さて、ハリケーンの各地での被害や、ミサイル危機や、様々があったにも関わらず、アルバム制作のためのクラウドファンディングは、成功の見通しが立ちつつある。
本当に感謝である。
だから、今年は「転機」であり、ライヴとかツアー活動をしていないと言っても、音楽活動は、順調に進んでいると言っていい。
だが、そうであったとしても、私生活、いや、私生活はいつだって充実しているのだが、社会生活というか、「バイト生活」の方は、あまりうまくいってない。
しかし、クラウドファンディングで他人様からお金を寄付してもらっている身としては、たとえ「無理」だったとしても、なんとか最後までやりとげて、必要な給料をもぎとらなければいけないのである。
今やっている期間限定のオフィスワークだが、僕としてはこういう「オフィスワーク」をやるのは実に5年ぶり。
5年前、2012のアメリカ西海岸のThe Extreme Tourへ参加し、返ってきた後、おそらく自分にはもうこういった働き方は無理だろう、と判断し、体を動かすことに徹してきたのである。
だが、今回、いろいろあって、「期間限定なら、いっぺんだけやってみよう」と、話に乗ってしまったものである。
そして、やはりそれは大間違いだった(笑)
このバンドのウェブサイトに載せている個人のWeb日記、CGI日記は、不思議なもので、つまり、うちのバンドの場合、ファンの大部分は海外の人なので、ウェブサイトのすみっこに日本語で書かれたこの文章を読む人は、そういった「ファン」の中にはおそらくいない。
また、日本の友人たちにしても、ほとんどはFacebookやInstagram等のソーシャルネットワーク上でのコミュニケーションになるため、この日記は密かに存在しているような立ち位置のものであり、自分への記録と整理が第一の目的、そして、遠くであまり利害関係のないところからほんのり見ている遠い誰かの役にたつかもしれない、という意味合いで記録しているものだ。
思い出すことがひとつあって、それは、その2012年のアメリカ西海岸のThe Extreme Tourに参加する際に、出かける時に成田の空港のうどん屋でうどんを食っていると、不思議な老人、というか老婆、というかおばあさんが、ひょこっとやってきて、「ほうほう、口元の良いところにほくろがありますな。これは、きっと、一生食うのに困らないのに違いないですじゃ。ひゃっひゃっひゃ。」(実際はもっと普通の言い方だったと思うw)と僕に向かって意味ありげに笑いかけた。
今にして思えば、その老婆の意味していたことは、たぶん今僕の身に起きているあれこれのことであり、それであの老婆は意味ありげに笑っていたのに違いないのである。
そしてほくろと言えば、春先か初夏くらいに、「年齢のせいか顔のほくろがずいぶん増えてしまった」という投稿をフェイスブックあたりにしていたのを見た人もいるかもしれないが、そしてフェイスブック上では、「洗顔が」とか「ガンが心配」とかそういう反応があったと記憶しているのだけれど。
だから、そういう意味では、このほくろはそういう意味合いであるとすれば、たぶんそういうことなので、俺はもう、ほくろについてはあきらめようと思った次第である。年齢と言うことももちろん出来るが、必然性のあるほくろだったということだ。
年齢と言えばそういうことである。
つまり、若い頃には気が付かなかった。
先日、知り合いがやっている同性愛者の方々のためのちょっとしたセミナー的な会合を見学させていただく機会があった。
その時に参加者の人が話していたこととして、そういった同性愛の方によくあるパターンとして、自分自身がどういう性的嗜好を持っていて、それがどういうもので、どういう呼び方、名前がついているものなのか、マニュアルがあるわけではないので、また人に相談することも出来ないから、人と比較することも出来ず、わからないままで手探りに生きていって大人になるしかない、みたいな話があった。
