2017年12月の日記

■…2017年12月 1日 (Sat)…….12月になっちっつ
なんか一週間ばかしフェイスブックはおろかネットぜんぜん出来なかったんですが、
なんか見てたらBrinsonが、また最近こういうの流行ってんのか、白黒の写真チャレンジなんたら書いてきたんで、せめて一枚だけでも付き合うことにします。Brinson氏はいつかどっかのペンシルバニアの音楽カンファレンスみたいので知り合った、結構がんばってるクリスチャンラッパーの人です。俺もアルバム2枚くらい持ってます。

とりま、「Overture」のドラム録音は完了し、編集もほぼ終わり、結果的に今まででいちばんかっこいいドラムの音になっています。明日またバンドのリハですが、来年の「いろいろ」に向けていくのと、ベース録音が、12月のはやいうちにぱぱっと終わるといいなあ、って。

「鍋島デモ」というか、人に公開してもいい「オープンデモ」の形でヴォーカルトラックを歌ったやつ、その後、ギタートラックのアンプシミュレーターの差し替え、ドラムの打ち込み音源の差し替え、ひととおりの簡易ミックス(あくまでデモなので永遠に簡易ミックスです)までやって、ひととおり確認できたらファイル書き出しちゃおうという段。

そんで、クラウドファンディングの最後の宿題とも言える、ファミコンドージョーさんへの(3度目の)テーマソングを完成させること、ですが。キーボードつうのかシンセのパートを打ち込みまして、正式版のギターおよびベーストラックを録りまして、あとは来週、ヴォーカルトラックを録れば完了かな、みたいな。1曲だけだからミックスもすぐできるだろうし。

などなど、考えていたら、自分はネットであっても出不精ですので、まったく何も返答とかできず。しかしバンドページの投稿は嫁さんがやっていてくれました。どうもありがとう。おかげさまで渾身のコンセプトアルバム「Jesus Wind」もいくつかのサイトとか取り上げてもらったり、ディスクユニオンさんにも置いてもらえました。

なので、義理でも記念でもいいんで、ディスクユニオンさんから買っていただけたら嬉しいですーーー!!
こちら。
こちら

あとはこのBrinsonのチャレンジで適当に撮った白黒写真で、持ってるのは2月10日の西横浜El Puenteのライヴのチラシです。これもちゃんと、告知宣伝をしなければいけないですー。

また、この一週間でも色々と神さんからの啓示revelationがあり、今これから節目でもありこれからの人生に向けて「立志」をちゃんとしないといけないと思っている次第。

そんで、やっとまたバイトを始められるんで(貧乏くさくてすんません)、来週面接が入る予定なんですが、連絡待ちですわー、ああもどかしい(笑)

また色々、瞑想の上で書かせていただきます。
以上感謝サンキュージーザスぅぅ!!

No(4965)

■…2017年12月 1日 (Sat)…….The Travelling Band 英国よりアメリカーナぽいインディ
さきほどの生存報告の投稿だったんですが、嫁さんがタグ付けしてくれてた最近のポストほどにもLikeが付かず(笑) 忘れられてる感満載です。

しかしまたどうでもいい内容を書いてしまおうと思います。

あんまり新しい音楽をチェックすることが十分にできないんですが、
それでも今年聴いていたバンドとか。

不思議ですね、とある方からメールもらってそこに書いてあったから気付いて笑ったんですが、
僕は音楽を聴くのが大好きで、いつもいろいろな音楽を聴いていたいのに、自分の音楽を作っている作業をしている時には、音楽を聴けないんですよ。音楽を聴きながら仕事、みたいなことが出来ない。笑っちゃうくらい皮肉なことだと思います。でも、きっとどうでもいいですね。

たとえば、今年は、事件を起こしてぽしゃってしまった「クィアー・パンク・デュオ」PWR BTTMには本当に夢中になっていたし、色々あって2000年代半ば以降のIncubusに今更はまってみたり。もちろん色々なものを聴き返していましたが、最近リリースされたVandenberg’s Moonkingsのセカンドアルバムも、思った以上に良い出来で、古典的な教科書どおりのハードロックですが、ちょっと嬉しかったり。あとは、ちょっとはそれっぽいのも聴かなきゃ、と思って、Foster The Peopleの新しいのとかは、結構聴いていたよ。あとは、道ばたで拾ってきた古いソウルのアルバムを、ちょっと聴いていたりするかなあ。あんまり通ってこなかったからね、すごいなあ、70年代のソウルミュージックって。

そんで、YouTubeのおすすめインディとかで出てくるやつをたまにクリックしてはいるんですが、なかなかこれってのには巡り会わない。
でも、最近なんだかはまっているのが、このThe Travelling Bandっていうイギリスはマンチェスターのインディ??バンド。まぁでも、規模小さいからインディなんだろうなあ。

確か、Plugin Allianceでbx_saturatorかなんかのデモ動画の中に出て来た曲で、それで知ったんだと思う。そのプラグインも、クーポンでタダでもらってしまったけれども。使い方が下手なんだろうけれども、期待していたわりには、僕の環境や音楽性だと、思ったより使えないかも。。。なんか、倍音つけて立たせよう、みたいな時も、じゃあWave ArtsのTube Saturator(2)でいいや、みたいになってしまうことが多くて。

話それましたが、このThe Travelling Band、なんていうべたべたでジェネリックなバンド名。もうちょっと、ましなバンド名にしたらいいのに。人のこと言えませんけどね。でも、少なくとも、うちは、検索しても、他の何かとかぶることはあんましないじゃない。まるで「生姜焼定食」くらいジェネリックな名前だよ。

音楽的には、2010年代になってからわりと流行っていたところの、フォークつーのかアメリカーナの要素が入ったインディもの、っていうのか。でも、それほどわざとらしくバンジョーとか弾いてる感じの音楽性じゃない。

別にそれほど、新しいことやってる、ってわけではないんだけれど、純粋に質が高い。そして、インディバンドとしてなんだか正しい音の選び方をしているように思う。

あとは、メンバーの中にレコーディングエンジニアがいるような、ことがどこかに書いてあったような、なんだけど、そのせいか、録音の音質が、とても良い。良ければいいってわけじゃないんだけど、現代的な今の時代ならではの録音で、またそれが音楽性の方向に合っていると思う。

イギリスのマンチェスターのバンドながら、USインディへのラブを前面に押し出している、みたいにウェブサイトのプロフィールにも書いてあるんだけれど、なんか、アメリカのバンドとか音楽シーンも、最近いろいろと、難しいんだろうから、かえってアメリカっぽいバンドが、違う国から出てくる、という。それが今の現実なのかな。

かえって、アメリカ人がやってるUSインディとかアメリカーナじゃなくて、イギリス人がUSインディに憧れてやってるやつだから、その方が、かえってその「魅力」みたいなのがよく表れていたりして。

その文脈だと、まぁ日本人の僕らとしては、日本人の良さを伝える音楽を作れって感じですね。世界に向けて。今や、日本に憧れている若者は世界中にいるんだから。桜舞い散る中、セーラー服着た女の子がいて、自転車で駆け抜けるような青春、他の場所には無いわけだからさ。そんなアニメみたいな設定。ねえよと言ってやりたいが、実際あるし、俺だってあったしね。嫁さんとは若い頃に出会ったわけだから。

で、このThe Travelling Band。
そんな外から見たアメリカーナ、USインディ的な魅力にあふれていて、僕なんかは、ちょうど今こういうのが聴きたかった、という感じなんですが。

FacebookのLike数とかはそれなりにあるけれど、YouTubeの数字とか少ないし、明らかに、あんまし知名度ない。
こんな素晴らしい音楽なのに、という、クオリティと知名度のギャップを、ひさびさに痛切に感じる。
でも、そんな「obscure」なバンドを見つけた、という喜びは逆に大きかったりする(笑)

あとは、ここ2年くらいで始めたばかりのバンドじゃない、というか、意外とベテランっぽいので、その歳を重ねたインディバンドの悲哀つーか哀愁、みたいなのも、そこはかとなく感じられて、それがまた良い(笑笑)

さしあたって、これね。
こちら

スタジオライヴで、これだけ音がいい、っていうのは、かなり反則な気がする。
いいなあ。

これでとりあえず、あと一年は、飢えずに生きていけそうな気がします。

そうね、無名の、というか、無名でもいいから、最先端の、いちばん先の音を鳴らしている、そういうやつら、ほんとにもっと出会いたいし。
でも、本当に新しいこと、本当にオリジナリティのあるもの、をやってる、なんていうのには、あんまし出会わない。

僕にとっては、それこそブッチャーズと、プラスマイナスの「二大巨頭」がいて、そこから後、「もっと先」を行ってるやつらには、出会っていない、というのが本音。

ちょっと良い感じのオサレ最先端インディも、そうね、自分の狭い見識の中では、Freelance Whalesくらいが最後で、それだって、夢中ってほどじゃなかったけど、それ以降は、「悪くないよね」って感じで好きになってる感じ。
クリスチャンのバンドでも、良いのもいくつかいたんだけど、みんな、すぐに解散していなくなっちゃう(涙)。

もちろん、PWR BTTMを聴いて泣いたし、
このThe Travelling Bandだって泣ける。

でも、もっと世界がひっくりかえるくらいの、そんなバンドに、出会いたい。

わかってるよ、XTCをもっとさかのぼって聴けばいいってことくらい(笑)

No(4966)

■…2017年12月 1日 (Sat)…….これがその、伝説のコンプレッサー
もう使ってるMacBookのバージョンも古いし、
使えるプラグインないし、
今年はBlack Fridayだというに、安売りプラグイン買わないなぁ、なんて思っていたんだけど、
そのタイミングでちょうどネットやってる時間ない時だったんで、
音楽仲間におすすめポストのタイミング逃しちゃった。

でも、今みたら、Bozのところは、あと一日だけやってるみたいだから、安売りセール、間に合わなくても書いてみよう。

9月のバーゲンの際にうっかりのってしまった時に、入手したPlus 10db Bundleっていう、チャンネルストリップっていうか、EQとコンプのセット。
こちら

もうブラックフライデー終わっちゃったけど、人にすすめるんなら、僕はこのBoz Digital Labsの、Plus 10dBを全力で勧めます。

Boz Digital Labsは、なんか動画とかメッセージもふざけてるし、ジョークっぽいんだけれど、それも含めて、なんかわかってる人なんだろうな、という感じの、小規模なディベロッパーならではの、妙にニッチなニーズとか操作性、利便性のスキマを突いたプラグインが多いように思うけれど、このPlus 10dbのプラグインは本格派だと思う。

確か、ADR Compex Vocal Stressorっていうんだっけ。
それのモデリングらしいんだけれど、なんでも、Led Zeppelinのかの有名なLevee Breaksのドラムに使われた、という。
そんな伝説的な機材を、なぜこれまで、他の大手ディベロッパーはモデリングしてこなかったんだ、というのは、Bozのウェブサイトにも書いてあった。ほとんど犯罪的、という。

で、EQとコンプをセットで使うのが王道だとは思うんだけれど、どっちか一方だけ、っていうんなら、コンプの方をおすすめする。EQもユニークな音色と操作性だけど、代わりが無いってわけじゃない。でも、このコンプレッサーは、他に代わりが無いような気がする!!!

前も書いたけれど、まさにそのZeppelinのボーナムのドラムの音、つーんじゃないけれど、唐揚げをからっと揚げるように、からっとさくっと、明瞭に硬めの音に仕上がる。何この感じ。他にこんなの無い、みたいな。そう、これこれ、みたいな感じがはんぱない。

で、実際に使ってみて、ドラムはもちろん良いんだけれど、それ以上にヴォーカルに使った時が素晴らしい。
おかげで、「鍋島デモ」(公開版オープンデモ)のヴォーカルは、8割くらいこのコンプで処理したような気がする。たかだか「デモ」だし、さっくりと手早く歌って録音しちゃった、そのラフなテイクだったけど、この「10dB」のコンプにずいぶんと助けてもらったように思う。

今まで、自分のヴォーカルつーか声に合うコンプは、
それこそ昔のシステムで言ったら、その昔WindowsでCubase走らせてた頃には、フリーで拾ってきた”Blue Comperssor”だか、そんな名前の、安っぽいコンプがなぜか自分の声にぴったり来た。ああ思い出した、Blue Line Compressor、だったっけ? デジタルの安っぽい音だったけど、やわらかい音で僕の声には良く合った。もっとも当時は、リードヴォーカルをダブルトラックにすることが多かったから、そののっぺりした音が、かえって良かったのかもしれないが。

Mac上でLocigProを走らせるようになってからは、Logicの標準搭載のコンプが非常に優秀なので、(いまだにバージョン9ですが)、その中でも「FET2」のプリセットが、いちばん僕の声によくあった。太くて、なおかつやわらかくて、パワー感もあって、下手なのもごまかせて(笑)

他には、Plugin Allianceさんのところの、bx_optのコンプ、僕はこれは、廉価版のbx_opt_pedalっていうのしか持ってないんだけれど、これもヴォーカルにはすごく良い。音がすごくふくらんで、太くなるし、やっぱりこれもやわらかい。手に入れて一年ほどだし、まだ公開した音源にはあまり使ってないけれど、YouTubeに上がってる石川ヨナさんとのコラボのラップの曲(“Revive The Nation”)、あれのヨナさんのヴォーカルの太さと声のハリは、(本人の歌の上手さはもちろん)、このコンプの効果によるもの、って言えば威力がわかってもらえるかもしれない。

オプトコンプって言えば、また最近ふたたび使い始めた、ハードウェアの安いやつだけど、JoeMeekの3Qに搭載されている光学式コンプレッサーが、もうこれ無しではヴォーカルの録音したくない、ってくらい手放せなくなってしまったのも記憶に新しいところでして。

で、それらを遍歴、併用しつつも、はっきり言って、このbozさんところの「Plus 10dB」のコンプレッサー、今まで使って来た中で、自分のヴォーカル用のコンプレッサーとしては、もしかすると一番良いかもしれない。

声って人によって違うし、マイクもそうだけど、相性が激しいから、一概に言えないんだけれど、これほど「買ってよかった」と思ったプラグイン、道具、は、なかなか無い。

EQも、これも音の傾向はアナログっぽいかかり方だけど、こっちは音はちょっと硬め。でも、やっぱりヴォーカルの処理にはとても効果的。ローカットとかついてないから、これいっこで全部ってわけにはいかないけど、声のキャラ作りは、相当出来る。

なんでもできるVersatileなコンプ、ってわけじゃなくて、「この音しか出ない」って感じだけれど、方向性が合うのであれば、めっちゃ強い味方だと思う。

感謝とともにおすすめしたい。
そしてきっと、おそらくはロバート・プラントのヴォーカルにも、これがかかっていたに違いない。

(ああ、でも、そういう、古いハードロック、みたいな音だから、現代の音楽シーンには合わないことも多いのかも。。。。)

No(4967)

■…2017年12月 2日 (Sun)…….新しい技が決まったのひさしぶりだったんで
うーん、地味に[クリーンな]フロントサイド360(ヒッピーって言う?)が初めて決まった。笑。普通に180やろうとして前足きちんと引き付けて滞空時間長くしただけだったが。まあいつも180は「回り過ぎ」だったし。。

どっちにせよ、あまりスケートの練習できる機会ないんですが、
ちょっとずつでも進歩していて良かった。
まだ老け込まなくていいようです。

No(4968)

■…2017年12月 3日 (Mon)…….今回はブログにも日本語で書いたのです、の記録
日本発クリスチャンヘヴィメタルバンド、Imari Tones (伊万里音色)、
日本の歴史をテーマに、独特のキリスト教的な視点から描き出し、ヘヴィメタルサウンドで奏でたコンセプトアルバム “Jesus Wind”。

おかげさまでご好評をいただいています。

ささやかながら、海外でも80年代系のヘヴィメタル専門サイトとして名高いSleaze Roxxにも取り上げていただいております。
こちら

IndieGoGoでのクラウドファンディングを成功させて、ファンの皆様のご協力により制作することができました、この”Jesus Wind”のCD。
コンセプトアルバムということもあり、いまどきのインディーバンドのアルバムとしては珍しく、12ページのブックレットに歌詞と楽曲の解説を載せまして(英語ですが)、気合いの入った渾身のパッケージになっております。

