2015年9月の日記

■…2015年 9月 4日 (Sat)…….歌詞と預言
いつも長々とひとりごとのように文章を書いて、自分の頭の中を整理するのが習慣だったけれども、最近あまり書けていない。
書きたいことはいくつもいくつもあって、メモ書きにたまっている。
それはそれで、いろいろなことや、いろいろな創造的な作業でもって忙しいからなのだけれども、
やっぱり思考を書き留めておくことをある程度、定期的にしないと自分としてはやばい。

果たして自分の中で、自分にとって何度これでもう今までに「世界が終わった」のか。
とうに生きているだけで、まだ生きているのがおかしい、と思うくらいだけれども。
けれども、音楽を通じて神さんに近づき、ちょいとでも音による「預言」っていうやつを、それを解読したり、そもそも興味を持つ人間が、いるかどうかは知らんけど、
ちょいとでも預言をもらう立場になったら、最低限、できればそれをきちんと音の記録としてしたためてから、世間にきちんと放ってから、死にたいものだ。
がんばる。苦しいけど(笑)

そうね、その、ちょいとした「預言」たるところの、
「日本の歴史をテーマにしたコンセプトアルバム」である、
“Jesus Wind”(仮)の歌詞が出来上がったのですね、先日。先週か。

もっとかかると思ったんだけれども、
音楽というか曲の方は、2013年の年末から2014年の正月にかけて、ぱぱっと書けてしまったんで、
そしてメッセージはすべて音の中に入っているのだけれども、
過去、現在、未来というその物語の中で、
いったいどういう結末を迎えるのだろう、というのがその時点で見えず、
その答は、バンドで楽曲に取り組みながら、時代を生きていく中で、
ちょっとずつ見えてきた。

当初は、これは最後には国、ないしは世界が滅ぶのかな、と思っていたんだけれど、
まあそのへんは、希望的観測みたいにして無理矢理ハッピーエンドにしたきらいもあるけれど、
やっていくうちに、ああこれは、滅亡するんじゃなくて、
次へ行くんだなということがわかってきた。
そして、つまりそれはレボリューション。

で、そうこれは日本の歴史、
クリスチャン的な視点から見た日本の歴史のコンセプトアルバム、
であり、
たとえばそのテーマ的には、歴史の中で日本にずっと吹いていた「ジーザスの風」、
それは、イザヤ書の65章の冒頭に、「わたしはわたしを尋ね求めなかった者にも見出される者となり、わが名を呼ばない民に向かって、わたしはここにいる、と言い続けた」みたいなことが書いてあるような、そのテーマ。

けれどその裏のテーマというか本当のテーマは、「革命」であり、
とりもなおさずそれは「霊」の革命だ。スピリットってことの。

で、おおまかなストーリーはわかってはいたものの、
これに歌詞を書くの、時間かかるだろうな、めんどいな、って。
聖書も読み込まなきゃいけないし、って。
けれども、最近、バイトの休み時間とかにアイポンで聖書読んだりできたし、
聖書の中でも、いわゆる「預言書」の部分ってわりと限られてる。
今回は、やっぱりイザヤ書をとにかく読み込んだ。
もちろんエレミヤとか、福音書の中の預言とか、そんでもちろん黙示録からもいろいろ引用してる。

前半は、日本固有のストーリーということで、わりと自由に歌詞を書けたものの、
後半になると、いよいよ物語のクライマックスは、どうしても聖書の預言に帰結せざるを得ず、結果的に、今まででいちばん、これでもかってくらい、聖書を引用しまくった歌詞になった。

まあ前半だとたとえば「Bushido」の歌詞を書くために新渡戸稲造読んだりとかね。

で、思ったのは、うわ、聖書の預言ってやっぱり今も生きているんだな、つまりは今も現在進行形で進行中なんだな、ってこと。
とかくイザヤ書のそのスケールにはちょいとびびった。
どんだけ長いスパンで預言しとんねん、こいつ、って。

まあともあれ、バンドでリハーサルしつつ、ちょっとずつ音の意味を言葉に変換して、しかも、うちは今のところ英語で歌ってるからね、英語でやるのがまた面倒で。
年内に書ければいいかな、って思ってたところで夏の間に書くことができた。つまりは8月の間に。インスピレーションがあるうちに一気に書いちゃった。でも歌メロはまだ固まってないから、それはリハーサルしながらやっていくんだけどね。

思えば、昨年の8月も、たとえばスケートボードで、予想外にトレフリップが初めて成功したり、ついでにまったく予想外にいきなりオーリーインポッシブルが予定よりやたら早く成功してしまったりとか、そういう感じだったから、ここ数年couple of years、8月は調子のいい時期なのかもしれない。暑いだけども言うが。そういえば今年はCalling Recordsのライヴでも良い演奏が出来たしね。

で、とにかく、ストーリーを自分でも追えないくらいの、
いったい、この「預言」のストーリーは、どういう結末に向かって行くのか、
ドキドキしながら書いていたものの、
音の紡ぐストーリーが、聖書の預言と、また僕らの現実と、ぴたりと符号して、霊的な革命、刷新の世界へとつながっていく様子は、自分でも書きながら、鳥肌が立つような感動を味わう経験でした。

歌詞は、ウェブサイトに早々と載せちゃっているので、いつもの簡略なテキストファイルの形式で。
で、英語の歌詞だけでなく、その日本語の翻訳も、早々と載せちゃった。

録音して発表するまでは、音と一緒になるまでは、これはただの言葉だけれども、記録として。

こちら

よければご覧になってください、つっても、
背景となるコンセプトストーリーとか、音とか、説明なしに、
これだけ読んでも、きっと意味がわからないと思うけれども。
逆にいろいろ誤解しそうだし。

これは僕の、いち音楽家、ちょっとでも神の霊感に触れる音楽家としての、自分なりの預言書であると同時に、
そしてこれが霊的な革命についてのレコードである以上、
あるいは今まででいちばん「政治的」な色を持つレコードかもしれない。

けれども、断っておきたいのは、あくまでこれは「霊」の話だということだ。

もうすでにライヴでも演奏しているけれど、たとえば冒頭を飾る「Jee-You」は革命の歌だ。
反戦歌だ、って言ってるけれども、反戦歌にもかかわらず、「自由のために戦え」という曲でもある。
だからそれは革命しか無いんだけれども、それは武器を取って戦う革命ではなくて、人の心の中で起きるべき、霊の革命についての曲なんだ。つって、そんなの、別段とりたてて、珍しくもない、常識、というか、それが常識であるべきだし、常識になることがすなわち革命。

これはあくまで誤解が無いように書く補足に過ぎないけれど、
現実に目をやれば。

僕は世の中のあれこれについて見るときに、
あるいはまた政治であれ国際情勢であれ、世相であれ、宗教的なことであれ、
なるべくチェスタトン的な逆説ということを考えるようにしている。
あるいはできてないかもしれないが。

つまりは、現代の世界は複雑だけれども、
特に現代日本というのはとても複雑な成り行きの、複雑な歴史の、複雑な事情の上に存在している国だ。

だから、何が単純に右だとか、単純に左だとか、言えやしない。
そして、どちらかというと、それは右と左が逆になっていたりするんじゃないかとも思う。

この国のいろんなことがちぐはぐで、現状に合わないのは、いろんなことが逆になっているからであり、あるいはそれを正す時期が、そろそろ来ているのかもしれないが、

たとえば現状、世の中を騒がしている安保法案とか、僕は個人としては反対の立場を取っているけれども、
世の中と日本の現状はそんなに単純でないことも少しは承知はしている。

