まだまだ理想には程遠い、それはわかっている。
けれども世の中は進歩している。
若い世代は前を向いている。
前を向いている人たちは少なくない。
世の中は進歩していると思うが、
それでも、「音楽」と「信仰」という分野に関しては、
非常によちよち歩きであり、未発達である、と感じる。
だが、それはわかりきったことだ。
音楽、も、信仰、も、目に見えない、とらえることの出来ないものであるからだ。
目に見えないこと、とは言うものの、
ある種の人間に言わせれば、それは「見て」「感じる」ことの出来るものだ。
だから、それは確かに実体のあるものなのだ。
視点というものはあれど、主観的どうこうとはちょっと違う。
それ、というのは、つまりは霊的な領域のことである。
物理領域にあるものとか、物理領域にある資産とはちょっと違うので、
確かに、まだまだ、人間の経済活動とか、社会活動の直接的な対象にはならないのかもしれないが、
そうはいっても、IT関係っていうのかな、インターネットとか、ソーシャルネットワークとか、今では仮想通貨みたいなのについてもみんな意識が高まって実用化されてきているし、
そういった、以前は存在しなかったもの、過去には現実と思われなかった領域、が、時代とともにビジネスや人間活動の対象となる。
それと同じように、人が、霊的な領域について、よりはっきりと知覚して、それによって人の生き方や、世界そのものが変わる時がきっとやってくる。
その時には、物理の領域や、コンピューターのネットワークの領域とかは、かなりの部分は人工知能に任せることになっていると思う。
その次というかその先の人間の活動領域が、「霊」の領域だと考えている。
で、それは、いつも引用するたとえだが、ガンダムで言うところのニュータイプを考えればわかりやすい。
ガンダムそのまんまだが、人類全体が、ニュータイプみたいになる時代が、そのうちきっとやってくる。
あるいは、その日はそんなに遠くないかもしれない。
そうであったら嬉しい。
さて、夢を見た。
一般的に言うところの売れないバンドマンをやっている自分だが、
演奏する夢とか、演奏に成功したり失敗したりする夢を見ることはたまにある。
よく、試験を受ける夢、とか、遅刻する夢、とか、そういうのと似てると思う。
今日見た夢は鮮明だった。
残念ながら日本ではなかった。
日本には見えなかった。
少なくとも現在、現状の日本ではないだろう。
わりと大きなステージで演奏させてもらっていた。
そういう経験が、何度か、僕にも無いわけではない。
けれど、いいステージだった。
学校か何かみたいな雰囲気に思えた。
演奏が終わると、牧師みたいなメッセンジャーが話を始めたから、やっぱりあれはキリスト教のイベントだったんだろうと思う。
若者が500人くらい、集まっていたけれど、いいショウだった。
夢と現実がごっちゃになっているのか、
「3月でいったんバンドを解散したので、ドラムとベースにサポートメンバーを迎えて、やってます」ってMCしてた。
そのサポートメンバーの顔は見えなかった。
黒く、影になっていて(笑)
やっていた曲目は、なぜだか“Victory In Christ”の曲が中心だった。
Victory In Christとは、僕が自分のバンドで2010年頃に作ったアルバムである。
現実にはライヴでほとんどやっていない(でも海外のファンからは「フェイバリットだ」と何度か言われたことのある)「One on One」なんかも演っていて、ドラマーがカウントで入ったときにはちょっと焦った。夢の中なのに、現実には演り慣れていないから。
「Winning Song」もやっていて、日本語だったと思うが、観客がサビを歌ってくれていたのは嬉しかった。夢の中なので、情けない話ではある。
だが、そんな世界が確かにある。
パラレルのタイムラインを考えることがある。たまに日記にも書いていたと思う。特に、バンドをバラした最近、考えて書いていたと思う。2011、2012あたりの頃に、バンドの状況やモチベーションが、もうひとつ良ければ、あのまま海外を攻めて、成功していたかもしれないパラレルワールドの現実を。
今朝見た夢は、そんな世界の夢だったかもしれない。
だから、「Victory In Christ」の曲をやっていた。
それはこういうことだ。
