読書感想文を書かねばならないと思っていたのである。
といっても石川ヨナのStart Againはまだ読んでない。嫁さんはもう下巻とか読んでるみたいだから感想を聞いてみたいところであるが、私は遠藤周作の感想文を書きたいのである。
先月、たぶん僕はちょっとした音楽的アンド宗教的体験をした。
そんなことを言ったら昨日、逗子の教会で斧寺カズトシ氏の「Lord Runners」の教会コンサート、アンド、アーサー・ホーランド氏のメッセージを聴いたことも十分に印象的な「音楽的アンド宗教的」な体験であったが。
私が先月体験したのは、ちょうど7年半ぶりに来日した+/-{plus/minus} (プラスマイナス)のコンサートを見たこと、それが、bloodthirsty butchers吉村秀樹氏が亡くなって以来のことであったこと、そこから自分がずっとやってきたXTJなどのこと、自分がこれから取り組まなければならない「鍋島」のこと、そこにさらに、ちょうどXTCをいっぱい聴いていたこと、そこに更にもってきてちょうど遠藤周作を読んでいたこと、が重なって、自分にとってはやたらめったら「おおこれぞ神の啓示」くらいの宗教的かつ芸術的な体験になってしまった(笑)
もちろん遠藤周作を読んでいたのは、この前、マーティン・スコセッシの映画である「沈黙」が話題になっていたことがきっかけではある。けれどもなんだかしらんけれど大学の一般教養で宗教学の授業で読まされたことがあって、本棚には未だに「死海のほとり」と「イエスの生涯」があったので、内容はほぼ忘れていたけれど、ちょうどいい機会だから読んでみよう、と思ったのであった。
まずは「沈黙」について書くのであれば、まぁ映画の感想は前に少し違った文脈の中で書いたけれども、もちろんのこと、あの小説および映画については、様々な賛否両論の意見がある。特に、クリスチャンの人たちの中には余計に賛否両論が激しい。それは信仰ってものについて真剣なわけだから当然過ぎるほど当然のことだ。
見ていて面白かったのは、それら賛否両論で色々な人が色々な事を言っている、それ自体もとても面白いことであったけれど(不謹慎だが)、当然ながらその人ごとに視点や立場が表れるので、その感想を述べる人自身について色々なことがわかるのも面白いことだった。
けれども、あの「沈黙」という小説および映画について一番凄いな、と思ったのは、たとえどんな意見や感想を持ったとしても、賛否のどっちであったとしても、あの作品に触れることで、それぞれが霊的に成長を遂げることである。
映画を良いと思った人も、良くないと思った人も、どっちも等しく、何かを得ているのである。
たとえばRGPっぽく言うなら、霊的レベル(スピリチュアルレベル)が2の人は、「なにこれ怖いー」と当惑してレベルが3に上がり、霊的レベルが5の人は「感動したー」と言ってレベルが6に上がり、霊的レベルが10の人は「こんなのは本当のキリストじゃない」と批判してレベルが11に上がり、霊的レベルが15の人は「素晴らしい」と賞賛してレベルが16に上がるのである。
え、僕? 僕くらいになると、作者と魂の交流が出来るのだよ、そしてレベルが20から21に上がったのさー、ははは・・・。
その作品が投げかける題材に向き合うことによって、その作品に触れた人が、たとえどんな意見や感想を持ったとしても、それぞれに霊的、精神的に向上する。こんな作品はまさに「文化財」であり、そんな作品を書くことのできる作家はまさに「国の宝」であり「人類の宝」である。そして、優れた作品というものは、きっとそういうものなのだろう。
だからこそ、この「沈黙」についても、それぞれの人が、それぞれの立場から、色々な感想や意見を持ったとしても、それはすべて間違っていないのである。どんな感想を持ったとしても、それは正しいのである。そしてそれはそれぞれが、世界と人類の発展と向上につながっていくのだ。それはとんでもなく凄えことだと思う。