俺としては正直なところ、こういう法案が通るとか通らないとかは、正直、ちっちゃいことだと思う。
もっと大きなこと、もっと大事なことは別にあるし、別にある。

つまりは、どんな立場を取るにせよ、戦う相手を間違えるなってこと。
君は何のために、誰のために戦っているのか。
そして、いったい何と戦っているのか。

世の中の今の流れとして、
こういう法案を通そうという人たちが居て、
また、それに反対して行動を起こす市民たちが居るというのは、
その全体の流れとして、しかるべき歴史の流れだと思っている。

だから僕はそういう世の中の流れに対しては悲観はしていない。

右だか左だか逆かもしれず、単純に言えない、というのは、
たとえば、じゃあ、国会前とかでデモ行動している人たちがいるとして、
彼らが本当に勝利してしまったら、
もし「彼ら」が本当に勝利してしまったのなら、
結局は日本は「軍隊」を持たざるを得なくなる。

だってそれは、某国の言いなりにならない、ということだろうから。

そういう向かうべき本質に、みんな気付いた上で行動していると思っているのだが。

でも、それで、しかるべき姿になるんであれば、
それでいいんじゃないか。

本当の意味で、平和国家になることが、
あるいはこの国には、まだできるかもしれない、と僕はそう思う。
希望的観測に、自分の国として、ひいきめに見てそう思う。
そして、世界に向かい「本当の真(まこと)」を語ることができる国と、国家と、人々になっていければ。

まあ現状は、もう少しなあなあに、少しずつソフトランディングしていくのが、世界のどの国にとっても良いと思うのだけれど、
そしてきっとそういうふうに、空騒ぎしながら人知れずソフトランディングしていくと思うのだけれど、
でもそういう形のない革命は、ちょっと21世紀っぽいと俺は思う。

本当の意味での自尊心とか、愛国心とか、国家の自立とか、
そういうのは、革命にしたって、歴史上の市民革命にしたって、
押し付けられて起きたものじゃない。

自立、そしてプライド、なんというか、そう、自由に向かっていくその力は、
やはりただ、ひたすらに、情熱と、喜び。
そう、情熱の中にこそあると思うのだよ。

だからこそ黙っていることこそが問題で、
行動を起こし声を上げることは、いつだってどうやったってそこへつながっていく。

今の日本の、複雑で、いろいろと「仮」っぽい20世紀からの体制っていうのは、
そんな事情があるからこそ、
右が左で、左が右だ。
そこをうまいこと、世界まるごと、正しい方向に進んでいけるのか、
それは、神さんの導きがないとやってられない。

国の行く末、国家の行く末、民族の行く末、
それは、制度がどうだろうと、政治がどうだろうと、
そして世界を支配しているのが誰であろうと、
結局のところ、民衆の魂こそが選択すると思う。

そして、そうあるべきために、僕はこの「Jesus Wind」を書き、
そして、未来の日本と、新しい日本の国家の形と、そして新しい地球世界のために、
俺は「鍋島」を作り上げる。

そこまで生きていられたらの話。

難しいんだよ、鍋島。
Jesus Windの録音が来年として、
鍋島をきちんと鳴らして、作り上げるのは、いつになるのか。

鍋島をきちんと鳴らし切ったら、
いくらなんでも俺はもうバンドを止めるって言っていいと思う。
「もう俺はやめるよ」って世間に向かって、神様に向かって言う権利が、やっとそのときは、あると思う。

ともあれ。
世界の現実は醜い。Uglyだ。
誰が世界を仕切ってるのか知らん。
金で仕切ってるのか、軍隊で仕切ってるのか、テクノロジーで仕切ってるのか知らん。

けれども、どんな時代であれ、支配者というのは哀れなものだということに変わりはない。
支配者とはすなわち奴隷であり、主人公はいつだって民衆だからだ。

神の霊の力を取り戻した時、どんな武器であれ軍事力であれそれは無力だと思う。

聖書にそう書いてあったか。
うーん、あったような気がする。
俺は、そういうの、わりと信じちゃうタチで(笑)

「国が国に向かって剣を上げることはもうない。
ヤコブの家よ、光の中を進もう。」

つって。

旧きものは、すべて過ぎ去ったのだから。

俺にとっては、とっくにそんな感じ。

No(4573)

■…2015年 9月11日 (Sat)
俺は政治っていうのはつまるところ下水道屋さんのことだと思っている。もちろん下水道屋さんの仕事は尊い。けれども、下水道屋が市民を騙したり、脅すようになったらおしまいだ。俺は現在の地球の政治の問題のおおもとはここにあると思う。

で、この文章を裏っ返すとわかるように、政治とヤクザ(暴力団、マフィアなど)はやっぱりすごく近い。
そういう仕事の人にこそ矜持ってものが本来きっと必要だ。

No(4574)

■…2015年 9月13日 (Mon)…….下水道屋さんの歌
というわけで勢いで書いてしまった歌詞。メモ。
ブルーズ弾き語りに便利かなって。

“下水道屋さん”

下水道屋さん 下水道屋さん
世の中の汚いものを処理するぜ
下水道屋さん 下水道屋さん
世の中の汚いものを受け持つぜ

誰も見たがらない 誰も考えたがらない
みんなの汚い現実を 処理するのが俺の役目

下水道屋さん 下水道屋さん
汚い仕事さ
下水道屋さん 下水道屋さん
みんなが避けて通るぜ

そんなきつい仕事だから 誰も見向きもしないから
誇りを持って生きるのさ プライドを持って働くのさ

だって俺たちがいなけりゃ
みんなの汚い現実が
街にあふれ出してしまうぜ
そんなことはさせないぜ

下水道屋さん 下水道屋さん
汚いものの面倒を見るぜ
下水道屋さん 下水道屋さん
世の中の汚いものを仕切るぜ

誰も見たがらない 誰も知りたがらない
そんな現実を知る俺らは いつしか汚くなったのさ

下水道屋さん 下水道屋さん
世の中はしょせん汚いものさ
下水道屋さん 下水道屋さん
みんなが俺たちに頭を下げるぜ

そんな大事な仕事なのに 誰も見向きもしないから
いつしか誇りを忘れて 好き勝手やり始めたのさ

だって俺たちが望めば
みんなの汚い現実が
町に溢れだすんだぜ
誰も文句は言えないぜ

みんなが俺たちの言いなりさ
みんなが俺たちを信じるぜ
町を支配するのは俺たちさ
俺たちこそが正義なのさ

「俺たちが汚いものを処理してやってるんだよ だからお前らは黙ってろ」

下水道屋に敬礼
下水道屋に敬礼
下水道屋に敬礼
誇りを忘れた下水道屋さんに敬礼!

No(4575)

■…2015年 9月13日 (Mon)…….困ってしまう歌、
これは確か7月にFBにポストしたら妙に好評だったやつ、も、
ブルーズ弾き語り用に便利かなと思ったので、
もうちょっと歌詞っぽくしたやつ
いや、ぜんぜんまとまってないけれど

“困ってしまう歌”

君は、世の中が平和になったら何か困るのか?
俺は世界中が平和になったって別に困らない
でも世界中が平和になってしまったら困るっていう人はたくさんいる
それは別にテロリストの組織や、軍事産業のオーナーに限った話じゃない
世の中に悪役が居てくれないと都合が悪いのは、何も正義の味方に限った話じゃないのだから

君は、世の中の人々の病気が治ったら何か困るのか?
俺は世界中から病気がなくなったって別に困らない
でも世界中の人々が健康になってしまったら困るっていう人はたくさんいる
それは別にお医者さんや、製薬会社の社長さんに限った話じゃない
人が幸せになるために誰かの書いた診断書など必要ないことを、認めてしまったら都合が悪いのは、何も薄命の美少女に限った話じゃないのだから

