2016年2月の日記

■…2016年 2月 2日 (Tue)…….終わりなきlushへの幻想と欲求
こんなタイミングであれなのだが、駄文である。ひとりごとである。
年末年始に”Rebuildプロジェクト”のミックス作業に没頭して以来、どうにも頭の中がミックスモードというか、エンジニアモードから抜けきらない。まあ、そうはいっても、しょせんギター弾きの片手間エンジニアであるけれど。

いろいろ作業を振り返ってどの曲にどの「ベースアンプ」を適用したか、どのリヴァーブを使ったか、とかやっているうちに、またネットからフリーのプラグインで良いのを見つけてきて、いくつかダウンロードしてしまった。その中には、本当に良いものもいくつもある。なんだかんだいってフリーのプラグインでも定番のごとく使っているものがいくつもある。
が、なにより、パソコンのDAWの中に、いったい何がどれだけ入っていて、それらをチェックして把握することの方が大事なので、たまにこうして立ち上げて、いろいろ試してみることがある。まあ、そんなこと何年もしてなかったけれど、今、最近、そんなことを久しぶりにやってみたということだ。

で、やっぱりリヴァーブについて書きたい気分だ。
なぜ、別にエンジニアでもなんでもない自分が、リヴァーブについて、妙にこだわってしまうのか。そりゃまあ、コンプにだってこだわるけれども、リヴァーブっていうのは、なんていうか、やっぱり、派手なエフェクトだからか。ミックスの中の、華というかね。

別に自分はたいしていろいろやっているわけでもない。
以前書いたように、その昔、Windows上で、古いバージョンのCubaseを動かしていた時、WavesのTrueVerbが非常にお気に入りで、あとはTC Native Reverbっていうのがあったから、それも非常にお気に入りで、また、その当時のCubaseに付属していたReverb32というのも非常にお気に入りだった。

思えば、TCのリヴァーブに関しては、そういった「ちょっと高級な」リヴァーブに触れること自体が、初めてだったのかもしれない。だから、その美しい残響に、非常に感動したのだと思う。

ただ、リヴァーブなんてもんは所詮、楽曲とか音楽とか演奏を引き立たせるものであって、大事なのは、楽曲とか、音楽とか、演奏とか、そっちの方であることは言うまでもない。

12月に作業したときにもいくつか試したんだけれども。いったい何を試したんだっけ。

ここ一週間でも、いくつか”インストールできるやつは”デモ版をインストールして試してみたけれど、
そうだね、OverloudのBREVERBに関しては、俺は、ダメだと思ったんだけれど、そうはいっても、やはり優秀だったと思う。あれでミックスしろ、って言われても、たぶん出来る。嫌だけど。

あとは、AconのVerbrateっていうのも真面目で好感が持てた。
真面目でしっかりした音で、操作性も良さそうだが、だが、そうはいっても、俺としては物足りないというのも正直な感想だ。あれでミックスしろと言われたら、うーん、ぎりぎり。

あとはコンボリューション系だけれど、HOFAのIQ-Reverbは、やはり凄かった。ただ、俺はコンボリューションリヴァーブは、あんまし使わないから。。。。

自分に問いたいのは、なぜ自分が、ここ1、2年の作業で、EventideのUltraReverbをこれほど気に入っているのか、ということである。
はっきりいって、現代の基準では、必ずしも派手ではなく、むしろ地味な方に分類される音を持つリヴァーブだと思う。
だけれども、いろいろ試して比較してみても、やっぱり俺はこれが一番いい、と感じる。

さっき、いろいろリヴァーブを比較しながらいろいろいじっていて、発見したのは、パソコンの中に、LA Convolverなるものが入っていた。
そして、俺は、これは何年も前にインストールしたっきり、確か一回だけ使って、その後、忘れていた。理由はわからない。使い勝手の問題か。信頼性の問題か。あとはやっぱりコンボリューション系が好きじゃないからか。

だけれども、久しぶりに立ち上げてみて、ちゃんと動くし、別に落ちたりしないし、そして、パソコンの中を見てみたら、それ用のコンボリューション用のっていうのか、インパルスレスポンスのファイルが、いつダウンロードしたのか、いっぱい入ってるじゃないか。しかも、Lexiconとか、TCとか、そういうクラシックな機材のやつも含まれている。そしてご丁寧に、くだんのTCに関しては、32ビットのファイルの、インパルスレスポンスがあった。なんという僥倖。

これで、ぶっこわれたWindowsで使えなくなっていたTCのリヴァーブが、たとえコンボリューションのサンプルだとしても、また自分の環境で、その音を聴けるわけである。
で、さっき聴いてみたんだけれど、やっぱり良い。なんというか純粋にきれいだ。

Lexiconのファイルもあったから聴いてみたけど、やっぱりこれも説得力がある。

ただLexiconについて思うのは、もちろん、歴史と実績があるから、それだけでも説得力があるんだけれど、Lexiconはもちろん美しいリヴァーブなんだろうけれど、それはやっぱりその時の音楽シーンとか、実際のミックスの中で、「使いやすい」「適した」リヴァーブだったからこそ、重宝されたってことだと思う。そして、そんな定番の、皆が聞き慣れた、耳になじんだあの音だから、ということも大きい。だから、用途にもよるし、場面にもよるし、表現したいものにもよるけれど、そのへんはやっぱり理解して使わないといけないもんなんじゃないかと推測する。

いずれにせよ、たとえシュミレーションに過ぎなかったにしても、もし必要なときには、これでTCのリヴァーブを、ミックスの中で使うことができるわけだ。これは、地味にありがたい。たぶん俺の中で今後このLA ConvolverはTCシミュレーターと化すと思う。まあ、このインパルスレスポンスのファイルも、どっから拾ってきたのか定かではないけれど。。。。でも少なくとも、過去のミックスで使ったTCの音に、やっぱり似ていると思うし。あ、これこれ、って。

でね、いっぱいいろいろ試したときに、年始にも確か書いたけれど、結構がっかりしたのよ。
それは、良い製品もあったけれど、必ずしもそう思えない製品もいくつもあったから。
それは、たぶん、俺の耳とか感性、ないしは音楽性が、古いからってこともあると思うんだけれど。(特に音楽性は、しょせん80年代メタルの人であることは否めない。)

その最たるものが、2C AudioのBreezeですよ。
いや、Breezeっていうのは簡易版だから、上位版のやつで評価しないとフェアじゃないのかもしれないけれど、僕の場合、パソコンも新しくないし、ここのリヴァーブ重いっていうしね。それに、たとえ無料のデモ版でも、安いやつしかチェックしないし(苦笑)

で、俺、このBreezeに関しては、ぜんぜん良いと思わなかったわけよ。いや、そりゃ、使い方によっては、この残響を生かすことができるだろうし、そういう音楽を作ればいいんだろうけれど。

表現力っていう言葉があるのね。
で、俺がEventideのUltraReverbを、ここ1、2年、気に入って使っているのは、「表現力があるから」「表現力が素晴らしいから」なのね。

で、俺に言わせれば、この2C AudioのBreezeは、表現力がぜんぜん無いってことになるわけ。

もうひとつ、試してみて、うーん、だったのが、EareckonのEareverb。正確にはEaReverb2というべきか。簡易版のSEも試してみたんだけれど。
これ、実際、音はすごくきれい、というか、最初はすごくきれいだと思ったんだよね。簡易版のSEなんかは安いし、思わず買いたくなったんだけれど、しばらく聴いてたら、いや、これは使えんだろう、と。売り文句には、「ナチュラルでリアルな残響」みたいに書いているが、これのどこがナチュラルなのだ、と。奥行きとか全然ないし。

いや、もちろん、これに関しても、この音を生かす使い方をすれば良いだけの話で、この音が生きる場面でそういう使い方をすれば、このやたらめったらきれいな残響を、生かすことができると思うんだけれど、少なくとも俺は、「信用できないツールは、本番では使えない」というように考える。

たぶん、そういうことで、Reverbなんてものに、どうしてこだわってしまうのか。最新のやつをいくつもためして、「あれもだめ、これもだめ、リヴァーブの製品はいっぱいあるのに、どれもこれも、使えない、ダメなのばっか」みたいなことに、どうして俺はなってしまったのか。

で、手持ちのパソコンに現在入っているのは、EventideのUltraReverbの他に、Valhalla Vintage Verb、IKのClassic Studio Reverbで、そのうち、EventideもValharaも、導入したのは2014に”Revive The World”を完成させたより後の出来事だから、”Revive The World”でメインリヴァーブとして使っているのは、IKのClassic Studio Reverb。
で、俺は、この3つに関しては、どれもそれぞれ、素晴らしいと思う。

Valhalla DSPに関しては、Valhalla Room、Valhalla Plateっていうのもあって、俺はまだPlateは試してないんだけれど、サンプルを聴く限りではすごく良さそうだ。で、俺はRoomよりも、Vintageの方が音も機能性も上のように感じた。

だからValhalla Vintage Verbに関しては、値段も安いし、誰にでもおすすめできる。

で、いくつか、限られた中でもいろいろ試してわかることとして、実際のところ、市販されてるリヴァーブの中でも、Valhalla Vintage Verb以上にきれいな音を出してくれるリヴァーブは、そうそうない。
それくらいValhallaの実力は高いと思う。

でも、それよりも俺はEventideの方が、ちょっとの差であるけれど、EventideのUltraReverbの方が、より気に入っているのだから、いつのまにやらかつてのTrueVerbやTC以上に、俺はこのEventideが気に入っているのだと思う。

つまりは、UltraReverbは、決して派手な音ではないかもしれないが、基本がしっかりしているので、あとは、提供されている操作のパラメーターが、非常にまっとうで正直であるので、かなりいろいろいじって、いろんなリヴァーブを作り出せるtweakabilityっていうか、実用的な応用というか、汎用性が非常に高い、ということ。しかも、すんごいいじっても、ほとんど破綻しない。そして派手ではないが、やはりどんなにいじっても、上質な音を保ってくれる。

