2017年3月の日記

■…2017年 3月 2日 (Fri)…….勁よく発すればトレフリップる
ギターのピッキングについては意識したことがあったが、スケートボードのポップってまるっきりこれじゃんよ![発勁]
ちょっと開眼したか???
こちら

No(4835)

■…2017年 3月 4日 (Sun)…….走るの遅い子ゆっくり反抗
ある世代のギタリストがサウンドを確立する時、それは前の世代のサウンドや価値観を拒否する(or脱却する)ところから生まれることが多い。であるならば、僕は何を拒否することで、自分のサウンドを手に入れていったのだろう。(おそらくは未だに反抗期が継続中である)
Guitar sound of each generation often is acquired by denying (or running away from) the sound of previous generation. If so, what have I been denying?

No(4836)

■…2017年 3月 8日 (Thu)…….戦友去るありてまた感慨深からん
私が友人たち(および嫁)とやっていたサイドプロジェクト的なバンド「熱きリョウとジーザスモード」、とても好評を頂いていたこのバンドですが、ご存知の方もいると思いますがシンガーの熱きリョウ君がこの度音楽活動そのものを停止したため、無期限活動停止ということになりました。3枚目のEPのために自分が書いた楽曲は結構残っていますし、あるいは新たなシンガーをオーディションしてジーザスモードの活動を継続するという選択肢もあるかと思います、が、今の私にはサイドプロジェクトなんてものをやっている余裕がありません。今後良い機会にめぐまれれば、是非またこの「ジャパメタ」というテーマに向き合ってみたいと思います。ノスタルジーで振り返りこれは良い感じだったときのライヴ映像です。
こちら

No(4837)

■…2017年 3月10日 (Sat)…….まあFB投稿なんですが、タイトル。
近頃私はネット上とかFacebook上でも引きこもりがちで皆さんとの交流も少なく人の投稿とかにLikeいいねすらあまりしていないこんな折、それでも友人の皆さんに相談してみたいんですが、今年発表するうちのバンドの作品というのかアルバムの名前ですね。タイトル。どうしたもんかと思いまして。

クリスチャン視点から日本の歴史を見た、歴史もののコンセプトアルバムで、しかも歴史というだけでなく過去、現在、未来と描いた、ちょっと「預言書」っぽいニュアンスの作品でもあります。内容はこれ以上ないくらいに濃ゆい濃密なヘヴィメタルになってます(笑) –(昨年、友人の皆さんに結構、バージョン0とかバージョン0.1をお聴かせしましたが、修正する気力がもうないのでおそらくバージョン0.1TBのままで発表に至るかと思います。)

で、そんな歴史モノかつ預言書モノのコンセプトアルバムなんですが、当初から「Jesus Wind」という仮タイトルで取り組んできました。これは「神風」からくる安直な連想で、神をジーザスにしとけばいいよね、という安直な発想です。また歴史を通じて色々な形で日本に影響を与えてきたキリストの風という意味でもあります。
で、このタイトルでずっと考えてたんですけど、ちょっと安直かな、って。
あとは最近まで気が付かなかったんですが、このタイトルだと頭文字が某新興宗教みたいだな、という問題もあり。まぁ、誰もそんなこと気にしないかもしれませんが。英語圏の人の感覚だとその辺どうなのか聞いてみたいところです。

というわけで他に良いタイトルがあればご助言いただきたいわけです。
自分で他に考えついた候補としては、
「Japanese Prophecy」「Yamato Prophecy」「Japan Revelation」とか、今までもタイトルにJapanとかJapaneseが付くとわりとヒット作になる(まあ小規模ですが)みたいなジンクスはあるので、いいかな、とか。でも”Yamato”はわかりにくいかなあ。海外の人にとっては「大和の国」と「ヤマト運輸」の区別も付かないんだろうし。「Japan Prophecy」? 「Yamato Revelation」? 語呂がいいのはどれだ。

ちょうど10年くらい前に例の”Japanese Pop”を発表してるから、それから10年たって似たタイトルで”Japanese Prophecy”っていうのも面白いかもしれない。

あとは遠藤周作の影響で「沼」という言葉を使って「History of Dark Swamp」とか。おどろおどろしいか。メタルっぽいけど。逆に日の昇る国みたいなニュアンスなら「Rising Sun Chronicles」とか。

それともやっぱり「Jesus Wind」のままの方がかっこいいのかな。神風ジーザス、みたいな。

おそらくクラウドファンディングをすることになろうと思うので(気が重いですが、それも皆さんに「がんばってます」と表明するための責務でしょう)、それにあたって皆さんに「こういうアルバムです」というメッセージが伝わりそうなタイトルにしたいということもあります。

そんでもって全編英語で海外向けに作るヘヴィメタルのアルバムとしては、おそらくはこれが最後になります。今年取り組んでいる次の作品(Overture)は全編日本語で、音楽性もあんまりメタルじゃないし。

というわけで、ちょっとご相談、と思って書いたらまた長くなってしまいすみません。
しょせん現代のソーシャルネットワーク時代には適合できない情報過多の人間です。
情報量の多さにずっと苦しんでます(汗)

サンキュージーザス。

(Facebookに投稿したものですが、この日記帳にはもちろんリプライ機能がついていませんので・・・)

No(4838)

■…2017年 3月13日 (Tue)…….アラフォー読書感想文
読書感想文を書かねばならないと思っていたのである。
といっても石川ヨナのStart Againはまだ読んでない。嫁さんはもう下巻とか読んでるみたいだから感想を聞いてみたいところであるが、私は遠藤周作の感想文を書きたいのである。

先月、たぶん僕はちょっとした音楽的アンド宗教的体験をした。
そんなことを言ったら昨日、逗子の教会で斧寺カズトシ氏の「Lord Runners」の教会コンサート、アンド、アーサー・ホーランド氏のメッセージを聴いたことも十分に印象的な「音楽的アンド宗教的」な体験であったが。

私が先月体験したのは、ちょうど7年半ぶりに来日した+/-{plus/minus} (プラスマイナス)のコンサートを見たこと、それが、bloodthirsty butchers吉村秀樹氏が亡くなって以来のことであったこと、そこから自分がずっとやってきたXTJなどのこと、自分がこれから取り組まなければならない「鍋島」のこと、そこにさらに、ちょうどXTCをいっぱい聴いていたこと、そこに更にもってきてちょうど遠藤周作を読んでいたこと、が重なって、自分にとってはやたらめったら「おおこれぞ神の啓示」くらいの宗教的かつ芸術的な体験になってしまった(笑)

もちろん遠藤周作を読んでいたのは、この前、マーティン・スコセッシの映画である「沈黙」が話題になっていたことがきっかけではある。けれどもなんだかしらんけれど大学の一般教養で宗教学の授業で読まされたことがあって、本棚には未だに「死海のほとり」と「イエスの生涯」があったので、内容はほぼ忘れていたけれど、ちょうどいい機会だから読んでみよう、と思ったのであった。

まずは「沈黙」について書くのであれば、まぁ映画の感想は前に少し違った文脈の中で書いたけれども、もちろんのこと、あの小説および映画については、様々な賛否両論の意見がある。特に、クリスチャンの人たちの中には余計に賛否両論が激しい。それは信仰ってものについて真剣なわけだから当然過ぎるほど当然のことだ。

見ていて面白かったのは、それら賛否両論で色々な人が色々な事を言っている、それ自体もとても面白いことであったけれど(不謹慎だが)、当然ながらその人ごとに視点や立場が表れるので、その感想を述べる人自身について色々なことがわかるのも面白いことだった。

けれども、あの「沈黙」という小説および映画について一番凄いな、と思ったのは、たとえどんな意見や感想を持ったとしても、賛否のどっちであったとしても、あの作品に触れることで、それぞれが霊的に成長を遂げることである。

映画を良いと思った人も、良くないと思った人も、どっちも等しく、何かを得ているのである。

たとえばRGPっぽく言うなら、霊的レベル(スピリチュアルレベル)が2の人は、「なにこれ怖いー」と当惑してレベルが3に上がり、霊的レベルが5の人は「感動したー」と言ってレベルが6に上がり、霊的レベルが10の人は「こんなのは本当のキリストじゃない」と批判してレベルが11に上がり、霊的レベルが15の人は「素晴らしい」と賞賛してレベルが16に上がるのである。
え、僕? 僕くらいになると、作者と魂の交流が出来るのだよ、そしてレベルが20から21に上がったのさー、ははは・・・。

その作品が投げかける題材に向き合うことによって、その作品に触れた人が、たとえどんな意見や感想を持ったとしても、それぞれに霊的、精神的に向上する。こんな作品はまさに「文化財」であり、そんな作品を書くことのできる作家はまさに「国の宝」であり「人類の宝」である。そして、優れた作品というものは、きっとそういうものなのだろう。

だからこそ、この「沈黙」についても、それぞれの人が、それぞれの立場から、色々な感想や意見を持ったとしても、それはすべて間違っていないのである。どんな感想を持ったとしても、それは正しいのである。そしてそれはそれぞれが、世界と人類の発展と向上につながっていくのだ。それはとんでもなく凄えことだと思う。

そんでもって、その「沈黙」の小説と映画の後に、私はそれらの音楽的な体験と重ねながら、ここのところ一ヶ月くらいの間に、「死海のほとり」、「イエスの生涯」、「キリストの誕生」、「スキャンダル」、「深い河」と読んでみたのである。ひとまず。「スキャンダル」については、昨年の秋頃に、近所のスノッブな古本屋さんで、帯に書いてあった「悪に救いはあるのか」というあおり文句があまりにもヘヴィメタル的でツボにはまったためついつい買い込んだものである。

もちろん「沈黙」を読んだ時からわかってはいたが、遠藤周作氏は、その表現の質というのか突き詰め方が、非常にヘヴィメタル的な作家さんである。というか、僕の感覚からすると、本当にもうヘヴィメタル以外の何者でもない。遠藤周作はヘヴィメタルである。(奇しくも「深い河」の解説に遠藤周作と三島由紀夫がサド論で意気投合していた、というエピソードが書いてあったが、そういったところにもヘヴィメタルを感じるのは僕だけではないだろう。)

だから、一応にもクリスチャンヘヴィメタルをやっている僕としては、こんなにも偉大な、分野は文学ではあるけれど、日本人キリスト教徒のヘヴィメタルのアーティストに出会うことが出来て、本当に衝撃的に感動を覚えているのである。文学というのは、ここまでやれるのか、ここまで高度な表現が可能なのか、全然知らんかった、という感じである。

ちなみにこれもまださらっとしか読んでないがこの「スキャンダル」という本のさっくり感想から行くとすれば、まずはこの本も非常に重層的である。なんというか、今のところ読んでみたこの5、6冊の遠藤周作作品を読んでみて、どの作品も、表現内容や、作品の構成そのものが、重層的になっていて、幾重にも重なっている。そんでもってこの「スキャンダル」という作品もやはりその例外ではなかった。

だから、表面だけ読んでみれば「これのいったい何が面白いの」というような内容かもしれない。が、その中にはいくつもの、本当にいくつもの作家の意図というものが、隠されている。

だから5、6冊読んでみて、この点について言えばやはり「イエスの生涯」「キリストの誕生」は特にその傾向が顕著だったと思うが、表面的に進行していく物語、お話の中で、その裏に、というか、その上に、上のレイヤーで、霊的なレイヤーでは、それとはまったく違った物語が展開していくのである。

だから、一般的にはキリスト教の世界では、遠藤周作はイエス・キリストの奇跡であるとか復活を否定している、と言われているけれども、僕に言わせれば「いったいどこを読んでいるんだ」と言うことになる。「むしろ奇跡しか起きてないじゃんよ」みたいな。