君は、世の中が思いやりにあふれた良い人ばかりになったら何か困るのか?
俺は・・・どうかな、ちょっと困るかもしれないな(笑)
でも世の中に悪人やろくでなしがいてくれないと困るという人はたくさんいる
でも俺は、自分が良い人間であることとか、自分が誰かより優れているということを、証明する必要はないんだ
だから、世の中がすべて良い人ばかりになって、俺一人だけがろくでなしになっても、別に構いやしない

君は、世の中の人々がみんな賢くなったら何か困るのか?
君は、世の中が思慮に満ちた賢人ばかりになったら何か困るのか?
俺は・・・まあちょっと困るけど、別に構わない
でも世の中が依頼心や猜疑心に満ちた弱い人間ばかりでないと困るという人はたくさんいる
それは別に、大企業やマスコミや、政治家や独裁者に限った話じゃない
誰だって、批判されたり、大勢から取り残されるのは怖いものだから

そして君は世の中が勇気ある人々ばかりになったら何か困るのか。
俺は別に、世の中の人が聡明になり、また勇気を持った人間ばかりになり、
自分だけが浅はかな単細胞で、いちばんの意気地なしになっても、一向に構わない。

俺は、世界中の人々が幸せになったって別に構わないぜ
俺は、世界中の人々がみんな幸せになったって一向に構わないぜ
でもこの世の中には、みんなが幸せになったら困る、っていう人たちもたくさんいる
この世界が幸せにあふれ、世界中の人々がみんな平和で、愛する人と過ごし、夢をかなえ、素晴らしい人生を送ってしまったら、そんなふうになってもらっては困る、っていう人はたくさんいる
君はどうだい

俺は別に、世界中が幸せな人々であふれても、一向に構わない。
俺は別に、世界中が幸せな人々であふれても、一向に構わない。
そんなふうになったらいいなと、日々考えている。

No(4576)

■…2015年 9月21日 (Tue)…….走り書き国家
さて本日より「松原湖バイブレーションジャム」に出かけますが、僕らImari Tones含め、バンドが演奏するのは明日9月22日ということです。
出かける準備を昨日よりしていますが、いろいろの無理なスケジュールがたたったのか昨日よりひどく体調が悪い状態。
なんか霊的な意味で背負い過ぎかなとも思います。
でも暗黙の了解なんだろうけれど原発の件以来、この国に生活していていつ体調がどうなってもおかしくないわけだからねえ。

今僕の人生の目標は「鍋島」を完成させることだけれども、
鍋島は無理としても、その一個前の”Jesus Wind”に関しては、デモはしっかり作ってあるし、歌詞もメロディもほぼ出来ているので、もし僕がうっかり死んでしまっても、友人のシンガーに誰か歌ってもらえれば、形としては完成させることができるわけで、そうなったら周囲の友人たちにお願いしたい(笑) なぜってあれは預言書なわけだからね。形だけでも伝わればいいわけだから。デモのギタートラックだって本番テイクとして使えるくらいに本気で弾いてはいるからね。単にパソコンにつないで録った音ってだけで。ああそうか、そのギターにしたって、パソコンに入ってる音をリアンプしてもらえればもっとリアルになるわけか(笑) じゃあ俺が死んでも完成するじゃん(笑)

例の法案の件で最近この国は揺れに揺れていたわけで、僕もそれをまあ当然ながらこの国に住んでいるのでfirst handで多少目撃はしたわけなんだけれども、
この国って歴史上すごく事情が複雑だから、ああだこうだ単純に言えないんだけれども、
僕がこの国の現状を昔っから肯定できないのはそもそも現代日本に本当の保守なんて存在しなかったってところからで。
国会とか見ていても昔っからちっとも変わっておらず、
与党の皆さんもいろいろとひどいけれど、
野党の皆さんのどうしようもなく情けないことといったら本当にびっくりだ。
ああいう重要な場面において、やれることが牛歩とか、何の権限も持たない市民のデモの皆さんに頼ることとか、そういうことだけしかやれんのかという。まあデモの皆さんを見ていると心情的にはけっこうぐっとくる牛歩ではあったかもしれんが、いやしくも政治のプロがそれじゃいかんわけで。どんだけ幼稚なままごとに終始しているんですかという。
日本の右側はひどいが、左側はもっとひどいという僕の持論であるけれど。
だからそもそも日本には本当の保守も本当のリベラルも存在しないんだよな。少なくとも政治のシステムの中には。

だから本当の保守を打ち出せる人が居てくれればと思うが、それを言ってしまったら、それをやってしまったら本当にえらいことをやらんといかんので、それは時を待ちたいというか、
そもそもこの国の政治とか民主主義とかそういうものがちゃんと機能してるんだったら、僕は最初っから音楽なんてやる必要なくて、もっとちゃんとした大人になれていたわけだし。
だから世界の21世紀的なパラダイムシフトをいろんなことをソフトランディングしてもらいつつ、
そもそもこの21世紀のインターネット社会の新しい政治にせよ音楽にせよ、もうシステムや制度で収まる範囲には無いのだから、既存のシステムの外の部分でどんどんと革命を進めていけばいいのだと思う。

どちらにしても僕も何度か自分の目で見物はしてきたけれど、国会の外に集まっていた市民の人たちの姿は決して悪い光景ではなかった。いろいろなことを言う人たちがいていろいろな意見があるだろうけれど、声をあげることが罪であるのならその社会は既に死んでいるし、そもそもが現代社会のシステム自体がとっくに死んで久しいのだし。俺は法案が成立したその夜、あの場所に集まった人々の上に勝利があったか敗北があったかと言えば、俺はやっぱり勝利がそこにあっただろうとそう思う。生きてて良かったとちょっと思ったよ。新しい時代への革命を起こして、本当の意味での平和国家を作ることができるとすれば、それは世界の中でただひとつ、ここ日本でのみ可能なのかもしれないと思うことができたからね。
なんとなくね、マイケル・シェンカーのギターリフが聞こえてくるような気分だよね。

いずれにしても、どうやら今回の国会の審議の景色はとてもugly(醜い)ものだったようで、この現代の日本という国が、よく言われるように、格好つけていても、一皮むけば民主主義でも先進国家でもなんでもなく、独立国家なのかどうかも怪しいという、そういう現状がまた見えてきてしまったということなのだとは思う。

政治家さんたちが「これは世界の平和に貢献するためだ」と言うのなら、うんそうであってくれたらいいなと思うし、そうであってほしいところだけれども、政治を信じられたことなんてただの一度も無かったからね、僕らの短い人生の中でさえ。

平和であってほしいと思うけれども、でもこれはまだ始まったばかりなのだし、新しい時代の「戦い」はまだこれから始まったばかりなのだし、本当の意味でもっとのっぴきならない所で戦わなくていけない場面が、これから来るのかもしれない。その時にどうするのか、ということを、何年か前からいつも考えるようになったよね。

本当の意味での保守、本当の意味での日本を定義し、打ち出さなくては、それこそ「取り戻さなくては」(笑)ならないけれど、
僕にやれることは音を鳴らすことくらいだし、でも霊のみならず根源の意味で、命が音から生まれ、国が言葉と音によって作り出されることを一度ならず目撃したことのある人間としては。「このレイヤーまでさかのぼらないとだめだな」と思ったからこそ僕は音とか芸術とかそういうことに向きあうことにしたわけで。まあそれは絶望からくる世捨て人ってことなんだけれども。

で、僕らは今度”Revive The World”っていう作品をリリースするけれども、その次に作る”Jesus Wind”は日本の歴史をテーマにしたコンセプトアルバムで、それは預言書でもあるんだけれども、それによって歴史を描いて(ざっくりだけど)、革命を描いたのであれば、その次は国の新しい形を語らなくてはいけない。
それが、その次に予定している自分たちのたどり着いた究極の音である「鍋島」なわけなんだけれど。

