以前にも書いたが、長野、松本で弾いた「青いやつ」は、あんまし良く無かったのである。少なくとも僕はその時そう思った。ネックが薄いんじゃないかなって。
で、むしろクラフトシリーズのボディの薄い青いやつの方が印象が良かったのである。
けれど、その後に作られたか、少なくともその後に出荷されたであろう赤いやつは、秋葉原で試した際に「うん?いいじゃん」という印象を持った。
(ディバイザーさんのFBのポストをさかのぼると、同時期に作られたもののようである。今年の4月頃のポストだろうか。赤いやつの方がわずかに先に完成したようだ。)
アームの付いたレスポール、フロイドローズの付いたレスポールの話である。
そもそもレスポールにアーム、フロイドローズ、別名ロック式トレモロ、を搭載するということ自体が、冒涜というか、無茶というか、「どうなの、それ」ということであるのは言うまでもない。
私はDeviser/Bacchusさんのところのセットネックのギター、つまりはレスポール、が非常に好きで愛用している。とは言っても、「もしこれにアームが付いていたらなあ」と思うことが度々あったとしても、「そんなことしたら音を犠牲にしてしまうようね。つまりは、レスポール本来の音と、アームの利便性を引き換えにしたトレードオフになってしまうだろう。」と考えていた。
そしてその考えは、昨年から今年にかけて発表された、アームのついたCraft Seriesや、STR Sierra Seriesの青いのを、松本に遊びに行った際に試してみたりしても、やはり変わらなかった。
「もうちょっとヘヴィメタル向きのモデルがあったら」とか、仮にもHR/HMのカテゴリに入るバンドをやっている私のつぶやきを聞いてくれたかのような、私を狙い撃ちにしているんじゃないかと思うようなこれらのモデルに、スペック上はもちろん、心が動いてはいたのだが。
人間の欲というものは、また追求したいと思う心に終わりはないので、以前からもし私がディバイザーさんとこに「カスタムモデル」とかオーダーするとしたら、どうするだろうと夢想する時、「やっぱり無理矢理レスポール(ないしはそれに準ずるセットネック構造のギター)にアームを付けてもらうだろうな」と考えていた。「そんでもって赤い色で、材は猫ポールと同じ、僕と相性の良いアフリカンマホガニーで。」って。でもって、もうちょいメタル的なテイストの精悍なルックスだといいな、みたいな。で、せっかくカスタムモデルを、自分のシグネチャーモデルみたいにして作ってもらうなら、価格的にもブランドはBacchusじゃなくてSTRで行く方がいいかな、みたいな。お恥ずかしい妄想である。
つまりこれはどうしても自分なりのEVHモデルになるのである。
Eddie Van Halenは、ギターのハード面に関しては、Fender系のギターとGibson系のギターのいいとこどりを追求してきた人だと思っている。そしてそれは彼のキャリアを通じてずっと追求し続けていて、最初は純粋にストラトにハムバッカーを載せたところからスタートして、次第にGibson系に寄ってきている、と思っている。
Deviser/Bacchusさんの「日本人の心でていねいに作られたセットネック」は、僕のギタリスト人生の中で見つけたひとつの解答であるので、そこにフロイドローズを載っけるということは、自分なりの、現在のEVHに一番近いモデルを実現する、という行為を意味する。
FenderとGibsonの完全なる融合、それは、音だけ考えたら、普通のレスポール(ないしは普通のストラトorテレキャス)の方が良いに決まっているので、「最初から不可能な命題」。しかしその不可能な命題に、敢えて挑戦してみたい、という気持ちを、僕だって抑えることは出来ないし、また本職のギタービルダーの方なら、その気持ちは単に弾くだけの私よりも、きっと強くお持ちのことだろう。
だから、EVH系のギタリストとしていつかは挑戦してみたい、という命題に今の自分なりに取り組むことになった、その答えとして、Deviser社から提示されたのが、これらのモデルだったのだろう。
