魔女のレガシー(義母の夢に添えて)

 

自分にしかわからないような、わかりづらい文面の投稿だったし、そもそもあまり面白味のない写真を使ったポストだったからだと思うが、だからこういう言い方をするのはかなり意地悪であることはわかってはいるが(苦笑)、「魔女」という二文字から始めてポストしたFBならびにInstaの投稿は、やっぱりクリスチャンの(日本語で読む日本の)人からはほとんどLikeが付かなかった。

今でも「魔女狩り」やってるんだろ、クリスチャンの人たちって。
知ってる。
で、クリスチャン・ヘヴィメタルなんてことをやってる日本では数少ない僕なんかは、かなりのところで「魔女」扱いされているんだろうな、ってことも、それっくらいは前からわかってる(笑)

でも、ほとんどの場合、魔女ってのはきっと、人よりもちょっとだけ熱心に神を愛しちゃった人だったんだろうな、って、オレは思うぜ。
熱狂的な人って、そんな感じだろう。

きっとみんな、他人を魔女扱いするのが好きなんだよ。
クリスチャンに限らず、人間ってやつはね。

でも別にそれも前からわかってたし、気にしない。

チェスタトンが書いてたんじゃないかな。
狂人ってのは、狂気を持った人のことじゃなくて、狂気を忘れて理性だけが残ってしまった人のこと。

 

書いたのはうちの嫁さんのお母さんのことだ。
僕からすると義母ってことになる。
昨年、亡くなった。
だから、これはうちの嫁さんにとってはもちろん、僕にとってはとても大切なことだ。

嫁さんの母上は、とても特別な人だったからだ。

 

その方の「魂の救い」ってやつについては、今ここに書く必要はないし、昨年のその時の日記(ウェブサイトを更新する前のことだから、見つけづらいし、見づらいが)に、これもわかりづらい心象風景かもしれないが、思いを綴って記録を残してある。

 

うちのオヤジもそうだったが、倒れてから、なぜだか初めて、心が通う、ということがある。
とても皮肉なことではあるのだけれど。

その時が迫れば、人は誰だって、神を意識する。
それは、一般的に言って当たり前のことだろうとは思う。

いずれにせよ、僕も、嫁さんも、お義母さんの魂が神の愛のうちにあることを信じている。

不思議な成り行きで無形式の葬儀になり、そこでうちの嫁さんの主導によって、親戚の皆さんに「アーメン」と言っていただいてキリスト教の形式の祈りを捧げたことは、その際の日記にも(わかりにくい心象風景ではあるが)、記してあると思う。

 

嫁さんの母上は、「魔女」であった。

「魔女」という言葉の中身を説明するのは難しい。

けれども、とてもユニークな人であったことは間違いない。

また、難しい人であったことも間違いないだろうと思う。

一般的に見れば、きっとバランスの悪い人だっただろう。

けれども、僕にとっては心から尊敬できる人だった。

そして、母と娘の結びつきが非常に強い親子でもあった。

あのお義母さんがいたからこそ、うちの嫁さんが、このようにして、ここにあるのだ。

 

お義母さんが病気になってから、
そして、昨年亡くなられたのと前後して、
僕たち夫婦と、そしてうちの嫁さんと、お義父さんも含めて、
いくつかの魂と心の交流があったと思う。

そして、今回、ほんの数日間ではあるが、亡くなったお義母さんの部屋を訪れて、
たったそれだけの間に、僕は、ひょっとすると今までで一番強く、お義母さんから影響を受けた。

理由は、あれだ、言うまでもないが、
自分が霊の上でのいろんなことを、(芸術的なことを、特に強く介して)、感じる体質だからだろう。

こう見えてもスタンド使いのはしくれであるからだ。
思ってみれば、うちのオヤジの時も、むしろ死んでからの方が、メッセージを受け取ったかもしれない。
特に、日本人の男子として、武士道ってこと、侍ってことの、理屈じゃなくて、姿でもって。

 

だからオレは別に侍になる必要はないんだよ。
心に「武士道」を持ってるやつは、「俺は侍になりたい!」なんて叫ぶ必要はないのだから。

そんなに美味しいもんでもないしね(笑)

いまどき、サムライになりたい、なんて叫ぶのは、海外の子たちに任せておけばいいだろ?