さあそこまで生きていられるかな。
だから俺が今したいことは、国、作りたいんだよね(笑)
今の国の現状に不満だったら、新しく国、作っちゃえばいいじゃん、って。
新しい、本当の意味での日本の姿を。

どっちにしてもさ、空しい時代に育ったロスジェネ世代のはしくれとしては、
自分たちを育ててくれた近代、現代日本の平和に感謝こそすれ、
それが決して本当の意味での平和ではなかったことも感覚的に理解しているわけで、
たとえば憲法の9条とかすげえなとか思うけれども、
それが仮のものであったとするなら、
そこからステップアップして、今度は本当の意味で平和国家をこの世界の中で作っていけるように、自分たちの手でもぎとったらいいと思うよね。
本当の国の形とか、本当の平和の形を。

No(4577)

■…2015年 9月21日 (Tue)…….まさかベース
話はそれたけれども、最近バンドでリハーサルを繰り返す中で。
まあうちのバンドも年々、いい感じにはなってきているんだけれども、社会的とか人気とか知名度とかじゃなくて(涙)、音の話なんだけれども。あとはチームワーク的なことも。
そうね楽器トークの続きで、ベースということについて。ディバイザーさんとこの、Bacchus(バッカス)のベースについて以前書いたときに、ギターでは「まさか」の奇跡を起こせても、ベースという楽器はその性質上、安い値段で「まさか」を起こすのは難しいのかな、とか書いたことがあるんで、その続きだけれども。
訂正。「まさか」、やっぱりありました(笑)
ごめんなさい、ディバイザー社の皆様。やっぱすげえです貴社のベース。
それはつまり、バンドにおけるアンサンブルの中でのベースという楽器の重要性というか、サウンドが担う役割がどれだけ重要で、大きいかを、あらためて実感し学ぶ機会だった。
うちの嫁さんがフィリピン製の安価なTF-001ですっかり初心者なりにもプレイが変わってしまったのもそうだけれども。
自分がTF-Ashで、最近ね、2005年に自主録音したやつのうち、2枚を、作り直す、ミックスし直す、そしてベースを録りなおす、っていう作業を実はやっていて、その中で、まぁ自分にはベーシストとしてはTF-Ashは十分な楽器なんだけれども、そのベースひとつで、ここまで変わるかっていうくらいの威力を実感しているので。
そしてうちのはっしー先生が使うようになったTwenty-Fourの桜モデルなんだけれども、これがまるでスポーツカーのような楽器だということは記述したけれども、リハーサルのたびにその威力に驚かされているし、バンドのアンサンブル自体が変わってしまうくらいの現象が起きているし、またベースっちゅうもんはこういうことなんやな、という、いわゆる一般的なジャズベとかの域を越えて、本来、木を鳴らし切ったらこういうことになるんや、というのを教えられている気がするんでね。

楽器トークはまだいろいろ続きがあるけれども、まあ時間ないし今日はこれでー。

No(4578)

■…2015年 9月26日 (Sun)…….松原湖バイブレーションジャム御礼
この連休、いわゆるシルバーウィークの最中に、長野県は松原湖バイブルキャンプにて行われた「松原湖バイブレーションジャム」にて演奏してきました。
とても良いイベントでした。

この、「日本初のクリスチャンロックフェスティバル」と銘打たれた、松原湖Vibration Jam。
企画したのはPeter’s Chicken PartyのNobu氏。
いやね、PCPっていうか、僕らの友人でもあるNobu氏なんだけれど、
彼はそうね、もともとバンドとかやっているわけじゃなくて、
クリスチャンのバイクチームLord’s Angelsの一員で、
一年目だったThe Extreme Tour Japanの際に出会って以来、
うちのバンドに関しても”Faith Rider”のビデオ制作に協力してもらったりと、
僕らクリスチャンのバンドをいろいろと応援してくれていた。
その彼も、こうしてPeter’s Chicken Partyっていうパンクバンドを
始めたわけなんだけれども(!!!)

彼が、「クリスチャンのロックフェスティバルをやりたい」って言い出したのは、
果たしていつ頃のことだったか。
思えば、結構前から言っていた気がする。
「ははは、そうだねー、できるといいねー。うん、協力しますよー」とか適当に僕も相づちうってたんだけれども、
それがこうして実現した。

最初は、「大丈夫かなー」とか思っていたし、
なにしろ初めてのことだから、しかも、この狭い日本のゴスペルシーン(教会)の中で、
ロックフェスティバルとか、バイクツーリングとか、
いかにもニッチな分野であるので。
そして彼も、今年はずっと、その開催のために奔走していて、
苦労したり、心労で落ち込んでいたりする様子も見てきた。

けれども、本当にこうして実現し、
しかも良い形で成功させてしまった。

Nobu氏は、けっこう「天然」なところもあるので、
いろいろとつっこみどころは多いし、
周囲も「大丈夫かな〜」と思っていたと思うんだけれど(笑)
こうしてこんな素晴らしいイベントを実現させ、成功させたことに対して、
やったね!凄いね!と、俺は思います。
そして、そんな彼だからこそ周囲の皆の協力を得られたのかもしれないしね。

そして、こんな素晴らしい記念すべきイベントで、
うちのバンドImari Tonesに、演奏する機会をもらえたことに、
Nobuさんだけでなく、参加、協力してくれたすべての人に、
本当にお礼を言いたいと思います。

このシルバーウィークの連休、
日本のいろんなところで、たくさんの音楽イベントが行われていたと思う。
大きなイベント、盛り上がったイベント、たくさんあるに違いない。
クリスチャン・ゴスペル関係のイベントもたくさんあったに違いない。
けれども、僕らはこうしてこの初の企画であった松原湖バイブレーションジャムで演奏することができて非常にハッピーだった。

もとより人気も知名度も大してあるわけじゃない僕らImari Tonesであるけれど、
こんな素敵な場所で、良いステージを与えてもらったことに、本当に感謝です。

出演、共演させてもらったアーティストの皆さんも、本当に素晴らしかった。
サルーキ=、サムエル、ジーバーズ(Gee-Bars)、ソルフェイ、Indicatorという、本当に錚々たる実力を持ったアーティストさんたちの中で、一緒にやらせていただいたというのは、本当に光栄でした。

とはいえ、音楽、演奏の面では、まったく引けを取るつもりもなく、全力でぶっちぎらせてもらったぜ!

そうね、Peter’s Chicken Partyね。
Nobu氏が始めたこの「クリスチャン・パンク」のバンドも、
(確か、昨年秋のThe Extreme Tour Japan 2014に出たい、って言ってたんだけど間に合わなかった)
この松原湖バイブレーションジャムにて、ついにライブデビューとなったわけです。

ピーターズ・チキン・パーティー、略してピーチキパー、という面白い名前のバンドなんだけれども、
Nobu氏は、ギターやったことなかったので、確か昨年の春くらいに、一緒にお茶の水に行ってストラト買うのに付き合うところから始まって。(しかも確か、俺が「それはよくないよ」って言ったギターを買った笑) (いや、好みの問題だし、用途に合ってれば、それでいいんだけどね)

で、そこから、ソルフェイのオオハラ氏と、俺で、Nobuさんにギターのレッスンをするところから始まって。
まあ、ほとんどレッスンしたのは、オオハラ氏だから、彼の功績。
で、立ち上げにあたっては俺もドラムを叩いていたんだけれど、
いろいろの成り行きで、ルカくんがドラマーになり、俺は晴れてお役御免。
で、そっからは俺はノータッチだったけれど、
「よくここまでになった!」

リハーサルの録音を聞かせてもらってはいたけれど、
当初のNobuさんの「リズムもピッチもどうにもならん」
という状態から、ここまで形にすることができたのは、
正直驚きだった!
これは、本人の努力もあったに違いないけれど、Nobu氏に辛抱づよく指導を続けた、オオハラ氏と、サポートしたルカ君の功績だと思う。

