2016年11月の日記

■…2016年11月 3日 (Thu)…….斜陽産業大統領
「実験国家」と言われるところのアメリカ国。
傍から見るに、実験はここへきてえらい失敗になってきていますよね。
あるいは、試験管を覗く神の視点からは、これも予定のうちなのか。
進化のひとつの過程だったりするのだろうか。

「世紀の凡戦」になってる米の国の大統領選挙など見て、世界はどうなってるのかなーと心配になっているのは皆大なり小なり同じだとは思うんですが、なんか僕ももう、これでいいのかなという気になってきました。つまりは、なんかもう、どうでもいいのかな、と。

民主主義そのものが崩壊しつつある、というか、既に崩壊しちゃっているのかもしれない、というか、まあ自分らの肌感覚としてはとっくの昔に最初っから機能してなかったよね、というのが普通の感覚だと思いますが。

民主主義、今どうなってんのかな、というのはやはり気にかかっていたわけです。
で、いろいろなことも言えるし、いろいろ考えることも出来るんだけれど、やはり僕は音楽に向き合って生きてきた人間であるので、音楽を通じて物事を見るとやはりよくわかる部分があるわけです。そんなわけで、音楽の分野とか音楽の業界で様々なものが陳腐化して「一旦終了」となってしまっている現在、政治ってものも陳腐化して「一旦終了ですよ」状態になっているのかな、と。

そう思うと、何も怖くないし、右の人も左の人も、好きなことを好き放題に言ってるんだけれど、これでいいのかな、と。誰ももう、政治とか支配ってものが、メインストリームになることはもう無いのだから。この皆が自由に生きる世界においては。
そう思うと、一件無秩序で堕落して崩壊したように思えるこの世界の状況も、あるいはロックンロールの勝利かもしれない、と思うこともできる。
もちろん、きわどい線ではあるけれど。

だから、争いたい人は争えばいいし、戦争やりたい人はやればいいんだよね。
そういう中で、皆が自由に生きていくことがまずは大切なんだから。
それで世界が滅ぶんであれば、それはそれ、仕方ないって。

怖い、怖くない、って話で言えば、まあ正常な感覚で言えばトランプさんは国のリーダーにふさわしい、って思う人はあまりいないと思うんだけれど、怖い怖くないという話でいえば、ヒラリーさんの方がよほど怖いわけで。

自分は政治にせよ国際情勢にせよ知識はないので、音楽的な感覚と霊的な感性でしか語れないのだけれど、その範囲で考える限りのことが以下。

そもそも支配というものがあったとすれば、
政治とか支配というものは、世の中の汚い部分を担当するもので、要するに僕の言葉で言えば下水道屋さんなわけで。
そして、でっかいスチームローラーというのかロードローラーというのか、あるいは鈍い動きしかできない巨大ロボットとかゴジラを操縦するようなもので。
どっちに行っても、どっちにせよ誰かを踏みつぶしてしまう。誰も殺さないで動かすってわけにはいかない。
だから、どっちにしても何かを壊して、誰かを殺してしまうけれども、それでも全体、それはひとつの国とかそういうちっちゃなことじゃなくて、人類とか地球とかもうちょっと大きめの目標のために、こっちに行くんだぞ、と示せる人がたぶん本来の政治的なリーダーってもののはず。

だからそこにより大きな意義のある「目標」を示せればいいんだけれど、現実には、もうちょっとやはり卑近な、あるいは感情的な、あるいは人間のマイナスの感情に訴えるようなわかりやすい、目標をかかげた人がリーダーに選ばれることの方が多い。

けれどもどちらにせよ政治やる人というのは「下水道屋さん」である以上、世の中の汚いものに取り組まなければいけないので、そしてその下水道屋さんには利権とか権力とかが集まる以上、得体のしれないいろいろのものがそこにあって当然なのは誰もがわかることであって。

そういったものに深くかかわっているのはやはりトランプさんよりはヒラリーさんなのだろうから、現実的な「支配」ということをより理解しているのはヒラリーさんだとは思うけれども、その「支配」の成れの果てとしてのヒラリーさんは、庶民の不満と被害者意識の象徴であるところのトランプさんと同じくらい、あるいはそれ以上にuglyなことになっている。

そしてその現代社会を長年牛耳ってきたところの「支配」ってものがあったとするならば、その「支配」すらも既に陳腐化して来ているのかな、というのが自分の肌感覚だし、きっと皆さんもそうなんだと思う。陳腐化した支配の成れの果てのゾンビであるところのヒラリーさん。

トランプさんを支持する人たちの気持ちも、決してわからないわけではないのだけれど、けれどもここまで、僕もいくつかのトランプ支持の記事とかポストを読んでみたけれど、およそそのほとんどが感情的な趣旨の内容に終始していて、納得できるものはなかったというのが本音である。

僕はキリスト教徒のはしくれではあるが、いつも言っているが、アメリカと日本ではキリスト教徒の社会的、政治的なポジションというのは結構異なり、それってすごい笑えるジョークというくらいの皮肉なんだけれども、どちらにしても僕は基本的にリベラルの人間だ。
だから、アメリカの保守派のクリスチャンの人たちが言っていることには、大抵納得しないし、それ違うよね、君たち、それ、わかってないよね、それってアメリカンコンザバティヴであって、クリスチャニティじゃないよね、って思うことの方が多い。

つまるところ、アメリカのクリスチャニティがちょっとばかし「政治的」過ぎるのは、社会的に、教会がやっていく上で、その方が有効であり、都合がよかった、ということに尽きると思う。

そんでもって、いつも僕が持論として言っているように、政治というのは、政治的立場っていうのは、ひいきのスポーツチームの応援とまったく同じで、非常に感情的なものだ。

だから、そうした感情的な要素で人々をひきつけ、まとめるために、アメリカのキリスト教にとって、政治的なトピックというのは非常に有効だったのだと思う。

どちらにせよ、今回の大統領選挙を通じて、民主主義もほぼ確実にぶっこわれたし、そんでもって、共和党もかなりぶっこわれてしまったのだと思う。

昨今の日本の政治情勢としては、政権やってる自民党とかの人たちもかなりどうかと思うが、それ以上に左側とか野党の人たちがギャグにもならんくらいどうしようもない体たらくだという現状がある。

けれども、それとは逆に、オバマさんが8年間大統領やってきて、ここ最近のアメリカの右側の人たちの、ちょっとかわいそうになるくらいの状況というのも、なんだか感じる。
その上で、トランプさんが登場して場を荒らしまくってしまったことが、非常に、なんというか。気持ちはわからないでもないのだが。

いつの世においても保守派というものは大抵そうだと思うし、僕自身も音楽やる上とかいろいろの意味において保守的な面を持ち合わせているので(伝統にこだわってしまうところとか)、気持ちはわかるのだが、
特に今のアメリカ国のコンサバ、保守の人たちというのは、「被害意識を持った人たち」であると思う。
つまり、現代の世の中において、彼らは常に「自分たちの価値観が危機に晒されている」と感じているんだと思う。

僕はキリスト教人口が1%ないしはそれ以下と言われている日本に住んでクリスチャンやってるので、アメリカに演奏しに行った時とか、日本のために祈ってくれ、と、日本ではキリスト教は全然ないんだ、と言っていたんだけど、
そこでアメリカのクリスチャンからよく返ってくる返答としては「アメリカも同じだ。アメリカではキリスト教は危機にさらされている。Our Christian value is under attackだ。」などと言われて、いやそれ違うんだけど、俺が祖国のことを心配しているのは純粋に霊的な状況のことであって、あなたたちが性的マイノリティの人々やイスラム教徒に対して良くない感情を抱いていることとはまったく別の問題なんだけれど、とその都度思っていたのだが。

だからアメリカの自称right wingの人たちは「fight back」っていう言葉が好きなんだよね。そういう発想なんだと思う。つまり、自分たちはあくまで「攻撃されたことに対して、やり返している」だけなんだ、と。
それはそれで、同情もするし、気持ちはわからないでもないが、でも正直なところ、やはり少し、お花畑な人たちだと、僕は思う。

どちらにしてもアメリカにも素敵な人たちはもちろんいるし、保守派のクリスチャンの人たちの中にもいかした人たちはもちろんいる。
だけれども、キリスト教徒やってみて思うことは、まあどこに国のどの宗教だってそうだけれど、日本は仏教の国だと言っても真面目に仏教を勉強して実践している人なんてほとんどいないように、アメリカがキリスト教の国だといっても、そして特に「キリスト者」のはしくれとして言いたいのは、ジーザスっていうのは宗教じゃないんだから、十字架っていうひとつの真実であり生き方なのだから、たとえ宗教とか文化慣習としてキリスト教というものが形になっていても、実際にイエス・キリストの背中を追いかけて十字架を背負って生きているやつなんて、そうそういやしない、ってこと。
というかイエス・キリスト自身がそう言っている。すべてを捨てて十字架を背負うやつしか、俺には付いてこれないぜ、って。
だからそんなに簡単なことじゃない、ってのが俺の実感だ。

かといって、信じることによる罪の許しは万人に及ぶ、、、
って話し始めると長くなって際限がないけれど、ここは実のところ民主主義の本質にも関わってくる重要な部分だったりもする。

そしてそれはキリスト教に限った話じゃなく、仏教にも大乗仏教とかあるように、宗教家なら誰しも悩んできたテーマだったはずだ。
要するに、どうやったら「全員」を導き、「全員」を救えるのか、ってことについては。

聖書の読み方については俺もいろいろ意見はあるけれど、
ユダヤ教とかイスラム教の人ならともかく、
キリスト教徒であるからには、俺は聖書っていうのは「イエスキリスト物語」だと思っている。神の子であり人類のスーパースターであるジーザスクライストの超スーパーヒーロー伝説である、と。

だからそこにしかるべき聖書の読み方ってのがあるし、読み方における注釈とか、行間の読み方ってものもあると思っている。
なんにせよ聖書が「完璧な書物」であると断じるのであれば余計に、それは決して2次元とか3次元で読み解けるものじゃなくて、4次元とかそれ以上の構造を持っている。
だからこの書物の構造とか読み解き方そのものの中に、この世の中の仕組みとか構造が織り込まれてしまっている。
だからもう笑っちゃうくらいの皮肉というか神のジョークがそこにある。

神が書いた書物であるとすれば、神は夏目漱石よりも優れた作家であることは間違いないのに、多くの人々は夏目漱石以下の読み方しかしていないからだ。ていうかまず夏目漱石のジョークすらわかるかどうか、という。

だからつまりはイエス・キリスト本人だってちゃんとそう言ってるしそう書かれているはずなんだけれど、
だから聖書という書物が完璧であればあるほど、そしてそれが神の手によるものであればこそ、そしてそれを理解すれば理解するほどに、「こんなもんただの本だ」と言えるようでなければならないと俺は思う。

イエス・キリスト物語としての聖書がどういうことかというと、物事には、そして何を教えるにも順番というものがある。そして段階というものがある。
誰だって小学校一年生から初めて、足し算とか九九をやるものだ。
そして中学校で二次方程式とかやって、高校になれば微分積分とかやるもんだ。
そしてその内容が高度になればなるほど、そこにはいろいろな条件や例外といったものも増えていく。

イエス・キリストはやってきて、そして言ったんだ、「いいか、おまえら、本当のことを教えるぜ」って。「この真実でおまえらを自由にしてやる」って。
それからもう、すでに2000年がばっちり経ったわけだ。

大学に入って高度な専門教育を習う段になって、足し算とか九九がどうと言っている場合じゃないんだ。
現実に目の前にある高度な問題を解かなきゃならないんだぜ。

さて民主主義。

そんな「政治的」なものに縛られてしまった「被害者」であるところのアメリカの多くの保守派の人たち。平たく言ってしまえば善良な人たちだ。多くは模範的な市民の皆さんだと思う。
その人々が、世界の現状に対して感じているギャップと不満。