騎士道とかもきっとそうだろうけれど、武士道なんてのは、金になりゃしないんだよ。ほんとにやっちゃうとね。名声とかとも違うだろうな。金になるのは、ポーズを取ってみせることだろ。そういうものだよね。

 

話がそれた。

 

今回、思索をまとめて記録しておきたいのは、以下のことだ。

-ブリティッシュ・ロックということについて。

-信仰の歴史と風土について。

-「時」と「意識」の交わりについて

-遠藤周作を追いかけるための道について

 

大きく分ければ、この3つ、いや4つだね。3つなんだけど、4つに分けた。

 

 

そもそも前置きを書くのであれば、
人生の転機に、バンドの次の体制を立ち上げるに当たって(今年、正式に立ち上げるつもりなんだけど)、僕の中では、いろいろな考えがあり、まだまだいろいろな迷いがある。

自分の心の中、家庭の中の状況だけでなく、自分の周囲だけでもなく、世界の状況や、日本をめぐる状況についても考える。

だから、これで本当にいいんかな、他の方法があるんじゃないかな、と、まだまだ迷っている。

 

そうやって迷ううちに、
そりゃもちろん、クリスチャンとしては、神に祈れっちゅーことはもちろんであって、祈っているが、
オレの場合、本当に困った時には、「神さん、どうにかしてください」としか言えない。本当につらい時は、言葉になんかならない。だから、ううう、ぐぐぐ、と呻くしかない。わかるだろ?

だから、それと同時に、いろんな人と話して、相談したいわけでもあるが、これについてはまた、周囲に「飲もうよ」と声をかけるかもしれないが(笑)
かといって、人と話す、ということは、思っているほど簡単なことじゃない。
僕の話をまともに聞いてくれる人なんて、実のところはなかなかいない。

だったら神さんに聞いてもらう方がいいじゃん、ってことになる。
もっとも、嫁さんに聞いてもらう、というのも現実的で、だからこそ僕は、彼女がいてくれるおかげで、ここまでやってこれた。

 

だから、生きている人間に話を聞いてもらうのが難しいのであれば、それ以外のものに話を聞いてもらうことになる。
こうして、コンピューターのキーを叩き、ノートパッドに言葉を綴っているのも、そのひとつだ。また平たく言えば、広義でこれも祈りのひとつであるとも言える。

だからこそ、こうした時折得られる霊的なインスピレーションは、僕にとっては非常に有益なものであり、またそうしたものを感受できる能力があったからこそ(まだまだ鈍いとは思うけど)、ここまで音楽を作ってくることが出来たと言える。

そして、今回、お義母さんの去った部屋において、得ることの出来たインスピレーションは、おそらくは今後の人生を大きく左右するであろうほどに、大きなきっかけになるのかもしれない。

 

 

-ブリティッシュ・ロック、ないしはイギリス、The United Kingdomと言われる土地について。

 

多くのロックファンは、英国、UK、イギリスに憧れるものであると思うが、僕は正直なところ、イギリスへの憧れというものは、あんまし、全然、ほとんど、持っていなかった。

なぜかと言えば、Van Halenの大ファンである僕にとっては、また自分の性格や気質から言っても、気難しいBritish Rockよりは、どっかーんと豪快に陽気なアメリカン・ロックの方が、性に合っていたからだ。
そんな感じで、これまでやってきた。

自分の音楽で”British”を意識したのは、”Jesus Wind”を作る時に、今回は正統派の様式美メタルの作品だから、ちょっとブリティッシュ風味を出さなきゃ、と思った時、それくらいだろう。

もちろんブリティッシュ・ロックに対する自分なりの思い入れはあるし、ブリティッシュ・ロックは好きだ。ヘヴィメタル、ハードロックはもちろんのこと、90年代のBrit Popの波をまともに少年期にかぶった世代でもある。

そして自分が本当にブリティッシュ・ロックの真髄を垣間みたのは、それはやはりXTCを知ってからかもしれない。

そんでもって、奇しくも、昨年、結構90年代をrevisitしていたついでに、90年代ブリットポップを中心にBritish Rockについてかなり考察していたところだった。

自分の場合、ブリティッシュだのアメリカンだの言っても、それを参考にしながら結局出したい音は、自分の中にある”Japanese”の独自の音なのだし、また”Jesus Wind”でブリティッシュを意識した後も、その延長線上として考えたのは「鍋島」へと続く「Japanese Traditional」の風土だった。

つまりは、British RockとJapanese Rockが、それぞれに風土に基づく気質として存在するとすれば、それは比較的、似通ったものであると思われるから。これは、わかるよね?

