アナログのサウンドということについて考えてみたい。
いや、実際には必ずしもアナログのサウンドについては考えない。
つまりは僕は本物の高級なアナログの音なんか、ちっとも知らないからだ。
だが、想像してみることは悪いことではないはずだ。
想像とか勘違いというものが、創作のほとんど唯一のキーであったことは、人類史上とっくに証明されているはずだから。
ここに一枚のアルバムがあり、それはJudas Priestの81年のアルバム”Point of Entry”である。
僕は個人的には、思春期で13歳の時に初めて好きになってロックやヘヴィメタルを聞き始めたその「初恋のバンド」はJudas Priestであったので、だからきっと今でもヘヴィメタルを演奏しているし、Priestについては本当に語り尽くせない。けれどもこの伝説的なバンドについてはたくさんの人が語っているだろう。
そのPriestの、81年のアルバム”Point of Entry”は、彼らのキャリアの中でも問題作のひとつと言われる、あまり評判のよくないアルバムである。
けれども、僕はなんとなく昔から、このアルバムが好きだった。そして、その理由は何だったのだろう。
どんな人にも、ごくごく若い頃に、衝撃を受けたり、夢中になったり、そのサウンドが自分の中の基準になっているアルバムがあると思う。あるいは僕にとっては、Priestのアルバムの中でも、この”Pont of Entry”はそういったアルバムのひとつだったかもしれない。
さて、アナログのサウンドは良い、とされる風潮があるのは周知のことと思う。
その前提でこの文章を書くのだけれど。
では果たして、僕が求めていた、僕が理想としていたサウンドは、果たしてアナログの音だったのか。それとも、デジタルの音だったのか。
最近、遅まきながら、ネット上をうろついていた時にHarrison MixBusなるDAWアプリケーションがあることを知った。
なんでも、伝統あるコンソールメーカーであるHarrison(テネシー、ナッシュビル)が、本物のアナログのコンソールのフィールで、音楽的なミックスが出来るようにと設計されたDAWらしい。
これはつまり、プラグインとかで、アナログをシミュレートしたEQとか、コンプとか、サミングとか、ある中で、そういった単体のプラグインだけでなく、DAW全体っていうか、ミックスのシステム全体をアナログの本物のコンソールをシミュレートしました、っていうものなんだと思う。たぶん。(間違ってたらごめん)
で、早速試してみよう、と思ったんだけれど、めんどくさくて、まだ試してない。だから、試してからこの文章を書けよ、という感じではある(汗)
しかし、俺は思うわけだ、果たして、そんなに良いものだろうか、と。
ミックスをする時、音楽の録音制作をする時には、いくつもの前提というものがあると思う。僕は、物事に取り組むとき、この前提ってやつがとても重要だと思うし、その前提の部分を疑ってみたり、その前提の部分に向き合ってみるとはとても大事なことだと思っている。
たとえば、商業音楽を制作する時の前提として、ひとつには、再生する機器、再生する環境、またどういった用途で使われるのか、とか、そういったことはきっと前提になっていると思う。そして、その前提というものは、場所によっても、時代によっても変わってくる。
僕が、自分で個人の立場で音楽を作っていて良い部分だと思うことのひとつは、その「前提」の部分を、商業的とか、社会の都合とか事情、ではなく、自分で個人的に決めることが出来ることだと思う。
僕が自分のバンドの録音制作をする際に、たとえば低音とかベースの音を入れ過ぎていたり、あんまり音の分離を図っていなかったり、ある程度生のままの素材で良しとしてしまっている傾向があるのは、自分でもわかっている。
とはいえ、僕もミックスというものが、最近やっと少しずつわかってきた程度であるので、これまで作ってきたものについてはご容赦いただきたいくらいだが、しかしそれでも、敢えてそういった音作りをしていたのも事実なのだ。
僕はそういった音作りを、再生機器や、商業的に流通する都合ではなく、個人的に伝えたい、感じてもらいたいこと、の都合でもって、決めていたのだった。そして、俺は別に、音楽にはその程度の自由があってもいいんじゃないかと思っている。
良い音ってのは、いったい何なのか。
俺は、その、Judas Priestの1981年のアルバム”Point of Entry” (邦題、黄金のスペクトル)に関して、世間ではつまらない月並みな作品、ヘヴィメタルの総帥であるPriestが、迷走して軽薄なポップロックを作ってしまった作品、のように見なされているその作品。
