7年半ぶり、フルメンバーとしては8年半ぶり、となる+/-{plus/minus} (プラスマイナス)の来日公演が行われた。僕は名古屋公演と最終日の渋谷O-Nestにおける東京公演の2つを見た。(在来線に6時間くらい揺られて名古屋横浜間を往復、なんて、やったの何年ぶりだろう。)
これから、史上最高にいちばん長く、いちばん濃ゆい感想文を書きます。
めっちゃ長いのを書きます。
よろしく。
2007年は3月。僕はテキサス州オースティンに居た。
当時お世話になっていたプロデューサーY氏に連れて行かれた形で、人生で初めて訪れたアメリカ。そんな僕の人生初のアメリカは、SXSWでした。
そのSXSWで色々なものを見て、いろいろな体験をして、また少なからず、色々な人々に出会って。そして間違いなく、僕の人生、僕の音楽人生は変わった。
けれども、その最後の日に、この「プラスマイナス」というバンドに出会っていなかったのなら、きっと僕は、この2007年の時点で音楽を止めていただろう。(惜しかった。止めておけばよかった。苦笑。)
2007年、まだ「インディーの祭典」としての色彩が色濃く残っていたSXSWの、その最終日だったと思う。最終日の夜。営業や売り込み、コネクション作り、人との面会。一週間近くにわたるそんな活動もすべて終えて、プロデーサーY氏は、すっかり疲れたという面持ちであったが、僕は最後の日も、なるべく、夜遅くまでなるべくいろんな会場を回って、なるべくたくさんのバンドを見ておきたかった。
だってそうだろう。僕は音楽が好きで、ロックが好きだからバンドをやっている。そして、世界中から集まった、才能のある優れたバンドたちが、どんな最先端の音を作り鳴らしているのか、貪欲に見ておきたかった。そして、世界とか、本場というのか、最先端の音楽が鳴る現場を少しでも体験したかった。そしてYプロデューサーは基本的にHR/HMの人であり、80年代の人であるけれども、僕はヘヴィメタル以外にも、オルタナやパンク、インディーポップからヒップホップに至るまで大好きな人間だ。宿泊していた安モーテルにプロデューサー氏を残して、僕は一人、夜のオースティンの街に向かい、そこで最終日となるSXSWのショウケースライヴをひたすらはしごして回った。
そして、その夜の、確かにほとんど一番最後に、僕はこの+/-{plus/minus}というバンドを初めて目撃した。
彼らは当時すでに、僕の大好きな日本のバンドbloodthirsty butchersと関係が深く、何度かの来日も行い、ブッチャーズとのスプリットアルバムも出していた。だから、名前は何度か耳にしていて、良い機会だから見てみよう、と思ったのだ。
そして俺は、ぶっとんだ。
それは間違いなく、その2007年のSXSWで見た、有名無名含めて見た中で、もっともすげえ音だった。
ブッチャーズに匹敵するほどの轟音。そして、ブッチャーズを上回るダイナミズム。間違いなく美しいソングライティング。そして、鳴っている音の、ひとつひとつが、ほんのひとつひとつに至るまでが、笑っちゃうくらいに自由で、新鮮だった。
それは俺がこの2007年のSXSWで得た、最大の収穫であり、そして俺が、確かに「自分にとってのアメリカ」を見つけた瞬間だった。
いつも僕が話しているように、僕が少年の頃に憧れたアメリカは、Van Halenが豪快なハードロックを、巨大なスタジアムで鳴らしているアメリカ。
けれど僕が二度目に好きになったアメリカは、アジア系のやつらが、小さな会場で、種々雑多な音楽を鳴らしている、そんな世界だったんだ。
そして、そんなplus/minusは、皮肉なことに、もちろん本国アメリカでもインディー規模の支持は十分得ているけれども、それよりもやはり、日本で人気のあるバンドだった。それは、やはり日本には、そうした音楽を愛して、そうした音楽を支える人たちの土壌が、やはり少なからず、ある、あった、ということなのだと思う。
そして俺はそんな+/-{plus/minus}に惚れ、そして間違いなく、彼らの音の中に、未来を見つけた。そして、自分が追いかけ、追求すべき音を、見つけてしまった。
だから、何度も言うが、この2007年のSXSWに行った時、俺がもしこの+/-{plus/minus}に出会っていなければ、おそらく俺は、そのまま音楽を止めていただろう。
オースティンの夜に見たプラマイは最高に美しかった。
