思い返せば悪くない人生である(笑)
今、自分の人生、というよりは音楽人生は、
ちょっとばかり「節目」の時期にあり、
表面上はうまくいっていないことも多い。
記念碑的な、自分のヘヴィメタルの集大成のようなコンセプトアルバムを、今年、これから発表する、というタイミングだけれど、バンドやら私生活やらの内部状況は、とてもじゃないけれど活動の限界に突き当たっている。
この一ヶ月だけでも、この先のことにせよ、目の前のことにせよ、
生活の上では、本当に色んなことがあった(笑)
だからこそ、いろんなことを考えるし、
現在については、これでいいのか、
過去については、これでよかったのか、
未来については、どうしていくべきのか、
考えたりもする。
思い返すとここ数年はわりと幸せだった。
いや、別に人生振り返って、おかげさまで自分はだいたいにおいて、少なくとも主観の上ではわりと幸せであったし、
明確に「つらかった」という時期は、幼少期(全部つらかった)の他には、
14歳頃と、それから19-20歳の頃。
そのふたつくらいである。
あとは、だいたいみんな、こんなに幸せでいいのかな、ってくらい幸せな人生だ。
若い人とか、少年、子供、にとっては、
4年くらい、というのは長い時期であるけれども、
この年になると4年、というのはわりと、ひとつの季節、くらいの感覚だ。
だから思い返すに、2013年をひとつの基準として振り返ると、
あの時の自分はとても幸福だった。精神的にである。
そして、それはたぶん今でも続いているけれど、
その時に僕はひとつの小さな決断をした。
それは、日本において例のエクストリームツアー、(XTJ)をやると決めて、無謀にもやってみた、ということなのであるが、
その時、思い返すに、僕の理想は結構高かった。
そして、実際にそこから、4年連続で曲がりなりにもやることになり、
少なからず、色々なドラマを巻き込み、生み出した。
その時の僕は、2011年のアメリカ遠征から、2012年の同じくアメリカ西海岸のエクストリームツアーに参加したところから、それがうまくつながって、志を同じくする仲間たちとともに、確かにこの2013年の初回のXTJにつながっていった。
その時、その準備をしながら、いろいなことを考えていたこと。
いろいろの音楽を聴いていたこと。
逡巡し途方に暮れていたこと。
そして、自分の運命について考えたこと。
悪いことを言うのであれば、自分は、自分のバンドマンとしてのささやかな成功よりも、何か、自分を少しくらい犠牲にしてでも周囲のために、なんてことを考える傾向が昔からあったかもしれない。
かといって、そもそもがダメ人間であり、根本的に身勝手な性格だから、人のため、なんて行動をなかなか取れない人間であることは承知しているが、
それでも、大きな意味で、自分の栄光とか運命よりも、なんていうんだろうね、祖国の、ってわけじゃないんだが、皆のための霊的なredeemを、たとえ目に見えない形でも、やりたいと俺は思った。
それがどのような質のもので、どのような決意だったのかを、言葉で語ることなんて、まだまだ出来そうにない。もちろん言葉にはできなくとも、音楽では多少は表現しているはずだ。
いずれにしても理想は高かった。
その理想は、2年目、3年目、と、年を追うごとに、遠いものになっていったように思う。そして、ああ、これは遠くなったな、と思ったからこそ、昨年の4回目で、ひとまずやめにしよう、と決断したのだった。
けれども、そんなふうに、たとえ目の前の状況として、自分の考える霊的な音楽活動というのかね、「クリスチャンロック」というのか、「神のためのロック」ということが、理想どおりに、思っているような形でやれない、と思っても、そしてだからこそ、move onというのか、また新しい場所で、新しい形で、より力強い形で、それをやらなければ、という思いが、新たに湧き上がる。
その時に聴いていた音楽、
そうだね、たとえば、あれやこれや、いろいろあるんだが、それらは自分の中にだけしまっておけばいい。
けれどもひとつだけ例にあげるなら、僕はFreelance Whalesというバンドについて、2012年のツアーの時に知って、2013年のXTJの前後にも、ずっと聴いていたな。
こういうインディー系のバンドは、頻繁にチェックしているし、どんなバンドがおすすめか、人にいつも聞いているけれども、僕にとってはFreelance Whalesは、とても良いけれど、すごい良いってわけじゃない、でも十分に優れている。そんなバンドで、たとえば+/-{plus/minus}のように夢中になりはしなかった。
けれども、こういう本当に才能やセンスのあるバンドは、いつだってチェックしていたい。
そうだね、探せばきっとあるのだろうけれども、こんなふうに、もっと未来の音が聴きたい。昨年見つけて、わりとはまっている「ゲイのバンド」であるPWR BTTMも、とても好きだけれども、必ずしも「新しい音」という感じじゃないし。
どちらにしても、僕はあの時の気持ちを忘れたくないし、忘れてはいけない。その時に感じていた気持ちや、理想を。それと、その時に聴こえていた「未来の音」を。
そして、今度こそ、その目指していた場所に、たどりつくんだ。精神的にも、そして物質的にも。
何度も繰り返しになってしまうけれども、その2013年に、XTJを日本でやる、と決めてから、まるまる4年がたち。その間に、僕たちは、何をしたのか。
