久しぶりに挑戦してるオフィスワークの、やっぱり肌に合わないストレスなのか、あるいはバンドの現状の、あんまりライヴとかやれない鬱憤なのか、なにをどう間違ったのか、急に本が読みたくなり、少しばかり読書をしてしまった。他にやらなければいけないことはたくさんあるというのに。
バンドのコンセプトアルバムについての文章を考えていた時にちょっと調べもので検索したら、どこかのよくある「世界と日本の政治情勢とかについてわかったようなことを書いて本を売る論客みたいな人」の本にヒットしてしまい、好奇心でつい読んでみようと思い(思うつぼ)、そこから連鎖式に、今更哲学の今更ニーチェとか、そこの逆に行って、家に何冊もあるけどちゃんと読んでないチェスタトン、そんでもって今年から絶賛大ファンを公言しているところの今更遠藤周作大先生、と戻ってみた。もちろん、戻ると言えば、そこから聖書のパウロさんのあたりを読み直したことはもちろんである。
僕の読書嗜好とかは、結構変わっていて、そもそも、人生の中で本をよく読んでいたのは小学生の時がいちばん多かったと思われ、それはくそ真面目な子供だったからである。その時に、いろいろな文学全集とか日本の有名な作家なんかも読んだ記憶があるが、あたりまえのことだがそんなもん子供が読むもんじゃない。どうして周りの大人はそんなあたりまえのことを言ってくれないのか。おかげで子供らしい子供をやれなかった僕は大人になっていい歳になって、今更スケートボードに取り組んでいる始末である。オフィスワークの昼休みに近くのスポットでちまちまカーブとレッジの(初歩的なやつに)取り組み、汗だくになって白い目で見られている今の私である。
スケートについても、嗜好や能力が自閉症的に偏っており、妙に器用な部分と、圧倒的に不器用な部分が交錯しているのだが、上手い人があたりまえに理解していることを理解するために、僕はやっぱり時間がかかる。だから、初歩のレッジに関しても、ゆっくり向き合わせてほしい。自分向きの「段差」に出会う機会は、ここ日本の孤独な人見知りスケーターとしては、結構貴重なのだ。
話がそれたがそうして本を読んだ。哲学とかよりも聖書を読めよと、キリスト教世界においては、強迫的に言われそうな傾向を感じるが、俺は聖書を精読しているとは言い難いが、in my opinion、正直なところ、あんなもん何回通読しようが、「霊が働かん限りは」人間ごときに理解ができるもんではない。そして、理解ができるとしたら、それは「霊が働いた範囲」に限っての話である。
そしてもっと言わせてもらうのであれば、たとえ俺が聖書を普段「ざっと読んだ程度」であったとしても、ざっと読んでわかる程度のことが、なぜキリスト教世界のえらい人たちには、わからんのか。そこを問うべきであると、俺は思う。
さてそんなこんなで、今更にニーチェ先生を読んでみたのだ。
で、ニーチェはキリスト教を批判した人だから、一応もってクリスチャンやってるところの僕としては、そんなに賛同する書物ではない。けれどもついついニーチェ先生と呼びたくなるのは、彼のとんでもなく圧倒的な中二病ぶりを、中二病の本場であるところの現代日本の中二病インディーロッカーとして、同情をこめて敬意を評するのである。つまり、彼こそは、おそらくは人類史上に初めて盛大に記録を残した、世界で最初の中二病患者だったのだろうから。その意味で、彼は現代の中二病精神世界を切り開いた人なのだろう。
誰でもわかるところだけれど、ニーチェ先生のおそろしいまでの中二病っぷりは、普通、ちょっと読めばわかるし、本当に痛い人である。そんでもって、素直にかわいそうな人だなと思う。でも、その彼の中二病世界の中において、彼がその中二病的な栄光を掲げていたことは、信じてあげたい。
今回僕がちらっと読んでみたのは、「悲劇の誕生」、「ツァラトゥストラ」、「アンチクリスト」、「この人を見よ」の4つである。