そんでもって、その「沈黙」の小説と映画の後に、私はそれらの音楽的な体験と重ねながら、ここのところ一ヶ月くらいの間に、「死海のほとり」、「イエスの生涯」、「キリストの誕生」、「スキャンダル」、「深い河」と読んでみたのである。ひとまず。「スキャンダル」については、昨年の秋頃に、近所のスノッブな古本屋さんで、帯に書いてあった「悪に救いはあるのか」というあおり文句があまりにもヘヴィメタル的でツボにはまったためついつい買い込んだものである。
もちろん「沈黙」を読んだ時からわかってはいたが、遠藤周作氏は、その表現の質というのか突き詰め方が、非常にヘヴィメタル的な作家さんである。というか、僕の感覚からすると、本当にもうヘヴィメタル以外の何者でもない。遠藤周作はヘヴィメタルである。(奇しくも「深い河」の解説に遠藤周作と三島由紀夫がサド論で意気投合していた、というエピソードが書いてあったが、そういったところにもヘヴィメタルを感じるのは僕だけではないだろう。)
だから、一応にもクリスチャンヘヴィメタルをやっている僕としては、こんなにも偉大な、分野は文学ではあるけれど、日本人キリスト教徒のヘヴィメタルのアーティストに出会うことが出来て、本当に衝撃的に感動を覚えているのである。文学というのは、ここまでやれるのか、ここまで高度な表現が可能なのか、全然知らんかった、という感じである。
ちなみにこれもまださらっとしか読んでないがこの「スキャンダル」という本のさっくり感想から行くとすれば、まずはこの本も非常に重層的である。なんというか、今のところ読んでみたこの5、6冊の遠藤周作作品を読んでみて、どの作品も、表現内容や、作品の構成そのものが、重層的になっていて、幾重にも重なっている。そんでもってこの「スキャンダル」という作品もやはりその例外ではなかった。
だから、表面だけ読んでみれば「これのいったい何が面白いの」というような内容かもしれない。が、その中にはいくつもの、本当にいくつもの作家の意図というものが、隠されている。
だから5、6冊読んでみて、この点について言えばやはり「イエスの生涯」「キリストの誕生」は特にその傾向が顕著だったと思うが、表面的に進行していく物語、お話の中で、その裏に、というか、その上に、上のレイヤーで、霊的なレイヤーでは、それとはまったく違った物語が展開していくのである。
だから、一般的にはキリスト教の世界では、遠藤周作はイエス・キリストの奇跡であるとか復活を否定している、と言われているけれども、僕に言わせれば「いったいどこを読んでいるんだ」と言うことになる。「むしろ奇跡しか起きてないじゃんよ」みたいな。
いいか、遠藤周作さんは作家である。つまりは文章を書く人間である。
いつも聖書を読む時に思うけれども、僕たちは学校の授業であっても、小説を読む時、その意味を読み取るために、行間を読むということを習ったはずだ。それはつまり、夏目漱石を読む時だってそうである。そして、優れた作家と言われる人ほど、その行間に含まれる情報は深く、豊かなのだ。では、聖書を書いたのは誰か、それは神である。では、夏目漱石と、神と、どちらが優れた作家なのか。それは夏目漱石先生本人に聞いてみたらいいかもしれないが、それはもちろん圧倒的に神の方が優れているに決まっているじゃないか。だからこそ、聖書なんていうあらゆる意味で圧倒的な書物の、行間を読み解くなんてことが、果たしてどれだけ出来るものか。
遠藤周作さんは、そうした行間どころか、作品そのものを巨大な重層構造として、幾重にも響くシンフォニーのように多次元構造として織り上げていくことが出来る、そんなすさまじい力を持った作家さんだ。
そんな最強の天才作家、遠藤周作をもってして、「神に挑む」時、それはやはり圧倒的に多次元構造を持った作品にならざるを得ない。