 

しかし、どっちにしても、僕は、ここまでロックをやってくる中でも、イギリス、UK、エゲレス、なんつー国に、憧れたり、行きたい、とか思ったことは、ほとんど無かったと言っていい。

だが、今回、初めて僕は、興味を持った。
かのグレートブリテンの、歴史に、風土に、そして音楽に。

幸いにして、ブリティッシュロックだからさ、音楽を通じて、考察は半分は終えてるのよ。だって、ロックやってれば、みんなブリティッシュロックって命題には、最初の方でぶつかるだろ?

また日本人は政治、地理、歴史の上でどうしても「アメリカ」っていう命題にも向き合わなきゃいけないが、ロックやる上ではBritishっていう命題は一年生の必須科目みたいなものだからね。
(たとえば中国っていう命題は、地理、歴史、文化の上では必須科目だが、ロックやる上では必ずしも必須ではあるまい)

 

種明かしをすればね、言葉にすれば陳腐だし、実際には文字にして書く以上のことがたくさんあるけれど、
ひとつだけ書けば、お義母さんは、ガーデニングとか、やる人だった。庭にはハーブがいっぱい。昔からそうだった。あと手芸とか、そういうの。その他もいろいろ。

そういう分野で、本棚にも、そういう本がいっぱい。
(そして、お義父さんの本棚なんてことを言えば、学者だからね、もっと大変なことになる)

そういう分野の本には、”グレート・ブリテン”の本がいっぱいあるの、当然のことだろ?

 

だから、僕はこれまで、エゲレスなんつー国に憧れたことはほとんど無かったが、
今後、僕がその国の文化や風土に興味を持つことがあったとすれば、
それは、僕自身が憧れたんじゃなくて、それは、お義母さんの影響なんだ。

これ以上、書く必要はたぶん無いだろ?

連れて行きたいんだよな。僕らの手でさ。

 

 

-信仰と風土の歴史。

エゲレス、UK、そしてグレート・ブリテンの、歴史と風土なんてものに向き合ってみる。

そこに向き合うことは、もちろん、信仰の歴史に向き合うことでもある。

思えば、これはもう、数字の上では一昨年。
2017年、僕は自分の「スタンド能力」に自覚的になった。

だが思い起こせば、その背景には、浄土真宗やカトリックの他にも、「イギリス国教会」の影が散らついていた。何って、これでも随分助けてもらったんだよ、ヤバい時に。

英国の宗教や歴史に詳しい訳じゃないが、たとえば僕の数少ない好きな作家の1人であるG.K.チェスタトンは「イングランド国教会からカトリックに」改宗した人だ。確かそうだったと思う。そういう意味で、カトリックに関してもディグる良い機会になるかもしれない。

そんでもって、XTCのアンディ・パートリッジはいろいろの経緯もあり(ヒット曲、Dear Godに関して、キリスト教徒から色々と熱心な「ラブレター」をもらったらしい)、自分は無神論者だと公言しているが、彼の音楽からはむしろ神の本質への深い理解が感じられるし、そして彼はキリスト教的なモチーフを楽曲の中に非常に上手く使っている。それは、たとえ本人が無神論者だと言っていたとしても、かの国の文化の中に、キリスト教の信仰がそれほど深く根付いている、ということだ。そして、ポップミュージックの本質をよく知る彼としては、それらの風土を鳴らすことを抜きにして、自身のポップミュージックを構築することは出来なかったはずだ。

その音の中に垣間みることの出来るBritish Rockの源流と、信仰にまつわる「風土」ってやつを、自分はちょっとdigってみたい。

どっちにしても、キリスト教のひいてはカトリックの歴史と、それがヨーロッパに広まっていった過程を思うとき、まぁ血なまぐさい政治や闘争がそこにあるのは当然のこととして、その「ゆるさ」と土着の宗教(いわゆるpagan、異教)との融合は、おそらくテーマとして浮上してくる。それは、やっぱり日本人にとっても興味深いテーマであることは間違いない。

 

そこに僕は、興味や憧れ以上に、ちょとした可能性を感じる。

 

何の可能性かって? それは、言うまでもないことに、新しいサウンドへの可能性さ。

かの国の風土や歴史を音にする?

