デモを作っている。
今、ドラムをひたすら打ち込んでいる。
都合、30曲くらい。
「しましまデモ」というものと「鍋島デモ」というものと、ふたつのプロジェクトのデモを作っているのだ。
「しましまデモ」は、過去の使わなかった曲の使い回しや、現在絶賛活動停止中、現時点であまり復活の見込みの薄いジーザスモードの、3rdEP用に書いた曲なんかも一部使い回したりしている。それらを全部ふくめると14曲にはなる。用途は名前から推して知るべしだが、使わないかもしれないし、気持ち的には使わなければいいなと思っている。でも中には良い曲もあるので、バンドでやってみるかもしれない。「鍋島」を書き終えた後、僕の中にはもう一生ぶんの楽曲は書き尽くしたので、タネ切れであり、なのでもう、おしゃれ系インディアコースティックしか出てこない。でも、こういうわざとらしいメタルならまだ書ける。納得のいくものではないが、J-Rockの未来形としては案外と面白いと言えるかもしれない。
「鍋島デモ」は、ここ数年で自分が書いてきたもので、前から常に言っているように、これは自分の音楽人生の集大成というかついにたどりついた究極の境地とも呼ぶべき内容だ。選別してだいたい20曲にまとめて、それにちょっとしたインストを2曲くっつけて、都合22曲ということになる。
けっこう膨大な量のデモを作っていることになる。
かなり急ぎ足で、「ざっくりと」作っているが(しょせんデモに過ぎないので)、おそらく今月中には終わらないだろう。
なぜ、こんな膨大なデモを作っているのだろう。
思い起こせば、過去には、たとえばこのバンドがバンドとして形になる頃に、あれは2003年の11月だったか、55曲のデモを制作したことがあった。その中の楽曲は「光のヒーロー」に入ったし、あるいは「異能レース」にも収録した。使わなかったものもたくさんある。掘り起こせば今でも使えるものがあるかもしれない。
あるいはクリスチャンロックになって、今のメンバーになってから、あれは2009年の夏だったか、あの時もたぶん40曲くらい書いて、その中からえりすぐって15曲だか18曲だかデモの形にして、それがだいたい「Victory In Christ」になった。
しかしそもそももっと思い起こすとたとえば高校生の頃、高校3年年の頃とか、あるいは高校を出て最初の夏とかに、70曲だか80曲くらいのデモを作ったのではなかったか。いや66曲だったか。世代もあり安い機材を求めたこともあり、カセットMTRで作ったのだったけれど。
そうして書いた楽曲に、制作した楽曲に、録音したデモに、しばられて、呪われて、あやつられるように、重荷を背負ったようにして僕は生きるのか。でも、思い返してみると、それが僕の人生だったような気がする。
楽曲は天から降ってくるものだ。でもそれをどう扱うかは、自分にかかっている。どうすればいいんだ、この大事な内容を誰かに伝えなければ。そう思って途方に暮れてきたし、今でもだいたい途方に暮れている。
そうやって自分なりに、たとえ規模は小さくとも、自分にしか歩けない旅路をやってきて、自分たちなりに成長し、
そしてその旅路の究極点としての「鍋島」が射程距離にようやく入った。
その音をこれから、きっと鳴らすことになるし、それを鳴らすことに残りの人生をすべて賭けるのだろう。
その内容はとんでもないものだし、これを世界に対して伝えなければ、いったいどうすればいいんだ、という非常な重荷を再び背負うことになる。
記憶を辿る、と、そうね10代の頃か。高校2年だか3年だか、たぶん高3をむかえる前の春休みだったか。12曲くらいのデモを4トラックのMTRで作っていた。そのMTRすら借り物だったように記憶している。誰から借りたのか、なぜ借りたのかは思い出せない。ベースすら借り物だったように思う。それは誰から借りたのかたぶん覚えている。だがドラムトラックは「和太鼓」だったような記憶がある。なんじゃそりゃ、と思うが、なぜだったか、記憶をたどれば、祖母から大正琴を借りていたのではなかったか。アンプにつなぐこともできるもので、そこにちょっとした和風パーカッションを鳴らせるサンプリングというかボタンが付いていたのではなかったか。つまりリズムマシンを持っていなかったということだ。今ではリズムマシンとかシーケンサーみたいなものは、パソコンはおろか携帯電話の中にすら入っているというのに。
そして、高校3年だったのか、あるいは高校を出て最初の夏だったのか。それまでの高校時代に書きためていた楽曲、100曲以上あったと記憶しているが、を、選別して70曲だか80曲だかのデモにしてしまったのだ。一ヶ月くらいでばばっと。