話がそれたが、この「スキャンダル」という、おそらくは特段に代表作でもなく、遠藤氏のキャリアの中でもそれほど注目されない作品の中のひとつであろうと思うが、その作品ひとつをとってみても、誠に圧倒的なのだ。
さっきも書いたように普通に表面的に読めば、「どこがおもしろいのか」と言うような内容だと思う。老いた作家が、人並みにちょっとしたスキャンダルに巻き込まれるだけの話である。だが、そこに織り込まれた幾重ものトリックは、圧倒的としか言いようがない。
もちろんきちんと読み解いて感想を書いていけば非常に長くなるだろうけれども、簡潔に読んだとしても、これは遠藤周作氏が、作家として晩年を迎えるにあたって、その時点でこんなものを書いておくという、その作家性というか、作家としての執念というか、執念にも似たエゴ、強大なアーティストエゴというものを感じて、僕としては圧倒させられざるを得ない。もちろんそれは、次に人生最後の大作におそらくは取り掛かるのだ、というタイミングで書かれたものだからだろう。
そして、これは、現代において、あるいは過去においてもそうであったかもしれないが、少なくとも現代に生きる人間として、神を語る人間として、ひとつ、やっておかねばならないことを、きちんと晩年の死ぬ前にやってのけているではないか。「スキャンダル」というタイトルの、そのままスキャンダラスな内容がどんなものであったにせよ、読者は知らない間に、その作者の意図に乗せられてしまうに違いない。釈迦の手のひらの孫悟空というか、世界の果てに辿り着いたと思ったらそれは作者の作った箱庭だった的な。
そしてひとつだけ言えば、まぁ帯のあおり文句は出版社とかが書いたものなんだろうけれども、「悪に救済はあるのか」と帯の文句に関しても、「ほへー」と読み流しているうちに、文中ではちっとももちろん明示はされていないけれども、いつのまにか答えが出てしまうではないか。恐るべき手腕である。
少なくとも、僕は読み終えた時に、なんかしらんけれどいつのまにか「悪」というものの存在について自分なりの解答を得てしまった。その解答は個人のものであるからいちいち書いてシェアするつもりはない。けれどもやっぱりちょっとだけ書くと、ワンセンテンスで、悪とは生きていく上での強さおよび弱さのことなのだと、僕はそう理解していた。そして、その時、悪という存在そのものが無かったことに気付いてしまったのだ。だから、少なくとも、神の視点より見て、悪というものがそもそも存在しなかった以上、その救済というものも問題にならない。存在し、また問題になるのは罪の救済だけである。そしてでは遠藤氏はこの主人公の作家(遠藤氏本人とは誰も言ってない)について、弱者として描きたかったのか、それとも強者として描きたかったのか。これはもちろんどっちの解釈も可能であり、またそれは同時に裏表の関係でもあるが、僕の考えでは遠藤氏はこの本人の投影たる作家を「強者」として描く意図の方が強かったのでないかと推測している。理由は聞くな、つらいから。
現に遠藤氏はこの物語の中で主人公の作家のことを、矮小化して描くことで、かえってその「強さ」たる悪を際立たせることに成功しているではないか。遠藤氏は決して、性に関して本質的に避けて通ってきたような作家さんではない。(それくらいはわかる。) それなのに、また上品な文体のままで、また本人はもっときっとエグく書きたいだろうに、このような一般的な内容と筆致のままで、ここまでの生の「強さ」を描くことが出来るとは、プロフェッショナルの物書きというものの力量を見せつけられる思いだ。
そしてこのちょっとした作品においても、やはり奇跡、そして「復活」というものは、しっかりと描かれているではないか。そしてまたも、読者はキリストの十字架を、また違った角度から、再体験させられる。そんでここにもやっぱり、しっかりと「復活」が描き出されている。幾重にも重なったテーマの中で。