ぜひ日本国内のヘヴィメタルファンの皆様にも、手にとって見て、聴いて、そして体験していだたきたい。
過去のヘヴィメタルのレジェンドたちに敬意を表し、また日本人の誇り、日本に生きる信仰者(キリスト教の信仰者、ならびに、ヘヴィメタルの信仰者)として、魂を込めて制作した一世一代の「預言書」です。

ヘヴィメタルのサウンドの中に込めた、本当の意味での「神話」、「宗教」、そして「霊」。それらの上に、日本人として民族の魂を込めて、ひとつひとつのギターソロを、リフを、サウンドを、歌い上げ、奏でたつもりです。

我々イマリトーンズは、どちらかというと常に、ポップで幅の広いタイプのメタル、ハードロックを演奏してきましたが、今回の”Jesus Wind”に関しては、初めて本当の意味で、ストレートなヘヴィメタルに徹した内容になっています。
そして、その価値はあったと信じています。

そしてそのCDですが、現在以下の販売店にて入手可能です。

disk UNION
こちら

S.A.MUSIC
こちら

Calling Records Store
こちら

また海外にお住まいのファンの皆様には、以下から入手が可能です。

CDbaby (アメリカからの発送です)
こちら

Bandcamp (日本からの発送になります)
こちら

ぜひ、この日本のヘヴィメタル史上、画期的とも言えるアルバムをお手にとっていただき、「キリストの風」を体験してください。

3.Dec.2017
Tak Nakamine / Imari Tones

No(4969)

■…2017年12月 5日 (Wed)…….アンプに直に挿す、っていうのは、今となっては変態なのか
[徒然のつれづれるただの日記。アンプと音楽とジェンダーと信仰。]

なんだっけ、アンプの話をね。
パソコンの中に、brainworxのアンプシミュレーターが入っていて、その中にENGLのRetro Tubeがあるじゃない。

今は、僕はパソコンの中でギター弾く時は、このbrainworxのやつを使うことが多いから。
んで、かといって、僕の好きじゃないアンプが多いし、bx_rockrackのわざわざ古いバージョン(bx_rockrack pro)を使って、キャビネットだけ新しいバージョンのやつをつないで弾いているんだけれど。

それは、bx_rockrack pro(古いバージョン)に入ってる、JCM800が本物っぽい挙動をするから。一緒に入ってるENGL530のプリアンプもかなり良い。

そんで、ENGLはあんまし好きじゃないんだけど、優秀なアンプであることは認めるし、Retro Tubeは、確かにわりとニーズに合うことが多いから。

現に、今回、ギターの音を差し替えた「鍋島デモ」(公開するのは、たぶんずっと後。場合によっては永遠に公開しないかもしれない。)でも、brainworxのシミュレーターに全部ギターを差し替えたんだけど、6割くらいは、それでもJCM800になって、3割くらい、このRetroTubeになって、残りは古いプレキシっぽい音が作れるところのChandlerのやつになったと思う。

だから、リイシューでない、オリジナル80年代型のJCM800は使いにくいな、RetroTubeの方が扱い易い、と思っても、やっぱり音を作り込んで詰めていくと、JCM800の方が、狙った音になる率は高かったわけだ。まぁ、「鍋島」はレトロ志向の作品だしね。(あ、でも、Retro Tubeって、レトロって名前なのに)

で、プラグインではわりと優秀だから、実機も試しておかなくちゃ、って。前にもいっぺん、そこにあることは見つけていたんだけど、成り行きで突っ込んだ楽器が8弦ギターだったから(笑)、ちゃんとレスポール突っ込んで試してみたい、って。思って、都内某所に、野暮用のついてに。

どうかな、プラグイン以上に、「使い易い」けど。
こんなに簡単に、何をつっこんでも「狙い通り」の音になってしまっていいものか。そこのところの手応えが。
「面白く無い」
って、そんな贅沢な(笑)

もうちょっと難しいアンプの方が、愛着が持てる。
そしてその方が、実際の制作の中では「より音を突き詰められる」。
(まさに今度の鍋島デモの作業で実証済み)

アンプ直の話。

Calling Records関係のあの方のスタジオで、SoldanoとかENGLの高いやつとかいっぺん試させてもらったおかげで。

ああ、やっぱり良いアンプっていうのは、別にブースターもオーバードライブも必要なくて、直で挿して作れば、ちゃんとした音になるようになってるんだな、って。今更そんな、初心者みたいなことを言うようですが(笑)

そんでもって、この前の自分のバンドのリハでも、Shoalsが調子悪くて、いろいろあってアースが落ちてなかっただけなんだけれど、そんで、ギターがSTRだったから、リハスタのアンプのJVMを、いつもの「緑」じゃなくて、もういっこゲイン上げて「オレンジ」にして鳴らしてみたら、「アンプ直」でも、ぜんぜんいける音になった。だから、このSTRみたいに、ギターの時点でぜんぜん音が完成しているギターであれば、ペダル使わなくても、狙った音になるんだ、って、むしろ、ペダル使わずにアンプ直で行った方がいい場合が多そうだ、って。

そんなこんなで、今更に、「アンプ直」ってことを意識して。
そうなると、余計に「アンプ」ってことを考えてしまって。

ただね、やっぱり、そんなに物事は簡単じゃない。
「アンプ」ってテーマは、そんなに簡単でも単純でもない。

ましてや「キャビネット」とか。
またそれ以上に、PA、とか、部屋、とか、会場、とか。
果てしなく難しい話になってしまう。
(そんなんだから、ケンパーとかフラクタルに逃げたくなるのはわかりますよ。)
(だからプロフェッショナルの方々がケンパーやフラクタルといった道具を使うのは、自分のためではなくて、周囲のためでしょう?)

知ってのとおり、ほとんどの日本のインディ、アマチュアのギタリストにとっては、「アンプ」ってのはおおよそ、「公共インフラ」なわけよ。リハスタに行っても、ライブハウスに行っても、そこにはアンプがある。しかも日本のインフラは優秀だから、十分に素晴らしいアンプがある。だから、日本のギタリストは、ほとんどの場合、自分のアンプを所有しなくても、演奏が出来てしまう。

だから、結果的に、ペダルとかエフェクターの部分で音を作ったり、個性を追求することになる。

そして、ジャズコにも同じことが言えるけれど、Marshallというアンプが、これだけ一般に普及したのは、たとえばそれが80年代のハードロックの時代であっても、やぱりペダルをぶっこんだ際の使い勝手だったのではないかと推測する。

JCM800だって、決して単体では、ばっちり歪まないじゃない。
でも、ペダル突っ込んだ時の音とか挙動が良かった。

Marshallってのはハードロックにとってはやっぱり、ペダルとかブースター突っ込んでなんぼ、だったわけで。

で、ペダル使いたくない人は、改造したわけだ。そして、そういう成り行きの中で、SoldanoとかBognerといった、次世代のハイゲインアンプが生まれたわけだ。

そしてそれ以上の問題があって。
あのね、ことさら、いちばん贅沢な、アイデンティティの問題。

ギタリストってのは贅沢で、自分の誇りとか証とかプライドとか、自分だけのもの、を欲しがる。地球で宇宙で自分だけ。

「公共インフラ」であるMarshallというものがある時に、それを宇宙でひとつだけの俺の音、に持っていくために、ペダルとの組み合わせっていうのはやっぱり重要だったんだと思う。

アンプ直の状態で、「俺だけの、俺の音だ」と言えるようになるためには、やはりそれはMarshallを改造するとか、Albitさんとこにお願いするとか、そういうふうになってしまうのか。

じゃあアンプは僕にとってはやっぱりいつでも「乗り捨て」の「インフラ」なのか。
やっぱり唯一Albitさんに頼むしかないのか。

これがたとえばEddie Van Halenだったらね、「俺だけのためのアンプだぜ」って言えるんだけれど。だって自分のために開発されたシグネチャーアンプじゃない。

でも自分はそうじゃないから、ペダルに命をかけてアイデンティティを刻むしかない。

じゃあ自分だけのアンプを手に入れたとして、どこに置くの? どこで使うの? 録音は? 海外ツアーに持っていけるの? キャビネットは? そういった外部環境に依るところが多過ぎる。

これがたとえば、自分は世界的メジャーアーティストで、巨大な機材でアリーナツアーを回るのが仕事だ、っていうんなら、一年かけてワールドツアーを、アリーナ規模とかホール規模でやろう、っていうんなら、話は別だ。だって、その「環境ごと」持っていけるわけだし、その「環境」をちゃんとすることが、むしろ仕事なわけだから。(そして、それは、もちろん、一人でやる仕事ではない)

そういう意味では、全盛期のEVHがやっていたことは、やっぱり本当にprecious(価値がある)なことだったと思う。本物のプレイヤーが、本物のサウンドを、巨大な規模で検証し、追求してくれた。そしてそれは、世界中のギタリスト、ミュージシャンに恩恵を与えた。アンプとかギターだけでなく、たとえば今ではみんな当たり前のように使ってる、インナー・イヤー・モニターだって、Van Halenの1995年のBalanceツアーで、アレックス・ヴァン・ヘイレンが首を痛めていて(ムチウチ)、ヘッドホンをかぶってプレイ出来なかったところから開発されたんだぜ? (と、聞いた) (だから、Balanceツアーは、Balance Tourではなくて、Ambulance Tourと呼ばれたらしい。その時期、エディも腰を痛めていたから。)

EVHの功績ってことだっけ。アンプについての話を書こうと思って、ついつい。
EVHがギターだけでなく、アンプとかサウンドとか。
そして彼が全盛期にツアーをしている時に、いろいろ「開発、検証」したとして、それがいかにその後たくさんのミュージシャンたちをbenefitしているか。

たとえば、Eddie Van Halenはそのデビューとともに、ギターの奏法をまるっきり変革して、80年代以降のハイテクニック、速弾き時代を切り開いたわけで、ギターの楽器としてのハードの面でも、スーパーストラト、フロイドローズ、などなど、列挙することも出来ないくらい、ギターの世界を変えてしまったわけだ。

アンプもそう、「ブラウンサウンド」なんて言葉は、今ではとっくに、エディ・ヴァン・ヘイレンという個人を越えたところで一般化している言葉じゃないか。

そんでもって、90年代以降に、もちろんMusicmanのシグネチャーギターもそうなんだけれど、彼が開発、追求、検証した、Peavey 5150アンプと、そのサウンド、影響が、どれだけその後の音楽シーン、最も顕著なところで言えばメタルコアとかのヘヴィミュージックの音を、手助けし、また規定し、基準になっていったか。それはもう、すでにVan Halenとか、エディ・ヴァン・ヘイレンの名前とかジャンルを越えたところで影響し、恩恵となっていったわけで、その貢献は計り知れないと思うわけですよ。

で、ギターでいってもたとえばMusicmanでいったら、John Petrucciとかもちろんいるけど、やっぱりAxisじゃないですか。代表的なモデルは。ベースならStingRayなんだろうけれど。

Musicmanつながりで言うとすれば、じゃあ今の、ないしはこれからの若い女性アーティストが、St.Vincentを見て、私もギターを弾こう、となったとして、それはいいんだけど、本当にがつんと来るようなプレイヤーに育ってくれるかどうか。「You’re not too bad for a girl」(と、若かりし頃のHeartのNancy Wilsonはいつも言われていたらしい)とかいうふうな、「女の子にしては上手いよね」とかじゃなくて、男とか女とかまったく関係なしに「すげえプレイヤー」に出会いたい。別に技術的にテクニックがあるとかじゃなくて、魂の領域において。フェイバリットミュージシャンに出会いたいということ。別にそういう人がいないんじゃなくて、きっと僕が知らないだけなんだろうけれど。

というわけでまあ、
たとえば僕の「フェイバリットミュージシャンリスト」みたいのを見ると、女性のアーティストってあんまりいない。
居ないってわけじゃないんだけど、やっぱり男性のアーティストとかバンドの方が多い。

それを指して、それはやっぱり世界全体が、現在ではまだ、圧倒的に男性中心の社会構造になっているからだ、と言うことも出来るし、たぶんきっと間違いなくそういうことだと思う。それは女性が活躍するスポーツなんかを見てもきっとそう。逆に日本で女性アイドルグループみたいなのがもてはやされるのもきっとそう。そもそも社会が男性中心だから。

僕はいつも、自分の世代を代表するアーティストは、Imogen Heapだと思っていて、つまり、世界規模において、自分たちの世代の感覚として、自分たちの世代の役割として、代表して声を届け、示してくれている存在というのは、Imogen Heapがその最たるものだ、と思っているわけだ。
もちろんImogenは女性だし、そして女性だからこそ出来ることというのがあって、その意味で俺はImogen Heapを尊敬し、そして彼女の作る音楽が好きだけれども、その彼女だって、「魂のミュージシャン」という感じじゃない。もっと、「社会的な存在」って感じだ。そういうのって、きっと女性の方が優れている分野な気がする。

そういえば確かそのSt.Vincentもだいたい同世代だったと記憶しているが・・・すでに女性の方が優秀な世代なのか、俺くらいの歳でも(笑)

だがたとえば、作曲の分野で言えばもちろん僕の敬愛する熊谷幸子師匠のように、本当に優れた天才みたいな人もいらっしゃるわけだ。
たとえばじゃあ、テイラー・スウィフト見て私もギターを弾きたいと思った女の子が、そういうガツンと来る技術も魂も心技体そろったアーティストになってくれるのかと言ったら、難しいところだと思うけれど。
特にルックスが良い女の子の場合だと、別に男の子でもそうだけれど、可愛いというところにどうしても頼ってしまうだろうし。それを指して男性中心社会と呼ぶか、いやそれこそ女性の強さとかしたたかさと呼ぶか、それは人それぞれなんだろうけれど。

かといって僕は別に男性っぽい音楽が好きなわけじゃなく、たとえばシンガーで言っても、音楽性で言っても、男だぜ、みたいなマッチョな音楽はあんまし好きじゃなくて、中性的な表現をするシンガーとか、男なんだけど女っぽい声とか表現をするシンガー、性別をちょっと超越した感じのシンガーが好きな傾向があるのはまったくもって否めない。

かといって、性的なオリエンテーション、なんか英語わからんけど、性的指向としては別にゲイな方向性の興味はまったくないし。嫁さん好きだし。
かといって別に自分が性的に変態でないわけではまったくなく、立派に変態のうちの一人であって、だって変態っていうのは音楽やる人にとっては褒め言葉ですよ。
別にクリスチャンになったからといってじゃあ自分のセックスは品行方正ですよ、みたいなことはまったくなく、じゃあ自分はすごい変態だから、せめて「神にあって変態」になろう、みたいな。意味わからんと思うけど、きっと。もっと霊的に次元の高い変態を目指そう、とか(笑)

そもそもが、ちょっと大きな教会とか繁盛してる教会とか行けばね、おごそかに、ないしは元気に、礼拝とかやってると思っても、みんなそうだよね、人間社会の宗教ってやつは、もし君に霊の目があって、霊の目が見えたとしたら、見えるのは集団オナニーというか集団で自慰行為している光景ですよ。それは、すごく醜悪で、すごく醜悪ですよ。でも、決してそれを指して美しくない、とは言わないわけで、つまり、僕が思ったのは「かたつむりの交尾」みたいな。その集団の霊的なオナニーが、かたつむりの交尾みたいに、美しいと言うことだって出来るわけだ。それに誰だって自慰行為くらいするでしょ。だから俺だって、そのことについて、あれこれ文句を言う立場じゃない。

その集団の自慰行為の光景っていうのは、たとえばヴィジュアル系のライブとかでも、似たような風景を見れたりすることもあると思うけれど、それはまた別の話。というか、ヴィジュアル系に限らず、たとえば「宗教っぽい商法で売ってる普通のバンド」もみんなそうだよね。だからヴィジュアル系のライブでもそうだけれど、宗教とかにおいても、それが繁盛するのは、どんな商売でも同じで、客というか人々が欲しいもの(ニーズ)を提供するからですよ。みんなね、ちゃんと気持ちよくなってるんだよ。それでみんな満足しているのなら、別にそれでいいと思うし。