そして、良い感じにパンクになっているではないか!
俺は、パンクというジャンルにそんなに詳しいわけではないし、
パンクバンドをいろいろと知っているわけではない。
けれども、概念としてのパンク、精神としてのパンクということには、
実は結構こだわりを持って考えている。
その意味では、実はパンクのカテゴリーに分類されるバンドで、好きなバンドも結構いたりする。

で、俺はNobu氏ならびにPeter’s Chicken Partyは、きちんとパンクになっていると思うのだ。
俺が思うに、パンクをやるには資格がいる。
誰もがパンクをやれるってわけじゃない。
その資格とは、たとえば演奏が上手いとか、パンクについての知識があるとか、才能があるとかじゃなくて、
もっときわどい紙一重のところにあるものだ。
で、俺はNobu氏にはその資格があると思う。

(思い返せば、俺だってその「資格」があればパンクをやりたいと思っていたくらいだが、俺にはパンクを鳴らす資格は無いことが、最初からわかっていた。たとえば、俺はパンクをやるにはちょっとばかしギターが「上手」過ぎた。笑。)

そういう意味では、パンクをやりたい、というNobu氏は、うまく自分の資質を生かす選択をしたと思う。
そして、練習を始めた当初は声も全然出ていなかったNobu氏、
なかなかすごい迫力の意味わかんないシャウトをするようになったじゃないか。
これも、聞けばオオハラ氏の指導のたまものらしく。
声さえ出るようになれば、歌唱の技術とか音程とかそんなの関係なく、彼の体格とかそういう天性のものが生きてきて、彼のでかい図体にふさわしい迫力のあるシャウトが、そして彼の人間性(内面は乙女)にふさわしい、泣き叫ぶようななんか意味わからんシャウトを、出すことができていた。
そういう天性のものは、素直にうらやましいと思わせるだけのパワーがあったね。

そしてそれを支えるオオハラ氏のギターと、ルカ氏のドラム、3人のバンドとしてのコンビネーションも完璧だった。

たとえば俺はサイドプロジェクトの「熱きリョウとジーザスモード」では、結構楽しく自由にギターを弾かせてもらっているけれど、Nobu氏の隣でギターを弾くソルフェイのオオハラ氏の姿は、ソルフェイの時とは違った解放感があって、新たに導入したGrecoのジャパンヴィンテージのギターの威力もあり、彼のミュージシャン、ギタリストとしての実力や安定感が際立っていた。(いや、Grecoのヴィンテージとの出会いによって、オオハラ氏もギタリストとして一皮剥けたようで、そのニューバージョンのオオハラ氏を見れたことも収穫でした。)

Nobu氏の、一曲演奏するごとに、「証」という名の乙女ポエムを読み上げるステージングは、ちょっとどうかなと思ったけれど(笑)、それはそれでユニークだし、これもクリスチャンの表現のスタイルなのかもしれないし、案外と乙女ポエムとパンクは相性わるくないし(笑) それはそれで初めてのライヴにあたっての彼に必要な儀式だったんだろうと思う。

とにもかくにも、クリスチャンパンクバンドPeter’s Chicken Partyのデビューは、この松原湖バイブレーションジャムの、収穫のひとつだったと思う。
今後の活動もきっとマイペースなんだろうけれど、もしうまく続いていくようであれば、俺は、結構期待できると思う。ぜひ、日本のクリスチャンシーンのみならず、一般のパンクシーンに、殴り込みをかけていってもらいたい。

とにもかくにも、こんなに良い感じのパンクバンドになるとは予想外だった!(笑)

で、出会ったすべての皆さんにお礼を言いたいし、
本当に俺にしても、うちのバンドは引っ込み思案でコミュニケーション苦手なので、
滞在中も近寄りにくかったかもしれないけれど(汗)
バンドの中で唯一社公的なジェイクは相変わらず気付けばいつのまにかスタッフの中心になって働いていて、皆とコミュニケーションをとってくれたので、助かったけれど。
本当にとっつきにくくてすみません(汗)

サムエル君のステージを久しぶりに見ることができたのも嬉しかった。
とても素敵だった。(美形大好き)
僕は繊細な美形が大好きなので、いつかサムエル君と半日かけてデートしたいくらいだけれど、きっと上手く話せないんだろうなー。
アコースティックギターを、僕のやつか、オオハラさんのやつか、どちらをお貸しするかで迷ったけれど、結果的にオオハラさんのGibsonで正解だったのではないかと思います。バランスの良い響きと、LRbaggsのiBeamのピックアップが自然な雰囲気を作っていました。

ピーチキパーは上記のとおり。Nobuさんの書く乙女で素直な歌詞とメロディを、オオハラ氏がさすがのアレンジの完成度で仕上げるので、本当に良いバンドになっていたと思う。各メンバーの資質を思うと、ピーチキパー、実は案外とパンクバンドの理想型に近いところにいるような気がする。

Indicatorさんもさすがだった。実は今までに彼らと2度対バンしていながら、出順の関係でじっくり見れていなかったので、やっとじっくり見ることができた。とはいえ、オケージョンの関係で半分はワーシップ仕様のステージだったようだけれど、確かな実力を見ることができた。また、リズム隊の二人がサルーキ=のバックをやった際の安定感も凄かったねー。

ソルフェイ。これは「ソルフェイアコースティック」ということで、僕とオオハラ氏の二人でアコギ2本でやったんだけれど。昨年も何度かやった、この「二人ソルフェイ」。
ソルフェイも、今なかなかバンドで動きにくい状態にあるので、オオハラ氏も悩むことも多いと思うんだけれど、そうはいっても、ユニット「オオハライチ」や先述の「Peter’s Chiken Party」など、各方面で八面六臂の活躍を見せているオオハラさん。
ミュージシャンとして、プレイヤーとして、シンガーとして、ソングライターとして、またクリスチャンとして、これからもどんどんと成長し、発展していくに違いない。
今回も、前の晩のキャンプファイヤーのアコースティック演奏から始まって、ピーチキパー、ソルフェイと、歌い続けて、ソルフェイのステージでは既に声を嗄らしながらの演奏だった。
でも、そんなの全然関係ないくらい熱いメッセージが伝わってきたね。

俺は、オオハラ氏の凄いところは、決して勝ち戦でなくても一歩もひるまないところとか、愚直なまでに神に自らを捧げてひるまない、そのへんだと思う。
今回も、フルバンドではなくてアコースティック仕様での参戦。
それでも一歩もひるまず全力投球。
また彼は、ステージ上だけでなく、それ以外にも、機材面とか、今回だとキャンプファイヤーのステージやサムエルのカフェライブの音響とか、あとは目に見えないところだと運転のこととか、いろいろ働き、貢献している。
そういったことに文句も言わず貢献し、参加し、なおかつ声を嗄らしてもきちんとメッセージは届けてステージをやり遂げる、そのへんにゴスペルロッカーとして、また人間としての彼の凄みを感じるねー!

俺も彼の相方として、まあ相方、あるいはソルフェイに在籍するメンバーの一人として、ちゃんとやれてるかどうか、自信はないけれど、全力は尽くしたぜ。それほど、ミスもなかったと思うしね。小さなミスはいくつかあったけど(汗)
で、俺は自分のバンドの出番にそなえて、コーラスとか歌わないでおこうと思っていたけれど、ばっちりマイクを目の前にセットされてしまったし、オオハラ氏があまりにも熱いパフォーマンスで歌うんで、触発されて結局歌ってしまったぜ!