いいか、遠藤周作さんは作家である。つまりは文章を書く人間である。
いつも聖書を読む時に思うけれども、僕たちは学校の授業であっても、小説を読む時、その意味を読み取るために、行間を読むということを習ったはずだ。それはつまり、夏目漱石を読む時だってそうである。そして、優れた作家と言われる人ほど、その行間に含まれる情報は深く、豊かなのだ。では、聖書を書いたのは誰か、それは神である。では、夏目漱石と、神と、どちらが優れた作家なのか。それは夏目漱石先生本人に聞いてみたらいいかもしれないが、それはもちろん圧倒的に神の方が優れているに決まっているじゃないか。だからこそ、聖書なんていうあらゆる意味で圧倒的な書物の、行間を読み解くなんてことが、果たしてどれだけ出来るものか。

遠藤周作さんは、そうした行間どころか、作品そのものを巨大な重層構造として、幾重にも響くシンフォニーのように多次元構造として織り上げていくことが出来る、そんなすさまじい力を持った作家さんだ。
そんな最強の天才作家、遠藤周作をもってして、「神に挑む」時、それはやはり圧倒的に多次元構造を持った作品にならざるを得ない。

話がそれたが、この「スキャンダル」という、おそらくは特段に代表作でもなく、遠藤氏のキャリアの中でもそれほど注目されない作品の中のひとつであろうと思うが、その作品ひとつをとってみても、誠に圧倒的なのだ。

さっきも書いたように普通に表面的に読めば、「どこがおもしろいのか」と言うような内容だと思う。老いた作家が、人並みにちょっとしたスキャンダルに巻き込まれるだけの話である。だが、そこに織り込まれた幾重ものトリックは、圧倒的としか言いようがない。

もちろんきちんと読み解いて感想を書いていけば非常に長くなるだろうけれども、簡潔に読んだとしても、これは遠藤周作氏が、作家として晩年を迎えるにあたって、その時点でこんなものを書いておくという、その作家性というか、作家としての執念というか、執念にも似たエゴ、強大なアーティストエゴというものを感じて、僕としては圧倒させられざるを得ない。もちろんそれは、次に人生最後の大作におそらくは取り掛かるのだ、というタイミングで書かれたものだからだろう。

そして、これは、現代において、あるいは過去においてもそうであったかもしれないが、少なくとも現代に生きる人間として、神を語る人間として、ひとつ、やっておかねばならないことを、きちんと晩年の死ぬ前にやってのけているではないか。「スキャンダル」というタイトルの、そのままスキャンダラスな内容がどんなものであったにせよ、読者は知らない間に、その作者の意図に乗せられてしまうに違いない。釈迦の手のひらの孫悟空というか、世界の果てに辿り着いたと思ったらそれは作者の作った箱庭だった的な。

そしてひとつだけ言えば、まぁ帯のあおり文句は出版社とかが書いたものなんだろうけれども、「悪に救済はあるのか」と帯の文句に関しても、「ほへー」と読み流しているうちに、文中ではちっとももちろん明示はされていないけれども、いつのまにか答えが出てしまうではないか。恐るべき手腕である。

少なくとも、僕は読み終えた時に、なんかしらんけれどいつのまにか「悪」というものの存在について自分なりの解答を得てしまった。その解答は個人のものであるからいちいち書いてシェアするつもりはない。けれどもやっぱりちょっとだけ書くと、ワンセンテンスで、悪とは生きていく上での強さおよび弱さのことなのだと、僕はそう理解していた。そして、その時、悪という存在そのものが無かったことに気付いてしまったのだ。だから、少なくとも、神の視点より見て、悪というものがそもそも存在しなかった以上、その救済というものも問題にならない。存在し、また問題になるのは罪の救済だけである。そしてでは遠藤氏はこの主人公の作家(遠藤氏本人とは誰も言ってない)について、弱者として描きたかったのか、それとも強者として描きたかったのか。これはもちろんどっちの解釈も可能であり、またそれは同時に裏表の関係でもあるが、僕の考えでは遠藤氏はこの本人の投影たる作家を「強者」として描く意図の方が強かったのでないかと推測している。理由は聞くな、つらいから。

現に遠藤氏はこの物語の中で主人公の作家のことを、矮小化して描くことで、かえってその「強さ」たる悪を際立たせることに成功しているではないか。遠藤氏は決して、性に関して本質的に避けて通ってきたような作家さんではない。(それくらいはわかる。) それなのに、また上品な文体のままで、また本人はもっときっとエグく書きたいだろうに、このような一般的な内容と筆致のままで、ここまでの生の「強さ」を描くことが出来るとは、プロフェッショナルの物書きというものの力量を見せつけられる思いだ。

そしてこのちょっとした作品においても、やはり奇跡、そして「復活」というものは、しっかりと描かれているではないか。そしてまたも、読者はキリストの十字架を、また違った角度から、再体験させられる。そんでここにもやっぱり、しっかりと「復活」が描き出されている。幾重にも重なったテーマの中で。

僕は既にソングライティングは終わっているところの「鍋島」の、最後を「宴」という曲で締めくくる予定でいるけれども、僕がその曲でやりたかったことも、かなりの部分は、遠藤氏が「スキャンダル」でやりたかったこととかぶっているかもしれない。それはもちろん、「死」というテーマであることは明白だ。もちろん、ロックミュージックの持つ情報量は、概念としては小説よりも少ない、良く言えばコンパクト、であるけれども。(だが体感としての肉体的な情報は、より多い。)

前菜のつもりで書いた「スキャンダル」の感想だけでも本が書けるほどに長くなってしまいそうだ。
だからここで投げ出して次を書くけれども。

別に昔から公言しているから言ったって構わないけれども、僕はリチャード・バックの小説に昔から結構好きで影響を受けている。

けれどもこれは、面白いことに、敬愛するクリスチャンロッカーの先輩の一人が、実は同じようにリチャード・バックのことを好きであるらしいので、ということはこれは決して偶然ではない。

僕は、高校2年生の時、たまたまその本を手に取り、それはつまり、「イリュージョン」という本である。原題はIllusions、と複数形だったと思うが、17歳の僕が手に取って読んだのは、例の、「好きなことを好きなようにやれ」と書いてあるこの本の内容の通りに、「じゃあ本当に好き勝手にやらせてもらう」と、翻訳を担当した村上龍が、かなり内容を改変してしまった、という伝説的な一冊である。まあそりゃリチャード・バックとしても文句は言えまい。

で、その改変っぷりがあまりに原作とかけ離れていたがために、その後、もうちょっとまともな訳のバージョンが出版されていたので、そっちも読んでみたけれども、英語版も手に入れていたので比べてみたら、そっちの後から出たまともな訳バージョンの方も、結構翻訳間違いまくっていた(笑) ので、だったら村上龍バージョンの方がまだマシじゃないかな、みたいな。その後、さらに新たなバージョンが出版されているかどうかは知らん。

とにもかくにも、それ以降、僕は結構リチャード・バックを読んできた。
僕は、少年時代はともかくも、大人になってからは、本なんてものは余り読まない人生をやってきた。文字よりも、音楽から得られる情報の方がはるかに多かったからだ。だから、そんな中ではリチャード・バックは、間違いなく読んだ方の作家になると思う。

で、この歳になってようやく出会った遠藤周作は、このリチャード・バックに17歳で出会った時に劣らないくらいの、いや、たぶんそれ以上の衝撃的な出会いだったと思う。

そんでもって、俺にとってみれば、それは、リチャード・バックが「基本」だとすれば、遠藤周作は、「応用、実践編」という感じではないか。あ、これ、話の続きだ、みたいな。この歳になって、やっと続きが読めた、みたいな感じ。

一般的にはリチャード・バックは、ちょっとしたスピリチュアル系の作家と分類されるだろうと思うけれども、読んでみると、遠藤周作も、負けず劣らず、ほとんどそれ以上にスピリチュアルである。ただ、さらっと織り込んでくるので、リチャード・バックみたいにぶっとんでいっちゃってる印象には、あまりならないけれども。

しかも遠藤周作氏は、重層的な重厚で立て込んだ構成を作りながらも、文体は意外と素直だったりするので、ほとんど内容的には奇跡のオンパレード、大サービスというくらいにサービス精神が旺盛だ。ちゃんと期待に答えて、少々陳腐であろうとも奇跡を起こしてくれるように思う。だから、そんな奇跡大好き、スピリチュアル大好きな人が、キリストについて書く時だけなぜだか奇跡を排除している、というのは、絶対に意図的なものである。

リチャード・バックが自分の宗教観とかにどういう影響を与えてきたかとかは今は面倒くさいから省略しよう。
けれどもとにもかくにも自分はリチャード・バックの小説に結構影響も受けてきたところの自分として、この歳にしてやっと遠藤周作という「文学」を発見したことに驚きを感じている次第だ。繰り返しになるが、「文学」というものがここまでの表現が可能なものだったとはちっとも知らなかったのである。うわ、音楽、負けてんじゃん、みたいな感じだ。

でもって、「死海のほとり」「イエスの生涯」「キリストの誕生」という、おそらくは遠藤周作の文学のバックボーン的な位置にあると思われるこれらの作品だ。

前述したとおり、というかご存知のとおり、これらの作品において遠藤周作が描き出したイエス・キリストとは、愛には溢れているけれども、奇跡を行う力など持たず、肉体的によみがえったりもしない、そんな普通の人間と変わらぬようなキリスト像だ。

そのことで、キリスト教の関係者とか熱心な信者は、遠藤周作氏のことを批判する人が結構多い、ということも周知のことかと思う。

けれども、読んでみて、俺にはそんなふうには思えなかった。

これらの作品に、書かれているのは、表面的には、遠藤周作氏が、日本人の一人の作家の立場から、現代の聖書学とか考古学とかの知識にもとづいて、それらを踏まえた上で、個人の思い入れを交えながらイエスの足跡を、淡々とした文体でたどっていく、という、たったそれだけのものである。

本当に、たったそれだけである。

では、たったそれだけの中で、なぜ俺は、何度も何度も、いっぺん本を置いて15分くらい休む必要があるくらいに、号泣する必要があったというのか。仮にも俺だって、イエス・キリストを信じている人間のはしくれである。

この、淡々とした文体の物語を読み進める上で、俺の目に見えていたもうひとつの物語は、だいたいこんな光景である。それは、わかりやすく、またRGP風に説明するのであれば。

度重なる災害と魔物の襲来により、ここハポネの国は滅亡の危機に瀕していた。
この危機を救うためには、地下66階にわたる「バイブル」と名付けられたダンジョンの中に隠された、「メシアの守り」というアイテムを見つけ出すしか無い。
多くの戦士たちがこのダンジョンに立ち向かったが、誰一人として生きて帰っては来なかった。
最後の希望として、王国最強の魔導戦士である勇者シューサクが立ち上がった。
王国の歴史上もっとも優れた魔法使いであり剣士としても名高いこのシューサクのために、王家に伝わる最強の武器と鎧、そして数々の魔力を秘めたアイテムが集められた。
だが、シューサクは意外なことを言った。
彼は、何も持たずに丸腰で、素手でダンジョンに立ち向かうと言う。
彼は言った。
「神の作りしこのダンジョンに立ち向かうには、人間の持つどんな魔力も、どんなアイテムも通用しません。私はこの身ひとつで行くしかないのです。」

みたいな雰囲気である。俺は別にファンタジー作家でもなんでもないので上手く書けないけれども。

そんで、実際に勇者シューサクは、無防備な状態でダンジョンに入っていき、最初の階から、本人がレベル100なのに敵が既にレベル120みたいな絶望的な戦いで、数々の魔法を駆使して戦うも、手をもがれ、足を失い、最後には髪の毛一本も残らないかと思われたが、最後の最後にきちんと復活して最重要アイテムである「メシアの守り」を手に入れるのである。ちゃんちゃん。
うーん、やっぱり全然解説になってないな。