僕は既にソングライティングは終わっているところの「鍋島」の、最後を「宴」という曲で締めくくる予定でいるけれども、僕がその曲でやりたかったことも、かなりの部分は、遠藤氏が「スキャンダル」でやりたかったこととかぶっているかもしれない。それはもちろん、「死」というテーマであることは明白だ。もちろん、ロックミュージックの持つ情報量は、概念としては小説よりも少ない、良く言えばコンパクト、であるけれども。(だが体感としての肉体的な情報は、より多い。)
前菜のつもりで書いた「スキャンダル」の感想だけでも本が書けるほどに長くなってしまいそうだ。
だからここで投げ出して次を書くけれども。
別に昔から公言しているから言ったって構わないけれども、僕はリチャード・バックの小説に昔から結構好きで影響を受けている。
けれどもこれは、面白いことに、敬愛するクリスチャンロッカーの先輩の一人が、実は同じようにリチャード・バックのことを好きであるらしいので、ということはこれは決して偶然ではない。
僕は、高校2年生の時、たまたまその本を手に取り、それはつまり、「イリュージョン」という本である。原題はIllusions、と複数形だったと思うが、17歳の僕が手に取って読んだのは、例の、「好きなことを好きなようにやれ」と書いてあるこの本の内容の通りに、「じゃあ本当に好き勝手にやらせてもらう」と、翻訳を担当した村上龍が、かなり内容を改変してしまった、という伝説的な一冊である。まあそりゃリチャード・バックとしても文句は言えまい。
で、その改変っぷりがあまりに原作とかけ離れていたがために、その後、もうちょっとまともな訳のバージョンが出版されていたので、そっちも読んでみたけれども、英語版も手に入れていたので比べてみたら、そっちの後から出たまともな訳バージョンの方も、結構翻訳間違いまくっていた(笑) ので、だったら村上龍バージョンの方がまだマシじゃないかな、みたいな。その後、さらに新たなバージョンが出版されているかどうかは知らん。
とにもかくにも、それ以降、僕は結構リチャード・バックを読んできた。
僕は、少年時代はともかくも、大人になってからは、本なんてものは余り読まない人生をやってきた。文字よりも、音楽から得られる情報の方がはるかに多かったからだ。だから、そんな中ではリチャード・バックは、間違いなく読んだ方の作家になると思う。
で、この歳になってようやく出会った遠藤周作は、このリチャード・バックに17歳で出会った時に劣らないくらいの、いや、たぶんそれ以上の衝撃的な出会いだったと思う。
そんでもって、俺にとってみれば、それは、リチャード・バックが「基本」だとすれば、遠藤周作は、「応用、実践編」という感じではないか。あ、これ、話の続きだ、みたいな。この歳になって、やっと続きが読めた、みたいな感じ。
一般的にはリチャード・バックは、ちょっとしたスピリチュアル系の作家と分類されるだろうと思うけれども、読んでみると、遠藤周作も、負けず劣らず、ほとんどそれ以上にスピリチュアルである。ただ、さらっと織り込んでくるので、リチャード・バックみたいにぶっとんでいっちゃってる印象には、あまりならないけれども。
しかも遠藤周作氏は、重層的な重厚で立て込んだ構成を作りながらも、文体は意外と素直だったりするので、ほとんど内容的には奇跡のオンパレード、大サービスというくらいにサービス精神が旺盛だ。ちゃんと期待に答えて、少々陳腐であろうとも奇跡を起こしてくれるように思う。だから、そんな奇跡大好き、スピリチュアル大好きな人が、キリストについて書く時だけなぜだか奇跡を排除している、というのは、絶対に意図的なものである。
リチャード・バックが自分の宗教観とかにどういう影響を与えてきたかとかは今は面倒くさいから省略しよう。