ちょうど、3枚目のアルバム”Let’s Build A Fire”の時期だったから、あのアルバムの開放的で南国的な、夏を思わせるサウンドが、南国オースティンの野外ベニューに気持ちよく響いて、最高の体験だった。そもそも初見だったし、記憶は曖昧だが、”Blueprint”はもちろん”Important Thing”とかもやっていた記憶がある。そして間違いなく、あの印象的な”One Day You’ll Be There”もやっていた。
そして、翌年、プラマイは4枚目のフルアルバムとなる”Xs On Your Eyes”をリリースし、その2008年にやはり渋谷Nestで行われた彼らのライヴは、おそらくきっと僕が人生で体験した中で、メジャーインディー有名無名規模の大小を問わず、もっとも感動し、もっともぶっとんだ、もっとも素晴らしいコンサートだった。そのことは、先日も書いたとおりである。今日、というか昨晩、その同じ会場である渋谷O-Nestにて、それから8年ぶりに、彼らのコンサートを見たが、俺の記憶の中にある「人生最高」は、更新されただろうか。
その結論は、これから書いていこう。
その2008年の来日があり、しかしその翌年2009年の来日は、Patrick Ramos抜きのフルメンバーではない来日だった。そして、それを最後に、プラマイの活動はスローダウンして行き、新作のリリースの音沙汰はなくなり、そして、今回の来日が実現するまで、実に7年半の歳月を待たねばならなかった。
(新作のリリースは無かったが、2009年の日本企画EP、2010年のレア曲集Pulled Punches、2011年の震災リリーフアルバムに提供された2曲、どれも素晴らしかった。それらを聴きながら、俺は自分のバンド人生を必死に歩いてきた。)
7年。8年。もうそんなにたつのか。それは、僕も先日の日記にそう驚きを記したばかりである。そして、今回の来日でも、共演の日本のバンドの人たちも、「もうそんなにたつなんて信じられない」といった発言を何度も繰り返していた。
射守家さんも言っていたように、というか、言う必要もないくらいに、その7年半の間に、様々な出来事があり、そして、吉村秀樹という不世出の偉大なロッカーが、この世を去った。7年前、そこに居たはずの、「最も頼れる男」が、すでにここには、居ない。この7年半ぶりのプラマイの来日公演は、プラマイの来日公演であるにも関わらず、そこに居たはずの吉村秀樹という男の存在を感じ、そして吉村秀樹という男の存在の大きさを、皆で確かめ合い、思い出すような、そんなイベントでもあった。
ブッチャーズの最後の2枚のアルバムは、とんでもないものだった。
何度も書いているが、俺はあの最後の2枚。そして特にあの最後の「YOUTH 青春」というラストアルバムで、ほとんど間違いなく、吉村秀樹という男は、「地球最強」の称号をもぎとっていってしまった、と思っている。そして、そのままあの世に勝ち逃げを決め込んでしまった。
そして、吉村秀樹のいなくなった世界に、残されたPlus/Minusの、ようやくリリースされた5枚目にあたる”Jumping The Tracks”が響き渡った。2014年の1月、日本盤は2月、のことだった。
変わってしまったのは、プラマイの方なのだろうか。それとも、俺自身の感性が、変わってしまったのだろうか。あるいは、世界そのものが、変わってしまったのか。
2000年代に出会ったバンドの中で最も好きなバンドであり、間違いなく、自分の人生の中でも3本の指に入るくらいに夢中になったバンドなのに、そして間違いなく、今まで、というのか、それまで、いちばんのお気に入りのバンドであったはずの、プラマイの新譜を、俺は気に入らなかった。あの時、オースティンの夜に見た、平然として、普通に余裕ぶっこいた顔をしたアジア人が、最高に鋭く尖った、世界でもっとも先を行く音を鳴らしていた、その切れ味鋭く、最高に美しいプラマイ。けれど、吉村秀樹がいなくなり、何年もの、ほとんど活動が停止したような期間を経て、彼らから届いた久しぶりの音源には、かつてのそのような切れ味は、感じられなかった。いや、相変わらず鋭く、力強く、そして美しかったが、それが真実に美しかったからこそ、俺は彼らが行き着くところまで行ってしまったことを実感し、つまりは、これが彼らにとっての限界であることが、痛いほどに理解できて、余計に涙が出てしまった。