とにもかくにも、人はわからんかもしれんが、俺は仮にも「クリスチャンアーティスト」のはしくれであるから、わかるのだ。

つまりは、遠藤周作氏は物書きである。プロフェッショナルの小説家である。
そんな彼が、聖書という書物に立ち向かうのだ。
つまり、聖書の著者である「神」に、「作家」という意地をかけて向かっていくのである。20世紀を生きた現代文学の作家として。
勝てるなんて最初っから思っちゃいないわけである。
また、すべての謎を解き明かそうとも思っていないわけである。

その戦いが、どんなにすさまじいものだったか。
また、どれほどの捨て身の覚悟を持った、命がけのものだったか。
俺にはわかるのだ。

その戦いっぷりは、壮絶なまでのその悲壮な戦いっぷりは。
どんな怪獣映画とかロボットアニメよりも、
エヴァンゲリオンあたりくらいまでしか知らんけど、そういうアニメのどんなに巨大な敵に立ち向かっていくどんなエピックな戦闘シーンよりも、
それははるかにドラマティックで、はるかに絶望的で、そしてはるかに感動的なスペクタクルと言える、そんな見事なまでの戦いっぷりだった。

そして、その遠藤氏の戦いっぷりが、どれほどの示唆と、情報と、勇気を、俺に与えてくれたことか。まだいっぺん、にへん、ちょっと読んでみただけだけれども、それだけであっても、いかに様々なことを、俺に示してくれたことか。

俺は、自分の信仰がいかに未熟だったかを思い知らされたのである。
つまり、この聖書に立ち向かっていった遠藤氏の姿勢を通じて。
俺は、遠藤氏がどんなに凄い信仰の持ち主なのか、いかに真剣に神と聖書に向き合ったのか。また、この世の中に、この日本という国に、そして人間というものに、向き合い、立ち向かっていったのか、その勝負の真剣さに、圧倒され、心打たれた。

そして、いかに、自分が真剣でなかったか、ということを思い知らされた。

俺は、今まで、自分が神を信じていた、と思っていた。自分なりかもしれないが、自分は神を信じている、と思っていた。
でも違った。ぜんぜん信じちゃいなかった。ぜんぜんちっとも真面目に信じてなんかいなかったのである。そのことを思い知らされた。

だから思ったのである。
こんなに強い信仰を持った「クリスチャンアーティスト」に出会ったのは、初めてだ、と。
遠藤氏にくらべたら、欧米の人たちも含めほとんどの「クリスチャンアーティスト」なんて、ジョークである。それは信仰ではなくて、信仰ごっこ、だと言われても仕方が無い。

だから、クリスチャンの人たちが、小説家として遠藤周作氏のことを批判するのなら、それはそれで構わないと思う。けれども、俺はこれは断言したいけれども、たとえ批判したとして、そのほとんどの人は、では遠藤氏ほどの信仰を持っているかと問えば、きっと持っていないと、俺は思う。

遠藤氏は奇跡を否定していると、聖霊を否定している、と、言われるけれども、俺の目には奇跡「しか」書いていないように思えた。そして、聖霊に満たされること無しに、このように高度で多次元構造を持った「芸術」を、クリスチャンアーティストとして、作れるだろうか。

そう批判する人こそが、霊の目でその作品を見てみるべきだ。

たとえば俺が自分の音楽について考えることについても、そうだった。
知ってのとおり、僕も決して若くはないし、知ってのとおり、というのは、つまり自分の音楽家としての人生のフェイズの中で、預言書的な作品「Jesus Wind」を作り上げ、そんでこれから「最終目的地」である「鍋島」へ向かっていく自分の人生において、もう自分の音楽人生は終わりが近いものだと認識していた。もう、やれることは無い。これで限界だ、と。

だが、先月、プラマイを見るために名古屋へ向かっている途中で、神からの啓示が走ったのだ。「お前は、これまで音楽をやってきたと思っているのか。違う。お前は、やっとこれから、本格的に音楽を始めるのだ。」そう言われて俺は愕然とした。馬鹿言ってんじゃねーよ、神。そう思った。ていうか、今でもだいたいそう思っている。「無茶言うな」と。

2014年に”Revive The World”の録音を済ませた後にも、やった、頂点を究めた、と思っていたら「やっと基礎が出来たな、この上に城を築け」と言われて愕然としたことがあったけれども。やっと基礎かよ、って。

だが、遠藤周作を読んでいたら、その作品を通じて、遠藤氏は、僕に語りかけてくるではないか。
「Tone君、君は信仰というものについて、人生というものについて、こう思っているかもしれない。でも、それは違うよ。本当は、世界というものは、人間というものは、こうなっているのだ。」
と、そう遠藤氏は、諭してくれるではないか。

で、俺は、「そうだったのか」という思いで一杯になったのだ。

そして、信仰の歴史についても、世界のキリスト教をめぐる状況についても、そしてロックンロールの歴史についても、自分は確かにそこで、考え方を新たにしたのだ。今までの見方とは違う、新たな捉え方をするようになったのだ。

そして、それは、「まだまだ俺に、今、ここで、やれることがこんなにもあるのか」と思わせてくれた。
そして俺は、「今」「ここ」が、どれだけ千載一遇のタイミングと状況であるかを知った。

だから俺は今、「ロックンロール神学を建て上げる」とか言い出しているのである。もし神の御心があるのであれば、俺は書くはずである、そのロックンロール神学というやつを。いつになるかは、知らんけれども。

どちらにせよ、聖書という巨大な、人智を越えたとんでもない書物、それこそどんなアニメとかゲームのボスキャラよりも絶望的に強大で凶悪な、そんなものに「小説家」として立ち向かっていった遠藤周作氏。
その、すべてを捨てて、何も持たず、身ひとつでふらふらと立ち向かっていった、そして、ぶっとばされ、粉々になりながらも、最後は神はその心意気に応えてくれた、そして遠藤氏は、その66階くらいのダンジョンだか塔だかの中から、確かに持ち帰った、その「ほんの小さなかけら」を。

だが、その「ほんの小さなかけら」だけで、十分ではないか。
その「ほんの小さなかけら」をつかみ取る勇気も、我々人類は、ほとんど持っちゃいないのだから。
つかみとってくる偉業を成し遂げた遠藤氏を批判できるやつなんて人間の中には居やしないと俺は思う。

だからもういっぺん書くのだけれど、霊の目で、もうちょっと作品の上のレイヤーをながめてみれば、気が付くはずだ。表面上は奇跡や復活を排除して、淡々と書かれているように見えるこの作品の中で、上のレイヤーでは、これ以上ないくらいに見事なくらいに、実にあざやかに、愛の奇跡と、神の復活が、ちゃんと書かれているってことが。
だから、in my opinion、俺に言わせれば、古今東西、こんなに鮮やかに「復活」を描き出した人間が居るか、っていうことになる。

俺たち、素人は思うかもしれない。
なんで奇跡を書かないんだ、って。

書けばいいじゃん、って思うかもしれない。
簡単じゃないか。
「イエスは奇跡を起こした。水はワインに変わった。」
そう書くだけのことじゃないか、って。
ペンを動かして、あるいはキーをタイプして。

でも違う。遠藤周作氏はプロフェッショナルだ。
しかも、超一流の。
そんなアーティストの中には、ちゃんと世界が存在している。
わかるかい、その世界の中には、ちゃんと重量があり、物理法則がある。
優れたアーティストほど、そうなっているんだ。
だからこそ優れた作品が書けるんだ。

だからこそ遠藤氏は、自分の「力量」では奇跡を書けないことを知っていた。
なぜか。
遠藤氏本人に奇跡を起こす力が無いからだよ。
プロフェッショナルの物書きでありながら、真に奇跡を書いてみせるには、自分自身が奇跡を起こせなきゃいけない。
聖書にはそれが書いてある。なぜか。それは神には奇跡が起こせるからだ。

でも人の身である遠藤氏には、それは出来ない。
ならどうするか。

肉のレイヤーではなく、霊のレイヤーで、奇跡を描いてみせる、それしかない。
そして、そんな真似が出来た遠藤氏は、やはりとんでもない力量を持ったアーティストなんだと思う。

んでもって、それがどれだけ凄え信仰なのかってことは、言うまでもない。

何度も言うように、聖書ってのはどうやったって多次元構造を持った、非常に複雑な書物、なんだと思う。
だからこそ、それを読み解くための鍵、遠藤氏が命をかけて書いたその読み解くための鍵である作品、それも、やっぱり多重的な多次元構造のものになるのは、自然なことなんだ。
それであっても、遠藤氏本人も認めて書いているように、これは、ほんの部分的な、それでもまだほんの表面的な読み解きに過ぎない。遠藤周作は、聖書の神の神秘の、ほんの1%足らずを、切り取っただけだろう。

そして、たとえそうであったとしても、あなたは遠藤氏以上に、聖書を読み解いているか。
俺は、とてもじゃないけれども、きっと遠藤周作ほどには、聖書を読み解いてはいなかった。

そんでもって、他のすべてを捨ててでも、遠藤氏は、いちばん大事なところだけを、命がけで持ち帰ってきてくれたのだ。他のすべては捨ててでも、一番大きくて、いちばん大事な、「愛の奇跡」ってやつを。

あなたは、奇跡を信じているか。
もし、たとえ水がワインに変わる奇跡を信じていたとしても、死人が復活する奇跡を信じていたとしても、
その「愛の奇跡」ってやつは、信じていないんじゃないのか。
だったら、意味がない。

いちばん大きな奇跡を信じるからこそ、他のすべての奇跡も生きる。
キリスト教ってのはだいたいの物事が逆説になっていて、なにしろそれは教祖がそもそも十字架で死刑になってるくらいだから、そしてそれはこの世界そのものがそういった逆説の構造になっているから、だけれども。
だからこそその逆説に従ってみれば、きっと、すべての奇跡を否定できた時に、もっとも大きな奇跡は起きる。そしてもっとも大きな奇跡を信じることが出来た時に、その他の奇跡もすべて望みのままになる、かもしれない。理論はそうであったとしても、どっちにしろ、人間には無理だ、人間には欲ってものがあるから。無心にはなれないから。

と、まあ、そう思って、晩年の代表作である「深い河」を読んだりなんかしてみると。
奇跡しか書いてないじゃないか(笑)
晩年の作品だからか、サービスしまくりなくらいに奇跡が起きまくっているじゃないか。
序盤戦からいきなり必殺技出してくるしね。

これもまださっくりとしか読んでいないし、とてもここに感想とか書けるような代物ではないけれど。

でも、「俺もいつかこんな曲を書いてみたい」と思ったら、もう書いてた。
例の、うちのバンドの代表曲のひとつでもある”Karma Flower”っていうあの曲。日本語バージョンだと「初春恋風」ってタイトルになるけれど。

あの曲の内容は結構スピリチュアルで、またちょうどクリスチャンになる前に書いた、ひとつのきっかけ的な曲でもあったし、そんでもって英語版の歌詞には、初めて”Jesus Christ”って言葉が出てくる。けれどもブッダも登場するので、聖お兄、、じゃなくて、ユニバーサルなスピリチュアルソング。そして、いくつもの人生が時空を越えて並列で描かれる構成も「深い河」と共通するかもしれない。日本語版の歌詞に「命という河」という言葉が出て来て、それも「そして刻んだ 命という河に」という言い回しなので、なんで河に刻むんだよ、と自分で突っ込んでいたのだけれど、でもこれってそういうことだ。この河というのは、この遠藤氏の書いたところの「深い河」のことだったんだ、と。
これからはもうちょっと確信を持って歌えるかもしれない。

で、ひとつ個人的な解釈を書くならば、この「深い河」のラストシーン、登場人物、主役の一人である男性が危篤になったという報せが入って終わっている。あるいは、「なんでここで終わるんだよ」と思うかもしれない。