でも、それと信仰とは、また別の話だと思う。

それに信仰っていうのは、別に善意の集まりのことじゃない。

善意で集まっているだけなら、別にキリスト教じゃなくったって構わない。
普通の慈善団体とかで構わないわけだ。

じゃあ、そういう中とか、ひとつの場所、ひとつの時間、ひとつの場面があって、キリスト者なら、どういう行動を取るのか。
Christ Follower、キリストを知る者、だからこそ、やれること、取れる行動、言える言葉があって、
それを為すことこそが、キリスト者というか、クリスチャンの存在価値なんだと、思う。

だからまるでガンダムのニュータイプって何なのか、っていう話と似たような。
(ボトムズ派ですけどね、いつも言ってるように、私。ガンダムだと初代ガンダムとか全然興味なくて、「ジュドー・アーシタ派」だし。)

君はコスモを感じるか。
(それはセイントセイヤだっけ・・・)

No(4970)

■…2017年12月 5日 (Wed)…….求めよ、さらば道は自ずと
求めずにはいられない人間って、やっぱりいるなって思う。
どの場所にも、どんな時代にも、きっといるし、居たんだろうと思う。

たとえばね、
世の中っていうのは、資本主義社会で、物が売れることが正義じゃない。
民主主義であれ、資本主義であれ、数字を出すことが正義でしょ。

だから、モノを売らないアーティストっていうか。
たとえば自分は「100万円のGibson(現行)よりも、5万円のBacchusの方がいいなあー」とか、平気でゆっちゃうでしょ。

そういうことを言ってる限りは、永遠にこの社会では成功しないんだよね。それはわかってる。

でも、胸に手を当てて考えてほしいんだけれども、
それがクリスチャンの世界であっても、
経済的に立ち行かなくてなくなってしまった教会よりも、
規模が大きくて人がたくさんいる教会の方が、
みんな「神様の祝福にあふれた」とか、「祝福された」とかなんとか言っちゃって、評価するじゃない。結局のところ。
それは、そういう世の中だから。

人間は弱い。
人間というものは弱い生き物だ。
だからって、その弱い人間という生き物を、神は見捨てない。

だから、そこには神がいる。
商売優先のアーティストのコンサートにおいても、
いろいろと微妙なメガチャーチにおいても。
人が集まれば、やっぱりそこには神がいてくれるんだよ。

だけれども、
ヘヴィメタルのサウンドを愛好する人間がそうであるように、
どの分野でも、コーヒーの味とか、絵画や写真とか、
スポーツや武術の分野であっても、
深く追求する人間が、そうであるように。

より「貪欲に」(笑)
求めるのであれば、やっぱりそこには道がある。

神を喜ばせたい。
山を動かしたい。

そう思うのであれば。

そういう手伝いを、自分はやれたらいいなと願っている。

自分がやるんじゃ、ないんだよな。
神がやるんだし、皆がやるんだ。

自分はきっかけになれればいい。(それでも十分、僭越)
そういう人生かも。

No(4971)

■…2017年12月 7日 (Fri)…….New Jerusalem の手抜きな笑点ビデオ
Meanwhile we seek for New Jerusalem.
Have you found it yet?

こちら

いや、なんかニュースになってたから、バズワードかなぁって思って、ついついアップしちゃった。もともと、今月このビデオはアップする予定だったんだけど、ちょうど。
いやね、最近、立志をするにあたって、得たものと失ったものっていうのを考えているんだけれど、失ったもの、の中には、家族とか故郷とかそういったものと同様に、祖国ってやつも入ってるんだよね。

そういうわけでエルサレム。
僕にとってのNew Jerusalemっていうのは、どこにあるのかなあ、って。
そんで、生きてそこに辿り着けることが、果たしてあるのかな、って。
そう思いながら。

コンセプトアルバムの最後に入ってる、意味深な曲なんだけど、意外と好評でびっくりしています。

サウンドイメージは、ハードロックバンドが、そのままの機材で無理矢理やったビートルズ。
そんで、もちろん、見果てぬ「ニューエルサレム」を目指して荒野を進む、男の後ろ姿。

ありがとう。

No(4972)

■…2017年12月13日 (Thu)…….鍋島オープンデモ、予定より早く、仕上がるかも
今、仕上げているところの「鍋島デモ」(人に公開してもいい用の、オープンデモ、と呼んでいるところの)は、
たかが「デモ」とは言え、それでもやはり僕の音楽人生の到達地点である「鍋島」の素材であるので、
作業をしながらも、向き合っているといろんなことを教えてくれる。

キリストは、地上での最後の日々、十字架にかかるところの、ゴルゴタの丘に向かいながら、いったいどのような音楽を聴いていたのか。
もちろん、そこには楽隊も音響装置もないので、つまりは霊の上で、どんな音を聴いていたのか。

もちろん、当時そこに音響装置はなかったが、神の子であるイエスさんは、天上の音をいくらでも聴いていたはずだ。
つまり、天の国にある音響装置は、この地上の、少なくとも現代に存在するどんな音響装置よりも優れているはずだから。
オーケストラだって、ロックバンドだって、エレクトロニックミュージックだって、そこにはあったはずだ。

もちろん、天の国つーか、そっちに行ってしまえば、音響どうこう以前に、たぶん物理法則そのものが違うだろうし、音響なんていう概念も全然違うものかもしれない。
けれども、他のこととか、他の分野はわからんでも、俺も音楽家のはしくれではあるので、このことだけはわかる。

俺たちは天の国の音楽なんて知らんが、
いや、違う。
俺たちは天の国の音楽がどういうものか知っているから、
天の国で鳴っている、鳴っていた、音響がどのようなものか、ちゃんと知っているからこそ、この地上においても、音楽が作れるのだ、ということを。

話それたが、
イエスさんが、十字架に向かっていく地上での最後の時。
イエスさんは、どんな音楽を、その霊の中に聴いていたのか。

ひらたく言えば、キリストが十字架にかかる際のBGMとはどうであったのか。
どうあるべきだったのか。

たぶん、映画とか、中世の宗教音楽とか。
演劇とかオペラとか。

だいたいにおいて、人が描いたキリストの受難のシーンというものは、
たぶん壮絶で、悲痛で、荘厳ではあるが、悲しみと苦しみを描写するような音楽が鳴っているものだと思う。

でもたぶんそれは違う。
たぶんそれは、人の認識の範疇だ。
人間の常識の限界だ。

十字架に向かうキリストさんは、きっと、
とてもはつらくと、明るく、軽やかで、希望に満ちた、
まるでピクニックにでも向かうみたいな、
そんな音楽を、聴いていたに違いないんだ。

周りの天使とかはどうだったかしらん。
ひょっとすると、天使たちだけでなく、父なる神すらもどうだったか知らん。

でも、宇宙でただ一人、その時、キリストさんだけは、
楽しく、明るく、とてもリラックスした音楽を聴いていた。
そうに違いないと思う。

そのことに気付いた時、
俺は本当に。
(泣けた。まあ、普通泣くと思う。)

たとえば、
カトリックでは十字架に、イエスさんの形とか人形とかついてるじゃん。
なんて呼ぶのか忘れた。
プロテスタントの十字架は、十字架だけで、人はくっついてない。

でも、そこにはやっぱり、なんかついてるのは違いない。
目に見えないってことを認めただけ。

だからつまり、十字架っていうのは、
十字架の本当の形っていうのは、タテがあって、ヨコがあって、
それで終わりじゃあ、ないんだよな。

その上に、まだなんかあるんだよ。
多次元つーか、もうちょい上の次元の形で。
それを表象するために、キリストさんは「そこ」に行ったはずで。

で、たぶんそこは、
イエスさんにとっては、
死刑になるための苦しい場所ではなく、
たぶん、
もっと楽しい何か、
宇宙でただひとつの、
「あるべき」場所だったはずだ。
その時、その場所、その次元において。

話戻る。

この「鍋島」は、今はまだ「デモ」の形だ。
でも、それに向き合う中で、
神さんはいろんなことを、俺に教えてくれたし、
たぶんこれから、もっと向き合って、教えてもらうんだと思う。
果たしてちゃんと演奏できる日がくるのかどうかはわからんが。

でも、神さんから受け取る中で、
不十分で、表現する実力も、環境や設備も、
決して足りていない中ではあるけれど、
俺なりに込めたつもりだ。
十字架の秘密つーのか、意味みたいなもんを。
自分の人生の中で出来る範囲において。

(文字とか音のレイヤーだけでなく、霊のレイヤーにおいて、物語を語る、という意味合いにおいて、少しは出来たような気がしているので、あくまで、気がしているだけだけれども、そうであれば、遠藤周作氏に、少しは顔向けが出来るってものだ。)

それは、自分という人間の人生の、
一人の小さな人間の目と手が及ぶ中だけの、
小さな限られたものだけれど、
でも、きっとそれでいいはずだ。

神は、人の手の中に、その手が行えない宿題は、決して負わせない方だから。

No(4973)

■…2017年12月15日 (Sat)…….BBCのやつ
ようつべですが、2014年あたりの番組らしい、アラバマ州の有名なMuscle Shoalsのドキュメントをやっと最後まで見れて。
ロックの歴史はもちろんのこと、昔のソウルミュージックとか、サザンロックとか、色々と勉強になるのだけれど、そんで、音の鳴らし方とか、生き方とか、音楽作るってどういうことなのかとか、場所の持つエナジーとか、町おこし(??)とか、勉強になるんだけれど。もちろん、当時にあってもミュージシャンたちの間では人種とか全然関係なかったって事とか。白人も黒人も一緒になっていかしたグルーヴを作り上げてたらしい。そんな神にあって、音楽にあっての融和の中でサザンロックの至福のサウンドは生まれたのか。
最後にこの曲が流れてさ。
こちら
Bob Dylanの、クリスチャンアルバムの曲。
なんかぐっと来ちゃった。歌詞が響いて。
Keep pressing on to the higher calling of my Lord

No(4974)

■…2017年12月16日 (Sun)…….鍋島デモ 作者によるメモ書き
鍋島デモ メモ書き

Nabeshima Demo Vol.1
1. Passion
2. Atomic Jam
3. Lord’s Prayer
4. Sakura Day
5. 123,4&5
6. Sakura Night
7. Extravaganza
8. Chanbara
9. Yamagoya3
10. Jidai
11. Bloodthirsty
12. Anthem

Nabeshima Demo Vol.2
1. Haritsuke Shounenn (磔少年)
2. Sonic Soldiers
3. The Garden
4. Who Are You
5. Sengoku Kirishitan (戦国キリシタン)
6. Screaming Sin
7. Matsuo
8. Senzai Ichiguu (千載一遇)
9. Redemption
10. Tsukuru
11. Not of This World
12. Utage (宴)

All songs written by Tak Nakamine
All Rights Reserved

「鍋島デモ」について

私、Imari Tonesナカミネタカヒロは、2017年12月、「鍋島デモ」と呼ぶところの一連の作品を完成させました。

まず「鍋島」についてですが、私がこの「鍋島」の楽曲を、音楽の部分の骨組みを作り終えた、ソングライティングのプロセスとして書いたのは、2014年から2015年にかけてです。しかし、一部の楽曲は2016年に書いたものも含まれます。

そこから、2016年の8月に、それらの楽曲を、ヴォーカルの入っていない、楽器だけの「デモ」として録音しました。
そして、その後、2016年の9月に、だいたいすべての歌詞を書き終えました。
そして、2017年の1月に、楽器だけの状態のデモの上に、アパートの狭い部屋で小さな声で歌った「仮歌」を録音し、「仮歌デモ」としました。

そして、2017年11月に、今度はアパートの部屋ではなくて、スタジオできちんとマイクを立てて、もうちょっとましなヴォーカルトラック(デモ歌、と呼んでいます)を録音しました。
そしてその上で、なるべく人に聴かせても支障がないように音を整えた状態にしたのが、今ここにある「鍋島デモ」です。
実際のところ、「鍋島デモ」という呼称は、最初の楽器のみのデモの時から使っていた呼び方だったので、自分の中では、区別するために、人に聴かせてもいい、外部に公表してもいいもの、という意味で、「鍋島オープンデモ」と言う呼び方をしていますが、しかし面倒くさいので、「鍋島デモ」と呼んでしまうことにします。

まずは、なぜ、本来「デモ」であるはずの音源を、わざわざ、外部に公表できるものとして、形にしようと思ったのか、そこの説明をしたいと思います。

というか、それよりも前に、まず、そもそも「鍋島」とは何ぞや、ということを書きます。
一般的には、歴史的な事実としては、鍋島、とは、九州は佐賀県の地名であると思います。
知ってのとおり、僕たちは、実際のところ、個人的にはそれほど九州や佐賀県に縁があるわけではないのですが、見てのとおり、僕たちのバンド「伊万里音色」は、伊万里という地名をバンド名に取り入れています。地名というか、焼き物ですよね。陶磁器。伊万里焼のことです。

もともとそれは、もちろん、多くの親しい友人は知っているとおり、それはうちの嫁さんの名前をバンド名に使わせてもらったことに理由がありますが、そこにはもちろん、もともとバンド名を考えるのであれば何か和風っぽい名前が良かった、とか、意味ありげな名前ではなくて、むしろ偶然によって決まるもので、できれば「固有名詞」が良かった、とか、理由があり、そこにたまたま、うちの嫁さんが素敵な名前を持っていたので、いつのまにかこれしかない、という感じになっていました。
そして、伊万里焼というのは、日本の美術、芸術であり、それが西欧、ヨーロッパに輸出されて人気を博していた、という歴史的事実からしても、日本のロックをインターナショナルな土俵で鳴らしたい、という、自分が内在的に持っていた志と合致するものでした。

ともあれ、過去にうちの嫁さんに連れられて、伊万里焼の展覧会とか美術館とかに何度か足を運ぶ中で、私はこの「鍋島」というものに出会いました。「鍋島焼」と呼ばれるものだと思います。僕も恥ずかしながら詳しくはないのですが、この「鍋島焼」というものは、伊万里焼の中でも、後期にあたるもので、鍋島藩で作られた最高品質の芸術的な陶磁器だそうです。僕は正直なところ、いわゆる「柿右衛門様式」のような派手な伊万里焼よりも、この「鍋島焼」の方に目を奪われました。一見、地味で、シンプルとも思えるデザインになっているものも多いのですが、僕が受けた印象では、それは簡素ながらも重厚で、何と言うんでしょうか、多次元的な視点というか、多次元的な表現というか、大袈裟かもしれませんが、時間と空間を越えた視点からのデザイン、そして、幾何学的、数学的とも思えるシンプルさと複雑さを併せ持ったものに思えました。宇宙的な芸術、とでも言いましょうか。
そして僕は、何百年も前の江戸時代の日本人が、このようなデザインを作り出していたことに、結構な衝撃を覚えました。
今でも、機会のある際に伊万里焼を展示している美術館などに出かけると、この「鍋島」は、新たな発見とともに、やはり僕を魅了します。

そして、たぶん僕がその「鍋島」というものを初めて見たのは、まだ僕がこのイマリトーンズという名前の音楽を作り始める前か、作り始めてすぐの頃だったかと思います、それはまだ、バンドの形になる前のことだったと思いますが、その時、僕は心に決めたのですね。いつか、こんな音楽を作ろう、と。そして、仮にも「伊万里」という名前の付いた音楽をやる以上は、もし「究極」というものを見つけることが出来たのなら、それに「鍋島」という名前を付けよう、と決心したのです。たぶんそれは、1998年とか、1999年とか、それくらいの事だったと思いますよ。もう少し前かもしれないし、もう少し後かもしれない。

ですから、かっこいい言い方をすれば、「伊万里」と名の付いたバンドをやっている以上、いつかは「鍋島」という作品を作ることは、宿題であり、また運命であった、と言えるでしょう。