まあ、Valhalla Vintage Verbに関しても、同様に、tweakabilityとうか操作性、ツボを得たパラメータが提供されているので、それらをいじって、希望通りの残響を作り出せる可能性はかなり大きい。このへんは、やっぱり大事だ。で、やっぱりそれは、基本の音がしっかりしてるから、どんなにいじっても、応用が利く、ということだ。

しかし3つとも、どちらかといえば、というか、実際のところモロに、「なつかしの古いデジタル系」リヴァーブだから、やっぱそういう音が好きなのかということは、認めざるを得ない。やっぱ80年代メタルの人ということだ。

しかし先日も書いたが、昔、昔、その昔は、こういった専門的な音響機器は、その仕事に携わる専門の職業の人というか、プロのエンジニアしか、使うことのなかったものだ。

けれども、技術の進歩と普及、時代の変化にともなって、今では、実にたくさんの人が、音楽をつくり、こうしたツールを使って楽曲のミックスとかしている。

そこには、もちろん、進化もたくさんある。
っていうか、まあ、進化してる部分の方が圧倒的に多いし、それはありがたいことだし、素晴らしいことだ。

今回試した中でも、HOFAのIQ-Reverbなんかは本当に素晴らしい音だと思う。俺も欲しいが、予算ないし、しょせん俺はコンボリューションリヴァーブはあんまり使わない人である。しかも、その音をあんまり必要としない音楽性の音楽をやっている。もし、俺が、きれい系の音楽をやっていたとしたら、絶対に買っている。それか、たとえば俺が、一週間後にクラシックとか、ピアノの録音をします、ってなったら、1も2もなくIQ-Reverbを買って、その作業にメイン使用すると思う。
だけれども、じゃあ、同じ表現を、手元にあるValhalla VerbやEventideでそこに近づくことができるかって言ったら、たぶん、かなり近付けるんだよね。かなりのとこまでね。完全には無理だけど。

話はそれたが、そのように、前向きな変化、進化もたくさんある。
だけれども、そうやって、いろいろな人が、音楽を作るようになり、こうしてリヴァーブなどのツールも、広く販売されるようになった今となっては。

正直に言って、音の悪いものも、人気が出るんだよ。
俺の視点から言えばね。

ていうかむしろ、音の悪いものの方が、人気出るんだよ。

なぜって、音のわからない、悪い言葉で言えば「耳のよくない」人たちが、たくさん、そういう商品に飛びつくからだ。

だから、こんな派手な音のするリヴァーブエフェクトが、いっぱい売られて出回ってるんじゃん。

でも、俺はそれらをいじってみて、「使えねえ」と思うわけだ。

でも、俺みたいなのがそんなこと言ったって、
世の中はすでに、そういう音で構成された、むしろそういう音を前提としたサウンドの音楽で溢れかえっている。

それとて、決して否定するわけじゃなく、進化には違いない。良いこともある。
けれど、それを、進歩と素直にはやっぱり俺は呼べないところがある。

それは、つまり、ギターやベースと同じことなわけだ。

ロック音楽もまさに同じであるように、
時代とともに、進化、進歩する部分もある。
けれども、進化したそれが、必ずしも正しい方向に進んでいるとは、残念ながら限らない。
それは、世の中とか社会ってものの、性質っていうか、つまりは新たにお金を稼ぎ、商売を成り立たせ、商品を売るために、あるいはより注目を集めるために、より多数にアピールするために、質を上げるよりも、質を下げることが、ままあるからだ。そして、その本質に目をつむって、進歩、進化と呼んだりする。

おかげで、2000年代に良い音楽を見つけるには、相当に深く「もぐらなきゃ」いけなかったし、今となっては、それでも足りず、もっともっともぐらなきゃいけない。
しかし、探せば、あるところには、やはりその時代ならではの良いものはあると信じているけれども。

で、OverLoudのBREVERBね。名前の段階でかっこいいけどね(笑) Valhalla (Halls of Valhalla)と同じで、誰もやらなかったくだらないべたべたなジョークをやっちまった系の名前だけれど。逆さから読んでも同じという。

すごく評判の良いリヴァーブのひとつだけれど、これも俺としては「使えない」と思ったものだった。けれども、そうはいっても、基本の音は良いし、上記したように、いろいろいじっていけば、これでミックスやれと言われたら、たぶんやれる。でも、そうであったとしても、やっぱり俺としては、「足りない」という感じ。

いまどきの音がするリヴァーブっていうのは、俺が思うに、キラキラして、原音が前に張り付いて、わざとらしいくらいの残響がつくリヴァーブ。そして、だいたいが、そういう音しかしないので、応用が利かない。俺の言葉で言えば「表現力がない」。
そして提供されている操作可能なパラメーターを見れば、どの程度それが正直に作られているか、その設計思想も見えて来ようかというものだ。

かといって、そういう音が、2010年代の今、音楽シーンの主流であることは、俺みたいな者にもわかる。だから必然なのはわかるし、必要なのもわかる。けど、俺はちょっと嫌だ。

とかく、「USBドングルをはめるのが嫌だ」っていうだけで、Lexiconをあきらめ、さらになぜだか今現在TCはAU環境で使えるプラグインを出してない? なんか探しても見つからない、という現状により、昔からの老舗リヴァーブBig3の中の残りのひとつであるEventideに救われた形の、今の僕のミックス環境です。

地味だけど、ちゃんとプロの仕事ができるツールってことでは、たぶん間違いない。

ちなみにEventideからはプラグインってことでいえば、2016 Stereo Roomっていうのも出ている。これは、UltraReverbよりもさらに何年か前に出たものらしく、これもデモをインストールして比較してみたけれど、音はUltraReverbとほとんど同じだった。プリセットの特性かもしれんが、いくぶんStereo Roomの方が「昔ながらのデジタル」っぽいニュアンスが強かった。けれども基本の音というか、色は非常に似ている。さらに2016 Stereo Roomはその名のとおり基本ルームだけなので、そう考えると、普通にUltraReverbを手に入れておけば、2016 Stereo Roomは、基本的に必要ない、と言えると思う。

まあ、すべてのプラグインは、俺は今までも、バーゲンになってる時しか買わないけれどね。どれもほとんどタダ同然、か、あるいは4ぶんの1とか5ぶんの1とかの値段でしか買ってない気がする。

そんで、そうはいってもやはり、ギター弾きが必要最低限のミックスをするだけなので、これ以上録音とかツールにも興味ないし、たぶんパソコンのOSのバージョンからしても、もう打ち止めであろう。昨年のValhalla Vintage Verbで最後であろうと思われる。そんで、Valhallaはそれにふさわしいくらいの素晴らしいリヴァーブだと思う。

あとはネットで見てて、前から、インターフェイスの見た目があまりにもきれいで、欲しいなあ、と指を加えていたUVIのSparkVerbなんだけれど。
諸条件により、デモ版をインストール出来ず。試せてない。
でも、サンプルの音を聴く限りでは、ちょっとパリっとし過ぎてるのかなあ。これも、音はすごくきれいなんだけれど。自分の音楽性には、いかにも合わない予感。単純にきれいな音が聴きたいっていうリヴァーブフェチの欲求もあるんだけれど、それも、手元にあるValhallaと、あとLA Convolverの中のもので満たせそうだしね。

いつからこんなにリヴァーブにうるさくなったのか。
これはダメ、なんて言える資格が、にわかエンジニアの俺にあるのか。
繰り返すが、その昔、俺は、TC Native Reverbとか、Waves TrueVerbの音に、結構感動して、愛用したのだ。それはやっぱり、初めての経験だったからだと思う。
けれども、TrueVerbにしたって、今でもあるっていうか、売られてるわけだからね。最近無料になってたケド(笑) それは、やっぱり、長年使用されてるのは、素晴らしいツールだからだと思う。

そうそう、で、これは素晴らしいと思ったコンボリューションのHOFA IQ-Reverbだけれども、たとえ、それが素晴らしい音であったとしても、自分の音楽性で、自分のバンドの録音に使えるかと聴かれれば、たぶん使わない、合わない、使えない、としか言えないと思う(涙)

それにやっぱ、コンボリューションリヴァーブって、嘘っぽいとは言わないけれど、なんかズルしてる気がしちゃうんだよね。もっと汗にまみれた音を作りたいというか。。。。

リヴァーブって、それくらい難しいものだし、それくらい深いものであるとも思う。
そんで、人の聴覚、そして音楽というものは、それくらい深いものであるとも思う。

と、まあ、後は何試したっけ。
Wave ArtsのMasterVerbとかも試したんだっけか。
あれも、比較的真面目な音で、その点は悪くなかったけど、クオリティ的には正直ぜんぜんダメだった。作れる音の幅もそんなに広くないと思った。

まだ何か試したような気がするが思い出せないか、パソコンの中のデモの期限がすでに切れているか。

あとはなにげに気に入っている(何を気に入っているかは秘密)ToneBoosterのReverbなんかも、これくらい方向性が潔いと、かえって好印象だ。なにげに悪くないぞ。ていうか安いなこれ。ていうかToneBooster結構バカにできないぜ。上記のEareckon EaReverbを買うくらいだったら俺はこっちを選ぶかな。比較的狙ってる方向性は似ているけれど。

今回、そうはいっても、安いのしか試していないのも事実なのだ。世の中にはもっと高いプラグインとか、老舗なメーカーの高級っぽいリヴァーブがいくつもある。そういうのを試せば、きっともっとオーケーな結果になるのだろうけれど、そうもいかない身分でいろいろ試すとこういうことになるのであった。

そうはいってもやはりギターと同じで、実際に試してみないとわからないけどな!
そのへんは、有名ブランド、高級ブティックブランドみたいなギターでも、実際に試すと、どうかな、ってこともたくさんある、それと同じだ!

と、ここまでコンボリューションリヴァーブはあまり使わない、と書いておいて、それにはそれで理由があるんだけど、
さっきあらためてパソコンの中見たら、なんか32ビットのインパルスレスポンスのいろんなライブラリが、どっからダウンロードしてきたのか、ばっちりあるじゃないかー!
ていうか、なんだ、これ使えば、さっきのLA Convolverでも、IQ-Reverbみたいな上質な音出せるじゃん。

そういうわけで、今後、より気軽にコンボリューションなものも使ってみるかもしれません。

でもね、やっぱり、いまいち汗臭さに欠けるというか、きれいだけど、音が冷たい気がするのよ、コンボリューション系のリヴァーブ。

しょせん80年代メタルには、安っぽいデジタルリヴァーブが合うってことなんだろう!