だからこのSTRの赤いやつの写真をFacebookで見たときに、「そのままじゃん」と思って笑いがこみあげてきたものだ。つまり、「もし俺が自分のカスタムモデルをオーダーするんならこうする」という仕様が、そのまんまだったから。
しかし初夏に松本に遊びに行った際に試した青いのは前述のようにLed Downだったのだ。「ああ、やっぱだめか」みたいな。
だがその後、赤いのを秋葉原で試した時に、「あれ、これはいける」と思い、ここに至る。
だから、これは自分のような無名のギタリストに与えられた、「私のためのシグネチャーモデル」なのだ。愛機「猫ポール」のようなレスポールの音がありつつ、さらにHR/HM仕様に寄せて、アームを搭載するという、不可能な命題に挑戦した「わがまま放題のカスタムモデル」なのである。
そしてXTJ2016の後に気合いを入れて機材整理をしていたのも同様の気持ちである。つまり、墓場まで持っていくもの以外は、すべて捨てる、という気持ちだ。それは、今、バンドの状態も不安定であるし、今後の自分の音楽活動も不透明であるが、ついに射程に入れることになった我が人生の究極の音「鍋島」を鳴らすための覚悟である。
そして、これまで自分のEVH系のツールとして活躍してくれた2本のAxis-EXを手放すということを行った。その他ボルトオン、アコギ、不要なエフェクトペダルなどもすべて売却してしまった。
そして「鍋島」のその先を鳴らす覚悟として、やはりこの自分なりのEVHという命題にも、挑戦する必要があったのだろう。
なぜ人は、ギタリストは、とりつかれたように、このようにサウンドを追求してしまうのだろうか。どんな本能に突き動かされているというのだろうか。
サウンドに対する悩み。
つまり、誰だって、少なくとも俺の場合は、悩みたくて悩んでいるわけではないのである。
サウンドとか、ギターとか、ほっといて逃げたい。
そっちの方が正直な気持ちだろう。
なぜって、あまりにも大きく、あまりにも果てしない、そんな道のりを、報われず歩いていくことが、目に見えているのだから。
Fellow guitaristsというか、同じようにバンド活動や音楽に取り組んでいる仲間のミュージシャン、ギタリストたちを有名無名を問わず見ていて。
彼らはこのように悩んだことがあるだろうか、と考えることがある。
つまり、ギタリストとして、ソングライターとして、すべてを作り上げるためのサウンドというものについて、彼らはこれほど悩んだことがあるだろうか、と時に考えることがある。
そして、そう考えたとき、すべてがどうでもよくなる。そして、私はひょっとすると幸福なのかもしれない、と考える。
つまり、その命題に対して、どこまで逃げずに向き合い、どこまで深く悩むことが出来るか、それこそが、ギタープレイヤーとしての力量に他ならないのではないかと思うからだ。
その命題をあれほどまでに深く追求し続けたからこそ、かのエディ・ヴァン・ヘイレンは、本来の意味でプロフェッショナルと言える存在だったのではないかと、僕はそんなふうに、考えている。
卑近なことを言えば、私はもう半年、ないしはもう一年は待つつもりでいた。それは、機材整理をしてなんとか資金を作ることもあるが、もちろん生活の事情である。
けれども、チャンスというものはいつだって予定通りには来ないものである。ギターとは関係がないが、チャンス、出会い、機会、こういったものは、「予定通り、準備万端」みたいな時にはやってこない。「え?こんなタイミングで?」という時にやってくるものである。それは、僕が若き日に、うちの嫁さんに出会った時も同じだった。人生の中で「こんな時に女に出会う気はまったく無え」というタイミングで、彼女は僕の前に現れた。おかげで僕の人生はひっくりかえった。思い返してもひどいものである。どうしてくれるのだ神よ。
どんな人間の都合よりも、どんな世の中の基準よりも、神は人が学び、成長すること、それを優先する。そして、そうなるように導く。
なんとなく、それは俺にもわかっている。
さて、そんな経緯で、私は一晩かけてアーミングアジャスターおよびD-tunaを設置、調整、しながら、この深みのある赤い色をした個体を弾き続けることになった。