「Jesus Wind」を作らなかった世界がある。
「鍋島」を見つけなかった世界がある。
おそらくは「Revive The World」も、違ったものになっていたパラレルワールドがある。
僕らのバンドが昨年発表した「Jesus Wind」は、
「作りたくなかった作品」だ。
日本の歴史をテーマにしたコンセプトアルバムを作りたい、ということは、いつも言っていたけれど、本当に作れるなんて思っていなかった。
そして、「よっしゃ、作るぞ」という感じで喜んで作った作品ではない。
目の前の現実、この国の現実、この世界の現実について、
悩み、苦悩したからこそ、出来てしまった作品である。
楽しいこととか、自分たちの成功とか、そういうものに背を向けて、
なんというか、どうにもなってない現実、っていうものに向き合ったから、出来たもの、作れたもの、というのがあり、
そういった現実に向き合って、自分の魂の、より深いところを掘り下げることになった、その結果、「鍋島」を見つけることが出来たのだ。
苦しい状況に追い込まれれば、人は、よりもう一段、さらに奥にある「奥義」を見つけ出す。
そんな感じ。
だから、栄光に包まれて演奏していた、パラレルワールドの世界では、僕はきっと「Jesus Wind」も「鍋島」も作っていない。
夢の中で、「サポートメンバー」は影になって見えなかったが、演奏の呼吸から、それがはっしーとジェイクでないのははっきりわかった。だから、その「理想の世界のタイムライン」では、このバンドは違うメンバーで構成されていたのだろう。
だから、じゃあ、やっぱ現実からは遠そうだ。
足下には転がしのモニターがいくつか設置されていたが、よくあることで僕はマイクスタンドのトラブルに見舞われていたが、間もなくスタッフさんが助けてくれた。だが、その間もギターソロで間を持たせることまでしていた。何を弾いていたかも思い出せるくらいだ。
だが、どんなギターを弾いていたのかは覚えていない。
ここは、ちょっと興味のあるところなのだが。
でも、弾いた時の手触りは残っているから、それが、今の僕の考える「理想のギター」とは違うものであるのは確かだと思う。やっぱり、2011、2012当時に使っていたあたりの楽器から進化していなかったのかもしれない。会場の音響からもそれは聞き取れることだった。
つまり、音の領域で言えば、今朝の夢で見た「栄光に包まれて演奏しているパラレルワールド」よりも、今の僕が現実に見つけ、鳴らしている、鳴らしてきた音の方が、より先を行っている、より霊的にレベルが高いことになる。ちょっと皮肉なことだが。
その、現実にはあまり演奏してこなかったところの「One on One」を演奏し終えるあたりで時間が来て、曲のエンディングとして、白人の女性シンガーさんがその曲のブリッジ部分をアカペラで歌ってくれた。良い演出だ。そして、それに僕が下のラインでハーモニーを付けてショウが終わり、牧師さんみたいな人がステージを引き継いだ。
僕がステージを降りると、友人が二人、左右から僕の肩を叩き、「良いステージだった」と言って、僕たちは肩を叩き合い、冗談を言い合ってbuddy buddyしていた。その二人の友人は、O氏とN氏のように思えたが、よくよく思い出してみると、違う人だった。似ているが、違う姿だった。つまり、現実の今の僕からすれば、知らない人だ。親しい友達なのに、知らない人、というのは不思議な感覚だ。そういえば、最後の曲をアカペラでハモった若い白人女性のシンガーは、今月また久々に日本に来るところのケリー家の娘さんに似ていた。でも、これもたぶん違う人かもしれない。
理想の世界というものがあるとして、
その世界、社会の霊的な度合いを測る大切な基準として、教育、educationというものがあると思う。ここは、僕は結構、重視しているところだ。
今朝の夢で演奏していたのは学校の講堂みたいに思えたが、きっとそういった場所を借りてキリスト教のミッショナリーのイベントをやっていたのだろうと思うが。
今僕らが生きている世界よりも優れた、理想の世界で、より理想的な学校や、教育の形があるとして、そういったものを、こんな夢でも垣間みるように感じることが出来たけれど。
そんな理想的な、教育環境のある世界に、生きていたい、というか、生きていたかった。