けれどもとにもかくにも自分はリチャード・バックの小説に結構影響も受けてきたところの自分として、この歳にしてやっと遠藤周作という「文学」を発見したことに驚きを感じている次第だ。繰り返しになるが、「文学」というものがここまでの表現が可能なものだったとはちっとも知らなかったのである。うわ、音楽、負けてんじゃん、みたいな感じだ。
でもって、「死海のほとり」「イエスの生涯」「キリストの誕生」という、おそらくは遠藤周作の文学のバックボーン的な位置にあると思われるこれらの作品だ。
前述したとおり、というかご存知のとおり、これらの作品において遠藤周作が描き出したイエス・キリストとは、愛には溢れているけれども、奇跡を行う力など持たず、肉体的によみがえったりもしない、そんな普通の人間と変わらぬようなキリスト像だ。
そのことで、キリスト教の関係者とか熱心な信者は、遠藤周作氏のことを批判する人が結構多い、ということも周知のことかと思う。
けれども、読んでみて、俺にはそんなふうには思えなかった。
これらの作品に、書かれているのは、表面的には、遠藤周作氏が、日本人の一人の作家の立場から、現代の聖書学とか考古学とかの知識にもとづいて、それらを踏まえた上で、個人の思い入れを交えながらイエスの足跡を、淡々とした文体でたどっていく、という、たったそれだけのものである。
本当に、たったそれだけである。
では、たったそれだけの中で、なぜ俺は、何度も何度も、いっぺん本を置いて15分くらい休む必要があるくらいに、号泣する必要があったというのか。仮にも俺だって、イエス・キリストを信じている人間のはしくれである。
この、淡々とした文体の物語を読み進める上で、俺の目に見えていたもうひとつの物語は、だいたいこんな光景である。それは、わかりやすく、またRGP風に説明するのであれば。
度重なる災害と魔物の襲来により、ここハポネの国は滅亡の危機に瀕していた。
この危機を救うためには、地下66階にわたる「バイブル」と名付けられたダンジョンの中に隠された、「メシアの守り」というアイテムを見つけ出すしか無い。
多くの戦士たちがこのダンジョンに立ち向かったが、誰一人として生きて帰っては来なかった。
最後の希望として、王国最強の魔導戦士である勇者シューサクが立ち上がった。
王国の歴史上もっとも優れた魔法使いであり剣士としても名高いこのシューサクのために、王家に伝わる最強の武器と鎧、そして数々の魔力を秘めたアイテムが集められた。
だが、シューサクは意外なことを言った。
彼は、何も持たずに丸腰で、素手でダンジョンに立ち向かうと言う。
彼は言った。
「神の作りしこのダンジョンに立ち向かうには、人間の持つどんな魔力も、どんなアイテムも通用しません。私はこの身ひとつで行くしかないのです。」
みたいな雰囲気である。俺は別にファンタジー作家でもなんでもないので上手く書けないけれども。
そんで、実際に勇者シューサクは、無防備な状態でダンジョンに入っていき、最初の階から、本人がレベル100なのに敵が既にレベル120みたいな絶望的な戦いで、数々の魔法を駆使して戦うも、手をもがれ、足を失い、最後には髪の毛一本も残らないかと思われたが、最後の最後にきちんと復活して最重要アイテムである「メシアの守り」を手に入れるのである。ちゃんちゃん。
うーん、やっぱり全然解説になってないな。
とにもかくにも、人はわからんかもしれんが、俺は仮にも「クリスチャンアーティスト」のはしくれであるから、わかるのだ。
つまりは、遠藤周作氏は物書きである。プロフェッショナルの小説家である。
そんな彼が、聖書という書物に立ち向かうのだ。
つまり、聖書の著者である「神」に、「作家」という意地をかけて向かっていくのである。20世紀を生きた現代文学の作家として。
勝てるなんて最初っから思っちゃいないわけである。
また、すべての謎を解き明かそうとも思っていないわけである。
その戦いが、どんなにすさまじいものだったか。
また、どれほどの捨て身の覚悟を持った、命がけのものだったか。
俺にはわかるのだ。