確かに、そのアルバムの楽曲はとてもシンプルだし、サウンドについても、ごくごく普通の、何の変哲もない、普通のノーマルな、ベーシックなロックバンドの音だと思っていた。
だが、今にして、今になってわかることは、その「ベーシックな普通のロックバンドの音」を作り出すことが、録音することが、いかに難しく、貴重なものであるか、その事に、痛いほどに感じて、腹痛が痛いアレで、痛感している。
俺は、そのアルバムの音が、どんな機材で作られたのか、その卓が、Neveであったのか何であったのか、本職のエンジニアでも何でもないし、知らん。
けれども、俺にとっては、果たしてこの「何の変哲もないつまらないアルバムの音」とは、ロックバンドを録る上でのひとつの理想のアナログサウンドではなかったのか。
そう思えてならない。
Judas Priestの歴史から言うと、彼らがこの”Point of Entry”で作り上げたサウンドは、大ヒット作でありヘヴィメタル史上に燦然と輝く名盤である次作品 “Screaming for Vengeance”に受け継がれている。だが、そのサウンドの青写真は、間違いなくこの”Point of Entry”だったことは間違いない。
アナログの音っていうのは、いったいどういうものだったのか。
たとえば、鳴っている音を、そのまま正確に記録し、正確に再生する、その部分については、デジタル録音はきっとすごく優秀なはずだ。
だが、そのデジタルで録音したエレクトリックギターの音を聞いて、「この音は正確ではない」と言った人がいる。たとえば、僕が昔お世話になったプロデューサー/ギタリストのY氏もそう思った一人だった。
では、いったい、何がどう正確では無いというのか。
俺は、きっとそれは、中域、ミッドレンジの情報量ではなかったのかと思っている。
人間の耳の、ヒアリングというのか、聴覚の、その認知のシステムが、どうなっているのかは詳しくは知らない。
けれども、一般に音楽を聴く際に、人間の耳は、そのミッドレンジ、中域に、とても敏感である、ということはよく知られている。
どちらにしても、中域、ミッドレンジには、音楽や音色を感じる上で、とても重要な情報が詰まっていることには間違いない。
アナログの録音機器、マイクにせよ、アンプにせよ、コンソールにせよ。
アナログの機器というものは、そのミッドレンジの情報量、感受性能が、非常に高く作られていたのではないか。おそらくは、生身の人間の耳以上に。
誰だか知らないが、それらの昔のオーディオ機器を設計した人々は(それがRupert Neve氏にせよ誰にせよ)、そういった繊細なミッドレンジの情報量、記録量が豊富な設計をもって、「正しい音」「音楽的な音」「良い音」だと考えたのだと思う。
それは、アナログとか、デジタル、とかそういった単純な分類ではなくて、むしろ音とか聴覚とかオーディオを考える際の、「思想」ではなかったか。思想という言葉が重ければ、方向性、でもいいけれど。
だから、たとえばエレクトリックギターの音をマイクで収音し、再生した時に。
実際に同じ部屋でギターアンプの音を聞いた時以上に、その録音された音には「ミッドレンジの情報」が、ぎゅっと詰まっている。
それが、果たしてデジタル的に「正確」な収録であり、再生であるかどうかはわからない。しかし、昔のオーディオ設計者や、録音エンジニアは、そしてミュージシャンは、その音をもって、「より正確な音」と考えたのだと思う。
実際に、マイクで収音された音を、生身の耳で聴くことは叶わない。
なぜなら、たとえばオンマイクで、キャビネットのスピーカーから数センチとかの位置で、耳を近付けてギターの音を聴いたりする人なんか、いないからだ。爆音で鳴っているギターアンプに対して、そんなふうにして音を聴けるようには、人間の耳は出来ていない。しかし、マイクロフォンというものはそうやって使い、収音するものだし、録音制作というものはそうやって作っていくものだ。
であればこそ、どんな音が「正解」であり「正確」であるのか。それは、生身の人間には知ることの出来ないことだ。
だが、きっとオーディオの設計とか、理論とか、感性とか、そういったものから、Rupert Neve氏をはじめとするオーディオの設計者の人たちは、解答を導き出していったのだろうと思う。
(もちろん録音機器やオーディオ機器は別にギターの音を録るために作られたわけではないが、その時間軸の逆説はここでは便宜上、考えないこととする。)
そして、たとえばコンソールなり、チャンネルストリップに、EQが付いていたのであれば、それはきっとその「正しい音」に近付け、再現するために、きっとそれは使われるのでり、そのために付いているはずだ。