つまり、生まれながらにそういった「人と違う点」があったとして、そのことに気付く、つまり「自覚的になる」のは、ひょっとすると案外遅いかもしれない、ということである。
そして、俺は、やっと今、そのことに「はっきりと自覚的」になってしまったのだと思う。
もちろん、これまでだってその「感覚」を使って、物事を感じ取り、判断し、活用して生きてきたのだけれども。
それは、ちょっとした些細な感受性とも言えるし、俺に言わせれば些細な感受性でしかない。だから、それは俺にとっては「普通のこと」なので、その「普通のこと」を、何か特別なことのように言われると、俺は非常に困惑してしまう。それはなんというか、自分の「普通の生活感覚」を疑われる、ということだからだ。
たとえば、バンドのアルバムを聴くと、そのバンドがあとどれくらいで解散するかわかる、とか。
コーヒーを入れた人間の心理状態がある程度読める、とか。
またクリスチャン的な話題で言えば、俺にとっては「ホーリースピリット」というものは、さすがに目には見えないけれども、「触れて感じる」ことの出来るものである。だから、クリスチャンの集まりなどで、実際にはホーリースピリットがそこに来てないにも関わらず、「ホーリースピリットが満ちています」とか「聖霊に満たされて」とか言われると、「え、来てないじゃん」とか思ってしまうのである。それは、普通にそう思うということだ。もちろん、来る時には来るし、結構意外な時、意外な場所で来ていたりすることもある。たとえば他宗教とか、いわゆる「異端」っぽい人たちの集まりなんかにも、ちょくちょく「聖霊さん」が来ていたりするのをご存知だろうか。
そして、これは職場の人にも説明したのだが(したんかい、汗)、とても良い例として、「ねずみ避けの超音波発生装置」ってやつがある。
俺は、これは怖いのでぐぐってみたことがないのである。
以前、一度だけフェイスブックにそういう内容のポストをしたことがあるのだけれど、反応はごくごく限られたものしかつかなかった。
つまり、ねずみとかゴキブリとかを追い払うために、18000Hzとか2万ヘルツくらいの音を発するあれである。
街中を歩いていると、昔からちょくちょくあるし、またスーパーの野菜売り場とかにも、ちょくちょく置いてある。「ばちばちばち」という感じで、かなり爆音で鳴っていることが多い。
歳食って聴こえなくなるかな、と思っていたんだけれど、今のところ、まだまだ聴こえている。というよりは、昔よりも聴こえるくらいだ。
だが、この、かなり爆音で鳴っている「ばちばちばち」というあの音が、どうやらきっと、世間では、聴こえる人よりは、聴こえない人の方が多い、ということは容易に想像がつく。
だから、あの音のことって、あんまり話題にしたくないのである。
だって、相手が、その音が聴こえなかったとしたら、それはまるで、自分が狂人のようになってしまうではないか。
この苦しみって、実は結構なものだと思うんだけれど、今回、こういう目に合って、たとえば同性愛の人が感じる苦しみとか、カミングアウトの苦しみとかが、ちょっとだけわかったような気がした。
ともあれ、オフィスワークの話題に戻ろう。
期間限定ならやれるんじゃないかな、と思って「やります」と言ってしまったのである。仕事なかなか、無かったし。
そんで、やっぱり最初の二週間くらいで「これは無理だ」ということがわかった。
だけれども、昼休みにスケートボードをやる、とか、ひたすらガムを噛むとか、とにかく色々な工夫を編み出して、まあやはり一番大きかったのはスケートだけれども。
ここまで無理矢理続けてしまった。
クラウドファンディングを立ち上げてからは、スケートが出来なくなってちょっとやばかったのだが、そこはそれで、私生活でちょっとした息抜きがあった。
だが、9月に入って、席の配置が変わり、クラウドファンディングも一段落付いたら、すげえやばいものが待っていた。