その戦いっぷりは、壮絶なまでのその悲壮な戦いっぷりは。
どんな怪獣映画とかロボットアニメよりも、
エヴァンゲリオンあたりくらいまでしか知らんけど、そういうアニメのどんなに巨大な敵に立ち向かっていくどんなエピックな戦闘シーンよりも、
それははるかにドラマティックで、はるかに絶望的で、そしてはるかに感動的なスペクタクルと言える、そんな見事なまでの戦いっぷりだった。
そして、その遠藤氏の戦いっぷりが、どれほどの示唆と、情報と、勇気を、俺に与えてくれたことか。まだいっぺん、にへん、ちょっと読んでみただけだけれども、それだけであっても、いかに様々なことを、俺に示してくれたことか。
俺は、自分の信仰がいかに未熟だったかを思い知らされたのである。
つまり、この聖書に立ち向かっていった遠藤氏の姿勢を通じて。
俺は、遠藤氏がどんなに凄い信仰の持ち主なのか、いかに真剣に神と聖書に向き合ったのか。また、この世の中に、この日本という国に、そして人間というものに、向き合い、立ち向かっていったのか、その勝負の真剣さに、圧倒され、心打たれた。
そして、いかに、自分が真剣でなかったか、ということを思い知らされた。
俺は、今まで、自分が神を信じていた、と思っていた。自分なりかもしれないが、自分は神を信じている、と思っていた。
でも違った。ぜんぜん信じちゃいなかった。ぜんぜんちっとも真面目に信じてなんかいなかったのである。そのことを思い知らされた。
だから思ったのである。
こんなに強い信仰を持った「クリスチャンアーティスト」に出会ったのは、初めてだ、と。
遠藤氏にくらべたら、欧米の人たちも含めほとんどの「クリスチャンアーティスト」なんて、ジョークである。それは信仰ではなくて、信仰ごっこ、だと言われても仕方が無い。
だから、クリスチャンの人たちが、小説家として遠藤周作氏のことを批判するのなら、それはそれで構わないと思う。けれども、俺はこれは断言したいけれども、たとえ批判したとして、そのほとんどの人は、では遠藤氏ほどの信仰を持っているかと問えば、きっと持っていないと、俺は思う。
遠藤氏は奇跡を否定していると、聖霊を否定している、と、言われるけれども、俺の目には奇跡「しか」書いていないように思えた。そして、聖霊に満たされること無しに、このように高度で多次元構造を持った「芸術」を、クリスチャンアーティストとして、作れるだろうか。
そう批判する人こそが、霊の目でその作品を見てみるべきだ。
たとえば俺が自分の音楽について考えることについても、そうだった。
知ってのとおり、僕も決して若くはないし、知ってのとおり、というのは、つまり自分の音楽家としての人生のフェイズの中で、預言書的な作品「Jesus Wind」を作り上げ、そんでこれから「最終目的地」である「鍋島」へ向かっていく自分の人生において、もう自分の音楽人生は終わりが近いものだと認識していた。もう、やれることは無い。これで限界だ、と。
だが、先月、プラマイを見るために名古屋へ向かっている途中で、神からの啓示が走ったのだ。「お前は、これまで音楽をやってきたと思っているのか。違う。お前は、やっとこれから、本格的に音楽を始めるのだ。」そう言われて俺は愕然とした。馬鹿言ってんじゃねーよ、神。そう思った。ていうか、今でもだいたいそう思っている。「無茶言うな」と。
2014年に”Revive The World”の録音を済ませた後にも、やった、頂点を究めた、と思っていたら「やっと基礎が出来たな、この上に城を築け」と言われて愕然としたことがあったけれども。やっと基礎かよ、って。
だが、遠藤周作を読んでいたら、その作品を通じて、遠藤氏は、僕に語りかけてくるではないか。
「Tone君、君は信仰というものについて、人生というものについて、こう思っているかもしれない。でも、それは違うよ。本当は、世界というものは、人間というものは、こうなっているのだ。」
と、そう遠藤氏は、諭してくれるではないか。
