写真は”Overture”のCD裏面。届いたから、これから販売開始すべく頑張ってセットアップしますよ〜。BandcampとSpotify等のデジタルとあと国内向けのウェブショップもやるつもり。
定例の愚痴、というよりは自分自身への言い聞かせ。
タイトルは後付けで実はあまり関係ない。
自分はヘヴィメタルという道を選んだわけで、ましてや若い頃に、仕方ないから音楽に取り組むことになった時、有名とか成功とかは最初から無理なので、彫刻家になろう、と決意して、ましてやその後、クリスチャンミュージック、というのか、信仰をテーマに神に音楽を捧げようと決意した身で、つまりそれは、ほぼ世間に背を向けて出家する、ということに等しいわけで。
その意味では、人知れずひっそりと音楽に向き合い、世間から距離を置いて生きることが全然デフォルトというか前提だ。
そんな自分でも、やっぱり人間なので、修行も足らんので、また半端に良い評価をもらったりすると欲が出て、もっと成功したいとか、人に知られたいとか思ってしまう事がある。
身の回りには成功している人がたくさんいる。そして世間には成功している人がたくさんいる。それはもちろん、隣の芝生はいつだって青く見えるものだから、それぞれ大変に頑張っていらっしゃるに違いないことはわかっているのだが。だがそうやって、世間で頑張っていらっしゃる皆さんを見ると、自分は何をしておったかなあ、と考えてしまう。
今までささやかに音楽活動をしてくる中で、一緒に活動してきた人たち、つるんだ人たち、縁のあった人たち、近くで、遠くで、比較対象にしてもらった時、(比較されること自体がありがたいのだが)、それらの人たちに比べ、自分たちが勝っていることは、ほぼ無かった。
たとえばそれは、今いちばん身近で一緒に活動をしているCalling Recordsの他のアーティストさんたちと比べてもそうだ。
それくらい、自分は世間と絶望的なまでに距離が遠いのであり、またそれは、自分という主語が「自分たち」になっても変わらなかった。たとえばこの10年間一緒に活動をしてきたHassyとJakeも同様に世間と距離の遠い人たちであり、だからこそ一緒に活動をしてくることが出来たと言える。そういう性質の音楽であり、そういう性質の活動だということだと思う。
では、「何をしておったのか」と問われれば、それはたとえば過去5年間を振り返れば、(目下、直近の後悔という意味で言えば、やはりここ5年間のことである。いや、もちろんそれは後悔などは無いのであるが)、その5年間、自分は(主に海外での)成功を望むことではなく、国内においてXTJ (The Extreme Tour Japan)をやったり、Calling Recordsの人たちと活動することを選び、また日本人としてのアイデンティティを求める意味で数々の作品を作り、音楽世界を深めてきた。日本の歴史をテーマにしたコンセプトアルバム”Jesus Wind”はそのいちばんの成果だと言える。ひとつにはそれは、僕はこの日本という国に対して、仁義を果たしたかったからだ。
それは、内部事情というか本当の事情としては、すでに少なくとも2014年以降、バンドの内部は「もうバンドとかやりたくない、クリスチャンの活動もしたくない」という状態なのだったのであって、だから生殺しの状態にありつつも、それでも僕は出来るところまではこのメンバーで一緒にやっていく、ということを選んできたわけだ。(そのことについて、批判はされたくない。成功するためにメンバーをとっかえる、ということは僕はしたくないからだ)
たとえそれが、人知れずひっそりと、ということであったとしても、一緒に鳴らせる音がある以上は、そして一緒に作れる音の世界がある以上は、それはやらなければいけなかったからだ。僕たち3人にとってはそれは大事なことだったからだ。
だがその結果、当初は作れると思っていなかったコンセプトアルバム”Jesus Wind”のみならず、僕は自分の音楽人生の到達点である”鍋島”を射程距離に捉えることが出来たばかりか、今ではその先も見据えている。
ここまで掘り下げることが出来たのは、それは何物にも代え難い。
そしてその3人で最後に作った”Overture”という日本語のアルバムを、もうすぐリリースする。
これは恐らく誰にも批判できないだろうひとつの事実として、僕は音楽そのものに向き合うことで精一杯で、それを売るということについて、とてもじゃないが手が回らなかった。
そしてまた、人生の中で重視するポイントも、他の人と少しばかり違った。
大切なのは、音楽であり、音楽を作ることであり、音に向き合うことだったからだ。