時間を進めて、Imari Tonesは、確かに、小規模なインディーながらも、少しは国際的に音楽を発信できるバンドになりましたし、そして何より重要なことに、「クリスチャンロック」「クリスチャンヘヴィメタル」のバンドになりました。
そして、自分なりのハードロック、ヘヴィメタル、そして信仰をテーマにしたロックを追求する中で、またアメリカでツアーしたり、海外のバンドと一緒に演奏したりする中で、日本人としてのアイデンティティを知らず知らずに意識するようになっていったのは、ごくごく自然なことだったと思います。

たとえば、その結果として、日本の歴史をテーマにしたコンセプトアルバムである”Jesus Wind”を作り上げることにもつながりました。
そして、”Jesus Wind”の楽曲を書き終えた後、その「追求」はそこで止まることなく、さらに深化していきました。

そして、2014年の後半くらいからでしょうか。「あ、なんか、これは、見つけたかも」と思ったのは。
自分の中から出てくる音楽が、「その領域」に近づいているのを感じたんですね。
で、実際に、この「鍋島デモ」に入っている楽曲の多くを書いたのは、2014年から2015年にかけてなんですが、それらの楽曲を書いていく中で、「ついに、俺は自分の【鍋島】を見つけた」と確信しました。

そして、それは自分の中で、大きな影響となって、自分自身の意識を変えていきました。
「鍋島」の楽曲たちは、自分にとっては、到達点でもあり、新たな発見であり、また原点回帰でもあります。原点回帰というのは、少年時代に自分の中で鳴っていた「その場所」への回帰です。僕が10代の頃に書いた楽曲というのは、実際のところ、その後たくさん録音して形にしたり、今でも演奏している曲もいくつもありますが、その頃に見ていた「景色」に戻ってきた、という感じです。個人的なことですが、僕とうちの嫁さんは10代の高校時代に出会って、それがその後の人生を変えてしまいましたが、その頃に見ていた心の景色に戻ってきたという感じでしょうか。一周して、戻ってきた、というような。

その「確信」は、インストゥルメンタルのデモを形にして、また、歌詞を書いて、そして仮歌をのっけてみても、消えることはなく、むしろより大きな確信と発見につながっていきました。

そして、僕は自分の中で、自分の作る音楽の、これが到達地点であることを確信しています。つまり、わかりやすく言えば、「もうこれ以上は作れない」「もうこれ以上は書けない」というのが本音です。それが嘘でないことは、「鍋島」の楽曲を書き終えた2015年夏以降、僕はほとんど曲を書けていないという事実からも証明できると思います。
いや、もちろん実際は、曲は書いているのですが、しかし、あれ以降、自分の中から出てくる曲は、イマリトーンズのハードロックではなくて、もっと別の何か、たとえば、もっとおだやかなアコースティックの楽曲とか、ソロアルバム的なギターインストとか、になっているのです。

さて、「鍋島」の楽曲を書き終え、そして「デモ」の形にした2016年8月の段階で、僕は「これからどうしたものか」と思案していました。
それは、書き上げた「鍋島」の楽曲たちを、いったいどうすればいいのか、どのように向き合っていけばいいのか、わからなかったからです。バンドは、ちょうど”Jesus Wind”のレコーディングを終えたばかりの時期です。そして、その「鍋島デモ」およびその他のデモ(その他にもあったわけです、もっと楽曲のデモが)をバンドメンバーであるHassyとJakeに聴かせて、「さて、どうしようか」と、会議をしたわけです。

そして、その時点から、僕は、「果たして、この鍋島を鳴らすことが出来るのか」という問いかけをしていきました。それはつまり、今のこのイマリトーンズで、鍋島の楽曲をちゃんと演奏して形にできるのか、という意味です。そして、それは、非常に酷なことではありますが、演奏技術、センス、才能、意欲、それらすべての面において、という意味です。そして、本当に酷なことを言ってしまえば、率直に言って純粋に技術的に、ということです。

HassyもJakeも、決して世界一上手いプレイヤーというわけではない。むしろ、第一線でがんばっているバンドマン、プレイヤーの中では、技術的には劣っている方であると思います。しかし、僕たちはそういった技術とか、バンドとしての目先の成功よりも、チームワーク、キャラクター、そして人間性を重視してきました。そしてそれは、人間はそれぞれの長所、良い部分を伸ばしていけば、足りないものがあったとしても、それをカバーして大きなことを成し遂げることが出来る、と信じたからです。

そして実際に、約10年間活動を共にしてきた[Tone – Hassy -Jake]のスリーピースは、非常に素晴らしいチームでした。アンサンブルやサウンドの相性は良かったと思います。それぞれに、もちろん自分も含め、個々のプレイヤーとしては足りないものはたくさんありますが、それを上回って、チームワークや個々のキャラクターが生きていたと思います。だから、バンドの3人は現在も、ぜんぜん仲良くやっているんですね。あと数ヶ月で、このメンバーでの活動は終わりだ、とわかっている状態でも、リハスタに入れば、和気あいあいと練習して、練習の後もずっとだべってるわけですよ。放課後のクラスメイトみたいにして。

そして、この3人で、アメリカを4回ツアーして、日本でやるXTJ(The Extreme Tour Japan)で海外バンドと一緒に回ることを4回やって、何枚ものアルバムを作って、そして、3人で作るヘヴィメタルの到達点として、自信作である”Jesus Wind”を作り上げたわけです。

そして、”Jesus Wind”は純然たるヘヴィメタルアルバムであることからもわかるように、[Tone – Hassy -Jake]の今のイマリトーンズのメンバーは、ヘヴィメタルを作ることには底力がありました。けれども、「鍋島」は、それ以上です。ヘヴィメタル以上のものが求められます。

だから、ここへきてついに、本当に残念だけれども、今のメンバーの力量では、どうにもならないところまで来てしまったのです。僕が作り出す音楽が、僕の中から出て来た「鍋島」が、今のメンバーの力量をはるかに越えたところにあった、ということなんですね。そしてそれは、がんばって練習すれば出来るようになる、とか、何年か修行すれば習得できる、というレベルのものではなくて、もっと根本的なところで、届かないものである、ということなのです。

実際、この「鍋島」の事だけでなく、他にも色々な理由で、僕はきっちり2年間は、どうするか悩みました。つまり、今のこの[Tone – Hassy – Jake]の3人で、なんとかやっていけないものか。それとも、やはり一度ここで区切りを付けて、新たな形を探す方が良いのか。ずっと悩んできました。そして、たぶん今もまだ悩んでいます。

けれども、僕にとって、そしてこのイマリトーンズという航海において、いちばん重要視されるもの、それは音楽です。音楽を作り出すことです。
だから、すべては音楽が決めるんです。人が決めるんじゃないんです。
だから、そこに鳴らさなくてはいけない音楽がある以上、僕は進まなくてはいけない。

残念ながら、今のイマリトーンズでは、「鍋島」には届かない。
だから、3人で到達し作り上げた”Jesus Wind”を誇りに。
そして、最後に、もう一度だけ、イマリトーンズとしては久しぶりの日本語のアルバムを、「Overture」と名付けたアルバムを、3人で作ろう、そう決めたのです。
そう決めて、「Jesus Wind」「鍋島デモ」の後、2017年のイマリトーンズは、リハーサルに明け暮れてきました。

ぶっちゃけたところ、”Overture”は、「鍋島」からの「ボツ曲」の寄せ集めと言っていい作品です。
それに、日本語の歌詞を乗せた感じです。

それらの楽曲は、「鍋島」と同時期に書かれたけれども、「鍋島」の選曲に漏れたものや、
あるいは、「鍋島」を書いた後に、2016年になってから書いた楽曲もかなり含まれていますが、それはいわば、僕の言葉で言えば「鍋島の出涸らし」といったものです。

しかしたとえ「出涸らし」であっても、「鍋島」のエキスが入っている作品であることも確かです。
そして、何より、日本語で書いた歌詞が、それ以上の意味合いを持っています。

たとえば、興味深いことに、「Overture」に収録される予定の楽曲は、「鍋島」の楽曲と対になっているものがいくつかあります。兄弟曲、みたいな。鍋島に収録されなかったボツ曲、みたいに書くと印象が良く無いですが、たとえば”Overture”は、”Lord’s Prayer”と対になっていますし、”Forgiven”は”Not of This World”の兄弟曲です。”Born Again”は”Sonic Soldiers”とやはり対になっている位置づけの曲です。”Mistake”は”Bloodthirsty”とリフがだいたい同じですし。どっちが良い曲か、は、聴く人によって意見が分かれそうです。

音楽的には「ヘヴィメタル」の枠からかなりはみ出して、どちらかといえば一般的なJ-Rockや、オルタナティヴ、インディロックなどの色合いの強い「Overture」は、HassyとJakeに課した「テスト」でもありました。つまり、この「Overture」をやりこなすことが出来るのであれば、「鍋島」をやれる可能性があるかもしれない。また逆に、この「Overture」をきちんと演奏することが出来ないのであれば、「鍋島」は到底やれるはずがない。そういう意味合いのテストです。そしてきっちり一年間リハーサルをしてきた、そのテストの結果は、それは、ここに書く必要はないでしょう。それはスタジオの中でアンサンブルを合わせてきた3人が、自ずとわかっていることです。しかし、それでも、僕たち3人は、最低限、可能な限りのクオリティで、きっちりと「Overture」を作り上げるつもりです。それだけの力量はあるメンバーだからです。

さて、話がずいぶんと遠回りをしたかもしれません。
以上、ここまでお話しした、現在のバンドの状況、そして、これから進んでいかなくてはならない「鍋島」への道を踏まえて。

僕が、この時点で、この「鍋島デモ」を、バンドの内部資料というだけでなく、外部に公表、発表しても差し支えのない内容に、なるべくきちんとした形にまとめたのは、
それは、自信が無いからです。

つまり、これから、これまで10年やってきた[Tone – Hassy – Jake]の形を捨てて、新たな場所で、新たな形で、より強力な、より本当の意味で「神の愛」と「ヘヴィメタルの真実」を伝えることが出来る、本当の意味での音楽ミニストリーとしてのImari Tones。

その場所に辿り着き、本来あるべき形で、しかるべき形で、「鍋島」を演奏し、そして録音制作をする。

そこまで、果たして辿り着けるかどうか、やる気はあっても、確証は無いからです。

何年かかるかも、わからない。
この「鍋島デモ」を聴いていただけば、たぶんわかると思いますが、「鍋島」は、それほどまでに遠い、果てしない目標です。

だから、そこまで、ちゃんと生きて辿り着けるか、わからない。
そして何より、人間、明日のことはわからない。
神からのメッセージを託されているのであれば、何年先かもわからない完全よりは、不完全であっても、今、今日、この時に、メッセージを伝えたい。

そう思ったからこそ、僕はここで、たとえ不完全な「デモ」の形であっても、この「鍋島」をいったん形にする必要がありました。

“Overture”については、まだ今現在、録音作業の途中ですので、完成の順番としては、若干前後しますが、
もし、たとえば明日とか明後日とかに、僕が何かの拍子に死んでしまったとしたら、この「鍋島デモ」が遺作になります。

死んでしまっても、ちゃんと遺作として残るように。
また、残りの人生でちゃんと「鍋島」を鳴らすところまで辿り着けなかったとしても、最低限、出来る形では伝わるように。
そのために、これからの出発にあたって、後悔なく踏み出せるように、この「鍋島デモ」を作りました。

ですから、この音源は、今すぐに発表するものではありません。
願わくば、発表せずに済むことを願っています。

イマリトーンズが、スムーズに次の形を見つけて、早い時期にちゃんとバンドで「鍋島」を鳴らし、制作することが出来れば。
そしたらこの「デモ」はめでたくお蔵入りになります。

ですので、この「鍋島デモ」は、今、この時点では、「何かあった時のため」、また、「僕の船出を理解してもらうため」に、信頼できる少数の人だけに、託そうかと考えています。

さて、技術的なことです。
この作品は、「鍋島」という究極の到達地点ではありますが、あくまで「デモ」という形です。不完全なものです。

たとえば、ヴォーカルトラックの録音は、非常に手早く、時間をかけずに行ってしまいました。
それは、貧乏バンドマンの生活の中で、20曲以上ものヴォーカルの録音に、たくさんの時間を使うことは出来なかったからです。だから、難しい曲であっても、2テイクだけ歌って終わり、とか、そういうのが結構あります。だから、残念ながらヴォーカルは完璧ではない。

また、「鍋島」の歌唱としても表現としてもハードルの高い楽曲に対して、ぜんぜん歌う練習が出来ていない、つまり、僕がこれらの楽曲を歌うのは、「仮歌」をアパートの部屋で小さな声で歌ったのが最初で、今回の録音が二回目、ちゃんとした音量で歌ったのはぶっちゃけ初めてだったわけです。だから、表現の面でも、試行錯誤する時間すらもなかったし、歌い込むということが出来てません。メロディをなぞるだけでも精一杯だったというのが本当のところです。自分のヴォーカルの技術的な限界も露呈していると思います。

また、いくつかの箇所には、その2017年1月に録音した、狭いアパートの部屋でダイナミックマイク握りしめてささやき声で歌った「仮歌」をそのまま使っている箇所があります。ですので、それらの箇所に関しては、音質的に劣る箇所があると思います。

また、時間的な制約もあり、ヴォーカルトラックに対して、コーラスというのか、ハーモニーのパートは基本的に一切歌っていません。なので、本来であればハモリのパートが欲しいな、という箇所にも、ハモリを付けていないので、その意味でも録音作品としては不完全です。
ハーモニーを付けなかったのは、時間的に、また気力体力的に、無理だった、ということもありますが、ここでハーモニーまで付けてしまったら、あくまで「デモ」であるはずのこの音源を、間違った形で完成形に近付けてしまうような気がして、気が進みませんでした。

ギタートラックに関しては、2016年8月に、それなりに気合い入れて弾いたやつもありますが、それよりも前に、最初に曲を書いた段階で、かなりテキトーに雑に弾いてしまったやつも結構あります。あるのよ、曲を作る時って、アイディアの記録が最優先だから、まだ何もないのにクリック聴きながら適当にギターソロまで弾いちゃう、みたいなことが。また、その際にベリンガーのやっすいUSBインターフェイスを通して弾いていたりするので、その特有のノイズが乗っている曲も多いです。

ちなみにですが、”Utage” (宴)という曲に関しては、元々のデモがマルチトラックで残っていなかったので、2017年10月にギターもベースも録り直しています。これはどういうことかというと、この曲はもともと”Revive The World”の時のボツ曲なんですね。言われてみるとリフが”Unlimit”に似てるし。だから2012年に書いた曲だと思うんだけれど、久しぶりに過去のデモをチェックしたら良かったので「鍋島」のラストトラックにぴったりだったので採用したんだけれど、古いデモだから、ミックスのデータが残ってなくて、だから今回あらためて弾き直しました。

ついでにもうひとつメモすると”Chanbara”のギターソロも、2016年8月に弾いたやつがあまりにもテキトーだったので、今回2017年11月に弾き直しました。もっとも、弾き直してもやっぱりテキトーだったけれど。

んで、ギタートラックですが、もともとはIK Multimedia Amplitube3で弾いたんですが、今回、「公開版オープンデモ」にするにあたって、brainworx社のアンプシミュレーターに差し替えてます。Amplitubeは、音はちょっと安っぽいんだけれど、簡単に狙った音になってくれるのよね。だからデモを作るにはばっちりなんだけれど、brainworxのシミュレーターの方が、本格的な厚みのある音なんだけれど、狙った音になかなかなってくれなくて、頑張ってみたけど、どうかな、ちゃんと伝わってくれるかなあ。まあ、ベストは尽くしたよ。で、実際にアンプを鳴らして収録した音ではなく、シミュレーターを使っているのは、あくまで「デモ」だからです。ご了承ください。
ドラムトラックに関しては、最初に曲を作る時にはLogicPro9に入ってるドラムの音を使って打ち込むんだけれど、今回「公開版」を作るにあたって、Native Instrument Studio Drummerの音源を使って、なるべく本格的なドラムの音になるように努力してみました。重いんだよね、このドラム音源、僕のパソコンだと、ちょっと。だから、滅多に使わないんだけれど。でも、やっと少しは使いこなせるようになってきた感じ、このドラム音源。習得遅いよ、って言いたくなるけれど。