ニーチェを本格的に知るには、もっと読むべきのなのか知らんが、俺としては既にお腹いっぱいだ。あんまり、おもしろいとも思わなかった。盛大な中二病っぷりを除いては(笑)
そして、ひとつ弁護するならば、処女作であるところの「悲劇の誕生」は、非常に美しかった。若い頃のニーチェ先生は、まだそんなに中二病をこじらせてはいなかったのである。あるいは、この「悲劇の誕生」が世間に認められなかったから、彼はどんどんと病気をこじらせていってしまったのか。
だから「悲劇の誕生」は、非常に美しい書物であって、俺としてはこれは別途ちゃんと感想文を書く価値があるくらいの書物だ。そもそもが音楽について書かれた本だから、そんな音楽とか芸術ということの本質について、思い入れたっぷりに書かれたこんな書物を、いやしくもインディーミュージシャンのはしくれである僕としては、気に入らないわけがない。
ニーチェとセットでワーグナーを聴くべきではないかとも思うが、ワーグナーなんて、有名どころをちらっと聞いたくらいである。高校の音楽の授業とか。せめてと思って、「トリスタン」を流してみたのだが、やっぱ何かの映画で聞いた記憶があるな。ワーグナーについてあれこれ言うのは僕はまだ10年早そうだ。
で、ニーチェ先生のキリスト教批判についてである。
で、俺としては、「アンチクリスト」なんていう仰々しいタイトルの、いかにも近代哲学の大家みたいなニーチェ先生の、近代的なキリスト教批判なんていうから、かなり期待して、読んでみたのだが、かなりのところ期待はずれだったと思う。正直なところ。
ニーチェのキリスト教批判は、俺なんかの視点から見ても、ぜんぜん批判になってない。ほとんどのところ、ニーチェのキリスト教批判は、彼の言葉で言うところのルサンチマンと、個人的な不満や鬱積から来ているものなので、あんまし本格的な批判になっているとは言い難い印象を受けた。つまりはニーチェのキリスト教批判は、中二病の妄想でしかないということだ。こんなことは、別に、「善良なキリスト教徒」でなくても、同時代のちゃんとした大人であれば、ちょっと読めばわかることだっただろう。
でも、たとえそれが中二病の妄想であっても、ヨーロッパ世界において、こんなふうに盛大にキリスト教批判の文章を書くことは、とても勇気の要ること、というか、とんでもないことであっただろうから、そこにはやっぱり、敬意を表し、一定の評価をしたい。
そして、ニーチェに同情の気持ちを示すとすれば、俺も最近、現状ちょっと日曜日に教会に行けてない日々が続いているので、オフィスワークのかたわら、都内のどこかの「古くて大きな教会」の平日の祈り会に出てみたのだ。
そしたら、それは大きくて立派な教会だったのだが、こんなバンドやってる関係上、僕も少しは色々な教会を見てきてはいるが、それは今まで見た中で、いちばん「暗くて、ださい」教会だった。いや、たとえ暗かったからといって、ださかったからといって、そしてたとえ偽善的だったとして、そこに集っている人々の信仰を疑う気持ちはない。信仰というのは、そんなものではない。そして偽善者だろうと根暗だろうと、人は罪人だからこそキリストに救いを求めるものである。だから、その教会自体に、ぜんぜん「罪」はないのだが(キリスト教の原罪はあるだろうがw)。
だが、僕は思ったものである。現代においても、こういう教会が普通にある以上、ニーチェ先生の同時代のヨーロッパとかドイツには、もっと「暗い」教会、「ださい」教会、「古くさい」教会、きっといっぱいあったに違いない。とすれば、ニーチェ先生が個人的に「ルサンチマン」を抱いて批判を展開しても、無理はないのである。
だから、時代も国も違うが、一応のキリスト教徒の一人として、ニーチェ先生に謝っておきたい。