もっとも、そんな世界に生きていたら、僕は違う生き方をしていたし、子供を持つことも出来ただろうし、そもそも音楽をやっていなかっただろうから、皮肉な矛盾と言えば、矛盾である。
それでも、さらに良い世界では、やはりそれでも音楽がやれていたのかもしれない。
けれど、そして、そんな「さらに良い世界」よりも、今の現実の情けない僕の方が、音楽的には先まで進んでいるのだ。
だからもう一度、自分に向けて繰り返そう。
今僕が生きている現実は、今僕がたどっているタイムラインは、世の中的なことはいざ知らず、理想の世界からはかなり遠い世界かもしれないが、音楽的には、ベストに近い内容のものなのだ。
ひとつなんとなく、察することの出来た、今朝の夢でなんとなく察せられた、感じたことがある。
より良い世界のタイムラインは、非常に幸福なものであったけれど、
死ぬ、ということは、おそらく、あの夢の世界の延長線上として、その素晴らしい理想の世界、天国、が、あるとして、
そのまま、そこから戻って来なくていい、という状態のことだろう。
ナルニアのお話でも似たような筋書きがあった気がする。
そして、死ぬ、天国へ行く、より大きなものとひとつになる、魂がひとつになる、というのは、
たとえば、その、他の可能性のライムラインを歩んできた、様々な自分と、再会し、ひとつになることではないだろうか。
そして、それらの体験はひとつになり、共有される。なんか、収穫祭みたいに。
もっと成功していたり、幸せだったり、家庭を築いていたり、そんな栄光と幸福に包まれた、他のタイムラインの自分。
彼らに対して、今の僕は、「ほれ、俺はこんなもんを作ったぞ。お前は、これを作らなかっただろう。」と言って、”Jesus Wind”や、”鍋島”を、渡してやればいい。(今の時点で、「鍋島」はまだ「オープンデモ」の状態だが。)
そして、その「鍋島」の先にある作品すら、設計図が出来ているではないか。
それについても、そこまできちんと作り上げることの出来るタイムラインもあれば、出来ない現実もあるだろう。
この僕がどうなって、どのような道を歩くかは、わからないけれども。
けれども、最終的に、魂の中で共有されたそれらの音は、
より大きな宇宙の中で、鳴らされるのだ。
そのために、僕たちはここで音を紡いでいるのだということは、
才能のある音楽家ならどこかでわかっていることではないか。
それらの音は、より大きな宇宙の中で、鳴らされるのだ。
最近、気付いたことがある。
他人にはどうでもいいことだが、自分には個人的には、ちょっとびっくりするくらいの気付きだ。
(そもそも、この個人的ないっちゃってる文章自体が、他人にはどうでもいい内容であろう。)
それは、今でも思い出すのだ。14歳くらいだろうか。
ギターを始めた頃。
もちろん、当時の、そして80年代のヘヴィメタルが大好きで、憧れていた。
雑誌の記事から、まだ聞いていない、知らないミュージシャンの写真を見て、鳴っている音を想像して作曲する、ということを(遊び、技法、試み)、何度かやったことがあるが、それは、別にやろうとしなくても、人間の想像力ってものは、一瞬で働くものである。
まだVan Halenを知るか知らないか、くらいの自分が、
雑誌に載っていた、1988年あたりと思われるEddie Van Halenの写真を見て、その時に頭の中に想像した音。
今でもかなりはっきり覚えている。
“Mine All Mine”と書かれた曲名から、その響きから、なんとなく思い浮かべてしまったギターのリフは。
(もちろん、現実のVan Halenの”Mine All Mine”はとんでもない名曲中の名曲だが。)
僕が昨年、書いてデモにした「鍋島の次」の作品。
今のところ、”Coming Back Alive”という仮タイトルで呼んでいるが。
その作品に入っている「Love Resurrection」という曲。
その曲、そのままではないか。
つまり、14歳の時に想像の中で垣間みた、聴いた、その音に、
僕はやっと辿り着こうとしているのだ。
「鍋島」の向こう側に、やっと。
まだ、見えてきただけで、
実際にその音を鳴らすまでは、ずいぶんと時間がかかるだろうけれども。
いつも、いつでもそう言ってきたように、
「そこまで生きていられれば」
生きてその音を鳴らせたら、きっと、なんと幸福なことだろう。
そんな人生のエンディングを望みたい。