つまり、長い旅路を経て、人生の旅路、すなわち、家庭を持ったり子供が出来たり離婚したり、そうしたあたりまえのことも経た上で、そしてきっといくつかの挫折や失望も経た上で、長い音楽の旅を歩いてきた彼らの、これは「最涯ての音」なのだ。
ここまで来た彼らに、そして音楽人生における「最涯て」に辿り着いてしまった彼らに対して、俺はこれ以上を、期待はしない。それはとても残酷なことだからだ。だけれども、言ってしまったな。「音楽を作り続けろ」「ブッチャーズを越えるものを作れ」と。うっかり口がすべって、言ってしまった。
だから今回、俺が7年半ぶりに+/-{plus/minus}を見に来たのは、そんな彼らの、限界を見届けるためだった。おそらくはこれ以上は無理なんだろうなというところの、彼らの最後の、「最涯て」を見届け、その「骨を拾う」ためだった。
変わってしまったのは、俺なのか、彼らなのか、それとも世界そのものなのか。
彼らの素晴らしい来日公演を見た2008年。そして2009年。
俺にとっては、自分のバンドであるImari Tones (伊万里音色)が、「クリスチャンロック」「クリスチャンメタル」なんてことを言い出して、そして現メンバーになって、初めてのアメリカ遠征を経験して、そして現メンバーでの最初の作品であるところの”Victory In Christ”を作る前のことである。
“Victory In Christ”を録音制作したのは、その2009年の暮れから、2010年の初頭にかけてのことである。その間、スタジオに向かう道すがら、プラマイの”Thrown Into The Fire”のEPを聞いていたことを思い出す。
誰も言ってくれないし、気付く由も無いのだけれど、その俺たちのアルバム”Victory In Christ”のソングライティングには、この+/-{plus/minus}の影響が、非常に強く出ている。似たような方法論を取り入れたとしても、それがオルタナやポストロックではなく、ハードロック、ヘヴィメタルの文脈とサウンドの中で鳴らされると、また違ったものになるからだろう。見も蓋も無いことを言えば、ファッション的にも、客層的にも違ってくる。そして、案外とファッションが違えば、それは「違うもの」と、ほとんどの人はそう認識する。
俺がこの自分のバンド伊万里音色を立ち上げるにあたっては、もっとも尊敬する大好きなVan Halen、そしてEddie Van Halenが1998年のアルバムで画期的な方向性を示しながらも商業的、世の中的に失敗したことを受け、「その先を鳴らしたい」という気持ちが強かったことは、何人かの友人には話しているが、その他に目指すものがあったとすれば、このplus/minusの世界観と方向性こそが、俺にとってはそれだった。ただ、たった今書いたように、それをヘヴィメタルの文脈の中でやっているので、誰も気付いてくれない、だけである。
とにもかくにも。
プラスマイナスに出会って、彼らの素晴らしい2008年の来日公演を見てから。
俺は、俺たちは、4度にわたるアメリカ遠征を経て、その中でThe Extreme Tourを含む色々な様々な熱い場所、熱い体験、熱い戦いを経て。その後、今度は逆にアメリカからクリスチャンのバンドを招いて共に日本で草の根ミッショナリーツアーをやるというThe Extreme Tour Japanを4度行い。それが確かに、8年。そして、それがどれだけ熱いものだったのかは。そして、その間に、俺たちがどこまで、音楽的に先へ進み、自分たちの進む道や、自分たちの鳴らすべき音を見つけていったのかは。
そして特にその後半の4年間。この日本において、アメリカ、カナダ、そしてチリから、バンドを招きつつも、この日本において、どれだけ熱く、かけがえのない友人たち、仲間たち、そして同志と呼べるクリスチャンロッカーたちと出会い、共に研鑽してきたのか。そして関わってくれたすべての人々や、聴いてくれた聴衆の皆さんと、どれだけの魂の交流があったのか。その熱い時間は。
とても数値にして説明できるようなものじゃない。
そして、俺は、プラマイ的な影響が色濃く表れたたぶん最後の作品である”Revive The World”を作り上げただけでなく、きっと生涯作れないだろうと思っていた歴史ものコンセプトアルバム”Jesus Wind”(仮タイトル。変えるかも。)を昨年完成させ、今年なんとしても発表するつもりだけれど。そして人生の究極の到達点である「鍋島」を、ついに視界の中に捉えた。その「鍋島」の音世界は、すでにプラマイの影響がどう、ということは既に、それとはまったく違ったものになっているだろう。