追記。
というわけで色々あったが諸々の調整により、とってもプリティなUVIのSparkVerbも試すことが出来た。
結果。音は見た目どおりというか予想以上に非常にキレイだった。
そのあまりのキレイさに、「最近のリヴァーブは」とか悪態ついてほんとすいませんと言いたくなった。
しかし、だがしかし、ちょっといじってみると、やっぱり色々見えてきてしまった。
つまり、「虹色の、絵に描いたような濃密で美しいホールリヴァーブ」は見た目どおり期待どおり提供してくれるんだけれど、それだけだった。それ以外のことは何にも叶えてくれなかった。つまり「夢に描いた、ため息が出るほど美しい、理想のホールリヴァーブ」という夢は(一応)叶えてくれるけれど、それ以外のことは何にも応えてくれなかった。しかしその一方で、予想外の部分で確かに色々と面白い芸というか機能を備えているヴァーブでもあった。
ホールとかもっとでかいhugeな空間とか、そういう大きめの空間は概して非常に得意であり美しかった。
しかし、ルームとか近距離はあまり得意では無いようで、ルームのプリセットには概して説得力がなかった。
そして基本的にやはり「一種類の音」しか出ないので、俺の言うところの「表現力」はやはり求めることは出来なかった。
このへんはやはりEaReckon EaReverbあたりにも通じるところだった。
そしてプレート系の音にも若干疑問があった。
ルームの音も、ルームっていうか、これってChamberじゃね、とか、小さくなるとAmbienceの出来損ないとか、そういう感じ。基本的に一種類の残響のサイズを変えている感じというか。
俺がUltraReverbとかValhallaとかに感じている「応用力」「tweakability」っていうのはあんましなかった。そのツールとしての「応用力」っていうのはたとえば、アルバムの中に10曲入って、どれも音楽性とか曲のキャラクターは違ってバラエティがあるんだけれど、不思議に全体にはどれも共通した統一感がある、みたいなことだろうか。
そして、これもEaReverbにも通じるところだが、音はきれいなのだが、やはり場合によってはモジュレーション臭さが、不自然に感じることが多かった。もちろん、モジュレーションの効果は、用途を選んで有効に使うものではあるけれど、ソースによってはやはり不自然な音になってしまう。そりゃ、モジュレーション切りゃあいいじゃん、って思うかもしれないけれど、原音もそうだけど、モジュレーションをかけていった場合の音がナチュラルに使えるかどうか、ってのは、俺の考えるリヴァーブのtweakability(可搬性)として、重要なポイントのひとつだ。結局、モジュレーションをどうきれいにかけるかってことだと思うしね、アルゴリズムリヴァーブって。
あとはそんでやっぱり、ほとんどの場合において、奥行きってものは感じられない。これもEaReckonにも共通するところなんだけれど。
ただ、操作できるパラメータも最低限ツボは押さえてあるし、あとはValhalla Vintage Verbが1970、1980、Now、とカラーを選べるのと同様に、Lo-Fi、Dark、Brightとモードを3つ選べるのも気が利いている。
それにぶっちゃけ、このきれいなホール系、大きな空間系の残響だけでも、十分に魅力的ではある。たとえ、それだけだったとしても。
だから、オールラウンドな応用の利くリヴァーブでは決してなかった。
あとは、モジュレーションが、と言ったけれど、逆にモジュレーションを生かしたプリセットもいくつもあったりと、むしろコーラス用途とかヴィブラート用途、モジュレーションエフェクトとして立派に一本立ちして使えるくらいだった。
あとは今っぽい機能としてSimmer系のプリセットも豊富だった。ただ、Simmerといっても色々あるみたいで、それっぽい(MONOとかExplosionなんとかとかそういう系のバンドの)用途に使えるかどうかは、俺にはわかんないけどねー。
そして、PRビデオとかYouTubeムービーで見た、あのとっても楽しそうな、宇宙空間のチャートマップみたいのでプリセットを選んでいくやつ。あれもやってみた。宇宙空間は、やってみると別にそんなに壮大でもないので、そのへんは期待外れだったけど(そこじゃない)、これは要するに、地図上を適当にクリックしたりドラッグしたり、クリック一発で、面白いセッティングを偶然に見つけ出せますよ、って機能なので、やはりそうしたエフェクティヴっていうか、自然な空間を作る以上に、刺激的な音をクリエイティヴに見つけ出して作り出していくリヴァーブなのだろう。空間系の残響エフェクトマシーンと考えると良いのかもしれない。
総合すると、そういったいろいろ「尖った」機能があるので、悪い意味で比較したけれどEaReverbよりはこっちの方が点数高いと思う。尖った用途に使えるし。
そういうわけで、少なくとも俺の意見では、このSparkVerbは、ナチュラルなリヴァーブとしては、決して本格派とは言えないものであった、が、やはり大きめの空間は、たとえ若干モジュレーション臭かったり、奥行きに欠けていたとしても、やはりその大きめの空間の美しさは魅力的なので、そのへんを生かして使えば、とても良い武器になるんだろうなあー、と思ったのでした。
でも、やはり俺が使う道具ではない。
ていうかもし同じ値段を出すんであればHOFAのIQ-Reverbを買った方がきっと幸せになれると思う。
やっぱりこれだから最近のリヴァーブは・・・(というオチ)

すいません大してエンジニア経験もないのに偉そうなこと言って(汗)

No(4624)

■…2016年 2月10日 (Wed)…….れこーでんぐ開始
れこーでぃんぐ開始である。
ドラムトラックの録音が始まる。
こんせぷとあるばむ、”Jesus Wind”(仮)の録音制作が始まるのである。
気持ち的には、なかなか準備が出来ているとは言い難い。
こんなに緊張しながら、録音作業に取り掛かるのは珍しい。久しぶりというよりは、ほとんど初めてくらいに珍しい。

前作っていうことになる”Revive The World”の録音は、今にして思うと結構上手くいっていた。それはつまり、すべての音(すべてではないけれど)が、収まるべきところにきちんと収まった。昨晩ちょこっと聴いてみたが、録った際に、これは上手くいかなかったなあ(作品つくると、いっこはある)という曲にしても、あらためて聴いてみるとけっこういいじゃんという感じだったのである。
これを越すことが出来るか。越せないにしても、同じくらいのクオリティの音が作れるか。妙にプレッシャーを感じるのである。

もちろん今回の作品はストーリー性のあるコンセプトアルバムであり、自由奔放に作った前作とはちょっと違うので、その意味では前作と同じにする必要はないが、それでも今回のものは、ヘヴィメタル作品である。そういったヘヴィメタルのレジェンド的な名盤に比肩するものを作れるかということもある。もちろん、レジェンドに比肩とかじゃなくて、もちろん、言ってしまえば自分たちにレジェンドに比肩するものなど作れっこないのは承知だが、逆に言えば、レジェンドとか過去にとらわれずそういったものを越えていくものを作らなければいけないのは明白である。それは、他でもなく音楽に向き合うということだ。それ以外の何物でもない。

リハーサルはそれなりにやっているはずだ。
この”Jesus Wind”の楽曲を書いたのが、2013年年末から2014年の年始にかけて、ほとんど数日間で書いてしまったものである。そして2014年の4月頃に急ぎデモの形に作り上げ、2014年の8月くらいからバンドでリハーサルを開始している。最後の1曲をリハーサルしたのが実に2015年の12月なので、ほとんど一年半近くリハーサルに費やしていることになる。
もちろん自分たちはトッププロでもなんでもないし、四六時中リハーサルをしているわけではなく、また年齢とともに活動が鈍るってことはなくむしろ逆だったりもするが、それでもここ数年はリハーサルのペースも落ち着いたペースでゆっくりとやっていたわけで、必ずしもそれが「特訓の1年半」だったわけではまったくないけれど。それでも一年半はじっくりとリハーサルしてきたわけである。
そして、それらの楽曲の半分近くはしっかりライヴの場でも披露して、いくつかの楽曲はすでに定番としてこの一年、セットリストの真ん中にあったわけだ。

普通のインディーバンドの水準で考えれば、リハーサルは十分にやっていると、たぶん言える。
だが、今回の作品は、ストーリー性があるぶん、ちょっと難しい。
俺は、まだまだなんじゃないかと、1月のリハーサルの時点で思っていた。
けれども、最後の追い込みで、いけると判断してのレコーディング開始。
これがプロのバンドだと、もっとのっぴきならない理由やタイミングや状況がきっとあることだろうが、どインディーの僕らにも、やっぱりいろいろと理由があり、「じゃああと3ヶ月じっくりリハーサルしましょう」なんてことは、やっぱり言えない。時間は貴重だ。タイミングだって限られている。今この瞬間を、素早く記録し、収録しなければならない。そこに何をどこまで込められるか、バンドっていうのは、やっぱりそういうものである。

僕らはインディーバンドとしては、たぶんかなり生産性の高い方だと思っている。それは、ライヴ活動とかじゃなくて、つまりは音を作るという部分、創作の部分のことであるが。自分たちで自分たちなりに録音が出来るっていうことはひとつ強みではあるが、世間での人気とか、大きなライヴとか、頻繁にツアーをやるとか、そういうことは世間任せであり、状況は簡単に変えられないところはあるが、音に向き合うことは、自分たち次第であり、そこはやはり自分にとって、自分たちにとって、もっとも大事な部分であるということだ。たとえば君が数学者だったとしたら、科学者だったとしたら、たぶん人気があるかとかあまり気にしないだろう、純粋に科学者としての研究実績を気にするだろう。とはいえ実際には社会的な立場や、名誉や地位といったものが重視されるのが現実かもしれないが。しかし過去に何度も語っているように、自分は「人気者になる」と思って音楽に向き合ったのではなく、「彫刻家になる」と思って向き合う決心をしたのである。

