さて”Not In My Lifetime”と銘打たれた、奇跡の「再結成」ツアーをやっているGunsn’ Roses。
チケット高いし、僕は、「別に、無理して見なくても」と思っていたけれど、何の巡り合わせだか、幸運にも結果的に見ることが出来てしまった。本当にありがとうございます。
以下、短く感想を。短く。つとめて短く。
Gunsn’ Rosesってバンドについて言えば、僕はロックを聞き始めて間もない14歳の頃に初めて聞いて、その時に最初に聞いたのは”Use Your Illusion”、そこから1st、それとGuns Liesも聞いて。もちろん、凄いと思ったし、好きだった。けれども「自分にとって一番」というバンドでは無かったのは確かで。だけれども、思春期の多感な時期に聴いたのだ。だから、自分の世代の音楽ということも含めて、もちろん大きな影響を人生のサウンドトラックとして受けている、よね、そりゃ。
そんなGuns & Rosesの良さが本当にわかってきたのは、やっと大人になった後のことで。しかも、そのメッセージ的な意味合いまでわかるようになったのは、僕にとってはごくごく、ここ数年のことであって。つまりこのどうしようもない世の中の、どうしようもないっぷりを、すでにとっくにどうしようもなくなっていた1980年代後半の狂乱の中で、まっすぐに鳴らしていたやつらだったことを、やっと理解したのである。
つまりそれは、少年の頃は良い子ちゃんだった私も、不甲斐ないバンドマンを何年もやってきて、やっといっちょまえに「出来損ない」になり、そしてGunsn’ Rosesがどういったバンドだったのか、少しはわかるようになったということでもある。
というわけで、凄いバンドだと思い、思い入れも少なからず無いわけではないが、一緒に人生を歩んできたというわけではないし、かといって最近あらためてぐっと来る、そんなガンズのライヴを、あまり見る気もなかったのに、幸運にも見させていただくことが出来たわけですが。
こんなことを考えながら見てました。
スラッシュのギターの音。
アクセルのヴォーカルの発声。
アリーナ、スタジアムで巨大なコンサートを行うことの是非
オープニングアクトと、大きなステージに立つことの意義
そんでもって、それとは別に印象に残ったのは下記の点でした。
Richard Fortusのギターサウンド。
ステージ後方で踊っていたMelissa Reeseというか初音ミク。
2017年という時代と観客の皆様。
そんなところでしょうかね。
時代ということについて言えば、こうして半分オリジナルで再結成したGuns N Roses。
アクセル・ローズはご存知のとおり、別人のような太ったルックスになっておりますし。長い沈黙の後の”Chinese Democracy”、そしてそこからまた10年近く経ってのこの再結成ツアー。
しかし、いろいろなバンドがそうであるように、レコードとか創作とかはともかく、そんでルックスや時代の猥雑さや混乱はともかく、純粋にショウとしては、純粋に演奏としては、たとえば1992年のGunsよりも、今この2017年のGunsの方がきっと上でしょう。
はからずもコンサートを見た日に、その91年だか92年だかのコンサートを見た、という方とお話する機会がありましたが、「全然エナジーが無かった」と。それはたぶんその当時のバンド内部の状況が最悪だったんだと思いますが、そういった意味でも、またメンバーそれぞれが経験を積んで成長しているという意味でも、また時代がひとめぐりして、演る方も聴く方もより色々なことがわかっているという意味でも、また音響技術の発達という意味でも、たぶん今このGuns N Rosesは、そのキャリアの中でも最高の演奏をしていることでしょう。
そうしたタイミングでSlashが戻ったこのガンズを見れたことは、ある意味「旬」だったので、幸運だったと思います。
そんでもって、前にも書きましたが、俺にとってGunsは他でもないアクセルなので、アクセル、たとえ太って、ちょっと丸っこいかわいらしい体形になっちゃったとしても、全盛期と変わらないのは、その声、それから、巨大スクリーンにアップで映し出される時の、青い瞳。そこだけは変わらないというか、それで十分というか。
そんでもってスラッシュのギターの音ですね。