それらのものが、ついに臨界点に達してしまったんだろうね。
そして、現代民主主義の矛盾の臨界点。
そして、「支配」というものの臨界点。

それの象徴ないしは化身として顕現したのが、放射能から生まれた怪獣ゴジラ、じゃなくて、リアリティショーから生まれたトランプさんなのかも。

だから、トランプさんが、それらの人々の負の感情を集め、増幅し、代表していることに対して。
僕だって、批判的な思いは抱いている。
トランプさん自身が、民主主義を頭から否定するような言動を繰り返しているし、
そして、それを支持する人々も既に民主主義ってものから逸脱している。
それは民主党の方でいえばバーニーさんが出てきたのと同じような背景で。
つまりは、右も左も、民主主義の仕組みそのものを、信じることが出来ていない。
そこにあるのは、疑いと、不信と、不満だけ。

悪いことに、世の中はインターネット時代。
21世紀になって、ソーシャルメディアの時代になってわかったことは、インターネットというものは、人々をひとつにつなげるのではなくて、人々をばらばらに切り離していくものだった。

インターネット時代にあっては、皆、自分の好きな情報しか見ない。そして自分の好きな情報しか信じない。
あっち寄りの人は、あっち寄りの情報しか見ないし、こっち寄りの人は、こっち寄りの情報にしか接しない。ああいう趣味の人は、そっちに突き進むし、こういう趣味の人は、際限なくそちらに走って行って、それを皆が追いかける。そして、そこにニーズがある限り、情報は提供される。そして、インターネット時代にあっては、嘘からマコトを作り出すことは、これ以上ないくらい容易い。何が本当で、何が嘘なのか、わかりゃしない。
そして、そもそもが、本当である必要すら、実際のところ、ない。
必要なのは、アクセス、バズ、バイラル、そんでビュー。

だから、この大統領選挙だって、ここまで見ていて、すでにもう、何が本当で何が嘘なのか、誰もちっともわからなくなってると思うんだよね。
インターネット時代の民主主義の、これが現実なのかという、見るもひどい、この惨状。

「ゾンビ」か「怪獣」か。
勝つのはどちらか。
もう、どっちでもいいよね、正直なところ。

どうかな、俺が、もしアメリカ国民だったら、誰に投票するのかな。
リベラル寄りだから二択ならヒラリーさんか、とも思うが、やはりヒラリーさんは怖い。
かといってトランプさんに投票するほど投げやりでもない。
だけれども、いっそ世の中の仕組みが徹底的に壊れりゃいいや、という意味でトランプさんに投げてみるという気もしなくもないが、まあ良心が痛むよね。
ちゃんと調べてないけれど、そしたらオバタリアンとかそういう第三勢力とかに投票することになるのかなあ。でも、そっちの候補さんもアレっぽいって話だしね。
どっちにいってもどうしようもない「詰んでる」状況だからこそ、どうしようもない、ああこうして人類は衰退と滅亡に向かっていくのかな、っていう。

そんなふうに悲観していたんだけれど、
冒頭にも触れたように、ああこれはそうじゃなくて、もちろん民主主義の終焉ではあるんだけれども、民主主義どころか、政治というものそのものの陳腐化なんだ、と気付いたら、なんか気が楽になった。

だから、2011年に原発が壊れてからこっち、そういう思いは強くなっていたけれど、
この「滅亡した後の世界」においては。
皆が好きに生きればいいのだと思う。
戦争したい人は戦争して。
テロしたい人はテロして。
不満を述べたい人は不満を盛大に言って。
ハッピーになりたい人は、際限なくハッピーになればいい。

誰もそれを止めないし、止められない。
止められるようなものは、もう正式にはこの地球に存在しない。
政治というものも、支配というものも、ぜんぶ陳腐化してしまった。

これは、音楽業界の状況とまったく同じ。

何も恐れる必要はない。
もちろん、人は、殺し、殺され、
誰だって明日、ナイフで刺されたり、銃で撃たれるかもしれない。
でもそれは、いつだって同じこと。
自由は、不安と危険の中にしかない。

でも、何も恐れる必要はない。
支配者と、被支配者の関係は、いつだって相対的なものだ。
でも、それすらも、もう曖昧になってしまった。

自由と民主主義の行き着いた先の世界。
堕落と無秩序の祭りの後。
人の手で、支配できるような段階ではなくなってしまった。
この無秩序な地球。
本当に地球は狭くなった。
そして、その狭い中に、ロックンロールという無秩序は鳴り響いた。

誰が何も言わなくとも、政治というものそのものが、過去のような形のものは、無くなっていくんじゃないか。
ミュージシャンという職業が、限りなく陳腐化し、現実には無くなっていくように、
大統領という職業も、そのうち、無くなっていくんじゃないかな。

代わりにあるのは、皆がそれぞれにミュージシャンであるように、
皆がそれぞれ、大統領であるような状況。

これでいいのかもしれない。
もう、人の手の中にはない。
Spotifyから流れる音楽のように。
あるいはBandCampとかSoundCloudに無秩序にアップロードされる音楽のように。
もう誰も、それを管理できはしない。
形がないのが、新しい民主主義。

その上にあるものは、
そんな時代の、人々の上にあるものは。
その先を言ってしまっては野暮になる。
好きな名前で呼べばいいと思うよ。

同じことをいつまでも続ける必要はないんだ。

No(4760)

■…2016年11月 7日 (Mon)…….XTJ2016パーソナル振り返り
さて2016年度のThe Extreme Tour Japanも終わり。
ビクトリアノ兄弟も無事に帰国して。
僕も一息ついたところ。

人から何かを学ぶことがあるのは良い事ですが、
まあ僕も怠け者なんであんまり人から学ぶとかしないですが、
XTJが終わったらジェルソン君のギターソロをコピーしようと思っていたので、
既に「限りのない勝利」と「装うことないさ」のギターソロをコピってみました。
過去に友人が主催していたギター速弾きコンテストに関わっていた時は「よくあんなの出来るなあ」と思っていましたが、歳食って長いことギター弾いてると、いつのまにか出来るようになってるもんで、たとえ僕のスタイルはあそこまでテクニカルではなかったとしても、真似して弾いてみれば十分にコピれるものでした。やるじゃん、俺。なんというか、ここまでギターを弾き続けることが出来たことに感謝です。

さて、今年のXTJ(エクストリームツアージャパン)の総括みたいな日記を書きたいと思います。
そうはいっても、昨年とか一昨年みたいな主催者のフラットな目線からではなくて、もうちょっと個人的ないち参加ミュージシャンとしての視点からの文章になるかもしれません。

何度も書いているように、今年のXTJ (The Extreme Tour Japan)は、余録というかおまけのようなつもりでした。昨年まで、2013、2014、2015と3度やって、もういろいろと限界が来ているので、これでやめにしようと思っていたのだけれど、Calling Recordsの仲間が居ること、そしてなにより、地球の裏側はチリに、なぜか日本語でJ-Rockをやっているクリスチャンロックバンドが居て、日本に来る気まんまんであること。そういうありえない状況があったので、もう一回だけ、この地球の裏側の連中を日本に呼んで、彼らの日本でコンサートするという夢を叶えよう、と。
そういう動機で、「規模は小さくていいからもう一回だけ」そういう気持ちで行った今年のXTJでした。

しかし終わってみれば、結果として初年度である2013年に近いくらいの、それに次ぐくらいの成功と祝福が得られたように感じています。
なんていうんだろう、「皆の夢が叶う」っていうのかな。
皆の夢が叶うためのXTJ、そんなツアー、そんなイベント、って、なかなかいいんじゃないかって思っています。

地球の裏側に、日本への愛を持った、熱い連中が居る。そいつらの夢を叶えるだけでも、やる意義があるんじゃないかって。
そして、そこにいろんな人の夢が集まって、今年のXTJは行われたんだと思います。

もちろんそこには、一緒に戦う同志であり仲間であるCalling Recordsの面々。
そしてまた、XTJに、CRに、ビクトリアノに、関わっていただいた色々な人々の存在がありました。

来日中、ビクトリアノはずっと人気者だった。
いろんな人たちや、いろんなアーティストが、彼らと交流していた。
僕はそれはいいことだと思う。
確かに彼らを今回日本に呼んだのは、XTJでありCalling Recordsなんだけれど、これからの彼らの日本での活動、チリでの活動は、彼らが切り開いていかなきゃいけない。そのために、彼らが様々なつながりを今回の来日中に作れたのであれば、それはきっと彼らが得た大きな財産になったはず。

だから来年とか今後、今回知り合った何組かの日本のアーティストたちが、チリにコンサートをしに行くかもしれない。そういうのを皮切りに日本とチリの音楽シーンがつながっていけば、それは素晴らしいことだし、そのひとつのきっかけを作れたのであればそれはなかなか意義があることだ。

昔からそういうふうに考えてたよね。つまり、ドイツに行ってサシャ・ピートやアマンダ・サマーヴィルと仲良くなったんであれば、そのつながりを生かして、皆にいろんな交流の機会を作ってあげたい。
アメリカに行ってThe Extreme Tourという人たちと仲良くなったんであれば、それを自分の功績にするんじゃなくて、日本とアメリカのクリスチャンアーティストがつながるきっかけにしたい。
そういう中で、人と人がつながったり、皆の夢が叶うんであれば、少しでも意義があったかな、って思えるじゃん。

つまり、僕は昔からこういう性格で、人間嫌いも甚だしく、世間との距離も遠いので、「皆でやれば」って感じにどうしてもなるんだよね。自分はめんどうくさい、というか。
そしてなにより、自分が欲しいものというのはたったひとつであり、それが何かは(なんとなく)わかってる。
だから、それ以外のいろんなものに対しては、別に皆にあげるよ、って感じになるし、その方が面倒がなくていい。

いずれにせよ、「もうやめようかな」と思っていたこのXTJという企画、海外のクリスチャンアーティストを迎えて回る、という企画だっただけに、今回のVictorianoを日本に迎えるための土台としては、ばっちりだったわけだ。

仲間であるCalling Recordsの皆さんの頑張りについても書きたいけれど、
まずは今回の目玉であったビクトリアノについて書いてみよう。例年と同じく、講評、みたいな感じで。先生かよ、という感じだけれど。

XTJに参加する海外からのゲストバンドとして、僕ら日本の主催側として望む要素として、人々とのコミュニケーションがしっかり取れる、ということがどうしてもある。
それは、エクストリームツアーはその本質がコミュニケーションにある、ってこと、なぜって「宣教、ミッショナリー」のツアーなわけだから。
そして、行く先々で人々としっかり、フレンドリーに、オープンに、コミュニケートしていく中で、XTJの大事な部分というのは達成される。
その意味で、今回のビクトリアノの人たちは十分に合格点だった。もちろん、そのほとんどの部分はシンガーのセルヒオ君の存在が大きかったのは言うまでもない。なにしろ、彼はたどたどしいながらも日本語をしゃべり、日本のことが大好きで、非常にオープンにフレンドリーに、ひたすらなれなれしく(笑)、行き交うすべての人にコミュニケートしていたのだから。

人間性ということについては、セルヒオ君もジェルソン君(スペイン語的にはヘルソンが正しい発音だと思うが英語っぽくジェルソンがステージネームのようだ)も、「ちょっとアレ」なところがあるのだけれど(一緒に行動してればわかりますよね)、それはアーティストならば当然あることだし、だから3人の中で「一番冷静」というのか「いちばんまとも」だったのはドラマーのダミアン君だったのは皆が認めるところだと思う(笑) 兄弟に振り回されて日本まで来ちゃった感がにじみ出ていた(笑)。

しかしどちらにしてもまったくもって「いいやつら」だったのは間違いない。
南米の人ということで陽気ではあったが、チリは南米の中でも比較的きちんとした国民性のようで、そんなに羽目を外すこともなく、ぶっちゃけ「今までのXTJでいちばん手がかからない人たちだった」と言っていい。だから引率はとても楽だった。まあ、メタル男子3人だけ、ということで、女の子がいなかったのも大きいかもしれない。