レコーディングというのはいろいろと不確定要素がつきまとう。環境のととのった、素晴らしい機材や道具、人材のそろった一流のスタジオでのプロのレコーディングであっても、そうなのである。こんな限られた機材と環境で、自分たちで自主録音しているどインディーの僕らなら、なおさらだ。不確定要素ばっかりである。
ここ一年半の間に、MacBookの中のプラグイン環境は、より充実したし、昨年から今年の正月あたりにかけて、”Rebuildプロジェクト”に取り組んだおかげで、頭の中は録音モードというのか、若干エンジニアモードが入っている。しかし、良いプラグインエフェクトが増えたからといって、それで良い作品が作れるかというと、それはまったく別問題なのだからして。不要なものを使いすぎるということは、人間往々にしてあるのだから。

頭の中がエンジニアモードになってくると、欲が出てくる。
笑っちゃうかもしれないが、特にクリスチャンバンドになって以降、録音というものに大して、こだわりがなくなり、割り切って向き合うことが出来るようになり、機材をどんどん手放してシンプルになっていった。しかし、それに反比例して作品は狙いどおりのものが作れるようになった。最近の録音も、ずっと古い安価なオーディオインターフェイスのマイクプリでそのまま録っているものである。しかし、また頭の中がエンジニアモードになると、もっと良いマイクプリを使いたいとか、そういう気持ちが出てくる。そういったことはこだわり出せばキリがなく、ではプロのスタジオはどういった非常にこまかいところまでこだわりぬいて音を作っているかとういことだ。自分たちにあるのは、情熱と、あとは自分たちの音はどうあるべきか、という信条のみだ。それは、高級な音とか、メジャーな音ということではなく、環境や状況を含めた自分たちの人生のありのままの音として、どうあるのが正しいかという感覚だ。もっとも今時、素直な音で収録できさえすれば、そういったアナログ的な音のニュアンスの部分でも、パソコンの中でどうにでも出来てしまうのも事実だ。そこは、腕の見せ所ということである。腕というか、世の中の技術の進歩に助けてもらうだけのことであるが。

まだまだ書きたいことはあるが、先週のこととか、携帯を変えたこととか。
行動はしても、日々いろいろなことを考えても、なかなかそれを書き留める時間のないことがもどかしい。とはいえ、人並みに働けているとは言い難い身分で、皆さんよりはよほど暇人だろうけれども。しかし、嫁さんに聞いてみるといいけれど、自分がどれだけ絶望的な仕事量を絶望的な環境でハードワークしているかは、やっぱりそれも事実である。

そういうわけで出動である。
信じるだけである。
そして、祈るしかない。
良い音が、良い演奏が、録れますように。
それにふさわしい、そうあるべき音楽表現が、できますように。
In Jesus name.

やっぱりそれだけである。
音ひとつ鳴らすのにも。
神の助けなしに出来やしないのだ。
それは、よくよく知っている。
別にクリスチャンになる前から、音楽に向き合っていれば。

燃えていこう。
一歩踏み出せ。

No(4625)

■…2016年 2月13日 (Sat)…….失敗と伝道
伝道というのはいったいどういうことを言うのだろうか。

先日、”Jesus Wind”のドラム録音に取り掛かったのですが、しょっぱなから録音の設定ミスをしてしまい、いつになくめげています。音にかかわるところで、録音ということに関してこんなふうにミスをするのは珍しいことであるので、そのせいか、こんな小さいことだと思うかもしれませんが、なんだか非常にショックを受けて落ち込んでいます。
そうはいってもどんどん前に進んで乗り越えるしかありません。
厳しいドラム録音の体力勝負、そしてその後のプロセスはこれからどんどん進んでいきます。

そういった、ちょっと珍しい、これまでになかったような些細なミスをしてしまったことが、小さなきっかけになって、ちょっと自分の中で、この数年にわたって自分の中にたまってきたいろいろのことが、咳を切ったようにあふれだしてきてしまっています。

伝道というのはいったいどういうことを言うんでしょうね。
これはもちろん、クリスチャン界隈の話題です。
先日、XTJのことを相談する目的もあり、お茶の水でちょっとした集まりに顔を出してきました。
その際に、一人の真面目そうな青年が、かなり「それ言っちゃおしまい」的なことを言って(笑)、出ていってしまうということがありました。それはそれで、悪い事ではないと思います。また、言ってしまえば、こういうことは「よくあること」であるとも思います。

けれども、その場にいた人たち、おそらくは若者への伝道ということについて意識の高い人たちが集まっていたにも関わらず、その(まあ明らかに若さのせいで理想主義に過ぎるところはあったにせよ)若者に答える言葉がなかったことは、俺はかなり深刻な問題だったと思っています。応えるというのは、その場のことだけではなくて、もっと広い意味においてもね。そもそもの姿勢ということなんだろうけれども。

あの場には、「熱い」人たち、信仰とか、そういうのに燃える「熱い」クリスチャンが、何人も居たはず。あるいはもし、あの人や、この人が、あの場にいたら、どうだっただろうか、立ち上がってその若者に声をかけただろうか、とか考える。
日本人的なシャイなお見合い状態だったかもしれず、誰も答えなかったこともあれど、ついつい「おいおいそれ言っちゃおしまいだぜ」的な感じだったので、その数日、「逆境ナイン」を読んでいた自分は、島本マンガの登場人物のようなテンションで、立ち上がって指を指し、「よくぞ言ってくれてありがとう」的なことを言ってしまった。(恥ずかしい)
それは、彼を一人にしたくなかったというか、単純にその若者の気持ちに答えたかったというだけのことである。

個人的には、たぶん必要以上に「まっすぐ」な性格なのであろうその青年が、将来的により成長して、彼がもし「日本のキリスト教シーン」を見捨てていなければ、その時に貢献してくれたらいいなと期待します。(見捨てる、というのは、クリスチャンシーンが彼を見捨てる、のではなくて、彼がクリスチャンシーンを見捨てる、ということですよ。見捨てられてるんですよ、俺たちは。彼のような青年たちに。そこに気付かないのであれば、問題は深刻ですよ。)

で、「それ言っちゃおしまい」的なことは、いい大人である自分は公の場ではなるべく言わないようにしているが、それでも行動で語ってしまうことはある。
それ言っちゃおしまい、的なことで言うのであれば、伝道ということである。
そもそもが、祈りということである。

俺は、伝道っていうことがどういうことなのかわからない。
The Extreme Tourみたいな、伝道目的の趣旨を持つイベントに関わっていてこんなことを言うのもおかしいけれど、俺は伝道っていうことが、いったいどういうことなのか、いったいぜんたい、理解できていない。

もっと言えば、クリスチャン、ということについてもわかっていない。

言ってしまえば、俺が思うには、クリスチャン、というと言葉が固定されるから、キリスト者、と書くと、俺にとってはキリスト者とは、人生の中で自分の十字架を背負って生きる人のことだ。それ以上でも、それ以下でもない。

だから、伝道なんていって、じゃあ、教会に来る人を増やせばいいのか、教会のいわゆる教会員の数を増やせばいいのか、ハレルヤー、って手をあげて賛美する人に仕立てあげればいいのか、洗礼を受けさせて、毎週日曜に教会に来させればいいのか。

俺が伝えたいのは、もっとそれよりも、高いもので、もっとそれよりも難しいことだ。
そして、そんなことよりも、もっともっと、強く、一生消えないほどの、光り輝くものだ。

だからこそ音楽をやっているし、それって言ったら、別にクリスチャンに限らず、音楽をやっている人は、多かれ少なかれそういうもののはずだ。その中に、真実とか、道、みたいなものをどう見出すか、見出さないのか、の違いだけである。

だから、悪いけど俺が「伝道」って考えるとき、何人救われました、とか、何人がキリストを受け入れました、とか、洗礼を受けました、とか、そういうことは、俺は悪いが全然興味がない。(そういうのは、皆に任せる)

ただ、もっと確実に、その人の心の中にある、「キリスト」を呼び覚ましたい。

それは、形には表れないかもしれないし、というか、たぶん表れないことの方が多いだろうし、数字には表れないかもしれない。

でも、信仰なんて本来は形のないものなんじゃないのか。
形にしたらそれは「偶像」ってやつなんじゃないのか。

そもそもが、数字に縁のない人生だ。

じゃあ「キリスト」って何なのか、ということだ。
俺はゾンビを増やしたいわけでは決してない。

人間には、可能性がある。無限の可能性がある。
それは、人は、神に似せて作られた、一人一人が、神の子だからだ。
(これがpositive messageってやつだ)

キリストっていうのは、その人間ひとりひとりが、自分自身の与えられた人生の目的や使命に目覚め、そしてその本来の可能性を、100%フルに発揮するための、与えられた秘密のスーパーパワー、その鍵みたいなもんだ。

そして、それは「道」っていうものだ。

じゃあ、形だけ「いわゆるキリスト教」が普及したどっかの国で、実際に世の中において、「道」が行われていない状態と、
「いわゆるキリスト教」は普及していないけれども、世の中において「道」が行われている状態では、どちらの方がいいのか。

じゃあ、「道」が行われていれば、「キリスト」は必要ないのか。

俺は、そこに違いは無いはずだと思う。
つまり、俺は、音楽を通じて「道」を追い求めた結果、キリストにたどり着いた。
つまり、キリストを追い求める者は、道を見出すのであり、
「道」を求め、究めるものは、自然と「キリスト」を見出し、理解するようになる。
そのはずだと俺は信じている。

だから、「道」を示すこと、それ以外に「伝道」というものは有りはしない。
というか、やはり漢字というか日本語はよくできている。道を伝える、と書くのだから。

では、「道」をどうやったら示すことが出来るのか。
それは、やはり自分の身を以て、かっこよくいえば「男の背中でもって」示すしかないのだ。

俺はロックンロールという道の中にそれを見つけただけである。

俺は、現代の日本人の平均の中では、あまりマンガとかアニメとか見ない方だと思う。
だけれども、わりと雑誌を立ち読みしても、格闘技マンガとかはついつい見てしまう方だ(笑)