なんでかわかるかい。いや、俺だってわからんけど。
作品そのものが、自分の命なのだとしたら。
自分が死んだ後に、「死にました」なんて書いたら、おかしいじゃないか。

僕が「鍋島」の最後のトラックとして配置しようと思っている「宴」という曲も、そうふうに終わるようになっている。
最後の言葉は「我酩酊す」。

一流の語り部であれば。
自分自身を神格化させるようなことは、絶対にさせない。
人間としての証明を、必ずそこに残すはずだ。

大きな目標が示された。
行く先は、ちょっと遠い。
でも希望を持って。
途中で倒れるとしても、希望を持って。
まだまだ少しずつ、勉強していきたいと思います。

No(4839)

■…2017年 3月13日 (Tue)…….夢で会えたら2017March
尊敬し敬愛する音楽家さんはいっぱいいる。
それらの人々に一人一人本当に感謝とお礼と賞賛の言葉を消防車の放水のごとく浴びせかけたいといつも思っている。
ギタープレイヤーとしてはどうしても世界一素晴らしい言うまでもない偉大なるエディ・ヴァン・ヘイレンがやっぱり一番大好きだと、少年時代から今まで変わらずそう言える。

もし僕の音楽がちっともよくないのだとしたらそれは僕自身が様々な面で未熟だからであることに間違いないが、もし僕の音楽が少しでも良いと思われることがあれば、それは何もとりあえず「先生が良かったから」としか言えない。それはとりもなおさずすべてのロックの歴史の偉大さであるが、その中でもEddie Van Halenの偉大さということに尽きる。

けれども僕がもし他人から評価されたいところがあるとすればそれはギタープレイでもソングライティングでもなく、それは音楽家としての歩き方の部分だ。僕より上手いプレイヤーや、素晴らしい曲を作れる人はいくらでもいる。けれども歩き方というものは、各自の人生の中で、それぞれが選んでいく歩き方は、たぶんそれぞれが、それぞれにしか歩けない道(path)というものがある。

馬鹿みたいなくだらない話題であるけれども、夢の中でそういった憧れのミュージシャンに会うことがある。歳を取ったせいか、最近は僕は夢を見ると悪夢の方が多いように思う。だけれども今日僕は眠って2、3時間ほどで目が覚めてしまったが、その夢の中でかのE.V.H.に出会った。

僕は少年時代から、夢の中で、たとえばイングヴェイが出て来たりとか(笑)、あといろいろ、秘密だけれど(苦笑)、けれども一番の憧れであるEVHが夢に出てくることはほとんど無かった。何年か前に一度あったかな、くらい。

でも今夜見た夢は本当に鮮烈であった。
その中でかのE.V.H.は、大きなステージで、輝く光の中、例のストライプのフランケンシュタインギターを弾き、そしてまた、その中で非常に自由なプレイを見せてくれた。「失敗を恐れるな。間違いなんてものはない。」ああそうだ、僕はそんなふうに自由になりたくてギターを鳴らすことを選んだのだ。そんな自由なんてものさえ、もうこの世界には残されていないように感じていたのに。それは間違いだった。さらなる大きな世界の中での自由が、そこにあり、それを鳴らさなくてはならないのだった。

夢の中で曲を書く、ということは、何度もやったことがあるが、本当にひさしぶりに、それをやった。目が覚めて、その時頭の中で、夢の中でずっと鳴っていたリフをギターで弾いてみた。かねてから言っているように僕はもう「鍋島」のソングライティングを終えているので、自分のバンドImari Tonesのための楽曲はもう一生ぶん書いてしまったのだ。そんな身であるから、これ以上曲を書く必要はない。だから、この曲も「形にする」必要は無いのだ。だがそれは逆に言えば「形にこだわる」必要がない、ということではないか。Bメロがこうで、サビや間奏の展開は、なんてことは考えなくてもいいのだ。リフをループさせてラップにしたっていいし、望むなら、そのまま、4楽章25分のシンフォニーにしてしまったっていいのだ。

もし「鍋島」を鳴らした後も時間が与えられるのであれば。たぶんその可能性は限りなく低いとは思うけれども。おそらくは遠藤周作氏を意識したものを作るだろう。それは小説や文学世界の表現に肉薄するような創作宇宙を音楽で果たして作れるか、ということだ。シンフォニーの文脈なら可能だろうが、個人の肉体性の限界を伴ったロックやヘヴィメタルの文脈で果たしてそれは可能だろうか。僕が言っているのはもちろん、表面的な作品の構成とかの話ではない。だからたとえば10分のプログレの曲を作ることについて話しているわけではない。

たとえばそれはXTCのアンディ・パートリッジには可能だったかもしれないが、僕ごときにそんなことが出来るだろうか。
いずれにせよ、今それに答えを出す必要はまったくない。

No(4840)

■…2017年 3月14日 (Wed)…….告知してるのを日記にも
さて3月19日(日)に新橋ZZにてライヴしてきます。
我々Imari Tones (伊万里音色)にて。
大先輩B.D.badgeさんと一緒にやる新橋ZZのライヴはいつも武者修行です。それでも前回お誘いいただいてから早くも一年近く経っていますでしょうか。
共演はバンド活動の酸いも甘いも知り尽くしたベテランの方々ばかり。アットホームで距離の近い会場ですが、そのぶん密度は非常に濃いです。まさにTokyo Deepest Undergroundといった感じ。
いつも胸を借りるつもりで全力でやっていますが、新曲とか実験的な曲を試す良い機会でもあります。
今回も、2月のライヴで初演奏した新曲”Overture”、および、これも人前で初披露となる”The Wave”という曲をやる予定でいます。The Waveは、サーフィンの曲、と言いたいところなんですが、本当は津波の曲なんですよね。今年発表予定の重い内容のコンセプトアルバムに入ってる曲です。重い曲だし、歌うの難しいんです。
さて、どうなりますことやら!
僕らの出番は最初で6pmから、とのこと。
お気軽に遊びに来てくださいませ。

No(4841)

■…2017年 3月17日 (Sat)…….オーバードライブ延長戦
機材トークはSNSには書かずにこの個人日記帳に好き放題に書きなぐって記録する。

昨年の今頃、オーバードライヴ(Overdrive、オーバードライブ)の泥沼に少しばかりはまりこんで、幸いなことにそれほど深くない傷で生還した。そして、そのおかげでコンセプトアルバム”Jesus Wind”のギターの音作りは狙い通りのものになった。たぶん幸運だった。

だが、それ以降、やっぱり時々、いろいろなオーヴァードライヴのペダルをネットで見ては、これもいいのかな、これもかっこいいな、とか思ってしまう時がやはりある。良くない傾向だ。

僕はいわゆるアンプライク系というのか、amp in a box的なオーヴァードライヴにはあんまり興味がない。それは、自分のやっている音楽のジャンルが、あまりクランチとかをメインに使うものではないので、ペダルで歪みを完結させるような機能を求めるとすれば、それはどうしても「ハイゲインディストーション」になってしまうからだ。

そして、今のところ、その役割はBlackstarのHT-Metalが十分過ぎるほどに果たしてくれている。現場にちょうどいいアンプが無かった場合の「サブ」の機材として、である。だが、サブとは言っても、メインに負けないくらいの音が出てしまう事も多々あると言っていい。

だから自分にとってのオーバードライブの使い方と言えば、やはりブースター的な使い方ということになる。良い感じにクランチしているアンプをプッシュして、狙い通りの音、自分の音、に持っていくために、ブースター/オーバードライブが非常に重要になってくる。

そんでもって、ブースター的なオーバードライブ、ということで言えば、TS系で全然構わない、というのがおおよその結論だ。といっても、昔ながらのTube Screamerというよりは、もうちょっとレンジの広いやつの方がいいな、という希望はある。

いわゆるトランスペアレント系(透明系)としては、僕は何年も前からAlbit/Crantortoiseの真空管ブースターを愛用してきたが、あれがそもそもばっちりTransparent系だった。そういう言葉が世間で流行る前からである。で、それは今でも使うし、今後もきっと使うけれども、持ち運びの楽さ、および、今狙ってる音がもうちょっと「色の付いた」音なので(メタル色とか)、ライヴで何度か「Toneriderの安いペダル」を使って良い結果が出てしまったところを経由して、真空管ブースターからTS系のオーバードライブに移行していった。

今日はちょっと故あって、3つのペダルを試してしまった。
それはつまり、今後より、アコースティック演奏でいろいろやることを考えているので、アコースティックに使えるんじゃないかな、という思いがあって試したのである。といっても、試奏は普通にエレクトリックでやったけれども。

試したのは、T-Rex Diva、Rockett PedalsのArcher銀、MXRのGT-ODである。
T-RexのDiva Driveに関しては、昨年の今頃、いろいろ考えている時に、結構有力な候補として考えて、何度か試奏もしていた。一年ぶりにまた試してしまったという感じだ。同様にArcherもいっぺん試したことがある。

この3つのペダルはどれも優秀だが、結論から言えば、この3つの中で自分の好みで言うならばやっぱりT-Rex Divaがいちばん良いと思った。音がクリアかつオープンであるところ、TS系らしい押しの強さも十分にあるところ、そいでいてMixとかローカットスイッチによって幅が広いというかversatileなところ、だろうか、評価ポイントは。

GT-ODは普通に、非常に優秀な音太い系のチューブスクリーマー系ペダルって感じかな。もちろん素晴らしいものだったけれど、自分はDivaの方が好みだった。
Archer銀に関しては、何をか言わんや名機のクローン。音抜け、太さ、適度な粘り、が両立している、という例のあれ。ただ、やっぱり俺に必要な音かと問われれば、「やっぱり違うよな」という結論にどうしてもなってしまう。

オーバードライヴってやっぱ難しい。
先月のプラマイの7年半ぶりの来日の際に見たら、James氏の足下は、何年もたつのに相も変わらずOCDだった。でも、そう思うとやっぱOCDは名機だよね。今となってはOCDなんて珍しくもないし、そのへんにいっぱいあふれてる陳腐な感じがするけど、やっぱり彼が使うととても良い。

名機と呼ばれて世間で評価の高いあれやこれやが、必ずしも誰にでも合うというわけではない。ありふれた昔からあるBOSSとか、ほんの安いペダルとか、そういうので素晴らしい結果が出てしまうことだって多い。いまどきのやたら高くてハイプされてるブティックペダルを使う必要なんか全然ない。

で、この3つの中ではDivaがいちばん好みだったんだけれど、少なくともアコースティックに使う用途だと、やっぱ違うな、と。いや、Mixノブが付いてるから、あれでほんのりブレンドさせたらいいんじゃないかと思ったんだけど、そんな甘いもんじゃなかった。つまり、基本の歪みのキャラクターが、既になんかやっぱ、違う。

この3つの中ではDivaがいちばん良かったとは言っても、やっぱり昨年何度か試した時と同じで、「良いんだけど、なんか違う」というのが正直な感想。いや、凄い良いんだよ、反応も正直だし、音もきれいだし。ただ、やっぱローミッドとかローのへんにあるちょっと邪魔な感じとか、なんか違うな、って。少なくとも、弾いてるその時は、「違うよなあ」と思いながら弾いていた。

つまり、「やっぱShoalsだよね」って。
オーバードライブは、やっぱそんな甘いもんじゃ無かったのである。少なくとも僕にとっては。
ほんのちょっとした違いが、弾き手にとっては、大きな違いになってしまう。
多くの人からしてみたら、DivaだってGT-ODだって、同じTS系だから、ほとんどおんなじじゃん、みたいな。でも弾き手にとっては大きな違い。
それこそ、聞く人からしてみれば、ArcherだってDivaだって、おんなじオーバードライブじゃん、みたいな。でも、弾く人にとってみれば大きな違い。