これは、私にとってはこれまで十数年愛用した赤とピンクの2本のAxis-EXの生まれ変わりであり、また神が私のような人間に与えてくれた無名のシグネチャーモデルである。
はっきりいってぶっとんだ。
私は、無理矢理レスポールにフロイドローズを搭載する、なんていうことは、音の面では妥協を意味するものだと思っていた。
しかし、この個体は、Deviser社の技術は、そんな私の固定観念をぶっとばしてくれた。
なんかしらんが、フロイドローズ特有の金属的な鳴りは、かえってマイナスよりもプラスに働いているではないか。これはこのGOTOH社製のロック式トレモロの精度の高さということもあるかもしれない。やはりMade In Japanの凄みということなのだろうか。
鳴りの面でも、手元にあるBacchus「猫ポール」(Classic Series)および「ショコラ」(Handmade Series)に決して負けていない。というか、純粋に鳴りの面だと、これらの個体を上回っている。これは、正直、信じられなかった。猫ポールとショコラも、普通に考えたら、「圧倒的に鳴る」ギターなのである。これらを上回ってくる、そんなものに、フロイドローズ付きという意外な仕様で出会ってしまった。想定外という言葉が当てはまる。
そして、これほどのギターが存在する、というのは、やはり単なるいち貧乏プレイヤーに過ぎない私は、井の中の蛙に過ぎないのだ、ということを痛感することになった。
世の中には、こんなすごいギターが、まだまだ存在するということなのだろう。
アームダウンを一発決めてみて笑いがこみ上げてきた。
良質な(誤解を恐れず書けばヴィンテージ系の)レスポール特有のぱこーんという引き締まったアタック音のままに、音程が下がっていくではないか。
なんじゃこりゃ、というのが率直な感想だ。
こんな音は、かのEddie Van Halenの演奏の中でも聴いたことがない。
こみあげてくる笑いと共に、2013年の東京ドームの際以来、神からそしてEVHから私に与えられた「EVHを卒業せよ」という命題は、ここに実現したことを、私は感じ取った。
やはりフロイドローズ仕様である以上、そして、Mojotone製のピックアップも含めて非常にモダンな方向性の音に仕上げられていることもあって、いわゆるレスポールやGIbson系に特有の「枯れた」「鳴き」、アタックのきゅいんきゅいん言う鳴きは、それほど感じないと言わざるを得ないが、それはよりモダンなHR/HM仕様のこのギターの方向性に期待するポイントではないかもしれない。
そして、間違いなく言えることは、このギターはとんでもないShredderだ。手が勝手に動いて、自分の限界以上の速弾きフレーズを次々に弾き出していく。これは、まさか、俺は弾かされているのか。
先だっても書いたが、ギターを弾く際に、楽器、そして楽器の作り手と、弾き手の間に、力関係のせめぎ合いがある。力関係と書くと語弊があるけれども。
そして多くの場合、現実には、楽器側、作り手に足りない部分、あるいは合わない部分に関しては、弾き手がそれに対処していく中で演奏行為を行うことになる。
けれども、本当に力量のあるビルダー、そして調整やセットアップを行う人間、彼らに力量があれば、弾き手、プレイヤーのニーズを満たすばかりか、その演奏を導くようにして、その演奏スタイルや、演奏の手法や、楽器そのものへの向き合い方までも、操る、というわけではないが規定することが可能になる。たぶん。
この楽器からはそれを強く感じる。もちろん、その意味では手元にある「猫ポール」や「ショコラ」も、もちろん確実にそういった要素はあるのだけれども。
つまり俺はこのギターに「操られるように弾かされてしまう」のだ。
そして、その弾かされる方向性というのが、やはりEVHを基準に育ってきた私のスタイルに非常にフィットする。いずれにせよ、私はこのギターから、これからまだまだ、色々なことを教えられることになりそうだ。それはつまり、Deviser社の技術力のあるビルダーおよびデザイナーの方々から、色々なことを体を使って教わる、ということでもある。