音楽的には、僕と、僕のバンドは、”Revive The World”を作り上げ、”Jesus Wind”を作り上げ、そして僕は自分の究極の音である「鍋島」をついに作曲し、そのオマケとして「Overture」や「切り売りプロジェクト」も作った。
ささやかなことだがジーザスモードであるとか、そういったサイドプロジェクトでも作品を創り、ライヴを行い、それなりにやりとげた気がしている。
Calling Recordsの仲間たちといろいろなイベントを行い、コンピレーションを作ったこと、ソルフェイとも一緒に活動した。演奏や録音にも何度か関わった。
そして、XTJを通じて、アメリカやカナダはもちろんのこと、ロシアとか、チリとか、そういうところから来た連中と、共に演奏し、感動を生み出し、絆を深めた。
楽器やサウンドについてずいぶんと突き詰めたことももちろんだ。
だからその4年余りの間に、間違いなく「武者修行」は非常にばっちりと行い、「道を究めて」いったと思う。まだまだ未熟な僕たちであるが、夢中になって、ばっちり修行をしてきた、ということだと思う。そして、その修行の成果として、それなりに「奥義を究めた」はずだ。それは、決して無駄な年月では、ぜんぜんまったく、ない。
僕はもうそれなりにいい歳だ。
けれども、今の時代の状況や、社会の状況、世界の状況、ということもある。
そして、僕はきっと、なんてとても贅沢なのだろうと思う。
だから、自分の現実的な状況としては、やっと「若い時代」(youth)における修行が、ひととおり終わったところなのだと思う。
「ここまでだ」なんて思ったら、それは僭越だ。
何を偉そうにする必要もない。
君は、今やっと、ひととおりの冒険を終えて、「若い時代」を卒業し、大人へのステージに、やっと進もうとしているところではないか。
「この町」との仲間との研鑽を終え、これからやっと、より大きな世界へと飛び出す準備をしているんだ。
たとえばね、その時に、僕が泣いてしまったレコードの中に、やはり、アースシェイカーの2007年のアルバム「Aim」ってタイトルの、あれがあるんだよ。
もう一度、その、「全部捨ててスタートしてみる」その覚悟に戻るため、聴いてみようかなと思っている。
自分はとても贅沢だ、というのは、
もちろん、本当は自分は歌いたくなくて、一緒にやれるシンガーに出会いたかった、というのはあるけれども、
音楽的なスタイルとしても、あれもこれも、どれもそれも、すべていろんなスタイルがやりたい、と言って、幅広くやってしまっているし、たとえ望んでいたわけではなかったにしても、憧れのギタリストにしても、良いなと思ったシンガーにしても、一人何役もやってしまっている。商業的とか、社会的な人気とかを考えると、僕はとっつきにくい職人タイプだから、フロントマンやってくれる存在に出会いたかった、というのはあるけれども、それはきっと贅沢というものだろう。
ここまでの音楽的な贅沢をさせてもらっている、そういう、妙な分不相応な志を持ってやらせてもらっている、というのが、そもそも贅沢であり幸せだと言っていい。
その上で、クリスチャンロックとか、精神的とかスピリチュアルな、みたいなことをやるのは、もう贅沢の極みであって、無茶なくらいの怖いもの知らずな贅沢っぷりである。
その上で、さらに贅沢なことを言えないのは承知しているのだが、けれども俺は、フェアにやりたいのだ。
いつも言っていることだけれど、クリスチャンロックのバンドであるとしても、宗教にはなりたくない。信じる心を伝えたいけれど、それは心の解放ということであって、思考停止した「ゾンビ」を増やしたいわけではない。そんなんだから、「宗教商法」ばかりの現代社会の中で、売れないのはわかっているのだが、仕方ない。
そして、日々、悩むことや、苦労はあるけれど、
僕は、この自分の信仰のメッセージというのか、信仰の物語。
Imari Tones (伊万里音色)と名付けたこのクリスチャンロックの物語は。
それは、きらきらとした成功物語の中からではなく、
個人としての現実の苦悩の中から鳴らすのでなくては、意味がないと思っている。
それは、そうでなければ、この個人から始まる信仰のメッセージは、
一人の人間に、届かないからだ。
イエス・キリストを信じているけれど、それと同じくらいに「ロックンロール」を信じているんだよ。つまりは、音楽ってものをね。
そして、Jesus is the ROCKであるわけなので、それは少しも矛盾しないと思っている。
もう一度、スタート地点に戻ってみよう。
最後まで、歩ききることだけが目標だ。
あきらめることなく、希望を失うこともなく。
神さんに示された道を、最後まで歩くこと。
だからやっぱり、言わせてもらおう。
「そんなもののために、俺はここに来たわけじゃないんだぜ」
どちらにしても、わかりきったことだけれども、
少しはクリスチャンぽいことを書くのであれば、
(こういう書き方をすると喜ばれる、というのはやはりある、笑)
僕たちの最終目的地である「鍋島」、
それは、大き過ぎる、そして遠過ぎる目標だ。
そんな大きなものに立ち向かっていくためには、
自分1人の力では、出来ない。
だから、ここから先の旅路は、
皆の助けを、全力で頼りにして、
全力で、皆に助けてもらうことで、歩こうと思っている。
つまり、自分の力で、もうどうにもなる段階じゃない。
神さんの力を、借りなければ、やれないんだ。
だから、頼りにしています。
自分の力は、ひとつもあてには、すまい。