めっちゃヴァーサタイルで、大抵どんな音、どんな曲にも使えて、しかもどこから切っても自分の好みの音。そんなShoalsに、昨年、出会えたのは、どんな幸運だったんだ。ただの偶然というか、ただちょっと運が良かった、としか言えない。見た目が好みだった、とか。

ひとつ言えば、出会えた理由は、そういった定番とか世間で評価の高いやつ、いろいろ試す中で、「さすが評判の」ってハイプに流されるんじゃなくて、「違うな」とちゃんと思えたことかもしれない。

Y.O.S.さんのSmoggyとか、「すごく良いけど違うよね」とか、
Archerにしたって、「良いけど俺のニーズじゃない」とか、
Easternなんちゃらさんのやつも「相当良いけど、俺の音ではない」とか、
TDCのやつとかも、「これは美味いww でも違う」みたいな、
Leqtiqueとか「いやこれは違うでしょwww」と、
そんでWalrusとかも「きれいな音で好みだけど、それでもやっぱ違う」とか、
某ランドグラフのコピーみたいなハンドメイドも、「良いけど、太すぎる」とか。
あとは見た目かな(笑)

何度も言うように、しょせんオーバードライブなんてほとんどTSなんだから、みんなオペアンプとダイオードでどうこう、とかさ。
ちょっと幅の広い、自分に合った個性のTS、を見つけられればそれでいいんだよね。
自分にとってShoalsがやっぱそれなのかもしれない。

Clarity、Transparancy、表現力を広げてくれる豊かな倍音、メタル的な刃、琥珀色のテイスト、といったところか。使い方はすごく難しいのは重々承知しているが。

で、アコギにブレンドして使うにしても、Divaでどうかなと思ったけれど、そもそもの歪みの音質が好みじゃないんであれば、やっぱそこもShoalsを使って、Mixing Linkとかでブレンドする方がいいのかなー、みたいな。ちょっと足下が煩雑になっちゃうけれど。しかしそもそもアコギの信号に歪みをブレンドするという発想自体が間違っている可能性もあるので、来週あたり実験してみる。

でもDivaは、かなり好みなんだけど、少なくともやっぱ弾いてる時は「違う」「邪魔なローミッド」って思ってたけれど、ArcherおよびGT-ODっていう、世間で評価のとても高いペダルと比較して、仮にも俺はDivaの方が良いって思ったわけだから、これはやっぱかなり良いペダルだということだと思う。
たとえ自分にとって実用性がなかったとしても、勉強のためというか、比較および音作りの勉強のためだけにでも、ちょっと欲しいかも。いや、6時間ほど前には「こんなもんいらん」と思って店を後にしたはずなのだが(苦笑)。

ついでだから、また更新したShoalsのメモを載せておこう。
何度目だ、って感じだけれど。
もうビルダーさんのウェブサイトも閉じちゃって、作ってない可能性が高い、そんなレアなペダルだからして、そしてこの日記帳も検索には引っかかるから、
Heavy Lid Effects Shoals Overdrive (Memphis Overdrive)
ヘヴィリドエフェクツ、ショールズオーバードライブ、って書いて。



Heavy Lid Effects Shoals Overdrive の使い方 Tone’s Preset
まずはこのペダルの考え方を説明する…..
*すべてはDriveの設定でキャラクターが変わる。Driveに伴う多彩な変化こそがShoalsの最大の特徴である。
*Gainを下げればクリーンブースト的に使えるし、Gainを上げても破綻せず、むしろ音は太くなる。TS的なミッドの押しを求める時はGainを上げていった方が良い。Gain上げる:太い音、Gain下げる:すっきりした音。
*ブースター系ODの常として、Levelは基本的に最大と考えていいが、Gainとの兼ね合いで下げてみると良い結果が出ることも多いようだ。Gainを上げてLevelを下げるか、Levelを上げてGainを下げるか、相関関係で出力を決める。
*押し出しと太さを求めてGainを上げていきたいのは山々であるが、潰し過ぎると副作用がやはりあるので、ブースター用途の場合アンサンブル内での音抜けを考えるとやはりGainは午前を基本として、要所で正午まで持っていく方が経験上正解のようだ。
*Driveは「メタル指数」と考えて差し支えない。Driveを上げればゲインも上がる。
*Toneに関しては、Shoalsの最大の武器はシルキーかつエッジィな刃のようなハイエンドなので、基本的にToneを上げていった方が持ち味は出る。しかし太い音が欲しい場合は控えめにした方が良いのも事実。まずDriveでキャラクターを決め、Gain&Levelは兼ね合いの関係、しかしToneは常に環境や気分に合わせて流動的に考えた方が良いようだ。
*このペダルの良いところは、「上げても破綻しない」「上げるほど持ち味を発揮する」「どのセッティングでも使える」「多用途に使える」というところにある。そのぶんセッティングは、とてもとても難しい。
*Drive(ロー)もTone(ハイ)も、上げ下げすると出力も上下する。ブースト出力の調整に関わってくる部分である。
*ゲイン、出力は十分にあり「100%クリーン」なアンプ以外、「20%でも歪むアンプ」さえあれば、ハードロックが弾ける音までは「必ず」プッシュできる。ただしEQ、Toneの設定に注意すべし。歪みの質感はEQに大いに依存する。
— さて以下のプリセットはあくまで参考である。スタート地点として考えていただきたい。–

8時のクリーンブースト (Drive 8時) (朝焼けブースト)
最も癖のないブースト。Level最大。Toneは高めが基本。用途によりGainを上げていく。Morning Gloryの名の通り、案外とBritish Classicか。

9時のCream Breaker (Drive 9時)
Marshall Blues Breakerペダル(初代)との比較を行っていた際に、結局Drive9時で最も近い音が出たことから。BBのキレ及びハイミッドの張り出し及び絶妙の曇り具合に迫るため、Gainは高め(4時くらい)に落ち着いた。Toneも極力高めと考えていい。当然ながら(残念ながら)BBよりも低域はガッシリしており、definitionもよりはっきりしている。

10時のチューブブースト (Drive 10時) (つるかめブースト)
Albit/Cranetortoiseの真空管ブーストに近いニュアンスがもっとも出やすい。Level最大。Toneは高めが基本。いいと思うところまでGainを上げていく。

11時のすっきりスクリーマ (Drive 11時)
10時と11時でかなりキャラクターが変わる。以下、Drive11時から2時くらいまではTSゾーンである。TS的なミッドの押しを求めるセッティングのため、Toneは必ずしも上げる必要はない。11時から12時が目安。Gainを上げていった方がTS的な押しの強さと音の厚みが出るようだ。その場合必要に応じてLevelを下げる。

11時半のケンタロウドライヴ (Drive 11:30)
健太に似せるためのスウィートスポットは11:30くらいにあるようだ。Gain2時、Tone4時でヘヴィドライヴ、Gain11時、Tone1時でライトブースト。その他GainとToneの組み合わせで色々やれると思う。ただ本物のクリーンミックス感に迫るにはToneはGainプラス1or2の位置関係がいいようだ。

12時の凪ドライヴ (Drive 12時) (上司ドライヴ)
なぜか知らないがDrive12時だと面白くないのである。ピンと来ないのである。まるで正午の凪である。ということは逆にどうしようもない時にここに合わせるといいのかもしれない。サラリーマン上司(Boss)ドライヴと呼びたい。「ああ、これね」という「間違いのない」音になるだろう。

1時の普通スクリーマ (Drive 1時) (British Screamer)
Drive、Gain、Tone、Level、すべて1時。ある程度歪むアンプ(Marshall想定)に使用する。まったくもって普通のスクリーマー系プッシュドライヴ。レスポールと合わせれば伝統ブリティッシュ。

2時の標準ドライヴ (Drive 2時) (じゃじゃスクリーマ)
適度な厚みを持ち、じゃじゃ馬的なパワフルさと、どんな音楽性にも対応できるversatileさを兼ね備えたShoals基本のセッティング。Drive、Gain、Tone、Level、すべて2時に設定するのが基本。そこからまずGainの最適値を求め、必要に応じてTone (ハイエンド)を上げ下げする。

2時のバーボンブースト (Drive 2時) (American Screamer)
要するに僕の「いつもの」セッティングのことである。Drive2時、Gain午前中、Tone午後、Level最大。あくまでShoalsの本来のキャラクターを生かすフルレンジで透明な琥珀色のセッティング。TS的なMidの張り出しはアンプのMidをちょい上げすることで出る。

2時のToneRider (Drive 2時) (Chinese Screamer)
しばらく有用していたTonerider AO-1の音に合わせたセッティング。押し出しの強いモダンTS系の用途。Drive2時、Gain2時、Tone1時、Level3時。Toneriderを上回る性能は実証済み。

3時のTS Breaker (Drive 3時) (Metal Screamer)
Drive3時、Gain2時、Level2時、Tone11時。現時点でこれがビンゴ。Metal Screamerとも言うべきTSを越える芳香なドライヴをここから作り出せるはず。

3時のBritish Steel (Drive 3時)
Drive、Toneともに3時が基本。Gainは必要に応じてなるべく上げていく。Shoalsの持ち味がもっとも美味しく出るスウィートスポット的なセッティング。スピード感とソリッドな切れ味の良さがあり、鋼のような刃のようなそんな正統派のヘヴィメタル。

4時のエクストリームメタル (Drive 4時)
Drive、Toneともに4時が基本。Gainは必要に応じてなるべく上げていく。ローエンドに殴りつけるような圧力と、厚みのあるハイエンドの刃が加わってくる。現在のEVHサウンドに近いニュアンスでもある。

5時のつや消しドライヴ (Drive全開) (Matte Drive)
特定のギターで太い音を狙いたい場合に有効。Drive全開、Gain3時、Level12時、Toneゼロ。Shoalsの持つ最も太い音と言える。Toneはゼロでも実用可能だが、現実的にはそこから適宜Toneを上げていくことになるだろう。

5時のストーナードライヴ (Drive全開) (Stoner Drive)
Drive最大の状態でGainやToneを極力下げていく。太いが古くさいブーストサウンドを作ることが出来るだろう。

未知の最大 (Drive全開)
さて問題は、どんなときにDriveを最大まで上げる必要があるか、という時だ。往々にしてローエンドが出過ぎる状態になるので、少し戻して4時にする事の方が多い。誰かをぶん殴りたい時か、まったく歪まないアンプを最大出力でプッシュする必要がある時などが考えられる。

No(4842)

■…2017年 3月17日 (Sat)…….苦しみ続けるためのアティテュード
機材とか楽器はなんでもそうだけれど、それはアティチュードなんだろうなという気がする。アティチュードというのは便利な言葉だけれど。
Klon Centaurがいろんなギタリストに愛用されて伝説になったのは、「なになに系」とか「ブースターとしてどうの」とかいうんじゃなくて、アティチュードのある道具、アティチュードのある音だったからだろう。

もちろん汎用性とか一般性とか、BOSSとかMXRのペダルに代表されるようにそういった魅力もあるけれど。

アンプでもペダルでも、結局そういったアティチュードの「かっこよさ」にギタリストは惹かれる。本来そういうもののはずだ。といっても現代はそういったアティチュードを感じるよりも、商売上のハイプとか群衆の力学によってマーケットが支配されるようになって久しい。人気があるとか定番とかそういんじゃなくて、自分だけの何かを表現するための特別でパーソナルな道具だったはずだ。本来楽器というものは。ロックンロールにおいては。

だがバンドとか音楽シーンも既にそんなパーソナルな表現どうこうじゃなく、別の力学とか、人気投票の力学によって支配されるようになって久しいのもこれも誰でも見てわかるとおりですよね。

たとえば数多くあるオーバードライブのペダルを分類するのに「なになに系」とかいって分けるのは便利なことだけれど、コーヒー豆を選ぶときだってその分類があまりアテにならないことは経験上よく知っている、それと同様に。
そういった便宜上の分類よりも、アティチュード、アティテュード、(姿勢、パーソナリティ、気風)、そういったものを感じながら選ぶ方がたぶん正しい。