で、自分なりにヘヴィメタルというカテゴリの音楽をずっと演奏してきて思うのは、自分の音楽、自分のヘヴィメタルというものは、やはり武道であり格闘技である、ということだ。そういうことに、ふと近頃、気が付いて思いを馳せていた。

そういう意味では、やはりアグレッシヴな表現方法だということだ。

だからこそ、その「戦い」の中に、「道」というものを示す可能性があると、俺は信じている。
そしてたぶん、そう信じたからこそ、俺はこれをやっている。

だから「キリスト者」よ、「道」を究めろ。

「道」を究めることなしに、「伝道」なんてありはしないのだから。

とか偉そうに言ってみた次第。

知ってるよ、「道」なんてものは、流行らない世の中だってことは(笑)

でもだからこそ、キリストは十字架を背負ったんだろう。

そもそもが、伝道なんちゃら言ったって、
たとえばいわゆる「キリスト教会」が、繁栄しようが、廃れようが、
キリストさんが、神が、偉大であることに変わりはない。

俺たち人間がどんなに愚かだろうと、滅びようが栄えようが、
神ははるか高みに居て、偉大なんだよ。

そう思えば、伝道する、なんておこがましいことだと、俺は思う。
そこをわからずに、伝道を語ろうとするから、
ボタンを掛け違えたことになる。

道はおのずと、そのものにして、そこにある。

No(4626)

■…2016年 2月18日 (Thu)…….Politics in music. Does it sound good?
最近、政治ってことをまたちょっと考えたんですね。
政治といっても、現実のこの国とかどこかの国の権力者のことではなくて、もっと人の生活にかかわるものについて。

先週からドラムの録音を始めたんですが、初日に若干録音の設定がうまくいかず、いくつかの曲で思ったとおりの音が録れなかったことで、ちょっとそれをきっかけに珍しいくらい気分が落ち込んでいたんですが、それも、なんとかプラグインをいくつか駆使しているうちに「なんとかなる」状況になり(むしろ良かった可能性もあり)、次第になんだか元気を取り戻しています。

俺は今思っています。
これが終わったら、もう「がんばる」ことは止めにしようと。

先日、友人がシェアしていた記事に、「40代になったら行うこと」みたいなのがあって、僕はまだ40代になるまでは少し間がありますが、すでにぜんぜんアラフォーと言える年齢なので、そこにあったことの中に「40代になったら、そこからさらに頑張るのか、あるいはこれまで頑張ったのだからここからは楽をするのか決断する時だ」的なことが書いてありました。
自分は世間に言えるような実績はまったく無いんですが、けれども、それは自分に問いかけるまでもなく、思うんですね、「俺は、ここまで無理してがんばってきたのだから、これからは楽をしよう」と。

今、僕らは”Jesus Wind”の録音にとりかかってますが、これとて、以前から「歴史もののコンセプトアルバムを作り上げたら、解散する」とか言っていた、そういう作品です。
そして、その先の到達点である(何度も書いている)「鍋島」を鳴らすことができたら。

で、頑張る、というのは、意地を張って我を通すことである、とよく言われます。俺は、いろいろ意地を張って我を通してきました。この”Jesus Wind”を完成させること、そして、あとは、この「鍋島」のデモを作り上げて、設計図をちゃんと書き上げるところ、そこまでかな。

そこまでは、今年は、せいいっぱい「我を通そう」と。

そこから先は、もう無理しないで、流れにまかそうじゃないか、と。
そんな思いでいます。

(「鍋島」を最後まで完成させることは、それはもう、生半可なことじゃないので、その後の流れに任せておいて)

なんか、いろいろと、コップのふちから水があふれ出すように、何かが限界を越えてしまったようで(笑)

ひいてはXTJ (The Extreme Tour Japan)についてのことですね。

昨年まで、「日本でこれをやるのは無理」と周囲の誰もに言われたこの企画を、3年連続でやってきて、で、昨年の11月にやった時点で、やっぱいろいろ問題があるし、いろいろと潮時、タイミングだし、来年(2016年)はナッシュビルのThe Objectiveに行かなければいけないな、と思っていました。

けれども、年が明けてから、いろいろと動いたり、計画を建てたりしているんですが、どうもいまひとつ、どこを打っても「いい響き」が返ってこない。
それは、日本の側もそうなんですが、アメリカ側の状況としても、あるし、なにより、この3年間でいろいろやってきて「たまっている」もろもろの不満や苦難もあります。

なんか、もう、いいや、みたいな気分に俺の中ではなっています。

何度も言うけれど、「無理」って言われたことを、3年なんとか形にしてきて、多少なりとも色々なことを犠牲にしてやってきて、そしてそれを3回やったのだから、たとえ投げ出しても、俺は文句は言われない、当初から、それはそう思っています。それは、このThe Extreme Tourってものに、初めて参加した日本のバンドとして。

あ、で、政治っていうことですね。
これもわかりきったことなんですが、世の中というのはすべて政治で動いています。それは、人が皆で暮らしていく社会の中での、力学とか力関係といったすべてのことです。村の中だって政治だし、会社の中だって政治でしょう。

で、たとえば、音楽、ステージ、エンターテインメント、ショウビジネス、そういったものは、この「政治」ってことと深く結びついています。昔の時代から、音楽であれ芸術であれ世の権力者の庇護を受けてきたことでもそれはわかります。

だから、音楽の世界であれそれは同じことですね。それは政治であり、権力闘争である、ということです。
これは、普通なら言わなくてもわかるようなあたりまえのことですが、僕は世間に疎いし、そういうことを、誰も教えてくれなかったんでね(笑)

で、俺はどちらかというと、限りなく、そういったものに背を向けて人生を歩いてきた、そういったものから距離を置いて音楽人生を歩いてきた人間です。

政治のようなものに向き合うよりは(営業とも言う)、音楽そのものに向き合いたいと思ってやってきた方です。

だからこそ、これだけやっていても、ぜんぜん世の中的な結果や評価は、得られていないんですが(涙)

たとえば、自分たちに足りないものがいろいろとあることもわかっています。

この一週間ばかし、ちょっと珍しいくらいに気分が落ち込んだので、じゃあ、たまには自分たちの足りないものや、不運だと思うことをリストアップして数えてみよう、と思いました(笑)

そうやってみると、自分たちに足りないものは、もうばかばかしいくらいに、いっぱい出てくる。
まあ、それは「最初っから」わかりきっていたことなんですけど。

わかってて始めたことだからね。

けれども、それらの「足りないこと」「不運なこと」をリストアップしたとしても、それらのことのほとんどすべてに「確かにそれは不運だったけれども、でも逆に考えれば、かえってその方が良かった」といえる反証が見つかってしまう(笑)

たとえばわかりやすいことを言えば、うちにはヴォーカリストというか「フロントマン」が居ないことだよね。

僕がフロントマンとかヴォーカリストじゃないのか、って言われるかもしれないけれど、それは違う(笑) こんなにコミュニケーション不全で引きこもりなフロントマンなんて、いやしないから。

こういうスタイルのハードロック、ヘヴィメタルをやるには、本来、メンバーが4人必要だ。それは、演奏の面でもそうだし、見た目や、ステージングの面でもそう。

でも、うちのバンドというか、俺には、そういう「シンガー」は与えられなかった。少なくとも自分の音楽をやるにあたっては。(ジーザスモードは、あくまでサイドプロジェクトですよー。)

そして、そういうスター性のあるフロントマン、オーディエンスとコミュニケーションがとれるフロントマンが居ないことは、うちのバンドの大きな、ほとんど致命的な欠点のひとつでもある。

けれども逆に言えば、もし、そういうスター性のあるシンガーが居たとして、そのシンガーと一緒にこのバンドを始めていたとしたら、きっとこのバンドは、ここまで長続きはしていなかっただろう、と言うこともできる。それは、やはりバンドというものの難しさ、そしてロックバンドにおけるシンガーとギタリストの確執という宿命を考えるに、やっぱり大きなことだ。

つまり、僕は、自分で歌わなくてはいけなくなったかわりに、シンガーとギタリストというロックバンドの宿命ともいえる破滅的な問題を避けることができた。その結果、バンドは長続きしている。そしてその結果、より時間をかけて、深く音楽を追求することが出来ている。たとえ、大きな成功からは遠ざかったとしても。

そしてそれは、「うちのバンドにはフロントマンがいないけれど、それはジーザスがフロントマンなんだ」というクリスチャンバンド的な言い訳も可能だし (まあ、それは割と本気。ジーザスが主役で、俺たちはみんな脇役。)、

もっと言えば、まあジミヘンとかももちろんそうだけれど、年を食ってPeter Greenに憧れたり、ブルーズに傾倒するようになってくると、ブルーズというのは大抵、ギタリストとシンガーが一人で兼任しているスタイルが多いから、ああこれは俺にとってのブルーズということなのか、と考えると、果たして本来これで良かったのかもしれないと思えてくるし、

だからもしこれから取り組むことになる「鍋島」が、自分たちにとってのブルーズであるのならば、それはやはり、ハードロックバンドとしてフロントマン不在であっても、ブルーズとしてはこれで正しいスタイルだった、ということになるかもしれない。その成果はこれから顕著になるかもしれないのだ。

何を言いたかったんだっけ、
そう、政治。

そういった、世の中のあれこれとか、政治とか、力関係みたいなものに、まるっきり背を向けてやってきている僕らだけれども、
もちろん、だからこそやれること、可能になる表現っていうのがある。

もちろん、今までもそれをやってきた。
そして、それを最後まで、やりきりたい。
少なくとも、今、示されているところまでは。
文句を言うのは、その後にしようじゃないか。

で、政治ということ。

今度、Stryperが来日します。

それは、単独としては27年ぶりとなる来日公演であり、
Stryper Street Team Japanなんてものをやっているうちの嫁さんの、何年来の悲願でもあった。

それは言ってみれば、僕がこんなクリスチャンのバンドをやっていて、嫁さんはStryperの応援チームをやっていて、お互いに音楽を通じた信仰のために夫婦それぞれやってきたということでもある。