信仰という面については、そんなインターネットを通じて知り合った海外のバンドを日本のクリスチャンツアーに突っ込んでしまう点についてはいろいろネガティヴな意見もあるだろうけれども、そこはほら、ロックンロールということだと思う。
信仰については難しいトピックであるし、また今回は言葉の壁もかなり大きかったことから、そんなに深い話し合いが出来たわけじゃないけれど、それでももちろんそれなりには信仰のことについて話したし、ひとつ間違いのないこととしてビクトリアノ兄弟は二人とも非常に熱心なクリスチャンだということ、これは間違いない。
そして、結論から言えば問題がなかった。違和感なく付き合えた。
いや、「違和感」はいろいろとあったけれど(笑) それはすべて笑い話の範囲のことだ。だから笑い話としての突っ込みどころはやはりたくさんあった(笑)。
コンサートの中においても、馬鹿みたいにロックしつつも、要所でちゃんと神への信仰ってことに触れていたし、十分に合格点だった。まあ、言ってしまえば現状のXTJでは、音楽を通じて信仰のメッセージを伝えるということについては実際のところ日本人アーティストが担っている、という現状もある。

XTJにおいては、日本に来るアーティストに対しては、自分たちを売り込むことや、自分たちの成功よりも、神の愛を伝えること、神に仕えることを優先して欲しい、ということは毎回言っている。
けれども今年のXTJはその辺りちょっと趣旨が違い、ビクトリアノありきでイベントを計画したために、彼らに対しても「せっかくだからがんばって日本で売り込みやってね」という感じだった。でも、それは日本という国への愛も理解も十分にあるVictorianoだからこそ言えたことだろう。

音楽的な面では、そうだね、僕自身もImari Tonesというバンドのリーダーとして、その立場から発言すれば、ビクトリアノは対バンの相手としては「ちっとも驚異じゃなかった」というのが本当のところだ。理由は、見ればわかる、としか言えない。
だが良いことを言えば、彼らの人間性や、ステージング、音楽性の中に、他者を排除するような要素よりも、もっとほんわかとした、「ミンナデタノシミマショウ」といった感じのムードが漂っているのが大きい。つまりは、キャラクターとしても音楽性としても「ダサかっこいい」存在なのだ。だから、競争相手としての対バンとしてよりも、一緒にツアーを作っていくための仲間としての意識の方が大きかった。でもこれは実際、エクストリームツアーとしては大事なことだ。どちらにせよ、昨年のXTJであったような「霊的な軋轢」がまったくなかったのは良いことだった。まったく、まったく、まったくなかったと言っていい(笑) むしろ無さ過ぎた。

そのフレンドリーなダサかっこよさは、もちろん彼らの「凄さ」でもあって、たとえば今世界中で大ヒットしている「ピコ太郎」に対して、誰も嫉妬したりうらやましいと思わないのと同じで、まったく警戒せずに楽しめてしまうのだ。そして、気が付けばみんなで盛り上がっている。これはたぶん、彼らの最大の武器だろうと思う。

期間中の日記にも書いたけれど、セルヒオ君は天然キャラで、あやしい日本語であやしい歌を歌っているけれど、実際はドラムを叩かせると名人級の腕前で、ドラムの前に座るといきなり人が変わったようにイケメンになる。
そして実際のところドラム担当のダミアン君は、会話している声もすでにピッチが高いことからもわかるように素晴らしいハイトーンを持ったヘヴィメタルシンガーで、以前はStratovariusのコピーバンドのシンガーもやっていたというくらいだから、実際のところ歌はセルヒオ君よりもよっぽど上手いのだ。だから、バンドの演奏力としてはセルヒオ君とダミアン君が入れ替わった方が格段にパワーアップするのだ。しかし、そうしてしまうと「ただの上手いバンド」になってしまう。そして、リードシンガーに求められる役割とは、ただ歌が上手ければいい、というものではない。キャラクターとかメッセージとかルックスも含めた存在そのものが求められる。それは、最終日の福生のライヴにおいて、実際にダミアン君がヴォーカルを取ってStryperの”In God We Trust”をカバーした際のステージからも証明されていると思う。いや、素晴らしい演奏だったけれども。

だからビクトリアノというバンドにとっては、必ずしも歌が上手いとは言えないセルヒオ君がフロントマンとしてなんだか笑える不思議な踊りを披露しながら歌い、歌もアンサンブルも同期のバックトラックに頼りまくったサウンドを聞かせ、演奏面のキレはジェルソン君のギターソロに頼りっぱなし、という状況でも、立派に成り立つのだ。バックトラックの同期なんていうのは今時のバンドはみんなやっていることではあるが、それがどうサウンドおよびステージに影響するかというのはケースバイケースだ。彼らの場合、同期でけっこうズルをしていてもあんまり気にならない、というキャラクター面が大きかったのが事実だと思う。つまりはゴールデンボンバーではないけれど、皆が楽しめればそれでいいのだ、というバンドの在り方そのものの問題だ。やる方、聞く方を含めた、音楽との向き合い方と言ってしまえばそれまでの話ではある。

結果的に、行く先々でXTJのイベントは盛り上がり、またビクトリアノのライブも盛り上がって、いくつも素敵なコンサートが出来て、行く先々で喜んでもらえたので、XTJとしては間違いなく大成功であったし、またその中で、ビクトリアノにとっての、彼らの夢も間違いなく、叶っていったのだと思っている。

彼らがこの日本ツアーで何を得たのか。
売り込みに対しても、僕は彼らにいくつかのアドバイスをしたし、来日前からアドバイスや相談をしていたのだけれど、
来日する前のメールでは「がんばって売り込みをしたい。何がなんでも日本で成功しデビューしなければいけない。」みたいな文面を送ってきていたのだけれど、実際に日本の地を歩き、見て、人々に会い、そして演奏をしていく中で、当然ではあるが彼らは変わっていったと思う。良い言い方をすれば、より現実を見た考え方に変わっていったのではないだろうか。だから今の彼らは、おそらくは「なにがなんでも日本でデビューするのだ」ではなくて、「現実にこのつながりを生かして次はこういう活動をしていこう」といったものになっているんじゃないかと思う。彼らは日本語で歌う南米のロックバンドという貴重な存在で、その意味ではどかんとブレイクする可能性も、今の難しい時代ではあるが、決して無くは無いので、大きな野望は持ち続けてもらいたいが、それでも、「ただの夢」だったものが「現実の目標」として次のステップにつながるのであれば、それは良いことだ。

一緒に回っていて、彼らの意識が目に見えて変わった、と思えたのは、前半の山場である10月8日の下北沢CaveBeにおけるコンサートを終えた後だった。
そのコンサートはCalling Recordsにとっても大事な集大成のイベントであったが、その日のコンサートにはチリにゆかりのある日本人の人たちも含めたビクトリアノのファンもたくさん詰めかけていて、また下北沢のライヴハウスという場所も含めて、ビクトリアノにとって「日本で、満員のライブハウスで、盛り上がったコンサートをする」というひとつの夢が叶ってしまった瞬間だったのではなかろうか。
そのコンサートが終わってからの彼らの中に、そうしたひとつの「達成した感じ」というものを、僕はなんとなく感じ取っていた。そして、それを境に、彼らはもうひとつ明確に、自分たちの進むべき現実というものを、見ることが出来るようになったかもしれない。

余談ではあるがCalling Recordsの面々と、いわきツアーやいくつかのイベントを終えた際に、彼らの日本での売り込みと成功の可能性について話していて、やはりセルヒオ君の面白いキャラクターにどうしても注目してしまうので、彼が日本においてミュージシャンというよりはむしろ外国人タレントの枠で成功できるのではないか、という意見が出て、なるほどと思った僕は実際に彼らにそういうアドバイスもしてみたのだ。確かに「ヴィジュアル系になりたいちょっと勘違いした南米人のロッカー」というのはなんだか新しいキャラクターな気がする。うまくいけば、1、2年後にはテレビのバラエティー番組に出ているセルヒオ君の姿が見れるかもしれない。テレビ業界につてのある方はぜひビクトリアノに連絡してみて欲しいと思う。

ツアーのコンサート日程が終わってから、彼らは京都、大阪、奈良、広島など関西旅行も満喫したようだが、ちなみにセルヒオ君に「なんでやねん」という大阪弁のつっこみを事前に教えておいたのは僕である(笑) この言葉を気に入ったセルヒオ君は、関西旅行においてこの言葉を実践で使いまくってすっかり関西人になったようである。まあどう考えても関西が似合うよね、彼。

昨年のXTJにおいて、日程の最後に行った愛知ツアーにおいて、来日バンド組(SikaおよびFilia)と、僕の自分のバンドであるImari Tonesの二者の行動をともにしてのツアーがやっと実現し、「自分のバンドで演奏する中で身を以て伝えられること」が非常に多いことにあらためて気付いたこともあり、
そういうわけではないが、ひとつ良かったこととして今年はこの「Imari Tonesとの二組タイマン遠征」を、XTJの最初に行うことが出来た。
それも含めて、Imari Tonesとは5回、期間中に共演というかステージを共にする機会があったわけだ。
その中で、バンド同士、音楽や演奏を通じて伝えられること、伝え合うこと、それはもちろんたくさんあったし、それは言葉にすることが出来る以上のものだ。
うちのバンドはよくもわるくも聞く人にもやる人にもいろんなものを「突き付けて」しまうバンドだ。だからそこが「近付き難い」「とっつきにくい」バンドであることの所以でもある。
対バン相手として脅威は感じなかったし、対抗意識も無かった、とは書いたけれど、そうはいっても、最低限バンド同士としてジャブを打ち合うくらいのことはあったと思う(笑) その中でどんなものがあったかは、お互いだけがわかっていればいいだけのことだ。その中で伝えられたものこそが、ミュージシャンにとっての本当の意味での「得たもの」だと言える。
どちらにせよ、結果的には、バンド内の数々のトラブルや状況の悪さにも関わらず、Imari Tonesは毎回、水準以上の良い演奏が出来たし、少なくとも自分の中では、毎回どの演奏も「ぶっちぎらせてもらった」という感じだ(笑)。

今回のXTJは、僕にとってもいくつかの「初めて」が、そうはいってもあった。
ひとつは、ビクトリアノの来日中、僕は彼らのサポートとしてベースを弾いたということだ。規模はどうあれ、来日バンドのサポートメンバーとしてツアーを回る、なんてことは、そりゃまあ初めてのことだったのである。

もちろん彼らの音楽は、昨年から何度も聴いていたし、そしてサポートやるんで、ってことでベースパートを覚えなきゃいけないんで、アルバムも聴き込んだ。メールで送ってきたアルバム未収録の新曲も覚えた。
そうしてアルバムを聴き込む中で、スタイルは決して新しくない、むしろ僕たち日本人にとっては懐かしいサウンドながらも、非常に丁寧に作り上げられたその楽曲と演奏に、引き込まれていった。わかりやすく言えば、「キャーっ、ステキ!」となったのである(笑)

しかし実際に彼らが日本に到着し会ってみると、僕のそんな幻想というか妄想はこっぱみじんに砕かれたのである。俺の夢を返せ状態というか。せめてもうちょっとイケメンであってくれよ、と(笑)。オンステージもオフステージも。

言ってしまえば、ビクトリアノ兄弟は二人とも少なからずアレだが、兄のセルヒオ君はアレな反面、フレンドリーな方向性に能力が集中している。それに比して弟のジェルソン君は、アレな反面、能力はばっちり音楽面に集中しているのである。だから実際のところ音楽面においてもビクトリアノの音楽の「イケメン」な部分はおおよしジェルソン君の才能と能力に由来している。まあ、ロックバンドって大抵そうだよね。ギタリストが音楽的なリーダーシップを取っていることはとても多い。