この4年間。吉村氏がこの世を去ってからの4年。そしてプラマイの「最涯て」のアルバムである”Jumping The Tracks”が届いてからの3年。それだけの間にも、俺はどれだけのものを見つけ、どれだけ変わってきただろう。
だから、James Baluyutに話しかけた時、ぎらぎらした視線だけは未だに目つきが悪いままの俺かもしれないが、当然のことながら俺は8年前の俺ではないし、そして半年前の自分さえも、すでにここには居ない。
8年前の俺も、確かにブルーズにはそれなりに傾倒していたけれども、それは今のようにまだPeter Greenという一人のギタリストにぞっこん惚れる前のことだった。
自分はXTJ (The Extreme Tour Japan)をやるようになった後に、ギターというものについての価値観がまったくひっくりかえるほど変わり、ついに自分の人生におけるエレクトリックギターというものの答を見つけたが、8年前の俺は、まさか自分が、自分の究極のギターとしてレスポール(日本製)を選ぶなんて、夢にも思っていなかった。
8年前の俺は、自分が「雲井調子」とか「古今調子」とかみたいな、和風のお琴スケールを、実際に楽曲に取り入れて作曲をするようになるとか思っていなかった。
そして当然のことだが、シンガーとしてもギタリストとしても、俺は8年前よりも、よほど上達したし、ライヴの場における「戦い」は、あれから比べれば圧倒的に経験し、自分の人生の中における戦いに、間違いなく勝ち抜いてきた。
自分の進むべき答を、見つけてきたということだ。
そしてその「答」は、今この瞬間も、否応無いくらいに、神から示され、突き付けられている。
「ははは、俺が音楽やるのも、これが最後だな。よし、よくがんばってきたな、俺。」
と思っている矢先、神からメッセージが届く。
「ここまでは遊びだったのだ。お前はこれからやっと、本格的に音楽に取り組むのだ。」
と。
無茶いってんじゃねーよ、神。
俺は、2014年初頭に出たプラマイの現時点での最新作「Jumping The Tracks」は、素晴らしいアルバムだと思うし、ものすごく美しいと思うし、実際に好きでたくさん聴いたし、今でも聴いているし、プラマイらしいアルバムだと思うけれど、けれども、俺は正直、満足はしていないし、正直、「ぬるい」アルバムだと思っている。
だから、今の俺にとっては、プラマイは、「ぬるい」のだ。
そして、自分自身がそう感じてしまうことは、何より、誰より、俺自身が、いちばん悲しく、切なく思っていることなのだ。
つまり、俺は、あれほど好きだった、あれほど「そこに行きたい」と思っていた、美しく、心地よい、プラマイの音世界に、「もうこれ以上、浸ってはいられない」のだから。
そういうことなのだ。
これ以上、ここに止まり、この音世界の中に、浸っていてはいけないのだ。
俺には、目指さなくてはいけない場所が、鳴らさなくてはいけない音が、もっと違う場所に、あるのだから。
それが「どの場所」なのか、それはまだ、分からない。
でも、音はすでに、聴こえている。
その音に導かれて、その音を辿って、これからの人生を歩いていくことになる。
だから、誤解を恐れず、有り体に言えば、今回の、この奇跡的に実現した7年半ぶりのプラマイの来日公演、俺は、あれほど大好きだったプラマイに「さよなら」を言うために、俺自身がプラマイを「卒業」するために、そのために俺は、彼らを目撃しに来たのだ。それは、彼らの音世界に憧れて歩き続けてきた自分自身の過去の日々に、さよならを告げるために。そして彼らの「最涯ての音」を、この目で、ライヴで、見届ける必要があったのだ。
だからこそ、複数回の公演を見ておきたいと思い、初日の六本木が自分らのCalling Recordsのイベントと重なっていたからして、わざわざ名古屋まで各駅停車を乗り継いで行ったのである。