つまり、ニーチェが晩年に発狂して、その後、天国に行ったのか地獄に行ったのか、俺には知る由もないが、もし発狂したニーチェの晩年が不幸であり、その魂が地獄に行ったりなんかしているのであれば、なんというかキリスト教徒の一人として謝っておきたいのである。
つまり、ニーチェ先生が、父親が牧師だったにも関わらず、キリストから離れていってしまい、中二病をこじらせてしまったのは、少なくとも当時の、俺たちキリスト教徒が、ダサかったからである。あまりにもダサかったからである。
キリスト教徒がダサかったから、ニーチェ先生みたいな真面目で純朴な青年が、キリストから離れていってしまったのだ。
だから俺はそのへん、時代も国も立場も違うが、ニーチェには謝っておきたいとともに、「信仰の保持者」であるキリスト者の一人としては、やっぱり、難しいことではあるが、なるべく「ダサくない」ように、努力をしなくてはいけないのだと思う。
つまり、ちゃんと真実に向き合っていないといけないという感じか。
そんでもって、「アンチクリスト」であれ、他の本であれ、一応はキリスト教批判の書であるから、悪魔の書、と言えないこともないが、もしこの「アンチクリスト」を悪魔の書と呼ぶにしても、悪魔の書としては、おそらくは初歩の初歩、手引書とか入門書、という程度の内容ではないかと思う。だから、どっちにしてもそんなに内容としてはがつんと来るような読み応えのあるものではないと思う。
もっと手強い「悪魔の書」は、(音楽であれば)、個人的に僕だってもっと体験したことが何度もある。
だから、手強いキリスト教批判を期待していた僕としては、わりと期待はずれだったというのが、正直な感想だ。
ただ、フォローの意味でひとつ言えば、あの盛大な中二病の集大成である「ツァラトゥストラ」の中に出てきた、永遠回帰、永劫回帰ってやつか。あの概念は、なんというか「ジョジョ」で各部のボスキャラが使う、「時をあやつる最終能力」みたいな凄みと迫力があった。実際に、第6部のラストとかに近いものがあったし。(ちゃんと読んでないけど、ジョジョ、最初の方しか。でも、そのラスボスも確か神父って設定だったような。皮肉というかニーチェが一番嫌っていた人種であろうところの。)
あれは、キリスト教における「魂の永遠」の否定としては、ちょっとした悪魔が与えたナイフだったかもしれない。
けれども、その永遠回帰の「スタンド能力」についても、チェスタトンの書いていたところの「永遠というのは、実はそれほど難しいものではない。しかし一瞬こそは、実に恐るべき問題だ。」という言葉で、看破できてしまう。
つまり、永遠というのは実際のところ概念に過ぎず、つまり突き詰めれば一瞬と永遠は限りなく同義なのである。人というのは結局、その目の前の一瞬にイエスというかノーというか、それだけの生き物だ。だからもしその「一瞬」を燃やし尽くしたいと願うのであれば、俺としてはどう考えても、永遠回帰のスタンド能力よりは、キリストの十字架の方が、「熱い」と思う。
その意味では、ニーチェ先生の切り開いた中二病世界の、ひとつの落とし子であるとこのこの日本の漫画世界。その少年ジャンプ的な価値観の方が、まだニーチェ先生のルサンチマンよりはキリストに近い。(結局は、北斗の拳、も、るろうに剣心、も、ジョジョ、も、キリスト教マンガだったというではないか)
そう思うと、やはりあらゆる意味で痛い人、哀れな人であったと思う。ニーチェ先生は。
(わからんよ、天国行ったら、「これはこれで彼にしかできない十字架の背負い方であった」とか言って、キリストのそばにいるかもしれんから。笑。)
でも、その元祖中二病患者としてのスピリットは、本当に高く評価したい。
その中二病世界の盛大な集大成である「ツァラトゥストラ」も、つまんないな、と思うとこも多いが、それでも俺は、評価したいと、偉そうにそう思っている。
俺も現代を生きるいい歳した中二病患者、ニーチェ先生に負けず劣らず痛い人間として、そのスピリットは受け継ぎたい(笑)