さて、そう思って”Point of Entry”のアルバムの音を聴いてみると、ギターの音なんか、中域の情報が非常に豊富である。それはエレクトリックギターの音で言えば、ディストーション成分も含めて、「倍音」ということになる。(きっと「1.6k」のつまみはぐぐっとブーストされていたに違いない。)
もっと後の時代の、デジタル録音が普及した時代以降の、低域がふくらんだ音ではない。そして、その後の時代の基準で言えば、この時代のアルバムには、低音なんか、全然入っていない。(あるいは、これも、環境とか、大きなスピーカーで再生すれば、違う感想を持つのだろうか。だが、現代においては、そんな大きなスピーカーで音楽を聴く人は、どれだけいるのか。)
だけれども、俺は、デジタル録音の普及ってこともだけれど、再生するスピーカーひとつとっても、上とか下のレンジも、全体で言えば、昔よりも、今の方が広がってるっていうか、性能は上がってると思うしね。昔は、再生するスピーカーだって、中域に集中していたんじゃないかという印象を持っている。
けれども、現代の録音とか、現代のロックバンドの録音作品を聴く限り、この豊富な中域の情報量ってことに関しては、やっぱり昔の作品の方が優れているのである。
ProTools等を使った、コンピューターのハードディスクを媒体とするデジタル録音が普及したのは、1990年代の後半というか終わり頃。それから21世紀に入って本格的にProToolsとかコンピューター録音の時代になったと思うが。
それ以降のバンド、といっても、やっぱりヘヴィメタルとか、メタル系のバンド。
メタル系のバンドは、特に往年のベテランバンドたちは、ギターの音の録音に苦労してきたと思う。
つまり、たとえば、これも時代に合わせて、ハイゲインアンプの普及したメタルコアのギターの音なんかは、ドラムの音も含めて、鮮明なデジタルの録音が明らかに前提になっているから、これも時代や環境に合ったものだろう。
それから、2010年代に入ってからの、ProgMetalとかの、Fractal等の機材を使ってデジタル的に作られたギターの音、録音手法も、このデジタル時代の録音に適合したものだ。
だけれども、そういった1980年代とかのバンドが、21世紀になって以降、作品を作ると、ギターの音が、昔とまったく違うというか、やはりそれは、ギターの音が、ふくらんでしまうのである。
アナログ録音で、録音媒体もアナログテープだった時は、テープ等のサチュレーションのせいもあって、ギターの音はミッドレンジに情報量がぎゅっと凝縮されていたものが、それがもっとぶよぶよとふやけて広がってしまうのだ。
この問題に、21世紀になってから、ロック、メタルのギタリストたちは向き合ってきたと思うけれど、上手い解決方法を見出した人たちは、あんまりいるとは思えない。
広がった録音レンジに対して、より現代的に深みを増したモダンアンプを使うことで対処することは一般的だと思うが、
ある者はたとえばEQ等で中域の特定のレンジを不自然に強調したりであるとか、
ある者は真空管の機器を使ってみたり、またある者はプラグインのテープシミュレーターを使ってみたり。
そのへんは省略する(笑)。
では、僕自身は、この問題に、どう対処してきたのか。
あるいは、どう対処してこなかったのか。
それは知らん(笑)
全部、偶然とか、成り行きとか、感性とか、気分である。
だけれども、僕はつねづね、自分でバンドの録音をする時に、「1970年代の終わり頃とか、1980年代のはじめ頃の録音が、イメージ的に理想」みたいなことは、常に公言していた。たとえばこの”Point of Entry”も1981年であるから、その意味ではその範疇に入るのだと思う。でもやっぱり、他にわかりやすいのは、Van HalenのDave Lee Roth時代の最初の6枚ってことだよね。
じゃあ、確かにアナログっぽい音を目指していた。
少なくとも気分の上では目指してきた。
と、しよう。
でも、本物の高級なアナログ機器の音なんて知らんので、
それは結局、想像の中だけの、勝手に思い描いた、気分だけのものじゃないか、と言うこともできる。
その通りだ。
けれども、その「気分」ってやつがやっぱり、実はなによりもいちばん大事だったんじゃないかと思う。
その「理想の音」ってやつを、それが本物のアナログとか、実際の機材とか、そんなのはまったく関係なく、自分勝手に思い描くこと、それこそが、実は、何よりいちばん大事なことだったんじゃないのか。
俺は、エレクトリックギターていう楽器にたいして、昔から持っている持論みたいなのがあって、
それはつまり、エレクトリックギターというのは、非常に多様性のある楽器である。
だから、一口にギターとか、エレキギターとか、エレクトリックギターとか言っても、本当にいろいろな種類がある。
そして、本当にいろいろな音色があり、用途がある。