それらの楽曲が僕にとっての重荷になったし、人生の呪いでもあった。
当時すでにうちの嫁さんに出会っていたので、つまりはその時点で人生のもろもろの計画は狂い出しており、僕は大学という場所にまともに行けるような状態ではなかったし、また大学の音楽サークルに暢気に参加できるような状態ではとてもではないがなかった。で、何をどうしなければ、ということも何もわからず、孤独にお茶の水の街を歩き、当時でさえすでにobsolete(旧式)であった中古の8トラックのMTRを買い込んできたのではなかったか。
なぜ、これらの楽曲が、重荷であり、十字架であり、また呪いであるのか。
「これを作って発表すれば、世界が救われる」そう本当に思い込んでいるのではないか。
自分のこれまでの旅路の集大成である「鍋島」(おわかりのとおり、この名前で呼ぶのは、「伊万里」を名乗るバンドであるからの必然である)、これは世界を変えてしまうような非常に重要な情報を含んでいる。そう思っていなければ人はそもそも音楽を作れないし、それに人生を賭けたりはしないだろう。
だが、18歳当時の僕は、どうしてそれら書きためた100曲の楽曲に、70曲のデモに、大切な何かを感じていたのか。
それは、そこに自分の青春のすべてが込められていたからではなかったか。
そして、その中に、それこそ人類の未来にとって、世界を救えるような、人類を救済できるような非常に重要な情報が含まれていると感じていたからではなかったか。
そして救済が個人的なものである以上、個人的なそれを伝えるには、個人的な音楽という個人的な手段でしか伝達は不可能だと判断したからではなかったか。
高校3年生すなわち18歳の夏。
僕はとある女の子のことを考えていたが、好みのタイプでもなければ、たいして興味をひかれたわけでもないふたつ年下のその子にたいして、なぜ気になって考えてしまうのだろうと不思議に思っていた。そして僕が人生の中で「直接に」神さんの声を聞き介入を受けるのはそのすぐ後のことだ。いい迷惑以外の何でもなかった。
しかし確かにその女の子と親密になって以降、自分は封を切ったかのように余計に音楽が、曲があふれだしてくるようになってしまったのは事実だ。
その人に出会わなかったら生まれなかったであろう楽曲、生涯見つけることがなかったであろう音楽が、たくさんある。
その人と一緒に歩きながら、その音を見つけていく旅が、だいたい僕の人生だった。
高校2年すなわち17歳の夏。
僕はとある女の子のことを考えていた。なぜその人のことが気になり、忘れられず、いろいろな思いや後悔や自責の念が襲うのか、自分にはわからなかったが、そのことの音楽的な理由がわかるのはそれからさらに何年もたってからのことだ。そしてすべてはちゃんと、音楽的な理由に基づいていた。
そして僕は手紙を書き、そして当然、曲も書いた。とてもきれいなアルペジオで始まる曲だ。
人生の中で、僕が「恋をした」なんて言える経験は後にも先にもその人だけだった。僕はあんましそういうことをしない人間だし、うちの嫁さんとの関係は、それ以上のものであって、「恋」という呼び方はふさわしくない。
その人は間違いなく素敵な人物であり素敵な女性だったのだろうが、当時の僕は、自分の女性の好みも知らなかった。そういうものはたぶんもっと後になってからわかってくるもので、たとえば自分は「身長155センチくらいのぽっちゃりしたかわいい子」ではなくて、「身長165センチ前後、場合によってはもっと高くても可、のスレンダーな美女」の方が好みであることとか、「甲高いアニメ声」は嫌いで、「落ち着いた低めの声」で話す人の方が好みであるとか、そういうことは思春期とかの頃にはわからないものだ。
そして同様に、「おしゃれな渋谷系とかUSインディ」を聞きウィスパーヴォイスで話すのではなくて、「ギンギンに派手なヘヴィメタルやグラムロック」を好み大声でさわぐ人の方が自分にはやはり合っていることはほとんど最初から運命的でもあった。
そして、誰であれ愛し合えばそういうものかもしれないが、たとえ貧乏暮らしであっても笑みを絶やさず幸せでいることが出来て、なおかつ地球の裏側までも一緒に冒険ができるような、そんな人だ。
13歳、僕はいじめられっこであったが、ヘヴィメタルに目覚め、また初恋というものを知った。
14歳、僕は孤独であったが、エレクトリックギターを弾き始めた。