ひとついってみれば、その僕らの信仰で、何かが動いたことも、ひとつふたつはあるかもしれない。

だから、その来日コンサートが無事に行われ、そして成功することを祈っている。

そして、これはこういう場でおおっぴらに書いたり言ったりするのは、たぶん初めてだけれど、
うちのバンドImari Tones (伊万里音色)が、もしStryperのオープニングアクト、つまり前座を、やれないものか、と思っている。

もちろん僕らは無名のバンドだ。

だけれども、クリスチャンのヘヴィメタルバンドである。
日本最初のクリスチャンヘヴィメタルバンドと名乗り、それなりに国際的に、小さな実績かもしれないが、やはりそれなりに実績を積み上げてきたのだ。
もちろん、それは「業界」とか「政治」に背を向けた、ひたすらインディペンデントな歩き方であったとしても。

無名で、普段は集客も決して多いとは言えない僕らではあるが、
こと、こういう機会を与えられれば、それなりにクリスチャン世界でも地道に認知を得てきた僕らである。きっと皆さんの協力を得られるのではないかと、思っているんだ。

そこでやはり政治が絡んでくる。
もちろん、こうした有名なバンドの前座をやりたいと願うのは、僕たちだけではないだろう。
そして、ヘヴィメタルのバンドは、ほとんど皆無にしても、やはり狭い日本のクリスチャン業界の中でも、こういう場で演奏したい、と思う人たちも、僕たちだけではないかもしれない。

けれども、「日本最初の本格的クリスチャンヘヴィメタルバンド」を名乗り、曲がりなりにもそれなりに世界標準でやってきた僕らが、もし元祖クリスチャンヘヴィメタルバンドであるStryperのオープニングを務めることが出来たのであれば、それは、これ以上ない必然と言えると思う。

まあ、こんなふうに書いていること自体が既に、僕に「政治的」素質の無いことの表れであるけれども。

この扉は、きっと叩いてみようと思っていた。
少なくとも、3回くらいは扉をノックしようと思っていたので、
そんなにアイディアも無いけれど、さりとて、Stryper本人たちとのつながりも、上述のように無いわけではないので (むしろこれだけやっていて、認知されていない方がおかしいとも言える)、
政治力の無いなりに、呼び鈴は鳴らしてみたつもりである。
もちろん、まだ不十分かもしれないが、
あとは神に祈ってみよう。

この時代、音楽業界の序列や秩序は、もはや意味がない程度には崩壊しているし、
そして、現実に、きっと僕らは貢献が出来る。

なにより、そこにキリストの臨在がある、神の光があふれる、そんなSuper Awesomeなものにするために。

さりとて、ダメであれば、ダメで、それはまったく構わない。
それは、神さんが、むしろ俺たちにふさわしい舞台かどうか、それを決めるのは、神さんなのだから。
たとえば普段ライヴハウスでやる、もっと小さな、仲間達とのライヴの方が、もっと愛と栄光に溢れたライヴであるということも、十分に言える。

先月、39度の熱を出して寝込んだときに、うなされながら考えたのは、もし、そういったステージに立つのであれば、どういった演奏を、どういったステージを、やるだろうか、ということだ。

27年ぶりのStryperの来日公演、みたいな、それは俺たちみたいなクリスチャンメタルのバンドにとっては、これ以上ないくらいの舞台に、もし立つのであれば、そこでどんな演奏と、メッセージを投げることが出来るか、ということ。

もちろん、それがスーパーAwesomeな最高のエンターテインメントであることは当然だ。今の俺たちは、クリスチャンなメッセージをも、誰にでも楽しめるエンターテインメントに昇華することができる。そして、Super AwesomeなヘヴィメタルのKick Assなライヴにすることができる。

しかしなによりも神に問われたのは、「お前はそうして大勢の人々の前で、神の言葉を語る覚悟があるのか」ということである。

このことは、別に今回のStryperの来日どうこうじゃなくて、もっと大きなものだ。この質問は、未来に向けてのものでもあるし、きっと過去にも遡って答える必要のあるものだ。

もちろん俺は、意識するよりも先にイエスと答えてしまっていた。

だから、たとえそういった大きな舞台での演奏の機会が与えられなかったとしても、まあ、これから先、残りの人生の中で何度ライヴ演奏の機会があるかわからないが、たとえそれが小さなステージであったとしても、すべてのステージ、すべてのパフォーマンスを、このStryperの前座で演奏するような気持ちで、全力で神のメッセージを伝えていこうと思うのだ。(前座なんちゃら言ったって、俺たちクリスチャンのバンドからしてみたら、ヘッドライナーはいつだってジーザス、自分たちはいつだって前座である)

面倒くさいバンドである。
だからこそ、「政治」からも「営業」からも見放されている。
だが、それでもこのバンドはここまで存続し、音楽を作り続けてきた。
それなりに、いいライヴも、いいツアーもやってきた。
だから、俺たちは、そういった「政治」や「営業」以上のものを、信じているのだ。

それを神、って言っちゃってもいいが、
敢えて言おう、
それは「音楽」なのだ。

No(4627)

■…2016年 2月18日 (Thu)…….パーティーの趣旨
すべてのパーティーには趣旨というものがある。
俺たちのパーティーにも、もちろん趣旨というものがある。

だがもちろん、すべての人たちが、その趣旨に賛同してくれるわけではない。

問題は、そのパーティーがどんな趣旨なのかは、行ってみなければわからない、ということだ。
そしてそれ以上に問題なのは、どんなパーティーであれ、「うちのパーティーはこういう趣旨ですよ」みたいなことが、わかりやすく明示されてることなんてほとんど無いっていうこと。

だから、皆は、そのパーティーの趣旨っていうやつを、無言のままに受け取ることになる。

そのいい例が、「アイラブユー」という言葉だ。
アイラヴユー、もしくは、愛してる、その言葉は、共通だったとして、また、それに伴う抱擁が、見た目には同じような行為だったとしても、
その言葉の持っている意味合いは、実はそれぞれにまったく違ったりする。

そして多くの場合、その違いの大きさに気付いた時には既に手遅れである。

すべてのパーティーには趣旨というものがある。

たとえば、僕はVan Halenが大好きだが、
初期の、デヴィッド・リー・ロスが居た頃の、若くワイルドなVan Halenのパーティーの趣旨は、やっぱりセックス、ドラッグ、ロックンロールの例に漏れない。
そして、だからこそ彼らはビッグになった。

そしてもちろん、1986年以降のVan Halenのパーティーの趣旨は、それとは違ったものに変わったし、それ以降も変わっていった。

じゃあ僕はVan Halenに憧れてはいるけれど、僕らがやろうとしているパーティーの趣旨はどういったものだったか。
それはやっぱり、Van Halenとは違ったものだったことを、僕は認めざるを得ない。

パーティーには趣旨ってものがある。
けれども、ほとんどの場合、その趣旨ってものは明示されていない。
そんなことは滅多にない。

だからこそ、パーティーの参加者に、その趣旨や、手の内を、どれだけ明かしてみせるのかは、主催者の良心次第だ。
そして、力量ってことでもある。

そして、そこに参加者は何を望むのか。
言ってしまえば、これは趣味の問題っていうことになる。
そして、人類史上、趣味の良し悪しを問えるような豊かな時代は、とうに過ぎ去った。

すべてのパーティーには趣旨ってものがある。
だけれど、すべてのパーティーの趣旨は同じじゃない。
そして、パーティーの参加者が、それに賛同してくれるとも限らない。

けれども、ひとつだけ確かなのは、それでも僕らはパーティーを続けていくってことだ。

そして、たとえ君がそれに同意してくれなかったとしても、
たったひとつだけ、変わらない真実。
宇宙はひとつのでっかいパーティーだ。

No(4628)

■…2016年 2月19日 (Fri)…….まっすぐな動き
その昔、小学生とかの頃に、少しだけサッカー部に所属していたことがある。
その頃、そもそもサッカーとかやるという選択が間違いだったと思うが、子供だった自分は自分のことをわかっていなかった。チームプレイの連携的な、まんなかあたりのポジションをやらされていたが、今にして思えば大間違いである。
優等生ぶっていた自分は、自分が本当はなんというか自分勝手な性格で協調性とか皆無でチームプレイとかはなっから無理、ということに気付くに至らなかった。
だからその後、自分の性格をより正確に把握してからは、そうだね、今だったら、もっと自分勝手なプレイをして、周囲は眉をひそめるだろうが、そういった持ち味が生きるプレイをするだろう。
ともかくも色々な嘘を信じ込んでいた子供時代だったのである。

その頃にサッカー部で信じ込んでいたこととして、シュートというのかキックというのか、ボールはまっすぐ蹴るものだと思っていた。何故か。まっすぐにボールを飛ばすにはまっすぐに蹴るものだと思い込んでいたからである。だが、その後に時間がたってよく見てみると、上手い子たちは皆、横というかナナメにボールを蹴っているではないか。非常に初歩的なことである。つまり人間の身体はそういうふうになっているのだ。まっすぐに動くようには、必ずしも出来ていない。

そういった習性は、歳をとって、バンドをやり、人間性も劣化し、ダメ人間としての実績を積んでも、いくばくか残っているものだろうか。足を使うのは同じでも、サッカーでチームに貢献するよりも、自分勝手にひとりでデッキをはじいている方が性に合っているのは間違いない。僕は、最初にキックフリップを習得して、その後にバリアルフリップ、バックサイトフリップ、フロントサイドフリップなど、妙な器用さでフリップ技を習得していったが、逆に「まっすぐな」普通のキックフリップがなんかやりづらくなっていった。なんかawkwardに感じるのだ。

なぜ、曲げるフリップは簡単に出来るのに、まっすぐなフリップが苦手に感じるのか。

ここでも、僕はどうやら、嘘を信じ込んでいたようである。いや、誰に言われたってわけでもないが、まっすぐなフリップなのだから、板もまっすぐにはじく、ポップするものだと思い込んでいたのだ。
だが、僕の身体の重心は、身体の動きの軸は、あいにくとそんなにまっすぐには出来ていないようだ。
だから、まっすぐなフリップだからといって、まっすぐにポップしようというのは、どうやら間違いなのだと気付いた。やはり、これもボールを蹴るのと同じように、身体の自然の稼働方向に合わせて、ななめに、あるいは横向きに、ポップするべきではないのか。