そんな大それたことが、日本人の僕にできるのか、って?
いや、違うね。
日本人だからこそ、出来るんだ。
そして、日本人ながらに、クリスチャンメタルなんてものに向き合って、
「鍋島」のサウンドを見つけ出した僕だからこそ、出来るんだ。

もちろん、それはある程度のところで「霊」を読み取ることのできる「スタンド能力者」だからこそ可能なことでもある。おそらくは、そこに危険も伴うかもしれないが。

そして後述するが、これは「彫刻家になりたい」と言って二十歳の時に音楽を作り始めた僕が、かの遠藤周作に追いつくため、そのための唯一の道であるように思えるんだ。

 

ブリティッシュ・ロック、なんていうテーマはありふれていて、そんなテーマに向き合った人は、日本人だけでなく、世界中にいくらでもいる。
アイリッシュとか、ケルトとか、スコッチウイスキーとか、それこそ、どこをつっついてもキリがないくらいに深くて広い。

だけれども、僕にとって大事なのは、話題性でも、表面的な音楽のアレンジでもなくて、音に込められた「霊」の言葉そのものさ。そして、その音の中に、あるいはその過程の中で、見つけることのできる「信仰」に対する答えだ。

だから、こうして堂々と書いたり、言ったりできるんだ。
「霊」の言葉は、盗むことはできないし、仮に盗んだとすれば、それはみんなのものだからね。

いいんだぜ、盗んでくれて、これからも(笑)
ただ、やるならもっとうまく、やりなよ。

 

 

 

-「時」と「意識」の交わりについて

僕は文字を読むよりも、音から情報を得る方が圧倒的に効率が良いこともあって、あんまし本を読まない。少なくとも読書家ではない。読むんなら、もうちょっとまともに聖書を読めという気がいつもしている。

なので、好きな作家とか言っても、人生の中でたまたま縁があって手に取る機会があったり、またそのように手に取る機会がたまたまちょっと多かっただけ、って意味に過ぎない。でも、何度も手に取って違和感がないということは、それはやっぱり、好きな作家であると言うことが出来るのも事実だ。

そういう意味ではここ何年かは、いつも、遠藤周作、リチャード・バック、G.K.チェスタトン、の3つをいつも挙げているのだけれど。

 

今回、色々のガーデニングやらハーブやらピーター・ラビットに混じって、なんだか読みやすそうな子供向けの物語のようでふと手に取った本。

それはアリソン・アトリーの「時の旅人」(A Traveller in Time)という本だったのだけれど、なにげなく読み進めたその本の内容は、ページをめくるごとに、衝撃的なほどのインパクトを受けたと言っていいものだった。

実のところ、これを書いている時点で、まだ半分しか読んでいない。なんとなく、この本はお義母さんの部屋に置いておくべきだ、という気がしたからだ。だから、自分で別途買って、最後まで読もうと思っているが、たとえ半分読んだ時点であっても、結末はともかく、霊の上でいったい何が起きていたのかは、おおよそわかる。

 

この「時の旅人」は、wikipediaによれば「タイムファンタジーのさきがけ」と言われているらしい。

タイムトラベルものは、その後のSFで言えば、珍しくもなんともないが、これはその手の作品の、おそらくごく最初のうちのひとつであることに間違いない。

書かれたのは1939年だと言う。
調べてみると、これはC.S.ルイスが「ナルニア」を書くよりもおよそ10年早い。

実のところ、物語の構造も「ナルニア」と良く似ている気がする。
子供が、古い屋敷の奥とかで、扉を見つけて、異世界へと入っていく、とか、そういうモチーフ。

だから、もしどちらかが影響を与えたとすれば、この「時の旅人」の方が「ナルニア」に影響を与えた可能性もあるように思う。

 

だが、恐ろしく驚いたのは、(とはいえ、翻訳があまり上手い翻訳ではなく、原文のニュアンスがどこまで生きているのかは不明なのだが)、このタイムトラベルの描写が、タイムマシーンに乗るのでも、明確な形で扉をくぐるのでも、いわんやデロリアンを走らせるのでもなく、意識の変容によって、チャンネルを合わせるかのように瞬時に移動している点。

また同時に、タイムトラベルの行き先である16世紀、だったっけ、の描写が、恐ろしく自然な点。もちろん、時代考証の話ではなく、生きた描写としての話である。

それに比して、文章の叙述は平坦だし、必ずしも比喩的な表現や描写が巧みなわけでもない。どちらかといえば淡々と書かれている。

これはつまり、普通に読み取って推測できることとして、少なくともこの著者にとって、これらの記述は、もしそれが肉体的な実体験でないにせよ、霊的な体験の叙述であることに違いはない、ということだ。