15歳、僕はバンドを始め、ロックンロールがすべてを変えてくれた。
16歳、僕は自分の楽曲を書き始めて、そしてそれはすぐにひとつの世界を形作った。
それはその青春の中に、なにかとても大切な、重要な情報が、体験の中に含まれているからではないか。
そしてそれこそがあらゆるロックンロールが重要であり、本来世界を変えるべき力を秘めている、そのカギとなる情報ではないのか。
自分の青春にはそれがあった。
そのすべての勝利と、栄光と、冒険と、体験が、自分の鳴らすすべてだった。
そして、その向こう側には、見えていたもの、信じていたものが確かにあった。
そして、そこには未来と呼ぶべきものがあったのではなかったか。
最近僕は人と話すたびに、10代の頃にバンドを続けているべきだった、と後悔しているようにうそぶいているが、確かにそれはある程度事実で、10代の時にしか積み上げることのできないものが、バンド活動には確かにあるのだが。
しかし、それ以上に重要な青春の勝利が、自分のティーンエイジにはいくつもあったのだ。
あれから20年。
僕たちの世界は、僕たち人類は、
とても、その未来にたどりついたとは言い難い。
当時の自分たちに、当時の世界に、またロックの歴史ひとつとってみても、それまでに鳴らされてきた音たちに対して、過去み積み上げられた偉業と流されてきた血に対して、僕たち人類は、ミュージシャンも含め、顔向けが出来ないだろう。
人と人は分断され、国も何もかも分断され、人が人を信じられなくなり、日常的に殺し合うような世界が、やがて来るだろう、なんて、もったいぶって言うまでもなく、そういう世界は、すでに現実にやってきている。
変わるべき世界、変わるべき自分たち、取り組むべき真実、それらのものに目をつむり、すべて他者を責めることで自らを正当化する、そういう時代に僕たちは生きている。
小さな戦争も起きれば、大きな戦争も起きるのだろうが、いつも言っているように新しい時代の戦争はもうとっくに始まっているし、その戦争すら日常になっている。
僕らは変われなかったし、きっと人類は失敗したのだろう。
その結果をこれから僕らは、ひとつひとつ目の当たりにする。
けれども、その失敗した世界の中でも、誰かが未来を鳴らさなければ。
誰かが希望と、救済を鳴らさなければ。
だって、ここから先、本当の意味で、僕らには救済が必要になってきてしまうのだから。
せめてその滅んだ世界の中で、その世界に意味をもたらす何かを。
この前、コンビニでビリーバットという漫画を立ち読みしたが、それを描いている作者さんもきっとそんな感じの気分なのではないか。
そして、歩き続けている人とは、皆、そういった気持ちで、この時代を生きているのではないだろうか。
アニメでいえばドラゴンボールには、悟空が心臓病で死んでしまった未来からトランクスがやってくる、という筋書きがあったが、
僕らはちょうどそれと同じように、本来世界を救うべきだったスーパーマンが死んでしまった世界に、ハッピーエンドではなくてバッドエンドに続くタイムラインに、生きているのだ、と、そう感じたのは、もうずいぶんと前のことではなかったか。
しかし、鳴らすべき音に、辿りつくことが、本来の僕の使命だったとすれば。
なによりもいちばん遠くへ、いちばん先のその音へ、たどりつくことが自分の定めとか使命みたいなものだったとするなら。
案外とこのタイムラインが、それなのかもしれない。
「もしもっと幸せな世界に生きていたなら、俺は音楽をやることなんかなかった。」
「もしもっと・・・だったら。幸せな家庭に生まれていたら。より良い環境に生まれていたら。うちの嫁さんに出会ってなければ。まともな大人になれていれば。」
「そしたら、俺は音楽をやることなんか、絶対になかった。」
それは、どれだけの千載一遇、いや何千億ぶんの一の偶然なのか。
自分はその青春の中に見つけた答えを、鳴らすことを、広めていくことを選んだのか。
そしてその帰結がこの世界、このfailed worldのタイムラインなのか。
しかしもしその青春の中にあった輝きが、本物であるのなら。
いまいちど、俺はそれをやってみようと思う。
いまいちど、俺はそれを信じてみようと思う。
20年後における青春の解答。
それが俺の「鍋島」と呼んでいる音になる。
音が次元とか時間とか、そういうものを越えて鳴り響くものであるならば、
ここで俺が鳴らした音は、
きっと誰かの役に立つはずだ。
走れ、他のいつでもなく、今、あの頃のように。
魂を燃やすべき時は今だ。
このために俺は生まれてきた。