オーバードライブに関して言えば、オーバードライブは難しい。ギターの信号を最初に増幅してクリッピングさせる位置にあるからして、そしてその後のアンプなり音の出口への相互作用という意味合いもあるからして、とても難しい。だから泥沼な分野だ。
(つまり、かなりの部分そこで音を完成させてしまう「ディストーション」よりも、アンプとの連携の余地を多く残した「オーバードライブ」の方が使い方が複雑になる。)

その難しさから逃げる、とか、わかりやすい解答、安易な解答を求めるんじゃなくて、その難しさに一緒に向き合っていける機材に出会いたい。そんでたぶんそれはピッキングという課題、ギターを鳴らす上での「手」の部分に一緒に向き合うことでもある。

だからこそ安易な解答はいらないし、安易な解答を提示するような機材も必要ない。

No(4843)

■…2017年 3月17日 (Sat)…….ブッシングの記録
ブッシング(仏寝具)変えて正解だったっぽい。硬いの(97)に替えた。ギターのピックも最初は柔らかいのが好きでそれから段々硬くしてミディアム程度(緑)に落ち着いた。この97ってのはピックで言えば1.0ミリってところかな。むしろマニュアルもオーリーも安定した感がある。

スケート始めた頃に見ていた、例のAaron Kyroの教則ビデオで「マニュアルは柔らかいブッシングの方がやりやすいよ」とか言っていたけど、自分でやってみた限り、これは大嘘だったな(笑) もっと早く気付くべきだったか。

その他、ブッシング硬くして気付いたこととしては、普通に乗る時、バランスの取り方がちょっと変わる、というか、つまり柔らかいブッシング使ってる時は、路面の状態のあれこれとか小さなバランスの揺れをブッシングが吸収してくれていた。けれども硬いブッシングにしたらそれが直接足に来るというか、自分で調整吸収しなくてはいけない。だから自然とより膝を深く曲げた状態でより深い姿勢でプッシュとかライディングすることになる。この方がたぶん、本来の姿勢として良いように思う。

それからやっぱりトリック全般は硬めのブッシングに変えて明らかにやりやすくなったようだ。
逆に言えば、ライディング重視の、たとえばクルーザーとかは、柔らかいブッシングの方が良いんだろう。その方が悪路にもきっと対応できるはずだ。
けれど、トリック重視の場合は硬めの方がいいのかもしれない。

(間違ってるかもしれんけど、今日試してみた感触としてはそんな感じ。)

No(4844)

■…2017年 3月18日 (Sun)…….都合のいい人生、都合のいい歪み
昨日、僕はまたちょっと「オーバードライブ」について考えていた時に、このオーバードライブという宿命的に難しい位置に置かれたテーマについて、「安易な解答はいらない」「安易な解答を与えてくれるような機材はいらない」と書いた。

それは、繰り返しになるが、オーバードライブというのは、ギターからの信号を最初に増幅して色付けし、そしてそこだけで完結するのではなく、その後にあるアンプという音の出口に対しても相互作用する余地が大きい性質のものだからであり、それはまた、ギタリストのピッキングとアンプとの反応をつなぐものとして、プレイヤーの手元と直接つながっているペダルだからである。

そんな難しい永遠の問題に対して、安易な解答、これで大丈夫、みたいな解答は必要ないと、僕は思ったのだ。悟ったというか。
僕はこのオーバードライブとアンプの相互関係という複雑なテーマについて、そして自分自身のピッキングについて、もがきながらもずっと向き合っていたいと思ったのだった。そして、共にもがいてくれるような機材こそが、最良のものではないかと思ったのだった。

しかし、そう考えた時に思い当たった。
では、自分は自分の人生というものに対して、同じように安易な解答や、安易な出口を求めてはいなかっただろうか、と。
安易な解答、安易な出口を求めようとしたことが、一度ならずあったのではないか、そして、あるいは今でもそういったものを探しているのではないか、と。

ギタリストのピッキングとオーバードライブ、アンプの出音の相互作用の問題は、非常に難しく、これが正解だ、という答えなど、どんな時にも存在しないくらい難しいものだけれども、

人生という問題は、やはりどう考えても、当然それ以上に難しいものである。
その難しさすら、私はわかっていただろうか。

安易な解答を出すくらいであれば、いっぺん挫折でも破滅でも経験して、時間を置いてゆっくりやりなおした方がまだましなのではないだろうか。

安易な解答にたどりついてしまうことが、どれほど実は不幸なことなのか、それを知ってしまっているのであれば。

では、安易な出口を求めないのであれば、どうするのか。
それはきっと、困難と矛盾の中で、苦しみ続けるしかないのである。
これ以上ないくらいに陳腐な台詞だが、苦しむ中で、見つけたものこそが、人生なのではないだろうか。
そんでもって、神が欲しているのは、それなんじゃないだろうか。
人間的な成功や栄光とかよりもきっと。

自分も例にもれずわりとひねくれている方の人間だから、
機材であれ音楽のスタイルであれ、他の何であれ、
やたらとマニアックでハードルの高い、使いこなしの難しいものをわざわざ選んでしまう傾向が強いのは自分でも知っている。
だからって、人生も難しい方を選ぶとは限らない。
選ぶつもりはちっともなかった。
少なくとも、当初の計画では。

でも、気付けばどんどん、難しい道に迷い混んでいるような。
人にとって一番の謎は、自分自身なのかもしれない。
人生を甘く見てはいけない。
そんで自分自身を甘く見てはいけない。
自分がいちばん、自分のことが見えていないのだろうから。
最大の謎は、自分の中にある。

その謎は、わかりやすい安易な解答なんてものは、きっとはねのけてしまう。

人生に、都合のいい解決、なんてものは、きっとたぶん無い。
あると思ったら、きっと気をつけた方がいい。

なぜなら安易な解答に飛びつくことは、自分自身を限定することであり、
そして自分自身を限定することは、神を限定してしまうことなのだから。
それは「誰にでもできる簡単な神の冒涜の仕方How To」に書かれているとおりである。

No(4845)

■…2017年 3月20日 (Tue)…….Calling TV 順番きたる
昨日の新橋ZZのライヴありがとうございました〜。いい演奏が出来たように思います。(所感はまた後ほど)
ところで一週間後にまたちょっとした「ギグ」がありまして。YouTubeの配信で演奏します。Calling Recordsの番組です。「生ライブ」だそうです。おみおつけサルサソース腹痛が痛いところのRedundantです。うちのバンドの人たちは出不精なので僕は一人アコースティックで演奏します。3曲くらいやれって言われてる。何やろうかな。「鍋島」の曲を披露しちゃおうかな。3曲くらいって選曲が難しいよ。でもクリスチャン向けの番組だし、どうせみんなしっとりした賛美が聞きたいんだろ??意向には沿わなくても期待には応えるぜ。誰か見てくれるのかい?でも誰かは見てくれるんだろうな。夜路疾駆ジーザス。
こちら

No(4846)

■…2017年 3月21日 (Wed)…….限界ないラヴァーズ
日々のジャーナルというのか日記というのか。
かといってもちろん毎日書いているわけではないが。
感じたこと、生活の中で特に何かを感じた時になるべく書き留めておきたいと思うのは、莫迦な習慣だと思っていたが、あるいはひょっとするとこれにも意味があるかもしれない。
そのうち意味のあることが書けるようになるかもしれないのだから。

さて先週の土曜日はCalling Recordsの仲間であり同志みたいなバンド「ソルフェイ」さんが新宿の御苑サウンドってところで「LGBT」のイベントで演奏したので見に行ってきた。

以前も書いたが、仮にも「クリスチャンロックバンド」がそういったLGBTのイベントで演奏するっていうのは結構画期的なことだと思う。日本ではクリスチャンバンドそのものがほとんどいないので比較が難しいが、欧米で一般的にクリスチャンのバンドがそういったイベントで演奏することは少ないと思われるからだ。

ましてや僕もたとえばアメリカの”The Extreme Tour”に参加した時とか、そういう関係で、向こうのクリスチャンバンドの人たちとか教会の人たちとか、彼らの発言をファーストハンドで多少は見聞きしていることもある。もちろん、どこの国だろうとどこの場所だろうと色々な考えの人がいるだろうけれども。

たとえば一緒にツアーした仲間だからフォローするとすれば、アンジェロなんかはきっと「最後までなるべくジャッジしない」やつだと思う。それは別に彼が愛にあふれているからとか寛容だから、とかではなくて、「ジャッジするのが面倒だから」というニュアンスなのを何度か感じたことがあるが、そのあたりがいかにも彼らしいし、そのへんが彼のたくましさでもあるんだろうな。右だろうが左だろうが、どんな考え方の人でも彼はきっとジャッジしないんだろう、そしてその理由は「面倒だから」。俺はそれでいいと思う(笑)

どちらにせよ、とにもかくにも画期的な演奏をしたソルフェイさんには本当に誇らしい思いだし、素晴らしいと思う。

2月のCalling Recordsのイベントといい、この前に見てきた「斧寺カズトシ & Lord Runners」の教会ライブといい、日本のクリスチャンロックとして良いものを最近いくつも見ることが出来て、僕は本当にちょっと嬉しい思いだ。ソルフェイさんは3月あたまにやったレコ発もすばらしかった。特にドラムのルカ君は最近非常に成長して持ち味が出てきたように思う。バンドの「気持ち」つーかエンジンとしてパワーを発揮している。

そしてこの日はいわゆるLGBTのイベントであったから、ソルフェイ的にもルカ君が主役だったように思う。本当に格好よかった。ちゃんと信じているもの、「イエス・キリストを僕は信じています」ということを言ったのは本当に素晴らしいことだし、単純に偉いよね。いろいろな「壁」をそうやって崩していくんだと思うし、壁を壊すのは何よりもやっぱり「信じている」っていうその気持ちなのだと思う。そしてイエス・キリストなんて言ってしまった日にはそりゃもうどんな壁も壊してしまう強力なワードであろうことは想像に難くない(笑)

そしてバンドの皆さん素晴らしかったが、オオハラ氏も本当に頼もしくなったものだ。一貫して彼は「神の戦士」でありつづけていると思う。

イベントそのものは非常にアットホームなもので、恥ずかしながら僕はそういったLGBTコミュニティについてもそれほどよく知らないし、あれこれ言える立場には無い。けれどもとてもアットホームなイベントで良い感じだった。そして、ジェンダー的なものがどうであったとしても、人は人、人間は人間というか、皆、「人」とか「日本人」とか、そういうくくりで別に同じであることには違いない。キリスト教的にはみんな等しく「罪人」だし、ミュージシャンの立場からしてみれば、みんな等しく愛のメッセージを届けたい相手であり、そしてステージに立てば、ジェンダーの分類などまったく関係なく、男だろうと女だろうとその中間だろうと、ただ「セクシーかどうか」、それだけが問題だ。(個人的には僕は昔から「男らしい」ミュージシャンよりも「中性的」なミュージシャンに魅力を感じることが多かったが、それはまた別の話である。)

そしてソルフェイ以外にも、LGBTコミュニティにゆかりのある何組かのアーティストさんがステージで演奏していたのだが、もちろん皆さん印象的で素晴らしかったが、僕もそれらを見て、なかなか勉強になるところがあった。

僕はコミュニケーションに根本的なところでの問題がある方であるので、それほど皆さんとお話するというわけにもいかなかったが、その場において、とあるカップルというのか、つまりは戸籍というのか生物学的な性別はお二人とも女性になるらしいのだが、そのうちのお一人は中身は男性というのか男性寄りというカップルがおられた。そして、驚くべきことにそのお二人が出会ったのは3歳という幼い頃であり、そしてまた驚くべきことにその時からすでに恋愛感情のようなものがあったらしい。僕は話していて、そのことを信じざるを得なかった。自分だって、さすがに3歳ってわけじゃないが、嫁さんとは10代の頃からの付き合いだったり、いろいろするわけだし。

