思春期の頃からの思いをRevisitしていて気がついたことがあった。
理想のロックバンドっていうのは、革命軍のリーダーであってほしい、という思いがある。
革命軍っていうか、レジスタンスのリーダー、みたいな。
それが僕の思う、僕が憧れるロックバンドの理想像だった。
人が何かに憧れる時に、世界観ってやつが大事みたいで。
で、やっぱり僕が音楽や芸術、人、食べ物、文化、いろんなものに憧れ、魅力を感じる時に、「世界観」ってやつが重要なんだと、最近気が付いた。
いや、もちろん前から気付いてはいたけれど、より意識的になって考えてみた。
世界観、ってものを図らずも重要だと感じてしまう、その理由は、
人は「より良き世界」に生きたいと願うからだと思う。
現代社会で、平凡な日常を生きている中で、僕たちは、もっと楽しい世界、もっと進歩した世界、もっとエキサイティングな世界、に、生きることが出来たらいいのに、ってそう願う。
たとえばゲームや映画のように。
剣をふるって、悪魔と戦い、お姫様を助け出す、そんな世界に生きたいと思ったりする。
けれども現実には、剣をふるってモンスターを殺せば動物愛護団体から抗議されるし、そもそも悪魔とか魔王みたいなわかりやすい敵をキャスティングするのも難儀だし、お姫様はたとえ助け出したとしてもちっとも自分のことを好きになんかなってくれない。
(これはもちろん、各種の皮肉を含む。現実には魔王なんてものは、現実世界にはよりどりみどりだし、わかりやすい敵をキャスティングすることは人間の歴史の中では常套手段だったのだから。)
より良い世界に生きていたい、という思いは、僕の中にはいつでも強い。
それは、少年の頃からそうだったし、子供の頃からそうだったし、きっと生まれた時からそうだったんだろう。
西暦2835年くらいに生まれたかった、って思ったことはない?
人類が存続、発展してれば、って前提だけれども。
舞台は地球ではないかもしれない。
だからこそ、僕がロックという音楽に憧れた時、
彼らに憧れたのは「革命軍のリーダー」という姿だった。
メタル世代のTokyoストリートは、
そんなレジスタンスたちの集まる場所だと思っていた(笑)
だから、僕はきっと、そんな世界観の中で、革命に身を投じたかったんだね。
ストリート発の、SF映画に出てくるようなレジスタンスに仲間入りして。
それが憧れの人生だったのかもしれない。
その時、僕は、レジスタンスのリーダーになりたいわけじゃない。
そこに、きっといるんだよ、すごいかっこいいリーダーが。
その、めちゃくちゃかっこいいリーダーの元で、戦い、騒ぎ、働きたかった。
それが僕の願いだったのかもしれない。
つまり、80年代あたりのロックには、まだ、
人も、時代も、ロックそのものも若かったから、
そういう感じの音を鳴らしているバンドが、まだまだ居たんだよね。
世の中全体を変えてやるんだぜ、って、そんな意志と、勢いを持った音楽が。
だからみんな熱くなった。
ロックという音楽がどういうものなのか。
ロックという音楽が、そのルーツとか、本質とか、
社会を変えようというエネルギーと、思想を持ち、
大衆の中に根ざすことによって、
世界を変えることを目的とするなら、
ロックバンドが、革命軍のリーダーである、という理想は、
むしろまっとうに正しい姿だ。
けれども、現実にはもちろん、そんな奴はいなかった。
そんなロックバンドは、現実には存在しない。
もし、存在するのであればぜひ教えてほしい。
それに近いものは、きっと居るのだろうし、
僕の知識の中でも、心当たりはある。
けれども、たとえ、世界に革命を起こすような、先進的な音を鳴らしていたバンドであっても、
次第に、あるいは、すぐに、現実の世の中ってものに巻き込まれ、
世の中の商売のシステムの中で安全な音を鳴らすだけのただのバンドになっていった。
あるいは、アリーナやスタジアムという水槽の中で、人を集め、見せ物になるだけの「遺物」になっていった。
それは、有名なロックバンドの彼らや、伝説の彼らとて、しょせんは人気商売であり、そして音楽産業のシステムの上でレコードやコンサートを売り食っている立場に過ぎないからだ。
昔から、ロックというものに憧れたガキの頃から、
僕がロックバンドに憧れる時、その理想像は、小規模なクラブで演奏している姿だった。
アリーナやホールで演奏している姿では、なかった。