けれど、今年の春に一度バンドを解体して、不思議なことだがやっと見えてくるものがあった。
あ、これはやっと音楽を、収益化していいタイミングだ、これを商売にしていい時期だ、と。
それは決して成功や名声という意味ではなく、今後も音楽を作り続けるためである。
あれだ、もっと現実的に切実な、つまりは老後に間に合わせるためだ(笑)
音楽を老後の年金代わり・・・じゃない、死ぬまでこれを作り続け、最後まできちんと究めるためである。
最後の瞬間まで、この物語をきちんと完遂するためだ。
その必要が来たから、きちんと商売にするタイミングだと、思えたのである。
だから来年はそのためにスタートするつもりだ。もちろん、その準備をひとつずつ、今しているわけだ。
自分は重視しているポイントがあるいは人と違うかもしれない。
こんな自分にも人生の中で師と呼べる位置にいてくれた人が何人かいるけれど、ある人が、僕が人生の旅立ちをする18歳の頃に言ってくれたことの中にこういうものがあった。Don’t Miss The Train、と。それは別に日本語だったと思うが、意味としてはそういうことだった。
客観的に見れば僕は人生の中で、そういった電車を何度も見逃してきた。
それは、あるいは人生を始める際にすでに乗り遅れていたとも言える。
だが、本当に見逃してはいけない列車とは、何だっただろうか。
あるいは人によっては、それは名声の電車だと考えるかもしれない。成功の電車である、と。
で、そんなもんは僕は何度もスルーしてきた。情けないくらいにばっちりスルーしてきた。
けれども、ここまで生きてきて、僕の実感は違う。
音楽家、が、若いうちにやっておかなくてはいけないこと。
昔は知らないが、今の時代のインディでやってる音楽家として、若いうちにしか出来ないこと。
それはやはり、音楽を作ることそのものだと、僕は思う。
曲を書くこと。録音制作をすること。そして自らの音世界を目一杯掘り下げ、広げること。
特に、目指している音楽的な場所が、すごく遠いところにある場合には。
若いうちに名声を得て、その後で歳をとってから音楽を掘り下げればいい、というものではない。
創造性、そして、創作、制作、ということこそ、若いうちでなければ出来ないことだというのが、ミュージシャンとしての僕の実感だ。
それは、情熱なのか、集中力なのか、それとも体力なのか。
霊感なのか何なのか。
それはわからないが、歳を経るとともに、技術や円熟など、得るものもある代わりに、失われるものも大きいことを、実感するからだ。
これはたとえば楽器の演奏技術や、あるいはスポーツなどの世界においても、まぁ何でもそうだと思うが、若いうちの訓練、子供の頃の修練、が重要なのと同じであるが、かといって全く同じということでもない。
創作、制作、ってことは、そういった単純な技術ともちょっと違うことだからだ。スポーツの成績と違って、感性を数字で測ることは出来ないからだ。
若いうちに、やれるうちに、目一杯、掘り下げ、広げ、作り上げておかなくてはいけない。歳をとってからの円熟があるとしても、それが絶対的な土台になってしまう。
そして、その創作に向き合う、自らの創造世界において音楽を作り上げること、それに向き合うことは、僕はしっかりと行ってきた。
それは、誰にも何物にも奪うことの出来ない財産だ。
その意味では僕は”miss the train”(電車を逃すこと)はしなかったと言える。
(またこれは、録音、制作というものをめぐる事情、環境が、過去よりも身近になった今の時代だからこそ言えることでもある。そんで、そのことはすでに若い頃に見越していたつもりだ。音楽が限りなくタダになり、メジャーの商売が成り立たなくなるだろうな、ってことも、その頃には見越していたはずだ)
そして、では名声や成功という電車ということについては、僕はだいたいにおいてシニカルに考えていた。
それはそれで、僕の欠点であるかもしれない。
だが、ことインターネット時代のFame(名声)ということについては、かつてないほどに安いものになっていることはご存知の通りだし、僕も何度も言っている通りだ。
音楽世界を築き上げることについては、10年、20年とかかるかもしれない。
だが、このインターネット社会にあっては、名声というものは5分で手に入る。
今やソーシャルネットワークの世界にあって、誰もが表現者であり、1億総アーティスト時代、どころか、地球人類何十億総アーティスト時代である。
よく言われるように、人は誰でも15分間は有名になれる。
誰もが有名になることが出来るという意味では、このインターネット時代にそれはかつてないほどにリアリティだ。