で、そのカップルの男性(中身)の方と少しだけお話をさせていただいたのだが、印象的だったのが、彼がこう言っていたことである。「自分は心は男性であり、彼女のことを愛していますが、肉体的には女性の体を持って生まれてきました。しかし、それも理由があることだと思うので、今はそのことを受け入れています。」と言っていたことだった。そうか、受け入れたのか、と思い、感銘を受けた。「なんて男らしいんだ」と(笑)。いや笑うところじゃないんですが。俺が思うに「大和魂」の定義とは、大きな心ですべてをありのままに受け入れること。そう考えると、まさに彼は、大和魂を持った日本男児の鑑(かがみ)ではないか。

勉強になった、とは、つまり、LGBTという特定の条件でなかったとしても、これは決して他人事ではないのだ。つまり、肉体的なあれこれは、誰にでも起こりうる。年齢もあれば、健康状態もある。もっと難しいあれこれの問題もある。それは別にゲイでなくてもストレートでも色々なことがあり得る。

そういった時に、「肉体的な制限」を越えて、僕は嫁さんなり大事な人と愛を共有していけるだろうか。そう思うと、これはとても勉強になる、示唆を与えてくれる機会ではあった。

たとえば僕と嫁さんは、社会的、人生の環境としてはともかくも、肉体的にはそれほど不自由ない健康な男女として出会った。けれども、そこにもし(LGBTといったものに限らず)肉体的なハードルがあったとしたら、きちんと愛を伝えることが出来ただろうか。自分に問いかけてしまうのである。

言ってしまえば、「若い健康な男女」であれば、セックスなんてものは、別に「愛がなくったって」成立する。それは、そういうものだからだ。けれども、「肉体的なハードル」が、ちょいとばかし、あったとして、それでも成立するとすれば、それはたぶん、なんかもうちょっと、愛みたいなものが必要な気がする。

愛というのは、多少なりともハードルとか障害みたいなものがあって、それだから燃える、とも言えるが、逆に言えば、愛とは、神が人に対して「ハードルを越えていく」ために課す運命の宿題のようなものでもある。壁を壊し、障害を越えるための原動力である。
愛があればそんなハードルとか障害を越えられる、のか。たぶんそうなんだろうな。

俺はたぶんきっと、神は言っていると思うのだ、人に対して。
肉体的な、物理的な、そういった制約を乗り越えて、お前らは愛を伝えていけるのか、と。
旧約の時代とか原始時代にはいろいろ制約もあったかもしれん。
そこにはそれなりに理由があったと思う。
しかし、人は前に進み、より愛を表現していくものだ。
だからこそイエスキリストだって地上にやって来た。
愛に限界など無いところを見せてみろと、神は言っているのかもしれん。

そんでもって、俺は「神は愛」だということを、やっぱり信じている。

No(4847)

■…2017年 3月22日 (Thu)…….本当に信じてしまったら商売上差し障りがある
備忘録メモ:
邦楽ロックあるあるかもしれないが、「轟音」とか「激しい」とか言われるバンドの多くは、轟音や激しさの「イメージ」や「記号」を表象しているだけであって、実際にヘヴィであったり激しいわけではない。そういったバンドが人気を博すのは、本当に激しいものよりも、「記号」や「イメージ」の方が、一般の人々にとってお手軽に導入がしやすいからだ。そして本当に「轟音」「爆音」「ヘヴィ」なものが好きな人は、ちゃんとそういったジャンルを追求していく。
どちらにせよ人間というものは、本当に音楽が好きという人は少数で、そんな[激しい、マニアックな、おしゃれな、etc]音楽を好きな自分のことが好き、な人が大多数なのだということはこの歳になればさすがに知っている。言ってしまえばキリスト教の信仰にしたってこれは例外ではない。多くの人は、神のことが好きなんじゃなくて、神のことが好きって言ってる自分のことが好き、なだけだったりする。そして音楽であれ宗教であれダイエットであれ、その「自己陶酔」をこそ売り物にしている、これが基本だと思う。(それ言っちゃおしまいだが)

No(4848)

■…2017年 3月23日 (Fri)…….Sakura Day アコースティック練習リハスタ
いや普段アコースティック演奏あまりやらないんで、今度の配信のためにリハスタで特訓。。。
反省のために携帯で動画撮ったけど、悪くなかったからシェア。。。ていうか保険かけちゃう、格好悪いけど。つまり、日曜のCalling Recordsの配信でうまく演奏できなかった場合、こっちを見てもらえれば的な保険(汗)。
何の曲をやるかすっごい迷ったんだよ。いっぱいあるから、選択肢は。で、よくよく考えたら桜の季節じゃないか。だから急遽練習した。
この曲は、「鍋島」プロジェクト(24曲二枚組w)に入っている曲で、Sakura Dayというタイトル。もちろんバンドで演奏した方がいいけれど、アコースティックでもやれる。今度の「Overture」および「鍋島」のソングライティングを終えて、アコースティックでやれる日本語の曲が、本当に増えたんだよね。もう「ヘヴィメタルだからアコースティックは苦手」とか言わないし、言わせない・・・ように、練習します(笑)
こちら

No(4849)

■…2017年 3月23日 (Fri)…….あばたもえくぼもヴィンテージマーシャル
もう10日くらいになるのかな。なんか鼻炎でね。風邪なのか。あるいは花粉症なのか。
最初は花粉症かなと思ったんだよね。僕は5月6月のよくわかんない花粉アレルギーは何度か罹ったことがあるんだけど、2月3月の「ポピュラーな」花粉症にはなったことが無かったから、これはもしかしてついに罹ったのかな、と思ったんだけど、その後別にくしゃみとか出るわけでもなく、よくわからない。しかし、鼻炎とか風邪っぽい症状はずっと続いていて、おかげでノドはずっとやられているわけだ。うーん、なんかの感染症かなあ。

今月は、ちょっとヴォーカルの録音もしたいと思っていたんだけれど、この鼻炎からくるノドの荒れのおかげで予定が狂っている。来週こそは出来るかな。

そんな状態だから、この前の日曜日にやった新橋ZZのライヴも、実はほぼ「風邪」の状態だった。ノドは荒れまくり。けれども、例によって日本のシンガーがみんなお世話になってる「あの漢方薬」のおかげで、それほど問題なく歌うことが出来た。むしろ調子良かったくらい。ただ、歌う音域というのかハイトーンの音域は大丈夫だったんだけれど、しゃべる方の音域はそうでもなかったらしく、最後の曲でキーの低い曲を歌ったら完全に声が崩壊していた(笑)

どちらにしても、新橋ZZのライヴ、ありがとうございました。
いつも誘っていただいているB.D.Badgeの皆さん、寿朗閣下。そして共演の方々、見にきていただいたお客様。本当にありがとうございます。
曲目はここんとこやっていなかった曲を復習する感じで、また”The Wave”を人前初演奏するとか、いろいろ試みましたが、結果は良かったと思います。テンションは最高潮ってわけじゃなかったけれど低くはなかったし、ギターもヴォーカルも堅実な演奏が出来たと思います。あれですね、セットリスト的に記録しておくと、1.Overcome, 2.Overture, 3.The Wave, 4.The Imaginary Number Boy 3, 5.Unknown Road, 6.Big World、という感じです。Big Worldはかなり久しぶりでしたね。それこそ2014年にいわきのお子様たちの前でやって以来だったんじゃないかな。

そんでもってB.D.Badgeさんが無敵なのは言うまでもないですが、共演のバンドさんがみんなそれぞれ非常にレベル高く表現を突き詰めていらっしゃる方々ばかりで、本当に刺激になりました。僕らもバンドやってきて、普通にライヴハウスに出ると自分らよりも若いバンドがたくさん居ることの方が多いですが、こういった本気で長年音楽を究めてらっしゃる諸先輩方と一緒に演奏できる機会をもらえるのはめっちゃめっちゃ貴重なことです。非常に財産になっています。そんでもって、ロックの歴史とか、文化とか、そういったものの意味をいろいろ考えちゃうよね。

で、ここから先はプレイヤーとしての地味な所感、その記録です。

新橋ZZでやる時には、あそこには[Peavey 5150]のクローンのBugeraコンボがあるので、最初、何度か出たときにはそれを使っていたんだけれど、いつもステージの反対側にあるから、音響の方にアンプを運んでもらうのがなんか悪くてね(汗)。で、その後はしょうがないので定位置にある[FenderっぽいBugera]にBlackstarのペダルをつっこんで弾いていたんだけれど、それでももちろん結果は悪くなかったんだけれど。でも今回は、寿朗閣下のMarshall JCM800を使わせてもらったわけさ。

寿朗閣下のマーシャルを使わせてもらったのは、昨年10月のEl Puenteの時が初めてだったんだけれど、「手強いアンプだな」という感想とともに、「ゲインが低い、歪まない、弾きにくいけれど、でもすげえいい音」という感じがして。つまり、歪まないから演奏のハードルはめっちゃ高いんだけれど、でもきちんと弾くと、すごい結果が良いという。

で、その時以来、二度目に寿朗閣下のアンプを使わせていただいて。
僕は勉強不足だったんだけれど、まず、寿朗閣下のアンプは、リイシューではない、当時の本物の、それもたぶん初期型の[800]ですよ、と。

で、これは俺、勉強不足だったし、最近、Brainworxのアンプシミュレーターをパソコンの中で使っていると、その[800]が、なかなか手強い感じで、それはライヴハウスとかスタジオで何度も弾いたことのある[800]とはちょっと違う感じなんだけれど、それはつまり、リイシューのやつは「ちょっとトレブリーで素直な軽い歪み」ということで、当時のオリジナルは「もうちょっとマディな割り切れない歪み方をする」ものらしいんだね。ググったら出てきた。だからつまり、Brainworxのシミュはその当時もののモデリングなんだろうね。でも、その「割り切れない感じの使いにくい音」なんだけれど、ビンゴな音をつかまえた時は、それは「これしかない」って感じになる。これはわかるよね。で、それがたぶんJCM800が名機だと言われる所以なんだろう。

そいでもってさらに寿朗閣下の800は、4インプットのやつで。チャンネルリンクが出来るんだよね。で、最近驚くことが多いんだけれど、YouTubeでアンプ関連の映像見てたら、古いアンプにチャンネルリンクしてある動画に、たぶん若い子たちだと思うんだけれど、「あのつないである短いケーブルは何だ」って、いっぱいコメントが付いてるんだよね。びっくりしちゃって。そうだよな、今の若い世代とかチャンネルリンクとか知らなくて普通だよな、って。
ていうか、俺たちの世代だってわりとギリギリだからね。知識としては知っていても、正直、大人になってから自分で所有したアンプとかで、チャンネルリンクとかするようなアンプは、無かったし、もう売ってなかったよね。で、音響を助手されていた若手の方が、やっぱり「これは何ですか」って質問していて、またも驚いてしまった。今の世代のバンドマンとか、知らなくて当然か。

で、4インプットでチャンネルリンクするから余計に音作りが難しい上に、寿朗閣下のマーシャルは、改造してあるからなのか、真空管なのか、寿朗閣下仕様だからなのか、「あんまり歪まない」んだよね。
だから、オーバードライブをつっこんでブーストするしかない。

ただ、昨年から僕が愛用しているオーヴァードライヴ、[Shoals]との相性は結構良いみたいで。昨年10月にやった時も素晴らしい音になったんだけれど、半年たって、あの時よりは僕もShoalsの使いこなし方が理解できてるので、もうちょっと積極的に作っていけた。オーバードライブのつっこみ方に関してだけれど。