つまりはよくよく考えると、足首というのはまっすぐ真下に曲がるようには出来ていない。足首を中心に、斜めに稼働するようになっている。ポップというのは、いったいそのどの部分をどう使ったものか。つまりはまっすぐなポップをするのに必要なのは、必ずしもまっすぐな動きではない。

どうやらスケートボードの世界も嘘ばかりである。
(単に僕が下手っぴで軸がずれてるからかもしれないが)

というよりきっと、上手い子たち、運動神経の良い子たちは、そういうことを、言われなくても自然に、前提のようにしてわかっているのだろう。
繰り返し、自分の身体、そして板の動きという物理の力学と向き合い、実験、検証する、そういったプロセスである、スケートとは。

たとえばトレフリップであるが、Aaron Kyro (サイエントロジー信者w) のチュートリアルビデオでも、前足のフリックはほとんど関係がなく、ほとんど後ろ足の蹴り込みのみでトレフリップ回転を作り出す、というようなことを言っていた。どこかで見た日本語の教則サイトにもやはりそういう記述が書いてあった。

だが、本当にそうだろうか。それは、僕に当てはまるだろうか。

教則いわく、後ろ足で思い切りはじいて蹴り込むと、そのまま回転させるのはむずかしく、むしろ自然にねじれたフリック回転がかかってしまう。だからむしろトレフリップよりもまっすぐにスリーシャヴ(360ショービット)を決める方が難しいはずだ、と。

だが、最近僕は、この動きを敢えてやってみているのだが、僕の場合、思い切りはじくと、素直に板が回って、きれいにポップしたスリーシャヴになってしまう。板は、かならずしもフリック回転しないのだ。

そして、基本的に僕はバリアル(ヴェリアル)フリップの延長でトレの形にしている感じでもあり、ここへきて思うに、右足と左足の「受け渡し」というのか、連携というのかキャッチボールのような、その要素が重要に思えてくる。
これは、別にオーリーでもキックフリップでも同様で、右足と左足が、どうキャッチボールするか、で、技の形が出来上がる。

トレの場合は360度回すので、板の回転というか動きはかなり速いので、それに合わせてフリックを正確に入れるのは結構難しい。だからして、フリックを入れるポイントは、やはり板の回転の軸の中心、つまり板のまんなか部分の切れ目を狙うことになる。切れ目と言うと言葉がおかしいが。なぜって真ん中は動いてないからね。回転の中心だから。だから、そこを中心に回転するように蹴り込み、そして左足に受け渡してやる感じではなかろうか。もちろん、技の特性上、フリックは浅めに入れる必要があるとは思うが。

そして、僕の場合、他のトリックでもそうだが、フリック足で、かなり板の方向を導ける傾向がある。だから、むしろフリック足でさらに回しちゃう、みたいな気分になることも、トリックによっては頻繁にある。

だから、「蹴り足だけで8割」とか「フリックは気持ちだけ」とか、そういうのは、あるいは少なくとも、僕の場合には当てはまらないのではないだろうか。

スタイルは人それぞれ、なのだから、自分で検証し、実験を重ね、これが自分にあったスタイルだ、というやり方を見つけることが、最終的には肝心なのかもしれない。それをして、初めて、自分の技、と言えるようになる。「俺の場合はこうだった」というのを見つけることである。

そして、その見つけたものを、その後も何度もくりかえし、検証し、問い続けていくことである。

No(4629)

■…2016年 2月21日 (Sun)…….きれいな空気を吸いたい時
先日書いたように最近政治ってものについて考えていたんだけれど、それはもちろん、やっぱりどこかの国の大臣とか政府とかそういうことじゃなくて、もっと人の生活とか、人が生きていくこと全般に関してのことで。
まあ確かにアメリカさんとかも今また選挙とかやってるけどねえ。

それで、民主主義ってことについても、なんだか考えてしまった。

人が生きていく上で、政治ってことは、意外と大事らしい。
そして、特定の国とか思想のことではなく、もっと自然な意味での、愛国心とか人類愛みたいなもの。
これは、個人としての人の生活の上で、どうでもいいようなことに思えて、実は結構、大事なことだったみたいだ。

僕が音楽をやっている、しかもあまり世に出るような形ではなくて、個人レベルでやっている、ということなんだけれど、
僕が音楽をやっている、ということは、
何度も書いたり言ったりしたことがあるが、
音楽に向かった、ということは、世の中の現実の状況や、政治の状況に対して、現実に実際に変えるのは(少なくとも自分が生きている間のような時間の単位の中では)、到底無理のようだ、という現実に対する絶望から始まっている。
だからこそ、せめてそれを、芸術の上で、物語として、あるいは逸話として、形にして残そうという思いだ。そして、その形而上のものが、いつの日か形をともなって現実世界に現れてくれることを祈ってのことだ。まあ別に音楽とかアートってもともとそういうものだとは思うが。

だから言ってしまえば、僕が2008年以降、クリスチャンロックなんてものに向き合っているということは、神とか信仰というもの、あるいは日本ないしは世界の宗教世界の状況について、現実には理想とは程遠いというか、本来の姿とはかけ離れている故に、せめてそれを芸術の上で、物語として、あるいは逸話として、形にしたいということでもある。(ずいぶんアレなことを言っているのは承知しているwww)

つまりは、僕だって一人の弱い人間だし、一応なりともバンドやってる身として、少しは落ち着きたいというか安心したいというか、世の中のいろんなもの、それが音楽のあれこれであれ、宗教上のあれこれであれ、「もうこのへんでいいじゃん」と、「そこにとどまりたくなる」ことがある。そして、それは歳を取ってくれば尚更だ。

けれども、神さんは、やっぱりあんまりそれを許してくれるわけではなさそうだ。より先へ進んで、築き上げろ、と、少なくとも創作のインスピレーションの上では、神さんはそうやって俺の背中を(わりと乱暴に)どついてくる。そんで、現実の状況としても。

僕らがバンドとしてクリスチャンロックとかクリスチャンメタルとか言い出したのは2008年の初頭からだけれども、
そういう信仰みたいなものを持ち出した後に、その後にいわゆる人類愛とか愛国心みたいなものが(特定の何かじゃなくて、ろくでなしの自分でさえも、最後にあるような自然なものとして)、くっついてきたのは、それほど時間のかかることじゃなかった。

それは2009年に初めてバンドとしてアメリカに遠征に出かけたときから、必然的に意識していたのだし、それは、日本の霊的(精神的なこと)な状況を変えたいという思いであるし、
そして何度か言っているように、2010年にロングアイランドの教会で演奏させてもらった時に、ふと無意識に口をついて出た言葉を通じて、ああ俺はこれをなんというか自分らの国のためにやっているのか、ということに気付いたのだった。つまり「日本のために祈ってくれ」とその言葉を通じて。

人の意識の持ちようとか、考え方、現実の捉え方というものは、歴史観というのか、歴史の中での時間軸の上での今という瞬間の捉え方、なんというか時間軸そのものの捉え方によってくると思う。つまりは今はどんな時なのか、ということだ。

たとえば、人は、人間は、要するに人類は、これからどうなっていくのか。100年後にどうなっているのか。500年後、1000年後にどうなっているのか。
100年後も、あるいは1000年後も、人類は争いを続け、この惑星を荒廃ないしは枯渇させていくのか。
何かのSFのように、宇宙に進出して、その後も戦争を続けるのか。
その時に、社会は、人々の生活は、人生の意義は、神や信仰の概念は、どのようなものになっているのか。

人によっては、戦争は永遠になくならない、とか、
あるいは特定の国や、組織を、戦ってやっつけなければいけない、と思っているかもしれない。
けれど、僕はどちらかというと、現実の状況に対して「そんなことをやっている場合ではない」と考えている方だ。
それは、何故か。
これはすごく皮肉で象徴的な言い方になるけれど、それは僕が「神を恐れて」(God fearing)いるからだ。(なぜ、それが皮肉なのかは説明すまい)
そして、人というものに罪におののき、泣き、悔いているからでもある。

俺に言わせりゃ、戦う相手は別にいる。

話を戻すが、自分が個人として生活していく中で、またささやかなインディーミュージシャンとして音楽を鳴らしていく中で、政治といったもの、あるいはまた、民主主義といったもの、そういったものは、あまり関係のないものだと思っていた。つまり、自分たち個人の幸福と、そういった国とか世界の状況とは、別のものだと考えていた。
けれども、どうやら、そうではないらしい。
つまり、人が、個人として生きていく中で、いちばん切実に、求め、渇望して、希望のように、あるいはまるで呼吸する酸素のようにして必要とするもの。
それが、自由であり、民主主義であり、より良い統治というものだということに、ここまで歳を重ねてきて、振り返るにようやく思い当たった。

だから、音楽を鳴らしてきたこれまでのことを振り返っても、自分の行動原理が、根本にはそこにあったことに気が付いたのである。

そして、より良い統治とか、理想の政治について考えるに、それはもちろん、信仰を持った者としては「神の統治」(God’s reign)ということになるわけだが、ではどんな政治形態がその「神の統治」かということを考えるに、信仰、ひいては救済ということが、政治の形というものに大きく関わっていることに思い当たったのだ。

人が最後に、そしてもっとも強く希求するもの、それが、自由であり、その向こう側にきっとある「神の統治」なのだと思う。

もっとも、そんなものは「あの世」にしか無いかもしれないが。

しかし、だからこそ、なればこそ、人は祈る。
天になる神の統治が、この地上にも為されるようにと。

祈るっていうことが、どういうことなのか、今でも俺はわかっていない。
(祈るポーズは出来る。)

だけれども、人の生涯が、ひとつの大きな祈りであるとすれば、
俺は自分の祈りを、そのために捧げたい。

それはつまり、もしそれがイングヴェイ・マルムスティーンであれば、彼の祈りとは、やはりそれは彼のスタイルで彼にしか出来ない速弾きギターを弾き、彼にしか作れない音楽を作ることだろう。
そういう意味では彼ほど忠実にぶれてない人もいない。
もし君が瓦職人であれば、云々。