で、俺は、「そうだったのか」という思いで一杯になったのだ。
そして、信仰の歴史についても、世界のキリスト教をめぐる状況についても、そしてロックンロールの歴史についても、自分は確かにそこで、考え方を新たにしたのだ。今までの見方とは違う、新たな捉え方をするようになったのだ。
そして、それは、「まだまだ俺に、今、ここで、やれることがこんなにもあるのか」と思わせてくれた。
そして俺は、「今」「ここ」が、どれだけ千載一遇のタイミングと状況であるかを知った。
だから俺は今、「ロックンロール神学を建て上げる」とか言い出しているのである。もし神の御心があるのであれば、俺は書くはずである、そのロックンロール神学というやつを。いつになるかは、知らんけれども。
どちらにせよ、聖書という巨大な、人智を越えたとんでもない書物、それこそどんなアニメとかゲームのボスキャラよりも絶望的に強大で凶悪な、そんなものに「小説家」として立ち向かっていった遠藤周作氏。
その、すべてを捨てて、何も持たず、身ひとつでふらふらと立ち向かっていった、そして、ぶっとばされ、粉々になりながらも、最後は神はその心意気に応えてくれた、そして遠藤氏は、その66階くらいのダンジョンだか塔だかの中から、確かに持ち帰った、その「ほんの小さなかけら」を。
だが、その「ほんの小さなかけら」だけで、十分ではないか。
その「ほんの小さなかけら」をつかみ取る勇気も、我々人類は、ほとんど持っちゃいないのだから。
つかみとってくる偉業を成し遂げた遠藤氏を批判できるやつなんて人間の中には居やしないと俺は思う。
だからもういっぺん書くのだけれど、霊の目で、もうちょっと作品の上のレイヤーをながめてみれば、気が付くはずだ。表面上は奇跡や復活を排除して、淡々と書かれているように見えるこの作品の中で、上のレイヤーでは、これ以上ないくらいに見事なくらいに、実にあざやかに、愛の奇跡と、神の復活が、ちゃんと書かれているってことが。
だから、in my opinion、俺に言わせれば、古今東西、こんなに鮮やかに「復活」を描き出した人間が居るか、っていうことになる。
俺たち、素人は思うかもしれない。
なんで奇跡を書かないんだ、って。
書けばいいじゃん、って思うかもしれない。
簡単じゃないか。
「イエスは奇跡を起こした。水はワインに変わった。」
そう書くだけのことじゃないか、って。
ペンを動かして、あるいはキーをタイプして。
でも違う。遠藤周作氏はプロフェッショナルだ。
しかも、超一流の。
そんなアーティストの中には、ちゃんと世界が存在している。
わかるかい、その世界の中には、ちゃんと重量があり、物理法則がある。
優れたアーティストほど、そうなっているんだ。
だからこそ優れた作品が書けるんだ。
だからこそ遠藤氏は、自分の「力量」では奇跡を書けないことを知っていた。
なぜか。
遠藤氏本人に奇跡を起こす力が無いからだよ。
プロフェッショナルの物書きでありながら、真に奇跡を書いてみせるには、自分自身が奇跡を起こせなきゃいけない。
聖書にはそれが書いてある。なぜか。それは神には奇跡が起こせるからだ。
でも人の身である遠藤氏には、それは出来ない。
ならどうするか。
肉のレイヤーではなく、霊のレイヤーで、奇跡を描いてみせる、それしかない。
そして、そんな真似が出来た遠藤氏は、やはりとんでもない力量を持ったアーティストなんだと思う。
んでもって、それがどれだけ凄え信仰なのかってことは、言うまでもない。
何度も言うように、聖書ってのはどうやったって多次元構造を持った、非常に複雑な書物、なんだと思う。
だからこそ、それを読み解くための鍵、遠藤氏が命をかけて書いたその読み解くための鍵である作品、それも、やっぱり多重的な多次元構造のものになるのは、自然なことなんだ。