実際、ちょっと体形が太めでそれが親しみやすさにつながっているセルヒオ君に比して、ジェルソン君の方がスタイルもいいし、しゃべるとあれだが、ファッションセンスも至極センスが良かった。ギタリストとしては、まあテクニカルなスタイルにおいては僕よりも上手かったのは事実だが、若さや世代のせいもあるが、まあそれでもつっこみどころは多かった(笑) しかしどちらにしてもビクトリアノの音楽的な根源はジェルソン君の内面に求められるし、セルヒオ君のキャラクターや日本への愛なども含めて、あとは何よりも「兄弟とても仲が良い」ということにすべての鍵があるような気がする。兄弟でバンドやれるのっていいなあ。

まあ俺に言わせればビクトリアノの楽曲なんてそんなに難しくないし、シンプルなもんだと思っていたが、実際にやってみるといくつか問題があって、それはドラムのダミアン君が必ずしもビクトリアノの音楽性であるJ-Rockのスタイルで叩いていない、もっとメタル寄りな叩き方をしてしまっている、ということ、それと変拍子のパートで結構ダミアン君が乱れるので、ベースとしては非常にやりにくいんだよねー、つられてしまうというか、慣れるまでは大変だった。

あとは、ほとんど楽勝と思っていたんだけれど、自分のバンドでステージやるじゃない、で、身も心もふらふらで放心状態になっているところでそこからビクトリアノのサポートでステージに上がると、やっぱ間違えるよね(汗) しょせん、にわか仕込みで他人の書いた曲ってことになると。

といったわけで放心状態で間違えてしまったいくつかのステージに対しては、ビクトリアノのファンの皆さんに申し訳ない、という感じなんだけれど(汗)
とはいえサウンド面ではかなり骨太なサウンドを演出して迫力とグルーヴを出して貢献できたと思っています。

さて、自分のバンドであるImari TonesとしてのXTJ2016について書いておきたいと思います。
自分のバンドImari Tones (伊万里音色)は、2011、2012とアメリカのThe Extreme Tourに関わることで、それが日本でのXTJを始めるきっかけとなり、そして2013年以降もXTJに中心的に関わってきました。

で、今年は長年の目標であった日本の歴史をテーマとしたコンセプトアルバム”Jesus Wind”のレコーディングを完成させ(リリースは来年予定)、さらにバンドの音楽的な終着地点である作品群「鍋島」のデモを完成させ、バンドの未来、というよりはゴールを視界に見据えた状態での参加でありました。

そして、そんな長年の節目となるコンセプトアルバムを作り、最終ゴール地点が見えるところまで来たバンドの内部事情は、決して良く無かったわけです。
なんかしらんけど、バンドの内部の雰囲気は、「Jesus Wind」および「鍋島デモ」完成以降、どんどん悪くなっていったわけです。理由は、うーん、わかりません。神のみぞ知るというところでしょう。

そんな、決して良く無い状況で臨んだ4年目のXTJ。ビクトリアノ祭り。(ビクトリアノの人たちは、俺がいろんなところでベース弾いたりしているので、「ナカミネフェスティバルだ」とか言ってましたけどね笑)

まずはしょっぱなの愛知遠征で、いきなりのトラブル。
その時の日記に書いたと思うので、詳細は省略しますが、結果的に俺は、実に4年ぶりくらいに運転を、しかも日本国内としてはそれこそ10年以上ぶり(短距離は除く)、くらいの運転を、横浜から愛知までする羽目になりました。

けれどなんというのか。ちゃんと生きて帰ってこれたし。(感謝)
そしてそんな状態でもちゃんと歌って良い演奏が出来たし。
この、自分では絶対イヤというか無理だと思っていた国内での運転(それなりに長距離)を、ちゃんとやれた、ということで、なんか自分にとっては精神的なカベをひとつ越えたような気がしています。かといってやっぱ運転とか嫌いなんですが。
(まあ普通に運転ができる人からすれば笑い話だとは思います。)

あんな状態で歌えたんだから、大丈夫、みたいな。

しかしやっぱりバンド内部の状態は不安定でしたので、果たしてXTJの期間中にブッキングされたライヴをきちんと最後までやり遂げられるんだろうか、という状態でした。
というか普通のバンドであればとっくに空中分解している状況だと思います。

しかし、そこはなんというか、バンドというのは一種不思議な共同体であると同時に、恋愛関係ではないけれど、音楽を通じた不思議なつながりです。それはバンドの解散とか脱退が結婚や離婚にたとえられるように。

なので、そこは他人にはわからないし、うちの人たちも、やはりやるべきことはきちんとやるわけです。
そこについては、やはり何度もアメリカを共に演奏して回ったり、いろいろな遠征や冒険や戦いを共にやった仲間としての信頼があるわけです。

しかし「鍋島デモ」を作って、ゴールが見えた時点で、そしてバンド会議なども経て、これからどうしていけばいいのか、ここからどこに向かうべきなのか。そして「やれるのか、やれんのか」なども含めて。

そうしたいろいろの答えが、ひとつの形として期間中に見えてきてしまった、そんなほろ苦い今年のXTJでありました。うちのバンドとしてはね。

そこは、そのあたりの事情や、状況は、周囲には、お客さんはもとより、対バンの皆さんにも、Calling Recordsの仲間たちにも、他人にはわからないことであったと思うし、ましてや地球の裏側から来ていたビクトリアノの人たちには、わかるはずもないことであったと思います。

しかし、どちらにしても、大いにトラブルや不協和音や問題点や演奏面でのミスなどもありつつも、それでもばっちりと「ぶっちぎりの」演奏をすべてのライヴにおいてやることができたImari Tonesであったと思います。

その収穫は、決して小さくはなかったです。

そんでもって、いよいよここからどこへ向かうのか。
うちのバンドの状況と今後の展望については、また別の文章にしてあらためて書き記したいと思っています。

さて、XTJ全体といいますか、Calling Recordsの仲間たちの活躍も含めての、あくまで日本のエクストリームツアージャパン主催としての振り返りです。

初年度から、俺個人では絶対に手に余る、どんどん人に投げて、任せていきたい、と思っていたこのXTJ。
2年目、3年目、と、次第に仲間が増えていき、4回目である今年は、信頼すべきCalling Recordsの仲間たちや、様々の音楽つながりの皆さんの協力を得て、確かに、僕1人がブッキングして計画したのではない、皆で手分けして計画し、作り上げた、そんなXTJになっていたと思います。

そして、その中で、いろんなドラマがあり、本当にいろんなドラマが起きて、
そして、いろんなものが帰結したというのか、make senseしていった。
もちろん、バンド活動、そして演奏というものは、すべてが恋愛のようなものであり、すべてがドラマであり心の交流であるけれども。

愛知の蒲郡ICBCへ昨年に引き続き訪れることが出来たこと、
いわきのブッキングにあたってのパラダイスブルーのジョニーさんの思わぬ訃報、そして無理かと思われたイベントが、奇跡的に良い形で地元の皆さんとジョニーさん追悼の意味も含めたあたたかいコンサートの場を共に作り上げることが出来たこと。
もちろん毎年お世話になっている勿来キリスト福音教会。
下北沢CaveBeでのCalling Recordsの2年目の集大成コンサート。
音小屋においてサルーキ=の参加が実現し、クリスチャンアーティストが集まったこと。
そもそもその前提として9月にオオハラ氏主催のSong of Songsがキックオフイベントの意味で行われクリスチャンアーティストが集まりまくっていたこと。
そして福生チキンシャックにおけるGRB Junk氏とうちの嫁さんの共同企画の形で行われたイベントが非常にロックな内容になったこと。
いろんなものが帰結し、結果が出て、make senseして、そしてその中で、たくさんの人々が笑顔になり、たくさんの人々の夢が叶っていった。

ああそう、たとえば、VictorianoがStryperのカバーやった時に、まさかの、うちの嫁さんがベースとか、ね(笑)。

いつも言っているように、”The Extreme Tour” (引用符はアメリカ人みたいに、二本の指をちょんちょん、とするジェスチャーで)として考えると、この現状では日本のXTJっていうのは、本来の形では、ぜんぜんやれてない。僕も、半分以上、そこはあきらめている。あきらめた上で、今年のXTJを計画していた。
だけれども、たくさんの人たちが関わってくれて、今ある形で、それでもいろんな人たちが音楽を通じて交流し、そして笑顔になってくれるのであれば。
そして、そこに確かに「神様が中心にいる」のであれば。

「エクストリームツアー」(カタカナ発音)としては、これでいいんじゃないかな、って、そう思えた。
日本ならではの、そこに何の線も引かない、何の境目もない、クリスチャンロッカーたちのツアー。
信仰は、それぞれの心が自らに問いかけるしかない。

そして、そんないろんなことが帰結しmake senseしたところの、あくまで「余録」としてやってみた4年目のXTJ。
そこに、アメリカ側との係わりが一切なかったことも、書き記しておきたい。
つまりは、今年は本国アメリカ側のXTのスタッフ達に対しては「南米チリのバンドを呼んでやるから、別に無理してアメリカから来なくていいよ」と伝えて、そして実際にアメリカからは誰も来なかった。
これはつまり、4年目にして日本のXTJは、アメリカ本国とは別の独自の動きをする、という選択をした、ということである。
このことが、どういう意味を持ち、どういう未来につながっていくのか、それは、今はまだ、わからない。

さて、この「エクストリームツアージャパン」はどうなっていくのか。
それは、もう、僕は、やらない、少なくとも中心になって計画は、しない、って前から何度もくどいくらい言っているから、して。

それは、周囲の皆様、企画を引き受けてくれる、あるいは手伝ってくれる皆様、に。
そして、あるいはCalling Recordsの仲間たちの力量に。
かかっていると思います。

だから本当はこの「講評」と「振り返り」の文章も、
Calling Recordsの打ち上げ兼ミーティングが終わってから書こうかと思っていた。

でも、意外と日程が後ろになっちゃったから、今のうちに書いておいた。

本来のThe Extreme Tourというものの意味合いと、形を、俺はまたCalling Recordsの仲間たちに一度、説明し、話してみようと思っています。

その上で、何が出来るのか、出来ないのか。

もちろん、俺も、まだいろいろと、協力を求めることは、しなくてはいけないと思う、それはつまり、XTJや、Calling Recordsを、手伝ってくれる人を、見つけることが出来るかもしれないから。

でも、もう自分ではやらない。
それは、次へ進まなくてはいけないから、求める音を、鳴らすために。
全力で、皆に、任せます。

以上、ありがとう。
関わっていただいたすべての皆さんにありがとう。
サンキュージーザス。
Thank you Jesus!!

No(4761)

■…2016年11月 8日 (Tue)…….テスト
テスト投稿です。

No(4762)

■…2016年11月 9日 (Wed)…….テスト投稿アゲイン
こんな旧式の日記パッドを使っていると不都合も多いもので、
過去ログのデータにいろいろ不都合があったりするものを修正しました。
そしたらまた日記が表示されるようになりましたとさ。
ハローワールド!