そして、過去5年の活動を振り返っても、なにげに自分の行動原理の中にあった、「よくわからない愛国心みたいなもの」。
これが、またちょっとした形で発動し、ひとつの小さな決断をしようとしている。
要するにそれは立ち回りということなのだけれど、
俺はこの国のダメなところ、どうしようもないところ、欠点を、日本人だから当然いろいろと知っているけれど、
当然ならが良いところも少しは知っている、つもりだ。

結局、信じるしかないんだよな。
人というものを。
自分の生まれた国の人々を。
そんで世界の人々を。

どこに踏み出していったらいいのかわからないけれど、
その一歩がどこに導くのか、さっぱりわかっちゃいないけれど、
やはりまた、こうして、踏み出してみようと思う。
それは、傍から見れば、わからないような小さな、また目に見えないような小さな決断であったとしても。

きっと俺は踏み出した。

No(4630)

■…2016年 2月27日 (Sat)…….Zombie Apocalypse is happening
思考のメモ。
Zombie Apocalypse is happening.
その他整理されていない文章。

世界の情勢なんて、俺にはわからないが、天の国で何が起きているのかは、こんな俺にだってなんとなくわかる。

アメリカ人が大好きな「ゾンビ」、
そして冗談だか本気だか皆が心配している(笑)
Zombie Apocalypse、
僕らは今、それが起きているのを見ているし、
今まさに、それが進行中だということ(笑)

ちなみに日本人が大好きなのは「妖怪」だけれど、
たぶん日本でも今、「妖怪大戦争」が絶賛進行中に違いない(笑)

現在の政治の状況とか見るにつれて。
権力とか力を持った者、力を望む者が弱者に付け入るというか、弱者から搾取するという構図は昔から変わらない。
だけれども、現代においては弱者というのは、経済的な格差のことでも、教育の格差のことでもなく、本質においては霊的な格差の面であると感じる。

霊的な格差とは、ボトムラインを言えば愛を理解するかどうかである。
愛を理解するというのは、簡単に聞こえるかもしれないが、やっぱり難しい。
愛を理解できなかった場合、人の心はそれでもやはりその穴を埋めるものを求めるので、結果的に偶像を崇拝する地点に落ち着くことになる。それがどんな種類の偶像であれ。

その偶像に「キリスト教」(の一種)と書かれていることも、残念ながら多々あろう。

聖書によれば人はみんな、みんな、みーんな罪人とされているし、
人の罪ってものが書かれている。
けれどもたぶんその最たるものというか、俺が思うに人の罪の中でもっとも重いのはその偶像崇拝ってやつであり、それはたとえば肉体的な浮気とか、まあ聖書の言葉で言えば姦淫ってやつだけど、それは単純に肉体的な浮気に過ぎないけれど、偶像崇拝っていうのは、神に対する霊的な、肉体よりももっと重要な本質的なところにおける浮気だからだと思う。

しかし人が心の中でその偶像崇拝ってやつを行うことのいかに簡単なことよ。

神は言う、偶像崇拝に関わるなと。
俺は別に関わりたいと思っても、そうできないことがある。
社会の中にあふれているもののたとえば90%とか、あるいは99%は偶像崇拝だとして、それでは俺は誰と友達になればいいというのか。
俺だって友達は欲しいのだ。

しかし「このギターは霊的にダメ」とか言い出すギタリストの俺には友達は出来そうにない(笑)

弱いことは罪なのか。
しかし力が弱いことや、お金がないことはその人の罪でないかもしれないが、
心が弱いことは果たして罪なのか。
愛が足りないだけじゃないのか。
愛が足りないのであれば、それは俺たちみんなの罪であり責任だ。

じゃあ愛を増やし、広めるのにいったいどうしたらいいのか。
逆に考えると、偶像崇拝を増やし、広めるのにはいったいどうしたらいいか。
端的に言ってその逆をやればいいわけで(笑)

偶像崇拝、の逆にあたる言葉が聖書の中にあるとしたら、それはイエスさんがどっかで語っていた「神の国」みたいなもんかもしれない。
それは、あそこにある、とか、ここにある、とかそういうんじゃなくて、あなたたちの間にあるものです、という。
その神の国を、いかにこの世界に作り出し、その栄光を表すか。

戦略っていうのは、そういうものでしかない。

そしてゴールっていうのは、貫いたその「軌跡」でしかない。
築き上げた天の城であり、壮麗なる記念碑でしかない。
それを阻むのが、悪魔さんの戦略であり。

いずれにせよその霊的な格差の部分があったとして、それがどのような戦いや、争いになっていくのか、あるいはならないのか、そしてそれがどのような質の、どのような形を持った戦い、また争いになっていくのかはわからない。
でももし「天の国における戦い」なんてものがあったとしたら、それはこういうようなものなんじゃないかと思う、つまり、その天の国の戦いは、地上においては、こんなふうに見えるんじゃないかと。
Thus, I think this is what “the battle in heaven” will look like here on earth.

たぶん血を見ることになるんだろうし、火薬の匂いもするだろう。
それがこの皆の生きている「シャバ」の世界ってもんだ。
けれども、たぶん僕が確信しているのは、最初に銃の引き金を引くのは、いつだって怯えた者だ、ということだ。
怯えた者、つまり神を信じられなくなった者、愛を信じられなくなった者。
21世紀型チキンレースかな。

いや違うな、これがまさに、皆が待っていたゾンビ・アポカリプスだ。
Zombie Apocalypse、現在絶賛進行中である。
シェルター作っても、武器をいっぱい準備しても、何の役にも立たなかったみたいだ。

とかく、前から言っているように、世界は狭くなり、
地球はひとつの村になった。

その昔、日本は村社会だと言われ、自由がないと言われ、
やだなー、そんなところじゃなくて、もっと自由がある進歩的な国で生きていたいものだ、と思っていたものだが、
今では世界全体が立派に村社会になってしまった。

僕ら日本人にとってみたら、大して変わらんというか、なんだ逆に俺たちの方が先を行っていたのか、と思うだけである。つまりはそういう中でどう耐え忍んで生きていけばいいかは、すでによく鍛えられている。

芸術家(笑) (そろそろこの言葉にも笑をつけねばなるまい笑) としては、考えるべきは「どこに行ったら世界で最先端のアートを作れるか」であるが、
たとえば、これが昔だったら、ニューヨークのなんとかヴィレッジとか、なんとかブルックリンとか、ロンドンのなんちゃらとか、そういう場所があったかもしれない。

だけれど、いろいろなニュースを見るにつけ、そういった場所も既になくなりつつある。最先端のアートな場所、みたいのは、もうすべて、商業主義や、平凡化や、パソコンの中のあれこれに、取って変わられてしまった。

たとえば僕らみたいなハードロックをやっているとロサンゼルスはその昔の華やかな時代においての憧れであるけれども、そんな状況も消え去って久しいことは、昨年来た人たちからもあらためてよく聞いたし、彼らの言動からでも十分に理解できた。

だから、世界で最先端のアートを作るための場所は、自分で作るしかない。まあ、最先端のアートなんてものが、まだもし存在するのであれば、の話だが。

じゃあ、その狭くなって、自由も最先端もなくなってしまった世界は、いったいどういうことを意味するのか。

それは、逃げ道はもう無い、逃げ隠れする場所はもう無い、ということ。

向き合うしかない。

世界にあふれる問題に。

そして、愛ってやつに。

パーティーは終わりだ、なんて言う気はないが、
もともとパーティーなんてものがあるとすれば、
祭りなんてものがあるとすれば、
それは神の名のもとに行う祭りしかないってことだ。

アメリカ人はたぶん生涯、パーティーを止められまい。
ロックミュージシャンとしては、年中パーティーをやってるような国の連中に勝てるわけないよ、というのが、ひとつの実感でもある。
けれども、「祭り」であれば、勝てるところもあるかもしれないな、僕ら日本人に。

Party all night、
じゃなくて、
こちとら、
一生涯祭りである。

世界にあふれる問題といえば、
やはり現実の政治状況を見ていても、
僕の持論は変わらずに、やっぱそうだな、と思うのは、

コンサバというか保守といわれる人たちはやはり、
問題というか、目の前の「うぬこ」に対して、
それが自分のうぬこであることを絶対に認めない。
「うぬこ」があれば、それは他人のうぬこなのであり、
それを塀の向こうに投げ込む人こそが、ヒーローなのだ。

そして前にも持論を書いたように、
リベラル、進取と言われる人たちは、
「人はうぬこをせずに生きていくべきだ」とか
無茶なことを言い出す人たちだ。
「うぬこのない社会を目指しましょう」とか言って拍手を浴びる世界である。

特に今回の米の国の大統領選挙とか、その両極端になりそうな感じだし、
僕らはその両者の中間地点のどこかに、いつでも着地しないといけないが、
現実にうぬこがある以上、そのうぬこの処理作業をするなり、うぬこ処理施設を作るなり、目の前のうぬこをどう解決するか、
うぬこのなすりつけあいをする前に、
そっちに取り組むべきである。
この狭い地球村で、うぬこはみんなのものなのだから。

ただ、その取り組み方はいろいろあろうけれどもね。
それこそが、手腕の見せ所ってことだろうし。

俺だって自分のうぬこすら持て余している。

じゃあ、そんな俺は、皆を許せるのか。
何度、許せばいいのか。
何度、世界を滅ぼせばいいのか。
確かに聖書には、7の70倍だけ許せと書いてあるが、
7の70倍プラス1回、常に許されている自分の身なれば、
やはりこう言うしかあるまい。
「これでいい」
と。

クリスチャンロックを、もう何年も、そう自称して演奏活動とかしているが、
神を信じるってどういうことなんだろう、って、
いつでも考えてきた。
先日から、ちょっとしたきっかけで、政治ってことや、神の統治、ってことに、思いを馳せてきたけれど、
自分なりに、神を信じるってこういうことなのかな、って、少しだけわかってきたものがある。

でも、それをいまさらここに書く必要は、たぶん無いだろう。

No(4631)

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