けれども出来ることであれば、その向こう側にある、もうちょっと確かなものを掴みたい。
僕には縁のないものであったから、あんまし経験したことは無いけれど、多くの偉大なアーティストが名声というものへの対処に苦しんでいることからも。
名声なんてものは、いちばん最後でいいじゃないかと、僕は考えている。
いちばん、最後で、いいんじゃ、ないか、と。
これも今の時代の環境だから言えることかもしれない。
PR (Public Relations)ってものは、つまり、世との付き合い方ってことであり、PRのプロフェッショナルというのは、その世と付き合うことの専門家のことだ。それを戦略的に考え、計画していけるのが本当のプロフェッショナルだ。
それを商売にするのがパブリシストということだけれども、世との付き合い方ってことで言うんなら、別に昔っから聖書にだって書いてある。人ってもの、罪ってものへの向き合い方も書いてある。
さて、では僕にとっての「世との付き合い方」とはどのようにあるべきものだったか。
どのような戦略のもとに計画していくべきものだっただろうか。
Don’t Miss The Train、つまり、逃してはいけない列車があるとするならば、人が本当に逃してはいけない列車とは何か。
夢か、希望か。
愛か。
救済か。救われることか。
つまりは天国に行くことか。
天国に行く、なんて言っても、
別に一生懸命に修行したり、学問したり、道を究めることで天国に行けるわけじゃない。
宗教によっては、一生懸命修行をして、一定の境地に到達したり、悟ったりなんかして天国に行けるって話かもしれないが、キリスト教っていうのはそういうんじゃなくて、信じればいい。修行しようがしまいが、人ってのはみんな罪人なんだから大差ない、ってことだからだ。
けれど、その信じるってのが、これがまた、そんなに簡単なことじゃない。
キリスト教の「営業」の人は、「簡単ですよ」って言うかもしれない。
でも現実にはやっぱり難しい。
いや、簡単なんだけどさ、でも難しい。
「信じる」ってことが、「愛する」ってことと、だいたいおんなじことなんだと仮定して。
だって、素人目にも、それってだいたいおんなじことだろう?
じゃあ、相手を、その人を、誰であれ、愛することが出来ますか、って言ったら、出来る人は確かに一秒かからずに愛せるかもしれないけれど、出来ない人には何十年努力したって愛せない。
相性だってあるし、タイミングだってあるし、感性だってある。
信じるってことも、そんな感じ。
(そういう意味では、今度リリースする”Overture”は、日本語で書いた精一杯のラブレターなんだけれど、僕らの。)
愛に向き合うことが出来るのか。
お前は、人生の中で、人の身で限界はあるにせよ、精一杯に愛というものに向き合ったのか。
お前は、人生の中で、人を愛することが出来たのか。
愛に出会うことが出来たのか。
愛を見つけることが出来たのか。
それだけ出来てりゃ、後はぜんぶ小さなことなんじゃないか。
その先に、「神の愛」なんてものにちょっとでも気付けたんであれば、それはもう、ラッキーってことでさ。
続き。
携帯で走り書きしたのを簡潔に。
もっとも人の世はいつだってそうだっただろうけれども、
power(権力、権威、支配)というものはfame&fortuneとだいたい同義だ。
そして現代においてはメディアの中にそのfameというものはある。
そういう意味ではPRというものは現実にはPower Rulingという感じだ。
クリスチャンの人であれ、ロックファンであれ、
THE ROCK (キリスト、ひいては音楽)を賛美し崇拝しようとするが、
メディアの中のfameを通じて崇拝するのであればやはりそれは偶像崇拝なのではないか。
かつてマリリン・マンソンだったか、誰であれ、”God is in the TV”と歌っていた。
だからRockはDeader Than Deadなのだと。
今ではそのメディアがインターネット上とかソーシャルネットワークの中に移っただけだ。Even deader than deadって感じだ。
知ってのとおり仏教やその他の宗教文化の中で、アジアは偶像でいっぱいだが、そういう意味では西洋だって似たようなものだ。メディアの中に偶像を大量生産する文化というのか。
僕らはクリスチャンミュージシャンなのだから、愛を伝えること、すなわちコミュニケートすることには一生懸命にならなくてはいけない。けれどその一方で、fameを崇拝することにはノーと言わなくてはいけない。
少なくとも、すごく慎重にならなくてはいけない。
U2なんか見てると、そう思うよ。
そういう生き方をしたいのなら、別だけど・・・
今日のところはこのへんで。