今となっては「レスポール」というものに自分なりのこだわりが出来てしまった私としては。そして「世の中に出回っているレスポールの99%は偽物である」(Gibsonも含めて)と常々言っている私としては(汗)
そんな私の立場からすると、Slashのレスポールの音というのは、やっぱり基本的には「邪道」なわけです。
かといって、音楽というのはそんなに単純なものではなく。たとえある価値観から見て「邪道」な音であっても、Slashが素晴らしいギタリストであることに変わりない。
だから、ここ最近、あらためてGunsのアルバムを聴いていて、「ああ、やっぱりSlashってすげえギタリストだよな」「たとえ80年代のジャンキーなレスポールの音でも、そんなの関係ないよな」「やっぱこれはこれで、素晴らしいレスポールの音には違いない」と、まあギタリストの腕前とか表現に、楽器の良し悪しなんて二の次だしね、やっぱSlashのサウンド、いいんじゃねえか、とか思っていたところ。
そしてそんなSlash大先生のギターサウンドを、生で聴いた結果。(まあ、巨大なアリーナコンサートの音ではあるが)。やっぱり、ダメでした(涙)。
やっぱり俺は、このギターサウンドは、ちょっと許せない。
少なくとも、Slashが使っているあのレスポールを、俺の「猫ポール」と交換するかって言われたら、「嫌です!」って必死になって断るレベル。俺は無理、っていう。
やっぱしSlash先生が弾いているレスポールの音というのは、俺が「ダメポール」って呼んでいる、その典型的な見本であって。
特に例の、Slashの代名詞みたいになっているあの3ピーストップのやつとかね。あれがいちばん「ダメポール」だった。しかし、Slash先生は、そのギターを弾いている時がやはりいちばんかっこいいので、やはり正しい人が正しい道具を持つと、最強のコンビネーションになるのだ、としか言えない。
少なくとも、Slash先生のサウンドと、その「邪道な」レスポールの音は、Gunsn’ Rosesというバンドの音楽の中では、ばっちりなのだ。
Slashがこの日、使っていたギターで、一番いい音してるな、と個人的な尺度で思ったのは、Guildのダブルネック。あれは良い音だったと思う。それと、何かの曲でグリーンのレスポールを使っていたけれど、あれも良かったように思う。特定の曲で使っているB.C.Richに関しては、いかにもスルーネックといった、レンジが広く倍音豊富でガッツのある音。それは、またそれで別というか、悪くない。
しかし、そんな「ダメポール」を弾きまくるスラッシュ先生は、やはりめちゃくちゃかっこよかったので、私ごときが何の文句も言うアレではありません。
それに比して、もう一人のギタリストであるRichard Fortus氏。
見てて思い出したんだけど、ああ、そういえばこの人、Reverb.comの記事で音作りに関してデモの動画載せてたな、って。
そんなところからもわかるように、このRichard氏は、ものすごく正統的かつマニアックに、ヴィンテージサウンドを追求している人らしく。ステージにもSuproアンプとか置いてあったし。
Richard氏のギターサウンドは、最初から最後まで徹頭徹尾素晴らしかった。テレキャス持っても、レスポール持っても、全部素晴らしい。これが、あくまで「邪道な」「ルーズで毒々しい」サウンドで通すスラッシュ先生と、「タイトですがすがしい」正統的なサウンドのRichard先生が、良い対比になっていて、プレイスタイルの面でも。
で、そんなRichard氏の使っていたレスポールが、明らかにGibsonのものではなかったことが、また皮肉というか、やはり今のGibsonにはこういうのは作れんのか、という感じの。
テクニック的にもRichard Fortusは素晴らしくて、要所で決めるシュレッドは、間違いなくSlashよりも高度なテクニックを持っていることを示唆していたけれども、少なくともこのバンドにおいてはスターはあくまでSlashであって。でも、どっちにしても色々勉強になった。
そんであれだ、ショウを通じてSlash先生も弾きまくり、見せ場作りまくりだったけれど、Slashって、ブルージーで渋いプレイヤーみたいなパブリックイメージがあるけれど、こうして見ると、実際にはかなりのshredder、弾きまくりであって、テクニック的にも素晴らしいということがよくわかる。そんでもって、ほぼほぼアンプ直って感じの音で、けっこう低いゲインのままでそういうリードプレイを決めまくっているので、それは、すごいことだと思う。うーん勉強になるな。