No(4763)

■…2016年11月10日 (Thu)…….大荒れクラスルーム
米国の大統領選挙のあったここ数日。
いろんなことが世界で起きているが、
それ以上に自分の中で色々な事が起き過ぎていて、
自分の中で収集しきれていない。

FBでつながりのあるアメリカ人は、僕の場合クリスチャンロックやってる関係でどうしてもキリスト教、つまり大抵は保守派、の人が多いので、
FBのタイムラインにはどちらかというとトランプさんが勝ったことを祝うポストが多い、
が、やはり半分くらいはそれでも、トランプさんが勝ってしまったことを嘆くポストも目につく。

どちらにしてのこの米国大統領選挙はトランプ劇場だったことには間違いはないだろう。
これ以上ないくらいに「感情的な」大統領選だったし、そのことについての分析は面倒だから書かないでおく。

アメリカ人以外の世界の人たちに目を向けれは、これはわりとはっきりと、トランプさんが勝ったことに落胆している人が多いだろう。

けれども前述の通り僕の中ではいろいろなことが示されて、いろいろのことが起きまくっているため、
僕は今、これまでに無いくらいに自分の中に希望が湧いている。

それはもう、10代の頃の情熱を再発見するくらいに希望と情熱がぐわんぐわんと湧き出てきている。
いったいこれはなんなんだ。

いずれにせよ、小学生のケンカのような
声の大きいいじめっこと、嫌われ者の委員長による、
国を挙げてのクラスルーム選挙は、優等生の委員長が嫌われ過ぎて、
いじめっこの方が勝ったみたいでした。

選挙の結果について、または結果の出る前の様々な記事に、
ひととおり目を通してみたけど(インターネットの悪いところ)、

本当に様々な意見があり、様々な立場があり、また様々な考え方があるので、
何が本当に正しいかと言うことは出来ない。

またこれこそ本当に本当だと思うけれど、
その人の世界観、つまりはその人の生きている世界がどのようなものか。
それによって本当に違ってくる。
僕たちは確かに、この地球というひとつの惑星で、同じ時代を生きている。
けれども、みんなが同じ世界観の中で生きているわけじゃない。
また、皆が同じ「時代感」の中で生きているわけでもない。
そしてまた、人生の中で、世界の中で、何をもっとも重視して、何に価値を置いて生きているのか、
それによって、もちろんまったくもって、違ってくる。

世界に対して、どう相対するのか。

面白いことに、
たとえば、その時の時代の状況によって、あると思う。
時代劇の登場人物だったら、幕末の争乱期のドラマであれば、
「こんなことなら医術の道などではなく、剣術の道を選ぶのであった」
とか、その逆もあるかもしれないし。

「こんなことなら商人の道ではなく、仏道を選ぶべきであった」とか、その逆とか。

「こんなことなら法律家の道などではなく、政治家の道を選ぶべきだった」とか。

「こんなことなら考古学などではなく、経済学を学ぶべきであった」とか。

いろいろ、そういう場面は考えられると思う。

でも不思議なことに、面白いことに、
僕はそういうことを思ったことがない。
そして、今もまた、やはり、そう思わない。

そもそもが、若い頃からすでに、政治にも、経済にも、世の中にも、(そして本当のことを言えば宗教世界にも)、絶望してしょうがなく最後の選択で音楽を作り始めたクチだ。
だから当然と言えば当然なのだが。

時代がこんなふうになればなるほど。
俺が思うのは。
「今のこんな世の中で、インディーズミュージシャンに、無名の芸術家に、出来ることが、こんなにもある!」という驚きの方が、はるかに大きい。

そう、世界に対してだ。

特に2010年代に入ってからこっち、本当に、この道を選んで良かったという、よりは、「うーん、こっちで正解だった、というよりは、世の中がまるごと間違っていたのか、なんというか、残念過ぎる」と感じざるを得ないことが多いのが実感である。

ここ数年の日本のみならず世界の色々の流れ。
色々な見方はあるだろうが、楽観している人は多くはないだろう。

俺だって色々悩んで、少なからずショックだったから、「作りたいとは確かに言っていたけれど実際に作ることはきっとないだろうと思っていた」歴史をテーマにしたコンセプトアルバム「Jesus Wind」を、実際に作ってしまったのである。(リリースは来年予定)
これは、悲しい預言書なのだ。
預言者というものは、大抵にして、預言はするものの、「こんな預言は外れてほしい」と思っているものだ。

僕は特に今年、民主主義と信仰というテーマについて色々と考えてきたけれど、
大統領選挙の前に、ネットの様子を見ながら、ひとつ出した結論としては、
それは先週書き記したとおり、
「民主主義の成熟、それはすなわち、政治の、ひいては支配そのものの陳腐化」
という結論である。

世の中のどんな政治、軍事、経済、国際、の評論家が、どんな見方をしているかは知らないが、
俺の見立ては、そういう結論に達しているのである。現状、一応。
まあ、間違っているかもしらん。

どっちにせよ、キリスト教徒やってる日本人の一人としては、多くの日本人の評論家は、アメリカの政治にせよ、国際情勢について語るときに、宗教というものに対する見立てが甘過ぎるな、とは思う。

トランプさんを見ていて、また、トランプさんをめぐって、国中が分断され、引き裂かれる様子を(たかだかネット経由ではあるが)見ていて、
俺は、もっとひどいことになるんじゃないかと思っていた。

けれども、実際は、きちんと、少なくとも民主主義のルールにのっとって、ちゃんと民主主義の仕組みの上で、結果は決着した。
陰謀論じゃないけれど、選挙も操作されている、とか、どっちにしろヒラリーさんが勝つことになっている、とかいう記事も見たけれど、なんだ、ちゃんと「民意」が反映されてんじゃんよ。それとも、やっぱりこれも仕組まれた「陰謀」なのかい。

支配というものの、源泉を説くのは難しいことだ。
表象としての現象を説き、解説することは、人にも出来るだろう。
けれど、その源泉の力学に着目したのは、僕が結構好きでちょくちょく引き合いに出す「科学現象としての」孫子と、そのさらにもう一歩上流にさかのぼって「老子」とか、そういうのくらいな気はしている。

さらにさかのぼるんならやっぱり聖書を読むしかないと思うが、聖書をちゃんと読める人間なんて果たしてどれくらいいるだろうか。(俺に聞かないでw)

人の身に読みこなすことが到底かなわないような書物であるからこそ、聖書ってのは古今東西、政治的に利用されて来たんじゃないか。

俺は、恐れることは無いと思う。
誰かが書いていたけれど、「アメリカの内戦」は、既に起きた。
確かに人もたくさん死んだと思うし、ひどいことも多々起きた。
でもそれは、人々の心の中で、そしてインターネット上で主に行われた。

戦争っていうなら、とうに起きている。
それは、説明するまでもない。
そして、明日には俺だってその犠牲者になるかもしれない。

戦争は、人を殺すことだ。
妊娠中絶も、人を殺すことだ。
どちらにしても人を殺すことに違いはない。
けれども、人間というのは、人間社会というのは、
どちらにしても他者を殺し、他者から略奪することで、
大なり小なり成り立っている。
そうでない生き方をしたいと思うのは自然なことだ。
僕には現状のところ、ベジタリアンにはなれそうもない。

戦争がなくなる日が来て、
殺人というものもなくなり、
盗みもなくなり、
人々が、間違いを犯さなくなる日が来て、
誰もが誠実で嘘を付かず、
誰もが愛というものを信じて、理解して、
自由というものを尊重して、他者に寛容になり、
その日にはきっと、妊娠中絶だって無くなる。
そしたら俺も、肉を食べずに生きていけるようになるかもしれない。

現実には、世の中には、戦争もあれば、犯罪もあり、妊娠中絶もある。
それらはすべて、「しょうがないからそこにある」わけだ。

俺は、どっちかというと、それらのものを非難するよりは、
それらがなくなる、そんな日が来ることの手伝いがしたい。

経済も、軍事も、国益もいいでしょう。
最善を尽くしつつ、最悪に備えるのであれば、
軍隊だってきっと必要でしょう。

けれども、俺はそういうものにはぐっと来ないんだよね。
人間であれば、
もっと大きいもののために、
もっと輝かしい未来のために、
人生を捧げたい。

俺はそっちの方がいい。
そして、世界にはすでに、そう考える人間の方が増えていると俺は思う。
そして、もっともっと増えなければいけない。

それが、俺が指摘する「政治の、ひいては支配の陳腐化」というやつだ。

誰が大統領になるか、なんて、誰も気にしない。
なぜなら、「支配」ってやつは、もうそこには無いのだから。

ここ数年、特に近年の世界における「民主主義」ってやつの行き詰まりを見るにつけ、
俺は、新しい時代の、新しい形の民主主義とは、
「その次の」民主主義って、どういうものだろう、どういう形をしたものだろう、
って、ずっと思ってた。

でも、なんかそれが見えてきたような気がしている。
政治そのものが、そして、支配そのものが陳腐化すること。
それこそが、民主主義というシステムの、「究極」であり「真髄」であり、そして、必然だったんじゃないかと、俺はそう思う。

だから、衆愚政治、どんと来い、だ。

支配される側、っていうのは、いつだって、支配する側よりも、はるかに強い。
はるかに、だ。

「次の」民主主義。
それがやってきた時、「支配」というものは、いったいどこにあるのか。
うん、それは、目には見えないし、形にもきっと、できない。

だからこそ、俺たちインディーズミュージシャンに、重要な役割があるんじゃないか。

わかってる、俺は、とっくの昔から、政治に落胆し、政治ってものを信じてない。
特に現代の民主主義システムは。

けれども、「神の支配」ってやつを、疑ったことは一度もないんだ。
Let there be truth.

No(4764)

■…2016年11月10日 (Thu)…….原点ホープ
さきほどの米国の「誰がいちばん嫌な奴か頂上決戦」の話題と一緒に絡めて書きたかったんですが、
ここ数日、自分の中でいろいろなことが起こり過ぎていて、
興奮を押さえ切れていない・・・
本当に年甲斐もなくいい歳をして。
いつもよりさらに2割増でアレなことをアレなテンションでタイプしていますが・・・

うちのバンドImari Tonesをめぐる状況の報告を、友人の皆さんだけには、日本語で(日本語で個人アカウントにこうして書くぶんには海外の「ファン」の皆さんにはほぼわからんからなw)、
報告しておきたいと思ってはいるんですが。

今年、自分の人生の中での非常に重要な預言書ヘヴィメタル作品”Jesus Wind”を完成させ、さらにそこから「鍋島デモ」を完成させてからこっち、
バンド内でもいろいろのことが起こり過ぎていて、
本当にどうしてこんなことが起こるのか、そして、ここからどうやっていったらいいのか。
少なからず悩んでいたのは認めざるを得ないところなんですが。

ここへ来て、ここ数日、神さんからの「啓示」がばーんばーんと降り注いで来ておりまして。

そして俺は気付いた。
いかに、自分が、これまで、「バンド」という枠組みに、捉われ過ぎていたのかを。

そして、「ヘヴィメタル」という音楽の文脈と枠組みにも、いかに捉われ過ぎていたのかを。

だから、俺は今、なんだかあの10代の頃の情熱に立ち戻っているんです。

そこにあった、夢見ていた、本当の「コミュニケーション」を。
伝えたかった、本当の「メッセージ」を、
そして、そのために必要だった、「本当の歌声を」。
そして、本当の「ソングライティング」を。

きっかけは、やはり、この「鍋島デモ」および、その前奏曲である「Overture EP」(EPつっても8曲入りの予定。もはやアルバム。)の歌詞を、既に全部書き上げていますが、それらの半分以上が、日本語の歌詞だったこと。そして、英語の歌詞についてもそうだけれど、「あ、ひょっとして、やっと、本当に言いたいことが言えたかも」というものであること。

でね、主体性、ってことについて、いつも考えるけれど。
それは、世界に対してもそうだし、ここ何年もツアーしたり、エクストリームツアーを通じて付き合ってきたアメリカってことについてもそうだし、日本ってことを考えてもそうなんだけれど。

そしたら、自分が立っている場所の貴重さってのか、かけがえのなさ、みたいなものに、ようやく気付いて。
もちろん今までも気付いていたけれど、よりはっきりと、それを自覚して。

これも「政治情勢」のせいですよ。
結局、音楽は政治ですからね。
それを政治とか経済とか実務社会のレイヤーでやるには「とっくに手遅れ」と判断したからこそ、若き日の私は絶望して、より上のレイヤーにさかのぼるしかなく、「せめて音楽で」やるしかなかったんですけれど。

だから、やっとこの歳にして、本当の意味で「政治的な」そして、クリスチャンアーティストとしては当たり前ではあるけれど「宗教的な」メッセージを、発することが出来るようになるかもしれない。

「日本人」で、「クリスチャン」、だからこそ、世界に対して伝えることが出来るメッセージは、きっとある。
そんでもって、「信仰」ってことに対して、伝えたい愛のメッセージは、もっとある!

