を追う人、成功を目指す人たちにしてみれば、
そうしたチャンスやタイミングを「めんどくさいから」でスルーするのは、
ほとんど論外であろうことよ。
(そもそも僕らは成功にも興味なければ、ましてや夢なんか追っているわけではないのだからして)

けれども、こうして数年が経過し、いろいろな物事が、また見えてくると、
ああ、あのとき、こうしてよかった、
正確にはこの場合は、あのとき、しなくてよかった、だけれども、

性急にそんなことをしなくてよかったと、
なんとなく心の底で思うことが多くなってきた。

これは僕の口癖なのだが、
けれども人前というか、家の外でこれを発言したことはあまりないかもしれないが、
僕はクリスチャン、つまりキリスト教徒だが、
もしキリスト教(Christianity)というものが、
アメリカ人が言うようなものであれば、
つまりアメリカ人たちが言うキリスト教が、本当にキリスト教だ、っつーのなら、
僕はそもそもクリスチャンにはならなかった。

つまりはSo Called Christiansというやつだ。
きっとみんなも同意してくれることと思う。

ここで問題があり、ようやく本題に入れるのだが、
であれば、僕はいったい、自分の信じる神を信仰するために、
いったいどこに行けばいいというのだろう。

みんな、Religious Freedomだのなんだの言うけれど、
俺の信仰はどうしてくれる。
俺の信じているイエス・キリストを、どこに行けば礼拝できるのだ。
どこにいって、だれの話をきけば、俺の信じるイエス・キリストに会うことができるのだ。

ここで、俺は自分自身の信仰の自由、
そして信仰の権利ということについて考えるのだ。

どこへいったら俺の信仰の自由は保証されるのだろうか、と。

もちろん答なんかとっくにわかっている。
クリスチャンになる時から、もっと言えばなる前からわかっている。
そうでなければそもそもわざわざクリスチャンなんかになったりしない。

ではお前は何のために、何がしたくて、キリスト教徒になって酔狂にもクリスチャンロックなぞを演奏しようと思ったのか。

キリスト教って素晴らしい、って思ったからじゃない。
ましてや、アメリカ人たちの言うところの信仰に感銘を受けたからでもない。
その答はこんなところに書くべきようなものではないけれど、
あえて例えて言うならば、やっぱりそれは「武士道」であろうのことよ。そうあるよ。そうあるね。あるある。

君らは本当に十字架を信じているのか。
そもそも十字架の意味をわかっているのか。

それらの人々にもいっぺん問うてみたい。
あなたは自分が罪人であることを信じますか、と。
そして、イエスキリストがあなたの罪をぬぐうために十字架にかかったことを信じますか、と。
イエスキリストによって永遠の命が得られたことを信じますかと。

クリスチャンとしていちばんいけないことってのは、
それはたぶん十字架を否定することだ。
神の愛を否定することだ。
神の許しと救済を否定することだ。
それは悪魔ちゃんのやることだからだ。

今、僕らは21世紀のこの時代に生き、
それぞれが、見たいものを見て、自分が欲する世界に、自分が望む世界に生きている。
見たくないものは見なくてすむし、見たいものはなんでも見れる。
音楽でいえば、BandCampやSoundCloudでばりばりの最先端のインディロックを聴くこともできるけれど、
テレビでジャニーズが歌っている世界にずっと住んでいたいと思う人は、いまだにそのままだ。

神も同じだ。
あなたが望んだ世界そのものが。
あなたが欲した神が、あなたにそのまま与えられる。
見たくないものは、見えない。
それくらい神さんは容赦ない。

裁くでない、なぜなら自分自身が裁かれるからだ、
というのは、そういうことだ。

神を額縁に入れて矮小化してしまうやつら。

どれだけ恐ろしいことをしているのか、
それがどれだけ霊的に恐ろしいblasphemy(冒涜)なのか、
きっと皆、わかっていないに違いない。
わかってたら出来ないはずだ。

なんにせよ、
神は生きている、と口で言いながら、
しっかり神を死人扱いする人たちを、
俺は決して許しはしない。

神さんに許してもらってくれ。

そう、だから俺はこんなに気色ばんでいるんだな。
神に対しての霊的な認識とかセルフ霊的なんちゃらの無知とか不認識とblasphemyってことに対して。
それ、たぶんよっぽどかすげー罪だから。
本当のblasphemyとは何なのか。

では、俺の音楽的な自由は、
そして、俺の信仰の自由は、
どこへ行ったら手に入る。

よくよく、忘れずに考えてみたい。

どちらにせよ、僕は自分の信仰というものを、しっかりと追い、そしてつかみたいのだ。
It’s all between me and God.
あるのは神さんとの約束だけだ。

がんばって走り抜く。

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