ソルフェイのトピックとしては、俺が曲を書いた(歌メロと歌詞はもちろんオオハラさん)、ソルフェイの新曲”Before The Dawn”をアコースティックとはいえ初披露したこと。ちょっと間違えちゃったけど(汗)
アコースティックバージョンだからアレンジに無理があったところもあると思うけれど、どうだったかなー。気になるー。
この”Before The Dawn”は、俺が今年の初頭くらいに、CLODの「ヨアケマエ」みたいな曲を作ろうかな、って思って、仮タイトルをBefore The Dawn(夜明け前)にしたら、そのままのタイトルになっちゃったのでちょっと恥ずかしいんだぜー笑。

で、GeeBarsさん。
俺は、ジーバーズさんとは昨年の11月に、三重県で二度、共演させてもらっているんだけれど、今回こうして、素敵なフェスティバルの場で、またご一緒させてもらって本当に良かった。
GeeBarsについては、本当にミュージシャンとして実力があまりにも高いので、もう何のコメントをしても僭越になってしまうんだけれど、
あえて言うなら、俺はジーバーズさんは、その見た目や年齢にも関わらず、実際のところ、今の時代の世界のインディーズ最先端の流れに位置する、最新鋭のアーティストだと思っています。だからこそ最新のインディロックが大好物なアンジェロも、昨年見て非常に気に入っていたわけだし。ここ何年かの欧米のインディロックのシーンでは、民俗楽器やフォークな手法を取り入れるのが流行りなわけだけれども、当然ながらGeeBarsさんたちは、流行りではなく、年季と経験で築かれた(であろう)本物をやっているわけなので、その凄さもひとしおなわけです。どっちにしても、ジーバーズさんは「最先端」な存在であろうと僕は思います。

そして、主催の住吉先生が教会の急な用件で予定より早くお帰りになられてしまったこともあり、
ジーバーズさんが急遽、翌朝のメッセージを担当していただいたのですが、

そのメッセージの冒頭で
(急なお願いだったこともあり)
「いやあ、聖書を忘れてきてしまって」
というのは、いくつもロックバンドが出演したこの「クリスチャンロックフェスティバル」の中にあって、
実にいちばんロックな瞬間であったと思います。(笑)
参りました(笑)

ジーバーズさんが、また東京、首都圏近郊のイベントにもし来ていただけるのであれば、
今回、俺が考えてわくわくしたのは、
B.D.Badge中島寿朗閣下と、共演していただいて、
まるで「愚地独歩 vs 渋川剛気」のような、スタイルは違うけれども、究極の達人対決を実現させたいなー、みたいな野望を、密かに抱きました(笑)

で、大トリを飾ったサルーキ=さん。
サルーキ=さんとご一緒するのも、本当に久しぶり。
思い出すのは、一昨年の2013年に、一回目のThe Extreme Tour Japanをやったとき。
チヨさんに声をかけたんだけれど、彼は、その時に計画されていたイベントの中でも、平日の公園で、無理矢理に組んでみた、いちばん人のいない、いちばん「これはどうかな」ってイベントに、一人でやってきた。
彼らみたいな人気も実力もあって忙しいバンドの人が、そんなイベントの場に来てくれる、っていうのも、彼の男気を感じるんだけれど。

彼らは3年連続でブラジルツアーを行い、マーチフォージーザスで30万人以上の観客の前で演奏するという、笑っちゃうくらいの桁外れの偉業を成し遂げている。
何年か前に、渋谷公会堂でのワンマンを成功させた後に、彼らも悩む時期があったと、今回のステージでも言っていたんだけれども、そんな彼らも、今年行われるCelebration of Loveの中で、念願の武道館のステージを踏む(んだよね?)
チヨさんはまっすぐな性格だから、自分の身をもって、いろんなものを確かめ、その上で、神を信じる道を選び、歩いてきたと思うんだけれど、そんな彼らの歩み自体が、クリスチャンっていうのか、キリストを信じる者が、悩み苦しみながらも、Graceっていうのか祝福を受け取っていく、そんな姿を象徴していると思う。

彼らは日本のゴスペルシーンの中でも屈指の人気アーティストだし、今回この松原湖バイブレーションジャムに参加したロックバンドの中でも、ほとんど唯一ってほどにプロフェッショナルな活動を行い、またこのフェスティバルの後にも、各地でのツアーを続けていく中での参戦だ。その点、こんなふうに後からゆっくりイベントの感想を書いている僕は気楽なもんだけれど(笑)
彼らの音楽はオーソドックスなロックンロールだけれども、確実にお客さんを楽しませることのできるその演奏には、他のバンドとはひと味違ったプロフェッショナル的な凄みがある。

そんな実績も実力もあるサルーキ=のすぐ前の出番で、準トリ的なポジションで僕らImari Tonesが演奏させてもらったことも、すごく光栄だ。かといって、演奏や音楽の面では、僕らも一歩も引けは取っていないつもりだけれども(笑) でもチヨさんやモーリーさんには、彼らの人間的な魅力とともに、そうした日本のクリスチャンロックの中でも数少ないプロフェッショナルなステージができるグループとしての凄みを感じるんだね。

そして、モーリーさんのテレキャスターが、すごくいい音をしていたな。
そして、いい笑顔でギターを弾いていた。
やっぱ、それに尽きると思う(笑)

で、自分たちの演奏の所感だ。
僕は、自分たちのバンドの演奏の他にも、
なんだかキャンプ初日のキャンプファイヤーのアコースティック演奏にも、出演を割り振られていて。
アコースティックのライヴも、何度かはやったけれど、やっぱり慣れていないし、ふだん練習しないし。
また、アコースティックギター持ったときにも、繊細なフィンガースタイルで繊細なゴスペルを綱渡りのようにやるスタイルなので、キャンプファイヤーの野外ステージとか、そういう場所で、どういったことができるのか、不安でいっぱい。
結局、何があっても対応できるように、プレッシャーもあり、事前にかなり声を作ってしまったので、初日の夜でけっこう喉を消耗してしまった。翌日、バンドで歌えるかちょっと心配なくらいだった。(結果的に大丈夫だったけれど)

キャンプファイヤーの場は、結構ナーバスだった、キャンプファイヤーという環境も、機材も、お客さんとの距離感とか、ナーバスだった。またサルーキ=さんとかサムエルくんとか、アコースティック得意な人たちがいるのに、それを差し置いて自分がやるのも僭越だなと思った(笑)
ソルフェイのオオハラさんが一番手で歌ったんだけれど、彼はもともとアコギの人だから、やっぱりさすがだなあ、と。彼の長年愛用しているGibsonサザンジャンボのぶっとい音とともに、弾き語りのスタイルがはまっていて、何をやってもばっちり決まるなあ、と。

俺にはこんなことはとてもできない、と思っていたんだけれど、
自分の出番が来て、セッティングして、椅子にすわったら、その瞬間に椅子が倒れて、初っぱなからこけた(笑)
当然、会場は爆笑だったわけだけれども、今にして思えば、あれは笑いの神というか、キリストが降りてきた瞬間だったねー(笑)

あれは、後から、サルーキ=のチヨさんに「あれは狙ってやったの」って聞かれて、素でやったんだよ、って言ったんだけれど、いまいち信じてもらえないふうだったんだけれど、翌日にね、俺がコーヒー飲もうと思って、受付のインスタントコーヒーが無かったから、食堂にコーヒー飲みに行ったのね。そしたらそこでチヨさんがコーヒー飲んでたから、俺も一緒に飲もうと思って、チヨさんの隣に座ったのね。そしたら、それがお子様用の椅子で、ケツがはまりこんで、しかも俺はしばらく気付かずに「なんかこの椅子小さいね」みたいなこと言ってたんだけど、きっとあれでチヨさんは、俺が素でコケたんだってことを信じてくれたと思う(笑)

で、そんな感じのステージで、こけた後はもう覚えていなくって、なんだか熱きリョウの真似して「ファイヤー!」とか叫んでた記憶はあるんだけれど、何やったかはぜんぜん覚えてない(笑)
でも後からオオハラさんに聞いたら「美味しいところ全部持ってかれましたわ」みたいなこと言ってたから、きっとまた、あれなパフォーマンスをやってしまったんだと思う(苦笑) ほんと、すんません(汗)