名古屋まで行った甲斐があったのは、名古屋今池Huck Finnは、本当に小さなライヴハウスであったが、小松さんのバンドが共演だったので、小松さんのドラム飛び入りでの「Jack Nicolson」を聴けたということである。あれは間違いなく、ハイライトだった。最終日の渋谷でも、射守家さんとひさ子さんが飛び入りしての「Jack Nicolson」および、ひさ子さんバージョンの「Waking Up Is Hard To Do」が聴けたが、ブッチャーズの特異な点として、射守家さんのベースはグルーヴをあまり担当していないので、グルーヴや音の推進力という意味では、小松さんがいかに大きな役割と果たしていたのかが逆によく分かった。
今回、良かった点のひとつは、まあ俺はToddleは見逃したけれど、小松さん、射守家さんのユニットがそれぞれ見れたので、ブッチャーズの全体ではなく、パーツとしてのプレイヤーとしての小松さん射守家さんの特色が単体でよく聴けたということである。ブッチャーズのメンバーのうち、言わずもがなリードギタリストとして華のある存在であるひさ子さんは別の話として、技術的に実はいちばん優れていた、というかプレイヤーとしていちばんまともだったのはドラマーの小松さんであると思うが、ブッチャーズは、プラマイと違って、吉村氏が不器用だからか、あるいは頑固に意固地だったからか、変拍子はほとんど取り入れていなかった。けれども、今の小松さんのユニットは、小松さんのドラマーとしての力量や特色を最大限生かす形で、楽曲が書かれ、最大限生かす編成、形態になっている。ギターの女性の方も、そういった小松さんのドラマーの力量、ブッチャーズではほとんど無かった変拍子やプログレ的な展開も含め、小松さんの力量が十二分に生きる形で作曲や音を作れる方で、才能があるなと思ったが、やはりそうは言っても、プレイヤーとして、サウンドそのもので小松さんを凌駕するくらいであって欲しい、と思うのは欲張り過ぎだろうか。つまり、こんなに強く鋭く大きな音が鳴らせる小松さんだが、ブッチャーズでは、それ以上に、吉村秀樹の音は、強く、でかく、うるさかったのである。
そして射守家さんのユニットにおいては、やはり射守家さんの特異な立ち位置というか、ブッチャーズの意味のわからん分厚く複雑で絵の具をまき散らしたような色彩感の和音は、吉村さんがギターで意味のわからんコードを鳴らしていたのはもちろんだが、その他にも、実は半分くらいは、射守家さんがベースで鳴らしていたのだな、意味のわからん和音を、というのが実感できた。そしてリードベースと言えるくらいに、上の方で色々やっていたんだな、と。そんで逆に、一般的なベースの役割というようなリズムやグルーヴは、やはりあんまりブッチャーズにおいては射守家さんは担当してなかったんだな、そのぶん、小松さんががんばって叩いていたんだな、ということが、よく分かった。
あとは、ステージ上では非常に強そうで怖そうで男らしい射守家さんが、in personで見ると、意外なほどに小柄な人だったことに、今回本当に驚かされた。でも、あの労働者的なルックスとヴァイブは、本当に素敵である。
もう一度言うが、+/-{plus/minus}は2000年代に出会った、俺のいちばん好きな、お気に入りのバンドだし、彼らに2007年に出会っていなければ、俺は音楽をその時にきっと止めていたし、つまりはその後のクリスチャンバンドとしてのImari Tonesもきっと彼らに出会っていなければ存在しなかった。
だけれども、俺がここ数年というか、震災の後になってから聞き出して好きになったバンドの中に、これも古いバンドだが(1970、80、90年代)XTCというバンドがいるが、XTCなんつったって、これも偉大なバンドだし、決して商業的に大きな成功は収めていないバンドであっても、偉大なカルトバンドとして、世界中のミュージシャンに影響を与えたし、言うまでもなく+/-{plus/minus}だって、そう言われてみるとプラスマイナスってちょっとバンド名を傾けてみるとXTCみたいになるし、もちろん影響を受けてないなんて言わせない、って感じだけれど。
最初、XTCを聴き始めた頃には、俺の中ではプラマイの方が上って感じだったけれど、何枚も作品を聴き進めて、聴き込んでくると、やはりこの偉大なるXTC、その凄さは、いつのまにか俺の中での序列は、プラマイよりもXTCの方が上になっている、そのことに、ふと気付かされた。
たったそれだけの事でも、俺の中では、やはりこの何年もの年月の中で、色々なことが変わっているのだ。