そんなところかな。

聴いてもらえばわかると思うけれど、「鍋島」っていうのは要するに簡単に言っちゃえば、ちょっと和風のテイストの入ったハードロックです。
でも、和風のロックをやってる人たちはいっぱいいるけれども、僕はずっと「異能」というテーマを持って、そこに「異次元」を持ち込む意図でやっています。そしてもちろん、クリスチャンロックのテーマと、霊感をそこに込めることにこそ意義があります。

言っちゃえばね、作ってる最中はぜんぜん思わなかったけれど、こうしていったん完成形を作って聴いてみると、あ、出来てる、って思うのね。
何が出来ているかというと、「霊のレイヤー」における表現。
僕はこれを最初に意識して感じたのは遠藤周作さんの小説を読んでいる時だった。
遠藤周作さんの作品は、表面上語っている文字の上での物語と、その上で描かれている霊のレイヤーでの物語が、まったく違う立体的な構成になっていることがある。

そんな表現を、僕も音楽でやってみたい、って思っていたんだけれど、
ぜんぜん考えてもいなかったけれど、曲順もインスピレーションに従ったけれども、2枚の作品の構成を通じて、気が付けば自然に、「霊のレイヤー」上での物語を構築することが出来ている感覚がある。

だから、大口を叩くのであれば、この2枚を通じて、聖書の物語を、キリストという地球人類のみならず宇宙の特異点たる、たったひとつの主の物語を、俺もこうして、描き出すことが出来たと思う。遠藤周作さんがそうしたように。

とか言っても、他人からしてみれば、別にどうってことのない、よくある和風ロックだったり、月並みな作品だと思うかもしれない。特に霊のレイヤーを感じ取ることの出来ない人にとっては。
僕が、自分では、自分の音楽人生の究極の到達地点だと思っていても、人から見たら、そうは思わないかもしれない。

でも、それでも俺は構わない。
だって、「鍋島」は、神のためであるかもしれないが、同時に自分と、そして何よりうちの嫁さんのために、個人的に作り上げた音楽だから。

世界一になれるかどうかはわからない。
でも、僕が、自分がずっと求めてきたヘヴィメタルの「美」を、「鍋島」という霊感に満ちた表現に託した「異能の美」を、込めることが出来ていたのなら、それでひとまずは目標達成と言えるかなあ。

以上です。God bless you all.

In Christ (主にあって)
ナカミネタカヒロ / Imari Tones (伊万里音色)
16th December 2017

No(4975)

■…2017年12月18日 (Tue)…….まさかの変身。大学にでも行ったのか。
ここ何作か、退屈だなーと思って聞き流していたWar of Ages、嫁さんが新作いいよと言うので聴いてみたら、ほとんど言われないと同じバンドと気付かないくらいの変身ぶり。なんというか、俺がメタルコア(クリスチャンメタルコア)に求める「こうだったらいいな」が全部形になってる感じ。何があったの??!! いい時のDemon Hunterにステロイドを打った感じというか。しかし後半はいつものダサい感じに戻っていて残念というか安心したww
こちら

No(4976)

■…2017年12月25日 (Tue)…….FB用前振り
さて、ずっと考えて書きためていた「立志」の文章なんですが、
いろいろ忙しく、ポストするのがなぜだかクリスマスの日になってしまう(笑)

書いたものをそれぞれ別個に投稿すると、皆さんのタイムラインのお目汚しになるかと思うので、ひとまとめにしてノートに投稿しようかと思ったんだけれど。長過ぎるって言われて投稿できなかったから、それぞれ別個にポスト。結果、たくさんになってしまい、申し訳ない。なんか不便なんだよね、Facebookの書式とか使い勝手とか。

別個に投稿すると、部分部分だけ読んで誤解されそうで、嫌なんだけど、まあ別にいっか、って。
そもそも読む人もあまりいないとは思うし。こういうのは純粋に自分の中の整理だからね。

そんでもって、自分の願いとか希望を言葉にする、口に出す、書いてみる、とか。自分が何を欲しているのか、この節目の時期に、考えて問いかけていきたいです。

んじゃ、以下、立志40。2017年12月。

No(4977)

■…2017年12月25日 (Tue)…….立志40 前書き [ヘヴィメタルを伝える]
立志40 前書き [ヘヴィメタルを伝える]

世の中には「ヘヴィメタル」が足りない。
そう気付いたのは、わりと最近のことだ。
もちろん、歴史上には、そして今でも、世界には、星の数ほどの「メタルバンド」が存在している。
でも、僕に言わせれば、それでも世の中には、「ヘヴィメタル」が無い。
足りない。
そもそも存在していない。

たとえばヘヴィミュージックを色々と聴いていると。
今ではストリーミングサービスなんてものがあって、SpotifyとかApple Musicとか。
それでさえなくてもYouTubeをちょっと見るだけで、古今東西の色々な音楽のカタログが、体系的にすべて聴けてしまう。
ヘヴィミュージックとかメタルとかそういう音楽についてももちろんそれは同様で。

たとえば僕のiTunesの中に入っている小さなコレクションの中だけでも、
それは、僕がこれまで集めてきたCDとかダウンロードであっても、こうしてストリーミングで聴ける世界中みたいなカタログと比べれば、今となっては小さなコレクションだけれども、それでも、いろいろなジャンルや世代をひととおり俯瞰的に見ることは出来る。

そうやってあらためて、距離を取って見てみると、時代が進む中で、いろいろなバンドが、実に色々なサウンドを、ひとくちにヘヴィに歪んだギターサウンド、と言うだけでも、実に様々なキャラクターの、様々な周波数レンジの、様々な音作りで、それぞれの時代に鳴らしていたことがわかる。

だが、それだけ色々なバンドが、メタルとか、ヘヴィメタルとか、なんとかメタルとか色んな呼び方で呼ばれる音楽を鳴らしていても、その中で、「これこそがヘヴィメタル」と呼べるサウンドは、これこそがメタル、と呼べるリフは、なんだか、いまだに鳴らされていないように思うのは、なぜだろうか。

ストリーミングなんて言えば、音楽産業みたいのが事実上崩壊して、もちろん、今ではまたそれなりに新しい方法論で再構築されているだろうけれども、その昔の華やかな時代にくらべれば、たとえそれなりに有名なアーティストであっても、「音楽」というものはお金にならなくなった。

だけれども、では、今、音楽に限らず、誰が、どのような人たちが、お金を儲けているというのか。
お金に値する価値を、届けていない、届けられていない、とすることも出来るが、たとえそうであったとしても、今という時代の世界にあって、価値というものは、お金に変わるものだろうか。
今の時代にあって得るべき、作るべき価値というものは、お金ではないものではないのだろうか。
その価値を、自分は作り出すことが出来ているだろうか。

人には生まれ持った周波数というものがあるらしい。体質と言っていい。
だからこそ、同じ楽器、同じ音楽を演奏しても、人によってまったくサウンドが違い、ムードも違えば、世界観そのものが変わってくる。
いつも言っているように自分はヘヴィメタルなんてものを選んだつもりはない。そんな覚えはない。
だけれども、あはは、かっこつけて言えば、ヘヴィメタルの方で自分を選んだ、みたいな(笑)
たとえ、自分が必ずしも、一般的な「ヘヴィメタル」という価値観の標準から外れた人間だとしても。
人がその中に内在する「世界」によって、出てくる音、鳴らされる音も生まれると考えれば、
では自分の持つ「世界観」とは、ヘヴィメタルのそれだろうか。

たとえば自分は、たとえジャズで使うような音階を覚えたとしても、気付けばそれをヘヴィメタルのサウンドで鳴らし、それをメタルの文脈の中でどう使うかということを考えている。そんで、なんか普通に弾いても、なんとなくいつものおなじみのメタルになってしまう。それを自分の欠点だと、限界だと僕は考えていたが、限界というものは、制約というものは、いったんそれがなくなってしまえば、実は美しいものではなかったか。神が与えた形と言うべきか。

自分は普通のパワーコードをそのまま安直に鳴らすことがすごく嫌いだった。ロックの曲では必ず使われている、1度5度のなんでもない単純な和音。退屈だと思ったからだ。
けれども、実際のところ、そのパワーコードひとつ、ちゃんと鳴らせるやつがどれくらいいるのか。そして、自分は果たして、パワーコードひとつ、ちゃんと鳴らすことが出来ていたのか。
結局自分は、死ぬまで「パワーコードひとつ」を鳴らす宿命だったのではないか。

サウンドというものは多様であり、また、ジャンルというものは便宜上に過ぎず、たとえばパンクがそうであるように、ブルーズがそうであるように、メタル、というものもまた概念に過ぎない。

パンクというものは概念であって、たとえばサウンドの定型としてのパンクというものの一般的に認知された特徴を言うことは出来ても、また、それをわかりやすくヴィジュアル化したパンクファッションというものがあったとしても、概念としてのパンクをつかまえることは誰にもできない。デストローイ、と言えばいいかもしれないが、では何かを壊すとして、それがただのヴァンダリズムと、パンクとを分ける境界線はどこか。そして、ギターをぶっこわすことがパンクとすれば、それを真似てギターを破壊することは、既にパンクではないのだから、逆にギターをぶっこわさないことがパンクになってしまう。破壊することのカタルシスを得るためには、破壊する対象が美しく存在してくれなくてはならないが、では破壊し尽くした後にパンクは残るのだろうか。いや、実にそれは残らないからこそパンクなのか。

同様に「メタル」、ヘヴィメタルなんていうものは概念であって、多様化の途を8周くらいした後の今の時代にあって、そんなことは今更何をか言わんやというものであるが。
たとえばスラッシュメタルという概念は存在するかもしれないが、実際にはそれは実行不可能な命題であり、スラッシュメタルを鳴らし続ける、ということは、人々の偏見をそのままなぞるような自己パロディと化すか、あるいは進化や多様化の名目の下にスラッシュメタルの概念から離れていくかのどちらかしかない。それはいわゆるBig4と言われる人たちがそうであったように。

たとえば僕が「メタル」のバンドを見て、ああ退屈だな、と感じるのは、進化、前進することを放棄したと感じる瞬間である。それは、表面的にどう見えるかとか、メディアが何を言っていてもそれは関係ない。だけれども、進化、前進、多様化を求めながらも、さらにそこに、本質たる「概念」の追求を求めるのは、矛盾しているだろうか。正統だからこそ、進化、前進して欲しい、否、王道とは形の定まったものではなく、「道」そのものだからこそ、その「道」と一体化することによって、「進化」と「本質」の両面を示すことが出来るという理想像がある。「道」とは本来そういうものだからだ。

自分が日本人ながらに「クリスチャンメタル」なんてことを始めたのは、そのロックおよびヘヴィメタルのたどるべき「道」を求めたからであって、さらなるヘヴィメタルの「概念」と「サウンド」を求めたからであって、それは別に特定の宗教組織とか教会とか団体を利するためではない。サウンドの中に「道」を表現し、それを伝えることがロックバンドの使命であって、たまたまそれが「イエス・キリスト」という存在と一致し、共鳴したまでのことである。それに共鳴したリスナーの人たちが、それを通じて「イエス・キリスト」に共鳴し、その人について知ることが出来るのであれば、それはひとつの結果である。

その時代、その場所においての「スタイル」というものは確かに存在する。そして、その中で大きな実績を残すアーティストもたくさんいる。けれども、それを越えて「概念」とか「本質」といったものに迫れるプレイヤーというものはそんなに多くない。
今まではいざ知らず、出来ればこれからの自分はそういったプレイヤー、そういった本質を追い求めることの出来るミュージシャンになっていきたい。

だからこそ本質から離れてしまうことを嫌って、僕はアンプのゲインを上げることを拒否してきたのだし、逆に、軽いクランチのアンプでも「本質」を鳴らせないのであれば、いくらアンプのゲインを上げたとしても無駄だ。もっと逆に言えば、いくらハイゲインのアンプを使って、過重なディストーションがかかっていたとしても、本当に才能のあるギタリストであればきっと「本質」を鳴らしてみせるだろう。

では自分にとってのヘヴィメタルとは何なのか。
僕にとってのヘヴィメタルとは、まだこの世界において十分に鳴らされていない。
世界にこれだけたくさんのヘヴィメタルバンドが存在しても、僕が思うにはきちんと「ヘヴィメタル」を鳴らしているバンドなんて、そうそういやしない。
それだけは言える。

ヘヴィメタルの本質を、伝えていけるようなバンドを。
「神の愛」と「ヘヴィメタルの真実」を、伝道することのできる、
本当の意味での音楽ミニストリーを、立ち上げたい。

No(4978)

■…2017年12月25日 (Tue)…….立志40 本編 [失ったものと、欲しいもの]
立志40 本編 [失ったものと、欲しいもの]

そういったわけで「鍋島デモ」(世間に公開してもいい、「オープンデモ」と呼んでいたもの)は完成した。と思う。

年内に完成までもっていけると思っていなかったので、予定より早いと言える。

そういうわけで「立志」を行いたい。

まずは、今までの人生を振り返って、得たもの、手に入れたもの、手に入ったもの、それも大切なんだけれども、
それ以上に、手に入らなかったもの、失ったもの、それらのものについて考えてみたい。

そして、それを踏まえて、自分が何を欲しているのか。
自分が、何を求めて、どこへ行きたいのか。
どこへ生きたいのか。
どこへ逝きたいのか。
見つけ出したいと思う。

できるかわからないがやってみる。

以下は前に書いたセンテンスから引っ張ってきての貼付けである。
そこからつないで書いてみる。

どちらにしても強迫観念の中で仕事するのは嫌なんだよね。

権威と記号ってものを追いかけると、それは強迫観念に追いかけられるってことなんだよな。

追いかけてるんじゃなくて、追いかけられるんだよ。自分では追っているつもりでも、実は追われている。
それって、結構な呪いなんだよね。

それは、俺は嫌なんだ。

呪いじゃなくて、祝福を広めたいんだな。

呪うと祝う、の、ダジャレに違いない。
漢字とか日本語ってのはよく出来てる。

口を使って、嘘百百を言う、のと、
行動や生き方で、示す、ってことの違いかな。

でも、世の中では、その区別さえも、ぜんぜん定かではない。

だから、人は間違っていく。

でも、それは罪ってもので、アダムさんが林檎を食べた時からそうだった。

人は本来、基本的に、間違う生き物だって、そういうことになっている。

これって、あたりまえのベーシックだけれども、やっぱり結構に絶望的なことだ。

絶望的な世の中だ。

そこから先は省略だ。

では、そんな絶望的な状況の中で、どうやって愛なんてものを伝えたらいいのか。

愛って、どこに行ったら見つかるのか。

俺は、この愛ってものを信仰したい。

そのための人生にしたい。

そんで、神さんはそのためのものを与えてくれてると信じたい。

「いい歳」になって、昔から公言していた「年齢についてのジョーク」を言える歳についになった。
ここまで実際に生きていられると思わなかったし、これからも思わないけれど、感謝したい。

だから立志ってものをしたい。遅いと言われるかもしれないが。志を立てることが必要だ。いや、きっと音の中にすでに示されているものだけれど、それを自分の人生の中であてはめて自分なりに考えてみるだけのことだ。

今までの人生、とても幸運で恵まれた人生だったけれど、
望んだものは、たいてい、ほとんど、望んだ以上に、いつでも手に入った、と、そう感じているけれど、
それは自分がそう思っているだけで、能天気なだけで、
本当は手に入らなかったものも、すごく大きいのかもしれない。

だから、失ったものについて考えてみたい。

手に入らなかったもの、失ったもの、っていうと、
まずこのことを最初に考える。
まっとうな人生。

たとえば、家族とか、子供とか家庭を持つとかね。

いつも言っているけど、僕は別に「ロックスターになるぞ」とか言って、やりたくてバンドを始めたわけじゃない。
10代の頃からわりとそのへんは覚めてて、ロックバンドやるなんてばかばかしい、と思って、もっと違った夢があった。
でも人生はそうはいかなかった。その後は、何度も書いたり語ったりしているから省略。