で、アコースティック演奏についての冗談はさておき、Imari Tonesの本番のステージ。

今回、75分という、いつもよりちょっと長め、というよりは、いつもよりはるかに長い持ち時間をいただいて。
もとより、普段やるライヴっていったら30分とか40分。アメリカ回ったときも、45分とか長くて1時間とか、そういうのがほとんどだから、1時間越えのステージっていうのは、僕らみたいなキャリアの無いバンドだと、あんまりやることないので。
それでも選曲に悩んでしまう僕らの持ち曲がどんだけあんねん、って感じなんだけれども。あれも削って、これも削って、みたいな(苦笑)。

ひとつ心配だった、というか、どうかなと思っていたのは、75分のステージやって、自分のヴォーカルが持つかなって点。一応メタルバンドで、ハイトーンのシャウトのスタイルだしね。
でも結果として、最後まで声は持った。
それどころか、全体を通じて、今まででも最高の歌唱を聞かせることができた。
(もちろん、ミスった箇所や、出なかった箇所もあるけれど)
これは、ここ何年かの、自分のシンガー、ヴォーカリストとしての成長とか技術の進歩ということだと思うので、これは自分としては大きな収穫だったと言える。

30万人だか35万人だかを前に演奏したサルーキ=さんを前にして言うことじゃないけれど、僕もいつか、世界のどこでも構わないから、一万人くらいの観客の前で、アンコール付き2時間15分のコンサートをやりたいなと思っているから、これでひとまず、1時間15分の演奏は出来るってことで、一歩前に進んだ(笑)

特に、ハイトーンだけでなく、中音域のコントロールを最後まで失わなかった。
俺の声質は、決してマッチョな声ではなく、よくRushのGeddy Leeあたりと比較されるようなわりと細いタイプの繊細なハイトーンなので、これも人からよく言われるのは、ハイトーンよりも、ボーイッシュな声の魅力が生きる中音域で歌ったらいいんじゃないか、ってことを何度も言われたことがある。けれども、それらの人がわかってないのは、その中音域、ちょうどGあたりを多用するへんの音域が、いちばん出すのが難しいってこと(笑) だったらハイDとかハイEをヘッドヴォイスでスクリームする方がまだ簡単なんだよね。ライヴで歌うのは難しいんだよ。少なくとも俺にとっては。

それとちょっと被るけれど、俺が「ボンジョビゾーン」って呼んでいる音域があって、それはつまり、GからAあたりの音域を、うまく声を丸めて力みすぎることなく安定して出すと、男性のハスキーな中高域のハイトーンがいちばん魅力的に聞こえる、っていう音域のことなんだけれど、そのボンジョヴィゾーンのコントロールを、最後まですることが出来た。これは、自分にとっては結構な収穫だった。

まあ、二十歳の頃にこれくらい歌えてればねー、っていうのはあるんだけれども、シンガーとしてはまだまだ発展途上の自分としても、少しずつ成長してるんだぜ、ってことで。

あとは、そうね、”Karma Flower”の日本語版、「初春恋風」を演奏することができた。
Karma Flowerは僕らの代表曲のひとつでもあるから、今までに何度も演奏してきてるけれど、日本語でやることは珍しい。これもその「中音域」が難しい曲のひとつだから、ライヴでやるときにいつも「今日は歌えるかな」っていう曲のひとつだった。けれど、それを日本語できっちりやることが出来た。

Karma Flowerの何が感慨深いかっていうと、そうね、それは、2012年でアメリカのワシントン州の山の中で演奏したX-Festのこと。
あの時に演奏したX-Fest、それは、僕らのバンド活動の歴史の中でも、最良のショウのひとつとして今でも記憶していて、うちのはっしーなんかも未だに一番楽しかったショウ、として言及しているイベント。

俺はこの松原湖バイブルキャンプ、3月の時点で下見に来たときに、これは日本版X-Festのようになるんじゃないか、って予感がした。
X-Festは、ワシントン州のStevensonっていう場所で行われているクリスチャンのミュージックフェスティバルだ。
松原湖と同様に、山の中で、キャンプ場で、泊まりがけで行われるフェスティバル。
だから、同じような感じになるのはまったく不思議ではないのだけれど、
それにしたって、キリスト教信仰が定着(なんていうのもばかばかしいくらい)しているアメリカで、クリスチャンミュージックの層も厚いからこそ成り立つX-Fest。
日本で同じようなことが出来るとは、夢にも思っていなかった。

それがこうして、たとえ規模はずっと小さかったとしても、現実に実現した。
で、2012年に俺たちがX-FestでKarma Flowerを演奏して、それは結構、会心の出来だった。
だから、今回は俺はこの松原湖Vibration Jamでも、ぜひKarma Flowerを演奏したいと思っていたんだ。それも、日本語バージョンで。
それをばっちりと鳴らし、歌うことが出来たのは、自分の中では、ちょっとした感慨なんだぜ!

あとは、Nobu氏に捧げようとしたら本人がちょうどその場にいなくてタイミング外して失敗(?)した”Bushido”とか、急遽キャンセルになってしまったけど牧師Rocksに捧げようとして選曲した「仏教ソング」”Saints Seeking Salvation”とか、人前初披露の曲も2曲やりました。まあ”Saints Seeking”の方はわりとなんとかなったかな。Bushidoはいろいろミスったので次回に期待だね。

なんにしても、1時間15分にもわたるステージを見ていただいて、付き合っていただいた参加者の皆さん。はるばる見に来て、応援に来ていただいた皆さん。すべての参加者、スタッフの皆さん。皆さんに、本当にお礼を言います。おかげで、バンドとしてとても良い経験と、重要なステップとなるステージをやることができました。僕らみたいな小さな無名のバンド、そして松原湖バイブレーションジャムという、初めて行われた手探りのイベント。決して大きなステージではないかもしれないけれど、僕らにとって、それは本当に大事な意味を持つステージでした。

あとはねえ、松原湖バイブルキャンプ、ひとつすごいなと思ったのは、食事が美味い(笑)
しかも、半端なく美味い。
ライヴの日にね、僕らの出番は夕食のすぐ後だったから、演奏前に食えないなってことで、「じゃあ演奏後に食事をとっておきますよ」って、うちのメンバー3人分だけ、フレキシブルに食事を後にしてもらった。
最初は、「そんな、面倒かけちゃうし、悪いし、そこまでしなくてもいいですよ〜」って思ったんだけれど、演奏終わって、3人で食堂に行って、そのあまりの夕食の豪華さに、「とっておいてもらって本当によかった!」って号泣した(笑)

もちろん演奏して疲れた後だからっていうのはあると思うんだけれど、それだけでなく、どこのレストランだよ、ってくらいに、豪華だった。豪華つっても、高級とかそういうのじゃなくて、どこか優しい味のする、あたたかい料理。
あれね、一応、キリスト教つーか、宗教の、修養というのか勉強をする施設なわけだから、食事も質素なのかな、と思いきや、この充実っぷり。
これは、節制を旨とする仏教とかならまだしも、キリスト教的には、神からの祝福っつーことなのかもしれない。祝福をたっぷり受け取れ、と。
やっぱり、メシは美味いに越したことはない。
そして、これは、食事っつーものの大事さをわかっているんだと思う。
美味しい食事が、どれだけ人々を元気づけ、身も心も、強くするかってことを。
そして、豪華なだけでなくバランスの取れた、このやさしく、すがすがしい味。
食事の前にギター弾いて賛美していた「ミスター・キッチン」の腕前なのかもしれないし、スタッフの皆様全員なのかもしれないけれど、まさに神に仕えるにふさわしい仕事っぷり。
恐るべしです。松原湖バイブルキャンプ。
これなら、また来たいな、って思う(笑)