導いてくれるようなギター、ということで言えば。
ひとつ愚痴を書くのであれば、世代、ということについてだ。環境、と言い換えてもいい。
別に現代の日本に生まれた自分が恵まれていない、とは言わない。十分に恵まれた時代に、恵まれた場所に私たちは生まれた。
だが、ギタリストであれば、「これだ。これが俺の答だ。俺はこれに人生をかける。」と言えるようなギターに、出会いたいものだ。そして出来ることであれば、もっと若い頃にそうしたギターに出会いたいものだった。
たとえば、イングヴェイ・マルムスティーンであれば、ストラトキャスターという楽器に、若い頃に出会っていた。ストラトキャスターについて語ると複雑で長くなるが、ボルトオン構造を持つストラトキャスターについては、たとえそれが1970年代に入ってからであっても、「本物」に出会う確率は、純粋に数の面から言ってもGibson系のギターよりも確率が高いのは言うまでもない。
ごく若い頃に、「これだ」という答えを見つけていたからこそ、彼はあのような偉大なギタリストになれたのだということは、たぶん言える。
そしてEddie Van Halenに関して言えば、彼こそ本当に試行錯誤と苦悩の象徴でありそれによって時代を切り開いてきた人であるが。
彼が幼い頃に最初に「買ってもらった」ギターが日本製の安物であるTescoであったことは有名な話だと思うが、その後、彼がティーンエイジャーになって初めて手にした「本格的なギター」が、1968年製のレスポールゴールドドップだったという事実を、改めて知り、私は愕然とした。それはもちろんエリック・クラプトンに憧れてレスポールを選んだ、という経緯だったようだが。
68年製のレスポールと言えば、HR/HMの世界で言えばY&Tのデイヴ・メニケッティが長年トレードマークとして使っていることからもわかるように、いわゆるバーストに次ぐクオリティを持った、言ってしまえば「ヴィンテージ」としての価値を持ったものである。(年代を考えても、「普通に新品」でエドワード少年は手にしたのだろうが。)
つまり、エディは最初のギターからして既にヴィンテージレスポールからスタートしたわけである。
そしてもちろんティーンエイジャーだったエディは、演奏活動をしていく中で、60年代前半のストラトキャスターも使っていたはずだ。
今となっては皆が求めてやまないヴィンテージギブソン、ヴィンテージフェンダーを、共に若い頃に使い倒した上で、Eddieは「安価なパーツでくみ上げたオリジナルギター」にたどり着くのである。
俺は、うーん。
俺は、10代の頃に最初に手にしたギターは、日本製Jacksonの白いSoloist、スルーネックのギターだった。
それが、何を意味するのかは、自分では言えない。
最良ではなかったかもしれないが、かといって、特に時代背景を考える時、そんなに悪い巡り合わせではなかったかもしれない。
少なくともそれは、「楽器」としては、最低限きちんとしたクオリティを持ったものであったから・・・。
話の趣旨が逸れてしまったが、俺は、このDeviser社のセットネックのギターという、自分なりの「解答」に、30代も半ばになってやっとたどりついた。
もっと早く出会いたかった、と、正直、思う。
けれども、生きるというのは、音楽というのは、その試行錯誤の過程を鳴らすことでもある。というよりは、それこそがまさに音楽なのだから、たぶんこれもすべて運命だったのだろう。
世の中には、本当に良いものというものは存在する。
そして最高のもの、というものも存在する。
それらのものに触れることが出来る人間は、決して多くはないと思う。
けれども、今の時代は、きっと、玉石混合ながらも、「良い時代」だと言っていいと、俺は思う。
判別する目さえ持っていれば、最高のものに触れる機会は、過去の時代よりも多いのだろうから。
とにもかくにも最高のもの。
たとえば世界のトップギタリストであれば。
トッププロと言われるギタリストであれば、そういった人たちが使うギターは最高のものである。
最高の材で作られ、最高の調整がされているだろう。
たとえば、やっぱり一番わかりやすい例だからEddie Van Halenであれば。