 

もちろん、優れた作家、創作を生業とするクリエイティブ・パーソンは、その想像力を以て、実体験に比することのできる霊的な体験を作り出せることはよくよく承知しているが、どちらにせよ、である。つまり、クリエイティブな霊感によって作り出したものであるとすれば、なおもって恐ろしい。

背筋に戦慄が走るのは、これはきっと、僕だけではあるまい。
つまり、衝撃をもって鳥肌が立ったのは、これは僕自身も普段感じている霊的な感性と、同質のものであったからだ。

ジョジョにいわく、「スタンド使いは引かれ合う」。
この法則は、別段、魂のチャンネルを合わせていれば、そして音楽や芸術を理解していれば、まったく不思議なことではない。
だが、こうして、「時を越えて引かれ合う」、このことも事実である。

これはつまり、同じような感性を持ち合わせた、全世界、全時代に生きる「スタンド使い」へのメッセージに他ならない。

これはたぶん、とんでもない書物だ。ハリー・ポッターなんてのはもちろん、おそらくは僕にとってはナルニアよりもインパクトがでかい。

だがもちろん、本当に大事なのはそこではない。

ひとつには、先述した、グレート・ブリテン、そしてイングランドやスコットランドをめぐる歴史。そしてその風土と、そこに生きてきた信仰。その生々しい情報を、霊を介して目撃できることの価値。というかその情報そのもの。

その意味でも、この書物は信仰をめぐる「資料」として価値がある。

まあ、現地の人にとってみれば、僕らがおばあちゃんちに行って親戚の葬式に出る、のと同じような情報の価値かもしれんけどね。そういうとこにもいっぱい霊的、文化的な情報ってあるだろ。

 

信仰と歴史ってことで言えば、この物語の舞台になっているのは、エリザベス一世とメアリー・スチュアートの時代。物語も、どうやらこの二人の女王をめぐって展開される。
奇しくもメアリー・スチュアートって言えば、僕もそうなんだけれど、日本人の僕らの世代は、「ジョジョ」の第一部に(史実とはずいぶん違うものの)出て来たエピソードで、この「メアリー・スチュアート」という悲劇の女王の存在を知った、という人は多いだろう。

そんでもってこれは、キリスト教の歴史からすれば、新教vs旧教つーのか、カトリック対プロテスタント。つまりエゲレス的に言えばイングランド国教会、つってもイングランド国教会は必ずしもプロテスタントでもなかったわけで、そこからプロテスタントの各派が分離し派生していく。ややこしいなエゲレスの歴史。しかし、高校の頃に習っても他人事だったが、こうしてキリスト教ってものが少しでもわかってくると、もうちょっと内容や実感を伴って理解できるわけだ。英語ひとつ、言葉ひとつ習うのでもそうだけど、歴史や文化を学ぶにも、やっぱり宗教ってのは大事な要素になってくる。英語のイディオムなんかでも、聖書から来てる言い回しとかいっぱいあるしな。

で、もって、ここで無学な僕も少しは宗教改革あたりを起点としてキリスト教の歴史や宗派とその生まれた経緯について調べることになる。なるほど、考えてみれば当たり前のことだが、このあたりに、アメリカの各派のキリスト教、ならびにアメリカの民主主義、の源流がある。というよりも、まさにこのへんが理由になって、アメリカという国そのものが生まれたわけだ。

 

まあ、イングランド国教会と中世のカトリック、キリスト教の歴史はひとまず置いておくとして、このアリソン・アトリーの霊的な感性から伝わってきたもうひとつの大切なメッセージは、「時」ということ、そして「意識」ということだ。

先述のとおり、僕は今、これからの人生の決断に大いに迷っているが、人が物事に迷う時、人生の中で選択をする時、そして人生における重大な判断をしようとする時、人は無意識のうちに「時」という要素を考えているはずだ。

時、それはタイミングということでもあるし、年齢ということでもあるし、人生計画そのものを指すこともあるし、行動のタイムスパンという時間軸上の距離でもあるし、また「残り時間」ということでもある。

この「時」の認識を誤れば、当然のことだが、僕たちは人生の中で重大な決断を間違うことになるかもしれない。

 