さっきも、バンドのFacebook Pageにコメント書こうかとも思ったんだけれど、やっぱし急いたことはやめておこうと思った。

行動で示すことの方が重要だ。

行動?
俺はずっと、もっともっと行動したかったんじゃないのか。

やりたいことは、もっといっぱいあるし、そして本当は、もっといっぱいあった。

でも今、「バンド」という枠組みを考えなくて良いところまで来た。
そしたら、もう僕を縛る「枠」は無くなる。
そっちの方向でどんどん、自由にしてみよう。

バンドというものは、貴重であり、贅沢なものだ。
でも考えてみれば、バンドで音を鳴らすことに、アンサンブルで音を鳴らすことに、
これまで、多くの労力と、時間と、様々なものを費やしてきた。
それは、とても贅沢なことだ。
だけれど、それは反面、その他のいろんなことを犠牲にしてきたということでもある。

「本当の自分のうた」に立ち返る、
いや、少なくとも10代の頃の自分に、その「本当の自分のうた」を歌う力は無かったのだから、ここで初めて、「ずっと鳴らしたいと思っていた」本当の自分のうたを、やっとこれから、歌うことが出来るのだ!!
それは、どんだけ、積み重ねないと、いけないものだったというのか!!
そんな高いハードルに、遠い道のりに、気付かず、自分はずっと、向かっていたというのか!
そして、楽しくここまで歩いてきたというのか。

この情熱は、いったい何なのだろう。
やれるかどうかはわからんが、不安よりも興奮の方が先に立っていることに気付くにつけ、これは俺は、思ったよりも重症なのだな、ということは、多少は自覚している。
神よ救いたまえ(笑)

No(4765)

■…2016年11月10日 (Thu)…….FBポストいつものようにcopyandpaste
こんな感じ。俺は決意したよ。世界に対し伝えていくメッセージがもっとあるということを。そんで日本人のクリスチャンにしか伝えられんものがあるということも。
たぶんバンドという枠をとっぱらって来年以降それを少しずつやっていくつもりだ。
そんでさりげなく「鍋島」のアナウンスを初めて英語でしているww

Long Story Short:
As a Christian artist who has toured in USA more than a couple of times, I have many friends in USA and most of them are Christians. So it’s fairly natural that most of them are happy with the result of their presidential election this time around.
However, as a Christian artist from JAPAN, where being Christian usually considered “very liberal”, I feel like there is some message we can offer to the world.

I firmly believe one’s political position has nothing to do with his/her faith in God.
No matter where your standing point in politics is, we all should agree with this:
We are all sinners.
God is Love.
And Jesus died for us.

I’ve decided from now on we should offer to the world with stronger, clearer message of Love. In Japan Christian is just 1% of the population but there is something only we can do. I’m proud to be a Japanese Christian.

Have we written the songs yet? Yes we have. Both in Japanese and English language. (That music is called “Nabeshima”. The ultimate music from Imari Tones.)

Since we have so many things cooking and much homework to do, it will still take some more time to bring those “messages” to you. But we promise we have many exciting things coming.
Next year we will release a very important concept album called “Jesus Wind”.
So please stay tune.

God please help us, so that the people around the world unite and love each other, not deny each other.
In Jesus name.

God bless you all,
Tak / Imari Tones (Japan)

No(4766)

■…2016年11月14日 (Mon)…….Sail away
未だ見ぬ新しい世界に向かって船を漕ぎ出す、そんな歌が昔から好きだった。何も持たず、勇敢に、未来に向かって旅立つそんな歌が。けれどもある程度年齢を重ねると、何も持たず海に漕ぎ出していくその人が、きっと色々なものを置いて、色々なものを捨てて来ているのだ、ということに思い当たるようになってくる。何かを得るということは、何かを失うこと。何かを選ぶということは、何かを捨てること。ミッドライフクライシスなんて使い古された言葉は使わないが、これから僕は何を捨て、何を持って、あるいは何も持たずに、新しい海に漕ぎ出していくのだろうか。[いよいよ僕は、人生の終盤に向き合うことになる]なんて書いたら、ほとんどの人は笑うだろうが、時は万人に平等に進んだとしても、持っている時計は、ひとりひとり決して同じではないのだ。

No(4767)

■…2016年11月21日 (Mon)…….キャンディレッド Winning Dog
先日触れました、2004年より使ってきたMusicman Axis-EXSの赤いやつ、そうこう言ってるうちに売却しちゃいました。ちょっとしたことでしたが、売ろうと思い立って勇気出して休日にお店に行こうとしたら定休日で、そんな些細なことをきっかけにしばらく鬱になってしまったりと、色々ありましたが。

しょせんは安い値段で売られていた日本製の廉価版モデルとはいえ、素性の良い、つまりはFenderの遺伝子がちゃんと入っているMusicmanのギターです。
これまでもたくさんの録音に使っていたりと、「ワークホース的な酷使すべきサブギター」として活躍してくれてきたように、明らかに「当たり」の一本だったのだと思います。この赤いのが「サブ」であったように、2002年から使っているピンクのやつが「メイン」扱いだったんだけれど、ぶっちゃけ生鳴りとかは明らかにこの赤いやつの方が上だった。かといってピンクのやつも素晴らしいギターだけれども。

また、今回売却するにあたって貼ってあったステッカーとか全部はがしてみて、その暗めのメタリックワインレッド(メーカー的にはキャンディレッドという名称かと思う)が、ああこんなにきれいなギターだったのだなあ、と。昔のヴィンテージギターとかのラッカー塗装がぼろぼろになっているのとかもかっこいいけれど、12年使って、いまだにこれだけきれいでいられるというのも、作り手の素晴らしい技術だよなあ、と感心しました。

だから、個人的には「下手なヴィンテージストラトよりもばりんばりん鳴るぜ」と思っていたこの一本。12年もかけて「育てて」きたものを、あっさりと二束三文で手放してしまうのは、惜しいと言えば惜しい。でもまあ、買った時の値段だって二束三文だったしな。二束三文で買って、10年以上にもわたってさんざん活躍してもらって、二束三文で売る。どんな条件のいいレンタルだったんだ、って思います。しょせんこの世においてはすべてのものは借り物。自分の体だって神からの借り物。すべては縁であり、運命でしょう。

二束三文ってことで言えば、俺は、常々、「良いギターが高い値段で売られている」そんな世の中だったらどんなにか良かったか、といつも複雑な思いで思っています。資本主義社会って本当はそういうことだったんじゃないか。でも現実には、「本当に良いギターは、二束三文で売られ、作ってる人は報われず、どうでもいいギターばかりが、ブランド戦略で高い値段で売られている」そんな世の中に、俺たちは生きている、それがこの世界の現実だと思います。だから、世の中全体が、どうしようもない方向に向かっていく。

そのかわりに「本当に良いギター」が安い値段で手に入ってしまうのは、俺としては複雑ですが、ありがたいと言えばありがたいけれど、やっぱりちょっと悲しい。

話はそれてしまいましたが、長年使って「育てて」きたギターを手放したのは、なんかやっぱり、大事な娘を嫁に出す、じゃないけれど。子供いないからわかんないけどね。ちょっとだけそんな気分を味わいました。12年弾きこんで、こんなに鳴るようになったのに、って。でも、そんなばりんばりん鳴るすげえ楽器を、また世の中の誰かが役立ててくれたら、ということかね。楽器は、ちゃんと手入れして使えば、人間より長生きするものだからね。

いつも語っているように、僕は2013年の秋に、とある日本のメーカーの、一本のレスポールに出会い、それがきっかけでエレクトリックギターに対する価値観が完全に変わってしまった。
だから、それ以降、自分のサウンドを追求していく中で、それまで持っていた楽器を手放していくのは、やっぱり遅かれ早かれ、必然的に起きなければならないことであり、やっと、それが出来るタイミングが来たのだと思います。自分の価値観の中で、俺の言葉で言えば「霊的に」旧いものをいつまでも手元に置いておくのは、やっぱり自分自身が先のステージに進むことを妨げてしまうものだから。

だから、来年とか、きっと、もう何本か旧いギターを手放すと思います。
猫じゃないけれど、一人の飼い主が面倒見れる数にはやっぱ限界がある。
ちなみに白いJackson Randy Rhoads (ランディV)はたぶん売りません。
それを検証すべく、10月のライヴとか何本かのライヴで今年は使ってみた、ということもあります。

やっぱりちょっと寂しいし、うーん、手元には「相棒」を失ったピンクのAxis-EXがやっぱりちょっと寂しそうに佇んでいます。このピンクも売ってしまうのか、ちょっとまだ心は決まっていません。「虎の子」の楽器だけでなく、日常のエクササイズとか練習用に使い倒せる気軽な楽器だって必要なのだし。

しかし寂しいと思いつつ、あれもこれも売っちゃおうか、とか思い切って考えつつも、売り払ったら今度はまた別にこのギターを買えばいいかな、とか考えてしまうのは、ギター弾きのどうしようもない性分であり、またそういうことを考えているうちは、元気で生きていられるんだろうな、とも思います。

まぁ、はなむけというわけじゃないですが、売っぱらった記念に、2014年に録音したこの曲、ギターソロをこの赤いMusicmanで弾いています。良い音、と思うけど、こうして聴いてみると、もっといい音、いくらでも出せるな。やっぱり、決して「替えの利かない」ギターではない。しょせん、どこにでもある、ちょっと生鳴りの元気なスーパーストラト、ですよ。
こちら

売却先は、新宿区あたりにある、例のリヴァーブエフェクトのメーカーみたいな名前の楽器屋さんですので、興味あれば、二束三文で売られているのを見にいってみてください。まだウェブサイトには掲載されていないようですが、2、3日のうちには掲載されるでしょう。

No(4768)

■…2016年11月22日 (Tue)…….バンドブログにのっけようと思ってるクレイジーな文章
さて、私、Imari Tones (伊万里音色)と名付けたバンドにて、ささやかに、かつ小規模ながらに、時代の恩恵でニッチに細く広く、それでも世界を相手に音楽なんぞ作っているわけですが、

このタイミング、この時に、一人の日本人として、一人の日本人のクリスチャンとして、そして一人の日本人の宗教音楽家として、書き記しておきたいことがあります。

それは、いろんなことが手遅れになる前に。また、それを書き記す気力や元気があるうちに。

私は年齢が30歳を越えてからキリスト教徒になりましたので、クリスチャンになってからの時間は、まだまだ浅いと言えば浅いのですが、
近年は、そして特に今年は、キリスト教徒であることに対して、恥ずかしく思うこと、あるいは、苛立たしく思うこと、また、情けなく思うことが、多くなってきた年であったように思います。

それは、何年かクリスチャンやってみて、このキリスト教世界の、良いところだけでなく、悪いところも少しずつ見えるようになってきたということかもしれません。

しかし、かといって、そういった落胆があったとしても、私の中の神への信仰とか、イエス・キリストを信じる気持ちに、まったく変わりはありません。それはすなわち、最初から、僕が信じていたのは神であって、「教会」とかそこにいる「人間」ではなかったからです。

そして、僕が日本人であることをより意識するようになったのは、よくあることですが、やはり音楽を通じて、アメリカ辺りに演奏しに行ったりする中で、自分が日本人であることや、自分の中になんだかある愛国心のようなもの、つまり自分を生み育ててくれた場所に対して、少しでも貢献し、何かをお返ししようというような気持ち。そういったものに気付いていきました。

だから、これは日本人のキリスト教徒だから思うこと、かもしれません。

音楽家としての私の現在位置を書いておきます。
僕らのバンドImari Tonesは今年、重要なコンセプトアルバムである”Jesus Wind”というアルバムを録音制作し、完成させました。発表はおそらく来年になると思います。

これは、日本の歴史をひとつのクリスチャン的な視点から見て描き出した絵巻物であり、自らの信仰のルーツを確認する作品でもあり、また過去だけでなく未来に向けて描き出した「預言書」でもあります。