というわけで、初めての開催で、きちんと成功して、きちんと素晴らしいイベントになった松原湖バイブレーションジャム。

果たして第二回目、第三回目、と続いていくのか。
今後、各方面からの支援を得て、もっと大規模に盛り上がるのか。
Nobu氏はこんなに苦労しなくて済むようになるのか、あるいは規模が拡大してかえって心労が増えるのか。

どうなるにしても、僕らImari Tonesは可能な限りお手伝いはしたいですね。(うかつなことは、言えないが、ははは)
そして、僕らがアメリカで参加したX-Festだって、長いこと続いていると思うけれど、きっと最初は、こんな感じだったに違いない。
そして、サルーキ=さんもMCで言っていたけれど、ブラジルのマナウスのマーチフォージーザスだって、最初はたった50人とか、すごく小さいものだった、と言っていた。それがいまや100万人になったっていうんだから。

その「最初の何か」に立ち会ったような気が、しているんだぜ。
サンキュージーザス。

No(4579)

■…2015年 9月29日 (Wed)…….Have you found love?
その昔、地球市民は身分権力資本領土などによって階級に分かれ闘争して来たわけだ。新しい時代の事態に直面し今人類は争ってる。けど昔とはちょっと違う。人々が自由に愛を信じて生きていけるのか、その未来を信じようと言う人たち、そしてそれを信じられず、許せないという人たち。純粋にその二者間の、霊による闘争だ。Have you found Love?

No(4580)

■…2015年 9月29日 (Wed)…….
昔から、僕らの住む日本という国は村社会だったと言われる。
狭い島国で、閉鎖的な環境だから、そういう閉鎖的な社会になったと言われる。
あるいは今でもそうなのかもしれない。
だけれど、最近世界は狭くなった。
世界経済はつながり、世界の政治もつながり、
国際化というだけでなく、インターネットのおかげで、世界はより狭く感じられる。
遠い国で起きている事件や問題は、もう遠い国の他人事ではない。
それが、僕らみんなに影響することを、皆が知っている。
そして、小さな村の中でうわさ話が広まったように、地球の裏側でささやかれたゴシップですら、今では日常の中で情報として入ってくる。
だから世界は今やひとつの村だ。
これから世界は、ひとつの大きな村社会のようになっていくに違いない。
もう半分くらいそうなっている。
世界は均質化し、日本はアメリカのように、アメリカは中国のように、中国は日本のようになっていくだろう。
でも世界がひとつの村のようになるのであれば、
そんな村社会の中で、どうやって皆でやっていけばいいか、
僕たち日本人はよくわかっているに違いない。
アメリカがアメリカたり得たのは、開拓すべきフロンティアがあったからであり、
またイギリスがイギリスたり得たのは、漕ぎ出すべき海があったからなのだ。
そのフロンティアや、広大な海がなくなった今、この狭い地球で、僕たちはどのように生きていくべきか。
もし開拓すべきフロンティアが僕らにあるとするならば、
それはきっと、自己の内面の中に無限の世界が存在する。
きっとそう遠くない未来、僕たち人類には新たなフロンティアが与えられるだろう。
それはどこかの惑星なのかもしれないし、どこかの宇宙なのかもしれないし、
あるいはどこかの多次元世界なのかもしれない。
けれどもそこにたどり着くには、まず僕らは自己の内面のフロンティアに、
新たな世界を築き上げなければならない。
新たな王国を建て上げなければならない。
新たな可能性を発見しなければならない。
なぜならこの世界には、もう新しいものは何もない。
この狭い世界、この大きなひとつの村の中、
本当に新しいと呼べるものなど、太陽の下にはひとつもない。
それは最初から聖書に書かれていたとおりだ。
だけれど情熱。
情熱、そして情熱だけは、
この情熱だけは、いつまでも新しい。
だから勇気を持って踏み出そう。
新しいものなどなにもない、
この未知の未来へ踏み出そう。
とどまるという選択肢など、僕らには残されていないのだから。

No(4581)

■…2015年 9月30日 (Thu)…….Stryper “Fallen”
Stryperの新譜”Fallen”のざっと一回どおり聴いた感想。
(嫁さんがストリートチームの管理人なもんでね)
-とりあえず、日本版CDの帯のあおり文句が面白い(笑) 「父と子と聖霊の御名において」「三位一体を目指す」(って何だよ)、そして往年のキャッチフレーズ「聖戦士ストライパー」(笑)
-アルバム前半は、ちょっと大仰で、今までの80年代ポップメタルの枠から踏み出して、壮大かつ重厚かつ厳粛なクリスチャンメタルの世界を描こうとしているが、必ずしも成功していない。
-アルバム前半の楽曲は、そうした壮大にしようという試みも含めて、前作の時に指摘したのと同様、無理矢理傑作に見せるための「メタ情報」の部分が多く、ぶっちゃけつまらない。
-しかしアルバムの後半には新鮮なリフと素直なメロディが多く含まれており、後半はけっこう楽しく聴ける。
-お、この曲面白いなと思ったら、Black Sabbathのカバー(笑)
-ギターの音については、ノーコメント(苦笑) Stryperのギターサウンドを良いと思ったことは正直一度もない。
-ギターソロはおおむねがんばっている。かなり頑張っている。そこは評価できる。
-けれども往年のウォーレン(RATT)が得意にしていたフレーズをそのまま、ウォーレンの5分の1くらいのスピードで弾くのはいかがなものか。
-ヴォーカルのメロディはおおむね、死ぬほどつまらない。
(僕が思うに、近年のStryper、マイケル・スウィートの歌メロが退屈なのには理由がある。ひとつは、ヘヴィメタルのヴォーカルに必要なエキセントリックさに欠けること。年齢を経てより上手く、より太い声になってしまったため、余計にそうなった。もうひとつは、この人の場合、歌がうますぎる、声が素晴らしく出るので、そのぶん、単調なメロディに終始しても形になってしまう。)
-アルバムのサウンド、音作りについては、前作以上にセンスが悪い。特にドラムに関しては、ちょっとどうかな、と思う曲がいくつもある。
-全体として、事前に懸念していたほど悪くはなかった。アルバム前半などちょっと無理してる部分も多いが、今のStryperにしか作れない、という楽曲もいくつかあったので、その面では期待に応えてくれたと思う。
-ぱっと聴いて気に入った曲としては、”Love You Like I Do”(復活後のStryperらしい無理のない楽曲。Murder By Prideあたりに入っていてもおかしくない。)、”After Forever”(お、この曲おもしろいじゃん、と思ったらサバスの曲)、”Till I Get What I Need”(らしくないくらいストレートでイキのいいリフ)、”Let There Be Light”(よく頑張ったねという感じ)、”The Calling”(マイケル・シェンカーっぽい良い感じのリフ)、”King of Kings”(前作のRenewedのようなエッジと勢いのある曲)。
-総合的に見ると、現在のStryperはマイケル・スウィートのセルフプロデュースで、彼のワンマン体制で作っていると思われるが、ヴォーカルメロディや、音作りの面でも、安直なアイディアではなく、もっと良いものを引き出すために、有能な外部のプロデューサーが必要だと思わされる。でもまあ、無理して寿命をすり減らすより、バンドとして作品を作り続けることができればそれが一番大事かねえ。
-とにもかくにも、事前にYouTubeなどの予告編プリビューを聴いて、嫌な予感がしていただけに、思っていたよりもなんとかなっていたのでちょっとだけ安心した。しかし世間の評価はきっと逆になるんだろうな。一般のメタルファンはきっと、アルバム前半の大仰な曲を評価する人が多いのだろう。

No(4582)

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