なぜなら、ホールやアリーナで「イベント」みたいにして演奏している姿は、僕にとっては「世界観」では無いからだ。
だからたとえば、80年代のイキのいいバンドが、かっこいいデビューアルバムをリリースしていたとして、
僕が憧れたのは、そのバンドがデビューアルバムをたずさえてホールツアーをする姿じゃなくて、
そのバンドがデビュー前に、地元のクラブで100人、200人の規模の観客を前に、日常を生きる姿のままで演奏している光景だった。
そんな光景を想像し、憧れた。そっちの方が重要に思えた。
(そしてもちろん、現実にはそんな世界観は、存在しなかった)
なんだろう、レコード会社と契約したバンドが、メディア上の宣伝によって人を集め、イベンターやプロモーターが仕事、商売として回すツアーに乗っかって演奏する、っていうのは、僕にとっては刺激的な世界観では、決してなかった。むしろ、それは退屈で、つまらない世界観だったんだ。
これはつまり、僕がこれまでバンドをやってきて、観客、リスナーのみならず、世間との接点に苦労してきたことの原因でもある。
つまり、僕が自分の音楽を演奏する時、意識しようと、しまいと、僕はそういった自分の理想に向けて音を鳴らしてきた。
僕の方では、「革命」をやる気まんまんで、ライブ演奏していたんだね。そして、それはきっと、それを聴いていたお客さんには、あまり伝わらなかったと思う。
(伝わることも、もちろんたまにはあって、それは一部の熱狂的な反響になったりしたわけだ)
そこのところの世界観を、いちばん重視していた、ということは、僕はおそらくは、オーディエンスの数よりも、質を重視していたんだね。
普通、成功しようとするバンドは、そういった世の中のシステムにのっかって、世の中の上で成功しようとする。数を集めよう、数字を出そうとする時に、多くの人は、その「質」は問わないじゃない。
でも、僕はそれは嫌で、現存の世の中に乗っかるんじゃなく、現存の世の中そのものを変える方向の活動をしたかったということだろうと思う。そして、その思いがたぶん、かなり強かった。
だから、もし今後、僕がバンド活動をこれからも続けていくとしたら、
ライブをやる際、イベントを打つ際に、オーディエンス、つまり集客、ということに関して、
この「世界観」ということに、しっかり向き合って考えなくてはいけない。
うちは間違いなく「観客を選ぶバンド」であったし、それがとっつきにくいバンドであることの所以だが、
この「世界観」のミスマッチに向き合わなければ、集客という点において、望んでいる状況を作り出せないからだ。
すげえかっこいい憧れのロッカーが居て、
その人がバンドを結成し、革命軍レジスタンスを組織する時に、
その人が旗印として掲げるのは、やっぱりどう考えても「自由」の二文字だ。
そしてその「自由」の裏側には真実、ってやつがある。
けれど、もちろん現実にはそんなことが出来たやつはいなかった。
けれど、僕がロックンロールに夢見ていたのはその理想であり、
そのミスマッチが、僕の不満につながっていた。
それは、プレイヤーとしてもそうだし、それ以上にリスナーとしてそうだし、そしてそれ以上に一人の人間としての不満だ。
おそらくはそういった気骨のあるミュージシャン、
bloodthirsty butchersの故吉村秀樹氏にせよ、そういった「革命軍のリーダー」の理想像に、僕の中でいちばん近い人物だったからこそ、好きになり、憧れたのだろうと思う。
そして、僕はいまだに21世紀になってからもっとも革命的にロックンロールの先を鳴らしていたと信じているニューヨークの+/-{plus/minus}について、今のところのlatest albumである2014年のアルバムや、近年の活動について「ぬるい」と不満に感じているのも、そこなのだ。
僕の理想では、彼らにも世界最先端のインディーの騎手として、「レジスタンスの首領」として活動してほしいのだ。
だが、もちろんそんなことは無理だ。
彼らとて、もちろん素晴らしい才能を持ったミュージシャンではあるが、彼らとてただの、ニューヨークで普通に生活しながら細々とインディー活動をしているだけの人たちなのだから。
彼らはいかした音楽を作ろうとは思っているだろうが、別に革命を起こそう、とか世の中を変えよう、とかは、あんまり思っていないに違いない。