しかしキリスト教の視点から見た日本の歴史と言っても、様々な視点がありますが、アルバムの中にも「Bushido」(武士道)という曲があり、武士道と言えば、新渡戸稲造がその著書に書き記して世界に広まったように、キリスト教とは西洋の文化、西洋の宗教ではなく、むしろ武士道に代表される日本的な精神、キリスト教の本質に相通ずるような精神風土をもともと日本人は持っているのだ、といった視点の描き方があります。そして、この僕たちの”Jesus Wind”もやはりそのような立場から多分にこのアルバムの物語を鳴らし描いています。

ですから、日本人のキリスト教徒の一人として、世界に対して伝えたいことがあるとすれば、やはりそれは、そのような日本人ならではの精神風土からの意見になるのです。

僕たちは、この”Jesus Wind”の後、僕たちはクリスチャンロックを基本的にはほとんどすべて英語でやってきましたので、この後、ワンクッション、日本語の作品を作った後、自分たちにとっての究極の終着地点である「鍋島」というプロジェクトに取り掛かります。それは、音楽的にはより日本的な面を押し出した内容になり、歌詞は日本語と英語が半々になる予定です。

しかし、この「鍋島」は未完成で終わるかもしれません。
というのは、これをきちんとした形で鳴らし切るのは、今まで10年以上かけてやってきたバンド活動の全部と同じくらいか、あるいはそれ以上に大変な作業になると思われるからです。

ですからこの「鍋島」は作曲しただけで終わるかもしれません。
それはつまり、現代のミュージシャンの言葉で言えば、デモを制作することだけで精一杯かもしれない、ということです。
きちんと鳴らして、バンドで演奏し、きちんとレコーディングして発表する、そういったところまでは、あるいはたどり着けない可能性も十分にあるという感じです。

しかし僕は日本人の魂としての、また僕自身の音楽と信仰の終着地点としての「鍋島」を完成させるためにすべてを賭ける所存です。

そして、たとえキリスト教世界に落胆することが多かったとしても、神への、イエス・キリストへの信仰そのものは少しも揺るぐことはない、それと同様に、やはり僕はどのような音を鳴らし、どのような作品を作ったとしても、やはり私はクリスチャンアーティストなのです。自分の創作行為、生きる行為が、神への信仰を拠り所としている以上、やはり自分はクリスチャンアーティスト以外の何者にもなれないのです。

それは、日本語英語にもこだわらず、クリスチャンミュージックという枠さえもとっぱらって自由に作ったはずの「鍋島」が、やはり自然な形でクリスチャンロックの形で書き上がってしまったことからも、自分自身再確認できました。

さて、私が自分の短い人生の、そのうちの短い何年かで、しかし少なからず真面目に、キリスト教徒として神を信じて生活してみて、また神を信じて創作活動を行ってきて、そしてこの現代社会を眺めてきた上で、自分の狭い見識と偏見の中からではありますが、ひとつ、現在進行形で感じていることがあります。

それは、神という概念は、非常に危険なものである、ということです。

危険というのはどういうことかと言えば、それはたとえば、核兵器や、原子力。実際に核兵器の被害を経験し、また原子力の事故と災害も被った我が国だからこそ言えることかもしれませんが、たとえば核の力、原子力といったものは、まだまだ人間の手に余るものなのではないか。まだまだ、人の手には負えないものなのではないか、といった思い。

それと似たように、人はまだ、神という概念をきちんと取り扱えるまでには、至っていないのではないか、ということです。

きちんとそれを理解し、きちんとそれに向き合い、きちんとそれを正しく取り扱うことが出来るまでは。それが出来なければ、神というものは、人類にとって、非常に危険なものになるのではないか、という思いです。
その危険度は、それこそ、どんな核兵器や科学兵器の比ではないかもしれません。

そして、宗教や信仰といったものが、人々の生活を支え、本来は人々を幸福にするためのものであるはずであるのに、世界の歴史を振り返れば、宗教というものが、いかに悲劇や惨劇を生み出してきたか、という事実は、誰にも否定しようがないかと思います。そして、現代に至るまで、宗教を理由とした戦争が世界中で絶えないことからも、それはわかると思います。

キリスト教については二千年、その他の主だった宗教もやはり同じように1000年、2000年、あるいはそれ以上の歴史がありますが、それだけの時間がたち、人類社会が発展しても、なぜ、いまだに人は、「神」という概念にきちんと向き合うことが出来ないのか。

ひとつの方向性としては、「神」「宗教」「信仰」といった概念自体を、無くしていってしまう、ということが当然言えると思います。
しかし、これはおそらく不可能なのではないかと僕は思います。

どんなにコンピュータや、科学や、バイオテクノロジーや、人工知能が発達したとしても、生命そのものや、生きるという行為そのものへのミステリーは、埋めることができないでしょうから。そして、そこにはやはり「神」という概念が入り込んでくる余地が残るでしょう。その「空白」は、いつだって人の心にとっての危険地帯です。

また、僕たちの住む日本という国は、世界でも珍しく、また先進国の中でもほとんど例外的に、宗教という概念が社会の中で非常に希薄になっている社会です。もちろん慣習、文化としての仏教や神道は存在していますが、社会の中でそれが人々の行動を規定することはほとんど無く、いわば地球上でもっとも「無宗教」状態に近い場所のひとつと言えるでしょう。
けれども、そんな「進歩的」な無宗教社会にあっても、何かがおかしい、あるいは、色々なものが上手くいっていない、そのことを、私たちは体験的にどこかでわかっているはずです。
また、宗教から切り離されて生きているはずの現代日本の社会ですが、いつのまにか、他の何かが私たちの生活する上での「宗教」に成り代わってしまっていないでしょうか。たとえばそれは「ビジネス」であったり、「お金」であったり、「勤勉」をはじめとする日本人として生きることの価値観であったりするかもしれません。

真実から目を背けること、真実から目を背け続けることが、どれほど人生の意味を見失わせ、幸福を奪い、また成長を阻害し、ひいては社会全体の発展を妨げるか、ということになるかと思います。

しかし、真実を見つけること自体が、やはり容易なことではないのです。

それは、日本人に限らず、欧米や世界のキリスト教徒であっても、やはり真実に向き合うことは容易ではありません。

では、なぜ人は神を理解できないのか。

私の意見、そして私の言葉で言うならば、それはすべて「霊」の問題になるかと思います。霊、つまり、スピリット、ということです。

人は霊的な成長を遂げた上で、霊によって理解しなければ、神を認識することは出来ないのだと思っています。
人は感情から逃れることは出来ず、感情では神を理解することは出来ません。しかし、霊は感情を超越することができるからです。

それが出来ないからこそ、人は神を理解できず、感情や罪から逃れ得ないために、神に対して、世界に対して、誤った認識を持つことになります。
そして人が神を理解できないとき、そこにあるものは、あるいはそこにあったはずの信仰は、「偶像」に置き換わります。
やがて「偶像」は、人を利用し、また人によって利用され、人々を操るようになります。

そして「偶像」を信仰するものは、神の座に偶像を置くのと同時に、知らずと自らを神の位置に置き、人を裁くことになるのです。

そして人を裁くこととは、裁かれる相手が危険なのではなく、人を罪に定めるという行為そのものが、それを行う本人にとって大きな罪であり、大きな不幸なのです。

キリスト教が発生して約2000年。
人類社会は発展し、科学技術も発達し、人類社会は様々な問題を抱えたまま、急ブレーキをかけてカーブを曲がるがごとく、危機的に難しい局面を迎えています。

今後、そしてそう遠くない近未来、もし人類が「神」を正しく認識し、向き合うことが出来ないのであれば、「宗教」は人間にとって非常に危険なものとなり、大きな呪いとなって帰結してしまうような気がしています。

おそらくは、これから「宗教」は、また大きな争いや、大きな災難を、世界にもたらすでしょう。
かといって、「神」から逃げることも、目を反らすこともできない。
「神」を正しく認識し、「正しく扱う」こと、それしか無いのだと思います。

神を正しく認識すること、そう書いては見たものの、これは人には到底不可能なことです。
私は自分の音楽的な霊感から、長年にわたって神を感じ取り、だからこそキリスト教徒になったのですが、私自身も、認識しているのは神のほんのごく一部に過ぎないでしょう。

ですから、人にとっての正しい態度とは、自らが人の身であることをわきまえ、自らが人に過ぎないことを忘れないことです。
自らは罪を持った人間に過ぎず、自らが神の代理人ではないことを、ましてや神そのものではないことを、忘れないことです。

そして、すべては、イエス・キリストただ一人に預ければよいのです。

これは、ごくごく当たり前のことであって、多くのキリスト教徒はこれをわかっているはずです。そして、たとえ歴史の中で宗教が多くの悲劇を生んで来たと言っても、その歴史の中に、より多くの善良な信仰を持った人々が生きてきたことを信じています。
そして、現代の世界においても、そういった「まっとうな」信仰を持った人々が、世界中にたくさん居ることを信じています。

そして、日本人のクリスチャンの一人として、また日本出身のクリスチャン音楽家として、よりキリストという「真実」に迫る音楽表現を、世界に発信することが出来ればと思っています。

いつの日か、人類がより発展し、物理科学が、天文学が、数学が、様々な学問や技術が高度に発達し、哲学も文化も成熟した未来のどこかで、人は神の存在をきちんと証明し、説明できるようになる日が来るかもしれません。

けれども、現代の私達は、科学的にも、文化的にも、精神的にも、まだそこまで達していません。

けれども、科学や物理で証明が出来ないのであれば、せめて、まず、芸術で。

そんなふうに考えるのは不遜でしょうか。
芸術家としては不遜かもしれません。

しかし、もし神が人類にロックンロールを与えたのであれば、
そこにはきっと、そんな意味があったに違いないと、私は思っているのです。
ロックンロール、それは、一人一人が、肉体の上でも、霊の上でも、神と直接つながることのできる、芸術。

私は、言葉の上で神を賛美するだけの保守的で陳腐なロックをやりたくてクリスチャンロックを始めたわけではないのです。
最新の、最も先進的な、ロックの進化の最終形としてのロックを求めて、クリスチャンロックを始めたのです。

私は決して世界一のギタープレイヤーでもないですし、ましてや世界一のシンガーからはほど遠いです。しかしそんな私でも、自分の創造性(クリエイティヴィティ)ということに関しては、少しは自信を持っています。
(もっともすべてのインスピレーションは神から与えられるものなので、自分の力ではないことも重々承知はしていますが)

しかしそんな私でも、神そのもの、すなわち、神がどういったものであるのか、それを描き出すことは出来ません。ベストを尽くして音楽で表現していますが、それでも、神の威光、パワー、威厳、大きさ、強さと厳しさ、輝きと優しさ、そういったものを、ほんの少ししか表現できていないと思います。

けれども、神を描き出すことがかなわなかったとしても。
信じるということは、どういうことなのか。
信じる気持ちとは、どういうことなのか。

それを表現することは、出来ると思うのです。

だから、それが私が世界に対して、伝えたいことです。

神を信じるというのは、こういうことなのだ、と。

言葉ではなく、自らの身を以て。
それはつまり、自分は音楽家ですから、音楽を通じて、ということです。

ははは、偉そうに、大層なこと書きましたが、書いたことに値する音楽は、そうね、「鍋島」の完成か、あるいはせめて”Jesus Wind”をちゃんと発表するまで、待ってちょうだいね。

2016年11月22日 Tone記す

No(4769)

■…2016年11月23日 (Wed)…….Charvel Dinky 1989(たぶん)
さてこの白いシャーベルも売ってしまおうかと。
くどくどと思い出してみます。
日本製のCharvel Dinky。
たぶん1989年とか1990年とかそのあたり製だと思います。
決して高いものではないと思います。当時の定価で8万円とか9万円とかくらいじゃないでしょうか。当時の金銭感覚わかりませんが。
しょせんは国産の量産モデルの80年代スタイルのメタル用スーパーストラトです。
しかしこのギターは良い意味で「鳴らない」ギターです。ストラトをはじめボルトオンのギターには時々そういうことがありますが、どっかの周波数が欠落してるせいで、なんだか速弾きがしやすいんですね。結構食いつきの良い音を出すので、ピッキングの反応も良くて、このギターを持った時だけイングヴェイになれる、みたいなギターでした。
しかしそうは言ってもヘヴィメタル的には良い音を出すので、またJackson純正のJ-90ピックアップのパワーと粘りっぷりは、この時代特有の音だと思います。
経年のせいか微妙にネックがセンターずれを起こしているんですが、鳴るんだか鳴らないんだかよくわからない、絶妙に鳴るんだけれど絶妙にどっかの周波数は欠落している、そのへんの音は、このセンターずれによる影響かもしれません。
自分は、このギターを、確か2009年に手に入れて、某オークションで安価に、ですが、その後、どうかな、時々、使ってきた程度、かな。