つまり、ニーチェ先生は間違いなく孤独な人間だったのだろうが、
孤独っぷりと、同時代の世の中から浮いてる点においては、きっと俺も、そんなに負けてないというか、いい勝負なんじゃないかと思うから。
哲学者(とか思想家とか芸術家)とかにしか友人のいない人生も、それはそれでいいんじゃないかと。
ニーチェ先生がなぜ発狂したかって、そんなのは、誰にもわかんないし、あるいは誰にも明白だろうけれど。
もちろんこれには、チェスタトンの言葉で言うところの、「狂人とは、理性を失った人のことを言うのではなく、理性以外のすべてのものを失った人間のことを指す」という言葉がきれいに当てはまってしまうけれど。ニーチェ先生については。つまり彼は、キリスト教的なファンタジーを、すべて否定したのだろうから。
わかんないもんは、わかんないって、ミステリーにしとけばいいじゃん。
かの遠藤周作だって、そうした。
みんな、そうやって生きてるよね。
言葉にすると痛いくらい。
でも信じるって、そういうこと。
でも、俺に言わせれば。ごくごく勝手に言わせてもらえば。
ニーチェがなぜ発狂したかって、それは、もう、神に出会ってしまったからなんだろう。
彼が生涯をかけて批判してきた、同時代の「ドイツ的なもの」、そして「キリスト教世界」。
けれども、ニーチェ自身が、本当は誰よりもドイツ的であったことに、そして本当は、誰よりもキリスト教徒だったことに、気がついてしまったからなんだろう。
そして、彼が崇拝して追い求めてきた「ディオニュソス」。
そのディオニュソスが仮面を取れば、そこに居たのはやはり他でもないキリストだったことに気が付いた時、彼は自分自身を保てなくなったのだろう。
その意味では、僕が近年ずっと、「Bacchus」と書かれたギターを愛用していることも、その意味でもやはり、意味のあることだ。
ディオニュソス的なもの、ということについて言うんであれば、ワーグナーの時代に生きていたニーチェ先生よりも、ロックンロール以降の現代を生きている僕らの方が、圧倒的によく理解している。しかもそれは概念ではなく、体験としてだ。
それこそ、ロックンロールの「神学」について論じれば、本が一冊書けるし、というか何冊でも書けるし、実際に書きたいくらいだが。
だから神学的なロックを求めてきた僕が、最終的に今こうしてバッカス(ディオニュソスの別名)と書かれたギターを手にしているのは、ディオニュソス的なもの、とともに、ニーチェ先生に端を発するこの人類の中二病の遺産を、キリストのもとに返却しようとする試みでもある。
神のものは神に返せ、と、確かにイエスさんも言ったんだから。
ニーチェについては以上かな。
で、チェスタトンについては、俺はなんだかんだ、読んできているし、
もちろん古くさいカトリックで、頑固なイングリッシュで、賛同できない点もあるけれど、
だけれどもキリスト教徒としては、なかなか説得力のある人で、読んでいても、これだよね、というような安心感というか戻ってきた感がある。
ので、今日のところはいちいち書かない。
で、次。
どこかのよくある「世界と日本の政治状況とか文化とか経済とかをぶったぎって論評する論客みたいな人」の本。
2、3冊読んだだけなのであれこれ言えないけれど。
それなりに面白かったけれど、いろいろな歴史や政治の真実を追い求める姿勢は、素晴らしいと思うけれど、やっぱり甘いなと思うことがある。
ニーチェ先生の話の続きとして言うのであれば、近代以降、現代の日本というのは、ニーチェ先生の思想がもっとも受け入れられ、定着し、花開いた地であると言えると思う。
なんでかしらんが日本ではニーチェがわりと受け入れられ、ありがたがられたと思うのだ。理由は知らん。
いや、理由はそれは、キリスト教をちゃんと受け入れられなかったので、キリスト教を理解できなかったぶん、哲学でお茶を濁すしかなかったからでしょ。