そんでも、すっごい手強いアンプであることには違いない。
ゲインというのかサスティンみたいのも無いし、音があまり粘らないし。
けれども、そのぶん、音がとても正直だし、ピッキングがきちんと出来た時には、とても素晴らしい反応を返してくれるんだよね。だから、ハードルは高いんだけれど、得るものも大きいというか、弾いていて本当に楽しいアンプだ。

僕はどうしてもハイゲインでハードロック、ヘヴィメタルを演奏するから、寿朗閣下の使い方とは違うし、あるいは、ペダルで歪ませて、って方法論とも違う。あくまで、オーバードライブでブーストはするけれども、アンプの音で弾きたい、っていうこと。それは弾き手としてはハードルの高い音だけれど、だけれども本当に貴重な経験になった。そして、その音でライヴをやって、ばっちり結果を出せたこともギタリストとして大きな経験というか勉強になったと思う。

そしてもって、この寿朗閣下の[歪まない、手強い、けれど正直]なヴィンテージ改造800と合わせたことで、オーヴァードライヴに関して、あらためてきちんと自分の中で明確な答えが出せたように思う。つまり、自分にとってのオーバードライヴの使い方はどうあるべきなのか、という命題について。

やっぱりライヴは情報の密度が濃い。音がぶつかりあう現場で得た答えは、やっぱり重く、貴重だ。

写真、アップしておきましょうかね。
ちょっとはかっこよく写ってると思われるものを、ナルシスト的な視点で。
おかしなことに、うちの嫁さんなんかは、僕から見て「これは自分かっこわるい」と思う写真を、バンドページとかにアップしたりすることが多い。
これは、視点が違うということなのか。
けれども、自分が自分でかっこいい、と思っている所よりも、案外と、自分自身でかっこわるい、と思っているような所。そういう所を「良い」と思ってくれる相手というのは、長い間一緒に居てくれる相手というのは、案外とそういう人なのかもしれない。

手強い機材とあばたもえくぼ。
それでこそ最高の音が出たりして。

No(4850)

■…2017年 3月23日 (Fri)…….絶対基準!! 無色透明のTS の巻
で、オーバードライブのお話、続きというか、たぶん「俺にとってのオーバードライブ」のお話は、これであるいは完結かな、くらいの。いや、きっとまだこれからも考えて、悩み、書くだろうけれど。

結局、T-Rex Diva Driveですね。あれ、アコースティックに合わせてみたら、目論見どおりばっちりだったですよ。
つまりは、俺はアコースティックギターというものの使い方、考え方が、比較的、割り切って考えていて。
つまりは、俺にとってあのHeadwayは、純粋に「老後のため」のものであって、ライヴでの使い勝手どうこうとか、録音のため、とか、実はあんまり考えてない。Headwayの音は硬くて使いにくい、とかあるかもしれんけど、そんなの知らん、自分だけのために、自分が幸せになれる音だったらそれでいいんだ、って。

で、ピックアップのっけるのに穴開けたりリペア屋に持ち込むのすら面倒だったから、ライヴの時だけマグネティックをくっつけることにして。
で、やってみると、案外とマグネティックって違和感なくて。
っていうのは、俺はしょせんエレクトリック弾きだから。ヘヴィメタルの。
そして、近年のマイクっぽい生音っぽいピックアップがいくら発達したといっても、「しょせんは生音に似せたもの」。けれどもマグネティックの音は、エレクトリックギターとしてはオーセンティックなものだ。わかるかな、この感覚。

だから、エレクトリックでいいや、って。あとは、エレクトリックと同じような感覚でやれた方がむしろ都合がいい。マグネティックピックアップをネジ止めするから、ライヴの際にはボディがピックアップで押さえられて生音が本来の音量で鳴らないんだけれど、つまりライヴの際、人前では決して本当の音を聴かせられない皮肉なギターなんだけれど、けれども、ライヴの際のPAを通す音なんて、どんなピックアップ使ったって、しょせんは「別物」でしょ。だったらエレクトリックの発想でやる方が早い。

だから、オーヴァードライヴを使ってみようという気になった。
結果、コンプを使うよりもダイナミズム的に違和感なく音に倍音を乗せることが出来たように思う。家のスピーカーおよび、リハスタで試してみた限りでは。Mixノブを使うことでダイナミズムを段階的に調整できるのがすごい便利なんだよね。もう、裸足でプレイして足でいじることにしたよ、Mixノブ。裸足のアコースティック。

T-Rex Divaは、間違いなくTS系なんだけれど、使ってみた実感としては、「音が素直なTS」という感じかな。
アコギに使えるんじゃないかと思ったのは、もちろん、Mix機能が付いているからなんだけれども、それ以外にも、TS系の割には、それほどローが削れないというか、比較的ローエンドが保持されるように思う。

レンジ広めの、無色透明なTSっていう感じで間違いないと思う。
近年のオーバードライブには透明系、トランスペアレント系っていうカテゴリの分け方があるようだから、透明なTSっていう時点でカテゴリ的には矛盾しているようだけれど、僕の実感はそんな感じ。

何度か試したときに、「ローミッドがちょっと邪魔」と思ったのは、TS系の中ではわりとローが残るせいかもしれない。ローエンド切り替えスイッチが付いているけれども、これは積極的に音作りの幅を広げるというよりは、ギターが変わっても同じ音が出るように、という用途だと思うので、僕としてはNormal以外は使わないと思う。MidにしてもFatにしても、「ローエンドが多過ぎるよ」ってなった。そもそもローエンド保持したけりゃMixを下げて原音を混ぜればいいんだし。
(実際に某YouTubeのレビューでも、Mid:テレキャスのフロント、Fat:ストラト、Normalはハムバッカーが合う、としていた。僕はハムバッカーの人なのでNormalということだと思う。)

で、その比較的素直な音ゆえに、やっぱりアコギにはばっちりだった。(当社比)

そいでもって肝心のShoalsとの比較なんだけれど、
Shoalsと比べるとやっぱりDivaの方が素直だね。
つまり、比べてみるとShoalsの味付けがよくわかる。

で、どっちが好みの音かって言ったら、エレクトリックを歪ませるオーバードライブとしては、やっぱり断然Shoalsの方が好み。これはもう、これではっきりした、という感じ。Mixノブの効果もあるかもしれないが、Shoalsのセッティングをいろいろいじっても、ローエンドに関してはやはりDivaの方が残る。逆に言えばShoalsの方がローエンドがタイトに削れる。Divaの方がローエンドがタイトじゃない、とも言える。

“バーボンテイスト”な味がしっかり乗るShoalsに比べると、Divaはいかにも無色透明のブーストだ。艶(つや)だけが増すって感じかな。場合によってはTSっぽい絶妙な曇りも乗ってくるけれども。

だから、リードプレイの際の音のハリとか、ツヤに関しては、Divaの方が上かもしれない。ただ、メタルテイストでガキガキと弾きちぎる感覚は、Shoalsの方が圧倒的に出る。やっぱりShoalsは俺にとってはヘヴィメタル発生装置みたいだ。

音のクリアさとかで言えば、素直なぶんDivaの方が上かもしれない。それからギターの音をそのまま生かす、という意味でもDivaに軍配が上がる。これは用途次第だけれども。その名前が示唆するとおり、リードプレイにはDivaはもってこいだと思う。反応はかなり素直だから、そういうのが好きであれば良いパートナーになるんじゃないか。けれども、あたたかみとか、味とかは、Shoalsの方が、僕の意見では上だ。そいでもって、versatilityっていうか、音作りの幅広さ、対応力という意味では、これはもう圧倒的にShoalsの方が上だ。T-Rex Divaは、Mixノブで色々な状況に対応できるとは言っても、基本的にやはり音のキャラクターはひとつだけだからだ。普通のペダルはそういうもんだ。基本的な音のキャラクターを無制限に変えられるShoalsが異色だと言える。

というわけでT-Rex Divaは非常に優秀なTS系のオーバードライブだと思う。とても素直で音楽的だ。音もクリアで透明だ。ただ、そんな優秀な「素直ペダル」と比較して、余計にShoalsの持ち味やポテンシャルが理解できたので、僕としてはやはりエレクトリックのメインはShoalsで行くだろう。まぁ、結論は実際にアンサンブルの中で合わせてみてから考えるけれども。でも、先程書いたように、寿朗閣下のヴィンテージ改造800にあれだけ対応できたのだから、「あらゆる状況に対応できる究極のオーヴァードライヴ」は、やっぱり捨て難い。

と、そんな2者の比較をしたけれども、実際のところ、おんなじようなオペアンプ(定番のJRC4558ってやつなのか)使ってることもあって、この2つのペダル、基本の音のキャラクターは実はわりと似ている、ということも言える。
これはつまり、自分の好みの音、自分が必要としているオーバードライヴが、そういうものだ、ということに他ならないと思う。

TS系なんだけれど、かといってレンジが広くて、オープンな音で反応が素直、というところかな。で、操作性の幅が広けりゃ尚良い、みたいな。

もう迷わない、と、思うよ。

No(4851)

■…2017年 3月24日 (Sat)…….思索
自分は国家という概念をそれほど信じていない。
そう言うとあれこれ言って脅す人もいるだろうが、
どちらにしても自分を殺すのは国家っていう概念を信じている人たちな気がする。
自分にとってはどんな言葉をしゃべるかはあんまり関係なく、愛を語るのか憎しみを語るのかそれだけが問題だ。
何を信じているのか。
困難な状況になった時、それが表れる。
理屈とかじゃない。
信じるってことは、そういうことなんだと思う。
国家ということは信じてなくても、人間ということは信じている。
残念ながらこの世界では昔から、信じるということと殉ずるということは大体イコールだ。

No(4852)

■…2017年 3月25日 (Sun)…….まさかの邦楽メジャー、しかし本来そうであるべき。
cinema staffっていうバンドいいじゃない。
少なくともこの5年くらいで聴いた日本のバンドの中では一番感銘を受けた。
もちろん僕の好みからするとちょっとポップ過ぎるけれども・・・メロディ甘々だし。
しばらく退屈しなくて済むかも。
こちら

No(4853)

■…2017年 3月27日 (Tue)…….カメラ映りはわりと良かったかも
ストリーミング配信してきました。アコースティックで演奏させていただきました。うまくやれたかな〜。結構ミスったぜ。でも例の課題曲はわりとちゃんと歌えたと思うよ〜。謎の新キャラ「猫ティッシュ」も活躍。見て見てーーー。
こちら

No(4854)

■…2017年 3月28日 (Wed)…….アフターポスト
というわけで日曜日はCalling Recordsの配信をやってきました。
映像はライティングのおかげで、3割増でイケメンに映りました(笑)
が、写真で見ると、やっぱり年齢を感じるなあ(苦笑)
鼻炎および不眠症で、目の下のクマさんが取れません。
(これは、ましな写真を選んだんだけどね・・・)

アコースティックで4曲披露しました。
そのうち3曲は人前初披露。
あれですね。鼻炎および不眠症および前日のバンドリハなどで、ノドが荒れ荒れでしたが、なんとかぎりぎり歌えた感じ。
そしてまた、ノドが荒れ荒れだったせいで、声の方も、ちょっと歳を取った感じの声になっていたんですが(当社比)、曲目が「和風」のやつだったんで、かえって民謡みたいになって良かったのかな、みたいな。

見てくださった方々、支えていただいたCalling Recordsの仲間たち、ありがとうございます。
まだの方はぜひ見てくださいませ!
トークがマイペース過ぎます!(笑)
終始フォローしてくれた三木くんありがとう!
こちら

しかし、今回のために、この日やらなかった曲も含めて、アコースティックの練習は結構しました。
日本語で、アコースティックで、やれる楽曲、たくさん増えました。
なかなか、機会とかタイミングが難しいけれど、アコースティックで勝負をかけた演奏が、今は出来るような自信がつきました。
どんどん行動していきたいと思っています!

No(4855)

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