それであっても、遠藤氏本人も認めて書いているように、これは、ほんの部分的な、それでもまだほんの表面的な読み解きに過ぎない。遠藤周作は、聖書の神の神秘の、ほんの1%足らずを、切り取っただけだろう。
そして、たとえそうであったとしても、あなたは遠藤氏以上に、聖書を読み解いているか。
俺は、とてもじゃないけれども、きっと遠藤周作ほどには、聖書を読み解いてはいなかった。
そんでもって、他のすべてを捨ててでも、遠藤氏は、いちばん大事なところだけを、命がけで持ち帰ってきてくれたのだ。他のすべては捨ててでも、一番大きくて、いちばん大事な、「愛の奇跡」ってやつを。
あなたは、奇跡を信じているか。
もし、たとえ水がワインに変わる奇跡を信じていたとしても、死人が復活する奇跡を信じていたとしても、
その「愛の奇跡」ってやつは、信じていないんじゃないのか。
だったら、意味がない。
いちばん大きな奇跡を信じるからこそ、他のすべての奇跡も生きる。
キリスト教ってのはだいたいの物事が逆説になっていて、なにしろそれは教祖がそもそも十字架で死刑になってるくらいだから、そしてそれはこの世界そのものがそういった逆説の構造になっているから、だけれども。
だからこそその逆説に従ってみれば、きっと、すべての奇跡を否定できた時に、もっとも大きな奇跡は起きる。そしてもっとも大きな奇跡を信じることが出来た時に、その他の奇跡もすべて望みのままになる、かもしれない。理論はそうであったとしても、どっちにしろ、人間には無理だ、人間には欲ってものがあるから。無心にはなれないから。
と、まあ、そう思って、晩年の代表作である「深い河」を読んだりなんかしてみると。
奇跡しか書いてないじゃないか(笑)
晩年の作品だからか、サービスしまくりなくらいに奇跡が起きまくっているじゃないか。
序盤戦からいきなり必殺技出してくるしね。
これもまださっくりとしか読んでいないし、とてもここに感想とか書けるような代物ではないけれど。
でも、「俺もいつかこんな曲を書いてみたい」と思ったら、もう書いてた。
例の、うちのバンドの代表曲のひとつでもある”Karma Flower”っていうあの曲。日本語バージョンだと「初春恋風」ってタイトルになるけれど。
あの曲の内容は結構スピリチュアルで、またちょうどクリスチャンになる前に書いた、ひとつのきっかけ的な曲でもあったし、そんでもって英語版の歌詞には、初めて”Jesus Christ”って言葉が出てくる。けれどもブッダも登場するので、聖お兄、、じゃなくて、ユニバーサルなスピリチュアルソング。そして、いくつもの人生が時空を越えて並列で描かれる構成も「深い河」と共通するかもしれない。日本語版の歌詞に「命という河」という言葉が出て来て、それも「そして刻んだ 命という河に」という言い回しなので、なんで河に刻むんだよ、と自分で突っ込んでいたのだけれど、でもこれってそういうことだ。この河というのは、この遠藤氏の書いたところの「深い河」のことだったんだ、と。
これからはもうちょっと確信を持って歌えるかもしれない。
で、ひとつ個人的な解釈を書くならば、この「深い河」のラストシーン、登場人物、主役の一人である男性が危篤になったという報せが入って終わっている。あるいは、「なんでここで終わるんだよ」と思うかもしれない。
なんでかわかるかい。いや、俺だってわからんけど。
作品そのものが、自分の命なのだとしたら。
自分が死んだ後に、「死にました」なんて書いたら、おかしいじゃないか。
僕が「鍋島」の最後のトラックとして配置しようと思っている「宴」という曲も、そうふうに終わるようになっている。
最後の言葉は「我酩酊す」。
一流の語り部であれば。
自分自身を神格化させるようなことは、絶対にさせない。
人間としての証明を、必ずそこに残すはずだ。
大きな目標が示された。
行く先は、ちょっと遠い。
でも希望を持って。
途中で倒れるとしても、希望を持って。
まだまだ少しずつ、勉強していきたいと思います。