「無理だ」と思っていた都会でのオフィスワークではあったが、それでも、あともう少しだから、最後まで乗り切るために、ここで振り返らせてもらうけれど、振り返ってみれば。
異常に得るものが多かった。
近くのスポットを見つけたおかげで、スケートボードの技術は大いに進歩した。
なぜか視力が非常に良くなった。
ドラムの基礎練習が非常に進んだ、足を主体とした速いパラディドルとか、複雑なパターンもこなせるようになった。
なぜだか股関節の開脚が、まだ180度とはいかないが、かなり開くようになった。間違いなく今までの人生でいちばん開いている。
そして、耳も非常に良くなってしまった。
早い話が、感覚が非常に鋭敏になってきてしまったのである。
この理由は、今のとこあんましわからない。
そして、きわめつけにこれである。
霊的な感受性が、ちょっとやばいレベルまで高まってしまった、ということ。
今回の事件で、そのことに嫌でも自覚的にならざるを得なかったので、今更に気付いて振り返ってみたのだ。
少年の時から感じていたこと。
あの時にとった、あの行動。あの判断。
あたりまえだが、今までに書いた曲。というよりは、天から「与えられた」曲たち。
大学にきちんと通えなかった理由。就職できなかった理由。
あの場所や、この場所で、仕事が長続きしなかった理由。
そして、これまでの音楽活動の中での、あれや、これや、それや。
要するに、俺は、「聞こえてしまう」人間だったからこそ、こういう人生にならざるを得なかったのだ、ということに。
そりゃ、人と話が合わない、とか、考えてみれば当たり前の話である。
なるべく人と接することをせず、孤独を好むのも、至極当然だ。
あれやこれや、いろんなことの理由がわかった。
特にここ1、2年でその感覚が、さらに鋭敏になっているのだとすれば、友人たちに言っておきたいが、最近、僕が友人たちのライヴとか、そうでなくても、一般的なライヴとかコンサートに、あまり行けない、見ることが出来ない、そういう事情があっても、どうか理解して欲しい。それは、見たくないものとか、聴きたくないもの、感じたくないものを、いっぱい感じてしまうからである。
そして、こうなってみると、これってやっぱり、非常に苦しいことなのだ。
さて、今回の事件の概要を、形式的に示しておきたいと思う。
今回の事件の原因は、要するに「ドルオタ」である。
ドルオタ、というのは、つまり、ファンの皆さん、ということだ。
そして、若くてきれいな女性に限って、そういう「ファンの皆さん」が、いっぱい付いている、ということである。
世の中にはいろんな「つきもの」があるし、いわゆる「美人」には、そういうものがよくついている、ということは、話には聞いていた。
だから今回、現物を見て、「ああ、こういうことか」と。
そして世の中の不思議というか、皮肉というか、そういう女性に限って、「耳が悪い」ものなのである。その理由はいろいろあると思う。が、ひとつには、頭上の「ファンの皆さん」が、いつもあまりにも大きな声で声援を送るので、自然にその爆音に慣れてしまい、鈍感になって耳を閉ざしてしまったのではないか。
そして、そんな「鈍感」な人が多いから、「聞こえてしまう」俺が、こんなひどい目に合うことになる。
プロセスで言うと、おおよそこんな感じの流れだった。
1: 誘致
こいつは聞こえる(見える、感じる)ということがばれて、そういう立場に自然とひっぱりこまれる。(今回の件だと、9月に入ってなぜか僕だけ席を移動させられた)
2: 強制
感覚にいきなりぶっこまれる。何を言っているかわからないと思うが、書いている俺もわからない。
3: 共感
そこで、感受性の高い、優しい俺様としては、共感してやったのである。考えてみれば相手は「ドルオタ」である。自分たちのお姫様のことをわかってほしいのだ。
4: 克服
強制的にぶっこまれている感情と、自分自身の感情を切り分けて、自分自身の感覚とか、自我を取り戻す。これが出来ないと、きっとやばいんだと思う。俺の場合は、やっぱり神への信仰が鍵だった。ここを乗り越えるプロセスの中で、俺は「伝道者」すなわち神の愛を伝える者、としても、間違いなく一皮剥けたと思う。