この歳になると、というか、この歳になるまで、と言った方がいいかな、
たとえば、街に出かけて、小さなお子さんを連れたお母さんとか、夫婦とか、見かけるじゃない。
本当に、いろいろな思いで複雑になるものだった。今でもそうだし、余計にそうだ。
もちろん、うらやましいなという感情もそこには多分に含まれている。

この歳になれば、そういったご夫婦とかお母さんは、多くは既に自分よりも年下の世代だったりするし、普段生活している中でも、自分は中身がいまだにこれほど幼いままなのに、時間だけが経っていることのギャップに、なんだか複雑な気持ちになる。情けないと言ってしまってもいいかもしれないが、けれども人間にはこの世界でそれぞれに役割があるものだとも思う。

こういう人生を送ってきてこの歳になれば、むしろやはり自分(自分たち)は人の親になるということの意味においては甚だ不適格であることは重々にわかっているのだが。それでも、今までにも、周囲から言われたことや、訊かれたことは何度かある。当惑するより他なかったが。

けれども、人生においての「前提」みたいなこと。人生においての重大な決断みたいなことは、ひとつやふたつではなくて、たくさんのどうしようもないような理由があって決まることだ。
そしてその「前提」というものは、言葉に出来るものではない。
言葉にすると、あまりにもつらすぎるものだからだ。
だからそして、「前提」というものは、誰も教えてはくれない。
わかってもらおうとも思わないし、思えない。
けれどもその中には「失ったもの」というものがたくさんあって、そしてそれらの「失ったもの」がたくさんあるからこそ僕たちはこういう人生を送っている、のだと思う。

まず最初に、僕たちはいつ、「家族」というものを失ったのか、ということ。

そして、それよりも前に、僕たちは、いつ、「故郷」とか「ふるさと」と言えるものを失ってしまったのだろうか。(あれか、それこそ、アダムの頃か。)

そして、僕が、「祖国」みたいなものを失ったと思ったのはいつのことだっただろうか。

あるいは、「伝統」とでも呼べるもの、自らの身を委ねることのできるような「大きなもの」を、自分は探して、そしてそんなものはどこにも見つからなかったのではなかったか。

それらのことに、僕はどれほど苦しんだのか。
あるいは、ちっとも苦しまなかったのか。
どっちかな、それは知らない。
知ってても言えるわけない。

それらのものは、僕が心の奥で望んでいたものだ。
人として生きるために、
魂の奥で欲していたものだ。
けれども、それは、与えられなかった。
手に入らなかった。
理由はわかんない。運命とか。めぐりあわせみたいなもんか。
時代の状況とかそう言うこともできる。
もっと不幸な境遇で生まれてくる人たちだってたくさんいる。

じゃあ、人類の歴史上、本物の「伝統」なんてものが、
実際どれくらい存在していたのだろうか。

あるいは「武士道」なんてものがあったとして、
それはもちろん騎士道でもなんでもいいんだけれど、
それは剣術とか空手とか柔道とか、そういう武術の体系のことなのか。
そういった技術は、とっくに失われているんじゃないか。
また技術には自ずから限界というものがあるのじゃないか。

技術でなくて、人が生きることおしなべてすべてにあまねく存在する、
「道」みたいなものは、体系化できるものなのか。
武士道なんてものは、拾うとか無くすとか、得るとか失うとか、
そういうものじゃなくて、
最初っからそこにあるものなんじゃないか。
それを為す手段、表現する手段というのは、それぞれに、神から示されているものなんじゃないか。

失ったもの、を、もう少し数えてみようか。

憧れというものがあった。
また、「違う人生」というものもあったかもしれない。
「違う世界」ということだ。

いろいろな背景を投げ出して、他者に人生を預けることだ。
選択も、義務も、運命も投げ出したいと思うことは、人生の中で、誰だってあるだろう。
そして、自分の身を、心を、「預けたい」と思えるくらいのサウンドに、
出会ったことが無いわけではないんだ。

すべて忘れて、その中に溶け込みたい。
無になりたい。
そう願った。
だけれども、不思議なことに、それは自分の音を鳴らすことと引き換えだった。
他者の鳴らす音に満足することは、自分の音を鳴らすのをやめること。
だから出来なかった。
そうしたかったけれど。

そして、自分が見た「理想」の「逃げ込む場所」も、やっぱり、
それほど頼れるほどには脆弱なものだった。
政治的な風向きひとつで、それは消えてしまいそうになるものであったし、
また彼らも、難しい状況の中で、無力を承知の上で戦っているのだと。
彼らだって、人間に過ぎないのだと。

だったら、僕も戦列に参加しなくてはならない。
共に世界の前線に立たないといけない。
闘技場に飛び降りなくてはならない。
彼らを一人にはしておけない。

だからこそ、それはもちろん、自分が憧れたヒーローのサウンドがそうであったように、
他者に頼るのではなくて、だからこそ自分はそのために、自分のDNAに向き合わなくてはいけない、
というものだった。
そして、俺はそれに自分なりに向き合ってやってきたつもりである、自分の宿題を、この何年かにおいても。
「バカヤロー」と言いながらも。

どこでもない遠くへ行きたい。
そういう願いはいつもある。
いちばん遠くへ連れてってくれるのはどの音だ。

せめてそれだけが、神が与えてくれた自由であり、祝福だ。
でも、いちばん遠くへ行ける音は、やっぱり自分の中にある。
いやな答えだ。
そのために、僕は結局、自分から逃れられない。
自分に戻ってくるしかない。
それがどんなに皮肉な「呪い」なのかは他人にはわからない。

でも、「それがどこにあろうと」
僕はやはり、いちばん遠くの景色が見たいんだ。
だから、それだけが神さんが俺に許してくれた祝福だ。

ヒーローの喪失があった。
誰だってヒーローを失っているかもしれない。
僕たちの世代について象徴的なのは、
やっぱり1994年にKurt Cobainが死んだ時だろうと思う。
そして、彼はきっと、いろんなものを道連れにしていった。

そして日本においても、世界の音楽状況においても、
90年代、という世代にとっては、
失う、ということや、壊れる、ということが、
ほとんど特徴的だった。
失うための世代。
だからかわかんないけれどロスジェネなんて呼ばれていた。
ロスジェネと呼ばれた世代の、最後の方に、僕と、そんで嫁さんなんかはわりと最後の方にあたると思う。
だけれども、失ったから、壊れたから、見えたものというものがある。
そして、それは、それが当たり前になり、うやむやになり、そして見かけ上、修復されたようになり、そうなってしまえば、誰ももう、後の世代は気付かない。

僕にもヒーローの喪失があった。
自分にとってのヒーローが、ずっとそこに健在で居てくれたら、僕はこんなに無茶をすることは絶対になかった。
けれども、そのヒーローが、それまでも、その時も、たぶんそれからも、僕に教えてくれたことは、あまりにも大きかった。
だから、僕はこれをやるしかなかった。
世界一有名だけれど、世界一、誰からも理解されなかった人かもしれない、僕のそのヒーローのために。

そのヒーローの喪失が、どれほどの空虚なからっぽを、僕の中に残したのかは、それはとても、言葉には出来ない。

失うということが前提の世代だったように思う。
僕にとってのもう一人のヒーローはだからこう歌っていた。
僕たちは最前線を戦う豚なのだ、と。
とても悲しい旋律で。

2011年にあった災害で、僕は何かを失っただろうか。
もちろん、被害のあった地域の方々は、言葉にできないくらいに、様々なものを失っている。
けれども、失ったのは、この国に住む人たち、皆がそうではないか。
だから、しっかりと向き合わなくてはいけないことなのではないか。
失ったものから、目を背けて、なかったことに、知らんぷりをするのではなく。

僕もきっと失った。
皆がそうだから、だからと言って何が言えるわけではない。
失ったとすれば、何を失ったのか。
そして、それは、自分の時間が、そこから止まったままだということではないか。
その時間は、動き出す時が来るのだろうか。
それは未来ということだろうか。未来を失ったのだろうか。
自分はそこに、踏みとどまることしか、出来なかったのではないか。
あえて時を止めるしかなかったのではないか。
他者にはわからなかったとしても。

失うことで、引き換えにすることで、得たものはあっただろうか。
あったとすれば、それは、最初から、そういう神との約束であり、契約だったのか。
選択はいつ為されたのか。
生まれる前か。
時間の概念の外側においてだろうか。

引き換えに何かを得たとすれば、僕はその「何か」を、どう扱うべきなのだろうか。

失う人生の中で出会った、たった一人の人、だったのかもしれない。
うちの嫁さんのことであるが。
だから、何度も書いているが、僕は別にバンドがやりたかったわけではなく、
まっとうな人生や家庭が欲しかった少年時代の僕に向かって、
「子供なんていらない」ときっぱりとそう言ったのは、彼女の方である。
失い続ける人生を、どうやって生きていくのか、
そのために与えられた、お互いの伴侶だったように思う。

それはきっと、「あの人」もそうだろう。
世代のこともあるが、場所のこともあるが、
だからこそきっと、今でも僕はその人のことを忘れていない。

そして、その運命の反動で、今年、お見かけしたところの「その人」には、
出来れば、与え続ける人生を、歩んで欲しいとそう祈っている。
もちろん、小さなもので、構わないんだ。
たとえばコーヒーを入れてあげるだけでいい。

「社会」というものを失ったのはいつのことだったか。
そして「夢」というものを失ったのはいつだったか。

いつも言っていたことだが、
(そろそろ年齢的に言われなくなると思うが、笑)
バンドマンとかやってると、夢があっていいですね、とか、
夢を追いかける人生ですね、と言われることは多かった。
病気のバンドマンは大抵わかっていると思うが、
このことの皮肉は、
自分たちは、夢があるからバンドをやっているわけではなく、
むしろ夢を失ったから、夢を奪い去られたからこそ、
バンドをやらざるを得なかったのが実情だからだ。

自分には夢があった。
そして、それには、「社会」とか、
その中にあっての「正義」や「理想」というものが前提になっていた。
けれども、それが幻想なのだと、打ち砕かれる瞬間がやはりあった。
では、尚の事、それに向かって戦えばいいではないかと言われるかもしれないが、
それが最早とっくに、言い表す術もないくらいに、とっくに手遅れを過ぎているということに、気付くくらいのことは、僕でなくても誰でもわかることだった。

それは「政治」の喪失でもあったし、
「政治」の手段がもはや有効ではないと知った時から、
僕にはせめて音楽を鳴らすくらいしか残っていなかった。
つまり「理」に向き合うことでは間に合わないのであれば、
「霊」に向き合うしかない、と判断したわけだ。

10年後、20年後はだめかもしれないけれど、
ならばせめて100年後、200年後をなんとかしたいと、そう思った。
その時まで世界が存在していればの話だけど。

現代の「政治」も「民主主義」も、機能しているとは思わないが、
それでも僕は「民主主義」というものを、あきらめてはいない。
それは人類全体が救われる時のための、希求なのだから。

気付けば何にもない、砂漠みたいな場所に、僕は放り出されていた。
なんにもないところから、何を見つけ出していけばいいのか。
見つけ出したとして、それを守り育んでいくことが、どれほど気の遠くなるようなことなのか。

基本的には、そんな感じで生きてきた。
別に笑ってくれたって構わないんだけれど。

小さなことだけれども、少年の頃の夢が叶わなかった時に、
僕にはもうひとつ、ささやかな夢や願いあったのだけれど、
結果として、それもここまで、叶っていない。

それは、僕が、技術や伝統みたいなものを求めても、
それは現代においてはロマンのかけらみたいな幻想に過ぎないし、
大きなシステムの歯車の中で、末端のパーツとしてであっても、
やっていける自信が、とても無いからだ。

現代には、豊かな国、時代で、何でもあるけれど、
すべて、かつてあったものの、かけら、であるとか、ぬけがら、であるとか、にせもの、しか残っていない。
だからすごく貧しい時代だとも言える。

ひとつの例ではあるが、
日本でもそうかもしれないが、アメリカあたりのニュースの記事を見ても、
農業であれなんであれ、生産する立場の人が、まったく地位が低く報われないのは、
やばいような気がしている。

さて。

失ったものリストは、ほどほどにしておいて、
では、僕は、これまでに得たものがあるとして、
そしてこれまでに得られなかったもの、があるとして、

では僕は、これから何を手に入れたいのか。
今僕は、何を持っていて、
何を持っていないのか。

故郷が欲しい。

うん、欲しいよな。
故郷ってなんだろう。
それって難しい問いかけだけれど。
でもひとつだけ確かなのは、僕は今までの人生の中で、故郷というものは与えられなかった、ということなんだ。

だから欲しいと思う、故郷。

スタジオね、建てたいな、って思うんだ。
建てなくてもいいんだけれど。
リハーサルが出来て、録音も出来て、発信も出来るような。
拠点が。

別にそれは自分の所有するものでなくてもいいのかもしれないけれど。
拠点とできるような「ベニュー」が。

あのね、それは「故郷」ってものとも関連するんだけれど、
この前、Muscle Shoalsのスタジオに関するドキュメントを見てさ、BBCの制作のものだったと思うけど。
なんでそんなものに興味を持ったかというと、
足下にここ一年半あまり愛用してるオーバードライヴに”Shoals”って書いてあるじゃない。
なんかメタルっぽい見た目のペダルだけど、作者の意図したルーツはソウルであり、サザンロックであり、クラシックロックなんだろうね。
そんでちょうど、自分の中でも古いソウルとか、ちょっとそのへんに興味が行っていたので。

で、Muscle Shoalsは、アラバマのどっかの、別に何にもない田舎だって言うじゃない。
なんでもヘレン・ケラーもそこの出身らしいんだけれども。
でも、まぁアメリカの南部なんて、ロックとかブルーズとかジャズとか、どこも全部聖地みたいなもんだけれど、
そんな何もない田舎が、なんでそんなにホットな場所になったのか、って。
川とか、風土とか、いろいろ言ってたけれども。

志、拠点、キーパーソン、発信、あとはリズムセクションかな、って。

だから、リズムセクション、欲しいんだよね。
今度は、ちゃんとしたやつ(笑)
なんでも出来るやつらが。

それで、ヘヴィメタルから、オサレ系から、ブルーズから、全部やりたいと思っているんだ。
自分のバンドでも、人のバックでも。

今までのバンドはね、技術的なこととか、時間の制約や、モチベーションの問題もあって、カバーソング、他人の曲を、やることができなかった。でも、これからはやりたいと思っている。自分たちなりのやり方で。それも、ロックとヘヴィメタルの伝統を継承し、伝える意味で。

だから神よ、このMuscle ShoalsのThe Swampersみたいな、あるいはストーンローゼズのレニとマニみたいな、そんなリズムセクションを、僕に下さい(笑)。いや、笑っちゃいけないな、本気でください。お願いジーザス。

この、Muscle Shoalsみたいな、「場所」を。
あるいは、「街」を、作りたいな、って思って。

それはね、別に、「LAメタル」とか、「シアトルのグランジシーン」みたいなのは、無理かもしれないんだけれど、「マッスルショールズ」だったら、なんか手が届きそうな気がして。スタジオとかお店がいっこあればいいんだし。

それは、なんか自分にとっての「ヘヴィメタルカフェ」を作りたいってことかもしれない。
なんか、そういう漫画があったような気がするんだけれども。

Muscle Shoalsみたいなスタジオを建てたい。
リズムセクション(バンド)を建て上げたい。

それをフル稼働して、様々な音楽を発信したい。

本当の意味でのヘヴィメタルと、神の愛を伝道したい。

そして愛を発信し、そこから世界に打って出たい。
そしてもちろん、世界をツアーしたい。

家族ってのは、難しいかもしれないが。

故郷。
政治。
祖国。

ヒーローの復活は無理かもしれないが、
ヒーローの偉業を、何万ぶんの一でも、そしていちばん大事な志を継げれば。

社会、ってのは手が届かないかもしれない。
伝統、ってのも、すぐには無理かもしれない。
けれども、
ずっと未来の社会や伝統のための土台となる、
道、を、築くことが出来れば。