いや、負け犬、である日本国民にとっては、ルサンチマンというものが、よく理解できたからか。
で、永遠にお茶を濁し続ける文化になった。前からそうか。
もちろん俺だって抹茶は好きだけど。
ニーチェが受け入れられた国だからこそ、中二病文化、おたく文化、マンガやアニメなども花開いたし、それはそれで悪くない。んだけれども、本当に「世界」とかを論じたいんであれば、「ど真ん中」に向き合わなくてはいけない。
俺がその論客さんに対して言いたいのは。
それはつまり、その人だけじゃなくて、評論家とか、学者とか、世間で世界情勢とか文化について色々と解説を垂れている人たちみんなに向けてだけれども。
神というものは、信じてみないとわからん。
だから、キリスト教というものを理解したいのであれば、信じてみるしかないんだ。
信じてみないで、文化とか、歴史とか、学術対象として考えても、それはあくまでアウトサイダー、外部の、蚊帳の外から見たものなんだよ。
だから、本当に「キリスト教世界」に向き合っていきたいのであれば、それはもう、信じてみるしかないんだ。
そこがスタート地点だよ。
多くの日本人は、そのスタート地点にすら立っていない。
だからいつまでたっても「蚊帳の外」だし、世界情勢の中でも、日本は「蚊帳の外」の道化であり続ける。
キリスト教について、文句があるんなら。
その信仰について、文句があるんなら。
そして良しにつけ悪しきにつけ、そのキリスト教世界が作り出した、今の世界と、文化について、文句があるんなら。
信仰に勝てるのは、信仰だけなんだよ。
信仰をぶっこわせるのも、やはり信仰だけなんだよ。
信仰だけでなく思想においても、人類史の巨大な軸であり、やはり彼を中心に回り続けるしかなかった、そしてニーチェも、その周囲を踊る一人でしかなかった、その一人の人物を、どう解釈し、どう向き合うのか。
そこの勝負に、その土俵に、上がるのか、否か。
俺はその土俵に、日本人として上がってみたいと思ったんだ。
そして、日本人の「ヘヴィメタル」なキリスト教のアーティストとして、遠藤周作さんという偉大な先輩がいる。
たとえば、そういった論客さんたちが、口角泡を飛ばして叫ぶ。
「日本人は平和ボケである。世界は、非情で冷酷な現実によって動いているのだ。日本人は目を覚まして、そういった現実に向き合うべきである。」
しかし、彼らの言うことは、すべて論評者の、傍観者の視点でしかないのである。
だけれど俺に言わせれば、じゃあ遠藤周作さんが書いているところの、現実は。
弱い立場の、人間という生き物が、その「冷酷な現実」ってやつの中で、いかに無力で、いかに血を流し、いかに死んでいくかを、淡々と、よほど直視して、描いているではないか。
そして、その中で、いかに希望や救いを、見出したり、見出さなかったりするのか、その小さな現実を。
たとえ小さな現実であっても、そちらの方が、俺としてはよほど重要だ。
俺に言わせれば、こっちの方がよほど冷徹な目で、よほどその残酷な世界の現実というものを、描き出している。
俺は、それは、遠藤周作さんが、その本質において「ヘヴィメタル」だったからこそ、出来たことだと思う。
世界情勢とか、それこそ、宗教ってものがどうなのか、とか、
いくらでも自分勝手に論じることは出来るけど、別に俺がやることじゃないし、自分の「思想体系」はほら、音楽の中にちゃんとあるしさ。
とりあえずここまで。
あとは、宗教ってことについて思うとき、「パウロさん」ってことについてもちょっと書きたいことがあったんだけど、やめとく(笑)
みんな、パウロさんをそんなに悪者扱いして責めないでやってくれ(笑)
今年やってる曲の中に、パウロさんの曲があるんだよ。Forgivenってタイトルで、ちょっとバラードっぽい、日本語の曲。
直接にパウロさんの曲ってわけじゃないけど、歌詞の中に出てくるんだ。
以上。
God bless you all.