最終日の渋谷公演は、共演のMoolsも、やはり久しぶりに拝見して、ああ、こんなに真面目な(ステージングはこれ以上ないくらい不真面目だが)ファンクバンドだったんだな、と、改めて感銘を受けると同時に、謎の「ゴスペル」発言をして、プラマイをゴスペルバンド扱いして、神に感謝、とかニューヨークのチャペルでコンサート、とか発言していて、実際にゴスペルバンドやってニューヨークのチャペルでコンサートもやったことのある俺としては非常にこの展開に困惑したのだが(笑)
しかしインターネット上での情報の拡散もあるし、こういうふうによくわからんところで「ゴスペル」発言が広がるのも、たとえばこれも俺たちが8年間「クリスチャンロック」やってきたことの影響と言えるのだろうか(笑)
そのゴスペル発言を受けて、ってわけじゃないだろうが、この最終日のプラマイの姿は、サポートの長兄リチャードの服装がなんだか修道士のような着こなしだったり、あとは先日「沈黙」の映画を見た後だからかもしれないが、くるくるの長髪に、東南アジア系の顔をしたプラマイの面々が、ちょうどフィリピンとか、確かに当時の「南蛮」だし、まるでその「南蛮」からやってきた修道士だか宣教師のように見えてきた。
8年前、俺はやっぱりクリスチャンロックを始めたばかりの頃だったから妙にその話題に燃えていて(笑)、James Baluyutともそういう話をしてしまったことがあるが、彼らはやはりフィリピン系ということもあり、「家庭が、母親がそうだったから」という理由で子供の頃に普通にカトリックの洗礼は受けているといったようなことを言っていた。(Queen of Detroitという曲からもわかるように)マザコン気味な気配を感じるJamesは当然として、長兄リチャードもきっとそうなのだろう。だから、その意味では確かに「南蛮からの修道士」で間違いない。
そう、確かに彼らは「宣教師」だった。
遠くニューヨークはブルックリンの地から、この日本に、最新最先端のインディロックという福音を伝えるため、やってきた宣教師だった。
そして彼らの音楽は商業メインストリーム音楽に支配された本国よりも、こうして不思議な形で、おしゃれ系インディを愛する人々の多く住む日本で、受け入れられ、そして、bloodthirsty butchers吉村秀樹という一人の偉大なロッカーとの熱い魂の交流を経て、ここに、世界のどこにも無い、もっとも純粋で、もっとも熱いロックの魂の交流が行われた。これは、ロックの歴史の中でも、間違いなくもっとも美しく、奇跡的な出来事だ。
そして、その現場に、確かに俺も居た。
非常に美しい、まさにロックの神の導きとしか言いようのないことだ。
最近ちょっと、「沈黙」をきっかけに遠藤周作を読んでいることもあって、だからってわけじゃないし、うまく説明ができないが、今俺たちが居る、そして俺たちがこれまで生きてきた時代が、そのロックの時代が、20世紀の商業ロックがあり、その果てに鳴り響いた、俺たち世代だけが見つけ、信じることのできた「最涯て」のインディロックが。そのあまりにもかけがえのないロックの時代の奇跡に。そこに確かに、俺たちは生きていて、人々が生きていて、そして、そこに確かに神が居る、キリストが居る、とそう実感した時に、なんだか涙があふれて止まらなかった。
そしてさっきから何度も書いているように、そんな彼らの鳴らした「最涯ての音」によって、確かに俺は導かれ、救われたのだ。(彼らに出会ったことによって、音楽をやめずに続けて、その結果音楽に導かれて神を信じるに至り、クリスチャンロックを始めたとか、そう言えば、文字通りの意味で、「救われた」のだよな。)
そんで、結果としてそんな彼らの「熱量」と「最先端」とその影響を、俺は自分らの活動を通じて、この狭くて小さな日本の「クリスチャンミュージック」の世界に、きっと持ち込んだはずだ。そして、あるいはThe Extreme Tourなどなどを通じて、本国アメリカのクリスチャンシーンにも伝えたはずだ。その熱は、共に活動している仲間たちには、きっと伝わっているだろう。
世界、そんでアメリカの音楽シーンも、多様で裾野が広いのは承知しているが、新しいもの、新しいスタイルが生まれる時、それがメジャーのマーケティングを通じて大衆に届くのは、ほとんどの場合、そのスタイルが何度かコピーされ、薄められ、一般化した後の事だ。それが現代社会の音楽シーンの現実だ。だからこそ、本物のオリジナリティを持つ、コピーではない「源泉」に出会った時、たとえそれが商業フォーマットに乗っからないものであったとしても、それは非常に美しく、貴重な体験となる。プラマイは、まさにそんなバンドだった。