たとえ彼のシグネチャーモデルであっても、一般にお店で売られているものと、本人が使っているものとでは、仮に仕様が同じでも、やはり違うはずだ。
それは、選りすぐられた最高の材で作られ。
最高の技術を持ったマスタービルダーによって製作され。
さらにその中でも最も出来の良い「当たり」の個体が選ばれ。
そして本人に合わせた最高のセットアップ、調整が完璧に行われた上で。
そうしたギターを、エディのようなトッププロであれば、使うのだと思う。
そんなギターは、私の手には、とても届かない。
しかし、この「わがまま放題の赤いSTR」は。
まさにそんなギターではないか。
STRというブランドの名前の持ち主でもある、八塚悟氏をはじめとする、日本でも屈指の技術力を持ったDeviser、飛鳥の職人たちによって作られ。
STRというブランドの名に恥じない研ぎすまされたクオリティで仕上げられたこの個体は。
まさにそんなトッププロ仕様と同等の技術が、込められている楽器ではないか。
そんな奇跡を、この個体からは感じる。
(俺がアーミングアジャスターとD-tunaを取り付けてしまったせいで、そのバランスをぶちこわしていないといいんだが、苦笑)
こいつはレーシングカー仕様だ。F1マシンのようである。
同様のことは、”Jesus Wind”の録音にはっしーが多用したBacchusのTwenty-Fourの桜モデルのベースにも感じたことだった。
アクセルやブレーキに遊びの一切ない、非常に鋭い操作性を持った、高性能エンジンがむき出しの、機能本位、スピード本位の機体である。安全装置などなく、ごまかしもきかない。操縦者の腕だけが試される。それでいて、その切れ味は使い手を強力に「その場所」へと導く。まさに研ぎすまされた刃のような、そんな容赦のない機能性だ。
ベンツとか、BMWとか、そういう高級車に乗りたいのであれば、ここの楽器は選ばない方がいい。
けれども、見た目はシンプルで、音についてもまっすぐな音で、それでいて最高の機能性を求めるのであれば、一切の無駄のないレーシングカーのような、たぶんそんな研ぎすまされた機能性を求めるのであれば、ここのメーカーの楽器はきっと良い選択だろう。
たぶんそういう鬼気迫るような気迫の込められた極限まで研ぎすました高度な機能美こそが、Deviserおよび飛鳥の楽器の持ち味なのだろう。
感動である。
ぶっとんだ。
私は無名のバンドをやっているギタープレイヤーに過ぎず、トッププロでも何でもない。
けれども、そんな世界のトッププロが使うようなクオリティを持つ、自分のためのそんな楽器に出会えたことは、とても幸せなことだ。
神に感謝したい。
問題は、これから私がこのギターを、人前で、録音で、華やかなステージで、弾く機会がどれだけあるか、である。
先は短いと思っている。
あるいは長いかもしれないが、困難な道のりだろう。
だからこそ覚悟が欲しかった。
日本人らしくロボットアニメに例えるのであれば、
こいつは私にとってのサザビーであり、ラビドリードッグである。
赤い色だよね、と思っていたEVHフリークの私としては、それが赤い色のギターであったことは、やはり運命を感じる。
音、サウンドについての追求と、悩み続けた人生についての独白である、この文章の最後に書き記しておきたいことが、もうひとつあるとすれば、それは木材のことだ。
木材という限りのある貴重な資源、そして自然環境。
人間というものは破壊しながら生きていく罪の深い存在であるが、皆さんご存知のとおり、つい先日もローズウッドすべてがワシントン条約の制限下に入ることが決定したりと、これからさらに木材は貴重になってくるのだろう。おそらくは木でできたギターというもの自体が、貴重になってくるのかもしれない。
そんな中、神から私に与えられた「木材」の割当は、これですべて消費し尽くしたような木が、いや、気がしている。
人生というものに絶対はなく、Never say neverという言葉があるので、絶対とはやはり言えないが、
たぶんこれが私の人生の最後のギターであることは、確信とともに予感している。