(だけれども、根底にある思いはきっと同じはずだ。彼らだって、twitterやfacebook上で、多様性や寛容など、社会活動についてのリツイートを度々しているではないか。)
たぶんそんなことは無理だ。
メジャーとか音楽産業、社会のシステムに頼らずに、
いわゆる宗教やセグメントの「囲い込み」や「仲間内」にもならず、
自由や真実を鳴らしつつ、
アンダーグラウンドにおいて、「革命軍」と呼べるくらいに、
支持を集めて、数ではなく、質によって、活動を続けていくこと。
もちろん、ハードコア等の一部のアンダーグラウンドであることを本質とするジャンルの中で、
活動を続けているバンドが多々あることも認識しているが、
残念ながら、それらは僕の認識では、「世界を変えていく」こととは少し違う。
どちらかといえばそれも僕にとっては、八方塞がりな世の中のシステムの一部でしかない。
どうしたって才能は必要だ。
音楽や芸術の才能だけじゃない。
PRやコミュニケーションの才覚。
人を惹き付ける魅力。
人脈。
手腕。
場所。
仲間。人材。
経済的な手腕。
現実における音響的、または演奏的な限界も打ち破らなければいけない。
(映画の中の演奏ではないのだから。理想の世界観の中で鳴っている音は、現実には、ぜんぜん鳴らないし、見たことも聴いたこともない。)
(だからライブアルバムっていうのは修正だらけなんだろう?)
インターネット上の発信力やスキルも必要だが、
見てのとおり僕の発信するコンテンツはあまりインターネット時代にうまく対応しているとは言い難い。
むしろ自分の発信するコンテンツの質と量に対して、インターネットが進化して追いついてくるのを待たなくてはいけない。
どうにもこうにも、何よりもまず俺には友達ってやつがいない(笑)
何が足りないのか、って自問するまでもない。
ていうか、何が足りないのか、って自問するよりも前に、
別に僕はその「レジスタンスのリーダー」になりたいわけじゃない。
僕の願いは、どこかにその「めちゃくちゃかっこいいリーダー」が居て、
その人の下で革命に参画することなのだから。
だけれど、現実にそんな人がいないのであれば、
セットアップしないといけない。
つまり、他にかっこいいリーダーがいるつもりになって、
自分がその人の下で戦うのだ、という設定を。
そういう設定で、まずは「ごっこ」でいいから、企画してみないか。
旗印にするのは、もちろん「自由」ということ。
そして、真実。
その真実ってやつの象徴と裏付けは、どうしたってジーザスなんだけれど、それはそれで、形式はいらない、本質だけあればいい。
そして、いちばん大切な革命は、かっこいいこと、これに尽きる。
なぜなら、世の中はいまだに、かっこわるいことであふれているからだ。
何をもってかっこいいと言うのか、そこが大切だ。
でも、これについては日本人は決して悪くない感覚を持っていると思う。
日本人の考える、かっこいい、という感覚は、世界の中で決して、悪くない。
こんなもん、やれたやつはいない。
託された、という思いがある。
受け継がれた、という思いが。
別にこれは2013の東京ドームで最後にEddie Van Halenを見た時に運命と感じたこと、それだけに限らない。
偉大な世代の伝説たちには、それは出来ない。
だって彼らはメジャーなんだもの。
飽和し、古くなった世の中の音楽産業の中では、それは出来ないんだもの。
たとえエディ本人がそうしたかったとしても。
(また、スパマンのビリー・コーガンについても、ちょっと書いてみたい。いかに彼が21世紀の感性をすべて網羅し、そしてそこから先、いかに世界が彼にぜんぜん着いてこなかったか、という件に関して)
だから、21世紀の俺たちインディーバンドに託された、という思いがある。
けれども、2010年代も後半になってからこっち、
そのインディーバンドの連中からも、イキのいい音が聴こえてこない。
僕はそのことを、ものすごい不満に思っている。
ああそうか、バトンは今、この手の中にあるのか。
だから、誰も音を、鳴らしてくれないのだ。
自分で鳴らさなくてはいけないのだ。
今じゃ世界はずいぶん狭くなったし、
別の世界のどこでもいいっちゃあ、いいんだが、
革命の本拠地として、
Tokyoストリートを世界でいちばん、熱く、クールな場所にする。
そういう気概は持っていたいと思う。
そこでこそ鳴らしたい、という音があるのであれば、
革命はそこから起きて、世界に広がる!