最強に凶悪な音も出れば、いちばんきれいで、かわいらしい音も出る。
その音の種類は、ギタリストの数だけあるし、ギターの楽器本体をとってみても、本当に数々の種類とかバリエーションがある。
だからこそ、ギター弾き、ギタリストというものは、自分が思い描く「エレクトリックギター」というものを、しっかりとイメージすることが大切なのだ、と、これが僕の持論である。
自分にとってのエレクトリックギターとは、大きな音なのか、小さな音なのか。重いのか、軽いのか。丸いのか、尖っているのか。絹のようになめらかなのか、あるいはコンクリートのようにざらざらしているのか。光沢があるのか、あるいはマット仕上げなのか。弾力があるのか、あるいは硬くて曲がらないのか。
そういったことを、もちろんヴィジュアルイメージなども含めて、思い描けば思い描くほど、イメージすればイメージするほど、その音を、実際のギターから引っ張り出せるようになるからだ。
そして、その「イメージ」の奥底には、やはりその人間の「感性」、そして「官能」というものがある。そしてその「官能」ってやつを磨くのは、やっぱり並大抵のものではない。「官能」の奥には、「思想」ってものもあるかもしれないが、そこまでは知らん。伝統とか、文化、とか、自然、みたいなものもあるかもしれんが、そこまでは、個人の与り知ることのできる範囲ではない。
そんでもって、きっと、それは、録音制作においても同じである。
つまり、コンピューターなり、モニタースピーカーなり、その前に座ったとしたら、イメージするのだ、そこに存在するはずの「理想のコンソール」を。「理想のシステム」を。
たとえ何億円もするようなNEVEとかSSLのコンソールを、購入してアパートの部屋に設置することが出来なくてもいい。(別に設置してる人もいっぱい居るとは思うが、笑)
そこにある理想のコンソールをイメージすることが、とっても大事だと思うのだ。
そして、数々の録音物を聴く際にも、「これはどんなシステムで録音されたのか」と、そこにある「コンソール」をイメージしてみることは、やっぱり大事かもしれない。ばかみたいだが。
そんでもって、Harrison MixBusも、今度また暇な時に試してみたいのだが、試す前の考えとしては、僕はわりと懐疑的である。
つまり、デジタル、と、アナログ、を比較すれば、デジタルの方が自由度は圧倒的に高いと思う。
そしてデジタルの中でアナログの方向性の音を作り出すプラグインエフェクトはたくさんある。
昔の、本物のアナログ機器、アナログのスタジオの時代には、そういった選択肢はきっとあまり無かったはずだ。
つまり、現実にワイヤリングされ、現実に電流が流れる、現実のアナログ機器しか、ミックスするシステムがなかった。
そして、それは、デジタルの基準から言えば、おそらく非常に色付けの強いものだった。
だから、デジタルのDAWシステムでミックスをするということは、まったく色の付いていない無色透明の状態から、いろいろなプラグインとか、パソコンのデジタルに入る前のマイクやプリアンプ等も含めて、「架空のコンソール」みたいな、システム全体をいちから設計していく作業でもあると思う。
全チャンネルにコンソールシミュレーターのプラグインを立ち上げてもいいし、その中でNeveとSSLを組み合わせるとか、NeveのEQにSSLのコンプとか、もっといろいろと、得体の知れない、現実にはあり得ない組み合わせを、システムとして作っていける。
けれどもその自由度が高いからこそ、もちろんおかしなことにもなる。
だからこそ、「設計」のセンスが必要になる。システムを構築するセンスが。
そこに「イメージ」って能力が、重要になってくる。
そして、アナログのコンソールの時代には、エンジニアやプロデューサーが、いちいち、パソコンの内部で架空のシステムを作り上げなくても、優れた設計者によるアナログの「ミキシングコンソール」という一定の思想に貫かれたシステムが、既に設置されていた。だから、おかしなことになることは少なかったに違いない。たぶん。
もちろん、0と1で音を再現するデジタルではなくて、実際に電流が流れるアナログ機器の方が、「本物」の音であり、その音には重みとか説得力がある、みたいなことは言えると思う。
だけれども、そんなデジタルとアナログの違いよりも、どんな機器とか機材よりも、やっぱりそんなものを越えて、あるべき音をイメージする、人間の力の方が、やはり数倍も重要なのだと思う。
だからイメージすべし。
とか書いてみたかった。
録音、ってことの意味合いについては、たとえば神がモーセの十戒の石盤に、石に記したように、あるいは古代の人々がパピルスとか羊皮紙に記したように、記録ってことの意味合いを考えるけれど、それはまた別の機会に書いてみたい。