アクセルのヴォーカルの発声。
ご存知のとおりAxl Roseはちょっと特殊な声というか、特殊な発声で歌っている。
裏声つーのかファルセットを、実声とミックスするのではなく、そのまま丸めて歪ませる、と言うのか、一般的なミックスヴォイスとは違う例のアレだ。
僕の知っている範囲だと、このスタイルで歌うシンガーは他には、AC/DCのBrian Johnsonを筆頭に(だからアクセルは代役をやったわけだ)、シンデレラのTom Keiferとか、ウド・ダークシュナイダーとか、あと誰がいたっけ。
もちろんアクセルにしたってBrian Johnsonにしたって、このスタイルでロックシンガーとして世界のトップに君臨し続けているわけだから、この発声法の有効性に疑いを差し挟む余地なんて無いんだけれども。
でもこうしてこのアリーナコンサートの(決して良いとは言えない環境の)音響で体験してみると、もちろん、その音の抜けやエキセントリックさも認めた上で、「やっぱり違うな」と感じた。それは、声の芯の部分とか、透明感の部分などにおいてかな。このタイプの発声って、音程の高さのわりには実はノドにかかる負担はわりと少ないのだけれど、だから比較的「出てあたりまえ」なところがあるので、そのぶんの安定感はあるのだけれども、それを差し引いても、この日のアクセルは、俺の目には決して「万全」という感じには見えなかった。要所要所で、ノドをかばいながら、ファルセットを歪ませずに、部分的に素のままのファルセットで歌っていたシーンが目立ったと思う。
アリーナ、スタジアムの規模の巨大なコンサートについての是非。
こんな議論は、そもそも20世紀が生み出したロックンロールという音楽の形式や様式を考える上で、ビジネス上の前提だったのだから、ほとんどの場合、議論の余地も無いことのはずだけれども、90年代が青春だった自分たち世代には、わりとこのことについて疑問を持つだけの理由があった。
これは、2013年に東京ドームでVan Halenを見た時にも、やはり頭の中では考えていたテーマでもある。
観客の皆さん。もちろん僕もこうした大きな規模のロックコンサートを見ることは決して初めてではないし、もちろんそれが20年、30年前の華やかな時代であれば、もっとやる方も見る方も若く、また同時代のギラギラした雰囲気に包まれていたはずだと思うけれども。今の時代にあって、成熟した、それでも社会に浸透したロックンロールという文化の、そして様々な理由でそのコンサートに足を運ぶたくさんの人たち。本当にいろいろな、さまざまな人たち。特に最近の国際化した世の中では、東京で行われるコンサートであっても、いろんな国から見にきているのがわかる。
こうした、様々ないろいろな人たちが集まり、見にくる、そんな巨大なコンサート。
大きなステージで、たくさんのスタッフや、ミュージシャンだけでなく様々な人たちが関わって行われるイベント。そんな巨大なコンサートがやれるのは、そんじょそこらのアーティストではとても無理であって、それは世界でも希有な伝説的なアーティストだからこそ、それがやれるのだ。そしてGunsn’ Rosesは、その中でもまさにトップ中のトップ、伝説の中の伝説だ。文字通り、世界最強のロックバンド、その数少ないひとつであることに間違いない。
Guns and Rosesはとても美しいバンドだ。
ロックンロールの負の要素。カオティックで、堕落した、危険な部分。そしてその中にある、純粋で、美しく、繊細な部分。
その両方を完璧に持っている。なんというか、典型的な、魅力的な不良というか(笑)
だからこそ世界中のキッズたちを魅了して、世界中の不良少年、不良少女たちの憧れでありスターであったわけだ。
巨大なロックンロールの悪徳を備え、そしてその中に、さらに誰よりも大きな愛を持っている。それがどうしようもないくらいに美しく、危うさや弱さを兼ね備えて、優しく美しい。
そんな世界最強に美しい完璧なロックンロールバンド。
そのGunsの、これは年月を経て再結成されたおそらくはベストなショウ。
そんな世界最強のロックンロールであるGunsをもってして、この巨大なアリーナに集まった人々に、どのように愛を伝えるのか。