5: 解読
相手が何を言っているのか、何を伝えたいのか、を解読する。要するに、うるさいし、感情とか概念で来るので、それを解きほぐして、整理、判断、解読する。
6: 立案
解読したメッセージを元に、現実に何が出来るのかを思案する。
7: 拒否
「霊の世界」の事象を、現実世界、ましてやオフィスの中の現実に持ち込むことなんて無理に決まってる、と社会人として当然な判断をする。
8: 強迫
気が狂わんばかりに強迫される。音を上げた。
9: 実行および適用
しょうがないので、自分の社会的立場をあきらめて、「やつら」の願いを叶えてやる。
と、まあ、だいたいこんな流れだった。
普段なら、こんなことには陥らないのかもしれないが、今回は、2とか3あたりのプロセスの中で、自分の個人的な弱点というか、20年ほど前の記憶のフラッシュバックが重なり、非常に苦しんだ、というか、感情的にジェットコースターを味わった。
社会的な立場なんてあるわけないのだが、それでも、あのオフィス空間の中で、よっぽどうまいことなんとか「形にした」のは、はっきり言って自分の手腕だと思う。
派遣先からはちょこっとお咎めをくらったが、ちょっと反論してみたが、これは絶対に理解出来ないだろう、ということがわかっていたので、そうですね、とこちらの非を認めたのだが、その「非を認めている俺」を見て、上にいる「ドルオタの人たち」が、拍手をして俺をヒーロー扱いしていたのは事実である。なんで俺がこんなことしなきゃならんのだ。
派遣元の担当の方は、親身になってかばってくれて、理解してくれた。
たとえ期間限定の仕事であったとしても、俺にだって社会的立場もある。何よりプライドとか自尊心がある。だから、派遣元の担当さんが、俺の話を笑い飛ばさずにちゃんと真剣に聞いてくれたことは、本当にありがたかった。
なぜって、クレイジー扱いされるのが一番つらいのである。
自分自身だって、かねがね。
つまり、思えば、いつだって、昔から。
俺っておかしいんじゃないのか、って、いつも思っていたんだから。
普通は、こういう時は、スルーして、霊的な事象の真実よりも、社会的な立場の方を優先して取るものである。
だが、俺はわりと「熱い」方なので、それこそ少年時代から、こういう事象に出くわした時、いつも逃げずに立ち向かっていた。
だからこそこういう案件が時折舞い込んでくるのかもしれないが、俺は何より、「逃げる」ことが怖いのだ。
逃げてしまったら。無視してしまったら。
それは自分自身の感覚を疑うことになる。
自分自身の感覚を疑い出したら、そこにはすぐに、気が狂いそうになる地獄が待っている。
今回の件でも、俺は何度も、その「穴の底」を覗き込んだのである。
はっきり言おう。生還おめでとう。
嫁さんが本当に助けてくれた。もちろん、今に始まった話ではない。
俺は、音楽をやっているから、ことに「音」に対する感覚には、自分なりの絶対の基準に自信を持っている。
俺はジョークで次の仕事はスピリチュアルカウンセラーかな、とか言っていたけれども、だからこそ、俺はこれを商売にするつもりはない。あくまで「音楽」の中の基準で勝負したいのだ。
オフィスの中の環境には文句がある。
俺に言わせれば、このオフィスの環境自体が、ずいぶんとおかしいのだ。
そして、そのお姉さんも明らかにずいぶんおかしいのに、周囲は何も言わない。
それこそ「聞こえていない」のだろうか。
だがもし、俺が「ドルオタ」たちとの約束を果たしたのだとすれば、確かに俺は、一発ひっぱたいて「聞け」と言ったのである。(注: もちろん実際にはひっぱたいてません)
もし、うまくいけば。
願わくば、hopefully。
きっと「恐れ」というものを知るのではないだろうか。
それでいいのだと思う。
だが、ひとつだけ言わせてほしい。
オフィスワークは二度とやらない。