そんな「世界最先端」を鳴らしていた、そして、未だに彼ら以上に先を鳴らした者は居ない、そう、「吉村秀樹」ただ一人を除いては。
そんな「もっとも先」を鳴らしていたはずの、彼ら+/-{plus/minus}。そんな彼らの辿り着いた「最涯ての音」。つまり、すなわち、「ああ、彼らも、これで限界なんだろうな」ということを実感させる今の彼らの音。
そして、たとえアルバムの内容に俺は満足していなくても、そして、「ぬるい演奏しやがったら許さない」と思っていたが、彼らは決してやはり、ぬるい演奏はしなかった。あのとんでもない熱量。クリスの化け物のようなドラミング(と酒量)。あまりにも連日ショウが組まれていたのでやはり最終日にはJamesは声を痛めていたが、それに比して、よりハードにレンジの広いスタイルで歌うPatrickの声は大丈夫だったのはさすがとしか言いようがないが。そしてとんでもない圧のギターサウンド。そして美しい轟音。
プラマイはやはり、「世界でもっとも美しい轟音」を鳴らすバンドということで間違いない。その轟音の迫力や、根性や、情念においてはブッチャーズが勝るだろうけれども、「美しさ」という点ではやはりプラマイの方が上だ。世界でもっとも美しい轟音、プラマイ。
そんな彼らは、やはり、手を抜いて演奏なんてしていなかった。
さすがだった。
だから、あのアルバムも、彼らは、手を抜いて作ったわけでは決してないのだ。
彼らは、手を抜いてなんかいないのだ。
変わったとすれば、それは、俺の方なのだ。
だから、+/-{plus/minus}は、21世紀になってから出会った、俺にとってのもっとも大好きなお気に入りのバンドであった。
けれど、それも、昨日までのことだ。
自分の中の、本当に大好きだったプラマイと、プラマイを大好きだった過去の自分と、その生きてきた日々に、俺はさよならを言った。
最高のショウだった。
Young Onceは鮮烈に美しく、壮絶に勇壮だった。
Bitterest Pillで様々のことを思い出し、泣けてしまった。
Important Thing Is To Loveでやっぱり思い出して泣いた。
Megalomaniacはやはり美しかった。いちばん好きな曲だった。
これ以上の「最涯て」を鳴らせるバンドなど、有名無名を問わず、地球上にそうそう居まい。
けれども、今の俺にははっきりと、「もっと上」があるのだ。
そして「もっと先」が見えているのだ。
それが何なのか、俺だけしか知らないし、俺は今日のこの日に対しても、責任を持ってこれからを生きねばならない。
かけがえのない、「奇跡の時代」を、俺は生きてきたのだから。
。。。
。。。
お節介なのか。
偉そうなのか。
最先端の「宣教師たち」に対しても、あくまで上から目線なのか。
あるいは単純に、口が減らないのか。
名古屋のショウの際に話したガールフレンドさんから、うっかり聞いて知ってしまったJamesの私生活のあれこれ。個人的にはショックだったり。
今回は持ってきていなかったが、ずっと愛用している彼のジャズマスター、聞いてみたら’64年(って言ってたと思う)のヴィンテージらしい。
とか。
やめておこうとよくよく思っていたのだが。
言ってしまえばそれは残酷だから。
けれど、やはり伝えた。
「俺はブッチャーズもプラマイも大好きで両方聴いてきた。
音楽的にはいつでも、プラマイの方が一歩か二歩、先を行っていたと思っている。
けれども、最後の二枚、No AlbumおよびYouth、吉村秀樹の最後の二枚。
あれで、ブッチャーズはプラマイを追い越して先へ行ってしまった。
お前は、あれを越せるものを作れると思うか。」
とか。
そして、ついつい。
Keep making music.
って言ってしまった。
残酷で、無責任な言葉。
でも、そうだ。
俺もかつて、2007年に。
彼らに出会ったからこそ、その時、音楽をやめなかった。
そんで、せっかく音楽をやめられそうだったのに、続ける羽目になった。
結果は、見てのとおり、大変な人生だ。
だから、その仕返しに、いっぺんそれくらい、言ってやる資格は、きっとあるだろう。
無理かもしれん。
無理は承知だ。
でも、越えてみせてくれ。
その時には、また、夢中にさせてくれ。
君らは、地球上でもっとも、才能のあるミュージシャンに、違いないのだから。