もちろん、それは伝わっていた。
Gunsn’ Rosesは弱虫のバンドだ。そして泣き虫のバンドだ。不良たちのバンドだ。
だから、そんなバンドだから、そのショウは、とてもウェットで、演歌かよ、と思うくらいに感情的で、ぐしょ濡れと言っていいくらいのものだった。
だが、それは決して、俺がこれまでの人生で体験した最高のショウってわけじゃあ、ない。
これよりももっと「愛」の密度が、「ロックンロール」の密度が、もっともっと充満して、光り輝き、高密度で迫ってくる、そんなショウを、そんな体験を、俺は確かに、何度も見ている。
だから、俺にはこれが決して「最高のもの」でないことがわかるのだ。
だからこそ、俺が、たとえばこれからの人生で「愛」を伝えようとした時に、「愛」を伝えなければならないと思ったときに、
巨大なアリーナでこういうショウをやりたいかと言われたら、
やはり考え込まざるを得ない。
世界最強のGuns N Rosesでこれならば、
それ以上にやれるやつなんて、いない。
ましてや、自分にそれが出来るなんて1ミリも思わない(嗤うところです)。
「愛」を伝えようとする時。
何万人とか何十万とか集めて、いっぺんに伝える、とか、
そんな効率の良いことは、残念ながら、たぶんあり得ないのだと思う。
もちろん、ある程度は出来るし、それに意味が無いとは思わないけれども。
オープニングアクトを務めていたのは、Man with a missionというバンドさんだった。恥ずかしながら、ちゃんと見る、ちゃんと聴くのも初めてだった。
だが、ちょっと可哀相だったのは、やはり前座ゆえなのか、音響がちゃんとしていなかったことだ。
広いアリーナに鳴り響くその音は、やはりメインアクトのGunsとくらべて、音響的にあまり、きちんと処理がされていなかった。だから不利なステージだったと思う。
だからといって、肩を持つつもりはない。
彼らも今の日本のシーンを代表する、当代一流のバンドさんである。
だが、俺は、こうした前座であっても、こういったステージに立つことの意味合いを考えさせられた。
世の中のビジネス、そして音楽ビジネスも同様に、競争社会である限り、そこに立つものは、結局のところ、その大部分の者たちは、「競争のために競争をする」ことになる。
つまり、そのステージに立つため、より大きなステージに立つため、そのために音を鳴らすことになる。
この彼らにしても、その競争に勝ち残ったからこそ、この日のGunsn’ Rosesのオープニングアクトという舞台に立っているのである。
だが、そんなものを乗り越えて、「メッセージ」なんてものを放ち、そして人々に「愛」なんてものを届ける、そんな領域まで行くことが出来るのは、その「成功した勝者」の中でも、さらにトップの一握りだけだ。すなわち、そのステージに立つことは勝利ではなくスタートに過ぎず、その中でトップ中のトップだけが、「メッセージ」なんてものを人々に届けることが出来るのだ。
もちろんGunsn’ Rosesはその数少ない伝説的な「トップ中のトップ」のバンドである。世界最強である。
だから、たとえ大きなステージに立とうとも、勝ち残るための競争に勝とうとも、「トップ中のトップ」にならなければ、意味はないのだ。
であるならば、今立っているその場所で、君はどんなメッセージを伝えるか。
勝ち残り上に登るためではなく、今ここで、自分の身を投げ打つそのために。
トップ中のトップを目指すとは、そういうことではないか、皆の衆。
個人的には、そんなGuns & Roses。
14歳で”Use Your Illusion”を聴いていた自分としては、
自分たちの世代の音楽、という意味で、ぐっと来た、ぐぐっと来た。
ぐっと来る瞬間が、いっぱいあった。
個人的には序盤戦で”Double Talkin’ Jive”をやって、Slash先生が長々とソロを弾きまくっていた時点ですでにぐっと来てお腹いっぱいだった。
2時間半以上、にわたって演奏していた長いコンサートだったらしいが、「え、もう終わりかよ」と思っていた。
そんな、まちがいなく自分の思春期のサウンドトラックのひとつであり、人生のサウンドトラックのひとつである、そしてまちがいなく世界最強のロックバンドである、そんなGunsのショウを、この奇跡的なタイミングで、体験することが出来て、本当に幸せである。
ありがとうございます。