「時」ということで言えば、もちろん僕は今までにおいても、「たとえば自分の命があと一年だとすれば、自分は何を為すか」ということを考えて、いつも決断し、行動してきた。その意味では、ここまで、後悔なく全力で生きてくることは確かに出来た。

だがその逆に、「あと100年の時間が与えられたとすれば、自分はどんな事業を為したいか」と考えることも、自分が本当にやりたいことを見定めるためには必要ではないか。

もちろん、time is ticking awayだし、人生は短く、人の命ははかなく、時はあっという間に過ぎて行く。

だが、人の魂を語る上で、時というものは本当に真実だろうか。
時の流れは見せかけに過ぎないのではないかと、きっと君も思ったことがあるだろう。

 

時とは、今ここにあるが、そこには同時に、未来もあれば過去も存在しており、それらのものはつながったひとつの連続した物体に過ぎない。

たとえばアナログ・レコード(ヴァイナル)のように、一枚の盤(ラッカー・ディスク)の上に音楽が連続して記録され、再生されるのは一瞬、一瞬の断片であるが、そこにはすでに、イントロからエンディングまで、過去も未来も、交響曲がすべて収録されている。
人の意識はその再生するヘッドというのか針であって、人の意識の上ではその再生している「今」しか捉えることが出来ないが、音楽はいつでもそこにあり、楽曲は過去に向けても未来に向けても収録されており、僕らはその「意識」の針を合わせることで、楽曲をもう一度聞くことだってできるし、いつでも好きな箇所を聞けるし、それとも気に入らなければ別のレコードを聴くことだってできる。
これは、似たようなことがリチャード・バックの「イリュージョン」や「One」にも書かれていたが、あっちの方が「仮説」であり「理論」であるのに対し、アリソン・アトリーの叙述はもっと体験的だ。

 

では我々の肉体が体験する「時」が、そのような連続したレコードの溝に過ぎないのであれば、真の「時」とはどこにあるのか。

それは知らんが、おそらくは、そのレコードの溝(テープでもいいが)の中ではなく、僕らの感知できる次元の外、つまりはレコードの盤の平面の上ではなく、その外側のどこかにあるはずだ。

真の「時」を見定めたいのであれば、自分の意識をレコードの盤面から浮上させ、この世界の見せかけ上の「時」を記録したレコードを、上から(上も下もないが)俯瞰する必要がある。

だからといって、レコードの針が連続した瞬間の体験である人間の「生」という楽曲を、ひとつなぎの連続したものとして体験するように、意識の上では他の時間やパラレルワールドの記憶を肉体に持ち帰ることは難しいだろう。しかし、魂の奥にその知識を持ち帰ることはたぶん可能だ。録音機器にだって、クロストークもあれば、なんちゃらゴーストとか、そういうのあるだろう。夢も似たようなものかもしれない。

 

こうして「時」の認識を新たにすることによって、僕には人間の新たな可能性が見えてきた。そして人の生きる意味、人生が持つより高い次元における本来の意味も、少しずつであるが、より見えてきた気がする。

もっとも、別段、新しい概念では無いと思うけどね。物語って、いつだってそういうことだろう。書かれる前から、物語はずっとそこにあったのだし。

たとえば、キリストの十字架の物語は、時も場所も次元も越えて、何度でも繰り返される、そのことを・・・いや、これは意識の限界の向こう側みたいだ。物理学の難問みたいに、手が届かない。次元の特異点なのかもしれない。あるいは単純に手が短いのか。

「未来」も「過去」も、変えることが出来るものであると、僕はそう信じているが、その我々の世界の外側にあるはずの真なる「時」を見定めることで、未来をより良く変えていき、あるいは少なくとも、「意識」という再生ヘッド、その針を心地よく滑らせることによって、より良い音で人生という楽曲を鳴らすことが出来るのではないか。

とにもかくにも、このアリソン・アトリーが伝えてくれた「時」のメッセージによって、確かに僕の意識は変わり、それによって、新たな可能性が見えてきた。。。。

生も死も、「時」すらも、恐れることはない。

だから僕は、新たな仕事に取り掛かる勇気を持つことが、出来るかも、しれない。

それで十分、説明になっているかな。

 

 

-遠藤周作を追いかけるための道について

 