未来っていうのは失ったかもしれないが、
もっと大きな未来を、より輝かしい、より多くの人を幸せにする未来を、作ることが出来れば。

憧れた人生っていうのは、夢に終わったかもしれないが、
それ以上の現実を、この手で作り上げれば。

他のいつ、とか、他のどこ、とかではなく、
「今、ここ」と言える場所を、作り上げることが出来たら。

そんなものを、作り上げたい。

音楽っていうものがある。
その音楽ってものに出会って、音楽というものを使って、
何をするのか。

音楽というものは道具に過ぎない。
音楽というものは、人生を作り、世界を作るための道具であり材料に過ぎない。
それは、ギターや、楽器が音楽を作るための道具であるように。
音楽は人生を作るための道具だ。
未来を作るための道しるべだ。
世界を作るための材料だ。

それを使って、何をやるのか。
それは人それぞれだと思う。

で、もう面倒くさいので、
失ったものリスト、と、
欲しいものリスト、をひととおり書いた上で。

答えを、ばばっと書いてしまうと、
俺は国を建て上げたいんだ。

ジャパンって国をね。
別にジャパンじゃなくてもいいんだけれど、
前にも書いたことがあるけれど、
俺が作り方を知っているのは、ジャパンだけだから、
それを作ればいいんだと思うんだ。
別に呼び名は何でも構わないんだが。

国を建て上げる。
それが俺の希望かな。
そのためにね、「道」ってものを、
建て上げる必要があるんだ。

これは前に書いたセンテンスを、メモ帳からひっぱってくるだけなんだけれど、
どんなお話であれ、
国を建て上げるためのストーリーや過程ってものがあって、

俺の場合はそれは、
少年の純情をつらぬくこと、
愛を見つけること、
神を見つけること、
そして道を見つけること、
そして国を建て上げること。
そういう感じだと思うんだよね。

そんでもって、最近、他の文章でも書いていたし、
また後で別記するんだけれど、
本当の意味でヘヴィメタルを伝道できる「バンド」を、
「リズムセクション」を。
本当の意味で、ヘヴィメタルと「神の愛」を伝えることのできる、
伝道することのできるバンドを、
本当の意味での音楽ミニストリーを、
建て上げたいな、って思ってる。

No(4979)

■…2017年12月25日 (Tue)…….立志40 補稿 [書き残し]
立志40 補稿 [書き残し]

書き残しその1。

失ったものリストと、
得たものリスト。
そして、欲しいものリスト。

ここ数年で、たとえばXTJを始めてからの、
4年、ないしは4年半、くらいになるのか。

その間に失ったもの。
あげてしまったもの。
いろいろあるとして。

そのひきかえに、
得たもの。
与えられたもの。
神から与えられたもの。
人から与えられたもの。
神から示されたもの。

その最たるものとしての”Jesus Wind”であり、
その究極としての「鍋島デモ」であろうと思う。

それが、was it worthだったかと、
その価値があったかと言えば、
それは間違いなくあった。
まさに千載一遇のチャンスだったと思う。
宇宙の何百億年と、
何百億光年の時空の中で、
まさに今しかないチャンスだったと思う。

そんでもって、いろいろなものを失う中で、
これから、最後にもうひとつ、
失わなければいけない最たるもの、
たぶんいちばん大きなもののひとつとして、
自分の「バンド」があるわけだ。

Sacrificeってわけじゃあ、ないんだが、
こればっかりは仕方がない。
実際に現場で音を鳴らしている僕ら3人にしかわからないよ。

だから、今の形のイマリトーンズは、
2月のライヴまで、っていうか、3月のライヴで最後、
ってことになるわけだ。

解散ではないし、散開というのもなんか違うし、
Rebornと言うしかない。

いったん死ぬことで、新たに芽生えるというのは、
聖書にもあるキリスト教の道理。
つーか物事の道理。
復活とか言うまでもなく。

作品としては、”Overture”が最後になるわけだ、
この3人で作るものとしては。

今、ベースを録ってるけれど、
スケジュールをうまく管理して、
がんばって動けば、ひょっとすると年内にギターやヴォーカルも録れてしまうかもしれない。
なるべくそうやって年内に済ませたい。
はやく身軽になりたいから。

つらいんだよ、作るっていうのは。
自分の外ではなく、自分の中にある絶対的な強迫観念との戦いなのだから。
自分の外にあるものからは、逃げようもあるかもしれないが、
自分の中にあるものからは、どうやったって逃げられないから。
しかもそれが強い。
ほっといたら気が狂うだけだから。

だから、さっさと済ませたい。
手加減しないで済ませたい。

書き残しその2。

難しいよね。
共同体はあっても、神はいない。
共同体のあるところに、神もいるって、
そう言いたいところだけれども、現実はそんなに甘くない。

そして、そういうことを言い出したら、「神々の戦争」になってしまう。
汎神論になるか、否定し合って戦うかのどっちかになるしかない。

どんなカルトだって共同体には違いないわけだからね。
政治集団だって、バンドだって、なんだってそう。
ビジネスだって会社だってそうだろう。

その共同体の中に、神はいるかって言ったら、
俺は居ると言ってあげたいけど、
それは自然現象の範囲内だと思う。

なぜって人間は霊的な生き物だし、
この世界は愛と霊で出来ているんだしね。

その自然現象を越えていかないと、
神には出会えない。

それが俺の言葉で言うところの、
安心、とか、馴れ合い、みたいなものかな。

じゃあなんでその愛と霊で出来た生き物が、
平気で神から目を反らすことが出来るんだ、っていう。

低いレベルでの霊の共感に安んじるからかなあ。

そこに「罪」なり「悪魔」なり、
呼び方はともかくとして、なんかあって、
そこに戦いがある、みたいなのは、
聖書だろうとどんな宗教の聖典だろうと、
変わらないだろうけれど、
実際のところ、そこに向き合ってちゃんと「戦える」やつって
どれだけいるのか。

どっちにしろ権威と記号でしか世の中は動かないようになってる。

だからみんな、権威にあこがれ、記号を欲しがる。

愛よりも権威を崇拝し、希望よりも記号を求める。

その結果、かくもかんたんに、偶像は世に満ちる。

人間というのはかくもいとも簡単に。
騙されもすれば誘導も洗脳もされるでしょ、インターネットのソーシャルメディアを通じてだって簡単に。

人の言葉ではなく、霊の言葉で信じないとだめなんだ。

聖書を人の言葉として読むのではなく、霊の言葉として読み取らないとだめなんだ。

そして、それはノウハウとか方法論にはできない。

芸術とか感動を言葉で説明することができないように。

書き損じ1。

たとえば「信念の防御者」って言われる人たちがいる。
いないかもしれないけど。

たとえばお坊さんとか、あるいは女王陛下のことなのかもしれないが、
ローマ教皇でも誰でもいい。
普通に考えたら牧師さんとか神父さんとか。
係の人のこと。

もちろん、僕は、人間のやる組織的な宗教ってやつは、あんまり好きじゃないし、信用もしてない。
はっきり言えば、好きか嫌いかで言えばやっぱり嫌いとしか言えない。
それに、そういった人間の作った宗教が原因で、戦争とか殺戮とかそういうひどいことがたくさんあったのも事実だ。

でも、だからといって、organized religionというのか、人類史上存在してきた宗教とかそういう組織とか団体の歴史に、意味がないとは思わない。ただ、いろいろ言われるように、言うほど正統じゃない、ってことはあると思うが。でも、曖昧に妥協して広まるのが人間世界での定着ってことだ。いつだって情報は伝言ゲームだ。有名になることは誤解されることだ。

彼らのことは尊敬しているし、感謝もしている。

なぜって、教えってやつは。
真実ってやつは。
奥義ってやつは。
道ってやつは。
そして、愛ってやつは。

形にできない。
言葉にもできない。
言葉で表現はできるかもしれないが、
ルールには出来ない。
戒律なんて誰も守らない。

でも、伝えなきゃいけない。

伝えなきゃいけないとして、
たとえば現代でも伝える、ってこと、
記録する、ってことは難しいのに。

昔はもっと大変だったことを思うと。
やっぱり文字にするしかない。
言葉にするしかない。

石に刻むんだか、パピルスだか、羊皮紙だか、活版印刷だか、
そのへんは知らない。
デジタルでもいいのかもしれない。

でも、刻んでしまったら、形にしてしまったら、
ルールにしてしまったら、
それはもう死んだものだ。

だから、それを後生大事にするやつらは、
基本的に、普通、絶対、わかっていない。

でも、それでいいんだと考えている。

なぜって、そうしなければ、人の社会の中で、
それは伝わっていかないのだから。

形にしたものは、「ネガ」だ。
仮の形だ。
写しに過ぎない。

だから、そのままでは何の意味もない。

だけれども、人間っていうのは、いつの時代にも、
どんな場所でも、
たとえば10人に一人とか、
100人に一人とか、
それを見て、触れた人間の中で、
一定の割合で、やっぱりわかるやつがいる。

あ、これってこういうことなんだ、
って、気付くやつがいる。

そう思ったやつが、本当にそれを理解して、
ネガを現像してポジにしたり、
あるいは版画の、板の方ばっか見るんじゃなくて、
実際に版画を刷って、
ああこれはこうやって絵を作るものだったんだ、
って、気付けばいい。
そして、生きた「写真」や「絵」を作り出していけばいい。
人生の中で。

そうして、「道」は、本来の形を取り戻す。
聖書ってのはそういうもんだと思う。

パンクもそうだし、ブルーズだって、ロックだって、
本来そういうものじゃないか。

でも、その「ネガ」とか「版画の板」を、
ちゃんと守って伝えてくれるやつがいないと、
それは人間の世界の中で、遠くまで、未来まで、伝わらない。

だから僕は宗教にもやっぱり意味はあったと思っている。

聖書の伝える「創造論」とか。
「科学的なあれこれ」とか。
それらにまつわる「物語」とか。
記録されたその形について、
書き留めておきたい自分なりの意見はもうちょっとある。

でも、また今度にする。

でも、やってみたらいいよ。
もしタイムマシンに乗って、3000年とか、過去に戻って、
彼らに科学とか、文明とか、メッセージを伝えるとしたら、
君ならどうするか。

俺なら、やっぱり、おんなじようにしたと思う。
たぶんまだ現代の人間の知能じゃ追いつかない。

それでわざわざ、
「愛」まで教えてくれたって言うんだから。

どれだけ熱心なベビーシッターかってことなんだろう。

No(4980)

■…2017年12月25日 (Tue)…….立志40 後書 [目指せ円熟ヴィンテージ]
立志40 後書 [目指せ円熟ヴィンテージ]

立志日記の最後に、サウンドの円熟について書きたい。

以前、ちょっと書いた。

ロックバンドが歳を取っていくことの難しさ。
ロックの歴史ってのは前後が逆になっていて、
つまり、普通、歳を取ってから「円熟」「ヴィンテージ」と言える作品を、芸術家は作るものだと思うけれど、
ロックの黎明期において、レジェンドたちは「ヴィンテージ」を作り上げ、そして時代が進むにつれて、録音の技術は向上するので(アナログ的なオーディオの価値観では逆かもしれないが)、かえって歳をとってベテランになるほど、古いヴィンテージではなく、鮮明な若々しい音になっていった。

だからロックンロールのヴィンテージは、レジェンドたちがごくごく若い時期に作り上げた。
若さこそがヴィンテージ。
不思議な芸術の形だと思う。

だけれども、それだけに、また「短命」がロックの宿命ということも含め、
ロックンロールは、円熟していくことが難しい芸術だ。
かっこよくなくちゃいけない、セックスアピールが必要だ、という意味のわからないハードルもある。
セックスアピールが必要だけれど、セックスアピールを越えた魅力も備えなければいけないという不条理。
ハゲててもいいし、シワがあっても、太っててもいいが、セックスアピールはやっぱり必要だという絶対的要件。

たとえば、今年チェックしたものでいえば、またもやVandenberg先生のMoonkingsの2枚目が、予想よりも良かったので、例に挙げることが出来る。
僕の尺度の中で特に優れた作品、とは言わないが、「教科書どおり」のお手本としては示すことの出来る作品であることには間違いない。
それに今地球上でもっともちゃんとレスポールを鳴らせる「ハードロックギタリスト」の一人であることに間違いない。

理想的とは言わないまでも、わりと良い形の、歳の取り方であり、「円熟」の形として例に挙げることが出来る。

ことロック、ハードロック、伝統的なハードロックの文脈において。
それが自分の流派だから。好むと好まざると。

ヘヴィメタル、ハードロック、というものは、「様式美」なんて言葉すらあるように、「形」みたいなものがあり、
そしてまた、その中に究めるべき「道」みたいなものを示すことが出来る音楽だ。

それは基本的にブルーズとよく似ていて。

ブルーズというのは、起源の形はアメリカ南部とか、もっとさかのぼってアフリカとか、いろいろ説明できるけど。
Jimi Hendrixが、ブルーズを基にして、エレクトリックな爆音で武装した民族音楽を鳴らしたように、それぞれの民族や個人の魂として、パーソナル(かつユニバーサル)な民族音楽として、応用し昇華することのできるものだ。

ハードロックってさあ、心の格闘技なんだよね。

その戦いっぷりに、皆が憧れ、魅了される。

じゃあ、何と戦うのかって言ったら、

さあ、何と戦うんだろーねー。。。。

「誰のために、何ために戦うのか。何のために、その命を燃やすのか。それは、君自身が決めるんだ。」

で、円熟。

ちゃんと、理想的に円熟したロックバンドなんて、どれだけあるか知らない。

少しは心当たりがある。

でも、本当はいっこも無いかもしれないよ。

だからこそ、そこを目指したい。

自分なりの、ヴィンテージ、になってみたい。

その境地。

90年代以降のVan Halenはやっぱりそうだった。
ただ、それは半分以上は時代のせいであって。

“For Unlawful…”を作った時のEddieが、だいたい35、36歳とか。
“Balance”を作った時に、だいたい39、40歳とか。

現代の高齢化したロックシーンでいったら、必ずしも「年寄り」ってわけじゃない。
でも、当時の感覚では、十分にベテランだったと思う。
むしろ、華やかで若かった80年代から、時代の変化で、90年代には円熟とか落ち着きをアピールする必要があった。
だから、80年代以前から活躍していたベテランのバンドたちは、みんな円熟したイメージのアルバムをリリースした。
やっぱりそれには当時の音響的な流行もあると思う。
不思議なもので80年代当時のアナログの音がヘアメタルの音と相性が良かったように。
円熟したアナログ、および部分的なデジタル、そんでSSLとかの音が90年代の音と相性が良かったのか。
そのへんは詳しくないから知らん。
もちろん90年代の終わり頃にはみんなProToolsになっていく。

もともと、Van Halenには最初からそういう感覚があったと思うのだけれども、
不思議なレトロ感覚。
90年代以降の彼らの作品には、2010年代の”Different Kind of Truth”に至るまで、
ずっとそういった円熟した独特のレトロ感覚が備わっている。

それをタイムレスな要素として・・・
また伝統的なエンターテインメントの本質として・・・
そっから先は、センスの問題だから、書いてもしょうがないんだけれど。

でも、サウンドであれ、色であれ、円熟であれ、
偉大な世界のトップが、示してくれたものは、やっぱりちゃんと追い求めていたい。

以上、歳食ったから、ちゃんと円熟したいという目標の記録。

No(4981)

■…2017年12月25日 (Tue)…….立志40 おまけ [お酒と愚痴]
立志40 おまけ [お酒と愚痴]

立志日記のかけらとして、もういっこ振り返り。

振り返ると今年は、わりと人と飲むことが多かった。
人と会って、人と一緒にお酒を飲むことが多かった。

これは僕の人生の中では、わりと珍しいことだ。

僕は愚痴や、人の悪口は言わない主義で、しかし、
最近は、飲むと、愚痴っぽい言葉が増えてしまったかもしれない。
人の悪口も言わない主義だが、たわいもない親愛の情を込めた軽口は増えたかもしれない。