Imari Tonesのライヴでは、そうはいっても、3、4回くらいしか使ってないんじゃないかな。むしろ近年のジーザスモードのライヴで、何度も使ってましたね。まあそういうジャパメタとか古いスタイルのメタルを弾くにはやっぱりばっちりなギターです。でもこのギターを使ったライヴは、どれも結果は良かったな。

録音で使ったのは、”Victory In Christ”という作品に入ってる、”Departure”というギターインスト、あとは”Simple”という曲のアーミングを使った印象的なギターソロ。あとはジーザスモードの2nd EPにて、決め曲”Burning Fire”のギターソロ、これはイングヴェイっぽいソロだったんで、このギターがちょうどよく。あとはなにげに、来年発表のImari Tonesの作品”Jesus Wind”で、”Revolution”という曲はまるまる1曲このギターを使ってますね。R&B的なリズムの上で無理矢理ハードロックを弾いて、その上にイングヴェイっぽいソロが乗るという曲なんですが(笑)、これもやっぱりイングヴェイっぽいプレイがしやすかった、という理由です。あとは絶妙にローファイな音がちょうど良かった。同作品(Jesus Wind)では”The War”という曲のギターソロもこの曲を使ってます。これはアーミングが必要で、なおかつ絶妙にローファイ具合な音がちょうどよかった感じです。

しかし白いギターの正統派ヘヴィメタルっぽい雰囲気は、自分にはわりと似合っていたので、写真撮影に使ったり、実際にバンドのウェブサイトのプロフィール写真でもこのギターを持ってます。あとは、名刺の写真にも同じ写真を使ってるなあ。笑。
なんだかんだ言って自分との相性は良いギターでした。もっと使ってあげてもよかったけれど、でも、もう十分かな。

ぼちぼち売却してしまうと思うので、もし友人知人で、欲しい、興味ある、って人いたら言ってくださいませ!
どうかな、ずばり、1まん6せんえん、でお売りいたします(笑)

もうひとつ言えば、このギターには、ヘッド裏に「僕が日本でいちばん好きなアーティスト」である90年代のシンガーソングライターの方のサインが入っています。誰って、まあ、それはもちろん、熊谷師匠に決まってます。ロックやメタルのアーティストではない以上、おそらくは、お店に売るのであれば、消さざるを得ない、でしょうから。もし友人知人にお譲りすることができれば、サインは生き残ります。貴重というか残念とも思いますが、サインをしてもらったという思い出の方が僕にとっては大切だし、その方のサインは他にもいっぱい持っているしね(笑)

あとは白いギターなんですが、年数のわりには、「黄ばみ」を起こしてないんで、その意味ではこの時代のものでこの白い色は貴重かもしれません。

単なる感傷の記録だったんですが、やっぱりギターについて書くと無駄に長いですね。

No(4770)

■…2016年11月26日 (Sat)…….2016Stereo部屋黒金記録
[ギアトーク] [プラグイン]
さてブラックフライデーということで。インターネットで世界が狭くなったせいで、外国の風習とか流行ってるいろいろのこととかが簡単に入ってくるようになり、特に商機に敏感な日本の商業界だからなのか、サンクスギビングはあんまり入ってこなくても、ブラックフライデーという言葉もいつのまにか日本でも定着しているようです。
で、たとえばDTMというのかパソコンで音楽作ってる人たちの間だとこの時期にプラグインエフェクトが安売りされるとかそういうのは何年も前から定着してると思うんですが、今年はなんだか各社競ってBlack Fridayの安売り宣伝メールがいっぱい来ていてすごいです。

いろいろあると思うんですが僕が個人的に推したいのはやっぱりEventideですね。
ここはたまにしか、小出しにしか安売りしないんで、こんなに全部のプラグインが安くなってるのは貴重な機会だと思います。
こちら

わりと地味で、使い方の難しいプラグインが多いんだと思いますが、質は非常に高いと思うんですね。やっぱ老舗だし。
僕がここ2年くらいメインで使ってるリヴァーブ、UltraReverbが79ドルになってる他(僕はこれはNative版リリース当初のイニシャル価格69ドルで買ったんじゃないかな)(僕はアルゴリズムリヴァーブ派なので、いまだにこれは最高のリヴァーブだと思います)、

同様にリヴァーブだと、「80年代のレトロなスタイルで、今の時代の基準だと決してナチュラルなリヴァーブではないけれど、ロック/ポップのミックスの中で使うにはこれが正解なのかも」、という一芸に秀でた老舗リヴァーブ、2016 Stereo Reverbが49ドルってのも熱いですね。

でも、一番お買い得感があるのはUltraChannelかな。俺はこれは年始のバーゲンで手に入れて、今年やった録音でもめっちゃ使いまくってました。地味だし、チャンネルストリップって使い方も難しいと思いますが、「わかる人にはわかる」という感じのクオリティで、コンプもEQも、すべての要素がレベル高いので、実用性は高いと思います。ちょっと独特の「堅実な」音だけどね。またおまけみたいにしてついているmicro pitchのハーモナイザー機能も、さすが本家って感じで他社のコピー商品には真似出来ない実用性だと思います。これが49ドルというのはほとんど”steal”(もってけどろぼう状態)だと思います。

Eventideといえばハーモナイザーとかマルチエフェクトが有名なので、H3000のプラグインとか試すべきなんでしょうが、使いこなせる自信ないし、僕の音楽性とか性格だと合わないと思うので、手は出してません(笑)

しかしこういった地味なエフェクトを試してみて、「老舗」Eventideの実力を実感した次第です。

その他、僕の個人的なレーダーの中でこれはお得かな、というのは、Plugin Allianceにあった、bx_megasingleが9ドルってやつでしょうか。これは昨日あたりうっかり買ってしまいましたが、だって9ドルだし。
こちら

brainworxの非常に真面目で正直なモデリングで、これは僕は9月にbx_rockrackの19ドルのセールにひっかかって買っちゃった時に、「パソコンの中のアンプシュミ」という方向性ではなく、「実際にレコーディング環境を際限するシュミ」として感銘を受けたんですが、(bx_rockrackをV3にアップデートしてないこともあり)そっちに入っていないrecording chainのインパルスレスポンスも入っていて、それ目当てに買ってもいいかなという感じです。
僕は個人的にはブギーのアンプはそれほど好きじゃないですし、けれどもたまに使うことも無くはないし。ギター弾く人だったら、これは絶対に損はしないと思います。
挙動とか音もリアル過ぎて、決して使いやすくはないですけどね(笑)

あとは友人への個人的なお知らせですが、上記Eventideがなんかリミックスコンテストやってて、優勝するといろいろプラグインもらえる他、例のマイクプリ/DI/エフェクトループのMixing Linkも賞品としてもらえるそうです。

これか。
こちら

やってみたらwww

とりいそぎ以上デス。

No(4771)

■…2016年11月27日 (Sun)…….紅葉
某所にてバンドの動画&写真撮影してきました。昨年初めてこの場所に来たときに、秋の紅葉の時期に撮影できたら良いだろうなと思っていましたが実現できました。友人方のご協力により腕の良いカメラマンお二人に撮っていただき、良い素材が撮れたと思います。感謝感激ありがとう。私は、うーん、睡眠不足で疲れた顔、歳を取ったなあ、なんて当たり前のことですが、古いギターのごとくかっこよく年齢を重ねていけたらなあ、と。それが人生の最後の宿題(のうちのひとつ)でしょうね。さて来年の伊万里音色は。以下次号。

No(4772)

■…2016年11月30日 (Wed)…….Seagull S6プラス も旅立つかね
さて引き続き機材整理月間続行中です!
このアコギも売ってしまおうと思います。
2002年に購入してずっと使ってきた、Seagull S6+です。
お店に売りに行きますが、この前みたく、友人知り合いで欲しい人がいたら安く売ります。最初に書いておくと、1まん2せんえんで売りますよ!(笑)
暇な時に楽器屋に売りに言っちゃうかもしれないんで興味ある人いたら早めに声かけてください(笑)

このアコギの何がいいかって、L.R.Baggsのピエゾピックアップが付いています。
だからエレアコとしても使えます。しかもそのピエゾの音もかなり良いです。
L.R.Baggsのプリアンプ&EQがオンボードで付いていて、かなりパワーある上にEQの効きも非常に良いです。
他にこのギターのポイントとしては、トップの木材がシダーです。シダーっていうのは、日本語で言うと杉ですね。普通アコースティックギターはトップ材はスプルースを使ったやつがいちばん多いですが、スプルースがくっきりした音だとしたら、シダーはもっとなんか太くてあたたかい音がします。2本目のアコギとして違う音が欲しいって用途にも良いと思います。
SeagullのS6と言えば価格のわりにすごく良く鳴るギターとして定評がありますが、14年も弾きこんだってこともあって(実際はあまり頻繁には使っていなかったけれど笑)、ぶっとい音で、かなり音量もあります。

このギターは、気軽に周囲の人間にも貸し出してきたので、けっこういろんな人間がこのギターを弾いてきました。ここ数年The Extreme Tour Japanをやっていて、来日したバンドの人たちにもいつも貸し出されてました。先月もVictorianoのジェルソン君が何度がこのギターを弾いて上野公園とかで演奏してました。一昨年に来たGallery Catことアンジェロ・ゴンザレスが太い指でぶっとい音を鳴らしてばっちりだったのも思い出深いです。

10年以上使い込まれているので、トップの板とかにも傷とか、たくさん入ってます。良い言い方をすれば貫禄十分です。悪い言い方をすれば傷だらけです。あとはステッカーが貼ってあった痕もあります。本日、きれいにはがしたんですが、でも注意して見ると痕がわかる、って感じです。

なおハードケースは既になくて、Ritterのソフトケースが付属します。むしろハードケースよりも持ち運びには便利かもしれません。
2002年に買ったものですが、買値は5万円前後、と申しておきまする。

Seagullは、1990年後半とか2000年代前半に流行して、当時こんな安い値段でこんなにいいギターが、ってことで話題になり一世を風靡したメーカーです。作ってる会社はカナダのGodinってとこです。俺はここ数年日本のギターメーカーだとDeviser (Bacchus/Momose/Headway)の大ファンですが、日本のDeviserとカナダのGodinはなんとなく似ていると思います。まったく関係ないトピックですが。どういうとこが似てるかというと、アコギの評価が高いけれどエレクトリックも作っている、真面目に作った良い楽器を安い値段で売っている、初心者にやさしい、品質の高さのわりにブランドイメージが弱い、そしてデザインがださい、ということです(笑) セットネックのギターをきちんと作れるところも共通してるかもしれません。あとは普通の伝統的なデザインのギターをたくさん作ってるわりに、妙に新しいことをやりだすとこなんかも似ていますね。しかしやはり世界規模で見ると悲しいかなGodinの方が規模も知名度も大きい気がします。がんばれ我らのDeviser。

参考までにこのギターでやった録音とか演奏です。

マイク録りしてバンドの曲で使ってみた例。思い返せばこのギターの一番最良の瞬間だったかもしれない(笑)
こちら

ラインで録音したピエゾの音で作っちゃった曲。
こちら

なんか良い感じのホールで弾き語りやらせてもらった時のやつ。
こちら

マイクもラインも何にも通してない生の音って感じ。
こちら

No(4773)

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