これは、ここまでの説明でも十二分に書いたんだけれど。
たとえば僕は、これもすでに一昨年のこと、かな、遠藤周作を初めてちゃんと読んだ時に、あまりのその重層的な霊のレイヤーにおける圧倒的な情報量に、音楽(録音物、レコード)は体験的に霊と同時にフィジカルの情報を伴って情報をパッケージ出来る、と考えていた僕にとって、その物語という構造に封じ込められた霊的なメッセージの大きさに、「うわ、ひょっとして音楽(ロック、ポップミュージック)では、小説にかなわないのか」とすら思った。

言葉って媒体、小説、あるいは物語、ってものを、甘く見ていたからね。
でも、聖書って書物の構造を考えれば、そこにどれだけの情報を、それこそデジタルのデータがビットが増えるごとに情報量が累乗して増えていくように、封じ込めることが出来るのか、思い当たるべきだった。

どちらにせよ、「彫刻家、あるいは陶芸家、画家になる」と思って、たった一人で二十歳くらいの時に音楽を作り始めた僕としては。
そして日本ではほとんど唯一くらいの立場でクリスチャン・ヘヴィメタルなんてものに向き合うはめになった僕としては。

おそらくは唯一の「日本のクリスチャン・ヘヴィメタルの偉大なる先輩」と呼べるこの巨大な遠藤周作に、圧倒され、憧れるのは、自然なことだった。
何度でも、いつも言っているけれど、遠藤周作は「ヘヴィメタル」だったからだ。

それ以来、遠藤周作に憧れながらも、無名のいちインディーミュージシャンの身分で、遠藤周作の仕事を追いかけることなど出来ようはずもないと思っていたし、少なくともその方法なんてちっとも現実的に考えつかなかった。

だが、今、それがこうして、ちょっと見えてきた。

物語は旅の中にある。
旅の中にはコンセプトもある。

その意味では、僕が訪れるべき場所、旅すべき場所はまだいくらでもある。

そして、おそらくは多くの偉大な芸術家、画家、小説家たちは、皆そういった力を持っていたのかもしれないが、一応もって「スタンド使い」である自分には、人には見えないものを読み取る力がある。

 

これから取り掛かり、作り始めるはずの「鍋島」。
「鍋島」は自分の音楽人生の集大成であり、終着地点であると言ってきた。
それは決して間違いではない。

だが同時に、それは新しい次のステージ、次の次元へのスタートであるかもしれない。

自分には手に余るような仕事が。
その使命が。
皆のために力を尽くすことの出来るようなテーマが、
そこに待っている。

正直、それを思うと胸が高鳴る。
全身全霊、全技量、全力を尽くすことの出来る仕事なんて、そうそう出会えない。

時? 時間なんてない。
けれど、時間なんて今までもあったためしはなかった。
時。
それは、あると思えばあり、ないと思えばない。

あると思った瞬間、その一瞬は永遠に生き続ける。

もし許されるのであれば、僕はその一瞬の中に、遠藤周作の背中を追いかける仕事が、やれるかもしれない。

「100年」くれるんであればね、神さんが。
いや、実際には100年もいらないが、どれだけ遠くまでいけるかな。

 

考えてみれば、これは通常のロックバンドの活動の範疇をはるかに越える。

現に、昨年の[Tone-Hassy-Jake]体制を終了させて以来、自分のヴィジョンは、創作とライヴバンドを切り離して考える方向性に向かっているが、(それは必ずしも本意とは言い切れないのだが)、今後、やらなければいけない仕事がこの方角にあるのであれば、確かに、ロックバンドには到底、やれない。
もはや、日本人、あるいは海外のどの国でメンバーを集める、とかいう問題を越えて、通常のロックバンドの存在の概念には収まらない。レニクラやプリンスが一人で作っていたことや、Steely Danの二人がスタジオミュージシャンを集めてレコードを作っていたこととも違う。

だが、その「英国」を鳴らしていたXTCがライヴバンドではなかったのと同様に、いくつかの「実際には存在しない」バンドを好きになってしまった僕の、あるいは小説家を目指すための、宿命か。

だからこそ、僕はたった一人で、この領域に挑まなくてはいけない。

これは完全に、霊の領域における、絵画であり彫刻であり、陶芸だ。

「鍋島」は、そのスタートになるのかもしれない。

 

まだまだ、迷っている。

踏み出す勇気が、出来たわけじゃない。

でも、今、確かに、僕の胸は高鳴っている。

そんなところだ。

 

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