また自分がくっちゃべるよりも、人の話の聞き役に回る主義で、しかし、
最近は、飲むと、自分が好きなだけしゃべって、人に話を聞いてもらうことの方が増えたかもしれない。
お恥ずかしい限りである。

これは、自分が歳をとって、また完璧とはやはり程遠く、またある意味では、人生における仕事や重荷を背負ってきたことの証拠でもあり、また、人の罪ってものの現れでもある。

僕は心の中を吐露したりすることは嫌いだし(書いてるけど)、

おしゃべり自体も苦手であるので、

後から帰宅すると、うわあ、いろいろと余計なことばかりしゃべってしまったんじゃないか、とすごく微妙な気持ちになるのだけど。

けれども、誰かが言っていたには、
人にとってもっともよくないのは、孤独であり、話をする相手がいないことであるから、
やはりそれは、一緒に飲んでくれる人や、会話をしてくれる人がいることに感謝をすべきだ。

もちろん、普段ずっと相手をしてくれる嫁さんに感謝することは一番である。

だからあらためて、結構に幸運な人生をやってこれたことに感謝をしたい。

さて、去る10月に、Calling Recordsはミーティングというものを行った。

何度も書いていることだと思うけれど、普段からそういう発言をいつもしていることだけれども、
あらためて書くと(汗)

僕は、Calling Recordsの立ち上げの3人のメンバーのうちの一人であるが、
けれども、しかし、言い出しっぺではないし、
また、望んで立ち上げたという感じでもない。

それははっきり言っちゃえば「成り行き」であるし、
自分は「めんどくさいな」と思っていたが(笑)
なにより、「神がそれをやれというのであれば」
それは責務である、と思って、参加することにした。

ただ、無条件で参加したわけではない。
いくつかのことを言ったと思うが(覚えてないけど)、
確実に言ったのは、
「悪いがやれないことはやれない。俺はこういう人間だ。」
ということ。
そして、
「組織にはしてくれるな。社長とか役職も作らない。ただ、寄り合いであってほしい。」
ということ。
それは確かに言ったと思う。

そんでもって、俺はこのCalling Recordsに、
それほど「期待」というものを持っていなかった。
最初から「期待」はひとつもしなかったと言っていい。
それは今まで、いつもそうだったし、今でもそうだ。
それは、良い意味でもそうだったし、悪い意味でもそうだった。
良い意味、というのは、余計な欲を持たずに参加する、ということである。
悪い意味というのは、やさしい言葉で言えば、長い目で見るということであり、きつい言い方をすれば、こんなもんだろう、とあきらめているということである。

なんでこういうことを時々書いているかというと、
あるいは外から見ると、周囲とか世間から見ると、Calling Recordsは僕が作ったんじゃないか、ナカミネが中心になって立ち上げたんじゃないか、と、そう見える、思われるかもしれないからだ。
だけれども、実際はそうじゃない。
立ち上げメンバーの3人の中で、いちばんreluctantだったというか、「そんじゃ、成り行きで」みたいな感じだったのは、僕だったということだ。
それについて批判されるのであれば別にそれは構わない。

だけれども、実際の活動とか運営の中では、たとえばCalling RecordsのLINEグループでも、いちばん頻繁に発言しているのは、あるいは僕とかうちの嫁さんかもしれないし。決して、まったく参加していないわけではないことも書き添えておきたいが。

昨年、一年くらい前に、4度目のXTJを終えた後にやっぱりミーティングをして、その時に、XTJをめぐる状況も含め、僕の中には、僕と嫁さんの中には、XTJを4回やった上での悟りというか落胆も重々あったのだが、そのミーティングで皆さんの話や状況を聞くにつけ、やっぱり僕の中では色々な思いがあった。

そんでもって、去る10月に、新宿でのCalling Recordsとしての企画ライブを終えた後に、ミーティングを行って、その席上で僕は言ったわけである。「俺は、最初に、このCalling Recordsは、組織ではなくて、『寄り合い』であって欲しい、と言った。けれども、現状、これは『寄り合い』ではなく、『馴れ合い』である。」と。ずいぶん偉そうにきついこと言ってるよね(苦笑)
そんで、「寄り合いと馴れ合いを分けるのは、志の高さだ」みたいなことも言ったはずである。

後は、社長とか役職を決めないって言ってたのと若干矛盾があるかもしれないが、本当にレーベルとして機能させたいんであれば「レーベルの人間」としてのマスターマインドたる人物(バンドの人ではなく、レーベル、という専業の人格の人)が必要だ、とか言ったし、

あとはオオハラさんにしても、Calling Recordsの「耕す」という理念について、再確認のメッセージを熱く語っていた。たぶん、彼もそのあたりには危機感を持って、あらためて理念の共有や確認をしたかったのだと思う。

だが、果たしてそれぞれのメンバーの皆には伝わっただろうか。

俺は、現状、現在のCalling Recordsは、志が低いと思っている。
んで、志が低いと、何かっていうと、俺は、「面白くない」のである。

信仰のある人たちの集まりだから嫌だ、って言ってるんじゃなくて、
信仰の熱さが足りないから、嫌だ、って言っているつもりである。

でも、最初から、「志」が、十分に高いということがあったかと言えば、
それは難しい質問だ。
俺は唯一、そこにオオハラシンイチという男が居たから、手伝いたい、と思っただけである。

(もちろん、三木くんも、ヨナさんも、Xieの皆さんも大好きだし、皆の音楽も本当に大好きだが、信仰の話となると別である。)

だから、ミーティングの席上で、俺は言った。
「面白いと思えないんだったら、俺はもう今後、参加しない」と。
それは、別にCalling Recordsを脱退するとか絶縁するとか言うことじゃなくて、単に俺が個人としてワガママを言ってるだけなんだけれども、
ワガママだってことを認めた上で、俺はこれは譲れない一線なんだよね。

かといって、俺も誉められたようなことをしているわけじゃないし、
自分のバンドも節目のタイミングで、なかなか思うように動けない。
また、生活の面でも精一杯で、余裕を持って動けるようになるのはまだまだ先のことになると思う。

そう言ってしまえば、みんな、自分の生活や、自分自身の活動で精一杯なんだろうし、
そう思えば他人を責めることはできない。
でも、物理的に、状況的に制約があったとしても、
やっぱり唯一「志」だけは、高く持っていたい。
そこって、結構、俺にとっては大事なところで。
だって、「信仰」をテーマに集まってるんだろ、この集まりは?
信仰ってのは、志の向こうにあるものじゃないか。

だから、このまま、「面白くない」状況が続くようであれば、
凍結してしまっても、いいんじゃないかな、って、ちょっと思ってる。
別にぶっこわすことは無いと思うんだけれど、
また、状況が変わって、「面白く」なるまで、
そのままにしておいても、誰も損はしないんじゃないかな、って。

いつも言っているように、ただの和気あいあいとしたミュージシャンの集まり、とか、
ただの善意の集まり、であれば、それは別にキリスト教である必要は、俺はないと思う。
じゃあ、キリスト教のミュージシャンって、何をやるんだ、って、その問いかけだよな。
すごく難しい問いかけなのはわかってる。

そもそもが、僕はもともとわりと孤独に、一匹狼的なアティテュードで、やってきたのであって、
人とつるむ必要性は、あまりない。

だからそれが自分の欠点だ、と言ってしまえば、それは十分に自覚しているんだけれど。

それでも俺は、「自分の下着の中でやれないことは」っていうEddie Van Halenがいつも言っていた哲学を、今でも覚えている。

いちばん最初からそうなんだけれど、
僕は、「集まる」ということについて、
たとえば、日本において、現状、数の少ない、きわめて数の少ない、クリスチャンのロックバンド。
それが、こうしてレーベルという形であれ、何の形であれ。
「集まる」ということに対して、甘いんじゃないかと思っていた。
そして、それは今でもそう思っている。
集まるのであれば、もっと違う気持ちで集まるべきだ。

何かをあてにして集まるのであれば、俺は、それは、やんない方がいいんじゃないかと思う。
信じる、のと、あてにする、のとでは違う。
俺は神を信じているけれども、神をあてにしたことはない。
神が助けてくれる、なんて思ったこともない。
いや、助けてくれたけどね、実際、何度も。
たぶん気付かないうちにだって何度も。
でも、それをあてにしたことはないんだ。

たぶん助けてくれないんだろうな、って思って、
それでもいいや、って、飛び込んでた感じ。

何かをあてにして行動するっていうのは、
自分の美意識だと、ちょっと違うんだよね。

うちのベーシストなんかは、
(たとえもうすぐクビだ、って言っていても)
よくわかっているから、
「いずれこうなるよ」って、
立ち上げた当初から言ってた。
んで、俺は、
「わかっていてもやらなきゃいけないんだよ」
って、そう答えていたわけだ。

でも、心配していたよりは、
ずっとマシだったと思うぜ?

だから後悔はしていない。

No(4982)

■…2017年12月25日 (Tue)…….スタジオセルフィー
そんなわけでここ数年なぜかクリスマスの時期にはスタジオに入る羽目になっています(笑) 嫁さんはちゃんと燭光礼拝とか行ってたけどねー。なんでこんなに忙しいんだろう(汗)

そんな折、うざったい長文で皆さんのタイムラインのお目汚しですいません!と思って、書きためていたものをひとつにまとめてポストしようと思いましたが、文字数オーバーみたいに出てきてできなかったので。

2月10日、および3月21日のライブを終えたら、今のメンバーはクビ、って言ってるけれど(汗)、
昨日のスタジオで音を鳴らしていたら、やっぱりちょっと迷った。
「鍋島デモ」の録音を終えて、「Overture」の録音も半分まで来て、作るものをひととおり作り終えてしまうと、「上がり感」みたいなものが出てきて。
無理しなくても、今のままでも行けるんじゃないかみたいな気もしてくる。
たとえ「鍋島」をちゃんと鳴らせなくても、作れなくても。
だから、そこは「バンド」を生贄にするのか、「鍋島」を生贄にするのか、そこの選択かな。
でも、メンバーそれぞれの選択もあるから、やっぱり難しいかな。
神の御手にまかせますよお。
てっぺんまでたどりついたら、そこでピクニックをするもよし。羽をひろげて、さらに遠くへいくもよし。
どっちに行っても天国です。

No(4983)

■…2017年12月26日 (Wed)…….風邪テイクは奏功かそれとも罠か
“Overture”のヴォーカル録音作業を進めている。
そしてそんなタイミングで嫁さんが風邪を引き、案の定うつされたようでスタジオに来たはいいが声が出ない。
一日無駄にするかと思ったが、「仕事中は症状が出ないが仕事が終わった途端に熱が出る」という人体の例の仕組みだか神の助けだか、異常なハイテンションで力みまくって無理矢理歌う。結果、技術的には荒いが勢いのあるテイクが録れた。こんなに力んだ発声をしたのはきっかり12年ぶりだと思う。すごい下手になった(笑)。
帰宅しておもいっきり風邪で咳き込んでいる。なんで歌えたのかわからん状態。
さて、この荒いテイクを生かすかそれともボツにするか。

ついでに言っておきたいが、ここ数年、いつも録音とかしててライブはやらない主義のスタジオワークの人みたいに思われてるみたいだが、うちのバンドがライブしないのはメンバーがやりたがらないからであって、俺は毎日でもライブしたいのだ。もっとやりたいし外に出て行きたいんだよ。そのへんは誤解しないでもらいたい。そう思っている。

No(4984)

■…2017年12月27日 (Thu)…….環境プッシュ
(けっこう前に書いた文章と動画であるが)
Pushing to the glory.
いい歳して、と思われるのはわかっているが(苦笑、自嘲)
今度の職場つーかバイト先、駅から距離があるため、夢のスケートボード通勤を余儀なくされている(笑) (川沿いですご心配なく)
交通費が全額出ないので節約のためにプッシュする一駅ぶんを含め、自分は一日何キロをプッシュしているのだろう。

しかしスケーター(のはしくれ)にとってプッシュはライフスタイルでありイコール生きることである(^_^;)
そんで置場所も確保したので、クルーザーでなく、ソフトウィール56ミリに付け替えたレギュラーデッキで次から行くつもりである。そして帰りに練習するのだ。案外とこのセッティングが壁を越えるきっかけになるかもしれない。

自分はダメ人間でもあり、また”立志”の行く先が決まるまでは身の処し方も決められない。どこまで続くかわからないが当面プッシュの日々で下半身を強化したいと思う。

>後日追記。
やはり、というか、ソフトウィール56ミリに付け替えたレギュラーデッキの方が速かった。プッシュの回数もぜんぜん少なくて済む。
そして仕事を終えた後の練習もとりあえずやれている。
56ミリで結構トリックも調子よく、自分は(ギターで言えばピッキングも強い方だし、ポップのはじき方として)やはり高めの車高の方が感覚がつかみやすいのかもしれない。85Aとかだが、特にトリックができないとも思わない。パワースライドの感覚はもちろん違うが、出来ないことはない。(いかにもパンクしそうだが)
特に日本だとスケートは環境と技術が表裏だし、
これはやはり、新しい境地が開けそうだ。
川原の環境で、どうしても泥が入ってしまったりするが、それはしょうがない。この際、ベアリングのシールドを外したままの状態で、漢のノーガード戦法でやろうかと思っている。

なんかしらんがあんまりやってなかったノーリーハーフキャブがぱしぱし決まるようになった。たいして難しい技ではないが。小さな喜び。これが環境の影響ってやつ。

>ということで風邪で伏せってます。
嫁さんと入れ違いで発熱。
年内にヴォーカル録音を終えるのは無理そうかなあ。
しかし、風邪の引き始めの状態で、よく録ったと思う、この前のヴォーカル。
無理したぶん、パッションや表現の面でやはりプラスの面があった。
独特なのでなるべく生かしたい。

No(4985)

■…2017年12月30日 (Sun)…….Confucius said…. Not.
最近わかってきたんだけれど、
(まあ最初から明白といえばそうだけど)
信仰を持って生きる、っていうことは、
絶え間のない戦いの人生を生きるっていうことなんだよね。

それは、もちろん、自分の内側の戦いってことなんだろうけれど。
で、たぶんその内側の戦いに勝った者、というか、負けなかった者が、平和を保つことが出来る。

でも、現実にはそれはとても難しいことで、
その戦いをどこかで放棄してしまうからこそ、
人は独善的になったり、
攻撃的になったり、
他者に対して争いを起こすことになる。

内なる戦いを治めるってやつ。
クリスチャニティってのはもちろんだけれど、
武士道ってやつの肝ってやっぱりここなんだろうなあ。

しかも、人生進むごとに、その「内なる戦い」ってやつは、
次第に激しくなっていくみたいでね。

投げ出したくなるのも、わかる気がするよ。
俺だって自信があるわけじゃないもん。

(あいかわらず風邪が完治しませんで、伏せっております。やばい。)

No(4986)

■…2017年12月30日 (Sun)…….Finder of the Faith
進取派の問題っていうのは、
彼らが向き合っているのは未だ霊の領域にあるものだということだ。
彼らが見、追い求めているものを言い表す言葉は、まだその時代には存在しない。
だが新しい世界の状況に、変化する世界の中、神の愛を適用する術を見出すのは彼らの仕事だ。
そんな彼らこそ”Finder of the Faith”だ。

その逆に保守派の問題っていうのは、
彼らが守るべきものは既に言葉で書き表され表現されたものだということだ。
取り込まれた新しい概念や、方法論について、
それが本当に正しいのかどうか、時間をかけて選り分け、吟味していくのは彼らの役目だ。
そしてそれを記録し、広く伝えていくことも彼らの役目である。
そんな彼らこそ”Defenders of the Faith”だ。

人間の社会にあって信仰を保持するためには、
その両方が必要である。

(Demon Hunterファンとしては、”Hunter for the Faith”というのもいいかなと思ったが、Finderの方が語呂が良かった。)

No(4987)

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